院長の独り言 457 :異常気象

本当に暑い日が続きます。

八王子で開業して50年近くになりますが、毎年、何日かは、夏に35度の暑い日もありましたが、精々、一日か二日程度で、連続して一週間も十日間も続くことは今までに経験したことがありません。

西日本では大洪水も加わり、心からの同情を禁じ得ませんが、こちらは暑くて暑くて睡眠不足に成りそうです。

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平安時代の頃は、皆さんご存知のように、十二単(じゅうにひとえ)を着ているのが見られるように、一年を通して比較的暑い日が少なかったように思えます。

その後の時代も、今年ほど異常に暑い夏は無かったと想像出来ます。

なぜなら書物に残っていません。

日本人は昔から几帳面ですから、異常な事が起これば、何事も常に書物に残しているからです。

今年の夏のような暑さが続けば、必ず書いて残している筈です。

それが無いと云う事は、このような異常気象は起きていなかったのでしょう。

我が国だけでなく、今年は世界中で異常気象が起きているのだそうです。

アメリカも中国も豪雨が続き、大洪水が発生、多くの家屋が被害に合っています。

一方、ヨーロッパでは日照りが続いて、農作物に大きな被害が起きているそうです。

地球温暖化が話題になっていますが、地球や火星のようないわゆる惑星は、何と言っても、親星である太陽の影響を常にモロに受けています。

太陽の内部では超巨大な原子爆弾が常に爆発しているのです。

内部の爆発がほんの少し活発化すれば、惑星に与える影響は我々が想像する以上に強烈であると想像出来ます。

皆さんがよく耳にする太陽の黒点の増減、いわゆる核反応が少し増えたり減ったりしただけで、地球の気候が驚くほど寒くなったり暑くなったりするのです。

今年の太陽は内部の動きがどのように変化しているのでしょうか。

とても心配です。

院長の独り言 456 : 喫煙者諸君

私は30歳までは−あまり人には言いたくはないというか、隠しておきたいのですが−大変なヘビースモーカーでした。

喫煙が許される二十歳になって、興味半分で直ぐにタバコを吸い始めました。

当時は、有名なレストランでも、喫茶店でも、公共の場所でも、例えば病院や図書館でも、喫煙には甘かったので、あまり罪悪感は無かったのです。

映画の中でも、超有名なスターが美味しそうに煙草を吸っていたものです。

おまけに、大学に入学して直ぐに麻雀を覚えてしまい、悪友?たちとテツマン(徹夜で麻雀をする事)を週に一回はやるようになり、ムンムンひどいタバコの煙の中でチーポン!をやっていたのです。

「ハイライト」「ピース」「ホープ」など日本の銘柄や「キャメル」「ケント」「マルボーロ」など洋物など、いろいろの銘柄の煙草をみんなでプカプカやっていたのです。

開業してからも、患者さんから贈り物で煙草を頂きました。

ところが、開業して一年も経たないある日、テレビ、新聞などが一斉に「煙草を吸っていると癌になる」とキャンペーンを始めたのです。

『胃潰瘍、心臓病、脳溢血にも』と言い出し、煙草は悪の権化の如く世の中で言われ始めたのです。

職業柄、薄々分かってはいたのですが、ニコチンの誘惑に負けて吸っていたのです…。

しかし、子供にも患者さんにも示しがつかないと決断したその日から、喫煙をスッパリ辞めました。

受付を長く務めて呉れていた江頭さんに「見事です、先生!」と言われるほど、それまでヘビースモーカーだった私はそれから現在までタバコの一本も口にしていません。

禁煙を始めて一週間は今だから白状しますが、何回もタバコに手を出しそうになりましたが必死に我慢しました。

喫煙を止めると同時に、以前に買った高級なライターも、勿論、マッチもタバコに点火する道具はみんな処分してしまったことが功を奏したのでしょうか。

禁煙から一ヶ月程度すると、もうタバコに興味が薄れてきて、一年も経つと、全くタバコが頭から消えたのです。

不思議なことに、却って傍(そば)でタバコを吸われると、早くその場から離れたくなったのです。

喫煙時にタバコが無くなると、あんなにイライラしていたのがウソのようです。

ただ、タバコを止めると、その分小遣いが貯り、気分的に余裕が出来ると、何かの本に書いてありましたがそんな事は有りませんでした。

相変わらずピイピイしていましたが…。

煙草をやめて45年、現在、健康でいられているので、やはり禁煙が健康に寄与したのは事実です。

個人的な体験では、タバコを止めるコツはタバコの本数を少しずつ減らしていくのではなく、止めると決めたらその時から即座に一本も吸わないようにすることです。

今は禁煙治療で効率的に喫煙をやめられるから、喫煙者には福音ですね。

また喫煙は歯周病の重大なリスク因子でもあります。

喫煙者諸君、頑張ってそろそろ禁煙しましょうか!

院長の独り言 455 : 患者さんいればこそ

1月22日(月)、朝起きたら寒い寒い!

天気予報では明日は大雪になるかも知れないと言っていましたが、晴れてもいましたので、大いた事は無いだろうとタカを括っていたのです。

ところが、イヤな予感がしだしたお昼頃から、八王子は久しぶりにチラチラと白いものが舞いだしました。

そして夕方には本格的な雪になってしまいました。

天気予報大当たり!

大袈裟ではなく、モタモタしていると、ウチに帰れなくなるような雰囲気の雪の降り方なので、ソソクサと皆で帰り支度を始めました。

私と息子は車でヨチヨチと家路に着いたのです。

前の車が見難いほど、東京では珍しい様な吹雪になってきたのには驚きです。何とか事故らずに、家に到着、ホッと一息入れた次第です。

スタッフ皆の無事を確認して安心しました。

何しろ雪の降り方が尋常ではないので、つい何度か窓を開けて外の様子を伺っていたのですが、益々降り方がひどくなってきたのです。

結論としては、明日は車では絶対、通勤は出来ないと悟ったのです。

以前でしたら、やけ酒でも飲んで寝てしまうのがオチでしたが、2年ほど前から禁酒をしているので大人しくテレビを観ていました。

翌朝5時頃、起きて、窓から外を眺めると、そこは別世界。

全て目に入った景色は真っ白でした。

どうやらバスも運休のようです。

休院しなければと思ったのですが、待ってくれる患者さんを思い、息子としばし相談。

息子の運転で診療所を目指して、ソロリソロリと出かけることにしました。

家内は本当に心配そうでした。

道路と段差のある自宅の駐車場を何とか出てからは、凍った雪道を息子は慎重に運転、汗ばんだ手のひらでハンドルを握り、緊張が見え見えで気の毒です。

ほとんど誰も歩いていない甲州街道、八王子を目指して雪で滑るガタガタ道を息子は上手く運転してくれました。

途中の日野坂では何台かエンストして止まっている車の横をどうにか無事に上まで登って行くことが出来てホッ!!

何とか事故も起こさず、八王子に到着したという訳です。

痛いと云う患者さんも無事に診察することも出来ました。

色々息子も緊張していましたが、ニコッとしていました。

現在、何しろ、殆ど息子が治療しているのですから。

勿論、衛生士、助手の女性陣の補助があってのことは言うまでもありません。

私はと云うと,開業した当時からの古い馴染みの患者さんの治療を頑張って担当しています。

患者さんもほとんどキャンセルがなく、本当にお疲れ様です。

有難いことですね!

院長の独り言 454 : 私が漫画世代の走りだった

小さい頃は童話や伝記物、中高生の頃になってからは夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介などの、いわゆる日本の有名作家の小説を愛読していました。

大学生になると、当時の流行作家の中間小説を読む程度で、自分の専門以外の本を読まなくなり、もっぱら麻雀や囲碁などの趣味にうつつを抜かしていたのです。

ただ一貫して、漫画だけはたのしんでいました。

世間では漫画、漫画と馬鹿にしますが、現在は、国内は勿論ですが、世界中で日本の漫画は大勢の人に読まれていて大人気です。

中でも、私が大好きだったのは手塚治虫でした。

手塚治虫の作品は漫画と云うより、私とっては大袈裟ですが、哲学書のように常々感じていたのです。

難しい哲学書を見開いてもチンプンカンプンですが、手塚治虫の漫画は哲学書を彷彿(ほうふつ)させてくれます。

手塚治虫の長編マンガ、『火の鳥』しかり。

皆さん、『鉄腕アトム』のラストシーンを知っていますか?

大団円、ハッピーエンドで終わっているわけではありません。

悲劇的な最後です。

テレビで子供向けに放送していましたし、悪者をギャフンと云わせていた英雄のアトムですから、アトムは不死身と思いきや、悲しい結末にシュンとしている子供達も多かったと思います。

私が小さい頃は、マンガと言えば、『サザエさん』『のらくろ』などナンセンス漫画が主流でした。

ひとマス、ひとマスの動きもありません。

その内容はと云うと馬鹿馬鹿しくて、単純に笑えるものでした。

その動きのない従来のマンガと比較して、手塚治虫の漫画は動きが顕著で、物語性が抜群でした。

手塚漫画は子供が喜ぶマンガと言うより、大人向けの小説のようです。

漫画の概念を変えてしまいました。

勿論、ナンセンス漫画も面白いけれど、手塚漫画のような考えを深めさせてくれる作品も良いですね。

今、7~80年前の手塚漫画のような世界になりつつある地球を、あの世からニタニタ笑いながら『どうだ!』と、手塚治虫が鼻高々に笑っているような気がします。

人工知能なんていっぱい出てきたもんなぁ〜

院長の独り言 453 : 無知は罪だ

小学生の頃から、絵を描くのが大好きでした。

大人になったら絵描きになろうと本気で思っていたくらいですから。

理由は、絵を描くこと自体が好きだったのも当然ですが、小学2年生になった年に、東京都主催の絵画コンクールで優秀な成績を納め、小学生の部で優勝してしまったからです。

その時の絵は、私が大人になった時にも、卒業した小学校に展示されていました。

と云うのは、大学生になった頃、小学校の近所に用事が出来たので、用事のついでに懐かしさも手伝って、学校に寄って見たのです。

懐かしの玄関に入った正面の壁に、何か見た覚えのある絵が飾ってあったので、近づいてよくよく見てみると、何と、小学二年生の時に描いたあの絵だったのです。

ビックリするやら、感激するやら、涙が出そうになった事を思い出します。

今も絵が大好きで、色々な美術館や展覧会にはなるべく行くようにしています。

若い頃は不遜にも、ピカソやダリの抽象画を見て、「下手くそな絵だナァ」と本気で思っていました。

「俺ならモットましな絵が描けるワイ」と内心思っていたのです。

ところが、その後、神田神保町の古本屋で、ピカソの若い頃、描いた画集を偶然見つけて、心の底からビックリしました。

あまりにも素晴らしいデッサンや写実画を描いていたのがわかったのです。

それまでは、ピカソの絵イコール奇妙な抽象画だと思っていたのですから。

とても自分なんかには足下にも及ばない素晴らしい写実画が描かれていたのです。

ピカソの抽象画は、画家としての揺るぎのない基礎技術と、他者に真似のできない独創の上で描かれており、本当に恥ずかしい思いをしました。

同様に、ダリも若い頃、素晴らしい絵を描いています。

それ以来、絵は趣味で描くことに決めました。

何事も知ったかぶりは大恥をかくと、若い時に思い知らされ、それ以来、人様に何か話をする時や行動に出る時は、特にこれぞと云う時など、ひと息いれてから話すように慎重になりました。

無知は罪ですなぁ〜

院長の独り言 452 : ハンプティ・ダンプティ化は寝たきりの前触れ

ハンプティ・ダンプティって、皆さんご存知ですか?

ハンプティ・ダンプティは、マザー・グーズという童謡に登場する、卵の姿をしたキャラクターです。

鏡の国のアリスにも登場しています。

頭とお腹が出ていて、手足が妙に細い、言い換えれば外見は太ったお相撲さんだけど、手足が極端に貧弱な男の体型とすれば、一番なりたくない姿です。

そのカッコの悪いのがハンプティ・ダンプティなのです。

私も最近、怠けて、運動もせず、食べてばかりいるので、お腹が出てきたのです。

言いたくないけど、ハンプティ・ダンプティに似てきたような気がするのです。

若い頃、かなり運動をしていたので、身体は結構、締まっていました。

自分としては、絶対にブタのように太ることは一生ないとタカをククッっていたのです。

勿論、体全体が太ってきたのではなく、ドチラかと云うと、お腹周りだけに肉が、いや、脂が付いてきた訳ですから、余計にカッコが悪いのです。

前にも書きましたが、認知症も心配で有酸素運動をすることにしたと書きましたが、正直に言うと、お腹周りのお肉も気になっていたのです。

しかも、妙に手足が細くなってきてしまいました。

出来るだけ身体を使うようにして、ハンプティ・ダンプティにならないようにしています。

特に、太ももを太くするために、スクワットも開始した次第です。

自分の机の横に「デブッた」醜いハンプティ・ダンプティの絵を飾って、こうはなたくないと思いつつ、食べ過ぎに注意いしながら、身体を無理しないで動かしています。

絶対に、ハンプティ・ダンプティ化して寝たきりにはなりたくないです…d0cbf37d40070b60

院長の独り言 451 : 年末雑感

私が高校生までは、おせち料理はお袋が作っていました。

大晦日までに間に合うように、お袋が頑張って作っていた姿を思い出します。

材料の買い出しは、オヤジがやっていました。

その買い出しに、私が一番ついていってました。

兄貴や弟は行きたがらず、もっぱら一緒に行ったのは私でした。

私は築地のにぎやかな混み混みの雑踏の中を歩くのが、何となく、その後に来るお正月の初詣の整然とした人の流れと比較して、面白かったのです。

オヤジも亡くなり、また世の中も変化して、元旦からお店は何処でも開いています。

そしておせち料理も、デパートやコンビニで色々な種類、和風、洋風、中華風など、簡単に購入出来る時代になったのです。

戦後、普段の食事はたいした物を食べていませんでいたが、大晦日だけはおせち料理に加えて、大トロ、アワビ、赤貝、ヒラメの刺身、すき焼き料理など大御馳走でした。

アフリカなどの栄養失調の子供を見ると、いまの日本は天国のようですが、ほんの半世紀前は、正確に言えば、今から70年前は我が国も現在のアフリカと同じようでした。

あの壊滅的な状態から復活させた日本人は、たいしたものですね。

真面目で頑張り屋の日本国民に益々の幸有らん事を祈って、来年の戌年を向かえたいものです。

よいお年をお迎えください!

院長の独り言 450 : 白米党

私はご飯と云うと、白米がダイダイ大好きです。

戦後暫くは、麦まぜご飯も口に入りませんでした。

75歳以上の人は覚えていると思いますが、すいとん(ひえなどを練り潰した団子)を小さく丸めて、お米に似せた不味(まずい)食べ物をご飯代わりにして食べていました。

見た目だけはお米のようでしたが、味や食感はトンデモナイまずいもので、全く白米とはほど遠いお米の代用品でした。

暫くして、玄米を7分つきにして、それに麦を混ぜたご飯が出てきました。

まだまだ白米ご飯は食べられなかったのです。

白米が食べられるようになったのは、私が高校生になった頃だと記憶しています。

本当に白米は美味しかった。

それ以来、白米党になってしまいました。

ところが、このごろテレビでも新聞でも白米の悪口ばかりが報道されています。雑穀米と云う身体に大変良い米が出て来たのです。

雑穀米とは、玄米、粟(あわ)、きびなどを混ぜ合わせた米で、健康に大変良いのだそうで、それと比較すると、白米は健康にあまり良くないのだそうです。

しかし、ウチでは私以外は皆、主食は白米も食べますが、よりパンや麺類、白米より雑穀米が好きなのです。

私はホカホカの炊きたての白いご飯がいいのですが…。

ところが、つい最近になって、雑穀米は消化を考えるとあまり薦められないという説も出てきたのです。

一体、主食は何が良いのでしょうか?

小生は誰が何と言おうと、ほくほくの白米です。

おすしの握りに白米以外が考えられますか。

このような馬鹿な事を言うと大笑いされそうですね。

でも、この頃、外人さんも暖かい白米のご飯とみそ汁を美味しそうに食していますね。

世界で一番美味しい主食は、我が国の白米に決まっています。

白米は脂身の強い物やアッサリした物など、どんなオカズにも合いますから。

白米、万歳!!

院長の独り言 449 : 子供の興味はテレビゲームばかり

最近のお子さんは、部屋の中でゲーム遊びをしていて、外で遊ぶことを好みません。

ウチに引きこもって、テレビゲームに夢中です。

さて日本で、初めて家庭用ゲーム機が発売されたのは、1975年のテレビテニスで、アメリカ製の2万円程度だったそうです。

その後の1977年に、任天堂がテレビゲームを我が国で初めて売り出し、そして、同社が次々とゲーム機を製作発売。

現在もこの分野で、日本一のメーカーというより世界のゲームメーカーとして一二を争っているのです。

今日は別にテレビゲームの話をしたいわけではありません。

私の子供の頃のように、今の子供にも外で遊んだり、運動をしてほしいなぁと心から願って書いているのです。

要は、子供達に屋外活動を元気よくやって欲しいのです。

オリンピック競技の陸上や水泳などで、我が国の選手は、素晴らしい活躍を見せています。

その選手達の大活躍に刺激されて、家から外に子供達が元気に飛び出していって欲しいと願っているのです。

ただ昔と違い、家の外は危険があまりにも多すぎるので、私が子供の頃の親のように、子供が外で遊ぶのを、積極的に薦められないのでしょう。

躊躇してしまうのも当然と云えば当然です。

この車社会で、交通事故に遭遇するかも知れないし、子供を食い物にする悪い大人も多く存在するのも事実です。

子供が安心して外で遊べるにはどうしたら良いのでしょうか?

小生が思うのに、変な物に税金を使うよりは、子供の為にお金を使うべきだと常々心から思っているのです。

子供に投資すれば、将来の日本に必ず大きな利益となって返って来るような気がしてならないのですが、いかかでしょうか?

超特大の子供用の運動施設を日本全国各地に作ったり、運動道具を全国の小中学校に大量寄付して、子供達の身体を丈夫にする努力をすべきではないでしょうか。

それこそ今、話題のAI(人工知能)にでも御宣託いただいて、テレビゲームより楽しい運動器具を発明してもらえば良いかもです。

税金をそのような使い方をして文句を言う国民は殆どいないと思うのですが。

外国に援助などする余裕など、今の日本にあるのでしょうか。

院長の独り言 448 : 通勤電車今昔

休院日である木曜日に、急に用事が出来て、朝早く八王子まで出てきました。

用事を済ませて、本当に久しぶりに、通勤時間帯のJR中央線に国立まで乗ったのです。

思えば40年以上むかし、大学を卒業後、大学院に進み、国立駅から御茶ノ水駅までJR中央線に乗って毎日通っていたのです。

その電車の混みようと言ったら、七珍詰めで、大袈裟ではなく、毎日、拷問状態でした。

行きも帰りも身動きが出来ない状態で、1時間近く乗っていなければならないのです。

帰りは途中の三鷹駅辺で、ある程度は空いてはきますが、行きは目的の御茶ノ水駅までは大変混んでいました。

大学院を卒業してから7年間、大学病院で治療したり、学生を教えたり、研究生活をしていましたが、開業をする事を決心しました。

普通、大学を卒業した後、長く医局に在籍した場合は、親の後を継ぐような機会がない限り、大学の近くに開業して、大学から患者さんを紹介して貰って病院を経営していくわけです。

しかし、小生は、開業してからも満員電車に乗るのがどうしてもイヤで、大学に行く反対方面の開業場所を探したのです。

休みの日には家内と一緒に、立川,日野、八王子を主に、気に入った開業する場所を探していました。

そして、一番気に入った八王子に決めたと云う訳です。

当時は自家用車も無く、国立と八王子間を電車で通勤していました。

電車内は、座席で寝る事が出来るほどガラガラ…。

それに比べて、新宿東京方面は気の毒なくらい相変わらず超満員でした。

八王子で開業して本当に良かった!

車窓から見る景色は今とは違い、高層マンションなど一軒も無く、駅の周りも閑散としていたのです。

久しぶりに乗った車窓から見る景色は、町全体が綺麗で、八王子、豊田、日野、立川沿線は45年前とは見違えるほど綺麗な街に変身していました。

八王子はこれからもどんどん発展して素晴らしい街になることを期待しているのです。

院長の独り言 447 : 季節感ゼロ

中学生の頃、スイカとトマトは夏にしか食べられませんでした。

なぜならば、夏にしか売っていなかったから、当然と云えば当然でした。

そして野菜ではないけれど、お餅は冬の季節に雑煮にしたり、網に載せて焼いて食していました。

食べ物が季節そのものを表していたのです。

スイカやトマトが食卓に並んでくると、夏が来たと思うし、柿だと秋、ミカンだと、もうすぐ寒い冬の到来と反射的に感じていました。

夏のスイカやトマト、冬に食べるお餅だけではなく、以前は、春夏秋冬の食べ物はその季節でハッキリしていたのです。

今時、スイカでも、トマトでも、柿、ミカン、お餅でも一年中、出回っています。

食べ物で季節感など感じるなんて無くなってしまったのです。

現在の子供は、年がら年中、スイカでもミカンでも、季節関係無く目にしているので、全ての野菜や果物、食物が、冬でも夏でも日本中で育っていると思っているのでしょうか。

スイカもトマトも夏野菜とは思っていないでしょう。

外国からジャンジャン一年中、輸入しているんですからね。

食べ物然り、服装然り、季節感がドンドン薄れてきました。

小生が若い頃は、お酒にも季節感がありました。

夏は冷えきったビール、冬は熱燗が通り相場でしたが、今は凍える寒い夜に冷たい生ビールを飲んだり、夏に熱燗を美味しそうに飲んでいる世の中です。

何処のウチも冷暖房完備ですから。

住み良い世の中になりましたが、フッと寂しく感じることがあります。

昔、夏はパンツいっちょうでウチの中を走りまわり、冬はこたつに入って丸まっていたので、母に『子供は風の子、外で遊んでおいで!』と、お尻を叩かれていました。

こたつなんか今は目にする事もありません。

邪魔で、邪魔で、今時、使っているウチなんか、ほとんどないのではないかなぁ。

でも、昔を懐かしんでいる自分は、昔か今か、ドチラに住みたいかと聞かれれば『今!』と即答せざる得ないのを、情けないと本当は思っています。

お笑いください。

院長の独り言 446 : 戦後の終わりを感じた霞が関ビル

12月に入って急に寒さが厳しくなってきました。

八王子でも朝方になると氷点下を示し、いよいよ冬の到来を感じます。

しかし、敗戦直後の冬の寒さと比較すると大した寒さに感じません。

家の中に入れば、その差は歴然で、現在の暖房の設備の素晴らしさは、70年以上前の同じ日本の12月とは思えません。

逆に、却って夏は風通しが良くて今より快適だったのかも知れません。

うそです!

蝿や蚊がブンブンでした…。

勿論、寒さをあまり感じないのは、暖房器具の充実だけでは無いことを認識しています。

その身にしみる寒さを、いま感じない一番目の理由は、食べ物が素晴らしく良くなった事だと思うのです。

我々が毎日、口にしている食べ物は、味も素晴らしいのは当然ですが、新鮮で栄養満天の素材です。

敗戦後、数年間は食べ物が口に入れば良い、満腹になればそれで満足でした。

大袈裟ではなく、お腹いっぱいになればそれでオッケイでした。

栄養面から考えると、残念ですけど、冬の身体を保つにはカロリー不足だったのでしょう。

また、着るもののお粗末さも今思い出すと、信じられないものでした。

私は次男なので、当然兄貴のお下がりでしたが、その兄貴の洋服だって本当に安物でした。

住んでいる家に至っては、我が家だけではなく、まわりの家もお粗末な建て方が多く、隙間だらけでしたので、冬は寒くて、寒くて…。

今時の家は、隙間などはまったく無く、頑丈で見た目も素晴らしい作りになっています。

そして、素晴らしいマンションが当たり前のように林立していますが、当時は、マンションなど見た事もありませんでした。

約50年前に、霞ヶ関ビルが東京のど真ん中に建った時は、本当に驚かされました。

この超高層ビルを見た時が、小生の戦後の終わりだったのです。

東京タワーではなかったのです。

1968年のことでした。

38階建てで、我が国第一号の超高層ビルを見た時、敗戦の終わりを心の中で私は叫んだのです。

もはや日本の戦後は終わった!万歳!!

院長の独り言 445 : 昔は魚ばっかり食べてた

小中学生の頃、動物性タンパク質の食べ物と云うと殆ど魚でした。

トンカツがたまには食卓に上ることもありましたが、牛肉はまず食べませんでした。

牛肉といえば、我が家ではすき焼き料理が1年に一度、出れば良いとこでした。

しかし、そのすき焼き料理も牛肉は少なく、野菜たっぷりの今思えば悲しすぎるすき焼き料理…。

さぞかし身体には良かったすき焼き料理だったと思います。

ましてや、ステーキなど見たこともありませんでした。

大人になってステーキを初めて食べて、こんな牛肉の食べ方があるのだとビックリしたのを思い出します。

その反動と言えば何ですが、毎日と云うほど魚は食していたのです。

理由は、オヤジが無類の魚好きであったことと築地の近くに住んでいたからです。

築地は皆様ご存知のように、市場の中に大きな魚河岸があるのです。

近くの魚屋さんが毎日、魚河岸から新鮮な魚貝や海藻類を仕入れてきて、ウチの近所に安く売りに来ていたのです。

今から思えば、逆に贅沢だったのかも知れません。

中トロ、大トロ、赤貝、青柳,アジ、わかめなど何でもござれ。

朝はみそ汁の具や干物に、夜は刺身や焼き魚などなど…。

夜、仕事を終えて帰って来たオヤジが、着物に着替えて日本酒を口にしながら刺身を美味しそうに食べていた姿を思い出します。

その横で、お袋も嬉しそうにオヤジの満足そうな顔を見ていたのです。

われわれ腕白な息子たちも、お相伴に預かっていたので、結構、新鮮で美味しい魚は小さい頃から食べていました。

今時、牛肉や豚肉、鶏肉は、東京の何処でも簡単に手に入ります。

却って、大トロや中トロ、ヒラメ,赤貝、アワビなどの新鮮で美味い刺身などはかなり高くなっています。

あの時、オヤジの魚好きのお陰で、中学生の私も美味しい新鮮な刺身を口にしていました。

今になって、特別に美味しい刺身を口にする機会などは、おやじとお袋の若い元気な顔を思い出して一寸ほろっとしています。

五、六十年間で世の中は本当に変化するものだと驚くやら感心するやらしているのです。

院長の独り言 444 : 戦後の日本について雑感

戦争前は住んでいた所が東京の下町と云うこともあってか、父の休日には玩具やお菓子の買い物で銀座によく連れて行って貰いました。

いま話題の築地にも正月の買い出しに出かけていました。

戦前の東京を幼いながら眺めると、非常に発展して賑やかな街々でした。

皆さんが想像しているより当時の日本は豊かだったような気がします。

ところが、戦争に負けた後の東京は本当に惨めなものでした。

疎開から帰ってきて見た東京…。

戦前の東京を知っているので、その違いに、そしてあまりにも酷い惨状に子供ながら唖然としたものです。

銀座一帯は無惨なほどの倒壊したビル群で、焼け野原になっていました。

浮浪者も沢山いて、現在、テレビで見る焼けだされた中東の姿そのものです。

戦争に負けるという事は、本当に大変なんだ!と心の底から感じたのは、当時の日本人全てだったでしょう。

現在の60歳以上の人は、男女を問わず戦争アレルギー、戦争恐怖症になっている筈です。

当時は今のように十分な食事も摂れず、勿論、お米も口に入らなかったのです。

洋服も使い古しの惨めなものでした。

甘いお菓子も皆無だったせいか、幸いと云うか、虫歯が有りません。

自分の現在の仕事は、皮肉にも歯科医です。

よもや、日本が現在のように繁栄するとは夢にも当時は思っていませんでした。

勿論、戦争は悪です。

しかし、何時何処から攻めてこられるかは分かりません。

攻められてきた時は、常に防げるように準備が必要だと、あの戦争に負けた後の惨めさ、辛さを経験した一人として心から感じています。

子供たちや孫たち、そして未来の子孫の為にも、政府の人達に『国の防御をしっかりするように』と心からお願いします。

こんな素晴らしい我が国から戦争を仕掛けることはまず有り得ません。

万が一、戦争を仕掛けられた時に、泣かないように準備を慢わりなく宜しく!

院長の独り言 443 : 認知症の予防に取り組んでいます

この頃、テレビでも雑誌、新聞などでも、認知症の話題が多く報道されています。

私が大学生の頃には全くと言っていいほど、認知症という言葉は耳にしませんでした。

昔は例え、忘れっぽくなった人でも、『あの人はこの頃、ボケてきたんじゃないか?』と言っていたくらいがセキノヤマで、病気扱いにはしていませんでした。

自分としては、この頃、物忘れが少し出てきて、人様の名前を忘れるようになってきたので、認知症と云う疾患が気になっているのです。

少し昔までは、認知症になる前、65、6歳で多くの人は亡くなっていましたが、今は90歳以上の老人が当たり前です。

もしかすると…と、自分も心配になったので、認知症にならない為の二か条を実践する事にしました。

まず、第一は、本を読んだり日記を書いたりする事です。

第二は、散歩のような有酸素運動運動を毎日する事だそうです。

前者は、読んで字の如し、頭の体操をする事。

後者は、身体の体操です。

要するに、身体と頭を遊ばしていてはダメなのです。

特に男性は、定年などで仕事をしなくなり、家の中で毎日ブラブラしていたり、外に出ないことで身体を動かさないと云うことは、認知症にまっしぐらに進んで行くのだそうです。

自分としては認知症になりたくないので、仕事帰りに本屋に寄って面白そうな本を探したり、息子に買って貰ったウォーキングマシンで毎日30分間程度、早足で歩いて頑張っています。

何処まで続けられるか怪しいものですが…。

運動をしなくても、寝不足でも、何でも無理が効いた若い頃を懐かしく感じていると同時に、何とか、認知症にならないようにと頑張っている今日この頃です。

院長の独り言 442 : 最近の悩み

このところ、患者さんのキャンセルが悩みの種です。

例えば、30分間のキャンセルが出ると、その間は、スタッフと2人で何もせずにいることになってしまいます。

丁度、テレビで、銀座の有名なお寿司屋さんがキャンセルで大変困っている旨(むね)のインタビューを受けていました。

『仕入れた高価なネタが無駄になってしまって‥.』

『お客さんの席も空けてなければいけないし‥.』

本当に大将さんは心から困っている様でした。

私も患者さんのキャンセルには大変困っています。

診察を受けたい患者さんは沢山いるのですが、キャンセルを受けたからと言って直ぐに空いた時間に都合良く入ってくれる患者さんはいません。

多い時は、一日に2人もキャンセルが出る時があるので、寿司屋の大将さんのように悩んでしまいます。

確かに歯の治療は、痛みが伴うので出来れば受けたくないのは分かりますが、診療する立場で話せば、虫歯や歯周病などはなってしまえば自然に治る事はないのですから、なるべく痛んだり苦しんだりなる前に治療してあげたいと思うのです。

口の病気で悩んでいる人全員が、何でもよく噛めて、食事が楽しく出来るようにするのが歯医者冥利というものです。

どうか皆さん、歯で悩んでいる人は怖がらずに相談して下さい。

院長の独り言 441 : 男性諸君

私が若い頃は、父親も、周囲の男性たちも、自分が悪くなくても、女性には下手に出て、少しカチンとすることを言われても、やせ我慢していたものです。

ところが、この頃は本当に男性の方がウジウジしていて、情けないことが多い。

かえって、女性の方が気を使っている場面がよく見られます。

第二次世界大戦でアメリカに負けてから、日本の男性諸君は完全に自信を失ってしまったようです。

外交も常に相手の国に気を使って遠慮気味にお付き合いしているように見えてなりません。

外務大臣は女性にすべきではないでしょうか。

この国の男性が自信を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか?

スポーツでは水泳、ゴルフ、サッカー、野球など世界的に大活躍、科学でもノーベル賞をはじめあらゆる方面での活躍がみられるのですから、日本の男性よ、自信を!!

院長の独り言 440 : 運動する習慣

5年程前になりますが、理由は定かではなかったのですが、300メートルも歩くと足腰が痛くなり、それ以上歩く事が困難になってきたのです。

仕事に関しては、少し無理をしても痛くなる事はありませんでした。

そのうち、家内と散歩するのも苦痛になってきたのです。

仲間のMさんが、痛くても我慢して30分程度、毎日、早足で歩いていると半年も経つと、その痛みは自然に治ると忠告してくれました。

そのままでは辛いからと云ってジッとしていると、ますます悪化するとの事でした。

そんな上手い話がとも思いましたが、辛くても我慢して、その日から毎日、早足でMさんに言われた通り、30分歩いていると、本当に半年も経たないうちに足腰の痛みが薄らいでいき、1年間も経たないうちに、スッカリ痛みから解放されたのです。

今では、1時間以上歩いても平気です。

Mさん、本当に有り難う!

運動する習慣は健康の為に、絶対に必要であると心から感じた次第です。

院長の独り言 439 : お袋の思い出から

お袋は大正生まれ、23歳で私を生んで呉れています。

19歳で兄貴を生んでいます。

日本が軍国主義の真っ直中の昭和8年に結婚をして、4人の子供を無事に育て上げたのです。

その間、大空襲に合いましたが、何とか苦労をしながらも戦後を生き抜いてきました。

ところが、苦労したわりには何事にもオットリしていました。

オヤジが国家公務員でしたので、経済的に特別恵まれていた訳でもないのに、常に全ての事に対しておおらかでした。

私も若い時は、お袋のおおらかさに別に深くは考えなかったのですが、50歳を過ぎた頃から自分の生き方と比較したり、周りの人と比べると『あんなに大変な時代だったのに、随分おおらかにお袋が生きていた…』のが不思議に思うのです。

キット、何か秘密があるに違いないと思うようになったのです。

もし私が考えも及ばない理由があったら、これからの人生を生き抜いていく道具として、是非、参考にしたいと考えました。

色々、足りない頭で考えを巡らしていると、一つ考えられる事にブチ当たったのです!

それは、お袋の親が浄土真宗のお寺さんの住職夫婦だったという事でしょうか。

『浄土真宗』に何か秘密が隠されているのではないかと咄嗟に思いまいた。

親鸞が浄土宗の開祖法然に教えを受けた後に開いた『浄土真宗』とはどのような宗教なのか徹底的に専門書を読む事にしたのです。

その前に、母方の祖父が真宗の僧侶でしたので、試しに、お経の本を一冊借りてみました。

中身は、漢字だけの教典でした。

読めなくても、書いてある内容は漢字の意味から何となく少しは理解出来ました。

神田神保町の専門書店に行き、浄土真宗の内容を分かり易く解説している手引書買い込み、結構真剣に読みふけりました。

そこで分かったのは、我が国では大変珍しい宗教である事でした。

浄土真宗は、日本では唯一の他力本願が母体になっているのです。

我国の宗教は浄土真宗を除いて全て自力宗教です。

自力宗教と他力宗教どこが違うのでしょうか。

簡単に説明すると、自力宗教は本人自身が死ぬほど努力して、例えば、滝に死ぬほど打たれる修業したり、一ヶ月も絶食したりして自分自身鍛え上げて自らが仏になる宗教の事です。

一方、他力宗教は、いくら自ら努力しても自分は仏にはなることが出来ず、

仏に仕えて仏に救って貰い、生きて行く宗教です。

仏に仕えて生きて行く『浄土真宗』は、キリスト教と同じで、両方とも他力宗教です。

『浄土真宗』と『キリスト教』は、その点で似た宗教なのです。

他力宗教のいい所は、自分自身、謙虚に生きていく事が出来ると云うことではないでしょうか。

自分なりの結論として、自ずとお袋のようにおおらかに生きて行けると云うわけではないでしょうか。

院長の独り言 438 : 久しぶりの感激!

アジアで野球が一番強い国は何処なのか、三国、つまり、日本と台湾、韓国で野球大会が11月の17日から開幕しました。

一回戦は、日本と韓国で、9回まで4対4の同点、手に汗握る接戦、延長戦に突入したのです。

10回の表、韓国は日本のピッチャを打ち込んで三点をもぎ取ってしまい、勝負あったと小生は正直ガッカリしてしまいました。

何と言っても、野球は、我が国は、アメリカと一二を争う世界でも一番強い野球王国だと信じていましたから。

ところが、その10回裏に信じられない事が起きたのです。

相手の韓国のピッチャーを打ち込んで4点を奪い、大逆転をして、サヨナラ勝ちをしてしまったのでした。

こんなに嬉しい久しぶりの大感激はありません。

さぞかし、翌日の新聞には華々しく大きな写真入りで載るものと期待していました。

ところが、全然載っていなかったのでした。

どうゆう事なのでしょうか。

本当にガッカリ!

院長の独り言 437 : ディズニーランドに行けるかなぁ

私が結婚したのが29歳の時、昭和43年の秋でした。

子供が小さい頃、休みの日に遊びにつれて行ったのは多摩動物園か多摩テックでした。

まだ、夫婦とも元気でしたし、薄給でした。

おまけに家から近いという事もあったので、本当に多摩動物園、多摩テックさまさまでした。

子供達も嬉しそうにチンパンジーやキリン、ワシなどを見てハシャイデいました。

今でしたら、チビさんたちが連れて行けとねだるのは、デイズニーランドが通り相場ですが。

しかし、デイズニーランドの開演が昭和58年の4月でしたので、まだこの有名なテーマパークは当時存在ていしなかったのです。

子供達は、このデイズニーランドが出来た時は大きくなっていたので、友達同士で遊びに行っていました。

という事は、我々夫婦は行きそびれてしまい、今もってデイズニーランドに一度も行ったことがありません。

内心、ただの遊園地だと思っていましたので、殆ど、このテーマパークには正直言って興味がありませんでした。

ところが、息子が言うには、「一度は行って見て来たほうがいいよ」と言われています。

子供だけではなく、大人でもおおいに楽しめると云うのです。

遊園地のイメージというと、つい、多摩テックを思い出してしまいます。

しかし、全然違うのだそうです。

現に、多摩テックは無くなってしまいました。

一度、デイズニーランドに泊まりで見学と云うか楽しんでこようと夫婦で話あっているところです。

何しろ、元気で長生きするコツは、色々な事に興味を持ち、ウチから外に出て行く癖をつけるのが大事だと息子にハッパをかけられています。

そう言えば、同じ年の人と話していると、もうお互いに年だから、大人しくテレビでも見ているという事になってしまいます。

われわれテレビの話というか話題が多いのです。

何とかここから脱却して、息子の言うようにアチコチに出かけようと思っています。

何と言っても、前向きの気持ちが大切だと思っている今日この頃です。

院長の独り言 436;プレーステーションVRを体験しました!

大学生の頃、鳴り物入りで初公開された立体映画を見て、ビックリ、大変な時代が来たものだと仰天していたのに、今回、VR(バーチャルリアリテイー)なるものを経験して、ただただ世の中の進歩に驚いている私です。

VRは見ている画面が、立体感があるだけでは無く、自分の左右上下が立体、自分が実際そこの画面の中に入ってしまっているのです。

従来の立体映画では前面だけが立体に見えるだけです。

確かに、立体感があって凄いとは思いますが、矢張り現実味は今一です。

ところが、今回のVRは、海底の中なら自分がその海底の中の魚や海藻、ヒトデなどと一緒に存在しているのです。

立体映画の立体画面を見ているのでは無く、分かり易く云えば、自分がその画面の中に入ってしまっていると云うわけです。

巨大な人食いザメが襲ってきた時には、正直、食われてしまうのかと心臓が止まりそうになりました。

この切迫した感覚は立体映画では絶対に味合うことは不可能です。

海の中に無理して潜らなくても,宇宙に危険を侵して行かなくても、このVRで見ていると、実際、自分が海中にいるし、広大な宇宙をロケットで実際に飛んでいるのです。

それが、あまりの現実感なので身体が震えてきます。

自分の経験で言うと、小学生の紙芝居からはじまり、中学生の時は、いわゆる、活動写真。

映画の画面で、人でもクルマでも動いているだけでビックリしたものです。

そして、立体映画を初めて見た時にはそれなりに大感激しました。

ところが、今回のVRのあまりの現実感には立体映画どころではなく、ただただ驚き、言葉もありません。

仕事で毎日のようにお世話になっている、友人の株式会社スタイグルの林和貴社長が、ソニーのVR発売と同時に、早速、買い込んできて、医局に素早くセットしてくれたお陰で、素晴らしい経験をスタッフ全員、早々と堪能出来ました。

林社長、本当に有り難う!

子供にはあまりの迫力なので、見るのは危険かも?

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院長の独り言 435 ;熊本地震

熊本の大震災には、本当に我が国が地震国である事を、あらためて再確認させられました。

東北、神戸の大地震。

大津波や大火災の恐ろしさが癒えぬどころか、増大していると云うのに、今度は九州での大惨事です。

阿蘇山よ、桜島よ、どうか静かに眠っていて下さい。

この大地震に誘発されないように心から願っています。

我が国日本は、自然に恵まれ、その上、四季があり、気候にも恵まれて、世界でも大変住み易い国の一つです。

ただ、地震さえ起きなければと云う条件が付きますが。

地震が起こる度に、こんなに科学が発達している日本で、何故、地震が予知出来ないのか常々に不思議に思っています。

あれだけの大きな変動が広範囲の地下で起こるのですから、一月前くらいから何かの兆候の変化があるような気がしてならないのですが。

例えば、一日前、いや、一時間前にでも予知出来れば、大幅に被害は小さくなると思うのは私だけではないでしょう。

予知さえ出来れば火事は殆ど防げます。

津波は防波堤を作っておけばと思いますし、地震に強い建物は当然として、その建てる場所は、崩れないようにするか、そのような場所は家の建築を許可しなければ済む事です。

外国に援助するお金があるのなら、先ず、自分の国の災害地に援助して下さい。

税金を災害地の皆様に使うなら国民は全員大賛成に決まっています。

日本ほど真面目で優しい国民はいません。

災害で苦しんでいても、それに耐えて頑張っている大勢の被害者のために、手を差し伸べるのが政府であり官僚の大切な仕事だと思います。

今日も朝から被災地の熊本では雨が降っているそうです。

何を言っても慰めにはならないのは分かっていますが、復興に頑張って下さい。

些少で申し訳有りませんが、小生とすれば税金を払う以外なす事が出来ません。

院長の独り言 434 ;斜め読み

中学生から高校生の頃、作者、和洋、内容などを問わず、何しろ色々な分野の本を沢山読んで、知識を頭に詰め込んでやろうと思いました。

どのような方法で本を読むと、短い時間で沢山の本を読破出来るか、色々な方法を試していた時期がありました。

昔から本を『斜め読み』すると、早いスピードで、文章を大量に読む事が出来ると言われています。

自分としては、実験するつもりで、目を大きく見開いて、1ページ目の右上から全ページを睨み付けた後、普通、本を読む時のように、目線を真下に持っては行かずに、左斜めの下の方向に字を追っていったのです。

目は見開いて、全体のページを見るようにしました。

最初は、全体の字が、ぼやっとして、目も涙目、頭の中も混乱、文の内容もしっかりとは把握が出来ませんでした。

ところが、十日ばかり我慢して必死に『斜め読み』を続けていると、驚く事にだんだんと内容も掴めるようになり、そして、何と言っても、普通の読み方よりも、4倍も5倍も早く読めるようになったのです。

『やったぜ!』

同じ読書時間で、人の何倍も本が読める優越感はたまりません。

しかし、大学に入り、友達と麻雀や囲碁、そして、大学院に行き、研究で忙しく、開業してからは、有り難い事に、毎日多くの患者さんを診させていただき、言い訳にはなりますが、読書する時間がドンドン少なくなってしまいました。

少なくなっただけでは無く、『斜め読み』の弊害が出てくるとは本当に驚いています。

『斜め読み』をしていたので、内容を読み取らずに、ただ早く読む習慣が着いてしまい、熟読しなかったので、本来の『文』の面白みを捨ててしまったのです。

結果、読書がつまらなくなってしまい、本を読まなくなってしまいました。

おまけに、『斜め読み』した頃の本の内容を、殆ど忘れてしまっているのです。

つくづく本はユックリと読み、よく内容を理解しながら先に進まなければ自分の身に付かないと云う事を思い知らされてしまいました。

今となって、『斜め読み』していた時間が全く無駄だった事を心から後悔しています。

『斜め読み』していたより前に、ジックリ読書していた宇宙の本とか、明治、大正の頃の文豪文学小説は、70歳を超えた今でも内容をシッカリ記憶しているのです。

ボケ防止の為と、本を読む楽しさを思い出して、これからは一字一句を大切に読書したいと思っている今日この頃です。

院長の独り言 433 ;銭湯の気持ち良さ

私にとって、『お風呂』と言えば、子供の時分から、町の大衆風呂、いわゆる『銭湯』のことでした。

小学生の頃は、外で散々遊んだ後に、いつも友達と一緒にお風呂屋さんへ一番風呂に入りに行っていたのです。

綺麗だし、広いし、仲間の友達と一緒に行っていたので楽しくもあって、お風呂は大好きでした。

公団住宅やプレハブ住宅が個人住宅として建設されるようになってきた昭和40年頃になると、何処のウチにも内風呂が当然のように付くようになり、昔の長屋は消失してしまい、お風呂屋さんも一緒に無くなったような状態になってしまいました。

自分は、親の務めの関係で、一戸建ての官舎に入った中学生の頃には、内風呂が我が家にもありました。

その頃から70歳を超えた現在まで、銭湯には一度も行っていません。

ご多分に漏れず、我が家の内風呂は、小さなお風呂でしたので、銭湯で味わった開放感は、たまに旅行に行った時に入る温泉でしか経験しなくなりました。

結婚してからも、小さな内風呂でしたので、風呂に入るということは、イコール仕事で汚れた身体を洗うための手段といった感じでした。

首まで浸かり、手足を思い切り伸ばすスタイルで風呂に入ることは、普段は夢のまた夢になってしまい、本当に残念。

疲れた身体を癒す手段としてのお風呂は、私としては、温泉にたまに行った時までの『おあずけ』となってしまったのです。

ところが、狭い内風呂に慣れてしまったのか、温泉の大浴場に入っても、縮こまった体型で浸かると云う悲しい習慣が身に付いてしまい、情けない事この上ないのです。

一方、ヨーロッパやアメリカではシャワーで身体を洗うのが、一般的です。

お湯に肩まで浸かって入ると云う習慣はありません。

ところが、この頃は、日本の影響を受けて、海外でも、檜の風呂が個人の家庭でも流行(はや)りだしたとのことです。

やはり、全身浸かって入る風呂は、何とも言えない快感を感じてしまうのは、全世界共通なのかも知れません。

また、何故『風呂』と云うのかと言いますと、昔は、お湯に浸かる事は無く、今で言うサウナ即ち『蒸気湯』だったそうです。

温かい風にあたるイコール風呂となったのだそうです。

江戸時代は浮世絵には風呂に入っている美人画が描かれているのですから、銭湯が存在していたのは事実です。

風情のある『銭湯』が何時まで我が国に存在出来るのでしょうか?

院長の独り言 432 ;鬼怒川決壊と日本の危機

先日、関東、東北地方で、大雨の被害が尋常ではありませんでした。

台風18号は小さいので、大した被害は出ないものとタカを括(くく)っていたところ、皆さんご存知のように、まれに見るほどの大災害になってしまいました。

原因は秋雨前線が停滞していたからです。

運の悪いことに、小さい台風とはいえ、前線と重なってしまったために、このような大雨が一部地域に集中、結果、大変な被害になってしまいました。

特に、鬼怒川上流近辺を中心に、関東地方の栃木、茨城、群馬県などで、30〜50ミリの大雨が二日間にわたり降り続いた為に、あちこちの川が危険水域を超えるほど増水してしまい、鬼怒川のように決壊、氾濫し、あのような大惨事になってしまったのです。

鬼怒川と云えば、『鬼怒川温泉』。

東京から近いと云う事もあって、若い頃から家族や友人と、何回も温泉に入りに、あるいは『日光』や『袋田の滝』などを観光巡りした後、ついでに立ち寄って、お湯に浸かっていた馴染みの景勝地でした。

前々から、温泉の横を流れる清流を見ながら、こんなに綺麗な川を何で『鬼怒川』と云うのか不思議に思っていたのですが、今回の暴れ川をテレビで見ていてその理由が実感出来ました。

江戸時代、あるいはそれ以上も前から、何回も大暴れしていた川であったのは間違いありませんね。

読んで字のごとし、『鬼怒川』は、大変な暴れ川と云う事を忘れてしまった頃、濁流となって我々の前に突然『大鬼』として姿を表し、人間に致命傷を与える恐ろしい『大河』に変身するのでしょう。

平成の我々からすれば、綺麗な清流、素晴らしい温泉地『鬼怒川』として、人気がありますが、江戸時代の人にすれば、鬼怒川は悪魔の様な川だと思っていたのかも知れません。

あのような災害に会われた茨城県常総市の皆さんには何と慰めて良いか見つかる言葉もありません。

あるご夫婦は、4年前に東北大震災で家が崩壊してしまい、やっと新しい家を建てたのに、また大雨による鬼怒川の氾濫で大被害にあってしまったそうです。

報道によれば、仙台も大変のようで、災害国日本を再認識させられました。

地震、津波、火山の活動化、そしてゲリラ豪雨など考えると、外国に援助するどころではありませんね。

国による最大の援助を被災者にお願いします。

その為の税金ではないのですか。

院長の独り言 431 ;とうとう喜寿 ‼︎

今年77歳、喜寿を迎えました。

昔から、人生の先輩達は、人生なんか呆気(あっけ)ないもの、アッと言う間に年を取ってしまったと自重気味に言います。

子供の時、一日がなかなか終わらず、年を取る事は膨大な時間がかかるのだと思っていました。

『酒タバコ』何でもオーケーの大人に早くなりたいと思い、大人になればきつい仕事に追われ、早く仕事の無い還暦を向かえてノンビリしたいと思っていました。

ところが、私など、いざ、『喜寿』になってみると、気がついたらあまりの早さで時が経ってしまい、還暦など通過したのも忘れてしまい、アッと言う間に喜寿になってしまった我が人生に愕然としてしまいます。

こんなに時間が経たなければ、人生が終点に到達しないだろうと思っていた子供、青年の頃を思うと、77年なんか本当に短い時間だったと痛感しています。

『光陰矢のごとし』を心の底から実感している今日この頃です。

八王子で歯科医院を開業した43年前、昭和47年の暮れに石川歯科医院を始めたのです。

当時、34歳。

今から思うと、毎日が苦労の連続でした…。

患者さん、スタッフ、そして家族に支えられて、どうにか現在に至っております。

本当に、皆様に感謝しています(涙…)。

その当時の自分の写真を見ると、若いというよりは、子供の様な風貌をしているのには、ビックリと云うより笑ってしまいます。

今回、スタッフが『喜寿のお祝いの会』を催して呉れました。

石川歯科医院に勤めて呉れた先輩の衛生士や助手、受付の女性陣の懐かしい顔ぶれに、久しぶりに会うことが出来て嬉しく思い、当時の様子も蘇ってきて涙が出そうになりました。

これからも、息子を中心に若いスタッフに頑張って貰い、患者さんにいい治療を提供していければと、心から思っています。

あらためて思うのですが、77年の時間の経つのが早いこと早いこと!!

若い人たち、必死に、いまを生きてくださいね!

院長の独り言 430;銭湯と内風呂

私にとって、『お風呂』と言えば、小さい時から、町の大衆風呂、いわゆる『銭湯』のことでした。

小学生の頃は外で散々遊んだ後に、いつも、友達と一緒にお風呂屋さんへ一番風呂に入りに行っていたのです。

綺麗だし、広いし、友達と一緒に行っていたので楽しくもあって、お風呂は大好きでした。

公団住宅やプレハブ住宅が、個人住宅として建設されるようになってきた昭和40年頃になると、何処のウチにも内風呂が当然のように付くようになり、昔の長屋は消失してしまい、お風呂屋さんも一緒に殆ど無くなったような状態になってしまいました。

自分は、親の務めの関係で、一戸建ての官舎に入った中学生の頃には、内風呂が我が家にもありました。

その頃から70歳を超えた現在まで、銭湯には一度も行っていません。

ご多分に漏れず、我が家の内風呂は、小さなお風呂でしたので、銭湯で味わった開放感は、たまに旅行に行った時に入る温泉でしか経験しなくなりました。

結婚してからも、小さな内風呂でしたので、風呂に入るということは、イコール仕事で汚れた身体を洗うための手段といった感じでした。

首まで浸かり、手足を思い切り伸ばすスタイルで風呂に入ることは、普段は夢のまた夢になってしまい、本当に残念。

疲れた身体を癒す手段としてのお風呂は、私としては、温泉にたまに行った時までの『おあずけ』となってしまったのです。

ところが、狭い内風呂に慣れてしまったのか、温泉の大浴場に入っても、縮こまった体型で浸かると云う悲しい習慣が身に付いてしまい、情けない事この上ないのです。

一方、ヨーロッパやアメリカではシャワーで身体を洗うのが、一般的です。

お湯に肩まで全身浸かって入るという習慣はありません。

最近は、日本の影響を受けて、海外でも、檜の風呂が個人の家庭でも流行(はや)りだしたとのことです。

やはり、全身浸かって入る風呂は、何とも言えない快感を感じてしまうのは、全世界共通なのかも知れません。

ところで、何故『風呂』と云うのかと言いますと、昔は、お湯に浸かる事は無く、今で言うサウナ、即ち『蒸気湯』だったそうです。

温かい風にあたるイコール風呂となったのだそうです。

江戸時代は浮世絵には風呂に入っている美人画が描かれているのですから、銭湯が存在していたのは事実です。

風情のある『銭湯』が、いつまで我が国に存在出来るのでしょうか?

院長の独り言 429: オヤジの厳しさ

少なくとも高校生の頃までは、オヤジを嫌っていました。

なにせ、オヤジとの会話は、常に命令調であり、説教を聞いているような感じでした。

オヤジも俺のことを嫌いなのだろうなと、単純に思っていました。

ところが、大学に入った時に、腕時計をプレゼントしてくれたのです。

当時としては、かなりの高級品でした。

お袋がニコニコしながら、『お父さんからの入学祝いだよ』と言っていました。

その時を境に、オヤジからの命令調の説教は、オヤジが亡くなるまで一度も聞いていません。

私に接する態度が百八十度変わったのです。

大学時代には『頑張っているか?』『辛い事があれば相談にのるぞ』等々。

結婚した後にも『仕事は順調か?』とか『奥さんや、子供達は元気にやってるか?』など、優しい言葉を頻繁(ひんぱん)に懸けてくれました。

家族揃って、実家に遊びに行った時は、大いに歓待してくれました。

今から思うと、優しくなったオヤジが、本当のオヤジなんだと思っています。

内心、子供に嫌がられるのを承知で、私たち子供を教育していたのでしょう。

しかし、子供時代に、あまりに長く厳しくされていたので、それからも正直、何となく、オヤジとはシックリいかず、私はオヤジを敬遠していた様な気がします。

お袋はいつも優しくて大好きでした。

オヤジなんかいなくなれば良い!などと、罰当たりなことを思っていた時期も正直あったのです。

今、オヤジの歳に自分がなってみて、オヤジの本心がよく理解されてきて、本当に心からオヤジに感謝しています。

そして同時に、もっとオヤジと色々な話をしていれば良かったと心底後悔しています。

お袋が子供に優しくしているのを見ていて、オヤジなりに子供に嫌われてもかまわないと憎まれ役を買って出て、社会に役立つ子供に育てて送り出す責任を担ったのでしょう。

オヤジの厳しい態度を端で見ていても、お袋は黙っていて、決して子供に味方などしませんでした。

オヤジに厳しくされなかったら、私は多分、社会のお荷物になっていたかも知れません。

本当に子育ては難しいですね。

テレビで野生の母熊が子供を上手に育てているのを見ていて、動物もたいしたものだと心から感動しました。

今、オヤジに会って、ビールでも飲んで、子供の頃の懐かしい話を心いくまで話合いたいとつくづく思っています…

院長の独り言 428: 医院スタッフの結婚が続きました

修順会のスタッフ3名が立て続けに結婚しました。

歯科衛生士2名と歯科助手1名です。

当然ですが、赤ちゃんが出来ると、育児休暇(イクキュウ)になります。

三人とも、仕事は真面目でしっかりこなし、しかも優しく勉強熱心なので、患者さんからも大変に信頼されています。

そして、石川歯科にとっても、大変頼りになるスタッフなのです。

赤ちゃんが出来て、イクキュウなしに、辞められるのも困るし…、とは言って、この国ニッポンにとって、子供が減少するのは国の存亡に関わる大問題です。

結婚した以上、可愛い赤ちゃんをどんどん生んで欲しい。

あっちが立てばこっちが立たず、こっちが立てばあっちが立たず。

勿論、スタッフの幸せな結婚は嬉しいです!

さて、6月に入り、たいへん暑い日が続いています。

このところ、気候の変動が激しく、いつになったら落ち着いた天気になるのでしょうか。

凶悪な事件が続くのも気候のせいでしょうか。

昔から、低気圧が近づくと、気持ちが沈んだり、片頭痛が起きたりすることはよく言われています。

梅雨の季節ですから、当分、気分も憂鬱(ゆううつ)になり勝ち、運動したり、映画鑑賞したりして気分をハイになるようにもっていきましょう。

いや、ビールでも飲みますか?

今、国会で国防についてケンケンガクガク。

安倍総理の主張は分かり易く言えば、自分の国は自分達で守るべきで、その際、アメリカなど、同じ民主国家と連携をとって行こうと言っているだけなのです。

現在、世界中で自分の国を他人任せにしている国は、我が国だけです。

アメリカ、イギリス、フランスは勿論、お隣の韓国、中国、そして第二次世界大戦の敗戦国のドイツやイタリーも当然のように軍隊があります。

軍隊を所有している国が、日本に『軍隊を持つな!』などと主張しているのですから、ビックリ仰天です。

先ず、自分の国の軍隊を無くしてから、軍隊廃止を言ったらどうでしょうか。

日本には、自分の国土や国民を守るだけの軍隊は、是非、必要なのではないでしょうか。

日本のような素晴らしい国が、他国を冒す事は、100%有りえないことです。

大昔のカルタゴの例もあるのですから。

素晴らしい当時の先進国、カルタゴが、重商主義に走り、抑止力である国防をおろそかにした故に、ローマに滅ばされているのです。

日本近隣が騒がしくなっている昨今、我が国の行く末が、これから生きていく子供たちの為にも心配です。

日本の国力に見合った防衛力、考えを同じくする国々との同盟による抑止力を、どうか持っていただきたい。

院長の独り言 427 : リスク因子の評価とコントロールが必須です

2015年の幕が明けたと思ったら、早くも、今日は3月に入りました。

今年、未年もアッと言う間に過ぎてしまいそうです。

石川歯科のスタッフも全員元気です。

張り切って治療に励んでいくつもりです。

今年はどのような一年になるのでしょうか?

今日も、八王子は寒いけれど、朝から素晴らしい青空が広がっています。

この青空のような一年になって欲しいと、願うのみです。

去年から息子と歯科衛生士さん3人が、仕事を終えた後、勉強会を始めました。

リスク因子の評価を主に、虫歯や歯周病の予防についての勉強に力を入れています。

また、いま問題になっているインプラントの歯周病(インプラント周囲炎)も学んでいます。

インプラント治療とは、皆さんご存知のように、今までは義歯でしか補うしか出来ない歯の欠損部に、チタンの人工歯を顎骨に埋入、自然の歯のように咬めるようになると云う画期的な治療方法です。

しかし、治療が大変難しいのは勿論ですが、患者さんの理解と協力無くしては、治療の予後に重大な支障を招き兼ねません。

患者さんに理解して頂くには、自分達が最大限の勉強をしなければならないと考えています。

患者さんは歯を消失して、やむを得ず、入れ歯を入れているのですが、本当に義歯は不快感を伴うし、自分の歯のようにうまく咬むことが出来ません。

それがインプラント治療によって、消失した自分の歯の代りに、見た目にも機能的にも蘇(よみがえ)るのですから信じられません。

歯を無くした歯科医自身が、インプラント治療を受けて、満足しているくらい素晴らしい治療法なのです。

インプラント治療を受けているドクターは、じつに大変多くいます。

それなら、歯を失ったら全てインプラント治療をすればいいのではないかと思いますが、そうもいかないのです。

『顎の骨はシッカリしているのか?ワーファリンのような血の止まりにくい薬を大量に飲んでいないか?適合のわるい補綴物が口の中にかなり入っているか?ブラッシングがシッカリされているか?歯周病に侵されていないか?歯ぎしりの癖が無いか?糖尿病がコントロールされているか?』など、様々なリスク因子のチェックをする必要があるのです。

インプラント治療が良いからといって、ただ闇雲に行えば良いと云うものでもありません。

適応症例を確認し、治療を終えた後のメインテナンスがシッカリとなされているかが、とても重要であると考えています。

院長の独り言 426 : 現在も輝く手塚マンガ

年少の頃、童話や伝記物、中高生の頃になってからは名作と言われる漱石、藤村、鴎外、龍之介などの作品を愛読していました。

大学生の頃は当時の流行作家ものを読む程度で、もっぱら麻雀、囲碁など趣味にウツツを抜かしていたのです。

ただ、一貫して、マンガは楽しんでいました。

マンガ、マンガと馬鹿にしますが、現在は、国内は勿論ですが、世界中で日本のマンガは大勢の人に見られていて、大人気です。

ところで、手塚治虫の作品は、『マンガ』と云うより、私には、大袈裟ですが、『哲学書』のように常々感じていたのです。

難しい哲学書を見開いてもチンプンカンプンですが、手塚治虫のマンガを読むと、まるで哲学的な課題に挑戦するような気にさせてくれます。

手塚治虫の長編マンガ、『火の鳥』しかり、皆さん、『鉄腕アトム』のラストシーンを知っていますか?

大団円、ハッピーエンドで終わっているわけではありません。

悲劇的な最後です…。

テレビ番組で子供向けに放送していましたし、悪者をギャフンと云わせていた英雄の鉄腕アトムですから、アトムは不死身と思いきや、悲しい結末にシュンとしている子供達も多かったと思います。

手塚治虫登場前の、私がごく幼い頃は、マンガと言えば、『サザエさん』『のらくろ』などナンセンス・マンガが主流でした。

ひとマス、ひとマスの動きもありません。

その内容はと云うと、馬鹿馬鹿しくて、単純に笑えるものでした。

その、動きの無い従来のマンガと比較して、手塚治虫のマンガは、躍動感があり、物語性が抜群でした。

『手塚マンガ』は、子供が喜ぶマンガと言うより、大人向けの小説のようです。

漫画の概念を変えてしまいました。

勿論、『ナンセンス・マンガ』も面白いけれど、『手塚マンガ』のような思想性の高いのも良いですね。

今、7~80年前の『手塚マンガ』のような世界になりつつある地球を、あの世からニタニタ笑いながら『どうだ!』と、鼻高々に彼は言っているような気がします。

院長の独り言 425 ;『男女共同参画社会』なんて、ニホンでは当たり前

近年、学校行事、観光、スポーツなど、親子で楽しんでいる姿をよく見かけます。

自分の思い出としては、オヤジに遊んでもらったのは、戦争前に少し経験しただけです。

ましてや、お袋に遊んでもらったことなど皆無です。

幼児の頃までは、遊んでもらったことはあったでしょうが、記憶には残っていません。

日本が戦争に突入していく寸前でしたので、国民全員が大変な緊張状態にあり、親子で旅行したり、一緒に遊んだりする雰囲気では無かったのも事実です。

何かにつけ、『非国民』と直ぐ避難されてしまうからです。

敗戦後も両親と遊んだことなど一回もありません。

戦争に負けるというのは、本当につらいものなのだと、心の底から感じました。こう言う事を『後の祭り』と言うのでしょう。

当時の日本人全員が、あらゆる面で、もう日本はおしまいだと思ったに違いありません。

私の小学生時代は、私の家族もそうでしたが、ほんの一握りの御大尽は別にして、食べるだけで間違い無く精一杯だったのです。

しかし、不思議な事に、私は思うのですが、少年の時も、青年に成長した時も、日本全体の雰囲気は、今よりおおらかだった様な気がするのです。

国民全員が『おしまいだ…』と思っていなかったのかも知れません。

『かも』ではなく『全然』思っていなかったのではないでしょうか。

その証拠に、その後の我が国の発展を思えば一目瞭然です。

いじけていたら大発展は有り得なかったでしょう。

それも、国民全員で頑張ったからに違いありません。

日本の男性はワンマンで、女性は虐げられていると言われていますが、実際は、そんなことはありません。

男性だけで大発展なんか有り得無いからです。

むしろ、女性の方が強いし、賢いに決まっています。

尻を叩かれておだてられて、喜んで?男は張り切っていたのだと思います。

それでいいのです。

男女が協力したからこそ大成功したのです。

国の発展は、一部の人に任せていては、『ダメよ、ダメダメ!!』

院長の独り言 424 ;本当のうなぎ

最近、ウナ丼が高級品になってしまいましたが、自分が小学生の頃は高級食品と云うよりは、庶民的な丼物でした。

天丼の方がウナ丼よりも高かったと記憶しています。

ところが、仲の良い先輩の話によると『君は安いウナギを食べていたんだよ』とのご託宣。

続けて、『君は高級なウナギを食べたことがないな』ときたのです。

本当の高級ウナギは柔らかくて、とげの様な骨も無く、味がよく、それはそれは美味しいものだとのこと。

私の食べていたウナギは美味しいウナギだと思っていたのですが、何か先輩に馬鹿にされた気分になったのです。

『そんなことを言うなら、その高級ウナギとやらをおごって下さいよ!』と私。

『よし、おごってやろう!』と、売り言葉に買い言葉にあいなったのでした。

約束した日曜日に東京銀座の老舗の鰻屋に招待を受けました。

風格のある門構えで、如何にも老舗のお店でした。

わざと他の物を食べずに、ウナ重だけを頂きましたが、確かに今まで食べたウナギより、悔しいけれど、ひと味もふた味も美味しく感じたのです。

私は元来、お人好しなので、先輩の自慢げの顔を見上げながら『うまい!』と、つい本音をだしてしまったのです。

先輩のその時の誇らしげな顔が今でも忘れることが出来ません。

たかだか食べ物の話と言ってしまえば何ですが、本当に先輩に悔しい思いをした訳です。

昨今の報道によると、そのニホンウナギが少なくなってきたそうです。

マグロもダメ、ウナギもダメ…

一体、われわれ魚の好きな国民はどうしたらよいのでしょうか。

ところが、つい最近、嬉しい事に、近畿大学でマグロの養殖に成功したそうです。

マグロの刺身や寿司はオッケー、オッケー!本当に嬉しいですね。

ついでに、私の好きなウナギも、是非、是非、日本のどこかの大学で、養殖を成功させて下さい!

宜しくお願いしたいものです。

院長の独り言 423 ;昔のチャンバラ映画

駄菓子屋に次いで、小学生の頃の懐かしい思い出です。

当時の娯楽といえば唯一、邦画を観ることでした。

今と違い、町のアチコチに邦画を見せる小さな映画館がありました。

出し物はだいたいチャンバラ物を中心に3本立てが主流でした。

どのチャンバラ映画も『勧善懲悪』で、決まってハッピーエンドです。

主役は切られようが、何されようが、決して死にません。

子供でも映画のスジを把握していました。

話は少しズレますが、私が成人した後に、希代の天才映画監督である黒澤明監督が侍物(さむらいもの)を製作、その作品を見た時、本当に驚きました。

『七人の侍』や『用心棒』などを観賞した時です。

今までのチャンバラモンは何だったのかと…

あれは、漫画だったのか?

黒澤作品以来、ほとんど全ての侍物はリアルな映画になってしまいました。

しかし、私とすれば、小学生の頃見た漫画のような侍映画を思い出すのです。

小学生当時流行(はや)っていた馬鹿馬鹿しいほどの『勧善懲悪』ベッタリの侍物が懐かしく思えるのです。

あの当時の侍映画に出ていたスター、長谷川一夫、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、大河内伝次郎、木暮実千代、山田五十鈴さん達の顔が脳裏をかすめます。

今と違い、昭和20年ごろは、1~2週間で映画の出し物がどんどん新しく変わります。

ついている事に、当時住んでいた家は、小さな塀(へい)付きのウチだったのです。

その塀に次週の映画の宣伝ポスターの貼り出しを映画館に頼まれていたのです。

そして、その見返りとして、その映画の観覧券を一枚貰っていました。

家族で私だけが映画を見に行っていたので、子供にも関わらず、私はたいへんな映画通になっていたのでした。

映画館は常に大人や子供達で超満員でした。

生半可でなく、通路も人人でぎっしりでした。

観客は通路にも座って、塩せんべをバリバリ食べたり飴を舐めたりして手に汗を握って侍映画を見ていたのです。

勿論、私もその中の一人でした。

今の映画関係者がその超満員の光景を観れば、本当に心から羨ましく思うでしょう。

自分としては、あの沢山のポスターを保存しておけば良かったと思っているのです。

残念ですが一枚も有りません。

今年、高倉健さんの訃報が大きく報じられました。

高倉健さんや三船敏郎さんは、私が毎週のように近所の映画館で手に汗握って見ていたチャンバラ映画の後のスターです。

まさか、テレビなるものが出現してきて、あんなに隆盛を誇っていた街の映画館が全部消えていくとは!!

ただただ驚くのみです。

院長の独り言 422 ;アベノミクスと過去のバブル景気

今回の衆議院選挙で安倍さんが圧勝したと言う事は、いわゆる『アベノミクス』が国民に支持され承認されたのでしょう。

話は変わりますが、『アベノミクス』の話題から、何となく、今から25~6年前のバブル前夜の頃がフッと頭を過(よぎ)りました。

丁度、私が八王子で歯科医院を開業して、17~8年経っていました。

今とは違い、日本中が戦後、稀にみる好景気に突入していく前夜、マンションが駅前に林立しだし、郊外は一戸建て邸宅の新築ラッシュになりました。

高速道路が日本中に建設され、その上を新車がビュンビュン。

患者さんからは景気のいい話をこれでもかと言うほど聞かされました。

『ジャパン アズ ナンバーワン』と、世界で一番の金持ち国家と持ち上げられたのもこの時でした。

正直、私もこの日本がこのまま永久に、この天井知らずの景気を保てるのではないかと思いました。

大学を卒業間近の4年生の娘には、オーバーでは無く、有名な大企業から就職の採用通知が、ダンボール3箱分が届いて、本当に景気が天井知らずだと実感したのです。

それが、皆さんご存知の如く、バブル景気は泡とはじけ、景気は奈落の底へ。

当時、私は大学の臨時教官でもあったので、都心に通勤していました。

用事で東京駅に訪れた時には、本当に驚かされました。

東京駅の階段に、高価な背広を着ているサラリーマンが大勢、疲れた様子で座っているのです。

その異様な様子は、今でも忘れる事が出来ません…

バブルがはじけた結果、無理な投資などの借金で首が回らなくなった紳士達の悲しい結末の姿であることは、確信を持って断言出来ます。

今回の『アベノミクス』は、あのようなバブルと同じ様な結果にはなる事は絶対有り得ません。

何故なら、あのバブルを経験している賢い日本人がよもや、同じ轍を踏むわけが無いからです。

必ず、デフレ経済を脱却して、落ち着いた経済成長を取り戻すものと思います。

選挙に圧勝した安倍総理、国民の期待に答えるように宜しくお願いします。

2015年が素晴らしい年になるように心から願っています。

院長の独り言 421 ;隅田川今昔

私が小学生の頃、実家の近くを流れていた隅田川の水は、泳げるほど綺麗でした。

色々な魚、例えば、セイゴやボラ、ハゼなど、網ですくえるほど、沢山見ることも出来ました。

学校から帰ってくると、近所の友達と隅田川へ魚釣りによく行っていました。

しかし、ほんの数年後、私が中学生になった頃には、恐ろしいことに、隅田川は、ゴミがプカプカ浮いて、水は黒ずみ、魚影も無く、薄汚れた、汚い川に変身してしまいました。

とうとう、臭いニオイもするようになってしまい、少し前まではパリのセーヌ川の様だった隅田川が、東京のド真ん中を流れるには相応(ふさわ)しくない川になってしまったのです…。

その後、父親の仕事の関係で、豊島区大塚に引っ越してしまったので、隅田川から離れてしまい、いつしか隅田川の事は忘れてしまいました。

たまに、テレビや新聞などで、隅田川の汚染している姿を嘆いている記事は出ていましたけれども…。

隅田川が汚れてしまった最大の原因は、まれにみる戦後の高度成長期における工場からの垂れ流し排水が主な理由でした。

幼い頃、友人と川遊びに出かけ、魚を釣りに行っていたあの綺麗な川を思い出すと、本当に泣けてきます。

現在、私は多摩西部地区に住んでいます。

先日、品川に用事があり、その際、隅田川に観光遊覧船が存在することを知り、懐かしく思い、船に乗ってみる事にしたのです。

隅田川を間近で見るのは、おおよそ50年振りです。

品川埠頭から船に乗ってみて、本当に驚きました。

あの汚れきっていた隅田川が信じられないほど綺麗に蘇っていたのです。

私が子供の頃の隅田川とは少し違いますが、頬を横切る微風は海のニオイです。あの汚れて臭いニオイの川は消えていました。

魚の姿は確認出来ませんでしたが、近い将来に蘇る事は間違い無さそうです。

隅田川で一番、変わってしまった事と言えば、高層マンションが林立している河岸でした。

本当に日本は凄い実力を持ち、あらゆる面で素晴らしい国ですね。

この素晴らしい国を子孫に残したいと思うし、そうするのが、我々大人の義務ではないでしょうか。

 

院長の独り言 420 ;はやぶさ2号の打ち上げ

今週の12月3日水曜日の午後、無事、はやぶさ2号(H2Aロケット)が種子島宇宙センターから打ち上げられ、見事に軌道に乗り、さらに太陽電池パネルの展開、サンプラホーンの伸展、探査機の3軸姿勢制御機能など、重要なシーケンスが正常に行われたことが確認されました。

天候が良くなかったこともあって、延び延びになっていたロケットの打ち上げ。

全国民をやきもきさせていましたが、見事に大空に向かって飛び立って行き、3時過ぎに打ち上げ成功の発表がありました。

このロケットの打ち上げ、時間は1秒の狂いも許されないのだそうです。

1秒ですよ!!

小生の単細胞の頭では、ただただ感心するのみです。

30億キロ彼方(かなた)の小惑星を目指して数年かけて飛んでいくのだそうです。

バッチリ、その小さな目標の小惑星に到着するのは間違い無いそうです。

凄いと言う以外言葉が見つかりません。

この素晴らしい技術、本当に天才的な科学者が大勢、我が国には存在するのですね。

私とすれば、この事実を誇りに思うより、心からビックリするのみです。

私の記憶が正しければ、日本のロケット産業は、糸川博士がおもちゃのような小さいロケットを飛ばすことから始まったのだそうです。

世界中、ロケットの造り方など教えて呉れる国など、当然の事ですが、存在するはずもありません。

それが今では日本独特の技術によって、世界のどの国にも真似の出来ない素晴らしいロケットを作り出してしまったのです。

このH2Aロケット打ち上げの成功を、世界中が掛け値無しでさぞかし驚いていることでしょう。

此処のところ、身体のことを考えて、アルコールを控えていたのですが、今日は仕事を終えた後に大好きな日本酒で、家族と乾杯しようと思っています。

院長の独り言 419 ;むかしの駄菓子屋

およそ70年も前になりますが、私が小学生の頃は当たり前の話ですが、コンビニなる便利なものは存在していません。
子供が手軽に買い物していたのは「駄菓子屋」と呼ばれていた路地裏の小さなお店でした。
あめ玉やせんべいを一枚から売っていました。
竹とんぼ、ビー玉、面子(めんこ)やけん玉、昆虫取りのあみなどなど、子供用の玩具も狭い店先によくも揃えたものだと思うほどに並んでいました。
そして、何処の駄菓子屋さんでもオバアちゃんが切り盛りしていたのです。
我々子供達はそのオバアちゃんを揶揄(からか)ったりしていましたが、今から振り返ってみると、その反対で、オバアちゃんにいいようにお客さんにされていたようです。
当時の駄菓子屋はチビさん達のたまり場で、今で言うお母さん達の井戸端のような場所だったのです。
現在は「駄菓子屋」なる店は殆どお目にかかる事が出来ません。
ところが、自宅近くの道路で、その見なくなった「駄菓子屋」を発見したのでした。
年甲斐も無く嬉しくなって、早速、店の中に入ってみたのです。
当然の事ですが、店の中はおチビさんで一杯、いい年をした大人は私以外に一人もいませんでした。
店のおばさんも怪訝(けえん)そうに『お孫さんにお土産ですか?』
まさか、自分が欲しいとも言えず、軽くうなずいて、塩せんべい、水飴、ラムネ、そうそう、昔好きだった『都こんぶ』などを買い込んで、何となく子供の頃にタイムスリップした気分になったのです。
この年になると、自分の小学生の当時が懐かしく思えて仕方がありません。
仲の良かった友達も小学生の侭(まま)です。
もうあの世に行ってしまった友達もきっといることでしょう。
今、年を取って会うのも何となく気が引けますが、小さい時のまま会いたいな〜と心の底から思うのです。
時の流れの早いのをつくづく感じると同時に、この世の無情を嘆いているのです。
泣けてきますね~

院長の独り言 418 ;八王子はお祭り中

今日、8月1日(金曜日)から三日間は、八王子の夏祭りです。
この三日間、八王子が一年で一番活気溢れる街に変身するのです。
道路は例年にない人の波で、たいへんな賑(にぎ)わいになります。
今年も大変天気が良さそうです。
暑い事は暑いのですが、旧甲州街道添いに屋台がずらりと並び、それはそれは壮観です。
丁度、子供達の夏休みの期間でもあるので、普段の日曜日とは比較にならないくらいの人ひとひとの行列が絶え間なく続きます。
ウチの診療所は道路に沿ったビルの二階、三階ですので、お祭りの賑わいが幸運にも目の前で見る事が出来るのです。
土曜、日曜の二日間は、半纏(はんてん)姿の子供や男女が、昔ながらの山車に乗って太鼓を叩いたり、笛を吹いたり、また大勢の人達が町中を祭り囃子に合わせて山車を引っ張りまわします。
屋台で買った綿飴を舐めながら山車を囲んで見物人が大声で応援です。
豪華な山車がビルの前を何台も続いてきます。
お囃子と歓声が絶えません。
このお祭りが終わるころになると、涼しい風が頬を撫でるようになるのです。
今までのうだる様な暑さが嘘のように日に日に薄らいでいくのです。
日も短くなりだし、祭りの終焉が秋の近いことを知らせてくれ、何となく寂しい気がしてきます。
私も下町育ちですからお祭りは大好きです。
勿論、小学生の頃から祭りになると、友達と御神輿(おみこし)を担いでいたのは言うまでもありません。
祭り太鼓と笛が遠くから聞こえてくると、ジッとしていられなくなったものです。
一日中、神輿を担いだり、山車を引っ張ったりしていた遠い昔の風景が蘇(よみがえ)り、小学生の頃にタイムスリップです。
多分、このようなお祭りを毎年継続していくには、街の人の大変なご努力が必要な事と想像出来ます。
大人になっても強烈な思い出として残っているお祭りが、これからも願わくば、子供達の為に継続されん事を心より願っているのです。

院長の独り言 417;くわばらくわばら…

戦争時の空襲にも驚きましたが、空襲時、自分があまりにも幼かったと云う事もあったので、戦争自体、夢を見ている様な、見ていないような現実味のかなり薄い経験でもあったのです。
しかし、ここからの話は本当に人生で一番驚いたお話です。
自分の人生で目の玉が飛び出るほどの恐ろしい経験は殆ど無いので、この経験が一番だとは、まったくのお笑い草かも知れません。
しかし、今でもその時に体験した出来事がたまに夢に出てくるのです。
私にとって、この恐ろしい夢に出てくる時は、いつも恐怖のあまり一瞬で正気に戻り、飛び起きてしまい、暫く寝る事が出来ません。
私が大学生になった年の夏休みの時でした。
友達と伊豆の海水浴場に遊びで出かけた時の話です。
途中、熱海の『一杯飯屋』に寄って、ビールを飲みながら昼飯を食べた後、時間に余裕があったので、腹ごなしの散歩と洒落込んだのです。
『熱海の海岸散歩して〜♩』と歌にある貫一お宮の例の銅像の前を通り過ぎた所の街道筋に、大きな金網の檻(おり)があったのです。
鳥でも入っているのかと面白半分に金網に顔をつけて中を覗きながら、網目から指を突っ込んだその時!
目の玉が飛び出るほど、今まで見たことも無いほどの大きなトドが陰から急に出てきてパクッと私目掛けて食いついて来たのです。
トドの大きな顔が目の前に現れ、馬鹿でかい口が私の目一杯に入りました。
咄嗟(とっさ)に、パッと指を引っ込め、身体を後方に引っ込め真後ろに飛び跳ねたのです
難を逃れたと分かった途端、冷や汗がドドッと出た事は言うまでもありませんでした。
馬鹿でかいトドの顔を、こんなに間近で見た事など過去に一度も無かったし、目の前の空間がトドの口だけで覆われているのですから恐怖の何物でもありません。
その時の全身引っ込めた早さは、我ながら信じられないほどの早業だったと今でも思います。
まだ私も若かったので危うく難を逃れる事が出来ましたが、今では身体も鈍くて難を逃れるなんて全く無理な相談でしょう。
トドが予想を超えたあまりにも早い動作で目の前に飛んできたので、今だったら右の人差し指は完全に食いちぎられていたに違いありません。
あの鈍そうな大きなトドが予想を超えた素早さには本当に驚きでした。
今でも耳元でトドの上歯(うわば)と下歯(したば)の『ガチッ』とかみ合ったものすごい音を忘れる事が出来ません。
その後しばらくして同じ場所に検索に行きましたが、トドの入った檻(おり)は撤去されていました。
矢張り、危険だったのでしょうか。
クワバラ、クワバラ。

院長の独り言 416 ;昔、予防注射はまわし打ちだった!!

B型肝炎ウイルスに感染している人は、世界でおおよそ何人かご存知ですか?
驚くなかれ、20億人と推定されています。
海外に手軽に行ける昨今、みなさん充分ご注意あれ。
現在、日本では有り得ない話ですが、私が小中学校時、予防注射は注射器を使い回ししていました。
インフルエンザ、BCG、ツベルクリン、ジフテリアなど、学校で実施される全ての予防注射は、一本の注射器と注射針で生徒全員を処理していたのです。
当時、予防注射の使い回しが、当たり前として、世間でも受け入れられていたのです。
このような注射の使い回しに関して、学校や厚生省も当然と思っていたでしょうし、親からは注射器、注射針の使い回しに何のクレームも無かったのです。
新聞でも、予防注射に関する批判めいた記事は見たことが有りませんでした。
学校医の先生が、一人の生徒を注射すると、アルコール綿でチョコチョコと針の先をなすった後、次の生徒の腕に注射をしていたのです。
B型やC型肝炎などの恐い話も、当時、話題にもなりませんでした。
大人になって今考えると、友人とも時々話題になるのですが、『よくぞウイルス肝炎に感染しなかったものだ…』と、ぞっとするやら、その幸運をみんなで神に感謝しています。
予防注射の時に不幸にもウイルス肝炎に感染してしまった人も、かなりいたに違いありません。
『治り難(にく)い疾患は感染し難い』と言われるように、A、B型肝炎はそう簡単には感染しないことも事実です。
電車の席に座ったり手すりに掴まったりしても、決して感染しません。
しかし、使い回ししていた針に、肝炎ウイルスが付着していれば、もしかすると、感染するかも知れませんね。
知識が無いということほど恐ろしいものはありません…。
現在、我が国では、B型、C型肝炎合わせて約400万人の感染者が存在するそうです。
一説には、その中の約30 %程度の人が、予防注射の使い回しによって、肝炎ウイルスに感染してしまったそうです。
勿論、今は注射の使い回しによる感染はゼロです。
使い回しは禁止ですから。
結果、肝炎ウイルス保菌者の8割以上が、65歳以上の高齢者であるのもうなずけます。
どんな種類の予防注射でも、そして輸血でも、本当に徹底的に滅菌して、用心深く実施すべきです。
私が大学を卒業して、歯科医になり、治療を始めた当座、先ず手洗いを徹底的に、それもしつこいくらいの訓練を、大学病院で受けました。
当時は、治療用グローブはまだ量産されてなかったので、普段はグローブ無しで治療をしていた為に、患者さん毎に神経質になるぐらい、手洗いを徹底していたのです。
肝炎ウイルスは直接、血液に触れなければ先ず感染しません。
現在は、患者さんも、ドクターも、手指や道具の徹底的な滅菌のお陰で、安心して治療を任せたり、施したりすることが出来ると云うわけですね。

院長の独り言 415 ;日本の街は実に清潔で綺麗ですね

この平成の世の中、本当に我が国は全国どこを訪ねても、きれいな町並み、しかも清潔です。
私が子供の頃は、戦争の傷跡を強烈に残していたので、掘建て小屋も多く、街全体が荒(すさ)んでいました。
元来、我々日本人はきれい好きなことは間違いありません。
しかし、半世紀以上前の日本…。
道路にはヒビが入っていたり、穴がアチコチに、高層ビルは皆無。
ビルと云えば薄汚れたものでした。
それが物の見事に、世界に誇れる近代国家に蘇(よみがえ)りました。
ここ一年ほど、所用で甲府、名古屋、京都などの日本の大都市に行ってきましたが、どの町も住宅は新築が多く、塵など殆ど落ちていないし、歩道は綺麗(きれい)でした。
ヨーロッパの都市と比べて、日本の都市の方がダントツに清潔です。
ただ惜しむらくは、過去のブログに何度も掲載しているのですが、日本は電線が都市の景観をたいへん損ねているだけです。
今日の新聞を見ると、政府も本気で電線の排除を考えだしたようです。
私とすれば、こんな嬉しいニュースは久しぶりです。
もし我が国に沢山ある電線を、地下に移して、街から電信柱と電線を消すことが出来たら、名実共に、世界一のきれいな国になるのは間違いありません。
そんなことは見掛けだけで、大した意味は無いと思われるかも知れません…。
しかし、見かけも大変重要だと思うのです。
例えば、滅茶苦茶に汚して、ゴミ屋敷状態になっている部屋と普通に掃除して綺麗に整頓している部屋とを、細菌の数で比較するとほとんど変わりがないそうです。
言い換えれば、ゴミ屋敷に住んでいる人が、我々より病気になり易いとは正直言えないそうなのです。
清潔な町でも、そうでない町でも、生活していく上では大して変わりがないとしても、街も見た目が綺麗だと、食事も美味しく感じますし、気持ちも清々(すがすが)しいものです。
電信柱と電線が消えた町を想像すると本当に小生は心の底から『ワクワク』するのです。
そうなると犬は困るでしょうけど。

院長の独り言 414 ; カメレオン効果

長く日本に住んでいる異国人。
永く日本に滞在していると、容貌が何となく日本人に似てくるから不思議です。
逆に、ヨーロッパやアメリカに永住している日本人は、やはり不思議にも風貌が白人に似てくるから面白いものですね。
この現象は小生、随分前から興味深く感じていました。
カメレオンは、緑色の木々の中にいる時は、全身の皮膚の色が緑色に変化して、周りの葉っぱの中に見事に同化してしまいます。
茶色の土の上を歩いている時、カメレオンは茶色に変わります。
要するに、カメレオンは、変幻自在の妖怪のようです。
しかし、皮膚の色を周りに合わせて変わるのは、何もカメレオンだけではありません。
生物の中には、別にカメレオンだけではなく、緑一色のジャングルに住みついている昆虫は緑色が多いし、砂漠にいる昆虫は砂に同化した色をしています。
みなさんもよくご存知、主に信州の日本アルプスに生息している雷鳥は、夏の羽根は茶色ですが、雪一色の冬になると、何処に雷鳥がいるのか分からないほど全身真っ白に変身します。
雷鳥やカメレオンのように、身体の表面の色が、敵から身を守る為に変身するなら、まだ然(さ)も有らんといった感じがします。
しかし、一人の日本人が大勢の白人の中で生活していると、何となく白人のような風貌になってくるからビックリします。
その逆も然りです。
人と人との間に存在するのが、『人間』とはよく言ったものです。
アメリカ人やフランス人が日本に長く滞在していると、本当に違和感が無くなってしまい、同じ日本人じゃないかと思ってしまうほどになる人もいます。
多分、動物は大きなマスに入ると脳が反応して、自分だけ目立つのを避けるようになっているのではないでしょうか。
目立つことは命に関わる重大危機として、周りに同化する遺伝子が存在し、そのお陰で、危険から身を守ることが出来るようになっているのかも知れません。
勿論、自分自身は周りに自然と同化するなど、気がつく筈はありません。
多分、本能みたいなものですから。
そんなに極端に変身しているわけでもないですし。
でも、端から見ると何となく同化しているので、緊張感なく仲間として受け入れられているのだと私は感じてしまいます。
地球で、長い時間をかけて進化してきた生物、本当にその不思議な能力には、いつものことですが、ただただ驚くばかりですね。

院長の独り言 413;歯周病の恐ろしさ

脳梗塞や心筋梗塞、あるいは認知症と云った血液循環器系の大病と慢性歯周病との関わりが、ここ数年、我が国だけではなく世界的に注目されています。
勿論、良い意味ではなく悪い意味でです。
私が開業した今から40年前でも、歯周病が特に糖尿病を悪化させると言われていました。
その結果、全身に悪影響が及ぶので、歯周病は早期治療を心がけるべきであると言われていました。
汚い話ですが、ひどい歯周病になった人は、毎日毎秒『膿(うみ)』を飲み込んでいるのです。
身体にいい筈がありません。
しかし、この病気が急性化した時は、たいへん痛いし、大きく腫れることもあります。
患者さんも急いで来院してくれるのですが、痛みや腫れがひいてしまうと『治癒したと錯覚して』来なくなってしまいます。
痛みや腫れが引いたからといって、病気が治ったわけではなく、ただ急性症状が慢性症状に移行しただけなのです。
例えて言えば、急性胃炎が慢性胃炎に移行して一見、胃炎が治癒したと錯覚するのと同じなのです。
症状が消えたのを治癒したと思い違いをしてしまう患者さんが実に多いのです。
そのまま放置しておくと、歯周病は治癒したのではなく、深く静かに進行していきます。
一見、元気な人が、脳梗塞や心筋梗塞で突然倒れて亡くなった場合、その人の死因が全く分からず、脳や心臓を解剖して注意深く調べた結果、脳や心臓の血管が詰まっていて、歯周病菌の痕跡が発見され、唖然とする…、ということもあるのです。
少し前までは、歯周病と梗塞とは全く関係がないものと思われていたので、脳や心臓の梗塞で倒れた場合でも、歯周病菌は検査の対象外だったのです。
しかし、歯周病以外の全身疾患が見つからなかったので、まさかと思いつつ歯周病菌をチエックしたところ、歯周病菌が心臓の弁に沢山発見されて『ビックリ』!
歯周病菌は簡単に、体全体に血管を通してバラまかれていたのでした。
そして、歯周病菌が歯肉炎を起こすのと同じように心臓や脳の血管を詰まらせていたのです。
NHKも民放テレビもアチコチの医療番組で特集を組んで、最近は歯周病の恐さを強調しています。
歯周病は口腔だけではなく、がん細胞と同じように簡単に全身に転移するので、本当に恐い病気と云う事です。
予防に励むしかありませんね。
術前

院長の独り言 412 ;地球の生物のひとつ、人間

私が小学生の頃、食卓に出てきた旬(しゅん)の鯵(あじ)や秋刀魚(さんま)などの魚は今のそれより明らかに大きかったのです。
食べ応えがあると云うか、焼いた鯵など一匹ひとりでは食べられないほどのボリュームでした。
それが年月とともに魚がドンドン小型化してしまい、反比例して値段は高くなってしまいました。
漁獲量も減少の一途のようです。
値段は兎も角、何とかもう一度、65年ほど前の大きな鯵を食べてみたいと心から思っているのです。
ホモ•サピエンス、即ち、人間が地球に誕生してから後、人間は進化に進化を重ね、人口が増えれば増えるほど、それに反比例するように大型の生物は地球から姿を消して絶滅するか、数をどんどん減少させていくと言われています。
その結果、折角、地球に出現した、珍しい多くの大型生物の中には現在では見ることが出来ない生物も沢山存在するのです。
見たことも無い大きな『珍』生物が化石上では多数発見されているのです。
人間が地球上のアチコチに拡散していき、彼らが入り込んだ地域の大型生物が絶滅していく事実を知ると本当に悲しくなります。
この事実は何を物語っているのでしょうか。
このままいくと、陸上では、象やカバ、キリンなどは絶滅してしまいそうです。
海上でもクジラやイルカなども姿を消してしまうでしょう。
もっと大きく成長する哺乳類や魚類も小さいうちに人間に捕獲されて小型化の一途です。
大型生物の絶滅には人間の行為が重大な原因になっている事は紛(まぎれ)も無い事実です。
みなさんよくご存知の大型絶滅種マンモス象やナウマン象やジャイアント•モア(巨大な鳥)等は、当時の人間の胃袋に入って絶滅した事は明らかでしょう。
大型生物を一頭捕獲すれば、大勢の人間の命を生かす事が出来ます。
おまけに大型の動物は俊敏ではないので、古代人みんなで協力すれば、色々な捕獲用の道具が無くても容易に捕まえる事が可能だったのでしょう。
捕獲には人海戦術で事足りたし、その結果に古代人は大満足していたでしょう。
勿論、当時の人々は自分達が動物の絶滅に加担していたなど夢にも思っていなかったに違いありません。
過去の話ではなく、現在でも、あらゆる生物の乱獲が後を絶ちません。
現代の乱獲は残念ですが、故意としか思えません。
現代科学の力で、何とか大型動物の絶滅、そして、多くの生物の減少と小型化を防がないと将来なんとも寂しい地球になりそうです。
要するに、我々人間の欲を、ほどほどにと云う事ですか。

院長の独り言411;とりあえずW杯で寝不足はなくなりましたね

ブラジル開催のサッカーワールドカップ、惜しくも日本チームは予選で敗退してしまいました…。
特に、コートジボアールとの一回戦は、本田選手のゴールで、一時は勝ったと思ったのに!
随分前のブログに載せた私の勝手な意見ですが、日本は攻撃が最大の防御であると云う昔から言われている鉄則を忘れたのが、敗北した最大の原因だと思いますが、如何なものでしょう。
前半でリードした虎の子の1点を、後半、何とか守ろうとして消極的になり過ぎ、結果としては、相手の怒濤の反撃にあえなく逆転されてしまいました。
1点をリードした後も、ドンドン攻めていれば勝利したのではないでしょう…
勿論、私の勝手な意見ですので‥‥。
逆に、テレビ番組では、サッカー評論家が『守りに徹するべきだった…、攻守が中途半端だった』と逆の意見もありました。
それにしても、悔しいですし、残念です。
次のギリシャ戦では、何とか引き分けて、コロンビア戦に向けて首の皮一枚つなげたのですが、結果は完敗もいいところでしたね。
冷静に振り返ってみてみると、あまりにも身体と云うか、ガタイが違いすぎましたね。
気力だけでも外国の選手を凌駕して欲しかったのですが、それもかないませんでした。
何しろ、外国チームにはイザとなると、相手の選手に噛みついてしまう選手もいるのですから気力が違います…。
勝ち負けは兎も角、日本選手には実力を出し切って悔いの無い試合をして貰いたかったのですが、それもかないませんでした。
監督の采配も混乱していたようですし。
繰り返しますが、ヨーロッパの選手もアフリカの選手も南米の選手もデカイし、ガタイがいいですね。
小柄な日本選手がいとおしいですし、大男を相手にもう少し頑張って欲しかったですね。
サッカー選手が田中マー君や松井選手のようなプロ野球選手くらいの大型な身体になった時に、初めて、世界で優勝を争うサッカーチームが我が国にも誕生するのではないでしょうか。
これからブラジルでは佳境に入るのですが、日本チームが出ないのですから、私は夜ぐっすり寝る事が出来るしょう。
寝不足からは解放されます、悔しいけれど!

院長の独り言 410;塊炭飴を知っていますか?

みなさん、塊炭飴を知っていますか?
読み方は『かいたんあめ』と読みます。
北海道の石狩炭田の中心である赤平市(あかびらし)に、炭鉱全盛時代に誕生した飴で、北海道のお土産として、戦前から有名です。
この飴の販売地域が狭いので、入手が割と困難なのです。
この飴は全国的な数々の賞を(大臣賞など)、受賞してきたそうです。
塊炭飴の別名を『黒いダイヤ』と呼ばれていますが、本当に石炭ソックリの形と色をしています。
勿論、私は『塊炭飴』なるものを、最近、初めて見ました。
飴を適当な大きさに割って口の中に放り込むと、シナモン味がひろがり、なかなか癖になりそうな味をしています。
飴を殆ど口にしない私ですが、たまには舐めてみたい気を起こさせて呉れそうな飴です。
しかし、非常に硬い食物が好きな私ですが、石炭にソックリで、如何にも硬そうな飴なので、流石(さすが)に歯で噛み砕く勇気は出てきません。
日頃、大変懇意にしている小川修一郎さんの北海道のお土産として頂きました。
小川さんは、つい先日、奥さんと『利尻島』に行かれたそうです。
実に羨ましい!
塊炭飴はその時のおみやげです。
私も北海道には、旅行や所用で何回か行っています。
殆ど道内は行き尽くしているのですが、『利尻島』には行っていません。
じつは稚内に行き、利尻島の姿を遠くからは拝んではいるのですが、利尻はまだです。
その時、船に乗って、島に何とか行こうとは思ったのですが、無理をしなくとも、またの機会にユックリと行けばいいと思い、利尻島に行くのを先送りしたのです。
30年あまり前の話です。
ところが、それから現在まで稚内に行く機会が全く訪れてきません。
あの時、目の前に利尻島が見えていたのに、『行けば良かった…』と、今になって思うのです。
後悔しても後悔しきれません。
小川さん曰く『利尻島は素晴らしかった!』とのことです。
頂いた『塊炭飴』をしゃぶりながら、あの時、行っておけば…と、地団駄を踏んでいるところです。
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院長の独り言 409 ;不気味な体験…

開業して半年ほど経ったでしょうか、大学の医局生活と全く違う毎日でしたので、緊張もしていたし、他の事など考える余裕など無かったので、今から思えば、色々な面で隙(すき)だらけだったのでしょう。
久しぶりに現状報告と云う事で、お世話になっていた医局に遊びに行ったのです。
八王子や日野など、ウチの診療所に地理的に近い患者さんを紹介して貰ってもいたので、治療内容などを説明したかった事もありました。
半年前まで一緒に苦楽を共にした仕事仲間との再会でしたから、本当に楽しいひと時を過ごしたのです。
一番会いたかった恩師、鈴木賢策教授の顔は拝めませんでした…。
教授会に出られていたとの事でした。
午前10時前に大学に出かけていたのですが、色々と話に夢中になっているうちに午後3時を過ぎてしまい、医局の皆さんにおいとまして、中央線に乗り帰途についたのです。
医局に行った日から4~5日間経った日のお昼過ぎに、突然、当院の受付に電話が鳴り、受付の女性が『男性から意味不明の電話です!?』と連絡してきたのです。
治療をしていたので、私は『知っている人ですか?用件を聞いてくれませんか?』と受付の女性に頼んだのです。
受付曰く、『名前も住所も用件も言いません。兎に角、院長に代ってくれと言っています!』とのこと。
止もう得ず、治療を中断して電話に出たのです。
電話に出ると、いきなり、『10万円で買い取れ!』と言ってきたのです。
何の事か理解が出来ず、黙っていると、『恐いところに売り飛ばしてしまうぞ!!』
と、男は凄んで脅かすのです。
私としては、何が何だかサッパリ理解出来ず、電話を切ったのですが、ここで冷静になったのです。
4日前から財布が見つからないので、家の中や診療所の机の引き出しなどを、隈無く探していたのですが、如何しても見つからず困っていたのです。
現金は少なかったのですが、身分証明証や健康保険証や名刺などを入れていたからです。
絶対に落としていないので、ここにきて、ようやく『スリ!』やられたと気づきました。
帰りに乗った中央線快速が結構、混み合っていて、そう言えば新宿駅に着いた時に、いやに強く押された事を思い出しました。
『あの時だ!』と気がついたのですが、後の祭りでした…。
それにしても、敵ながらアッパレ!
変な電話がかかってくるまで、スリにやられたとは全く気がつきませんでした。
早速、警察で事情を話して事なきを得ましたが…。
それ以来、変な電話は掛かってこなかったのでホッとしているのです。
今回は、まったく間の抜けた話ですな。

院長の独り言 408 ;一匹のイヌを愛した結果…

大学生の頃、オヤジの勤めの関係で、古い家でしたが、かなり大きな官舎に住んでいたことがありました。
2メートル程度の塀にグルリと囲まれた和風の邸宅です。
こんな大きな家に住んだのは、後にも、先にも、この一回きりです。
5~6年間住んで、その大邸宅からは引っ越しましたが、何しろ不用心なので、以前にも一度ブログに載せましたが、当時、秋田犬を飼っていました。
あのロシアのプーチン大統領が可愛いがっている犬と同じです。
いま思えば、本当に大型犬の秋田犬を飼っていて、正解でした。
その愛犬『フジ』が、空き巣を追っ払った事があったからです。
どうせ犬を飼うなら、可愛くて、扱い易い、もっと小さな犬を飼うベキだと、親は主張していたのです。
大きな秋田犬は餌代もかかるし、扱いも大変だと言って、大反対だった両親は、空き巣を追っ払ったその日から、『フジ!フジ!』と言って、たいへん可愛がるようになりました。
フジとは、その大きな秋田犬の名前です。
フジは、家族には気を許していましたが、他の人には決して慣れませんでした。
別に吠え付いたり、襲ったりはしませんでしたが、家族以外の人にはシッポを振ったりして、愛嬌をふりまく事は決して無かったのです。
我々には当然ですが、シッポがちぎれるんじゃないかと思う程、振っていました。
本当に可愛いヤツでした…。
唯一、大変だった事は、朝晩2回の散歩です。
朝は午前4時、夜は午後8時、と決まっていました。
散歩は、当時、大学生だった私の仕事のようなものでした。
気候の良い春秋は微風が心地よく、夏は走って、汗をかくのも気持ちがいいものでした。
しかし、冬の午前4時の散歩にはまいりました。
散歩の時間になると、フジは必ず要求してくるのです…。
たまに、低い声で吠えるのは、近所の人達も『凄いね!』と感心しているのですが、ワンワンと連続して吠えると、当然ながら五月蝿(うるさい)ので『何とかしてくれ!!』となります。
寒い寒い日などは拷問みたいなものです。
内心『散歩に行きたくないな…』と思いますが、自分しかフジを連れ出す家族の者はいません。
フジの散歩のお陰かどうかでわかりませんが、全く風邪をひかなかったのは、家族で私一人でした。
それから風邪をひかない体質になったので、現在、診療所のスタッフ全員に『院長先生の風邪をひいた姿を見たことがない』と不思議がられているのです。
しかし、フジが死んでからは、犬を飼う気が全く失せてしまったのも、事実です。
一時、気違いみたいに、あんなに犬の専門書を読み漁って、みんなから『犬博士』と言われていたのに!!
あまりにフジに気を入れ過ぎて、気が抜けてしまったのです。
今でも散歩している犬を見るのは大好きですが、自分で飼おうとは全く思いません。
この心の変化はどうしてでしょうか?
これがイヌを愛した結果なのです…
藤千代の思いで

院長の独り言 407 ;後輩の教授の退職パーティー

つい先日、医局の後輩である教授が退職しました。
そして祝賀会が都内の有名ホテルで盛大に挙行され、私も招待されたのです。
50年ほど前、私の恩師である東京医科歯科大学 鈴木賢策教授の退職祝賀会に比べると、今回の祝賀会はたいへん盛大なパーティでした。
今回の後輩の祝賀会には、大きな丸テーブルが20以上有り、私が座ったテーブルに一緒に座った先生達は全員、50年以上も前に同じ医局に在籍していた当時の仲間でした。
まるで40~50年前にタイムスリップしてしまったようで、懐かしいやら、嬉しいやら…。
全く楽しいひと時を過ごす事が出来たのでした。
顔を合わすのは、数十年ぶりの先生ばかりです。
『本当に久しぶり!』
『懐かしいね〜』
『もう生きて会えないと思っていたよ!』
大学では、研究をする厳しさ、学生を教える大切さ、そして患者さんを治療して疾患を治癒させる目的を目指して、古い講座に、古い道具を使って頑張っていました。
医局員全員で切磋琢磨していた遠い昔を思い出し、切なく感じてしまいました。
医局に在籍していた時、楽しい酒も飲みましたし、仕事の上で言い争いもしました。
テーブルに着いた全員の頭の中に、医局にいた頃の、苦楽を共にした思い出が、私と同じく、走馬灯のように巡っているのでしょう。
みんな、神妙な顔をしながら乾杯を重ねたのでした。
いま思い出しても、当時の研究室は決して綺麗とは言えません。
実験器具も古く、色々な薬が保管されている薬品棚も、我々の机も、アチコチヒビが入っている有様でした。
現在の研究室をたまに訪ねると、診療道具も、使用する薬品も、全て大きく異なり、驚くほどの進歩が見られます。
研究室も、診療室も、格段に明るく、たいへん清潔になっています。
われわれが在籍していた頃の研究室は、お世辞にも清潔とは言えませんが、もう一度医局員に戻れるなら、風が吹けば窓がガタガタ音を立てる、そして慌てて歩くとミシミシ蝉のように鳴く床、如何にも昔の映画に出てくるような古い研究室で、昔の仲間と勉強したいと思います。
それにしても退職してからあまりにも時間が過ぎてしまいました。
過去に戻る事は不可能です。
残念ですが、懐かしい顔を見ることで満足しましょう。
同級生の一人は、『もう生きては会えないな…』と、独り言のように呟きました。
いいや友よ!また再び杯を重ねようよ。
まるで李白のような気分になりました。

院長の独り言 406 ; まさか庭に逃がしたばかりのガマガエルがこんなに早く死んでしまうとは…

今回は、ちょっと前の、昨年に書いたブログを報告します。
ネットにアップするのが遅れてしまいました。

題名『まさか庭に逃がしたばかりのガマガエルがこんなに早く死んでしまうとは…』

予想だにしませんでしたが、ブログの院長の独り言401『ガマちゃんが絶滅危惧種なんて』で述べているように、昨年8月半ばには、ガマちゃんは元気に庭を這い回っていました。
大きな台風が昨年11月16日、関東地方に襲いかかり、多摩地方も、その日の朝からかなり荒れ模様の天候でした。
我が家の庭にも、水たまりが出来ましたが、カエルのことなど気にもしませんでした。
何と言っても、カエルは両生類の仲間ですから、却って、『雨は大歓迎』だと思っていたからです。
ガマガエルより、頭の中は大島の大災害で一杯でした。
伊豆大島の未憎悪のたいへんな被害をテレビで見ていると、何とお悔やみの言葉をかけたらいいのか分かりません。
伊豆大島と言えば、高校一年の夏休みに友人数名と、大島に行ったことが一度あります。
お台場埠頭から、かなり大きな船に乗船し、東京湾を突っ切って大島に向かうのですが、外海に出て行くと意外や意外、波が結構すごいのです。
生半可な船では大島には行けないのだと理解出来ました。
東京湾内では全く静かですが、外海に出た途端、大きな波がうねっていました。
大島に着くと、そこは別世界。
自分の住んでいる同じ東京都とは、とても思えませんでした。
大学生の頃までは、東京の下町暮らしだったので、結婚して西多摩の国立市に住むようになり、八王子市で仕事をするようになり、高尾山に結構、登るようになった時も、東京が自然に満ち満ちている都市と分かり、嬉しく思ったものです。
三原山に登った時は、雄大な活火山を目の前にして大感激でしたが、確かに、もし大雨が降れば、今回のように、大崩壊を起こすくらい地面が柔らく不安定な砂地でした。
話は戻って、ウチのガマちゃんですが、庭外の道路の隅に、喘(あえ)いでいたところを掃除していた家内が見付けたのです。
水浸しになっていた庭がイヤだったのでしょうか?
ガマちゃんはアスファルトの道路の上に避難して、ぐったりして息も絶え絶え…。
早速、庭の屋根が覆っていて、濡れていない場所に移して、安静の状態にしました。
何とか元気に戻って欲しいと願っていたのですが、日に日に衰弱してしまい、二日後に息を引き取ってしまったのです。
本当にガッカリしてしまいました。
台風24号は伊豆大島を襲い、ウチのガマちゃんの命も奪ったのでした。
残念…

院長の独り言 405; 久し振りにブログ再開

明けまして御目出度うございます。
このところ、公私ともに忙しく、ブログをご無沙汰してしまい、失礼いたしました。
氏子である私は、毎年元旦に、地元の『谷保天満宮』へ初詣に出かけます。
今年も、家族で新年のお祝いをした後、天満宮へ挨拶に出かけました。
行ってみると、あまりにも大勢の初詣のひと、ひと、ひとに、ビックリしてしまいました。
今年が我が国にとって素晴らしい年になるように、先ず祈念し、お裾分けとして、小生、遠慮勝ちに『家内安全』と仕事が上手くいく事をお願したのでした。
近年にないほど暖かく、晴天のお正月。
街をブラブラしながら自宅へ戻り、熱燗を一合程度お相伴しました。
いつものお正月であれば、アルコールを大いに(一升程度)楽しんでいましたが、今年は身体の事を考慮して、熱燗を一合に控えたのでした。
正直、飲み足りない感じです。
二日目には、恒例ですが、九段の靖国神社に、我が国の為に命を捧げた英霊に心から感謝と懺悔のお祈りを捧げてきました。
未来ある若い人達を中心に、多くの戦死者を犠牲にしてしまいました。
多くの戦死者の心中(しんちゅう)を察すると、本当に『辛い…』のひと言です。
さらに遊就館で、英霊たちの遺書を読むと涙が出て止まりません。
二度と戦争が起こらないように祈るのみです。
アッと言う間に、午(うま)年のお正月も終わってしまいました。
1月6日月曜日が、今年の仕事初めです。
急患は多かったのですが、患者さんのキャンセルは無く、順調なスタートがきれました。
これも、常に応援して頂いている患者さんとスタッフをはじめ関係者の後ろ盾があっての事です。
今年も精一杯、スタッフ全員で頑張ろう!と、仕事初日の医局会で話し合ったのです。

インプラント学会で講演を行ってきました。

石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。
報告が遅くなりましたが、9/14・15に福岡国際会議場で行われた第43回日本口腔インプラント学会に参加し、「インプラント周囲炎を予防するためのインプラントの選択と埋入術式」の演題で副院長(石川高行)と共に講演を行ってきました。
200人ほど入る会場は満席で、立ち見の方もいました。
私にとっては、今までで一番大勢の人を前にして話す機会だったことと、知り合いの先輩の先生が何人かいらしていたのでだいぶ緊張しましたが、なんとか無事に終わってホッとしました。
時間が無かったため、博多を観光することができなかったのが残念ですが、とてもいい経験になりました。
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こうすれば防げるインプラントオーバーデンチャーのリペア

石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。
副院長である石川高行先生と新しい専門家向けの本を執筆し、今月出版されました。
昨年私達が執筆した本「こうすれば防げるインプラント周囲炎」が好評だったため、今回の新たな本の出版に至りました。
昨年の本のようにわかりやすいように、イラストや表をたくさん掲載しています。
インプラントオーバーデンチャーとは、インプラントを支えとした義歯(入れ歯)のことをいいます。
一概にインプラントオーバーデンチャーといっても、インプラントの本数やアタッチメントなどのさまざまなバリエーションが存在し、それぞれに利点・欠点が存在します。
インプラントオーバーデンチャーは、固定性のブリッジに比べ、初期費用が安く、患者さんへの侵襲も少なくて済みますが、一般的に装着後の修理やトラブルが多く、その後のアフターケアが大変になります。
それらの特徴についての医学的な根拠を検討し、当院で行っている長期にわたって安定するインプラントオーバーデンチャーの治療方法についてまとめてあります。
当院の2階と3階の待合室にも置いてありますので、少し難しいですが、興味のある方は是非ご覧になってみてください。
また、総入れ歯を装着している方で、入れ歯がゆるい・大きくて話しづらいなどでお悩みの方は、インプラントオーバーデンチャーによって今までの入れ歯の違和感が劇的に改善されますので一度ご相談ください。
http://www.quint-j.co.jp/shigakusyocom/html/products/detail.php?product_id=2572
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院長の独り言 404 ; ただ、ひたすら、オメデトウ!

とある休日の朝、いつもの癖で、小生、寝ぼけ眼(まなこ)で、テレビのスイッチを入れた途端、いきなり画面一杯に笑顔!笑顔!が飛び込んできたのです。
何かいいことでも起きたのかと、ビックリして、眠気もスッ飛んでしまい、正気になったのです。
すると、『TOKYO 2020』を提示したハンサムな紳士、ジャック•ロゲ会長がテレビに大きく映し出されたのです。
画面一杯の笑顔は直ぐに、『アレだな!』とピンときました。
果たしてその通りで、2020年のオリンピックの開催地が東京に決定したニュースを知った人々の歓喜の笑顔でした。
早朝にも関わらず、日本中でオリンピック東京開催を心から祝福していたのです。
早速、詳しい事情が知りたいと思い、チャンネルを彼方此方(あっちこっち)変えてみました。
と、同時に投票会場は日本の代表団の大歓声が上がり、うれし涙の人や抱き合っている代表団の人の顔が大きく写り、たいへんな盛り上がりに、つい自分も目頭が熱くなってしまいました。
私は家内と一緒に万歳!万歳!万歳!
安倍総理をはじめ、大勢のオリンピック招致関係者の努力と苦労を考えると、久しぶりに我が国にとっての明るいニュース。
拍手喝采です。
オリンピック東京招致のお祝い特別番組を、殆どのテレビ局が企画、日曜日と云う事もあって、丁度、休みの私も都合良く大いに楽しませて頂きました。
一つ残念な事ですが、一部の評論家が東京での開催を批判していますが、開催が決まった後に、放射能の影響を持ち出して安倍総理を批判したりして嫌がらせとも取れる発言をしていました。
殆どの国民が喜んでいるし、多くの海外からの祝福を受けているのにどう云う了見なのでしょうか。
本当に残念です。
口だけで言うのは何でも簡単ですが、日本の為に身体を張って頑張ってきた関係者に対して、ねぎらいの言葉と感謝の言葉を先ずかけるべきではないでしょうか。
私は心から『ご苦労様、本当に有り難う。』です。
まあ、汚染水の問題とか、オリンピック開催後の不況(アテネオリンピック後のギリシア、北京オリンピック後の中国など)への対処は、大きな問題ですけど…。
しかし今だけは、喜ばせて下さいよ。

インプラント学会へ行ってきます。

石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。
14,15日に福岡で行われる日本口腔インプラント学会総会に、副院長と当院の歯科衛生士3人と参加します。
そのため明日の診療はお休みさせていただきます。
学会では副院長と共に講演を行う予定なので少し緊張しています。
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院長の独り言 403 ;私の脳トレ&身体鍛錬法

一度しかない人生、『元気で長寿!』が理想です。
例え長生き出来ても、病気がちでは、生き甲斐も半減してしまいます。
勿論、昔から遺伝的に長寿家系であれば、元気で90歳を超える人は、大勢とは言いませんが、かなり存在していました。
現在、我が国は、敗戦後、日本人全員の努力の結果、ひと昔前とは違い、衣食住にたいへん恵まれた国になっています。
無茶をしない限り、長寿家系ではなくとも、元気で80歳を超える人は、以前より多くなってきました。
要するに、世界に多く存在する国々の中でも、色々な面で、たいへん恵まれた幸せな国になりました。
話は変わりますが、『ある個人が、元気に長寿を全う出来るかどうか?』を、ある程度、予想出来る簡単な調べ方があるので述べたいと思います。
それは、大腿(足の付け根から膝までの部分)、いわゆる太ももですが、その太ももの部分が強くガッチリしていればしている程、健康で長生き出来るのです。
太いモモは、転倒などの予防に役立ちますし、人体でもっとも太い、モモの大腿筋は、血液のリザーバーでもあり、モモが動くことで、全身の血流をスムーズにすることができるのです。
しかし現在、腿(もも)の部分が、細くて、貧弱でも、落ち込むことはありません。
これから鍛えて腿(もも)を丈夫に強くすればいいのです。
頑張って、太ももを鍛えて、ガッチリさせれば、健康で長生き出来るのですから、皆さん頑張って下半身を鍛えて下さい。
もう一つ、身体だけ丈夫でも、認知症になってしまえば、やはり、こんな寂しいことはありません。
頭イコール脳を鍛える手っ取り早い方法は読書です。
身体が丈夫の上に、脳もシッカリしていれば、『鬼に金棒』と云う訳です。
何もお国の世話にならなくても、自分の努力によって、なるべく病気にならずに済むとしたらこんな幸せな事はありません。
最近、思うのですが、小生、身体の衰えを痛切に感じだしたのです。
そこで、毎朝5時頃起きて、2kgのバーベルを使って、体操をすることにしています。
まだ体操を始めて半年程度なのですが、何となく身体が締まってきた感じがするのです。
心身を鍛える目的で、暫く体操を続けてみようかと考えています。
プラス、なるべく本を読もうと思っています。
何しろ、実行すると決めた事は、先に宣言しておく方が長続きするものです。
家の者に宣言してしまえば、やらざるを得ません。
始めて直ぐ止めてしまえば、『何だ!口だけか…』と笑われるのも、癪の種です。
笑われるのが関の山かも知れませんが、口に出した以上、当分、頑張ってみようと思っています。
皆さんも、独自の健康法や、脳トレ法がありますか?

院長の独り言 402 ; 亜熱帯の日本

今年の夏は、暑いだけではなく、湿度の高いのには本当に身体が参りました…。
熱中症にかかった人も、例年と比べて、今年はダントツに多いそうです。
エジプトやインドは、50度近い気温も稀では無いそうですが、湿度が低いので、日陰に入ってしまえばあまり辛くはないそうです。
暑いだけでは、熱中症に、そうそうならないものです。
暑さだけでは、熱が体内に籠(こも)らないからです。
暑さに加えて、湿度が高い場合は、身体の表面から汗が出にくくなります。
カラっと、皮膚表面が乾燥していれば、汗が、体表の汗腺からドンドン蒸発してくれるので、体温が高くなっていく事を防いでくれます。
そうそう、熱中症といえば、昔の話ですが、小学校の朝礼で、自分は日射病になり、脳貧血を起こして卒倒したことがありました。
当時は毎日、必ず校長先生の朝の挨拶がありました。
たまたま、その日の朝礼があまりにも長かったのです。
夏休みが終わって、2学期の始まりの日でした。
2学期の初日と云う事もあって、校長先生も張り切って、生徒に気合いを入れたかったのでしょうか、いつもの朝礼より3倍は長い話でした。
それも、教訓めいた真面目な『お話』で、つまらなかったのです。
生徒みんな、校長先生の話に聞くのに、全く乗り気が無く、私も全く集中して聞けなかったのです。
その上、運悪くその日は、朝から強い日差しがギラギラ照りつけて、気温がドンドン上がりました。
当時は、生徒数が今より格段に多く、校庭目一杯、ぎっしりと生徒が並んでいたので、ムンムンしていたのです。
そして、太陽の強い照りつきによる高温で、列のあちこちで、『気持ちが悪い…』と言って、しゃがみ込んでしまう生徒が続出してしまいました。
私も、頭がボーとしてきたのですが、ここで座り込んだら男の恥だと思って必死に踏ん張って、やせ我慢をしていたのですが‥•。
気がついたら医務室のベッドの上でした。
そばの友達の話によると、仰向けにバタンと倒れたそうで、かなり大きな音がしたそうです。
今、アホになったのは、そのせいかも知れませんね。
おまけに大きな『タンコブ』が出来て、みんなに揶揄(からかわれ)たのは言うまでもありません。
丁度、男気が出て来た小学校4年生のお粗末な思い出です。
ところで、熱中症と日射病の違いが分かりますか。
とんと、この頃は日射病と言わなくなり、もっぱら、熱中症ばかりです。
前者は読んで字のごとし、太陽の強い光により体温調節が出来なくなり倒れることです。
その他、色々な理由から体温調節がうまくいかなくなる場合があります。
例えば、自宅の中の環境次第でも、体温不調を起こす場合もある訳です。
要は、日射病も熱中症の一つと云うことです。
暑さが原因で起こる体調不良を熱中症といいます。
熱中症を馬鹿にしていると、トンデモナイことになりますよ。
特に、今年のように、湿度が高い年は、暑い場所を避けると同時に、水分や電解質を常に補給して体温調節に注意して下さい。
それにしても、年々、日本は暑くなりますね。
亜熱帯の日本に住むことに、なりそうですね…

院長の独り言 401 ;ガマちゃんが絶滅危惧種なんて…

職場には、息子の車に便乗して通勤しています。
先日、仕事を終えていつものように家に送って貰った時の話です。
帰宅した時、夜7時過ぎだったでしょうか、自宅前の道端で、小さな黒い塊が蠢(うごめ)いているのを見付けました。
『あれは何だ!』
もう辺(あたり)は薄暗くなっていたので、その黒い塊が何だか分からなかったのです。
腰を屈(かが)めてよく見てみると、その蠢いている小さな塊はガマガエル(ヒキガエル)でした。
車でヒキガエル(ガマガエル)を轢(ひ)いては、シャレにもなりません。
庭の木の下に、早速、放してやることにしたのです。
幼い頃から動物大好きな息子は手慣れたもんで、手で抱き上げて、私の家(実家)に持ち帰り、ふざけて、ガマを家内の目の前に『ほらっ!』と言って突き出したのです。
余程ビックリしたのでしょうか、家内は『ギャッ!』と叫び、その後、本気で息子を詰(なじ)ったのでした。
カエルなんぞ大嫌いな彼女は、暫くの間、息子をキッと睨みつけていました。
息子は笑って『ゴメン!ゴメン』と言いながら、キョトンとしているガマちゃんを木の端に置いたのですが、ガマは見た目より素早く、大慌てで、木の陰に身を隠したのには、私も大笑してしまったのです。
ガマガエルは、背中のブツブツした皮膚から、白い毒液を出すので、本当は充分注意をして取り扱わなければいけないのです。
みなさん、ガマちゃんには充分注意して下さい!
素手では絶対に触らないように!
このガマガエル、普段は昆虫やミミズなどを補食するために、夜間、アチコチ徘徊します。
昼間は、薄暗い木の下に穴を掘ってジッとしているのです。
繁殖期になると沼や池を探して、かなりの範囲を動き回ります。
ガマは、アチコチの池など、水の溜まっているところを繁殖場所として探すので、止むを得ず車道を渡らざるをえません。
昨今のモータリゼーションの時代、ガマちゃんが轢かれてしまう事故も多いのです。
しかも、自宅の庭に池があるなんて、この不況下では少なくなっています。
その結果、現在、ガマガエルは絶滅危惧種の仲間入りです。
私が子供の頃は、どこの沼にいっても、将来、ガマガエルに成長する小さなオタマジャクシや、イボイボのガマちゃんが、よく見かけられたものです。
ガマちゃんが絶滅危惧種の候補になるとは、本当にビックリです。
『カエル』は無事『帰る』といって、家に住み着くと縁起が良いと、昔から言われているので、姿が見えなくなると寂しいですね。
ヒキガエル

院長の独り言 400;雨のビアガーデン

7月20日(土)、スタッフの有志とスタイグル社の林さんが集(つど)って、八王子八日町のエルシーのビールホールへ行ってきました。
エルシーは、スタッフみんなが昼食などで日頃お世話になっている和食、中華そして洋食レストランを兼ね添えている『食事処』です。
その他に結婚式場ができる宴会場もあります。
そのエルシーから、割引アルコール飲み放題のビアパーティー券が『お得意さん』と云う事でしょうか、送られて来たのです。
早速、ビール好きの男性4人と女性4人の8人で出かける事にしたのです。
予約をしていた日は、生憎(あいにく)朝からかなりの強い雨が降っていたので、屋上でのビアパーティーは、残念だけれど中止かな?とも思っていたのです。
当日午後6時半になっても、中止の連絡が入らなかったので、兎も角、行くだけ行って見ようと言うことになり、雨の降る中、傘をさして出かけてみました。
屋上に上がってみると、ビアパーティー会場はネオンの煌びやかな下に、きちんと設営されていました。
知らなかったのですが、会場は開閉の出来るガラスの天井でしたので、雨粒の一滴も落ちてきません。
却って、暑くもなく寒くもなく、ビアガーデンを開催するには絶好の環境が整っていたのです。
会場もサラリーマンのグループや若い女性のグループで大入り満員。
皆さん、楽しそうに談笑しながらジャンジャン、ビールを飲んでいました。
我々も他のグループに負けてはならじと、乾杯!乾杯!と生ビールのジョッキを傾けたのでした。
小一時間程度たったところで、アトラクションのダンスが始まりました。
若い女性6〜7人が、フラダンス風の艶(あで)やかな格好で、お客の間に入って来て、微笑みながら艶(なまめ)かしく踊りまくったのです。
残念でしたが、飲み放題の制限時間2時間は、アッと言う間に来てしまいました。
雨にも関わらず会場は大盛り上がり、皆さん日頃のストレス発散がおおいに出来たことでしょう。
会場全体は笑い声の渦の中、飲み足りない雰囲気をかもし出しているのです。お酒が強くて好きな人が世の中には大勢いるものだと感心しました。
酒好きの自分の事を棚にあげて感心している立場ではありませんね。
ビール好きの私とすれば、この夏にもう一度くらい、みんなでビアガーデンに飲みに行ってみたいです。
あー、楽しかった!
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院長の独り言 399 ;友人のペルシャ絨毯

友人が自宅を新築したので、是非、見に来てくれと、お誘いがかかりました。
新しい応接間には、素晴らしい絨毯が誇らしげに敷いてありました。
『すごいですね!素晴らしい!ペルシャですか?』
『トルコ絨毯で、車一台分かかりました』
確かにトルコの絨毯はペルシャに匹敵する素晴らしい芸術品です。
私は絨毯と言えば、何と言ってもペルシャ絨毯が世界一だと思っていました。
ペルシャ絨毯は、ヨーロッパでも、アメリカでも、日本でも、昔からその人気は大変なものです。
私も絨毯を買うなら、ペルシャ絨毯以外無いと思っているのですが、6帖程度の大きさでも、大変、高額なので、デパートの家具売り場に展示してあるペルシャ絨毯を目で楽しんでいました。
トルコ絨毯も高いのでビックリです。
ところで、ペルシャ絨毯は、庭園をイメージして織っているのをご存知でしたか?
そんなこと分かり切った事だとお叱りを受けそうです。
勿論、ペルシャ絨毯でも、ラクダ、鹿、ライオン、オウムなどの柄がありますが、庭園のデザインが、何と言っても、圧倒的です。
しかし、庭園に、花や草木が幾何学的に織り込んでいる絨毯が九割でしょう。
何故、庭園のデザインが圧倒的に多いのかと言うと、思うに、イランは我が国と異なり、砂漠地帯で植物が育ち難いのでしょう。
日本のように簡単に庭に草花と云う訳にはいきません。
日本人が考えているよりズーッと花や木に対してイランの人は夢があり、関心があるのではないでしょうか。
日本では、花や木々が一年中あります。
植物は、我々の周りに、当たり前に存在するので、植物を絨毯のデザインにしようと云う発想が、あまり出てこないのかも知れません。
花や木を見たければ、日本では苦労して絨毯にする必要がありません。
簡単に、庭に植えたり、花瓶に生ければ良いのですから。
イランの人には申し訳ありませんが、却って、鳥取の砂丘に出かけて見てみたい気がします。
イランでは、何しろ絨毯の生産は千年以上の歴史があるそうですから、その完成度は大変なものです。
テレビなどでよく見ますが、イランの女性が大きな絨毯を織り込んでいる手つきには、感心と驚きのひと言です。
友人の高価なトルコ絨毯を見せつけられた以上、いつかは素晴らしいペルシャ絨毯を探して、是非、手に入れたいと思っています。
無理かな…

院長の独り言 398 ; 嶋田さんと川添さん、本当に今まで有り難う!

受付の嶋田さんと歯科衛生士の川添さんが、6月29日をもって退職しました。
つい数ヶ月前に、歯科衛生士の蓮実さんが退職したばかりなので、いっぺんに三人もの仲間がここ数ヶ月の間に当歯科医院を去りました。
そして、新しいスタッフ3人が入社してきました。
退職した3人は、真面目で一生懸命に仕事をしていましたし、患者さんからもたいへん信頼されていたので、私としても本当に残念です。
退職が重なってしまいましたが、それぞれ家庭の事情があるので仕方がありません。
スタッフ全員の努力の結果、新旧の引き継ぎは、患者さんに迷惑が出ないように何とか継続中です。
3ヶ月間の、充分な引き継ぎ期間を取ってくれたので、退職した3人には本当に感謝しています。
新人3人も、元気溌剌(はつらつ)誠実な人柄なので、直ぐ患者さんに頼りにされるものと思って安心しています。
40年間も開業していると、出会いと別れが何度、あったことでしょうか。
その都度、緊張したり、悲しい思いもしてきました。
残ったスタッフと新しく入った仲間とで、今まで通り、患者さんにしっかりした医療を提供するように頑張るのみです。
6人の歓送迎会は、八王子の高尾山の麓にある老舗の和風料亭『うかい竹亭』で、和気藹々(あいあい)執り行いました。
石川歯科医院では、2〜3年に一度、ホタルを鑑賞しながら慰労会をこの『うかい竹亭』で楽しんでいます。
大きな庭園に、沢山のホタルが放たれるのは、毎年7月一日からです。
それは、それは、見事なホタルの乱舞を見る事が出来ます。
今年は残念ながら、ホタルを観賞する事が出来ませんでした。
ホタル観賞のお客さんが多いので、予約をとるのがなかなか難しく、残念ですが歓送迎会が6月29日になってしまったからです。
当日、シャンパンで乾杯した後、和風の食事を頂きながら色々な話題に花咲かせたのです。
去る人。
来たる人。
現スタッフ全員、旧知の友のようになり、たいへん盛り上がった歓送迎会になりました。
新しい人を含めて、石川歯科医院を今まで通り、患者さんに信頼される歯科医院にしたいと願ってやみません。

院長の独り言 397 ; 負けたら、やっていないことも認めるべきなのか?

30年以上前から、ウチの歯科に一家で診療に来て頂いているIさん。
Iさんから、ブログをまとめた私の本がたいへん『面白い!』とお褒めの言葉を頂きました。
Iさんは85歳、私より丁度、10歳年上です。
小生は6歳で終戦を向かえました。
本当にヒモジイ思いをした事や東京が焼け野原になった事は、今でも鮮明に記憶しています。
ところが、16歳で終戦を向かえたIさんの記憶は、それどころではなかったそうです。
やっぱり、10歳の差は大きいようです。
Iさんの一番思い出したくない事は、あちこちで死体の山を見た事だそうです。
それも尋常ではない死体の数、今でも夢に出て来て、うなされてしまうそうです。
また、勤労奉仕活動もたいへん『キツかった..』そうです。
『先生は小さ過ぎて、戦争の、地獄のような恐ろしい現実を分からなかったのでしょう』と独り言のように仰る。
『10歳ほど年上の自分から思うと、ブログに書かれている戦争中の話は、たいへん甘い!』そうです。
そう言えば、私の親父も、戦争の経過や被害については、戦後、殆ど話たがらなかったのです。
あまりに辛い経験なので、口に出すのも憚(はばか)ったのでしょう。
ところが、戦争自体に関しては、完全否定していたオヤジでしたが、不思議と兵隊さんの悪口は言いませんでした。
却って、兵隊さんに感謝していました。
兵隊さんは、防空壕の造り方や消火訓練などを、本当に丁寧且つ優しく指導して呉れたし、一般市民にたいへん気を使って呉れていたそうです。
いま問題になっている、中国や韓国での戦時中の出来事で、当時の日本の兵隊さんと、現地の子供達や大人達が、ニコニコ兵隊さんを囲んで接している写真が沢山残っています。
また現地での人口など、日本の兵隊さんが駐留した地域では、むしろ増えているのです。
とても戦争している雰囲気とは思えません。
日本人の兵士と、本当に親密に接している現地の人達の写真を観ると、そのような出来事など、全く有り得なかったのではないかと考える訳です。
しっかりと調査して下さい。
もし今、中国や韓国から指摘されている諸事件が間違いだとしたら、汚名をきせられた兵隊さんと、未来の子供達が本当に可哀想ですよ…。
あなた達の孫や子供も、その犠牲者になるのですよ。
人間同士の殺し合いは、どんな理由があっても、許されるべきではありませんが、当時、特派員たちが沢山、現地で写した写真のように、現地の人達と兵隊さんが、仲良くしていたのが事実であったとしたら、汚名をきせられて、本当に日本人として悲しいですね。
靖国神社の遊就館に、是非、この夏、行って観て来て下さい。

院長の独り言 396 ; 悲しい浮き世

最近、親が子供を殺(あや)める事件が、後を絶ちません。
また、逆に子供の親殺しがテレビのニュースに流れてきます。
親子間の尊属殺人ほど、悲惨この上ない出来事は無いでしょう。
本当は子育てほど、楽しく生き甲斐を感じる行為は、他に無いのではないでしょうか。
視線を動物の世界に転じて見てみると、意外にも、親が子供を殺したり、食べてしまうことが、結構、あるのです。
オスの北極熊が、子供を襲って食べてしまう話は、比較的に知られています。
母熊は、子育ての時期、子供を自分の傍から片時も離さず、敵から子供を守ります。
その敵とは父親なのですから、仰天(ぎょうてん)してしまいます。
その他、ウサギ、ネズミ、ワニなど、親が子供を殺したり、食べてしまう動物は数え上げれば切りがありません。
金魚は卵を孵したら、直ぐ別の水槽に移してしまわないと、みんな食べてしまいます。
人間は、全く違うと思い勝ちですが、人間も動物ですから、恐ろしい本能を秘めているのかも知れません…。
本能と云うより、考える葦である人間だからこそ、良からぬ考えをしてしまうのでしょうか。
いま問題になっている苛(いじ)めは、本能のなせる業(わざ)とは異なります。
人間以外にも、動物園の猿山を見ていると、いじめ行動が観察出来る場合があります。
多分、サルも、知能がある程度高いから、いじめが出来るのでしょうか(もしかすると苛めではないのかも)。
意地悪をして、快感を感じるにはかなりの知能が必要です。
しかし、良かれと思って、トンデモナイ行動に出るのは、人間以外の他の動物には見ることが出来ません。
心理学的には人間、精神的に追いつめられると昨日(7月7日)の事件、祖母が孫2人を手に懸けたように、他に考える余裕が無くなってしまいます。
他人からみれば、冷静になれば、解決する他の良い手段を見つけれるのに…と、同情してしまうのです。
しかし、このおばあさんにしてみれば、孫の為には、殺すしか方法が無いほど切羽詰まった状態だったのでしょう。
このような気持ちになるのは、人間だけでしょう。
毎日のように、世界のあちこちで殺人事件が後を絶ちません。
みんな、他に手段が無いと思って、やっているのでしょうか?
この世の地獄は、われわれの身近にもあるのです…

院長の独り言 395 ; 世界遺産 富士山の山開き

遅まきながら、富士山が世界遺産に登録されました。
富士山は遠くから眺めれば、間違い無く世界一 厳(おごそ)かで、素晴らしい容姿をした大山(たいざん)であると思います。
形も良いし、周りに山はないし(孤立山)、おまけに4000メートル近く有る堂々とした山です。
日本と言えば、『FUJIYAMAと何とか』と言われてきたくらい、昔から世界的に名の知れた名山です。
この霊峰は、遠くから見ても、勿論、素晴らしいのですが、近くで見ると、その大きさと美しさに圧倒されてしまいます。
特に薄暗くなってきて、暗闇に見える富士山は、荘厳を取り越して身震いするほどの怖い山に見えます。
昔から信仰の対象になるわけです。
嬉しいことに、天気のいい日は、ウチの診療所の屋上から霊峰富士を拝める事が出来るのです。
屋上から眺めると、先ず手前に高尾山の大杉が何本もかなりハッキリ観ることが出来ます。
その先に富士山が鎮座ましまして拝めるのです。
この7月から9月いっぱいは、雪がありませんが、他の月は、頂上付近が雪に覆われた、神々しい霊峰を屋上からたっぷり堪能出来ます。
随分前から、山道などが登山する人の落とすゴミなどで、かなり汚れていると批判がありました。
その事が噂になって、なかなか世界遺産に推薦されないのだと噂されていました。
この霊峰富士が、世界遺産に登録されてないなんて、有り得ないと日本人のだれしもが思っていました。
世界中の一人でも、多くの人に富士山の素晴らしい姿を『是非、見てもらいたい!』と思っているのです。
地元の人やボランテイアのたいへんな努力によって、近年、かなり山道が綺麗になってきたようです。
富士山は、遠く伊勢湾からも空気の澄んだ晴れた日には見る事が出来るそうです。
『富士見町』が、東京をはじめ、横浜、名古屋など如何に多くの地域に存在しているか、考えただけでも、富士山に対する日本人の憧憬の深さを感じてしまいます。
近年、この霊峰富士が大噴火するのではないかと言われるようになって、久しい時間が過ぎています。
富士山が無くなってしまった景色なんか、ほんの少しでも想像したくないのです、私とすれば。

院長の独り言 394 ; 日照りに不作なし

『日照りに不作無し』と言われるようになってから、随分、年月が経っています。
江戸時代、日照りは農作物の致命的な不作の原因でした。
お米が一番大切なのは、今も昔も同じです。
何とか、米が不作にならないように、日照りを克服するように、農民が必死に努力したのです。
簡単に言えば、灌漑設備を徹底的に整備をすることが、日照りに勝つ方法でした。
現在、日本全国に灌漑設備が完備しています。
その結果、最初に書いたように『日照りに不作無し』になったのです。
勿論、お米の事ですが。
梅雨の季節でも、昔は適度の雨が大切でしたが、現在は空梅雨の方が、お米は豊作になります。
5月から6月にかけて、今年は全国的に雨が降りませんでした。
テレビや新聞で雨が『降らない、降らない』と心配していました。
しかし、小生とすれば、逆に今年はお米が大豊作になると、内心ホッとしていたのです。
ところが、ここにきて、空梅雨どころか全国的、とくに九州や四国、中国、関西地方は近来に無い大雨の毎日です。
この状態が長引くと、今年はお米を中心に農作物は不作になりそうな様相を呈してきました。
勿論、何事も極端な状態はあまり良くありません。
梅雨は適度の降雨が一番いいのですが、雨が多く降るよりは空梅雨の方が稲作にとってはズットましであると言う事です。
日本の気候自体はこの頃よく言われるように、亜熱帯に近い気候になってきているのだそうです。
我が国本来の果物など、例えばリンゴやサクランボなどは温帯気候に適している果物です。
要は温帯に適している野菜や果物にとっては、気温が適さなくなってきているのです。
代わりと言っては何ですが、マンゴーなどの熱帯地方に適している果物が幅を利かすようになってきてしまいました。
気候的に日本は、何十万年も前に戻ってしまったのでしょうか。
象やライオンやゴリラが大喜びするのではないでしょうか。
勿論、動物園での話ですが…。

院長の独り言 393 ; 誕生日で75歳!

6月は、私の生まれた月です。
昭和13年の生まれですから、75歳になった事になります。
よくぞ今日まで、大きな病気もせずに生きて来れたと神に感謝してしまいます。
昭和13年と云うと日中戦争の最中で、世の中、緊張状態。
大変な時に誕生しました。
私が3歳になると、両親が普段の緊張した顔より、何倍もの強い緊張状態になってきました。
いくら幼児でも、何か大変な事態になっていると本能的に察知したものです。
母親は普段、いつも着物姿でした。
しかし、気がついた時は、近所のおばさん達も勿論、母親や女性と云う女性はみんな『もんぺい姿』でした。
スカートの女性は、全くと言っていいほど姿を消しました。
男性はというと、簡単な作業用軍服を着ていました。
それから一年経つか経ないうちに、両親は防空壕を作ったり、バケツリレーで消火訓練をやり出しました。
『米英鬼畜を倒せ!』と云うスローガンのもと、戦争は中国から東南アジアに広がっていき、ついにアメリカとの戦いにエスカレートしていったのです。
いくら神風が味方しても、巷ではアメリカには勝てないと噂されていたのです。
結果、東京は焼け野原になり、広島、長崎は人道的にも許されない原子爆弾の被害にあったのでした。
沖縄をなんとか死守しようと戦艦大和を出動させましたが、徒労に終わってしまいました。
敵艦に対する零戦(ゼロ戦)による、決死の体当たり(特攻隊)も、沖縄を守るための手段であった事は当時の記録を読めば明らかです。
大和といい、零戦といい、必死に沖縄を守ろうとしたのですが、皆さんご存知の如く、あまりの軍事力の差は如何ともしがたく、沖縄も焼け野原にされてしまいました。
敗戦の時、自分は6歳、疎開先は岐阜県の中津川でした。
東京に戻って来て本当に驚きました。
親に買い物がてら連れて行ってもらった華やかな銀座が、全くの焼け野原になっていたのを目の当たりにした時は、戦争の悲惨さを感ぜずにはいられませんでした。
よくぞここまで日本は復興してきたものだと、今更ながら日本国民の頑張りに驚嘆してしまいます。
また、ヨーロッパ諸国の植民地だったアジアの国々全てが、多大な犠牲によって解放され、それは日本にとって唯一の救いだと思います。

院長の独り言 392 ; 家庭菜園

医院の屋上に、大地震に備えて野菜菜園でも作ろうかと思っています。
世の中、家庭菜園が流行(はや)っているので、肖(あやか)ってみようかとも考えたのです。
マンション住まいの人も、近所の農家で土地を借りて、一家で野菜や花作りを楽しんでいます。
借り賃は安いので、かなり多い人が利用しているそうです。
4~5人の家族で食べる野菜は、野菜作りを楽しみながら、自前で調達。
こんな効率的な趣味は他にはなかなか無いものです。
おまけに、子供の為の素晴らしい教育になります。
勿論、庭付きの家に住んでいる人は、自宅の庭で野菜が作れます。
亡くなりましたが、私の両親は、庭の一部で野菜作りを楽しんでいました。
私もたまに実家に遊びに行った時に、作ったトマトや茄子などを『食べろ!食べろ!』と上機嫌に薦められました。  
家庭菜園をやっている人は分かっていることですが、意外に小さな場所で、十分に沢山、しかも結構早く、トマトや茄子などが収穫出来るのです。
野菜作りの経験のない人が想像する以上に大量の収穫が容易(たやす)く出来てしまいます。
ビックリするほど収穫があるので、オヤジは初めのうちは意気揚々、仲のよい友達などに得意になって、野菜作りの腕を自慢して、茄子などをプレゼントしていました。
オヤジは、野良仕事が戦時中の勤労奉仕以来なので、農業はド素人なのに大豊作。
自分の野菜作りは天才的に上手いのかと、内心、悦にいっているオヤジの顔を思い出します。
しかし、あまりにも簡単に、野菜が大量収穫出来てしまうので、勿体ない話ですが、野菜作りに飽きていきます。
案の定、オヤジも、野菜の種類をサツマイモやカボチャに変えてしまいました。
ナスやトマトと比べて、収穫までに時間がかかるのが良いそうです。
松茸狩りが楽しいのは、たまにしか見付ける事が出来ないから面白いのでしょう。
そう言えば、私の子供が小さい頃、自宅の近くに一家で梨狩りに行ったところ、直ぐに籠一杯取れてしまい、二度と梨狩りには行きませんでした。
あまり短時間で沢山取れてしまうと、梨狩りもたいして面白くないと家中みんなで話しました。
生涯のパートナーを見つける時だって、同じでしょう。

コンサートに行ってきました。

石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。
6/2(日)に「FUNKY MONKEY BABYS」という音楽グループのコンサートに東京ドームまで行ってきました。
FUNKY MONKEY BABYS(略してファンモン)とは八王子出身の三人組の歌手で、八王子の商店街などから応援されていて、八王子の街を歩いているといたるところで曲が流れていたり、ポスターを見かけたりします。
紅白歌合戦にも4年連続で出場しています。
八王子に勤めてファンモンに触れ合うことで、だんだん好きになりCDを聴くようになっていきました。
テレビなどでも大きく報道されていたのでご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、残念ながらファンモンは6/2で解散することになってしまったため、今回行ったのは解散コンサートでした。
最初で最後のコンサートになってしまいましたが、知り合いの方に誘っていただき、最後に行くことができてほんとによかったです。
コンサートに行った感想は、会場の一体感がものすごく、今まで行った他のコンサートのどれよりも楽しかったです。
八王子からまたファンモンのようなグループが出てきて、八王子を盛り上げていってほしいと思います。

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院長の独り言 391 ; いまどきのこども心

私から見ると、今時の小学生は、オマセの子供が多いのでビックリさせられます。
小学生の頃を振り返ってみると、私自身、本当に幼稚っぽかったものです。
勿論、私だけではなく、まわりの男の子も、女の子も、無邪気そのものでした。
学校の勉強を復習する以外、先ず自宅にいる事など、ほとんど自分はありませんでした。
外で遊び呆けていたのです。
夏休みの宿題と言えば、絵日記と簡単な自由課題。
例えば、昆虫の標本作りなどでした。
本当の意味で『夏休みは長期休暇!』のようなものだったのです。
塾は無かったし、夏休みに勉強をした思い出など、全く皆無です。
だから、遊びの思い出には、キリがありません。
殆ど毎日、通っていたプールで、15メートル潜水が出来るようになって、本当に嬉しかった事。
夏祭りで御神輿を担いで、水をジャンジャン浴びて気が遠くなって失神しそうになった事。
スイカ割りでトンデモナイ方向に行って、大笑いされたなど…。
小さな事柄でも、直ぐに思い出しまいます。
極端に言えば、私の子供時代は、夏はただ、みな子供だけで遊んでいれば良かったのです。
確かに今の子供達は、経済的には、私の子供時代と比較すれば、話すのも嫌になるほど恵まれています。
自分は貧乏暮らしの経験があるので、今時と比較して、『今の子供達はあらゆる面で恵まれている』と思えるのです。
今の子供達は、この豊かな生活が当たり前だと思っているでしょうから、別に自分達が恵まれていると云う実感は無いし、精神的にテレビなどから、大人の影響を受け易いので、子供らしさが希薄になるのではないでしょうか。
そして、塾通いや習い事で遊ぶ暇も無くて、気の毒ですね。
子供も色々と親に手をかけて貰っているので、親に大事にされるのが当たり前だと思っていることでしょう。
多分、子供達は親が思っているほど、親に感謝はしていないと思います。
かえって、われわれの子供時代は、食べるものでも、着るものでも、貧しいものでしたが、それでも親に感謝している人が多いようです。
『自分が稼げるようになったら、先ず親孝行をしよう!』と思って、頑張っていた当時の子供は、男女を問わず大勢いたような気がします。
人間の心は、不思議ですね。

院長の独り言 390 ; かつて街角に映画館があった…

小学生の頃まで、テレビが無かったので、画像で楽しむ娯楽と言えば映画観賞だけでした。
当時、芝居小屋を少し大きくした大衆的な映画館が、町のアチコチに在ったのです。
2~3週に1回、出し物が頻繁に変わります。
ほとんどの出し物は、チャンバラ時代劇の勧善懲悪か、サスペンスか探偵物、あるいは単純な恋愛ものでした。
大人が見ても、子供が見ても、害にならない様な映画が多かったのです。
要するに、紙芝居の延長みたいなものでした。
勿論、新宿や銀座などの都心には、高級な映画館がありました。
そこではヨーロッパやアメリカの最新の外国映画や、邦画でも話題の作品が上映されていました。
われわれ庶民は、近所の映画館でチャンバラ映画を楽しんでいました。
映画館の通路まで観客でゴッタガイして、チャンバラがはじまると、老いも若きも、大喝采!
主人公が貧しさに負けそうになる場面では、場内シーンとして、涙を流しました。
料金が安かったので、おばさんや子供達が一杯、見に来ていて、いつも満員でした。
大衆映画館は大いにペイしていたのだと、当時を振り返ってみて思うのです。
ところが気がついたら、大衆映画館が一つ消え、また一つ消え…といった具合で、いつの間にか、わが街から映画館が無くなってしまったのです。
丁度、銭湯が消えていったように、街角から大衆映画館が姿を消していきました。
映画館が消えていくのに反比例して、どこのウチにもテレビが置かれるようになったのです。
テレビが売り出された当時、本当に半端じゃないほどの高額でした。
14インチの白黒テレビが、当時5 0万円以上もしたのです。
ところが短期間で、テレビの値段がドンドン下がっていき、その結果、爆発的にテレビが日本中で売れだしたのです。
どのような仕組みで、映像が各家庭に飛び込んでくるのか、われわれ子供達にとっては手品を見ているようで、ただただビックリしながらテレビにカブリついていました。
駅前広場に設置してあったテレビでは、力道山とシャープ兄弟の対戦したプロレス番組に、会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生で黒山の人だかりでしたが、その光景も綺麗に無くなりました…。
時代の変化に飲まれた映画は、テレビに完敗してしまいました。
そして悲しい哉、街の大衆映画館が復活することは、二度と無いでしょう。
紙芝居を見るように、センベイをぽりぽり食べながら、白黒のチャンバラ映画を見ていた小学生のころが懐かしく思い出されるのでした。

院長の独り言 389 ; 宇宙を知る楽しさ

大好きな宇宙のことを考えていると、夢があって本当に楽しいです。
宇宙は無限に大きいし謎だらけなので考えると、いつもの事ですが、頭がおかしくなりそうになります。
われわれ、太陽は東の地平線から顔を出して、西に沈むものと、当たり前の事実として受け入れています。
勿論、北半球での話ですが。
毎日、繰り返していますが、何故そのように規則的に東から西に移動しているのか不思議と言えば不思議です。
地球は右回りなのか、左回りなのか、皆さんどちらだと思いますか?
答えは、どちらとも言えないと云うか、どちらも正解と言えば正解なのです。
北半球では、地球は反時計回りですから、右回りと言うことになります。
南半球では、左回りが正解です。
また、宇宙は膨張していると言われていますが、何故、膨張しているのか、全く分かっていません。
どう云う力が働いて膨張しているのか全く想像もつかないのです。
よく言われている『ビックバン説』も、疑問に思っている天文学者は多いのです。
色々な説はありますが、今のところ想像の域を出ていないと云うところです。
近代科学の進歩した現在、何でも解決出来ているように思います。
しかし、実は自然科学、特に宇宙の分野では未解決な事例だらけです。
謎だらけの世界ですから、研究する者にとっては、楽しくて仕様がないでしょう。
宇宙で何か事件が起こると、過去に起きた事例を参考にしながら、想像の世界のなかで色々考察するのです。
他の分野とは大分違います。
過去の事例を参考に考察するだけなので、正確な答えは無きに等しいのです。色々な宇宙の映画を見れば分かるように漫画の世界です。
それでも、観客は真剣に興味をもって見ています。
宇宙は謎の世界。
どうして、こんな宇宙が存在しているのか摩訶不思議です。
手の届かない宇宙については想像するだけです。
そう言った事なので、小生とすれば、自分だけで何でも想像して楽しめる宇宙が大好きなのです。
勿論、多くの天文学者の本は読んでのことですが。
結論を言えば、宇宙に関しては、専門家の常識的な意見より、突飛な意見を言う小中学生や素人の意見の方が面白いと言えば面白いものですよ。

院長の独り言 388 ; オヤジのスキー嫌い

小学生の頃から、自分はスポーツ大好き少年でした。
以前のブログで触れた野球をはじめ、水泳、サッカー、バスケ、バレーなど、色々なスポーツをしてみました。
下手の横好きですが…。
ウィンタースポーツのスケートは、一年を通して、後楽園アイススケート場でもやっていましたし、冬は榛名湖や野尻湖で滑った事もあります。
ところが、冬のスポーツの王様、スキーだけはやっていません。
理由は、オヤジから強烈にスキーを禁止されていたからです。
大学時代の冬休みに、スキーをなんとか覚えたくて仕方がなく、『バイトで貯めたお金で、友達と滑りに行くのだからかまわないだろう?』と、オヤジに相談したのですが、結局、オヤジはを縦に振りませんでした…。
もう大人なので、何もオヤジにスキーをやる、やらないなど、聞かなくてもよかったのですが、オヤジは何故、スキーを毛嫌いしているのか、その理由を聞いてみたのです。
ところが、オヤジは変に口が堅く、ただ『スキーはやるな!』の一点張りでした。
結局、大学時代はスキーをやらずじまいで過ぎてしまいました。
卒業した後に、臨床系の大学院に入学したのですが、その入局した教室は教授をはじめ、殆どの医局員が冬になるとスキーを楽しんでいたのです。
何しろ、恩師である教授は、スキーの本場である、豪雪地帯で有名な新潟県浦佐の出身です。
実は、オヤジも新潟県の出なのです。
それなのにスキーが嫌いとは、どう云う理由なのか全く謎でした。
いつの年だか忘れてしまいましたが、宮城の蔵王に、医局のスキー大好きグループが滑りに行った時のことです。
その時に、全く一度もスキーの経験のない私も、強引に連れて行かされたのです。
自分では運動神経が良い方だと思っていたので、何とかなるとタカを括ってついて行きました。
スキーの道具を持っていなかったので一旦は断ったのですが、先輩が『貸しスキーがあるから大丈夫だ!』と、なかば強引に連れて行かれてしまいました。
スキー前夜は、例によって、本場の日本酒で宴会です。
みんな大いに飲んだのは云うまでもありません。
自分はスキーをやる事に躊躇していたのですが、みんなが『30 度程度の傾斜だったら、初心者向きだから…』 と、たいしたことはないと笑っていたのです。
翌日、ゲレンデに初めて立ったのですが、オーバーでなく崖っぷちに立たされた気分でした。
30度なんか緩い坂だと思っていましたが、とんでもない嘘だ、騙されたと思ったのです。
あまりの急坂に呆然として立ち尽くしていた私の背中を、先輩に『ドン』と押されてしまいました。
滑ると言うより、私は悲鳴を上げて、ゲレンデを転げ落ちたのでした。
幸い、距離は短かったので、ケガをしないですみました。
これが自分としては、スキーの初めての経験でした。
後で分かった事ですが、崖の上に立ったと思ったのですが、間違い無く傾斜は30度でした。
それを切っ掛けに、結構、スキーを楽しむようになったのです。
オヤジは若い頃、スキー大好き人間で、腕はたいしたものだったそうですが、ある時、甘く見て、死ぬ思いをしたのだそうです。
それで、足にひどい複雑骨折をしてしまい、それ以来、季節の変わり目になるとかなり痛みが出たそうです。
オヤジは、複雑骨折を切っ掛けに、スキー大嫌い男になったのでした。

院長の独り言 387 ; 長嶋茂雄氏の国民栄誉賞

長嶋茂雄氏(以下、敬称略)に国民栄誉賞を授与したニュースが、連日、新聞やテレビニュースで大きく取り上げられています。
丁度、大学生の頃に、長嶋はプロ野球界にデビューしました。
それも、自分の贔屓(ひいき)にしていた巨人からのデビューです。
小学生の頃、休みの日は朝から晩まで、近所の友達と草野球を熱心にやっていたくらい、自分は野球が大好きでした。
プロ野球が、まだそれほどファン以外に知れ渡ってない頃から、私は巨人ファンでした。
自分は左利きなので、赤バットで有名な左打者川上哲治氏の真似をして、バットを振り回していた幼い頃の姿が脳裏を掠(かすめ)ます。
当時はプロ野球より、東京六大学野球の方が遥かに人気でした。
特に早慶戦の切符は、先ず手に入れる事が不可能なくらいの人気だったのです。
それが長嶋のプロ入りによって、人気がプロ野球に移行したのです。
驚くほどに劇的交代でした。
日本のプロ野球を面白くした第一人者は長嶋茂雄です。
まず長嶋のデビューも鮮烈でした。
あのカネやんこと、金田正一氏に、四打席連続三振にされたのです。
しかし試合後、400勝投手の怪物金田は顔をこわばらせ、『あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった…』と述べたそうです。
何にしろ、それまでの野球選手はグランドでも大人しいのです。
ところが、長嶋はグランドで三塁の守備についている時も、ベンチにいる時でさえ、常に大きな声を張り上げているのです。
私はそのプレー振りを見ていて、野球に対する考えが一変しました。
自分の中では、今までの静かなスポーツから、野球が感動的で躍動的なスポーツとなったのです。
それまでは、野球はサッカーやバスケットボール、あるいはバレーボールと違い、ピッチャーが中心の『静』のスポーツだと私は思っていたのです。
しかし、長嶋の出現で、躍動の『動』のスポーツだと認識が改まったのです。
その上、長嶋がチャンスにも滅法強いのにビックリさせられました。
昭和34年6月25日の天覧試合で、サヨナラホームランを放ったのは有名です。
こんなに守備や打撃が面白い野球に変身させた男は長嶋です。
野球選手で国民栄誉賞を最初に貰うとすれば、長嶋以外には考えられなかったのです、私とすれば。
ところが、国民栄誉賞授与は王、衣笠選手に先を越されてしまい、本当にガッカリしてしまいました。
勿論、王も衣笠も大選手です。
しかし自分としては、長嶋選手がプロ野球選手ではナンバーワンなのです。
何はともあれ、松井選手と一緒でしたが、国民栄誉賞を授与されて良かったと云うかほっとしています。

院長の独り言 386 ; 連休明けの嵐

ゴールデンウィークの長い休みも終わりました。
今日(5月7日)から仕事です。
都合で五日間も休診にしてしまったので、当然と云うか案の定、急患の電話が朝から鳴りっぱなしです。
待たせた患者さんには、本当に申し訳なかったのですが、皆さん、文句も言わずに待って頂いて恐縮しています。
アベノミクスの影響かも知れませんが、連休中、家内と娘と一緒に、一日だけ銀座に食事がてら、買い物に出かけました。
かなりの人が『銀ブラ』を楽しみ、買い物に来ていました。
普段の休日より、明らかに混雑しています。
このまま景気が上向きになると良いのですが…。
連休明けの朝ミーティングでは、気を引き締め治療に励もうと、スタッフ一同にハッパをかけて、自分自身にも気合いを入れたのです。
午前の治療が無事に終わって、医局に戻り、テレビをつけたところ、午前の株価が大きく上がったとアナウンサーが報告していました。
今日は朝からかなり強い風が吹いていて、ガラス窓をガタガタさせています。
何となく風雲急を告げているかのようです。
日本経済全体が本日の株価上昇のように、良い方に進んで行けばと願っているのですが…。
如何なものでしょう?
それにしても、今日は大風。
昨日、関東の群馬県では31度と云う真夏日なのに、北海道の帯広では大雪です。
日本経済も、こんな気候のように、狂わなければ良いのですが、列島の気候がおかしな感じです。
つい数日前は、八王子でも寒く感じていましたが、連休最後の6日は、25度を超えた夏日でした。
どうか神様!
あまり日本を苛(いじ)めないで下さい!

院長の独り言 385 ; 休日あれこれ

週休二日制になって、もう何年になるのでしょうか?
私が大学に勤務していた時(公務員の時)、休みは週一回の日曜日だけでした。
その頃、公務員だけは土曜日を『半ドン』と言って、働くのが午前だけで午後は休みとなり、日曜日と合わせて、週一日半が公務員の休みでした。
サラリーマンも半ドンの人がいましたが、いま思い出すに、土曜マルマル一日、働いている人の方が多かったように思います。
『半ドン』の意味は、明治から『土曜の正午になると空砲を打つことから半ドンと言う』と幼い頃から、オヤジに聞かされていました。
『半ドン』は役人(現在の公務員)の特権のようなものでした。
私が大学教官になった頃は、戦後すぐと言う事もあって、誰もが必死に働かざるを得なかったので、別に半ドン制が法律で決まっていた訳ではなく、一般の会社員は土曜日マル一日働いていたのです。
随分、昔から公務員は色々な面で恵まれていたようです。
親父の口癖は、『なるべく公務員になりなさい!』でした(ちなみに親父も公務員でした)。
ただいま、ゴールデンウィーク(黄金週間)真っ直中です。
長期の休みをみなさん、旅行や趣味でさぞかし楽しく過ごしていることと思います。
ゴールデンウィークの名称の由来は昭和26年に、映画会社松竹の後塵をつねに拝していた大映が何とか頑張った結果、5月祝日(憲法記念日と子供の日)に大変な興行売り上げ記録を作ったのが切っ掛けで、世間に広がったのです。
2005年の祝日法改正により、振り替え休日、すなわち日曜日と重なった祝日は、翌日の月曜日に休日を振り替えることになり、連休になったのです。
本当に4月末から5月はじめが、ゴールデンウィークになった瞬間でした。
今年は丁度、半分に休日がブッタ切られましたが、年によっては、連続10日以上の連休になる場合もあります。
ヨーロッパやアメリカなど、遠方の海外旅行を楽しめるようになったのです、財布の中身と相談しての事ですが…。
結局、今年は長期休みを取れそうもないし、円安傾向でもあるので、外国に行くのはシンドイので、家に籠(こも)って読書三昧といきますか。

院長の独り言 384 ; 富浦海岸の海水浴

大学2年の夏休み、友人5人とサザエを取りに、千葉の富浦海岸に行った時の話です。
今から50年以上前の、むかし話です。
当時は、漁業権など無かったので、素人でも魚貝類を自由に採って良かったのです。
この海岸は一応、海水浴場でしたが、岩場が多く、しかも直ぐに深みにつながり遠浅ではなかったので、子供がいる家族の海水浴場としては、少々不向きでした。
盛夏でも、家族連れの一般の海水浴客は殆ど見受けられず、閑散としていました。
地元の人が大切に、楽しんでいた海岸でした。
砂浜を少し歩いていると、あちこちに岩場が存在するのです。
その岩場の、水深3メートルくらいにある岩と岩の間を、用心深くサザエを探して泳ぐのです。
当時は別にたいした事では無かったのですが、今から思うと、随分、大きくて立派なサザエが採れたものです。
とれたての大きなサザエを刺身にしたり、醤油や日本酒をかけて、網焼きにして食しました。
その美味しいこと…。
私にとってみれば、臨海学校の本場の伊豆より、よっぽど富浦の方が楽しめる海岸でした。
海岸から500メートルほどの沖に、碁盤島(ごばんじま)と云う真四角な島がありました。
島というより岩場ですが、丁度、海岸から一気に泳いで行ける格好な距離なのです。
その碁盤島周囲の垂直に切り立った海に潜っていくと、南国の珊瑚礁を眺めるようでした。
海藻の森を、鮮やかな色をした色々な種類の魚が、ダンスをしているように泳いでおり、時折、その中を大型魚の影が横切るのです。
美しい海に囲まれている日本に住んでいる我々は、本当に幸せものだと、つくづく感じるひと時でした。
東京から目と鼻の先なのに、大自然の趣(おもむき)を味わえる、この素晴らしい祖国を、心から愛おしいと思うのです。
帰りにお土産として、富浦名産のアジの開きを買いました。
当時、いくら物価が安いとは言え、同じアジを東京で買えば、開き一尾100 円であったと思いますが、富浦では一尾5餞!
あまりの安さにビックリ仰天しました…。
帰っておふくろに『5餞だよ!』と言ったら、5千円と勘違いして、あまりに高額なのに驚いて、口をあんぐりしていましたが、5餞だと分かって、またまた目を白黒しました。
楽しい思い出です。

院長の独り言 383 ; 眼鏡なしでは…

私は小学生の頃から、視力が良いことを自慢にしていました。
ハイキングに行っても、遠くの遠くの山並みや草に隠れている昆虫を、友達が驚くほどよく見えていました。
大学生になっても、左右の両眼とも視力は2.5でした。
自動車免許の検査でも、係官に『目がいいね〜』と感心されたくらいでした。
歯科医になってからは、目に負担となる、細かい仕事を要求されるので、少しずつ視力が落ちてきましたが、それでも50歳を過ぎても、視力1.5程度を保っていました。
勿論、メガネの世話などには、生まれてこのかた、一度もありませんでした。
ところが60歳を過ぎた頃から、患者さんを治療している時、患部が何となくぼやけて見えるようになってきたのです。
歯がぼやけて見えるのです。
見るものがぼやけるなんて、生まれて初めての経験です。
そして一生懸命、口の中の患部を見ようとすればするほど、ぼやけて見えてしまい、おまけに頭までがボーっとしてくるようになってしまいました。
『もしかすると、白内障か老人性遠視(つまり老眼)か!』
今までサングラス以外に眼鏡を一度も掛けたことがなかったので、心臓が止まるほどドキッとしたのです。
早速、老眼鏡を購入すべきかどうか、デパートの眼鏡売り場に相談に行ったのです。
もしかして、眼科に行って精密検査を受けなければいけない状態かも知れないと、内心、ドキドキしながらデパートに行きました。
大きな検眼機で、丹念に検査を受けた結果、『老眼鏡が必要ですね』と云う事になりました。
老眼鏡をかけてみると、自分で考えていたより、見る物がハッキリ見えるのには正直、驚いたのです。
もしかすると自分が思っていたより、随分前から、目が悪くなっていたのかも知れません。
もっと早く目の検査を受けて、メガネを掛けるべきだったと後悔しています。
歯の無い患者さんに『何故、もっと早く来院しなかったのですか?』などと言っていた自分が恥ずかしくなってしまいました…。
現在は、老眼鏡と親友の仲になっています。
愛用のメガネが無いと、治療はおろか、本や新聞も読めませんし、食事も美味しく食べられません。
ボケて見える食事は、実に不味く感じるのです。
食材がハッキリ見えてこそ、食事は美味しく食べられるものですね。

院長の独り言 382 ; 横浜の港で、サッパ釣りをしていた頃

皆さん『サッパ』と云う海水魚をご存知ですか。
お寿司屋さんに行くと必ずネタで置いてあるコハダ(このしろ)と瓜二つで、このコハダと見分けが付け難い魚、ママカリの別名が『サッパ』です。
コハダも、サッパも、ニシン目ニシン科に属します。
コハダは前述したように寿司のネタとして、全国各地のお寿司屋さんに置いてあるポピューラーな魚です。
サッパ、別名ママカリは、岡山地方だけで好んで食され、通(つう)の人以外には、あまり全国的には知る人はいません。
私が大学生の頃、ほんの一時期でしたが横浜に住んでいた事がありました。
丘の上にある公団住宅風の家でした。
家の窓から横浜港が霞んでしか見ることは出来ませんでしたが、下の住宅街を見下ろすようで、良い眺めを楽しんでいました。
横浜に住んでいた人には理解できるでしょうが、横浜は坂道が多く、丘の上の住宅が大変多いのです。
イタリーやスペインの街に少し似ているところがあります。
そのことが関係しているのか、どうか分かりませんが、昔から外人に人気のある街で、多くの西洋人が住んでいるのです。
横浜に住んでいる大学の同級生で、特に仲の良い友人がいます。
今でも親交が厚く、同じ職業な上に、ゴルフでは、お互い上手くはないけど一応、ライバルです。
その友人ですが、彼の幼い頃、彼の実家の直ぐ傍(そば)に絶好の釣り場の岸壁があるので、彼は釣りを趣味としていました。
小生が横浜に引っ越した関係上、休みの日など、二人でよく魚釣りをしに、夜霧にネオンが浮かぶ横浜港山下埠頭に行きました。
そして、夏の終わり頃になると、サッパ釣りに出かけていました。
サッパの釣り方は非常に簡単です。
殆どの人は、サッパ釣りなど興味がないでしょうから、釣り方なんかご存じないと察します。
要するに、釣り竿と針だけ用意すれば良いのです。
何しろ餌もいらないし、しかも入れ食いなのです。
サッパはジャンジャン釣れます。
直ぐにバケツ一杯になります。
バケツ一杯になると、みんな逃がしていました。
夏の終わりになると、今の横浜港では信じられないでしょうが、当時の山下埠頭には、殆どひとがいません。
今から50年も前は、本当に静かな港でした。
勿論、日曜日や祭日は、家族連れやアベックなどで、たくさんの人出がありましたけれど。
あの大学生の頃の横浜港岸壁を思い出すと、懐かしいと言うより胸がキュンとなってしまうのです。
当時の日本社会には、厳然として、貧困が存在していました。
それが頭の重しとなり、将来への漠然とした不安が、若い私を苛んでいました。
しかしサッパ釣りの時だけは、それらの雑念を忘れ、友人とひたすら釣りに没頭できました。
今の若い人も、同じような不安に苛まれている事でしょう。
そこで私からアドバイス。
まず目の前のやるべき事を、真面目に誠心込めて、周りの人たちと協力して、そして感謝して、成し遂げて下さい。
そうすれば、君らの未来は、決して暗くはないよ!
君らは、決して独りではない。

院長の独り言 381 ; 山高ければ 谷深し

安倍総理と黒田日銀総裁のコンビによる金融政策の効果が出てきて、もしかすると、ミニバブルに突入するかも知れません。
随分、昔になりますが、今から約30年前の昭和60年、私が47歳になり、八王子で歯科医院を開業して13年経ち、何となく精神的にも落ち着いてきた時なので、よく覚えています。
入れ歯や補綴物(クラウンやブリッジ)を制作する時に、『保険の安い材料ではなく、自由診療で良い材料を使い、見た目も良く、なるべく違和感の少ない補綴物を希望します!』と訴える患者さんが、右肩上がりに増えて来たのです。
世の中の景気がよくなってきたと、大いに実感しました。
若い人も、お年寄りも、何となく明るい感じが身体から発散してきました。
敗戦後、食べるだけで精一杯の世の中から、明るく浮き浮きし出したのです。
それから、一年、一年、経つごとに、景気がよくなり、その結果、JRや私鉄の駅前には大きなビルが、林立する状態になっていきました。
車も、トラックのような商業車以外に、乗用車が驚くほど増加していったのです。
車社会の到来です。
関東地方で云えば、『首都高速道路』や『第三京浜』が整備され、大動脈『東名』『名神』など、高速道路を中心に、全国で、一般道路も瞬く間に整っていきました。
一戸建ての住宅や高級マンションも飛ぶように売れていました。
ところが、景気が加熱していると判断した政府と日銀は、総量規制法を施行し、アッと言う間に景気が落ち込み、なかなか回復しないまま年月だけが過ぎて行ったのです…。
バブル崩壊と失われた20余年間です。
信じられない光景でしたが、バブル崩壊当時、東京駅のプラットホームにあがる階段に、キチッとしたネクタイを付けた背広姿の紳士が、何人も疲れた姿で座っていました。
全員が泊まる場所も無い、いわゆるホームレス状態のようでした。
察するに、借金が返せなくて、何処からか逃げて来ていたようでした。
バブルが弾けると、本当に悲惨な状態になるという悲しい風景を見せつけられ、
その時の茫然自失して、目つきのうつろになった紳士達の青い顔だけを思い出してしまいます。
今回のアベノミクスにより、ミニバブルが上手くいくように心から祈っています。
あのバブル崩壊を思い出し、『もし弾けたら…』と心配もしているのです。
曰く、山高ければ 谷深し…

院長の独り言 380 ; テレビショッピングの不思議

テレビショッピングを見ていて、いつも疑問に思う事があります。
先日、商品の説明役の男性と女性タレントが、新型掃除機を紹介しているところを偶然、見たのです。
軽くてゴミの吸い取りが、大手家電メーカーの売り出したばかりの新型掃除機よりズッと優れている、新しい掃除機を得意満面で紹介していました。
いつも大手の掃除機を最新の素晴らしい物だと思って買っているのに、より機能が優れている、軽くてゴミの吸い取りが良い掃除機を、今まで聞いたことの無い会社が紹介しているのです。
見ていると、是非、購入したくなるような掃除機です。
そして、その素晴らしい機能を持った掃除機は、テレビショッピング会社に直接、申し込まなければ購入出来ません。
小さな会社が作った、テレビで紹介している素晴らしい機能を備えた掃除機を、何故、大手メーカーは作れないのでしょうか?
大手メーカーなのに、無名メーカーの後塵を何故、拝すのでしょうか?
不思議でなりません…。
その他、料理用フライパンもそうですし、カーナビなど、数え上げれば切りがありません。
小さいメーカーより性能の悪い器具を、大手メーカーが何故、売り出しているのか本当に不思議です。
あらゆる家電などを売っている大きな販売店に行っても、テレビショッピングで売っている特別な便利なグッズは売っていません。
何か大手メーカーが便利な器具を売り出せないカラクリと云うか理由が有るのでしょうか?
他に、ダイヤモンドなど宝石類も、大きな有名百貨店と同じ様な物が、テレビショッピングで購入すれば、格段に安く手に入れることが出来ます。
これでは、デパートで宝石を買う人は、多分、いないのではないでしょうか?
背広も同じです。
それでも、デパートの宝石売り場や背広のコーナーは閉鎖していません。
いつも疑問に思っているのですが、何故でしょうね〜。

院長の独り言 379 ; トマトの食べ方あれこれ

自分が小中学生の頃、初夏になると毎日の朝食に、大きなトマトが出てきました。
六つ切りにされたトマトが、オヤジをはじめ、全員に一個ずつ出るのです。
トマトに塩を振りかけて食べるのですが、本当に美味しく感じ『夏が来たな〜』と身体の中からしみじみ感じていました。
現在、トマトは一年中、スパーの店頭に並んでいます。
便利は便利ですが、季節感が全く無くなってしまいました…。
今回のお話は、トマトの食べ方についてです。
大学の同級生、4人組と、千葉でゴルフを楽しんだ後、小腹が空いてきたので、風呂上がりにおやつのような感じで、簡単な食事をしました。
数品を雑談しながら、クラブハウスでつまんだのですが、一口サイズにスライスされた生トマトもテーブルに出てきたのです。
その時、I君が『トマトに醤油をかけて食べると美味しいよ!』と言いながら、トマトにタップリと醤油をかけて、美味しそうに食べ始めました。
それを切っ掛けに、トマトの食べ方について、喧々愕愕(けんけんがくがく)となったのでした。
K君とR君は『醤油でなんか食べるのは、邪道でしょう。気持ち悪いし。やっぱり塩が一番いちばん!』と主調。
私はと云うと、『生のトマトも美味しいけれど、焼いたり、茹(ゆ)でたり、火を通して食べた方が、トマトはもっとズット美味しい』と反論したのです。
トマト料理の本場のイタリーでは、煮たり焼いたり茹でたりして食べていますし、勿論、採れたての生のトマトを、サラダに入れて食べたり、その他どんな料理にもトマトは大活躍です。
我が家では、みそ汁にもトマトを入れて食すことがあります。
トマトをほぐしてかき混ぜてみそ汁を飲むと、これが何とも言えない珍味になるのです。
しゃぶしゃぶは勿論、焼き肉やおでんにトマトを潰して一緒に食べても本当に美味です。
親の元では、夏一杯、トマトは塩を振りかけて、あるいは擦り込んで生で食べるだけでした。
ところが、結婚して、国内や外国へとアチコチに旅行するようになって分かったのですが、トマトには、色々な食し方があるもんです。
イタリー人じゃないけれど『トマトは野菜というより香辛料みたいなもの』です。
食べ物の素材に、トマトをプラスすることにより、味をより豊かにすることが出来るので、トマトは料理の魔法使いというところですか。
もっとも、イタリーでは、元来、トマトは悪魔の食べ物とされて、忌み嫌われていたようですが、食べてみると美味しかったので、今や、イタリー料理には欠かせない食材です。
小生は今朝、フルーツトマトを丸かじりして、医院に来ました。
冷えたトマトに塩を振りかけて、その美味しいこと…。
昔のトマトはもう少し酸っぱかったですが、フルーツトマトなんて売っていて、現在は、飽食ここに極まれり!ですね。

院長の独り言 378 ; 石田紅雲さんの『虹のおくりもの』を読んで

私の大学時代の友人からの紹介で来院された石田幸久(石田虹雲)さんから、『虹のおくりもの』と云う氏自身が執筆した、虹の本を頂きました。
この本で石田さんは、虹に関するあらゆる文献を調べあげているのです。
例えば、虹の色、形などの科学的考察、小説などに著されている虹の文学的な考察、そして珍しい虹の絵画や写真が満載です。
この本を少し読んだだけで、虹への関心の奥深さに驚かされます。
自分としては、虹が空に現れた時、自然の繰り出す造形に、感嘆するのが関の山です…。
石田さんは、本当に良く、虹の事を調べ上げたものです!
この本は、目から鱗と云うか、虹に関する様々な情報が満載です。
先人が興味を持って研究した、面白い虹や不思議な虹など、今まで考えも及ばなかった虹のあれこれについて書かれている、本当に珍しい本です。
虹に関して、こんなに多角的に書かれている本を読んだのは、全く初めてでした。
あの有名な画家のミレーも虹に魅せられて、素晴らしい虹の絵を描いているとのこと。
最後に、石田さんに僭越ですが教えて下さい。
虹が、広い畑や野原に現れた時に、その全貌が物の見事に見える時がありますが、虹の出だしの一番端っこの2点が、どうなっているのか、中学生の頃、知りたくて、一生懸命に、その端を追い掛けていた事があります。
遠くからはハッキリと観察出来るのに、側に行くと虹が地面に接している場所が全く分かりません。
虹の端はどうなっているのでしょうか?
フワッと、空に滲むように一体化しているのでしょうかね。
何となく、虹には、水彩画が似合うような気がしますし…。
実際は、いかがでしょうか?

院長の独り言 377 ; 今年は、桜の花の色が薄いですね

今年は、桜の満開がいつもの年より10日ばかり早く、4月にはもう散り始めています。
いつものように桜が散っていく桜吹雪は、豪華と云うか、寂しいと云うか、複雑な気持ちで花見見物をしています。
最近、思うのですが、東京の桜の花びらの色が白くなってきたような気がします。
桜も歳とともに、人間の髪の毛が白くなるように、脱色していくのでしょうか。
数年前はもっとピンクが強かった花びらのような気がします。
しかし私の好みでは、色の強い花びらよりも、白くなってきた薄ピンク色の花びらが、春の微風にのって散っていくさまが好きです。
背広やテレビなどは新品が気持ちよいですが、神社や五重塔は創建から数百年も経てからの年代物の方が、侘び寂びと云うか、時代の重みが出て来て素晴らしいのではないかと、古びたお寺さんを見学する度に感じます。
滅多に見られませんが、今日(こんにち)でも、新しい五重塔の建設を見る事が出来ます。
建ったばかりのどぎつい赤色の塔を見ていると、五重塔が随分、薄っぺらく感じてしまいます。
奈良時代、東大寺の大仏様を建立した時、当時の人々は出来上がった大仏様と東大寺の、真っ赤にド派手に塗られた建物や、金ピカの大きな大仏様を見上げて、果たして、どう感じたのでしょうか?
現在、寂びが出てきた荘厳な大仏様と渋く貫禄のついた東大寺に、我々は畏敬の念を抱いてしまいますが、金ピカの大仏様を見上げていた奈良時代の人々は本当に畏敬の念を感じていたのでしょうか。
その偉容に、ただド肝を抜かれて驚いていただけでしょう。
時を経ないと、現れない美しさがこの世にはあるのです。
桜の話からトンデモナイ話になってしまいました…
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院長の独り言 376 ; そば屋のカレーは美味しい(断言)!

昼食の時に、最低1週間に1回は、石川歯科医院の目の前にあるおそば屋さん『やぶそば』に行きます。
『やぶそば』には、息子、山森君、HPなどを手伝ってくれている林和貴君、インプラント会社の駒井啓一君と、そばやカレーを食べに行っているのです。
やぶそばさんは、昼時、いつも大入り満員です。
元気のいいオヤジさんと愛嬌があって可愛い娘さんで商いをしています。
そして、やぶそばの皆さんは、開業当時からの私の患者さんです。
ところで、小生は小さい頃からそばが大好物です。
勿論、天丼、カツ丼、親子丼の丼物も大好きです。
そばは、奈良時代より前に、我が国に伝わってきていた本当に歴史のある食べ物なのです。
随分、古くから我が国にとっては、お馴染みの食材と云う訳です。
一方、丼物は、意外に歴史が浅いのです。
『天丼』は丼物の定番で、江戸後期に、浅草の『三定』が初めて出したそうです。
『カツ丼』は、大正時代に、早稲田大学の近所の定食屋で出したのが最初とのこと。
『親子丼』は、江戸時代からの老舗の料理屋さんである、日本橋の『玉ひで』が発祥で、明治の初期に創作されたそうです。
このように、丼物は案外と歴史が浅く、江戸時代の中頃、経済活動が活発になりだして、食事をユックリと摂る時間が勿体なくなり、しかし栄養はシッカリとらなければならないと云う事情から生れたとされています。
従来は、当然の習慣として、室町時代から、主食とおかずを別の器に分けて食事をしていたのです。
ところが、仕事が忙しく時間が惜しいと云うことで、一つの器に主食とおかずを一緒に盛り、合理的に栄養が取れて、尚かつ、素早く食べ終わる事が出来る丼物が発明されたと云う訳です。
丼物は、食べてみると、思ったより美味しいので、たちまち人気が出て来てしまい、現在に至っているのです。
現在、色々な丼物が巷に氾濫していますが、一番人気のどんぶりご飯は、天丼とウナ丼が争っているそうです。
何れにしても、日本でなければ丼物は食べられません。
丼物をはじめ、寿司、そば、うどんなど、日本の食べ物は、本当に美味しい物ばかりです。
日本食にハマっている外人の多い事、多い事!
先日、テレビを観ていたら、いまや、アメリカ人は納豆も食するとの事。
反対に、日本人が外国を旅行して、一番、恋しく思うのも、日本の食事でしょう。
かく言う小生も、外国を旅行すると、あったかい炊きたてのご飯に、みそ汁と漬け物が、食べたくて、食べたくて…。
あと海苔でもあれば、贅沢です。
こりゃ、外国にはとても住めないですね。

院長の独り言 375 ; いくら輪転機を廻せば、物価2%上昇なるのか?

安倍晋三総理の推薦通りに、日銀総裁が黒田東彦氏になりました。
黒田総裁は安倍総理と同じ意見で『2%の物価上昇を確実に進める』と、就任の挨拶で強調していました。
2%の物価目標を推進するには、想像以上のお金を増刷しなければなりませんね。
本当に目標を完遂するためには、多分、イヤ、絶対に!かなりのインフレに成らざるを得ないでしょう。
何しろ、想像以上のお金が市場にバラまかれるのですから。
もしもデフレを脱却して、適度のインフレ(リフレ)に移行し、なおかつ景気が回復したら、万々歳ですが。
それを期待して、見越すかのように、株価が上昇しだしています。
いや、ミニバブルを期待しているからでしょうか。
あの昭和から平成にかけての大きなバブルを経験している小生としては、夢よ、もう一度!と、内心、少しは期待しているのですが…。
あの時は、インフレ状態で猶且つ大好景気でした。
東京、大阪、名古屋、博多、札幌、仙台と全国、隈無く、土地やマンションが売れただけでなく、土地の値段や株価も上がりましたし、それ以上に収入が増えたのです。
ゴルフ場も接待のお客で大入り満員でしたし、デパートもお客で溢(あふ)れていました。
確かに景気がいき過ぎた傾向(きらい)はありましたが、当時を振り返ってみると、みんな元気発剌(はつらつ)、明るく嬉しそうでした。
止せば良いのに、何を心配したのか知りませんが、政府と日銀は、強烈な景気引き締め策(宮沢喜一内閣の総量規制法)を急に採ったのです(ハードランディング)。
結果、アッと言う間に不景気になってしまい、日本経済はドンドン縮小してしまい、現在に至っています。
有名な大会社も、かなりの数が倒産しました。
中小企業は、どの程度潰れたのか見当もつきません。
自殺者も数えきれないほど出ていたのに、不思議な事に、好景気を不景気にしてしまった事に対して全く総括されていません。
要するに、責任を取る人がいなかったのです。
今回、政府と日銀が行うインフレ策は、あのバブルの後の景気引き締め策の逆の政策です。
バブル後の政策失敗経験を生かして、いき過ぎたインフレにならずに景気が回復するように心から願っているのですが、失敗の総括をしないまま2%の物価上昇を目標に掲げましたが、そこが一寸心配ですね。
必要な物をみんなが持っている昨今、2%の物価上昇には、輪転機を何回まわして、お札をいくら刷れば良いのでしょうか?

院長の独り言 374 ; コッペパン、ガブリの頃

戦争に負けたことにより、食べ物では、本当に辛い思いをしました…。
敗戦後しばらく経ってから、お米の代替として(材料は今となっては作ったお袋が亡くなっているのですから分かりませんが)、丸く膨らんだパン擬(もど)きの食べ物を『パン』だと言って、昼ご飯に出されたのが、生まれて初めてパンと云う名前の食べ物を口にした瞬間です。
今から思うと炭水化物の塊のようなものでした。
その後1年以上経って、現在、パン屋さんで売っているような、小麦粉で出来た本物のパンを食べました。
勿論、今のように、洗練されたパンではなかったのですが…。
ただ、今でも鮮明に覚えています。
それは、『コッペパン』です。
紡錘状の形をしていて、指で押すと柔らかく、現在のコッペパンより長く、細い感じでした。
お袋が作ってくれていた炭水化物の塊、パン擬きが、正真正銘、パンだと思っていたので、パンを全く、好きになれませんでした。
しかし、お袋には悪いのですが、コッペパンは本当に美味しく感じたのです。
自分としては、それ以来、パンと言えばコッペパンでした。
その後、食パンや三角錐の形をしたチョコレートパン、揚げたパンなど色々な種類のパンがお店に並びましたが、私にとってのパンと言えば、やっぱりコッペパンなのです。
小学生の頃は、コッペパンに半分に切り込みを入れて貰い、その溝にイチゴジャムを流し、ガブッと食べるのが最高でした!
ところが、あんなに好きだったコッペパンを全くと言っていいほど食べなくなってしまいました。
大学生になった頃から、好きな食べ物と嫌いな食べ物が変化してきたのです。
どちらかと云うと高校生の頃までは甘い物が大好物でした。
それが二十歳を境に、辛いものや苦い物が好きになってきたのです。
きっと、酒を飲み、タバコを吸いだしたからでしょうか。
中学生の頃、ふざけて親父の飲んでいるビールを一寸舐めて、こんなにがい飲み物を親父が嬉しそうに飲んでいるのを、全く理解出来なかったし、不思議でした。
ところが、私も今は大好物です。ビールが!
そして時は経ち、この頃、無性にコッペパンが食べたくなってきたのです。
イチゴジャムをたっぷり挟(はさ)んだ、あのコッペパンです。
今は、パンの種類も多すぎて、時代背景と合わせて、記憶に残るようなパンは無くなりましたね。
飽食、ここに極まれリ…
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院長の独り言 373 ; 万葉集礼賛

時はまだ、平仮名の存在し無かった奈良時代。
7世紀中頃〜8世紀中頃、ある歌集が編まれました。
万葉集は、身分の高い人から庶民まで、さまざまな身分の人たちが歌っている、我が国最古の歌集です。
万葉集の中には、庶民の生活を歌ったものから恋歌など、約4500首もの多くの歌が載っています。
文字通り『万(よろず)の言葉の歌集』です。
小生は中学生の時に、国語の先生に教わりました。
万葉集についてはこの程度の知識くらいしか、私はありません。
今回、なぜ万葉集について書いていると云いますと、小野寛先生著『越中有悠閑春秋七歳』と云う書物を、直接、小野先生から頂いたからです。
先生は石川歯科医院の患者さんで、奥様もご一緒に来院しております。
万葉集の研究者として、第一人者のお方です。
お聞きすると、東京大学の国文科を出られ、学習院大学講師、学習院女子短期大学教授、駒沢大学教授を経て、高岡市万葉歴史館館長になられた万葉集研究の専門家です。
頂いた本を読み始めてみて、何も知らないことほど気楽なものはありませんでした。
頂いた本は、万葉集を編纂した大伴家持の歌を中心に解説しています。
少しずつ読んで、内容が理解出来たら、次に進むように読んでいます。
柿本人麻呂、山上憶良、山部赤人と、学生時代にお馴染みであった歌人の歌などを中心に、万葉集を編纂した大伴家持が素晴らしい天才歌人であり、名プロデューサーであった事を詳しく知ることが出来ました。
まだ、途中までしか読んでいませんが、ユックリと楽しませて頂きます。
小野先生、真に有り難う御座います!
そこで、家持の春の歌を一首、お裾分け…

 春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に 出で立つ娘子

春の庭が一面、真っ赤に照り輝いている。
それは桃の花だった。
その木の下の赤く照り映える道に、美しい乙女が立ち現れて見えた…

なんと、幻想的で美しい光景でしょう。
美に純粋な家持の心の震えが、こちらの心の中に伝わってくるようです。
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院長の独り言 372 ; 辛いカレ〜〜〜

火曜日に久しぶりに、近くの蕎麦屋さんのカレーを食べました。
いわゆる『蕎麦屋のカレー』で、私はたまに食べたくなるのです。
普段、あまり辛いカレーが不得意な小生…。
カレーを食べる時は、あまり辛くないカレーを食しますが、丁度、その甘口カレーがお蕎麦屋さんのカレーなのです。
自宅では、カレーの辛いのが苦手な私は、家族みんなにお子様扱いされています。
正直に言うと、お子様向けのカレーが大丈夫と言うより、口に合っているのです。
現代日本の激辛カレー好きには、本当にビックリしているのです。
かなり辛いカレーでも、何とか私も食べる事は出来ても、翌朝のトイレがキツいですね(失礼)。
何であんなに痛いのですかね…(再び失礼)。
テレビ番組で、七味唐辛子やタバスコを山ほどかけて、嬉しそうに蕎麦やスパゲッティーを食べている女性タレントを見ていると、驚くと言うより、宇宙人のように思うのです。
悪友は『なに言ってるんだ!おまえ、酒はどうなんだ!俺はお猪口(おちょこ)一杯でもキツイぞ!』
『お前は一升飲んでも、平気の平左じゃないか!』
と若い頃は言われていました。
確かにアプサンでも、ウオッカでも、火のつくような強い酒でも、若い頃、ふざけて飲んだこともありました。
タバスコや胡椒を多くかけた程度で驚いてる場合ではありません。
ひとの趣向とは本当に不思議ですね。
或る人には旨くても、他の人には不味いと言う場合も、多々見受けられます。
味を感じるのは口の舌に有る『味蕾』で感じるのです。
昔から苦味は舌の奥とか、甘みは先端で感じるなどとよく言われていますが、あれは嘘です。
全ての味は味蕾細胞で感じています。
古くから五つの味、即ち甘味、塩味、苦味、酸味、旨味を云いますが、辛味はこの五の味に入っていません。
なぜならば、辛味は痛覚、即ち、痛神経の末端で感じるとされているからです。
従って、痛みに敏感な人は、辛味にも敏感に感じる筈です。
確かに、私は非常に痛みに弱いのです(みんなもそうか!?)。
自分が痛みに敏感なので、患者さんにも痛くならないように細心の注意を払って治療しているのです。
痛みに感じ難い人は、辛味に強いと云うことですかね。

院長の独り言 371 ; シャッター商店街

私が八王子で歯科医院を開業した40年前、昭和50年前後の八王子市八日町商店街は人通りも多く、大変な活気がありました。
そこで、私はその一角の小さなビルで開業したのです。
三階の窓から商店街を見ていると、一日中、人々で賑(にぎ)わっていました。
それが、大規模小売店舗法が廃止された2000年6月1日頃から、ジワジワと老舗の店舗が廃業に追い込まれていったのです。
気がついてみると、商店街は、シャッターを閉じている店が多くなってしまったのです.
昔からの一軒、一軒のお店が、量販店などの大きな店舗に客を奪われてしまったのです。
当院に患者さんとして通院している、老舗の店主も、大きなため息をつきながら、盛り返す良い手段が全く思いつかないと嘆くのみです。
大きなスーパーだけが日本中、何処の街へいっても目立ちます。
物を買う時、客の立場から考えれば、少しでも安くて、いっぺんに色々な品物が買えて、駐車場も広く整っている大型のスーパーマーケットに、どうしても行きたくなります。
野菜など、新鮮さが一番大切な食品は、常に売れていて新しい物が漸次並んでいるのですから、お客さんの立場からすれば、スーパーマーケットに買いに行ってしまうのが客心と云うものです。
ですから、矢張り、あらゆる面で量販店は小売店を凌駕しています。
個人の店がいくら頑張っても、色々な面で限界と云うものがあります。
さらに、少子高齢化の昨今でもあり、跡継ぎもいません。
我が国は現在、20年間以上続いているデフレによる不況に悩まされています。
多くの小売店が、大規模小売店舗法によって消滅したように、新自由主義の競争社会など進めないで、日本全体の活気が蘇(よみがえ)る事を、心から願うのみです。
どうせ、行き過ぎた競争社会は人々を疲弊させて破綻し、各国とも、保護主義的な政策を目指すようになるでしょう。
これ以上、日本全体が疲弊しないように祈るのみです。
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院長の独り言 370; 消えた都電

私が中学生の頃(1950年頃)は、東京都内の交通機関として、都電が大いに幅を利かせていました。
都電とは、路面電車のことです。
路面電車の走っている同じ道路を、自動車も走っているのです。
当時、自動車が今と違って大変少なかったので、一つの道で、電車も自動車と一緒に走行するのが可能でした。
現在、都内で両者が一緒に走るのは不可能です。
たちまち交通渋滞を起こしてしまい、通常の経済活動の支障を来すどころか、全く動かなくなってしまうでしょう。
この都電の走っていた道路は、幅が広かった上に、都内の繁華街を縦横無尽に結んでいました。
小生が大学に通いだした頃には、気がついてみると、都電が東京の繁華街から殆ど消えていたのです。
都電が消えてしまったことに、自分としては当時、あまり関心がなかった事も確かです。
その都電を廃止した場所を利用する事が出来たので、莫大なお金をかけて土地を買収したりして幹線道路を新しく造るのではなく、最小限の手間と時間で立派な自動車専用道路が誕生したのです。
現在、その道路の上に、首都高速道路が走っています。
車で高速道路を走っていると、下の道路が見えますが、昭和30 年代の都電が走っていた風景が脳裏をかすめるのです。
都電を利用していた中•高校生の時は、乗り心地が悪く、自転車より遅い都電に乗るのは苦痛でしたが、もう一度、いま乗ってみたい気がするのです。
都電車内は、あらゆる年代の人々が乗り合わせ、知らない人同士の会話で賑やかでした。
あのガタガタ揺れて、運転手は立位で運転している都電が懐かしくて仕方ないです。
無くなってみて、はじめて分かる過去の事物…。
本当に、人間社会は進歩しているのかな…
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院長の独り言 369 ; 山のあなた

ゲーテ(独)、エリオット(英)、ホイットマン(アメリカ)、高村光太郎(日本)、中原中也(日本)、萩原朔太郎(日本)、李白(中)、杜甫(中)、そして最近、詩集を発表した谷川俊太郎(日本)など、素晴らしい詩を歌った人は古今東西、大勢います。
どの人も、心の中の熱いほとばしりを言葉で表現し、詩にして歌っています。
私にとって忘れがたいのは、時折、頭の中に浮かんでくる『山のあなた』です。
浮かんでくる時は、口ずさんでしまう程です。
浄土真宗のお寺さんの住職が、母方の祖父と云うことも関係しているからでしょうか。
以前から、この詩の内容が、浄土真宗宗祖 親鸞の思想と似ているような気がしていたのです。
詩を紹介します。

山のあなたの空遠く 
幸い住むと人のいふ
 ああ われ人を尋(と)めゆきて
 涙さしぐみ帰りきぬ 
山のあなたに なほ遠く
 幸い住むと人のいふ

『幸いは、遠くに探しに行っても決して見付ける事は出来ませんよ。今の自分が幸せだと気がつかなければ』と言っています。
『幸せは直ぐ側にありますよ。気がついて下さい』と言っているのです。
この詩は、ドイツの詩人、カール•ブッセの作です。
ブッセは、祖国ドイツより、日本で名が知れています。
何故なら、上田敏があまりにも素晴らしく翻訳したからです。
正直、『山のあなた』は、上田が作ったと言っても良いくらいと思います。
彼は小泉八雲に師事し、外国語に堪能であったので、ヨーロッパ文学を沢山翻訳している明治初期の文学者です。
残念な事に41歳の若さで急逝しています。
親鸞が唱えているのは、『常に大きな力に包まれて、そして、その力に支えられてわれわれは生活している事が最大の幸せである』と言っています。
カール•ブッセの『山のあなた』に似ていませんか。
浄土真宗のことばかり書いていますが、小生の祖父が真宗のお坊さんでしたので勘弁して下さい。
自分としては、どんな宗派の人でも、宗教を信じて生きている人は皆仲間だと思っているのですから…。
やまのあなた

院長の独り言 368; 睡眠あれこれ

ここ数年、小生、早朝の午前4時前には眼が醒めてしまいます。
大体、夜の午後10時には、布団に入るようにしています。
それでも睡眠時間は、一応、6時間は取るようにしているのです。
若い頃は午後11時に就寝、午前7時半に起床といったところでした。
年を取るにつれて、朝の眼醒めが早くなってきて、睡眠時間も短くなってきました。
睡眠の形態には、皆さんご存知のように、レム(Rapid Eye Movement)睡眠とノンレム睡眠に別れます。
前者は熟睡状態で大脳を休めています。
後者は眼球が動いていて、完全な熟睡ではなく、記憶の整理をしているのだとされています。
夢を見ているのは、このレム睡眠の時だと言われているのです。
睡眠時間が8時間より極端に少ない場合をショートスリーパーと言い、有名人ではナポレオンが挙げられます。
その逆に10時間以上寝なければ身体の調子が悪くなる人の代表は、アインシュタインが有名です。
睡眠時間は、人によって随分、異なるそうです。
レム睡眠時で、熟睡すればするほど、即ち、爆睡すれば、大脳にいい影響を与えると言われています。
10年前まで私は、アルコールをかなり飲んでいたので、毎晩、床に入るとすぐに爆睡状態でしたが、日中、大脳が冴えていたとは言えない状態でした。
医学的には、アルコールを飲むと、入眠は良いのですが、睡眠が浅くなるのです。
最近は、お酒をほとんど飲まなくなってしまったせいか、熟睡時間が短くなってしまいましたが、却って、頭は冴えてきているのではないかと思っています。
このように、拙(つたな)いブログも書けています。
『酒は百薬の長』と言われますが、本当のところ、怪しい感じもしないではないのですが…。
酒量にもよるでしょうけど、酒好きの私とすれば、若い頃は、酒は身体にいいのだと、無理矢理、肯定して、深酒をしてしまいました。
この年になって深酒を後悔しても始まりませんね。
でも、仕事の後に飲む一杯のお酒は、この上ないですなぁ〜

院長の独り言 367 ; 朝の連ドラ『純と愛』

NHKの朝の連続テレビ小説(連ドラ)を、毎朝、何となく見るようになったのは、私が大学院に入り、アルバイトとしてNHK放送センターの歯科診療所に勤務した縁で始まります。
1966年の事ですが、連ドラは『おはなはん』を放送していて、大変な人気番組でした。
放送時間になると、水道の使用量が大幅に減少するので、話題になったほどです。
そのドラマのヒロインが、マン丸顔の樫山文恵さんで、目がクリっとした愛らしい新人女優で、この一本で全国的な人気者になりました。
樫山文恵さんには、放送センターのホールなどで何度もお会いしました。
勿論、彼女は全然、気がついていない事ですが。
それ以来、朝の連ドラのファンになってしまい、今でも、なるべく時間があれば見るようにしています。
現在の連ドラは『純と愛』で、最終段階のクライマックスに入っています。
主人公のヒロインが頑張って、頑張って、何とか仕事が上手くいきそうになったと思うと、誰かに足を引っ張られて、奈落の底に引きずり込まれると云うのが、このドラマの筋書きです。
最後にどう結着がつくのか楽しみにしています。
先週は苦労しながらも、ヤッと小さな旅館の経営が順調になってきたと思ったら、寝タバコでホテルが全焼してしまいました。
ここにきて、ついに、主人公のヒロイン純が、やる気を失ってしていました。
あと残り一ヶ月で、時間が無いのに、どうやって大団円に纏(まと)めるのか、ドラマながら心配になりました。
ところが、今日(3月2日)の土曜日の放送では、タナボタのように沖縄の別荘を貰ってしまい、あまりの短絡的なドラマの進行にガッカリしてしまいました。
これからのドラマの筋が、このままアッサリと終わらずに、ひと波乱も、ふた波乱も、起きるように願って止みません。
『散々ハラハラさせておいて、これかよ!』とならないように期待しています。
人生、このドラマの筋のように、こんなタナボタの連続なんか、まずありませんよね。
ドラマに文句を付けてもアホですかね。
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院長の独り言 366 ;発見!若い女性の電車運転手

最近はダンプカーを女性が運転しています。
私が20代の頃は、トラックを運転している女性を見ることは、先ずありませんでした。
乗用車を運転している女性さえも少なかったのですから、当たり前と言えば当たり前です。
一つの理由として、当時、運転が苦手な私でさえも、マニュアル車(クラッチ付き)を運転せざるを得ませんでした。
何故なら、オートマ車(クラッチ無し)は値段が高い上に、故障すると云う欠点がありました。
ところが、小生が30歳を超える頃には、オートマ車の性能が、格段に良くなってきた上に、値段も下がってきたのです。
クラッチ付きのマニュアル車を運転していた人には理解出来ると思いますが、坂での発進、要するに上り坂の途中で発進する際、マニュアル車の場合、上手にギアとアクセルを操作しないと、前に進まずにバックしてしまうのです…。
万が一、後続車がいると、車が下がって、ぶつけてしまう危険があります。
そこでバックしないように、ハンドブレーキを注意深く使いながら前進させる訳です。
要は、車の操作がオートマ車より、マニュアル車の方が格段に面倒だと云う事です。
また渋滞している時には、車を動かしたり、止めたりする度に、ギアをいちいち操作しなければならないので、運転するのが本当にイヤになります。
従って、小生も随分前からオートマ車にしました。
オートマ車で運転が楽になったお陰で、車を運転するのが楽しくなりました。
この事も、車の運転を女性が敬遠していた大きな理由だったと思います。
ところが最近は、大型トラックでさえもオートマ車化しています。
図体が大きい割に、運転時に力がいらないと云う訳です。
女性がダンプカーを運転し易くなった訳ですね。
元々、女性は丁寧で優しい運転をするので、男性より自動車の運転に向いているのかも知れません。
話は変わりますが、少し前のブログに(院長の独り言 360 ; 日本インプラント学会の講演を聴きに行くの巻)、JR中央線の一番前に乗って、幼い頃の電車好きだった自分を、久し振りに思い出したと云う報告をしました。
もう一度、電車の一番前に、是非、乗ってみたくなったので、先日、丁度、お茶の水まで、私用で出かけた帰りに、運転席の直ぐ後ろに乗車しました。
いい歳をして、全くの子供ですね!もの好きですね!
でも一番前に乗って大正解!!
運転手が若い女性だったのです!!!
初めてJRで女性運転手に出会いました。
彼女は指先を、前に、横にと、延ばして、『前方、横、異常無し、発車!』と元気よく言っていました。
思わず『若い男性諸君!女性に負けないで頑張れ!』と心の中で叫んだのでした。
今の世の中、女性は無敵ですよ、全く。

院長の独り言 365 ; 両親への祈り

先日2月24日(日)に、親父の23回忌、お袋の17回忌の法要を、四人兄弟で営みました。
特に親父にとっては、命日でもあるのです。
お墓は千葉県松戸市の八柱霊園にあります。
そこは広大な霊園で、オーバーでなく、隅から隅まで、一体、どのくらいの墓石があるのか全く見当もつきません。
それでも両親の墓は、入り口から約500メートルにあり、入り口から比較的に近いのですが、歩くとかなり遠くに感じます。
勿論、霊園の入り口から端までは、とても歩いて行ける距離ではありません。
その日は雲ひとつ無い、良い天気でしたが、北風が結構、強くて、たいへん寒い日でした。
顔なじみの浄土真宗の住職に、両親のお墓の前で、経を読んで頂きました。
自分は亡くなった両親を偲んで心の中で、お念仏『南無阿弥陀仏』をとなえたのでした。
『偲ぶ(しのぶ)』は、文字通り、『人を思う』と云うこと(にんべんに思う)です。
『念』は今の自分自身の心(心の上に今)。
偲んで、お念仏と唱えることは、生前、両親に可愛がってもらった諸々を、いま心の中で感謝し、念仏『南無阿弥陀仏』を唱えると言うことです。
残念ながら、亡くなった両親に自分の今の気持ちを伝えることは出来ません。
自分としては、感謝の気持ちを持って、念仏を唱えることしか出来ないのです。
この気持ちと行為が、親鸞のとなえる『他力』思想です。
決して、『他力本願』とは違います。
拝んだからと言って、世の中が上手く行くとは限りません。
上手く行く、行かないのは、全くの時の運と云うことです。
誰かに頼んで、近道をして、成功させて貰おうというのが他力本願です。
『他力思想』は、ただお念仏を唱えるだけです。
親鸞は念仏を唱えるだけで大きな力に包まれているのだと唱え、それが他力であると言っているのです。
あまり難しくて、簡単に理解できないのですが、要するに、淡々と普段の生活を送れと云う事です。
両親を思って、大きな力に感謝し、念ずるのみです。
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重版されました!

昨年の10/10に出版された私達が執筆した「こうすれば防げるインプラント周囲炎」が、好評につき初版がほとんど売り切れてしまったため、重版されました。
今回少しだけ改訂も行いました。
多くの歯科医師の方々に本を読んでいただいき、イラストがきれいでわかり易いと好評で、執筆者の立場としてとても嬉しく思います。
歯科技工士や歯科衛生士の方にも、広く読んでいただいているみたいです。
発売前はもし売れ残ってしまったらどうしようかと不安にも思っていたので、正直ホッとしています。
現在英語の翻訳版についても準備しています。
本の内容については、インプラント治療をあまり行ってない方には少し難しいところもありますが、歯科医療従事者向けの講演をまた行う予定なので、そのときはブログでお知らせします。
私達の執筆したインプラントについての内容を、多くの歯科医療従事者の方に理解していただいて、当院で行っているような予知性の高いインプラント治療が広まり、昨今のテレビなどで取り上げられているインプラントのトラブルが無くなっていくことを願っています。
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院長の独り言 364 ; ある日、ある朝、突然に…

2階待合室の患者さんへ、ほんの少しの癒しのために飼育していた熱帯魚が、悲しいかな、死んでしまいました…。
5年あまり元気に泳いでいたのに、本当に残念です。
そして、かなり私に懐(なつ)いていたので、ガッカリしてしまいました。
実は私が餌を与える係だったのです。
はじめは餌を与えても、こんなチビの魚が慣れるわけがあるわけがないと思っていました。
ところが、水槽の端を叩いては餌を与えていたところ、水槽に私が近づくだけで魚がよって来てパチャパチャはしゃぐのです。
小生とすれば、たいして魚に興味が無かったのですが、だんだん魚たちが可愛くなってきたのです。
先日、休み明けの朝、餌を与えていなかったので、さぞかしお腹をすかしてイライラいているだろうと、何はともあれ、水槽に餌を与えに行ったのです。
普段は食事を与えていない時、部屋に入ると、お魚たちは『遅いじゃないか!』と言わんばかりに、水面を叩いて大暴れしているのに、今日はシーンとして静かなのです。
『あれ、変だな?』
と、いつもと違う雰囲気を感じ、水槽にあわてて近づいて、水槽の中を注意深く覗いて見ると、熱帯魚が死んでいたのです。
あまりの出来事に、愕然としてしまったのは、言うまでもありません。
息子をはじめ、スタッフ全員も、シュンとしてしまったのです。
小生が氏子である、国立市の谷保天満宮に、早速、お魚が天に召されるようにとお祈りに行ってきました。
木曜日の平日と云う事もあってか、神社内は静まり返っていて、参拝する人も数える程度でした。
早速、宮司に氏子であることを告げて、お魚への祈りと石川歯科医院の厄払いをお願いしたのです。
宮司は快く、直ぐ引き受けて呉れました。
厳粛な祈りとお祓いをしていただき、気持ちが少し落ち着きましたが、何と言っても、可愛い魚を失ってしまったショックは、当分、尾を引きそうです…。残念!!
良いことも悪いことも含めて、人生、本当に色々な出来事が起こりますよね…。
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院長の独り言 363 ; パーマ…、そして髪の毛が減っていく…

人生で一回だけ、パーマを掛けた経験があります。
八王子市で歯科医院を開業して5年目、贔屓(ひいき)の患者さんが徐々に増えだし、仕事が軌道にのり始めたのと反比例するように、何となく髪の毛が少なくなってきた様な気がしていたのです…。
パーマネントは、すなわち、永久と言う意味ですから、パーマを掛ければ髪の毛が長持ちするような気がしました。
冗談のような、本当の話。
馬鹿ですね…。
あるいは、神頼みといったところですか。
家内には『パーマなんかしない方がいい!』と猛反対されてしまいました。
女性は殆どの人がパーマを掛けていますよね。
そして、それによって髪の毛が少なくなったと云う話を聞いた事がありません。
反対を押し切って、初めてパーマを掛けてみました。
実際、自分はパーマを掛けることによって、髪の毛の腰が強くなったのか、ボリュウムが出てきて、髪が見た目、増えて見えたのです。
内心『してやったり!』と云った気分になりました。
得意になって、2年間パーマを掛けていたのです。
多分、その当時、通っていた患者さんは、『パーマなんか掛けて先生どうしちゃったの?』と怪訝(けげん)に感じていたかも知れません。
ところが、ある日、鏡に向かうと、偶然、頭のテッペンが見えたのです。
反射した鏡に写ったのです。
驚いた事に、頭のテッペンの髪の毛が、ほとんど無くなるほど薄くなっていました…。
いわゆる、『テッペン禿(はげ)』あるいは『ザビエル禿』と云うやつです。
これには、心底、タマゲました!
それ以来、本当に懲りて、近所で仲良くしている床屋さんで、普通に整髪をしています。
現在、74歳になると、髪の毛の量はドンドン減ってしまいました。
自然の摂理とは言え、もう一度、若い人ほど…とは言いませんが、少しでも髪の毛が増えると嬉しいのですが。
無理ですかね。
今回は、残念なパーマのお話…

院長の独り言 362 ; 巨大隕石の落下

ロシア北部に、直径17メートルの隕石が落下して話題になっています。
隕石と云うと、われわれは博物館に展示されている石や鉄の直径30cmほどの塊を想像します。
ところが、今回の落下して来た隕石は、あまりにも巨大なので驚かされました!
被害に遭われたロシアの人は大変にお気の毒でしたが、人の命は無事でしたので、不幸中の幸いと言ったところでしょうか。
そして、隕石が地球に落ちて来る状態を、あんなに長い時間、テレビで見ることが出来き、本当に感動しました。
明るく地上が輝いてから2分経過して、爆発音が轟いたそうですから、随分、高い所を斜めに隕石は落下していったことになります。
見た目には、地上の千メートルのところを落ちていくように見えましたが、実際は、2~3万メートル以上の高いところを通過したのでしょう。
ところで、一年間に地球に落下して来る隕石の数は、大小は兎も角として、約5万個程度だそうです。
大気圏に突入して、摩擦熱で消滅してしまうほどの隕石を混ぜれば、それこそ無数と云う事でしょうか。
月の隕石の痕を見れば納得ですが、数えきれないほど多くの隕石が、地球にも飛来してきているのは確かです。
今回の直径17メートル程度の巨大な隕石は、『100年に1回有るか無いか』と専門家は述べています。
7千万年前に、恐竜の絶滅を早めたと言われるほどの超大隕石がメキシコのユカタン半島に落ちたのは有名です。
勿論、今回の大きな隕石の落下は、7千万年の超大隕石とは比べものにはなりません。
しかし通常、隕石は地球の表面積の7割を占める海に、殆ど落下してしまうのですから、今回の隕石は稀有な現象なのです。
縄文人も、弥生人も、多分、経験していないであろう大隕石の落下を、幸運かどうか分かりませんが、我々は自分の目で観察出来たのです。
そう言えば、去年は日本では金環日食も見ることが出来ました。
私も幸い金環日食を拝めました。
二年前、東北地方を襲った千年に一度有るか無いかの大地震、大津波と云い自然の脅威には本当に驚かされます。
これ以上の自然の脅威はノーサンキュウですよ、本当に!

院長の独り言 361 ; 思春期諸君!背の伸びる秘訣を教えましょう!?

小学生の頃、自分は足が遅いと思っていたのです。
運動会の徒競走では、8人で走って、いつも5位ぐらいでした。
身長もクラスで真ん中くらい。
ところが中学生になって、急に背が伸びだしたのです。
自分でも気持ちが悪いくらいに背が伸びだしたのです。
遺伝的には、親族で背が高い人は、特には見当たりません。
親父の唯一の兄弟、叔父の息子、即ち従兄弟たちも、背はあまり高くありません。
お袋は三人姉妹の真ん中でした。
その姉妹の息子三人兄弟も、二人姉妹も、ごく普通の背丈でした。
小生の四兄弟の中では、私が一番背高でした。
180cm弱までいきましたが、当時では、それでも本当に背が高い方だったのですよ。
今の世の中、このくらいの背丈の人はザラにいますけど…。
自分だけ、なぜ背が高くなったのか、その理由を色々考えました。
遺伝でもないし、特別旨いものを食べていた訳でもないし。
思い当たる理由はただ一つ。
これだけは、確信を持って言えます。
中学校に入って、籠球(バスケットボール)に夢中になって、毎日、飛び跳ねていたので、背が伸びたのではないかと今では思っているのです。
どうでしょうか?
背が伸びるに攣(つ)られるように、何だか訳が分からないのですが、足が早くなってきたのです。
秋の運動会では、クラス対抗リレーの選手に選ばれたほどでしたから。
もし小学生の時に、コンプレックスを感じるくらい、身長が低かったら、中学に入ったら、是非、籠球や排球(バレーボール)で、ピョンピョン天に向かって飛び跳ねてみて下さい。
気圧の低い、より高いところへ、跳んで御覧なさい。
もしかすると、私のように、少しは背丈が伸びるかも知れませんよ。
現在、74歳になって背丈を測ってみると、およそ178cm。
年を取ると背が縮むと言われますが、本当ですね!
1センチほど低くなってしまいました。
今から、空高く跳んでみますか!
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院長の独り言 360 ; 日本インプラント学会の講演を聴きに行くの巻

2月11日(建国記念日)、日本口腔インプラント学会が新宿の京王プラザホテルで開催されました。
石川歯科の2人のドクター(Dr.高行 & Dr.山森)が、講演を依頼されていました。
心配だったので、私も新宿まで聞きに行ったのです。
講演前で緊張している2人に、『聴衆をジャガイモだと思って、普段通りに、リラックスをして喋れ!』とか、かなりイイ加減なアドバイスをひとくさり。
幸い無事に、講演が終わりました。
2人の著書を土台にして、さらに考察が深められていました。
結構、結構。
打ち上げは、若い人だけで邪魔をしないように、私だけ先に帰宅することにしました。
新宿駅から中央線で帰るのですが、プラットホームに上って行ったところ、運が良いことに、特別快速の高尾行きが偶然、駅に停まっていました。
進行方向の一番前、すなわち、運転席の直ぐ後ろに乗ることが出来たのです。
小さい頃、わたしは電車に乗る時、常に一番前に乗って、運転手の行動を必死に見学するほど、電車の運転手に憧れていたのです。
大きくなったら、何が何でも省線(今のJR)の運転手になりたいと思っていました。
幸運にも、乗った場所が十年振りに、運転席の真後ろの電車の一番前です。
進行方向の景色がバッチリ見えるのです。
周りの乗客に心中を感づかれないように、如何にも無関心を装っていましたが、イイ歳をしているのに、内心、久しぶりに興奮してしまいました。
特別快速電車なので、ほとんどの駅を通過していきます。
一直線の長い、長い線路の先を大満足で見ていたので、普段は直ぐに座りたくなるのに、立ったままでも、全く疲れを感じませんでした。
電車の前で、通過する駅やホームにいる人、何処までも続く線路を見て興奮している、何て変なオヤジだと自分自身、内心呆れていたのです。
アッと言う間に下車しなければならない立川駅に着いてしまい、少々物足りない気分で帰宅したのでした。
二人の講演を聞きに行ったご利益と云うことですか…。
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院長の独り言 359 ; わが愛しのもんじゃ焼き

小学校低学年の頃まで、もんじゃ焼きの本場である東京下町に、私は住んでいました。
そして、焼きそばと言えば、柔らかいうどんをソース味で焼いて食べていました。
また、今で言うパスタは、ドンドン焼きと言って、うどん粉の生地に野菜などを混ぜ合わせて、フライパンで焼いていました。
みんな、私の兄弟の食べ盛りに、おやつ代わりとして、お袋が作っていたものです。
焼きそばも、ドンドン焼きも、口当たりはあくまでも柔らかく、殆ど咬まなくて飲み込みます。
子供にとっては、早く沢山食べれるので、特に、私たち兄弟は大好きでした。
いわゆるお袋の味といったところです。
この柔らかな焼きそばとドンドン焼きをいま思い出すと、お袋や親父をつい思い出してしまい、涙が出そうになってしまいます。
現在、かた焼きそばや硬い生地のパスタ(アルデンテ)が出回っています。
そして、たいへん人気があります。
小生の幼い頃、住んでいた家が、月島に近いせいもあったので、あのグジャグジャした名物『もんじゃ焼き』を食べ慣れていました。
大人になった今でも、かたい焼きそばや、硬い生地のパスタよりも、柔らかな焼きそばや柔らかい生地のパスタを注文してしまいます。
そう言ったわけで、私は『もんじゃ焼き』が大好きです。
食べ慣れない人にとっては、もんじゃ焼きは半焼きみたいで気持ち悪いと言いますが、私にとっては、もんじゃ焼きは食べるのではなくて飲み物です!
そう言えば、大学に籍を置いていた頃、同僚で、『カレー大好き人間』がいました。
オーバーではなくて、彼は毎日どころか、三食カレーで大丈夫だと嘯(うそぶい)ているほどカレー好きでした。
その彼が矢張り、カレーは『飲みものだ!』と真剣な顔で言っていました。
私は、彼と違って、冗談で言っているのですよ。
本当にもんじゃ焼きなんかを飲むと、エライ目に合うのでご注意を…。
八王子でもんじゃ焼きの美味しいお店を知っていたら、是非、教えて下さい。
診療所のスタッフ引き連れて食べに行きたいのですが。

インプラント学会にて講演を行いました。

石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。
昨日、新宿の京王プラザホテルにて催された日本口腔インプラント学会関東・甲信越支部学術大会にて、副院長の石川高行先生と講演を行いました。
先日出版された本「こうすれば防げるインプラント周囲炎」の内容に沿って、インプラント周囲炎を予防するためのインプラントの選択と埋入術式について講演を行いました。
講演時間が二人合わせて一時間ほどと短い時間でしたが、スライドをたくさん準備してしまい、駆け足の講演となってしまったことが反省点です。
また次の講演のときには、今回の反省点を生かしていきたいと思います。
講演1講演2講演3

院長の独り言 358 ; 裕ちゃんと高度成長期

私が大学生の頃、邦画と言えば、石原裕次郎や小林旭主演の日活映画が、大人気をはくしていました。
石原裕次郎は『裕ちゃん!裕ちゃん!』と呼ばれて、その人気は特別で、当時、野球界の大人気者である巨人の長嶋と張り合っていたのです。
裕ちゃんは、現在も政界で活躍している石原慎太郎衆議院議員の弟さんです。
慎太郎氏は23歳の時、小説『太陽の季節』で芥川賞に輝きました。
『太陽の季節』は、それまでの小説にない、高度成長期の若者文化を赤裸々に記した作品です。
太陽族と云う若者たちを生み出したのです。
海とヨットと若い男女が主役と言えば、みなさん小説の内容がだいたい想像がつくと思います。
あの障子を破る場面は衝撃でした…。
その映画化で、裕ちゃんが俳優としてデビューしたと云うわけです。
勿論、裕ちゃんもハンサムですが、裕ちゃんが映画界にデビューするまでは、男優のスターといえば、佐田啓二や鶴田浩二、あるいは長谷川一夫といった、顔の整ったオーソドックスな、所謂(いわゆる)、美男子でした。
言葉を変えれば、男優スターは『優男』と言った感じでした。
ところが、昭和30年代に入って、丁度、日本が高度成長期に入った時期に引っ張られるように、裕ちゃんや三船敏郎のような野性味をプンプンさせた男優が、映画界の人気者になったのです。
三船敏郎は、黒澤明監督のもとで、時代劇を中心とした、チョット硬派な娯楽作品に多く主演し、世界的な大スターになりました。
一方、裕ちゃんは痛快娯楽映画で邦画の大スターになったのでした。
今日では誰も口にしない『イカす!』は、裕ちゃんが流行(はや)らせた台詞(せりふ)です。
裕ちゃんや長嶋が、人気の頂点に立った昭和33〜35年頃は、政界では、安保闘争で、世の中は騒然としていました。
私も大学生でしたが、デモの集団に入り、国会議事堂の中庭に友達たちと乱入して機動隊とにらみ合った経験があります。
本当の話ですよ。
東京タワー、カラーテレビ放送、新幹線…と、我が国日本がいろいろな面で勢いづいてきた『岩戸景気』の始まりでした。
そう言えば、先頃亡くなった大横綱の大鵬も活躍していました。
『巨人 大鵬 卵焼き』は、今でも語られています。
デモでも、スポーツでも、経済でも、良い悪いは別にして、当時は世の中、たいへん活気がありました。
日本があらゆる面で右肩上りに上昇するものと、国民みなが信じていたので、みんな顔が輝いて、希望を持って生きていました。
まさか50年後に、こんなに不景気の時代が訪れようとは、小生も思ってもいませんでした。
アベノミクスの成功を祈るばかりです。
その成果は、本年7月21日の参院選後に、明らかになるはずです。
神様!仏様!稲尾さま!って、今回のブログは、さすがに古すぎたか…。
ishiharayu

院長の独り言 357 ; iPS細胞が照らす未来医療

山中伸弥博士はiPS細胞を作り出して、昨年のノーベル生理学•医学賞を授与された京都大学の教授です。
先生へのノーベル賞の授与は、日本人として、大変、誇りに思います。
過去、体細胞の核を卵子に移植することにより、個体を作り出し、所謂、『クローン羊のドリー』を誕生させて、世界を『アッ』と驚かせたイギリスのイアン・ウイルムット博士がいました。
このドリーを作るに当たっては、核を卵子の中に入れることが必須条件でした。
これは、たいへん細かい手術を必要とし、成功率が非常に低いのです。
ところが核と卵子を操作しなくとも、遺伝子を皮膚細胞に入れるだけで、身体のあらゆる器官を再生出来ると、山中先生は証明したのです。
それがiPS細胞による臓器再生です。
この研究が成就すれば、医療に多大な貢献をすると思われます。
胃でも、膵臓でも、腎臓でも、身体のどの器官でも、再生可能と云う事です。
生理学者によると、卵子への移植を経ずにリプログラミング(高度に分化した臓器の核を、受精した直後の未分化の状態に戻すこと)することは、不可能だと思われていたそうです。
それが可能となる道づけをしたのが山中先生です。
臨床にも携わっていた山中先生は、『困っている患者さんを助けたい』ことが、一番の目標と言っています。
iPS細胞から作った網膜細胞を移植する臨床実験を、今年にも始める予定だそうです。
細胞の分化は、意外にも、数少ない遺伝子に支配されていてると云うことが、山中先生のiPS細胞の研究から明らかになってきているのです。
身体の一部が、不幸にも消失した人にとっては、大変な朗報です。
一方、ある意味において、iPS細胞はガン細胞と同じで、増殖する未分化細胞です。
一寸狂ってiPS細胞が分裂分化すると、実際、癌化してしまう恐れがあります。
しかし、不完全なiPS細胞が癌化するのを防ぐ方法は、すでに見つかっているそうです。
いずれにしても、この偉大なる研究が、人類の大きな幸せに繋がることを祈っています。

歯科領域においても、iPS細胞に期待大と云うところです。
みなさん、抜けた自分の歯を見ると、『なんと単純な臓器だろう!』と思ったことが、あるやも知れません。
そして、『歯は、iPS細胞で、すぐにも再生できるだろう!』と、考えていると思いますが、いまだ、歯の再生は為されていません。
なぜなら、歯とそれを支える歯周組織は、非常に緻密な構造を持つ臓器なのです。
現在、歯医者を『歯を治療するところ』と考えている方も多いです。
勿論、歯を治療するのですが、それだけではなく、むしろ『一生、心地良く噛めるように、歯を疾患から予防するところ』なのです。
一度、歯を失うと、咀嚼機能の回復は、難しいのです
当院では、腕の良い歯科衛生士たちが、日々、研鑽に励んで、予防歯科を実践していますよ。
是非、それぞれの個人に合った、定期的なお口の中の清掃をお勧めします。

院長の独り言 356 ;グローバル 資本主義って、本当に日本人に向いているのかな?

私が若い頃、情報を得るには、新聞、ラジオ、テレビを必要としました。
そして、10数年前まで、新聞の記事、テレビやラジオで放送しているニュースを、すべて事実だと信じていました。
ところが、パソコンを購入してインターネットを覗くようになって理解したのですが、新聞社やテレビ局が報道するニュースが、真実と異なり、すこし色付けされて、われわれ一般ピープルに提供されていることが分かってきたのです。
例えば、話題になっているTPP問題。
新聞やテレビでは、TPPに参加すると、関税が撤廃されて、輸出立国日本にとって大変にメリットがあると報じています。
ところがネット上で、ISD条項(Investor-State Dispute Settlement)を調べると、TPPに日本が入ってしまうと、不平等な条約を課せられてしまうと警笛を鳴らしています。
農業分野だけでも大変な痛手を被(こうむ)るのに、全ての制度を自由化するのでスゾ!
金融(郵貯)も、保険も、医療(国民保険制度)も、公共事業(建設業)も、20部門以上全ての業界がグローバリズムに晒されてしまうと云うのです。
医療に関して言えば、世界におおいに自慢出来る制度である、我が国の国民皆保険も潰されてしまう危険性があるそうです。
国民が安心して医療機関にかかれなくなる危険性が大なのです。
また金融について考えてみれば、国民が信頼してお金を預けている郵便貯金が崩壊してしまうかも知れません。
大手の新聞社やテレビ局も、グローバル資本に乗っ取られるかも知れないのに、マスコミはTPP参加を奨励しているのには、開いた口がふさがりません。
なにしろ、聖域なし関税撤廃ですから…。
『そんな馬鹿な!』
『そんな心配なんか無い!』と、本当に言い切れるのですか?
資本主義の行く末が、本当に理解出来ているのでしょうか?
不用心で、お人好しの我が国日本が、小生、心配で、心配で仕様がないのです。
かつて欧米列強と結んだ不平等条約に、明治政府がどれほど苦しんだでしょうか。
一旦、外国と条約を結んでしまうと、簡単には破棄出来ません。
日清•日露戦争は、欧米列強の帝国主義のクビキから逃れる、独立戦争の側面が大なのですよ。
国民的レベルで、もっともっと慎重に、真剣に、議論すべきだと思うのですが、私の杞憂でしょうか?

院長の独り言 355 ; 小生、ついにスマホ『iPhone5』デビューだぜ!

若い頃は、外出先で電話をかける時は公衆電話でした。
今時の街角では、ほとんど公衆電話を目にする事がないくらい、携帯電話の花盛りです。
老いも、若きも、携帯電話を持たなければ、生活が成り立たない世の中になってしまいました。
そして現在、石川歯科では、息子をはじめ、スタッフのほとんどが、多機能型携帯電話であるスマートフォン『iPhone(アイホン)』を使っています。
小生は、携帯電話はラクラクホンでしたが、パソコンはiPhoneの発売元であるアップル社のデスクトップパソコン『iMac(アイマック)』を利用して、世の中の情報を取得していました。
さらに去年、タブレット型パソコン『iPad(アイパッド)』を手に入れて、大変重宝していたので、iPhoneを買う気は全くありませんでした。
しかし、iPadがいくら小型化したとは云え、普段持ち歩くには、一寸大き過ぎて不便です。
ところが先週、ラクラクホンの調子がどうもおかしいのです。
修理しようかとも思ったのですが、『ラクラクホンを修理するくらいなら、iPhoneに乗り換えたら…』と息子に進言されたのです。
『iPhoneはiPadと使い方がほとんど同じだから、直ぐに慣れてしまうよ』との事。
iPhoneはiPadが小型化していて、さらに携帯電話機能もあり、軽々と持って歩けるので、『こんな便利で素晴らしいものはない!』と、息子のご託宣でした。
そうと決めたら、早速、銀座のアップルストアに、日曜日の午後に出かけてみました。
店内は若い人を中心に、満員でごった返していました。
ここは日本とは思えないほどにインターナショナルで、日本語は当然として、英語、中国語、フランス語などが聞こえてきました。
店員さん(店員さんはストア内では、ジーニアス”天才“と自称しています)に、ラクラクホンからiPhone5に変えたい旨を伝えたのでした。
電話番号はそのままにして(電話番号のポータビリティー制度というそうです)、iPhone5に移動するのには、かなり時間がかかりました。
もし息子が付いていなかったら、何倍も時間が必要だったことでしょう。
何とか無事にiPhone5に、電話番号やメール機能を移し替えることが出来ました。
それ以上に、色々な機能満載で、このiPhone5が一つあれば、パソコン一台担いでいるようなものだと理解したのです。
こんな小さい器具で世の中の情報(ニュース、天気予報、道路情報、カメラ、為替などなど)を手に入れたり、音楽を聞いたり、囲碁将棋を打ったり指したり出来ますし、勿論、電話もメールもOK!
iPhone5を買って、一日で自分の生活が大きく変わったような気がするのです。
そしてちょっと若者気分が味わえます。
早速、石川歯科のスタッフ達に見せつけてやりました!
『スマホで絶好調だぜ!』

院長の独り言 354 ; 安倍晋三総理、頑張れ!

安倍晋三総理大臣が、デフレ脱却を目指して頑張っています。
長期のデフレが進行すると、パナソニックやシャープなど日本を代表する大企業でも、経営が上手くいきません。
さらなる経営努力するとか、しないとか、あまり関係ありません。
デフレで、おまけに円高と云う状況では、会社の経営が益々、上手くいかなくなります。
あまりの理不尽な円高では、輸出が上手くいかなくなるからです。
もっと早く、日本円の適正な為替相場に合わせなければいけなかったのに、外国に気を遣い過ぎて、今までの政府は過度の円高を是正しようとしませんでした。
デフレで円高では、いくら何でも、例え世界的に優秀な日本企業もつぶれてしまいます。
今までの政府は一体、何をしていたのでしょうか。
アメリカ、欧州、中国などの国々が、それなりの対策を取っているのに、我が国は全く無策でした。
アメリカFRB(中央銀行)のベン•バーナンキ総裁は、『ヘリコプター•ベン』と渾名されるほどに(ヘリコプターからドル札をバラまいている意)、ドルを刷って、刷って、刷りまくっているのですから。
約20年間も不景気でいるという事を、皆さん、お分かりだと思います。
地方の疲弊を見てください…。
安倍総理が2%の物価上昇目標を設定しましたが、日銀があまり積極的でないのが気になります。
白川日銀総裁!
ここは何とか、総理に積極的に協力して下さい。
先日の日銀会見でも、あなたが不機嫌そうにしたので、一時、円高にふれ、株価は下がりました。
良い悪いは兎も角、今までの政策が不味(まず)かったのですから、総理のリフレ政策(需要を創出することで景気の回復をはかり、デフレから脱却しつつインフレーションの発生を防止しようとする政策)を、みんなで応援すべきだと思います。
それでも景気が回復しなければ、また他の方法を考えれば良いのだと思います。
やる前から『総理の方法では、うまくいかないのではないか!』などと、脚を引っ張る評論家がいますが、それでは他にどんな良い方策があるのか、教えて貰いたいものです。
只、批判するのは簡単ですが、先ず『アベノミクス』を粛々と執行すべきです。
アベノミクスとは『安倍晋三総理+エコノミクス』の造語です。
名目の経済成長を最低3%としたのです。
例え、その結果が芳しくなくても、批判すべきではないと思います。
今まで政府や日銀は何もせず、デフレを容認していたのですから。
その間、幾つの中小企業が潰れたと思うのですか。
もし政策が立ち行かなくなれば、また他の方法を模索すれば良い事です。
ただ何もしないのが、一番良くないと思うのです。
ただでも日本人の心が、気弱になってきているのですから…。

院長がブログをまとめて、本を出版しました!

幸い、多くの方々に読んで頂いている、父(院長)のブログを編集して、本として出版しました!
息子であるわたくしが言うのも何ですが、多岐にわたる話題満載で、本当に面白いですよ。
患者さまは勿論、医院にいらした際に、受付で申し出て頂けたら、院長のサイン入り本(!?)を差し上げます。
もし当院の患者さまではなく、本がご希望の方がいらしたら、申し訳ありませんが、送料実費でお送り致します。
院長のサイン付きですよ!
なんてね…

院長の独り言 353 ; 忘年会の余興

新年おめでとうございます。
今年こそ、日本にとって良い年になるように祈念します。
『光陰矢の如し』とはよく言いますが、もう昨年になってしまった去年の12月28日(木)の話です。
午前中は急患の処置を施し、一週間の正月休みの間に、トラブルが起きないように治療した後、午後から高尾山へと、小生、息子、山森君、そしてスタイグル社の林社長の、男ども4人で、感謝のお祈りに行きました。

大掃除など仕事納めの後、例年通り、忘年会を午後6時から無礼講で賑(にぎ)やかに行いました。
八王子市本町にある『肉の山本』で、「しゃぶしゃぶ」か「すき焼き」のどちらかを選んで、鍋パーティ式の忘年会と洒落込んでみました。
治療は勿論、頑張りましたが、勉強会や本の執筆に積極的に取り組むなど、大変有意義で実のある一年間でした。
そして、みんなでご機嫌に乾杯!!
ニコニコと全員の嬉しそうな顔、顔、顔…。
宴も酣(たけなわ)、余興として、鈴木さんと阿部さんの司会によるビンゴ大会の始まり始まり!
素晴らしい景品の当たった人やダメだった人など、悲喜こもごも…。

無事にビンゴも終わったので、小生、スタッフ全員を煙に巻いてやろうと、若い頃、凝っていた『手品』を披露してみました。
久し振りの手品の披露だったので、内心、上手くいくかどうか、ドキドキして正直、手が震えました。
どうにかみんなをダマクラカしてホッと一息!

こうして忘年会の夜は更けていきました…。
そして、いよいよ巳年の平成25 年の幕開けです。
今日は元旦、靖国神社に手を合わせに行ってきました。
去年より多くの人がお参りに来ているところをみると、安倍晋三首相に期待している人が多いと云う事でしょう。
ニッポン再生!に期待大です。

わたしの故郷

久しぶりのブログ更新になります、石川高行です。
今日は、非常に寒い一日ですね。
といっても、わたしは籠の中の鳥。
一日中、暖房のきいた部屋の中に籠って、歯科専門誌から依頼を受けた原稿を書いています。
わたしの部屋は13階に在って、原稿書きの気分転換には、コーヒーを入れたり、お風呂に入ったり、お気に入りのジャズを聞いたり、ベランダに出て景色を眺めたりします。
何の因果か、わたしの部屋は、母校である高校の目の前にあるのです。
その母校の校庭は、わたしのベランダの正面です。
後輩たちはこんな寒空の中、元気な声を張り上げて、頑張ってスポーツをやっている。
わたしの住んでいるマンションの敷地には、約20年前の1980年代後半に、保険会社がありました。
その玄関には見事な植え込みがあって、初夏である新緑の季節には、美術の授業で写生をしました。
真冬に新緑の季節のことを書くのは、少しおかしいですが、初夏の日差しが新緑を照らして、桜並木は輝いていました。
友人とキャンバスの絵を揶揄い合いながらも、わたしは結構、真剣に絵を描いていました。
その一つ一つの瞬間が懐かしいです。
あれから20余年、経過して、国立市の大学通りの桜は老いて、中には死んでしまった木もあります。
過ぎた時間は戻らないのは分かっているのですが、ただひたすら懐かしいです。
コートを着込んでも、寒い今日。
そろそろ、ベランダから引き上げる頃合いです。
16歳から自分は何か進歩したのであろうか、ただ肉体だけが加齢して、精神面での進歩はあったのであろうか。
まあ、答えのでない思いは置いておいて、原稿書きに戻らねばならないでしょう。
矢川にいたザリガニ、一橋大学内の雑木林にいたカブトムシやノコギリクワガタやカナブン。
南養寺裏の畑から出土する縄文土器のかけらや石器、城山の土豪跡にいるシマヘビ、多摩川のクチボソやマゴイ…。
わたし以外に知らない、わたしの脳内だけにある、故郷である国立の古い記憶たち。
すべてが思い出に変わって、消えていく…。
結局、なるようにしかならない。
やけに捨て鉢な気分になって、原稿書きに戻るのだろう。
迷ったときは、前に進むしかない。
ただただ進むしかないのだ。
感傷はすぐに冷えるコーヒーのように消えていく…

院長の独り言 352 ; プロペラ機でゆっくり行こう!

誰でも、仕事や旅行で、飛行機に乗る機会が増えてきましたね。
自分が飛行機に搭乗出来るなんて、中学生の私は思ってもいませんでした。
理由は、二つあって、一つは飛行機に乗れるほどのお金を稼げるようにはなれないと思っていた事が、第一の理由です。
何しろ、当時は飛行機の搭乗代がべらぼうに高額でした。
飛行機旅行なんか夢のまた夢でした。
その当時の我が国は、戦争でアメリカに原爆や焼夷弾などで国中滅茶苦茶にされてしまい、自動車にも乗れないのではないかと思えるほどの貧乏国家でした。
もう一つの理由は、今のように、こんなに飛行機が日本全国も世界中も飛び交う世の中になるなど、想像出来なかったからです。
今の先進国は、飛行機時代到来と言ったところです。
現在、飛行機はプロペラ機は少なく、ジャンボなどジェット機が主流です。
なんせ、皆さんご存知のように、ジェット機はスピードが全然違います。
私も一回だけ、プロペラ機に乗った事がありましたが、あとの搭乗は全てジェット機です。
戦後、初めての国産の飛行機と言うことで、話題沸騰のプロペラ機『YS11』に一度だけ乗った経験があるのです。
大学のクラス会を四国でやったのですが、その時に、羽田空港からYS11
に乗って高松に行きました。
正直、YS11に乗る前は、新幹線を利用して行こうと思っていました。
ジャンボ機などのジェット機は乗り心地も良いし、スピードも素晴らしいので、プロペラ機は衰退することは、間違いないと思っていたのです。
ところが実際に、YS11に乗ってみると、乗り心地は悪くありません。
プロペラ機は冷遇されているのか、搭乗場所は羽田空港の隅の方にあり、そこから、定時に離陸したYS11飛行機は、大都会東京を眼下に見下ろして雲の上に出て来たのですが、ジェット機から見る風景より、ダントツにプロペラ機からの眺めの方が素晴らしいのです。
YS11の機体はユックリと動くので、街並やビル街が、まるで美しい絵の具をぶちまけたように眼下に拡がっていたのです。
圧巻の眺めは、富士山の横を通過した時の眺めです。
丁度、目線が頂上の少し上のあたりでしたが、こんな直ぐそばから、富士山の雄大で神々しい姿を拝めたのは、後にも先にも経験していません。
例えれば、丁度、新幹線と在来線の窓から眺めた風景の違いです。
在来線は、ユックリと外の風景が流れて行くので、新幹線より風景の移り変わりが大いに楽しめます。
YS11のプロペラ機こそ、飛行機に乗ったと云う実感を、味わせてくれたのです!
国内だけでも、YS11のようなプロペラ機を沢山、飛ばして貰いたいものです。
YS11に乗った子供も大人も、これぞ飛行機と大喜びするに違いありません。

院長の独り言 351 ; 単細胞な話

若い頃、仕事上のヘマをやらかして、医局の先輩に『お前は本当に単細胞だな!』と言われることがありました。
これは、『お前はアホだ!』と言われているのと同じです。
しかし、先輩!
ゾウリムシなどの単細胞生物は、ある意味でたいへん優れた細胞から成り立っているのですぞ!
ゾウリムシは、『アホだ!単細胞だ!』などと、侮(あなど)って蔑(さげす)んでいるどころではないのです。
単細胞と言っている本人こそ不勉強を認めているようなものですよ。
一つの細胞で運動し、補食(phagocyte;ファゴサイト)して排泄するのです。
たった一個の細胞で!
今年2月に、イギリスの科学者が、ゾウリムシ体内の色々な構成物質の動きと、星雲や恒星が拡張していく大宇宙の動きとが、ソックリの運動様式であると発表したのです。
単細胞のゾウリムシは楕円形をしていて、細胞の外側は繊毛に覆われています。その繊毛が動くことによって、ゾウリムシは回転しながら移動します。
宇宙空間も、全ての物質を巻き込んで、回転運動をしています。
ゾウリムシの細胞内には、収縮胞が背側に2個あって、身体に取り込んだ余分の水分の排出をしています。
この排出の動きと同じ動きをしているのは、ブラックホールです。
また、ゾウリムシの先端には、細胞口が存在し、食べ物を取り込みます。
そして、養分を吸収する食胞が、腹側に存在します。
これが宇宙のホワイトホールに当たるのではないでしょうか?
このようにゾウリムシは、一つの細胞に生きて行くために必要な、最小限の器官があるのです。
そして、ゾウリムシの中の構成物質の動きと、宇宙の星の膨張崩壊、ブラックホール、ホワイトホール、回転運動など95%以上が同じ動きだそうです。
要するに、宇宙は巨大なゾウリムシで、その中で太陽があり、地球があり、人間も生活していると言うのです。
今から3年以上前に、小生、ブログを書き始めたのですが、そのブログの第3回で、太陽系の動きと生物の最小単位の電子の運動がソックリ同じであると指摘しました。
何だか理解出来るような、出来ないような話です!
世の中にゾウリムシは数えきれないほど、蠢(うごめいて)います。
と、言うことは、この我々の住んでいる星や星雲、そして人間を含んだ宇宙も無数に存在するのでしょうか。
どう思います。
単細胞の生き物は、みんな宇宙と同じ動きをするのですよ。
単細胞生物は『アホ』でしょうか?
しかし、あまり真剣にこのブログを読まないで、単細胞な話として読み流して下さいよ。
おっと、単細胞ではないか…。

院長の独り言 350 ; 新装した東京駅と50年振りに訪れた日本橋三越

小生、なるべく早急に、いま話題の新装した『東京駅』に行き、そのレトロの建築を事細かに観察しようと思っていたのです。
休日で、しかも何も予定が無かったので、張り切って出かける事にしました。
ついでに、旨いものでもと思い立って出かけたのですが、東京駅の目の前に来てみて、自分の甘い考えにガックリきました。
あまりの人の多さにビックリ仰天!
考える事はみなさん同じですね。
見学は疎か、混み混みで、食事を摂るどころではないのです!
ほうほうの体で退散と相成りました!
しかし、折角、都心まで出て来たのに、そそくさと帰るのでは能がないので、久しぶりに日本橋の三越に行き先を方向転換したのです。
何故三越にしたかと言いますと、午後1時半を過ぎていたので、お腹がペコペコに空いてしまい、昼食をと思ったからです。
私が結婚した50年前には、『美味しいものでも食べに行くか!』と一寸シャレた食べ物屋さんに行く場合、伊勢丹、高島屋などの有名デパートの大食堂へ行くのが、親の頃からの定番でした。
現在のように食事所が溢れていて、しかも日本料理、西洋料理や中華料理など種類も豊富で選り取り見取とは当時はいかなかったのです。
当時は、何の料理でも安心して食べられるポピュラーな場所は、何と言ってもデパートの大食堂が一番でした。
本当に久しぶりに入った三越の大食堂『特別食堂』も東京駅と同じく改装したばかりとの事でした。
現在でも三越の大食堂は人気なのか、午後2時近いのに、広い食堂は満員でした。 
食堂の雰囲気は50年前と殆ど変わらず、花柄の絨毯が引き詰められていて、最近の食堂と比較するとシック感とレトロ感が強いのです。
店員にかなり年配の人が多いせいか、たいへん落ち着いた雰囲気を醸(かも)し出していました。
家族単位でのんびり食事を楽しんでいた昭和の時代が懐かしく重なりました。
一方、現代の外食はピンキリですね。
ひと昔前のデパートの大食堂のかなり豪華で、しかも適度な価格の食事が脳裏をかすめたのでした。
東京駅に行かれる予定の方々は、平日が宜しいようです…。

院長の独り言 349 ; 当院からオペラ歌手の誕生!

ウチの診療所に、学生アルバイトとして手伝いに来ている目のクリッとした可愛い阿部伊吹さん。
音楽大学の声楽科に通っていましたが、目出たく今春卒業しました。
彼女は在学中から将来を嘱望されているのです。
4年生の時、オペラのコンサートでヴォーカリストに選抜された、彼女のソプラノを聞きましたが、想像していた以上に迫力があり、素晴らしい美声に驚かされたのです。
早速、ウチの診療所の忘年会の余興で歌って貰いましたが、スタッフ一同ビックリするほどの声でした。
卒業後、ソプラノのプロ歌手を目指して、二期会オペラ研究所で研鑽に励んでいるそうです。
今回、第62回八王子市民文化祭(10月14日)、音楽芸術フェスティバルの代表の一人に選出されて、八王子いちょうホールで、ソプラノを独唱する事になりました。
彼女はソプラノ歌手として参加しましたが、他にも、サクソホーンの独奏、琴、尺八など、7つの演目の中の一つに選ばれたのですから、大変なものです。
当日、800人収容のホールは超満員。
入場出来ない人も大勢いたそうです。
二胡、サクソホーン、フルートの演奏の後、豪華な衣装の彼女が四番目に登場、オペラ「ランメルモールのルチア」を歌って、大喝采でした。
彼女の前の三部門の演奏はどちらかと云うと静かだったので、拍手もそれなりでしたが、彼女の独唱は特に素晴らしく、声量も豊かで、その声の迫力たるや身体を震わす程で、観衆から大拍手を貰ったのでした。
小生とすれば、八王子生まれのプロオペラ歌手(ソプラノ)の誕生を願って止みません。
伊吹さん、頑張ってね!
石川歯科のスタッフ全員で応援していますよ。

院長の独り言 348 ; ダンゴムシに舐めつくされた、真っ白なカボチャ…

石川歯科医院の花壇は、美しい花々を植えて、秋を演出しています。
その草木の間に、カボチャの玩具(おもちゃ)を飾り付けました。
橙色の塗料をカボチャに丁寧に塗って、花壇をハロウィン風にした1ヶ月前の話です。
後で分かったのですが、その塗料は舐めてみるとたいへん甘いのです。
綺麗に植えてある秋の花々の間に、その橙色の小さなカボチャの玩具をアチコチに飾り付けて、ハロウィンの雰囲気を出して、患者さんに喜んで貰おうと思ったのです。
花壇はいつもと違った、華やかな雰囲気になったのか、ワザワザ足を止めて見ていく人もいるくらいです。
ところが翌朝、驚いたことに、橙色のカボチャは『真っ白け』に変身していました。
誰かが悪戯(いたずら)したのかもと考えましたが、カボチャの模型に塗られた橙色を剥(は)がして、しかも真夜中にやる程の物好きなんか、とてもいるとは考えられません。
『不思議だ、不思議だ』と思案していました。
あまり不思議だったので、白いカボチャをジックリと観察していたら、小さな黒い点がカボチャの表面にくっついているのです。
それも何となく蠢(うごめ)いている様なのです。
顔を近づけて見てみると、ビックリですが、その蠢いている実態は『ダンゴ虫』の赤ちゃんでした。
ダンゴ虫の赤ちゃんがカボチャの表面に塗ってある甘い塗料を舐め尽くしていたと云うわけでした。
そう言えば、花壇の周りにダンゴ虫がかなりいる事は以前から分かっていました。
それにしても、あまりに見事に真っ白に変身したカボチャ!
ダイダイ色の時より、緑の葉っぱと真っ赤な花の中で、鮮やかに見える白色のカボチャ!
その真っ白なカボチャをそのままにして観賞しています。
だいたいダンゴ虫とは如何なる生き物なのでしょうか?
触ると丸くなる例のヤツです。
甲殻類に属すると云う事は、エビやカニの親戚です。
従って、旨くはありませんが食べても大丈夫。
餌は腐葉土や枯れ葉、煮干しなども好物のようです。
産まれた時から大人のダンゴ虫と同じ姿です。
余程カボチャに付いていた甘い塗料が旨かったのでしょうか、全てのダイダイ色のカボチャが舐め尽くされていました。

院長の独り言 347 ; 前の千円札は、誰の肖像画が印刷されていましたか?

現在の千円札に印刷されている肖像画は野口英世のものです。
今日、コンビニで貰ったお釣りの中に、一代前の旧千円札が紛(まぎれ)込んでいました。
旧千円札のお札の色は、現行の淡いブルーと似ていますが、描かれている肖像人物は野口英世と異なり、皆様もご存知の夏目漱石です。
漱石と云えば明治の文豪です。
小中学校の教科書に必ず彼の小説が載っています。
漱石の処女作は、強烈な社会風刺小説『吾輩は猫である』です。
また、全ての学園小説の基になった『坊ちゃん』を知らない人はいません。
しかし、漱石は人間の内面の葛藤や心理小説も得意なのです。
『こころ』や『それから』、『門』といった一連の作品群です。
どちらかと云うと、自分の体験を基にした複雑な人間模様を展開している小説が目立ちます。
漱石はユーモア小説作家の如く思われているところがありますが、とんでもない誤解です。
『明暗』を書いている途中で、50歳の若さで亡くなりました。
病名は胃潰瘍です。
現在、胃潰瘍で命を落とすことは先ずありません。
もしかすると、漱石も胃潰瘍ではなく、胃がんだったのかも知れませんね。
何しろ漱石が小説の題材になる美味しいところは殆ど書いていると言われているのですから、後発の小説家は大変です。
これは画期的な題材だと書いてみると、漱石がとっくに取り込んでいたと言った具合です。
矢張り、お札になる人は、その分野の天才ですね。
ここ数年間、ノーベル文学賞の有力候補だった村上春樹は、残念ながら今年も見送りでした。
小説は本当に難しいものですネ。
日本語の表現では素晴らしいのですが、英語など外国語に翻訳すると平凡な感じになってしまう場合も多いのでしょうか。
もし漱石の小説を外国語に翻訳した場合、漱石が心血をそそいだ文章を外国の人に正確に伝える事が出来るのでしょうか。
伝える事が出来れば、世界中で漱石の人気が沸騰するでしょうね。
三島由紀夫は、翻訳されることを前提とした小説を書いていた、ともいわれています。
彼の文章は、耽美的な、とても真似のできない美しい日本語でしたが、あの美文を外国語で表現し得るのでしょうか?
私の個人的な小説の好みでは、志賀直哉のものが好きです。
志賀直哉の文章は簡潔で、こちらも美しい日本語です。
特に『和解』は、お勧めですよ。

院長の独り言 346 ; 喉越しツルツル、新潟名物のへきそば

わが歯科医院の近くに、新潟魚沼の名物を出すそば屋さんを見付けました。
弥彦(やひこ)という名前のおそば屋さんです。
そのお店のそばを口に入れると、たいへんなツルツル感があるのです。
齢七十余年、私はこんな感触のソバを初めて食しました。
ツルツルしているうどんは、世の中に沢山出回っていますが、そばは大変珍しいと思います。
私の恩師であり、今は亡き鈴木賢策東京医科歯科大学教授が新潟県魚沼市浦佐出身です。
教授には現役の頃、よくおそばを食べに連れていってもらいましたが、このツルツル蕎麦を出すおそば屋さんに連れてって貰った経験はありません。
ツルツルそばの話は大変なそば好きの教授の口から、一度も聞いた事がなかったのですから、もしかすると魚沼の名物ではないのかも知れません。
(名物であったら、魚沼の方々、申し訳ありません!)
通常のそばは、繋ぎには小麦粉を使うので、パサパサして喉に引っかかる感じがします。
しかし、このツルツルそばは喉越し滑らかで、スッキリした感じです。
小麦の代わりに繋ぎは『ふのり』と云う海藻を使用しているのだそうです。
正式には『へぎ蕎麦』と言って、特殊な『へぎ』と云う器に入れて、そばが供されます。
そばを笊(ざる)に入れて出してくるのが普通の蕎麦屋さんですが、『へぎ蕎麦』は、見た目がもりそばでも、陶器で作った笊に似せた入れ物に盛って出してくるのです。
魚沼のそばと聞いたので、そば好きの教授のニコニコ顔が直ぐ目に浮かびました。
ついでに、自分の若かりし頃の医局生活が思い出され、研究と学生指導に明け暮れていた50年前が蘇った気分でした。
先輩によると、研究に熱を入れていた40代の鈴木教授は、大変厳しくて怖い鬼のような師匠で、その鋭い眼差しで見つめられると、蛇に睨まれたカエル、傍に行くのも憚られる程だったとの事…。
『よく、教授と二人でソバなど食いに行けるな!』
『俺など緊張して、いくら何でもそばが喉に引っかかってしまうよ!』
と先輩方に言われていましたが、私が入局した頃は、功も名も共に成し遂げた鈴木教授は、小生など孫みたいな存在だったでしょう。
一度も怖いと感じた事はありませんでした。
教授から誘いがあれば、二人で何処へでも平気で出かけていました。
しかし、教授の世界的な素晴らしい業績を考えれば、若い時はさぞかし厳しい先生であったのは、容易に想像出来ます。
教授の発明した『根管長測定器』は、歯髄処置(炎症を起こしている歯の神経を除去して詰め物をする治療)をする時は必ず、世界中で使われているのです。
この測定器のお陰で歯を抜かずに保存出来るので、患者さんにも多大に貢献しているし、われわれ歯科医にとっては無くてはならない器具なのです。
思えば、あの頃の鈴木教授と同じような歳に、小生もなりました。
教授と一杯飲みながら、ツルツル『へぎ蕎麦』を食べてみたいと、心から思います。

自著『こうすれば防げるインプラント周囲炎』、売り出し前に売り切れ中です…

当院の山森翔太先生と著した『こうすれば防げるインプラント周囲炎』が、出版元のクインテッセンス出版やAmazonなどの書店で売り切れてしまいました。
しかも、発売日の10月10日以前に、です。
当院にご連絡頂いても、本はありません。
もし購入希望の方がいらしたら、アルファタイト•インプラントを発売しているケンテック社の買い取った在庫が若干ありますので、同社に問い合わせて下さい。
http://www.alpha-kentec.co.jp
宜しくお願い致します。

院長の独り言 345 ; 葡萄の美味しい食べ方

季節は収穫の秋。
今年の秋は夏が暑かったので、お米、果物など素晴らしい収穫が期待されそうです。
冷夏の時は全ての作物が不作になってしまいます。
水害に遭ったりして、作物が被害を受けた地方もありましたが、日本は広いので全体としては豊作間違いないでしょう。
被害を受けた地区は当然、国が親身になって援助すべきです。
国民同士が助け合えるのが、一流国の証と云うものです。
秋の果物と云えば、リンゴ、梨、ブドウ、柿が定番です。
ブドウは甘酸っぱくて大好きな果物の一つですが、私が子供の頃には『種無しブドウ』はありませんでした。
最初に種無しブドウが出て来たのは、私が中学生になった頃だったと記憶しています。
豆粒のような小さなブドウでした。
今でも、この豆粒のような『種なしブドウ』をたまに目にします。
あまりに小さいブドウなので、当時は5~6粒を一気に頬張って食べたものです。
種が無いので皮ごと何粒も口に入れて食べることが出来、甘い上に面倒くさくないので、それまでの一粒ずつ種を出しながら食べていたブドウよりゼンゼン好きでした。
『品種改良万歳!』と言ったところです。
ところが、大学に入り、山梨出身の友達が従来の大粒の種有りブドウを、種も出さずに当然の如く、ドンドン口に放り込んで食べているのを見て、ビックリ仰天。
『種なんか出していると酸っぱいだけだ』と宣って、『ブドウの食べ方の知らない人間は可哀想だ』との事。
しかし、小生、今もって、種有りブドウは種を出して食べているのです。
確かに、彼が言うように、試しに種の有る、従来の甲州ブドウをそのまま皮だけとって種をとらずに飲み込んでみると、確かに甘いのです。
現在は外国産の大粒の『種無しブドウ』がスーパーや果物店にたくさん並んでいますがね。
おまけに、皮など剥かずに食べられるのもあるので驚きです。
面倒くさくないし、甘くて美味しいし、益々ブドウが好きになっています。
早速、スーパーに行って、ブドウを買ってこよっと!

院長の独り言 344 ; サヨナラ、O君

先日、丁度、学校帰りの小学生の一団に遭遇したのです。
みんな仲良さそうに大きな声で雑談しながらの下校です。
その小学生達を見ていたら、随分、昔の小学校時代が走馬灯のように頭をよぎったのでした…。
小学校3年から5年生まで、同じクラスで本当に仲良くしていた友人がいました。
所謂、親友と云うやつです。
親友のO君は、ある日、突然、千葉から転校して来ました。
丁度、自分の席の隣が空席になっていたので、その席に彼が座ったのです。
直ぐに二人は仲好くなり、勉強するのも、遊ぶのも、いつも一緒。
家が比較的に近かったので、小学校に登校するのも時間を合わせて行きました。
クラスのみんなも、われわれがあまりに仲が良いので、好奇の目で見ていたのです。
一緒にいるだけで、別に話すわけでもないのですが、お互いに離れていると落ち着かなかったのです。
約2年間、本当に何処へ行くにも一緒、遊ぶのも常につるんで行動していました。
別れは、ある日突然訪れました…。
その理由は自分にあったのです。
親父が急に転勤になり、引っ越しすることになったのです。
日曜日の夕飯の時、親父が家族みんなに『仕事の都合で引っ越しをしなければならない!』と告げたのです。
我々兄弟はビックリしてしまいました。
慣れ親しんだ学校を去らなければならないので、兄弟全員シュンとして元気を無くしてしまったのです。
友達は勿論、先生も、校舎も、近所のお兄さんお姉さん、そして駄菓子屋さんなどなど、多くと『さよなら』です。
自分にとっては、親友のO君と別れるのが本当に辛かったのでした。
何とか自分だけ引っ越ししない方法がないものかと心から思ったものです。
勿論、そんな事が出来る筈も無く、『いつかまた会おう!』と固い約束をして引っ越したのでした。
しかし人間は薄情なもので(あるいは私だけが薄情なのか…)、いつしかO君を思い出すことも無くなってしまったのです。
とくに中学生になってからは、O君は忘却の彼方になりました。
皆さんも経験しているように、中学生になると、小学校の時とあらゆる点で環境も違ってきますし、身体も子供から脱却していきます。
自分はバスケットクラブに入部し、クラブ活動にのめり込んだ事もあって、完全にO君の事は忘れてしまいました。
大学生になった時、昔、小学生の頃住んでいた家の近くに用事があったので、帰りに例のO君の家の前に行って見ました。
住人はO君家族ではなく、全く別の家族が住んでいました。
近所の人をつかまえて話を聞くと、その家には、もういくつもの家族が変わって住んでいるそうです。
O君家族が何処に引っ越してしまったか定かではありませんでした。
20歳を超えたO君に是非、会いたかったのですが、願いは叶いませんでした。
『残念だ…』と、その時は思ったのですが、自宅に帰って考えてみると、会わなくてお互い良かったような気もしたのです。
小学校の2人の親友時代は、オブラートに包んで、そっと心の奥深くしまい込んでおいた方が良かった気がしたからです。
いま思い出すのは、屈託のないO君の笑顔だけです。

台風が迫り来るなか、説明会にご参加いただき有り難うございました。

昨日の9/30(日)午後2時から4時まで行ったインプラント説明会。
台風が迫り来るなか10人以上の方のご参加頂きました。
まことに有り難う御座いました。
参加者のみなさまの安全を考えて、開催するかしないかで、スタッフで議論をしましたが、天気予報では『午後6時以降に風雨が強くなる』とのことでしたので、参加者の方々の判断に任せました。
そして、10名以上のご参加でした。
手前勝手な判断をしないで、良かったと思いました。
説明会終了後は、つとめて早くご帰宅いただきました。
帰宅は大丈夫でしたか?
何かと至らない点もあったでしょうが、重ねて有り難う御座いました。
これからもインプラント治療の実際を話していきたいと思いました。

9月30日日曜日、午後2時から『インプラント説明会』を開催します。

しばらく振りですが、インプラント説明会を開催します。
場所は、八王子駅前の東急スクエアビル12階の第1セミナー室で、午後2時から2時間ほどの講演です。
今回、刊行したインプラント周囲炎の本(石川高行•山森翔太著『こうすれば防げるインプラント周囲炎』)の内容を踏まえたセミナーです。
インプラント治療の合併症(失敗)で、一番、多いのはインプラント周囲炎(歯周病のインプラント版)です。
ある論文では、インプラント周囲組織の約90%が感染しているというデータも存在します。
またインプラント周囲炎は、一度、罹患してしまうと、対処法がないのも特徴です。
インプラント周囲炎は対処より予防するしかないのです。
その予防法についても、お話したいと思います。
できるだけ分かりやすく、写真やイラストを多用しながらの説明会です。
インプラント治療をご検討されている方は勿論、すでにインプラント治療を受けられた方にも、参考になる情報です。
奮ってご参加ください。
宜しくお願い致します。

こうすれば防げるインプラント周囲炎!

石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。
ひとつ前の副院長の投稿にもあるように、私たちが執筆した『こうすれば防げるインプラント周囲炎』という専門家向けの本が発売されました。
なぜインプラント周囲炎が起きるか、その原因から考えたインプラント周囲炎の予防法についてイラストを中心にわかりやすくまとめてあります。
歯科専門誌への数ページ程度の投稿は何度か経験しましたが、今回は私たちの単独の本ということで執筆する分量が多く、とても大変でした。
中でも大変だったのは、難しい内容をわかりやすく短く文章にまとめるということと、伝えたいことをイメージし、それをイラストにすることでした。
イラストを担当してくださったスタイグル社の林和貴社長とは、締め切り前の1ヶ月ほどは休日も返上し、ほぼ毎日打ち合わせを行いました。
普段の医院での診療とは別に時間を設けて執筆をし、また、御茶ノ水にあるクインテッセンス出版社まで何度も行って、細かな修正などの打ち合わせを行いました。
そんな苦労もあり、実際に印刷され完成した本を見たときは、とても感慨深かったです。
先週参加した大阪での日本口腔インプラント学会の会場では早速販売されていたため、気になって何度も売り場まで見に行ってしまいました。
来月から大学病院内の売店や医学専門書を取り扱うような大きな書店に置かれる予定なので、もし見つけた方は是非読んでみてください。

クインテッセンス出版より『こうすれば防げるインプラント周囲炎』を刊行しました!

山森翔太先生と私(石川高行)が執筆した本が、歯科関連専門出版会社の最大手であるクインテッセンス出版株式会社より売り出されました。
本格的な発売は10月に入ってからですが、インプラント学会や歯周病関連学会などの直販ブースでは、すでに売り出されています。
特に、口腔インプラント学会では、数十冊も売れたようで、嬉しいというか、関係者各位さまに迷惑を掛けないで済みそうなので、胸を撫で下ろしています。
本の内容は、完全に歯科の専門家(歯科医師、歯科衛生士、歯科技工士)向けですが、初心者にも分かりやすいようにイラストを多用し、主張の根拠となる出典も厳選して載せました。
先日、NHKの番組でも特集されたように、インプラント治療の合併症に世間の注目が集まっています。
インプラントの合併症の中でも、頻出度が最も高いのがインプラント周囲炎です。
インプラント周囲炎は、高い割合で発症し(インプラントの約40%以上の有病率ともいわれています)、一度、発症してしまうと、確実に完治させる対処法はありません。
対処法が存在しないのであれば、予防法を考えるしかないでしょう。
その予防法を、エビデンスの裏付けを確保しながら、イラストで分かりやすく示したのが本書です。
読了後には、ある2つのキーワードが頭の中に残っていたら、私の勝利です(詳細は本書をお読みください)。
インプラント治療は、インプラント周囲炎などの合併症なく経過したのなら、入れ歯やブリッジの欠点を克服できる素晴らしい治療法です。
是非、ご一読頂きたいです。

院長の独り言 343 ; アルコール禁止!

40年前、喫煙を止めたのですが、アルコールは最近まで、毎日、晩酌していました。
酒好きは遺伝なのでしょうか、親も、兄弟も、息子も大好きです。
もっとも息子は2~3年前に、禁酒してしまいましたが…。
食前に1合程度飲むと、少々酔った気分になり話が弾みます。
それから刺身をツマミに2合ほど飲み足した後、御飯を食べる…、という毎日でした。
勿論、アルコールの種類はなんでもOKです。
ビール、焼酎、ワインも大丈夫、若い頃はウイスキーのストレートをよく飲みました。
ところが最近になって、血液検査で異常値が出てきたのです。
肝臓や膵臓、腎臓に関連する値にです。
この歳になるまで、あまりにもお酒を飲み過ぎた報いが、いま出てきたと云う訳です。
家族みんなに『休肝日』を作るように、随分前から、うるさく忠告されていたのですが、『大丈夫、大丈夫』と聞き流してあまく見ていた報いです。
今となっては養生する以外、術が無いようです。
アルコールは2週間に1回程度、それも1〜2合に制限されてしまいました。
勿論、食事は塩分控えめの薄味、家内も私の料理作りが大変のようです。
こんな話を医院ですると、まるで人事のようだと、みんなに苦笑されています。
禁酒なんか大した事ではないと、少しタカを括っていたきらいがありました。
毎日、飲酒が当たり前だと、身も心も慣れ切っていたので、いざ半分禁酒状態になってみると、最初の2~3日は、食事がたいへん不味(まず)く感じ、何度もお酒の誘惑に負けそうになったのです。
『もしかすると、俺はアル中ではないか!?』と悩みました。
しかし、1週間くらい必死に我慢して、お酒を飲まないでいたところ、食前酒など飲まなくても、平気で食事が出来るようになったのです。
正直、最初の頃は、『ノンアルコールビール』の手助けを受けていました。
ところが、当院の山森君が調べてくれたところ、ノンアルコールビールにも、尿酸値を上げるプリン体が少し含まれているようで、プリン体が全く含まれないビールに似た味の『ホッピー』を息子に買ってもらったりと、ジタバタしていたのです…。
しばらくすると、それも必要なくなりました。
何とか酒の魅力から離れる事が出来たようです。
これからは食事を出来るだけゆっくり時間をかけて楽しむように努力をしたいと思っています。
それにしても、もう毎晩の晩酌は無理だよなぁ~
食事の美味しい、秋の晩酌は特に美味しいのだけれどなぁ~
残念…

院長の独り言 342 ; この歳になって、書の鑑賞を楽しむ

ある日の休日。
患者さんの小榎さんに頂いた書道の作品集を、何となく眺めていました。
眺めるなんて言うと不思議に思われるでしょうが、正直、私にとっては、他に的をえた表現が見つかりません。
読める字もありますが、何て書いてあるのか解読不能な文字も多いのです。
字と云うよりも、記号と言うのか…。
絵のようにも思える字もあるのです。
しかしジックリ眺めていると、心の中にしっかりと印象が残るのです。
机の上に立て掛けて、近くで見たり、少し離れて観賞しています。
頂いた書道の作品集は、なにしろ分厚い立派な本なので、机に立て掛けても転びません。
過去のブログで何度も触れていますが、私は絵を観賞するのが大好きです。
日展や外国の有名な名画などの展覧会に、家内とよく鑑賞しに行きますが、好きな油絵や日本画は特にゆっくり観て回ります。
偶然、書道の作品が目の前に出てくる時、もちろん眺めてみますが、『書』は、自分とはかけ離れた存在でした。
絵画ほどは熱心に観たことはありません。
自分が字を上手に書くのを苦手にしていたので、余計、避けていたのかも知れません。
名人の書いた字を観れば『上手な字だな~』、『何て書いてあるのかな?』、『力強い書だ!』などと、ひとりで悦に入っていました。
自分とはあまりにも違った芸術の世界だと決め込んでいた傾向がありました。
小榎さんに書道の本を頂いて、この年になって初めて『書』をジックリと見つめる機会をもったのです。
日本人のくせに、今まで字は情報伝達の手段ぐらいにしか思っていなかったのです。
貧しいものです…。
小学生の頃から、さんざん習字の授業で教わってきたのに、日本古来からの文化である書道に、あまりにも関心が少な過ぎました。
『書道』と云う『華道』『茶道』と並ぶ、我が国の三大『道』のひとつに興味を沸き立たせて頂いて、小榎さんにあらためて感謝致します。
これを機会に、書道の名作を鑑賞したいし、読めない銘文を少しでも理解出来るようになりたいと思っています。
考えてみれば、日本の伝統文化は、すべて天皇を中心とした朝廷文化によって築き上げられたものです。
天皇という軸が無くなったら、日本に何が残るのでしょうか?
アメリカや中国のような、歴史や伝統の断絶した国になってしまうのでしょう。
私もこの歳になって、日本をもっと学びたいと思います。

院長の独り言 341 ; 現代書家の作品集を頂きました

お恥ずかしい話ですが、小生、字を書く事が大変苦手なのです。
名前が修二(習字)なので、本当は字が上手くなければ、命名してくれた親に申し訳ないないのですが…。
言い訳になりますが、元来、私は左利きなのです。
私が子供の頃は、左利きを『ギッチョ、ギッチョ』と言われて、いじめられました。
今はそんな酷(ひど)い事を言う人はいませんが。
却って、野球選手などは、『サウスポー』を歓迎するくらいです。
30年くらい昔ですが、ピンクレディーがヒット曲『サウスポー』を歌っています。
母親は、私が左手で食事をしたり、字を書くことで、友達から揶揄(からか)われているのを見ると、母親である自分が悪いのではないかと、ある種の呵責感を感じて、私の幼い頃から、箸と鉛筆の使い方を厳しく矯正したのです。
私が左手を使っているところを見つけると、ピシッと手を叩いたり、『ダメ!』と大声で叱責(しっせき)しました。
ところが、私が段々、吃(ども)るようになってきたのです。
父親が心配して、知り合いの大学病院のドクターに相談に行ったのです。
そこで、『言語中枢と手の運動中枢が隣り合わせなので、左手の運動をあまり矯正すると、言葉が吃るようになる事がある』と注意されてしまいました。
即座に右手で箸や鉛筆を使う注意はなくなりました。
私は右も左も中途半端に使えるようにはなったのですが、箸や鉛筆が今でも苦手で困っているのです。
世の中、左手を利き手にしている人は約10%だそうです。
だから世の中、右利の人に便利に出来ているのです。
ドアノブや急須の取っ手の位置から始まり、数え上げれば切りがありません。
勿論、歯科の機械や道具全て右利き用です。
小生、歯科の道に入って、本当に心からお袋に感謝しているのです。
お袋のお陰で、ある程度右手も使えていたので、直ぐ歯科の機械や道具に慣れる事が出来ました。
右も左も使えるので、治療や抜歯も非常に便利に出来ます。
そして本題に入ります。
ご夫婦で石川歯科の患者さんである小榎さんから、素晴らしい『書道』の本を沢山頂き、世の中、字の上手な人が多いので感心しています。
日本史で、最澄、空海、醍醐天皇、菅原道真、有名な書家の字は、教科書で見ていますが、小榎さんから頂いた本は、現代の書家もので、同じ字でも書き方によって色々な味があるので感嘆して眺めています。
小榎さん、有り難う御座います。
ジックリ観賞させて頂きますね。
少しは字が上手くなるかしら…

院長の独り言 340 ; ロンドンオリンピックが閉会して、今年の夏も終わりましたね

オリンピックと云うと思い出すのは、50年前の東京オリンピックです。
1964年(昭和34年)、私が大学生の時でした。
まだ敗戦の後遺症が街中に色濃く残っていて、お世辞にも近代都市と言えなかった東京が、大袈裟ではなく、オリンピックの開催が近づくにつれて大変貌を遂げていったのです。
前年には、東京タワーが完成して、テレビでのオリンピック観戦が可能になりました。
高さ333メートル、パリのシンボルであるエッフェル塔を9メートル抜いて世界一高い電波塔になったのです。
一般道も高速道路も整備されていき、夢の新幹線も登場するわ、高層ビルは建ち出すわで、東京オリンピックが、高度成長期の幕開けであったのは疑う余地もありません。
日本古来からの『道』の一つである『柔道』が、新しい競技種目として採用されたのも、この東京オリンピックでした。
先日、閉会したロンドンオリンピックで、このお家芸の『男子柔道』が惨敗しましたが、東京オリンピックでは日本国民全員が、軽量、中量、重量、無差別級の4階級全部で『ゴールド』を日本が独占すると信じていたのです(正直、体重で4階級に分かれるとは思いませんでした)。
ところが、無差別級の決勝で、オランダのアントン•ヘーシンクに神永昭夫が押さえ込まれて敗れてしまい(袈裟固め)、日本中の人が衝撃を受けたのを昨日のように思い出します。
場内も神永が敗れた瞬間、水を打ったようにシーンとなったそうです。
柔道の神髄として、『柔能く剛を制す』と云う伝統が脈々と伝えられて、レスリングやボクシングのように、身体の大きさで区別しないのが柔道である、即ち、階級などは邪道で、『無差別』こそ『柔道』と日本人は信じていたのです。
その『無差別』級で押さえ込まれてしまったのですから、衝撃は計り知れなかったのです。
勿論、あとの3階級は金メダルでしたが、たった一つの銀メダルが与えた影響は大きかったのです…。
後にヘーシンクは、『もし自分が東京オリンピックで優勝していなかったら、世界中で今日のような柔道の人気は有り得なかったでしょう』と述懐しています。
そして、『多分、オリンピックの種目としても、東京大会だけの一回だけになってしまっただろう』とも言っています。
ロンドンオリンピックの『柔道』で、我が国が惨敗したと云うことは、それだけ『柔道』が世界的なスポーツになった証左かも知れませんね。
そう言えば、日本の国技である『相撲』も現在、横綱は白鳳(モンゴル出身)ですね。
琴欧州などヨーロッパの人までが、お相撲さんになるとは、私が子供の頃は想像も出来ませんでした。
今回のロンドンオリンピックでの日本選手の活躍には、私も本当に感銘を受けました。
メダルを獲得した人、出来なかった人、選手、役員全員の皆さん、御苦労さまでした。
希望とすれば、オリンピックの為に、イギリスや中国、韓国のように強化資金を日本も多く出して欲しいですね。
こう云った強化資金に投入する為にも、税金はあるのではないでしょうか。

院長の独り言 339 ; 大食い競争の法則

『大食い競争』が、色々と趣向を変えてはテレビ画面に出てきます。
私は戦争を体験して、食べる事も侭ならないと云う、子供としては一番辛い経験をしてしまいました。
大袈裟ではなく栄養失調にもなっているので、以前のドリフターズの番組など、食べ物を粗末にしている場面を見ると切なくなります。
しかし、大食い系番組は結構、面白いので、ついつい見てしまうのです。
生活が大変、豊かになってしまった今日の飽食日本で、テレビ番組に目くじら立てても仕方がありませんか…。
廃棄する残飯の量が世界一、二を争う我が国。
取るに足る問題ではないのかも知れませんね…。
実は、第二次世界大戦前までは、我が国は結構、豊かな食生活を送っていたのです。
ここ百年の間で、日本人が最もヒモジイ思いをしたのは、先戦の末期から敗戦後の数年間だけです。
さらに、時代を江戸時代まで遡(さかのぼ)って、当時の食文化をみると、面白い事実が分かります。
当時は、江戸と言わず日本中、習慣として『一日二食』の生活をしていました。
江戸時代も開幕から50年以上経過した1600年代中期には、政治が安定したお陰で、首都の江戸は経済的に格段の発展を遂げ、食事も贅沢になり、現在の『一日三食』の食生活の起源になったのです。
地方からも、江戸の景気が大変良いと云う噂を聞いて、続々と人が集まり、アッと言う間に江戸は、世界一の人口を誇る大都市に変貌を遂げました。
驚くことに、寒村だった江戸が世界で、最も早く百万人都市になりました。
ちなみに、現在、オリンピックを開催しているロンドンが、当時の人口は80万人で、世界一、人口密度の高い都市でした。
当時の江戸では、着物など衣食住に関する日常の生活に欠かせない、あらゆる物が売れていたのです。
浮世絵や芝居など娯楽も大流行(おおはやり)、江戸の人々みなが豊かさを満喫していた訳です。
当時、住宅もどんどん新築されて、大工さんや左官屋さんが利用する食事処として、屋台が今の食堂と同じように続々と出来てきました。
現在、立派な店を構えている寿司屋さん、天ぷら、おでん、おそば屋さんなどは殆どの場合、江戸の屋台が起源です。
外食が流行(はや)り出したのは、江戸に働く人が大勢集まって来たからです。
『エッ!嘘!』と、思うかも知れませんが、江戸の後期1810年過ぎには、大食い競争や大酒飲み競争の大会があったのです。
今と同じですね。
面白いことに、人間、衣食住が安定してくると、今も昔も、やる事も考える事も同じと云う事ですね。
安心しました。
しかし、景気が大変良くなると、引き締め策を採るのが為政者。
江戸の三大改革、所謂、吉宗の享保の改革、松平定信の寛永の改革、水野忠邦の天保の改革の、すべての改革は、結果論から考えれば、悉(ことごと)く失敗でしょう。
共通しているのは倹約令を出していることです。
大食いなんかとんでもない!
娯楽もほどほどに…。
経済が過熱して、為政者がバブルと判断すると、引き締めとして過剰なデフレ策を採ってしまい、世の中を不景気にしてしまったのです。
景気が過熱すると、いつの世でも為政者は、結局、不景気にしてしまいます。
何処かの国の政策と似ていませんか。
景気の良い世の中なのに、ワザワザ不景気にするこたぁないと思うのですが!
増税もしかり。
政府にお金が貯まると政治家やお役人が使ってしまい、逆に、政府にお金が足りなくなると増税です。
庶民としてはやり切れないですわ…。

院長の独り言 338 ; 酸素の濃度が少なくなっていますね…

歯科治療の代名詞みたいな物…。
例の『キィーン』と音がする歯を切削する、皆様おなじみの歯科用エアータービン。
そのお陰で、患者さんは、歯科治療の苦痛から、大幅に解放されたのです。
この事は、既にブログで紹介しています。
私が歯科医に成り立ての頃は、この革命的な歯を切削する器具は、まだありませんでした。
このエアータービンは、1分間に約30万回転するので、虫歯をアッと言う間に削る事ができます。
そして治療時間が短くて済むのです。
その当時、従来の切削機械は電気エンジンによるものでした。
回転数は、1分間に8千回程度でしたので、虫歯を治療するのに、嫌になるほど時間がかかってしまいます。
おまけに、麻酔薬も効きが悪いものでしたので、歯科治療は患者さんにとって苦痛すぎたのです。
空気の凄さは、圧縮する事により想像を超える力を発揮する事です。
この圧縮技術の素晴らしい進歩によって、歯科治療も楽になったのです。
そして、空気は我々にとって大変、身近な存在です。
その存在は目に見えないけれど、無ければ命が絶えてしまいます。
中学校の理科で習いますが、空気の成分は、窒素がおおよそ5分の4弱(79%)、酸素が5分の1(21%)、その他に、二酸化炭素などがほんの少し(0•1%)といったところです。
われわれ人間が普通に生きていく為には、酸素の量は20%以上必要だとされています。
江戸時代には空気中の酸素が24%ほどあったので、大変、快適だったと想像できます。
酸素の量が18%を切ると生きていくのに困難になります。
現在、われわれが息をして吸っている空気の中には、繰り返しますが、20%強の酸素が含まれています。
生きていくのに絶対に必要な酸素の量は18%ですから、今は、たった2%しか生きていく為に必要な酸素量の余裕がないと云う事です。
トンネルや井戸堀で酸欠事故が起き、信じられないくらい簡単に命を落としているのは、このような理由があるのです。
恐ろしい程にギリギリの酸素量で、人間をはじめ、様々な動物は生命を営んでいる事になるのです。
19%を切ると息苦しくなると言われています。
勿論、訓練次第で18%より数(2~3)パーセントは低くても、生きる事が出来るかも知れません。
エベレストは無理として、富士山程度の高さでは、過激に動かないで静かにしていれば、生活はある程度出来るのですから。
現在、我々は呑気に暮らしていますが、あんまり森の木々を無造作に伐採していると、近い将来、酸素入りのカプセルが必需品になるかも知れませんよ。

院長の独り言 337 ; サッカーの試合から、久々に、憂国の思いほとばしる…

いよいよ来週から(7/27金曜日)、ロンドンオリンピックが始まります。
日本は男女ともに、サッカーでメダル獲得が期待されています。
そう言えば先だって、欧州サッカー連盟が主催したユーロ2012年で、スペイン対イタリアの決勝戦があんなにワンサイドゲームになるとは想像外でした。
強豪ドイツを破り、勢いに乗るイタリアが、王者スペインを降してナンバーワンになるのではないかと思っていたのに、ワンサイドゲームで負けてしまったのです。
4—0でスペインの勝利。
本当に意外でした…。
テレビ画面で見ると、イタリアの応援団の落胆振りには、同情を禁じ得ません。
あんなに沢山の人達が、みんな下を向いてガッカリしているのを見るのは久しぶりです。
反対に、スペイン人の嬉しそうな顔、顔、顔。
経済が破綻している国の人の顔とは、到底、思えません。
国民的スポーツでの勝利が、国の経済状態を、上向きにさせる一助になると良いのですが…。
試合を観ていて、小生、思った事があります。
全ての得点が、隙をついた縦パスからの速攻によるものでした。
サッカーの試合を観ていて、いつも思うのですが、攻撃時に、ユックリと体制を整えてからボールを味方同士パスし、少しずつ相手のゴールに近づき、シュートする方法で得点出来た例は非常に少ないような気がします。
特に、実力が接近している同士の場合は、なおさらです。
見ていて、早く攻め込まないのかと、イライラしてしまいます。
所謂、遅い攻撃の場合、ほとんど相手にカットされてしまうか、ゴールを狙ったボールはとんでもなく外れてしまう場面が多過ぎます。
多分、守っている側からすれば、ユックリした攻撃は、精神的に余裕を持って守る事が出来てしまうからでしょう。
そこへいくと速攻の場合は、慌ててしまうのでしょう、守る側は。
その隙(すき)が、得点を与えてしまうと云う事です。
得点したかったら速攻に限ります、今回の決勝戦のスペインのように!
話は変わりますが、国際社会の付き合い方も、時にはサッカーのように思いも及ばない意表をついたやり方が有効な場合もあります。
日本の外交のように、ユックリと丁寧に説明し、場合によっては相手の顔色を見ながら策を練っていれば、相手に却って侮られ兼ねません。
結果、日本は実力が有る割には外国に甘く見られ勝ちです。
ある日、突然、核武装をするくらいの勇気と行動力が日本には必要ではないでしょうか。
世界で唯一の被爆国なのですから、核兵器で自国を守る権利が我が国にはあります。
日本国民は、世界で一番核兵器の悲惨さを知っているのですから、二度と核兵器の犠牲にだけはなりたく無いと思うのは当然です。
外交は、国同士が無理難題を押し付け合っているのですから、お人好しにして相手の術中にハマっては大変です。
核の犠牲に成らない為の唯一の手段は、抑止力として、核兵器で自国を守る以外無いのではないでしょうか。
そうすれば、いざという時に、核兵器の脅しなどに載らないで済むし、対等な交渉が出来ると云うものです。
日本が無茶な意見など言う訳が無いし、誠実な国である事は、世界の国々が認めているではありませんか。
しっかりしないと、経済的にも精神的にも日本は三流国に落ち溢れるのは、時間の問題ですよ。
絵空事ではなく、どんどん国土も狭くなってしまいますよ。

院長の独り言 336 ; 昔は東京湾にたくさんのウナギがいたのですよ!

60年以上前、私が13~14歳の中学生だった昭和25~6年頃は、今では信じられないほどに東京湾の水が綺麗でした。
東京湾に流れ込んで来る川は多摩川と隅田川ですが、その川の上流にも、沿岸にも、工場や住宅が少なかったので、生活用水や工場用水が湾に流れ込んでこなかったからです。
日が暮れて来ると、友達と東京湾の岸辺に行って、夜釣りをしていた時期がありました。
セイゴ(スズキの子供)やハゼは、われわれ子供達でも簡単に沢山釣れました。
一時、うなぎが釣りたくて、釣りたくて、しょうがない時期がありました。
簡単に釣れるセイゴやハゼ、あるいはボラは、面白みが無くなってしまったからです。
ところが、ウナギは滅多にと云うか、全く釣る事が出来ません。
しかも、水の中を覗くと、ウナギの魚影がハッキリ見えるので、どうしても釣りたかったのです。
ウナギの釣り場は、東京湾の岸辺とは違った場所でした。
佃島と越中島の間にある中之島と云う小さな島の石垣の脇です。
ある夜、友達と今日こそはウナギを釣り上げてやろうと、そこへ出掛けたのです。
中之島の場所を簡単に説明しておきます。
銀座、築地から少し東京湾寄りで、月島、佃島と門前仲町の間に、中之島は存在します。
小さな島ですが、橋で連絡しているので、簡単に島に行けるのです。
越中島には東京商船大学があり、学生実習に使う立派な帆船が停泊している事があり、帆船に遭遇すると優雅な姿をしているので、しばし見惚れてしまいます。
現在も、同じ場所に展示してあるかも知れません。
越中島から佃島と反対方向に行った所が、当時は江戸の下町の雰囲気を色濃く残していた門前仲町です。
現在は門前仲町も銀座と同じように、雰囲気はガラリと変わってしまい、近代的ビル群がニョキニョキ建ってしまいました。
場所の説明はこの程度にして、ウナギの話に戻します。
我々が釣り場に行くと、知らない小父さんが、岸から大きな網を海に向かって投げていました。
所謂、『投網』をやっていたのです。
脇の籠に何が入っているのか覗いて見ると、ウナギが10匹ほど獲れていたのです。
『ワァー!すげー!』友達と感嘆と羨望の声を上げたのでした。
小父さんはニコニコしながら、『ウナギは釣り竿では、まず釣れないヨ。網で掬わなければ…』と教えてくれたのです。
ウナギ釣りを諦め、ガックリきていた二人に、一匹ずつウナギをプレゼントして呉れた、60年前の優しい小父さん、本当に有り難う!!
小生は、貰ったウナギをしばらく水槽に入れて飼っていました。
今なら、食べてしまうでしょうが。
本当に懐かしいなぁ~

院長の独り言 335 ; 歳を取ると、存外、美味しいものは食べられない…

若い頃から塩せんべいが大好物でした。
饅頭(まんじゅう)や餅菓子などの甘いものは、余ほど勧められない限り、口にはしなかったし、ましてや、自分から買い求めて食べることは滅多にありませんでした。
石川歯科の女性陣は『甘いものは別腹、別腹』と言って、お腹一杯、食べた後でも、平気でケーキを平らげます。
5個も、10個も、ケーキを美味しそうに食べているお嬢様たちを見ると、ただただ感嘆の目で見ていました。
ところが最近、私も食後に、ケーキや大福餅を食べたくなる時があるのです。
若い頃、あんなに甘いものを敬遠していたのに、ケーキが目の前に出てくると、自分でも不思議なくらい食べたくなるし、食べれば心底、美味しく感じるのです。
それに反比例するように、塩せんべいを口にしなくなりました。
一時、家内やテレビの健康番組が『減塩!減塩!』と五月蠅(うるさ)く言うので、時には、つい反抗したくなり、『塩を舐め 冷酒を飲んで 後悔している天邪鬼(あまのじゃく)』と云った状況になっていました。
お陰で、ついに腎臓や肝臓を、少々痛めてしまったのです…。
深酒すれば、肝臓がおかしくなるし、塩分の強い料理を食べる(これが美味しいのです!)と、高血圧になって腎臓に負担がかかります。
一体、小生はどうすりゃいいのか、イライラしていました。
そんな中、大腸ポリープを切除しました。
切除した後、不幸中の幸いか、食事は完全に薄味になってしまいました。
お酒も勿論、飲んでいません。
身体に良い食事かも知れませんが、精神的には多分にストレスフルです。
これからは女性軍に見習って、食後のデザートに、小さいケーキを食べて精神的なバランスをとるようにするのが、一番、身体に良いのではないかとも思っています。
しかし、甘いものをあまり食べ過ぎると、今度は糖尿病になってしまいますか…。
歳を取ると、存外、美味しいものは食べられませんね。

院長の独り言 334 ; 運転恐怖症

都内に用事がある時は、電車とバスをよく利用します。
以前は、自分で車を運転して、都内と言わず何処へでも出掛けていました。
電車を利用することは、ほとんど無かったのです。
運転歴50年間、それも毎日、運転していたので、『車は下駄履き代わり』でした。
ところが、若い頃よりはズーッと慎重に運転しているつもりでも、最近、運転するのが怖くなってきたのです…。
報道によると、老人の車による事故が多発しています。
若い人の自動車事故は、スピードの出し過ぎ、脇見運転など、運転技術の過信や不注意によるものが多いです。
一方、高齢者の事故原因は、若い人と明らかに違います。
60歳以上の皆さんは、自分なりに慎重に運転はしているのでしょう。
しかし、スピードを控え、後ろに着いた運転手がイライラするほど安全運転をしているのに、事故ってしまう場合があるのです。
反射神経が鈍くなってきているのでしょうか?
咄嗟(とっさ)の判断が上手くいきません。
老人特有の事故に、ブレーキとアクセルの踏み間違いがあります。
若い人には、この踏み間違い事故を殆ど聞きません。
自分でも運転中、足がスムーズに動かず、ロボットのような動きをしてしまい、ドキッとする事があります。
先日、運転免許を更新しに、府中の運転試験所まで行ってきました。
現在、70歳以上は、更新の際、運転実技試験が義務づけられています。
10人の高齢者たちと、実技試験を受けたのですが、ほとんどの人は、もう自動車を運転するのは止めた方が良いといった感じでした。
車庫入れが上手くいかなかったり、縁石に乗り上げてしまったり…。
試験官に怒られて、頭をかいている人が何人もいました。
話を聞いてみると、『もう運転はしていないのですが、イザという時の為に、免許は返上したくない』との事。
イザという時だけ、運転する方が、危ない様な気もしますが…。
私は…と云うと、自慢している訳ではありませんが(実は自慢しているのですが)教官に褒められたのです。
『あなたは、まだ大丈夫な方ですよ。でも、慎重に運転してくださいね』
私は、『家族みなに、慎重の上に慎重に運転しろと言われていますから!』とニコニコ答えました。
ここで、冒頭の話に戻ると云う訳です。
最近は、ゴルフ場に行く時以外、なるべく運転しないようにしています。
運転自体をあまりしたくないのが、本音といったところです。
他人さまを傷つけるのが、一番、罪深いですから。

院長の独り言 333 ; 大腸内視鏡のあと、いろいろ…

大腸ポリープ切除後、『2週間は食事に注意するように!』と病院で注意を受けました。
ポリープを切除する時、先ず、ポリープの首根っこに、輪を掛けます。
その輪の上部を、電気メスで切除した後、クリップで止め、止血するのです。
傷口をしっかり縫っている訳ではないので、もし食べ物が傷口に引っ掛かると、出血してしまうのです。
従って、引っ掛かりやすい野菜類、豆類、果物類、海産物など、繊維性の強い食べ物は禁忌で、肉や魚なども勿論、駄目です。
毎朝、日課にして飲んでいた野菜ジュースも止められました…。
何しろ、万が一でも出血してしまうと、開腹して傷口を縫う羽目になり兼ねません。
『開腹はご勘弁』と云う事で、お粥やパンなど、食べた気のしない軟食を2週間も、指示された通りに我慢して食べました。
おかげで、70年余、酷使し続けた消化器官がスッキリ綺麗になった気がします。
ゲッソリ痩せてしまいましたが…。
2週間後、病院を再診し、切除したポリープの病理組織診断の結果は、幸い異型度が低いとの事で、ホッとひと安心です。
先生の診断では、CT検査も受けた方が良いと云う事で、肺から腎臓まで20分程度の時間をかけて撮影して貰いました。
その結果がどうなるのか、心配の種は尽きません。
食事制限について先生に尋ねると、『どうぞ、どうぞ。もう普通食を召しあがってください!』と許可が出たので、今、恐る恐る量を減らして食べ始めました。
診断を終えての帰り際に、小生の酒好きを知ってか知らずか、『アルコールも深酒しなければOKですよ!』と、先生は笑いながら声を掛けてくれました。
ところが、ポリープ切除の前後の一カ月間、完全に禁酒したせいか、あんなに許可が出たら飲もうと思っていたお酒を正直、飲む気がしないのです。
従って、現在も禁酒を続けています。
いつまで続くやら分かりませんが…。
ここ数週間、家族にも、病院スタッフにも、患者さんにも、大変、気を使って頂き、助けて頂きました。
開業以来、大病をした事が無かった小生としては、ポリープが数個見つかった時、『もしかすると、今度こそ駄目かも知れない…』と、心配していたのです。
そうすると、更に皆さんに迷惑を掛けることになります…。
健康であり、美味しく食事を頂けている有り難さ。
皆さんに支えられて生きている有り難さを、しみじみと感じ入っている次第です。

院長の独り言 332 ; 大腸内視鏡検査を受けたら、ポリープが数個見つかりました…

先月初旬、定期的に行なっている血液採取を、息子にして貰いました。
検査の結果、6種類の腫瘍マーカーの中で、CEA値が正常基準値を超えてしまったのです…。
そこで、以前から気になっていた腸の疾患、大腸ポリープや腫瘍が有るのか無いのかを診て貰う為に、都内の病院へと大腸の内視鏡検査を受けに行きました。
CEA値は、内蔵にできるポリープや腫瘍など、病理的には『腺がん』の診断に使うのです。
6月7日(木)に予約していた御茶ノ水のクリニックを受診して、大腸内視鏡の検査をしました。
まだCEAの値が正常値を少し超えた程度なので、本人とすれば軽い気持ちで検査を受けたのです。
勿論、大腸の内視鏡検査は生まれて初めての経験です。
検査する前に、まず2リットルの大腸洗浄液を飲まなければならないので、吃驚(ビックリ)しました。
目の前に白い液体2リットルが入ったポリエチレンの容器がドーンと置かれた時は、『これは大変な検査を受ける羽目になったわい…』と、内心、少々の後悔をしました。
7~8人の受診者が一緒でしたが、皆さん、うんざりした様子で洗浄液と戦っていました。
全員、当然ですが、無口で緊張した面持ちです。
飲み切った後、洗浄液で大腸が綺麗になった人から内視鏡の置いてある検査室に入ります。
幸い小生は、一番早く検査室に入る事が出来ました。
先ず、大腸の動きを緩慢にする薬を腕の三角筋へ筋肉注射です。
その後、お尻に内視鏡が入ります…。
若い頃から胃弱で、胃カメラ検査は何度も受けていたので、大腸の内視鏡検査を受けるに際し、全く恐怖感はありませんでした。
ただ、一寸恥ずかしい気持ちはあったのですが。
胃カメラを飲む時は結構、吐き気がして辛い思いをしましたが、今回の検査は全く痛くないものとタカを括っていたのです。
ところがカメラが腸の奥に押し付けられるように入って行き、大腸内部の最初の角を曲がる時に、かなりの内蔵深部痛を感じたのです!
深部痛は何とも言えない、気持の悪い感じの痛みです。
しかし、直ぐ検査も終わるだろうと我慢していたのですが、次の角に内視鏡が入る頃になると、今度は激痛が走ったのです。
『先生、まだ当分この痛みは続くのですか?』と冷や汗をかきながら尋ねたところ、『まだ、まだ』との事。
お願いして、鎮痛薬を静脈からワンショットで入れて貰ったのです。
実は通常、鎮痛薬を検査前に注射で打つのだそうですけど、うっかりして忘れていたそうです…。
その後、ゆっくり時間をかけて、小腸の一部と大腸全部の検査を受けたので、鎮痛薬を打って貰って、本当に良かったと思いました。
結果、大腸ポリープが幾つか見つかり、即座にポリープ切除術を施して貰ったのです。
術後、1時間をかけて止血液の点滴をした後、看護師さんから『野菜、果物、肉類、豆など線維性の強い物や油っぽい物は、2週間程度は絶対口にしては駄目!』と声を強くして注意を受けました。
勿論、運動も禁止され、仕事も無理をしないようにとの事でした。
もし、クリップで止めたポリープ切除部が切れてしまい出血すると、今度は開腹手術になるかも知れないと脅かされました。
思ったより大変な経験をしてしまい、シュンとしてしまいましたが、反面、宿題をやり終えた達成感(?)もあります。
2週間後の病理診断の結果、ポリープが癌化していない!と出るまでは、本当のところ、まだまだホッと出来ないのですが…。

院長の独り言 331 ; カマキリの天気予報

気持ちのよい季節を迎えました。
寒くもなく、暑くもなく、たまに起きるゲリラ豪雨に目を瞑れば、頬を撫ぜる微風の心地よい季節です。
近所の公園を歩いていたら、青々と茂った雑草の根元に、カマキリを見付けました。
『もうカマキリの徘徊する季節が訪れたのか』と、この小さな狩人を掌に乗せてみます。
皆さんは気持ち悪いと思うかも知れませんが、小さい時から昆虫大好き人間の私とすれば、カマキリくらい、手に取っても平気の平左です。
見れば見るほど面白い面構えです。
カマキリを観ていて思い出したのですが、カマキリが凄い能力を持っている事を皆さんご存知ですか。
カマキリは冬の降雪量を見事に的中させます。
その冬が大雪になるか、ならないかを占ってくれるのです。
卵を木の高いところに産みつけた時は、その年は大雪。
反対に、低いところに産みつけた時は、殆ど雪が降らないそうです。
これが良く当たります。
西洋ではカマキリを『予言者』と呼んでいるほどです。
秋に産んだ卵は、ひと冬の厳しい環境のなかを生き延びて、毎年5月頃、ふ化します。
冬の間に、大切な卵が雪に埋もれてしまえば、一巻の終わり…。
不思議な事に、カマキリは、その冬にどのくらい雪が降るのかを、秋に予測して卵を産みつけるのです。
その上、カマキリは大雪以外にも、半年先のふ化の時期の気候も知っているようです。
卵がふ化する日の前後は、不思議なほど、温暖な状態が続くのだそうです。
カマキリはカゲロウのように、ある日、一斉に、ふ化するのではありません。
5月から7月半ばに、徐々にアチコチでふ化するのです。
全部のカマキリがふ化するのには、各々の個体が、天気の良い日を選ぶのです。
おまけに、赤ちゃんカマキリが産まれた場所には、餌となる小さな虫が沢山、生息している、即ち、餌場がごく近くに在るのです。
『予言者』面目躍如です。
恐ろしい事に、交尾が終わるとオスはメスの餌になります。
オスはムシャムシャと、頭からメスに食べられてしまいます。
絶対にオスは逃げる事が出来ません。
カマキリにはなりたくないなぁ~

院長の独り言 330 ; 金環日食を観察!

前夜の天気予報では、5月21日月曜日の東京は、曇りとの事。
小生が楽しみにしていた世紀の天体ショー『金環日食』が観察出来るかどうか、当日の朝まで、微妙だったのです。
朝起きて、東の空を見ると、天気予報の通り、分厚い雲が垂れ込めており、『これは金環日食を見る事は叶わないか…』とガッカリしていました。
しかし、テレビ番組では気象予報士さんが、『雲は意外に薄く、切れ間が出るかも知れない』と少しは希望の持てる意見を言っています!
2ヶ月以上前から、観測用の眼鏡を、デパートで買い込んできた私とすれば、何が何でも、雲の切れ間が出てくれなくては、立つ瀬が無いと云うものです。
以前のブログで触れましたが(院長の独り言 248 ; 皆さんは『月』ついて、何を知っていますか?)、月は衛星としては並外れて大きいのです。
殆どの衛星は大きくても、親星の20分の1以下の大きさしかありません。
月の直径が地球の4分の1もあると云う事は、奇跡に近い大きい衛星なのです。
おまけに、太陽と地球と月の微妙な距離関係を考えると、いくら宇宙が広いと言っても、この三者の関係は唯一なのかも知れませんね。
惑星(地球)から金環日食が見えるには、月の大きさが地球の約4分の1なので、太陽、地球、月の距離間隔は、太陽と地球の距離が1億5千万㎞、地球と月の距離は38万㎞強でなければなりません。
実際、その通りの関係なのです。
特に、金環日食と皆既日食の両方が、観察出来る惑星は、宇宙で地球だけでしょう。
月の軌道が微妙に楕円を描いているから、両者が見えるのです。
神様が、われわれ人類に、金環日食と皆既日食を見せる為に、三者の配置をこのようにしたとしか考えられません。
次回、東京で見られる金環日食は約300年後だそうです。
朝、曇り空を見上げて『300年後か…』と、一旦、世紀の天体ショーの再来を諦めたのです。
ところが、7時を過ぎた頃から、雲に切れ間が出てきて、太陽が欠けていく様子を観察出来るようになりました。
そして、なんと7時30分頃の金環日食は、バッチリ見る事が出来たのです!
本当にラッキー!としか言いようがありません。
診療所の屋上から観察していたのですが、確かに金環日食の瞬間は、眼下の通りも、少し薄暗くなったような気がしました。
気温も少々下がったのではないでしょうか。
患者さんとも『見えて良かったネ!』とニコニコ談笑したのでした。

当院のスタッフ(受付)である山口美穂さんが撮影した金環日食の写真です。
よく撮れたものです!


院長の独り言 329 ; 石川歯科40周年のサプライズ・パーティー

4月21日(土)、仕事が終わった後、石川歯科医院開業40周年のお祝いをしました。
スタッフ一同が、私に秘密にして、準備をしてくれていたのです。
祝賀会を行ったお店は、鉄板焼きの八王子うかい亭です。
お祝いの豪華な花束とネクタイ(エルメス)を2本、プレゼントして貰い、感謝の気持ちで一杯になり、ついホロリとしてしまいました…。
30歳を過ぎた当時、研究者として一生、大学で働くか、思い切って歯科医院を開業するか、『人生の岐路』と云うヤツに立っていたので、内心、いろいろと悩んでいました。
大学では運良く、若くして講師になっていたので、自分としては教室の居心地が良かったのです。
なにしろ、恩師である教授には可愛がられており、その上、研究もすこぶる順調で、大学から外に飛び出して、世間の荒波に揉まれるのが、正直、不安でした。
しかし、レールの引かれた『ぬるま湯』状態と思っていた事も確かでした。
家内の考えは『自分の思った通りにして欲しい。あとで後悔しないように。どちらでも協力するから』との事。
思案の結果、八王子の繁華街の八日町で、昭和47年の12月、街は新年を向かえる準備で、騒々しい中での開業。
ドキドキしながらのオープンでしたが、その後、40年間はアッと云う間に経ってしまいました。
歌の文句ではありませんが、ただ、ただ、時の流れの速いのに驚愕しています。
鉄板焼きを、若いスタッフと愉しんでいる自分が、あと何年間くらい診療が出来るのか、皆目見当もつきません…。
あらためて、歯科医師人生の残りの時間を、頑張らなければと思っています。
現在、息子を頭に、若い人達がチーム(ドクター、衛生士、受付)を組んで、素晴らしい治療結果を出しています。
40年前には、とても治癒の望めなかった症例でも、今は、普通に治る時代になっています。
小生は…と云うと、昔からの患者さん相手に、ゆっくり時間をかけて、丁寧な治療を行なっています。
20年前、一日50人以上の患者さんの治療をしていたのが、ウソのようです…。
40周年は、ひとつの過程だと思っていますので、今後とも、末永くよろしくお願い致します。
それにしても、女性スタッフが選んでくれたネクタイの柄が、ヒツジとハートマークでした。
70歳オーバーの小生には、少し派手じゃないですか?
気持ちも若返って、大切に使わせて頂きます!
スタッフのみんな、いつも本当に有難うね!

院長の独り言 328 ; 患者さんのIさんから頂いたドイツ製注射器

患者のIさんから、およそ100年前のドイツ製注射器を頂きました。
仕事柄、興味津々に、注射器を手に取って、上から下から斜めからと観察して、弄(いじ)くり回したのでした。
一番驚いたのは、この注射器が本当に頑丈に出来ていて、今すぐにでも使用出来そうな事です。
注入量が分かるように、目盛まで付いています。
精巧ですね。

現在のような注射筒に針を付けて使用する注射器が発明されたのは、西暦1850年頃とされています。
フランスの科学者が発明したそうです。
私が歯科医に成りたての頃、歯科麻酔用の注射針は、腕などに使う針より太い針を使用していました。
歯の根は、硬いアゴ骨に植わっているので、薬液をアゴ骨に浸み込ませなければ、麻酔が効かないからです。
皮下や筋肉注射に使うような針では、折れてしまいます。
先が太いので、針を刺した時は大変な痛みを感じます…。
昔、歯科が敬遠された理由は、この太い針に依るところ大なのです。
最近では、日本のメーカー(医療機器メーカーのテルモと岡野工業の共同開発)が、世界一細い針を開発しています。
直径0.2ミリと云う細さです。
勿論、歯科においても、この細い針が使用されていて、患者さんは殆ど痛みを感じません。
細いのに丈夫なので、折れる事もありません。
戦前の医療機器は、欧米からの輸入品の独壇場でしたが、現在、わが日本のメーカーが最先端を走っています。
報道では、日本をまるで斜陽国家のように扱っていますが、何処が駄目なのか教えて欲しいものです。
世界に誇る最先端技術は、まだまだ沢山、日本にあるのです。
威張ることはないですが、別に、へりくだる必要もないでしょう。
今の若者が、まるで駄目なような報道も多いですが、今の日本で、本当に悪いのは、大人ですよ。
言動が自虐的で、卑屈で、劣等感が強いです。
地に足の着いた、勇気あるリアリズムが必要です。
そうすれば、日本は大丈夫ですよ!

院長の独り言 327 ; 和紙で作られた赤富士

当院の若きドクター 山森翔太君のご両親から、新築祝いとして、和紙を漉(す)き込んで作られた『赤富士』を頂きました。
われわれ夫婦の大好きな富士山を漉いた工芸品です。
『富士山』の絵が一枚、欲しいと前々から思っていたので、嬉しい限りです。
富士を題材にした絵画や工芸品は、古来より多く作られており、春夏秋冬のどの季節の富士山も、素晴らしい題材になります。
その中でも、『赤富士』は葛飾北斎をはじめ、名の知れた、多くの作家が挑戦しています。
『赤富士』とは、初秋というより、夏の終わりの頃、朝日に照らされて薄い赤色に染まった富士を描いたものです。
現に、『赤富士』は夏の季語であって、秋や冬や春の季語ではありません。
頂いた作品は、和紙を使った工芸品を多く製作している、人間国宝の山内一生師のものです。
現代的な感覚で和紙を巧みに操り、素晴らしい作品を世に生み出した山内先生は、日展をはじめ内閣総理大臣賞など数え切れないほどの賞を受賞しています。
和紙を積み重ねて製作しているので立体感があります。
頂いた作品『赤富士』を目の前でジッと観察すると何とも言えない神々しい富士山です。
流石、和紙を操る名人ですね。
よく目にする『赤富士』は、前述の北斎、そして横山大観、最近の画家では林武や片岡球子です。
『赤富士』は縁起が良いとされるので、旅館の玄関口や会社の応接間に飾ってあるのをよく見ます。
実際、小生もピンク色に染まった美しい富士山を何回か見ていますが、その都度、心が洗われる気持ちになるのです。
この『赤富士』を毎日眺めて幸せ気分に浸りたいと思っています。

院長の独り言 326 ; 今年5/21(月)の金環日食が、待ち遠しいです!

最近、大雨の日が多いので空気が澄んでいるのか、夜、美しい星空を眺めることが出来きます。
星を見るのが好きな私としては、夜空が待ち遠しい日々です。
我々が星を観察すると、地球が自転しているので、見かけ上、全ての星は西から東に移動するように見えます。
しかし、金星や火星など惑星を注意深く観察すると、逆方向に動くように見える時があります。
それゆえに『惑星』と呼ばれるのです。
逆方向に動く理由は、地球と同じで、惑星は太陽の周りを回っているからです。
内惑星の水星と金星は、地球より太陽の近くを周回しているので、地球を追い越す時があります。
その時、地球から眺めていると、逆方向に進むように見かけ上観察されるのです。
また、火星、木星、土星などの外惑星も、地球が外惑星を追い越す時に、矢張り見かけ上、外惑星は逆方向に進むように見えます。
地球を含めて全ての惑星は、完全な円状で太陽の周りを周回していません。
少し楕円形の軌道を描くので、地球から見ていると、惑星の動きは余計に複雑に観察されるのです。
昔の人にとっては、惑星は本当に『惑わせる星』だったのです。
何しろ逆行する理由が、当時の人達には理解出来なかったので、仕方なかったのです。
まさか惑星が太陽の周りを回っているとは、思いもしなかったのですから…。
天動説(全ての星は地球の周りを周回している)の時代だったからです。
満天の星の中で、『逆行』する星は惑星だけです。
残りの無数の星は、常に同じ動きをするので、『恒星』と言うわけです(『恒星』の『恒』は、『常に。いつも変わらない』という意味です)。
もし、これらの惑星の動きを、月から観察する事が出来れば、もっともっと複雑な動きを、惑星がするので、ビックリすること請け合いです。
ロケットが人を乗せて、月に行ける時代ですから、じきに我々は、複雑な動きをする惑星を、月から見ることが出来るでしょう。
もう一つ、惑星と恒星の見分け方があります。
星を観察していると、『ピカピカ』と、間を置いて光るのが『恒星』です。
ピカピカ星は、『恒星』を指します。
見ていて切れ目無く、ズゥーと光り輝き続いていて、ピカピカしない星が『惑星』です。
多分、先人はピカピカしない、ごく少数の星も、不思議に思っていたでしょう。
話は変わりますが、今年の5月21日(月曜日)には、日本の広い範囲で、世紀の天体ショー『金環日食』を見る事が出来ます。
天気が良ければ、八王子でもバッチリ見えます。
ひと月後の『金環日食』を、私は見たくて、見たくて、今から胸がドキドキしているところです。


(写真はアストロアーツ社より、無償提供)

院長の独り言 325 ; 桜の花

桜花が咲く季節、私が住んでいる国立市は、最も賑わいます。
特に、4月8日の日曜日は、早朝から大変でした。
気温が上がったので、桜は満開に近い状態でしたし、天気も快晴。
まさしく、お花見日和でした。
小生は、お花見かたがた、府中カントリークラブにゴルフをしに行きました。
このクラブは桜の名所で、この季節になると、地元の人にも敷地を開放しています。
多くの桜はまだ三分咲きでしたが、中には八分咲きも見られ、広々としたヘアウェーの芝生の緑に、桜の花びらが散り、心洗われる気持ちにさせて呉れました。
先週の火曜日、台風並みの嵐が吹き荒れて、桜の蕾がみんな飛ばされてしまったのではないかと心配したのですが、ほとんど無傷で、国立の桜も、府中の桜も、むしろ、洗われたような透明感を感じさせます。
我が国には、桜が沢山、植わっていて、本当に幸せですね。
桜の名所と言えば、古来より、秀吉が晩年、度々、お花見をした京都の醍醐寺が有名です。
勿論、小生も醍醐寺に何度か訪れていますが、残念ながら、桜の満開の季節には訪れていません。
醍醐寺の満開の桜は、それは、それは見事なものだそうです。
写真では見ていますが、一度、本物を見物したいと思っています。
近場では、職場のある八王子市にも、桜の名所が多々あります。
当院の近くにある富士森公園には、小生も、お花見によく行きます。
満開の桜の木のしたに佇むと、切ないような、騒ぎたいような、寂しいような、複雑な気持ちになります。
戦後派の小説家 坂口安吾が書いたように、『満開の桜の木の下には、死体が埋まっている』狂気が、桜の花には、確かにあります。
かつて小生の若かりし頃、わざわざ上野公園に、お花見で宴会をしている人達を、見物に行った事がありました。
お花見の賑やかさを耳にしたので、つい野次馬気分で見学に行ったのです。
お酒を飲んで楽しそうに騒いでる人を、冷静に観察するほど、寂しい事はないと、よく理解出来ました。
矢張り、お花見は、自分も騒ぎ浮かれなければ嘘ですね。
今週の水曜日、仕事のあと、当院のスタッフが国立の桜を見物しに行くそうです。
勿論、アルコール付きです。
天気予報では雨が降るようですが、雨の中の桜も良いですね。
その辺の微妙な感性を、今の日本の若者は持っているのでしょうか。
若い人にとっては、『花より団子』かも知れませんが…

院長の独り言 324 ; 新居が完成しました!

去年の8月末、長年の間、住み慣れた我が家を壊して、新たに建てていた新居がやっと完成しました。
慣れ親しみ、思い出の詰まった我が家の破壊されていく様を見ていられないので、旧宅を取り壊す当日、小生は、現場から離れていました。
2~3年前からでしょうか、すき間風が入いるようになり、2階の廊下を歩いていると、ミシミシ音が聞こえるようにもなりました。
リホームをしなければいけないとは思っていたのです。
そこに3.11の大地震が起こり、40年間、住んでいた木造の我が家のアチラコチラが、おかしくなってしまったのです…。
震災で踏ん切りがついたと言うか、重い腰を上げざるを得なくなってしまいました。
今まで住んでいた家は、耐震構造にはなっていませんでした。
次に大地震が来れば、我が家は倒壊する危険も考えられます。
『大地震など近々に来るはずが無い』とタカを括っていたのも事実です。
が、東日本大地震を目の当たりにし、おまけに、高名な地震学者が『次は、首都圏に震度7以上の大地震が、いま直ぐ起きてもおかしくない!』と、テレビなどで発言しているのを見ると、建て直すしかありません。
『耐震構造を持つ家に、建て直すしかない』と家族の意見が一致しました。
そうと決まったら『建てよう!』と素早く行動に出たのです。
家を建て替えている友人の話を聞いていると、『本当に大変だった…』と、みな異口同音に訴えます。
しかし、そこで躊躇すると、気が萎えてしまい、結局、建てず終いになりそうだったので、先々の面倒をあまり考えないようにして、良いことだけ考えるようにしました。
お金もかかったし、荷物の整理も思っている以上に大変だし、引っ越しも業者任せとは云え、本当に疲れました。
引っ越して1週間以上経っているのですが、新居は、なかなか整理が捗(はかど)りません。
周りの人からは『少し痩せたんじゃないの?』とか『整理はユックリした方が良いよ!』などと、忠告を受けています。
疲れが出てきたので、ブログを、ひと休みしていました。
ブログを書くのにも、元々、足りない頭を振り絞って書いているので、結構、大変なんです。
新居住まいが落ち着いてきたら、また好きなゴルフにも行きたいし、真面目にブログも書きたいと思っています。
それまで、今しばらく、お待ちください。

院長の独り言 323 ; 天気予報

最近、少し暖かくなったと思うと、翌日はコート無しで外に出たくない程に寒くなったり、また、その翌日にはポカポカ陽気です。
気候の変動が激しい季節の節目。
もうすぐ春の到来ですね。
気象衛星のお陰で、現在、天気予報はかなり正確です。
戦後、気球を飛ばして、上空の気圧や温度を観測出来るようになり、より正確な天気予報が可能になりました。
それでも、現在と比較すれば、予報が大きく外れる場合も、多々、見受けられたものです。
明治17年6月1日に、日本で初めて東京気象台(現在の気象庁)から、全国の天気予報が発表されました。
ちなみに、第一号の天気予報は、『全国一般 風ノ向キハ定リナシ 天気変リ容シ 但シ 雨天勝チ』です。
この天気予報は、東京市内の交番に掲示されたそうです。
当時は、当たるも八卦、外れるも八卦状態だったのですが、それでも、天気予報を始めた事に意義がありました。
20世紀前半までは経験則で、例えば、『夕焼けの翌日は晴れる』とか『月に暈(かさ)がかぶると、翌日、雨が降る』など、言い伝えを参考にしながら、天気の予測を立てていたようです。
また、天気予報と言えば、冬の典型的気圧配置の『西高東低』がポピュラーです。
日本では、西に高気圧、東に低気圧の状態になった時が、一番寒いのです。
理由は、空気も水と同じで、高いところから低いところに流れて行きます。
気圧の高い高気圧(大陸の冷たい空気)が、気圧の低い低気圧(太平洋の暖かい空気)に向かって流れるので、寒いと云う訳です。
高気圧は時計回りに回り、低気圧は反時計回りです。
下降気流の高気圧、即ち、上から下に向かって気流が流れ、大陸のシベリア高気圧から出る冷たい北風が、低気圧に容赦なく降り注ぐのです。
夏は反対に、高気圧(太平洋の暖かい空気)が日本列島の上に存在するので、大陸の冷たい空気(低気圧)を寄せつけません。
もし、夏、大陸の低気圧が日本列島に長居すると、冷夏になってしまい、農作物に多大の被害が出てしまいます。
更に稀には、日本の近場で大噴火(例えば、フィリピンのピナツボ火山の大噴火)が起こって、日光が噴煙に遮られて、冷夏になったりする場合もありますが、殆どの気象現象は、当たり前ですが太陽の活動次第です。
ご存知のように、北半球と南半球では夏冬が逆です。
これは、地球の自転軸(一日一回、北極と南極を軸にして回る)が、公転軸(一年かけて、一回太陽の周りを回る)に対して、少し傾いている(約23度)ので、太陽熱が強く当たったり、弱くなったりする事により起きる現象です。
自然の大きな力に翻弄されながら、人間はその力の間隙をぬって、生きていくしかないのですね。

院長の独り言 322 ; 聴覚語ではない日本語

日本人は、外国語を喋るのが苦手です。
その一番の理由は、日本語が視覚から入る言語からだと言われています。
英語をはじめ仏語、独語などは聴覚語です。
文字に意味はありません。
耳から言葉を覚えます。
勿論、日本語も最初は耳からですが、直ぐに、目から言葉の意味を覚えるようになります。
皆さん意外でしょうが、中国語も聴覚語です。
簡略漢字を簡単に創ってしまい、漢字本来の意味が解らなくなってしまっても、中国の人は、何ら不自然に感じないのは、中国語が聴覚語だからです。
本来の漢字の意味をシッカリ受け継いでいるのは、皮肉にも中国人ではなくて日本人です。
漢字に意味を認めていたので、中国語には無い『峠』など、日本で生まれた漢字は結構、あります。
中国人をはじめ、言葉が聴覚語である国(世界中のほとんどの国)の人は、日本人と違って外国語を簡単にマスターしてしまいます。
外国語を耳から覚えるのに馴れているのです。
我々は、いちいち意味を確かめてしまうので、外国語を喋るのが世界で一番、苦手な国民と云う訳です。
もし我が子に、外国語を流暢に喋らさせたかったら、文字を覚えないうちに、英語でも、中国語でも、耳からの学習法をすべきです。
何でこんな話をしだしたかと言いますと、先日、『北京故宮博物院200選』を観に行った時に、長文の漢詩の中に『平仮名』が混じっていた事に興味を感じたからです。
平仮名は、日本で発明された文字です。
奈良時代に、律令国家になった我が国は、文字を書く機会が大幅に増えたので、何とか漢字を簡略化したいと痛切に感じたのです。
しかし、漢字を簡略化したくはなかったのでしょう。
そこで、現在の国会の速記のように、速記しやすい平仮名を完成させていった説が、現在、有力です。
あくまで俗説ですが、柿本人麻呂や空海が平仮名を創ったとも云われています。
漢字を簡略化せずに、大切に残した先人たちは、大したものです。
漢字、平仮名のお蔭で、その後、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、そして平成と、文字の文化が発展してきました。
おまけに、日本人はカタカナも発明していますが、これも、外来語のふり仮名には無くてはならない文字です。
また、日本語の文章には、言葉と言葉をつなぐ『は』や『を』のような助詞が欠かせません。
この事も、世界で珍しい視覚語を発達させた要因のようです。
しかし最近は、文字離れ、読書離れが甚だしく、嘆かわしく思います。
日本語は、世界で珍しい視覚語です。
日本語は読書の為にあるような言語ですから、たくさんの本を読もうではありませんか。
欲を言えば、グローバリゼーションの昨今、努力を重ねて、外国語もペラペラいきたいものですがね。

院長の独り言 321 ; 60インチの3D液晶テレビ、買ったどぅ~!

定期的に行なっている血液検査の結果が思(おも)わしくなかったので、気分的に落ち込んでしまい、ブログを書く気にならず、失礼しました。
自分としては、好きなお酒を絶って、相当に努力したつもりでしたが、『そうは問屋が卸さない』です…。
40年間以上、毎日、晩酌しいていたのに、タッタ3カ月間、禁酒したからと言って、そんなに簡単に、検査値が正常になる訳がないと、家族全員に意見されてしまいました。
結果が良くなっていない事実を、冷静に受け止める事にした途端、少しづつ元気が出て来たので、今、パソコンに向かっています。
気晴らしを兼ねて、休日、新宿の大型電気店に、前々から興味のあった3Dテレビをヒヤカシに行ってきました。
実際、60インチの3D液晶テレビを目の当たりにすると、ヒヤカシどころではなく、その迫力と画面の綺麗さに圧倒されて、直ぐにでも自分の物にしたくなってしまいました。
信じられないほどの迫力満点の画像を熱心に見ていると、タイミング良く、係の人が『良いでしょう?』とニヤッと笑うのです。
こちらの心の内を見透かしているようです。
『ヨシ!買った!』てな具合で、勢いで60インチの3D液晶テレビを買ってしまいました。
一週間もすると、届くであろう3Dテレビを今から楽しみにしています。
スポーツやドキュメンタリー、映画など、立体画面を楽しめる番組は未だ少ないのですが、早速、3D映画のDVDを観てみようと、ウキウキしています。
何しろ、『病気』と云うくらいですから、結局、『気の病』。
立体化された画像を楽しんでいると、血液検査の値も少しは改善するのではないかと期待しているのですが…。
クヨクヨしているだけだと、益々、身体がオカシクなるような気がするのです。
食事や飲酒を制限するのは勿論ですが、ある意味、『開き直って』生活していこうと思っています。
3Dテレビ対応のエアロビDVDなんか、迫力があって、運動を楽しくできるかな…、と思って、アマゾンで検索してみても、1つも表示されません。
絶対、売れると思いますけど、業者さん、如何でしょう?

院長の独り言 320 ; 顎関節症の患者さんが増えています

八王子市で歯科医院を開業した昭和47年。
今から40年前に、『顎(あご)が痛くて、食事が辛い』や『口を大きく開けられない』など、顎関節の不調を訴えて来院する患者さんは、大変、少なかったのです。
虫歯の治療や義歯製作を希望する患者さんが、ほとんどでした。
ところが、最近、顎関節の不調を訴えて、当院を受診する患者さんが、驚くほど多くなっています。
顎関節の不調は、今と同じように、昔から存在していたと考えられますが、自分が大学病院に勤務していた時、顎関節の治療は、口腔外科で対応して、現在のように独立した治療部はありませんでした。
顎関節の不調で、大学病院を受診する患者さんが少なかったからでしょう。
やはり、顎関節の病気、主に顎関節症の患者さんが、大幅に増加してきているのでしょうか。
おまけに、患者さんが訴える症状が、以前より複雑になってきているのです。
『口を大きく開けられない』とか、『硬い物を食べる事が出来ない』など、顎関節の機能不全に直結している訴えは、当然ですが、もっと深刻で複雑な訴えが随伴しているのです。
『頭が痛い』『舌先や舌縁がヒリヒリする』『首のコリ、肩コリがする』、『腰が痛い』『手や足が痺れる』『のどや耳が詰まった感じがする』『よく眠れない』などなど…、多くの不定愁訴を、伴っているのです。
息子が口腔外科出身で、今でも、大学の顎関節治療部の非常勤講師なので、顎関節の不調を訴えて来院する患者さんで、テンテコ舞い状態です。
多くの患者さんは、うつや不安を呈しているようです。
初診時は、面接だけでも、1時間は話し込んでいます。
現代のようなストレスフルな社会を乗り越えるために、無意識に歯を噛みしめてしまい、顎に過度の負担が掛かっているのでしょうか?
俗論ですが、現代に生きていると、硬い食べ物が少なくなり、軟らかい食べ物ばかりで、咀嚼筋が衰え、顎骨が小さくなってしまい、ただ単に、日常生活を送っているだけでも、顎関節や周囲組織を痛めつけているのかもしれませんね。
一歯科医院で、患者さんたちのお口を定点観測しているだけでも、現代人の顎骨が脆弱になっているのを伺い知れます。
若い患者さんの顎をレントゲン写真で観察すると、親知らず(第三大臼歯)だけでなく、永久歯の萌出するスペースがなくて、埋伏したまま、顎骨から生えてこない歯が多いのです。
もっと言えば、考古学の博物館を訪れれば、一目瞭然です。
縄文人の下顎骨を観察すると、親知らずまでキチンと歯が生え揃っていて、奥歯が咬耗で歯の半分くらいまで擦り減っています。
いかに硬い物を食べていたか、想像に難くありません。
歯が擦り減っていると云う事は、食べ物が良く噛めていた証拠でしょう。
顎が痛いと云う悩みも、現代ほど、多くなかったのかも知れません。
今ほど、複雑な人間関係も無かったでしょうし…。
ストレスフルな現在、精神状態が寄与因子となって、顎関節の不調などの身体症状を引き起こしているのです。
息子の恩師、東京医科歯科大学歯学部附属病院の顎関節治療部の木野孔司部長が、先日、テレビ番組に出演して、TCH(Tooth contacting habit;上下歯列接触癖)について解説していました。
不安やストレスが切っ掛けとなり、TCHやくいしばりが癖となってしまい、顎関節症や肩コリを治りにくくしている、というお話でした。
TCHの対処法として、『張り紙法』を推奨していました。
『張り紙法』とは、身体の緊張を正確に認識することにより、リラックスした状態を学習する方法です。
TCHのある人は、睡眠時の歯ぎしりも伴うと、報告されています。
歯ぎしりは、睡眠時の行動ですから、本人が意識して治す訳にはいきません。
そこで、起きている時に、自分の部屋や居間など、3分間以上、滞在する場所すべてに、『歯をはなして、リラックス!』の張り紙をして、張り紙を見るように心がけ、TCHを止めるのです。
もしTCHをしていたら、全身の緊張感を意識しながら、息をゆっくり吐くのです。
『溜息をつく』感じです、分かりますか?
この方法は、顎関節症の治療としても、効果が期待出来るのです。
是非、試してみてください。

院長の独り言 319 ; 東京国立博物館特別展『北京故宮博物院200選』の招待券を頂きました!

患者さんのKさん、展覧会の招待券を、いろいろプレゼントしてくれます。
今回も、東京国立博物館特別展『北京故宮博物院200選』の招待券を頂きました。
Kさん、いつも本当に有り難う御座います!
2月18日(土)に、家内と行ってきました。
当日は気象情報によると、今年一番の寒さだそうです。
昨晩から、都心でも雪が降っていたくらいの寒さですから、午前10時前に博物館に着けば、少しは空いているのではないかとハリキッたのです。
上野に10時前に着いたのですが、お年寄りを中心に多くの人々が、寒いにも関わらず、訪れていました。
どうやら、われわれの考えが甘かったようです…。
中国の内戦で敗れた蒋介石が、明時代から清時代の故宮秘蔵の名宝を、台湾に運んでしまったようですが、それでも、現在の北京故宮博物院には180万件を超えるコレクションを所蔵しているとの事です。
その膨大な文物から、選りすぐりの名宝200点が今回、展示されました。
宋、元時代の書画、宮廷絵画、紀元前11世紀の商時代の精巧な青銅器、色々な時代の漆器や陶磁器など…、多彩な名品がずらりと並んでいました。
私が一番、吃驚(びっくり)したのは、『行書』の展示されているコーナーで、ある漢書に、日本の『平仮名(ひらがな)』が漢字の中に混じって書かれていたのです。
何故、平仮名が漢字に混ざって書かれていたのか、本当に不思議に感じました。日本と中国でどのような交流があったのでしょうか。
平仮名は我が国の発明した文字です。
『ふ』や『つ』が、漢字の中にポツンポツンと混じっているのですが、それが文を引きたてている不思議さがありました。
多くの見学者は関心が無いのか、平仮名の存在を気にもしないで、通り過ぎていました。
長い漢文に、平仮名が交じっている理由を、係の人に尋ねたかったのですが、生憎、周りにはそれらしき人は見当たりませんでした。
漢字は勿論、水墨画や陶磁器など、中国から伝わってきた文物が多いのを、思い知らされたのも確かですが、その文化を、本家よりも見事に成熟させた我が国の先達も、たいしたものだと感じ入りました。
このような展覧会を訪れると、いつも思うのですが、千年も二千年も前の人の書画や工芸品の精緻な美しさには、毎回、感心させられます。
ヨーロッパの古い美術品や今回の中国の美術品を観ても、技術は、積み重ねによって、少しずつ進歩はしていますが、脳細胞の程度は2千年前の人も、5千年前の人も、現代人も全く同じだと思いました。
科学技術は進歩していますが、最近の美術や文学の芸術は、奇を衒った表現がまかり通って、人間やその生活と遊離しているようで、ヒョッとしたら凋(しず)んできているのではないか。
人間の有り様は、このままで良いのか。
と、古き芸術家たちに、心の中で問い掛けていました…。

院長の独り言 318 ; 麻生元総理と電線地中化計画

今朝、テレビ番組で、麻生太郎元総理の元気な姿を、久し振りに拝見しました。
麻生政権末期のメディアのこき下ろし様は、大変なものでした。
エコ減税など、民主党政権にも引き継がれている政策が多く、経済政策が巧みであったのも、麻生政権でした。
話は変わりますが、ブログで何度も触れましたが、消費税増税の前に、内需拡大とデフレ克服が、景気回復に繋がると私は思うのです。
私の年代、65歳以上の人達が体験したような、我が国建国以来、前代未聞の大経済成長は現在、望みたくても無理な相談である事は分かっています。
私が住んでいる多摩地区を考えても、昭和60年代の、あの倍々ゲームのような景気の良さが戻って来るなんて無理な相談でしょう。
八王子から新宿まで、京王線に乗って車窓から沿線の風景を望めば、容易に理解出来ます。
今から40年ほど前は、沿線の風景は、まだ緑も多く、住宅と云えば、個人の平屋か二階家屋がほとんどでした。
京王線のどの駅前も静かなもので、ビルは駅前に、ポツン、ポツンとしか見られませんでした。
要するに、都内にも、美しい空が望めたのです。
それが、小生の気が付いた時には、どの駅前もビルだらけになってしまい、駅と駅の間も立派なマンションが立ち並んでいます。
あのビル群が建設されていた何十年かの間は、さぞかし景気が良かっただろうと、想像に難く有りません。
ダンプカーは何台も連なって、我が物顔に道を占領していましたし、夜の飲み屋街はひと、ひと、ひとで、活気に満ちていました。
ウチの診療所前も、終日、人で溢れていました。
高速道路は日本中あらゆるところに出来るし、結果として、車はドンドン売れるし、個人の家やマンションは、郊外に怒涛の如く建設されました。
大袈裟に言えば、日本中がひっくり返るほどのお祭り景気だったのです。
今は、国債をどんどん発行していますし、増税をしないと国が破たんするのでは、と言われています。
あの当時は、減税が当り前だったのです。
国家予算の税収が予定より多く入ってしまうので、取り過ぎたお金を、国が国民に返していたのです。
今、祭りの後と言うのか、本当に街中の活気が消えた感じがします。
ビルを建てたくても、その場所は駅前にはありません。
建て終わってしまいました。
車と云えば、矢張り、買い替え需要だけで、新車を買う家庭も会社も存在しないのではないでしょうか。
海外に目を向けても、アメリカをはじめ、あらゆる国の景気は右肩下がりです。
景気を少しでも回復させるには、何とか内需の景気を創り出し、デフレを克服しなければなりません。
皆さん大いなる錯覚をしていますが、日本の景気は、もともと内需で支えられているのです。
ドイツや、中国や、韓国より、我が国が輸出依存度の低い事は、少し前のブログでも説明しています。
我が国の景気を良くするのは、勿論、輸出も大切ですが、一番なのは、デフレの克服と内需の浮揚です。
しかし、内需、内需と言っても、具体的にどうしたら良いのでしょうか。
もう建設や車は、飽和状態です。
景気の牽引車にはなりえません。
随分前のブログで提案しましたが(院長の独り言 45 ; 日本の街から電柱と電線を無くそう!)、日本はヨーロッパの街並みと比べて唯一、劣るのは、電線が多くて、景観が悪いのです。
この際、思い切って、全ての電線を、大地震にも強い地下ケーブルに変換したらどうでしょうか。
これは、大工事になります。
我々市民の生活は工事中、大変、不便にはなるとは思います。
しかし、結果として、街は綺麗になり、景気は素晴らしく改善されるでしょう
何とか、官僚、マスコミ、政治家主導で実現出来ないでしょうか。
さすがに、麻生元総理も今朝、同じ事を強調していました。
それにしても、あの時、自民党政権に飽きてしまったとはいえ、麻生政権へのバッシングの異常さは、酷かったですね…。

院長の独り言 317 ; バブル狂想曲、退職金がパァ~

思い出してみると、昭和60年から平成元年頃までが、バブルの絶頂期だったと思います。
昭和47 年の暮に八王子市で歯科医院を開業して、6年目の昭和53年。
念願の府中カントリー倶楽部に入会する事が出来ました。
ゴルフの腕は恥ずかしいくらい下手ですが、友達に誘われたのを切っ掛けに、健康を思い、入会した次第です。
ゴルフ仲間は、ビギナーの小生に、全く厭な顔もせずに、付き合って呉れました。
お金の話で恐縮ですが、当時、会員権や入会金、その他の経費などで、確か総額900万円を支払いました。
いくら身体の為だとは云え、借金を抱えていたので、趣味に大金を出費するのですから、会員権を買う時は、家内から、嫌みのひとつぐらいは覚悟していました。
ところが、すんなりと『良かったね~』と家内が言って呉れたので、内心ホッとしたのです。
この会員権を買った半年前ぐらいから、我が国の景気がウナギ登りの右肩上がりで、それにつられて買った会員権もドンドン値上がりし出したのです。
アレヨ、アレヨと思っている間に、倍々ゲームのように会員権が値上がりしていったのです。
昭和62年頃には、とうとう1億円を超えてしまいました。
本当の話ですよ。
友達に薦められて買ったくせに、さも自分で買ったように、周りのみんなに自慢タラタラでした。
国家公務員出身の私にとっては、1億円などの大金は『想定外』の値です。
おまけに、開業したてだったので、想像を遥かに超える金額でした。
バブルの絶頂期には、会員権の仲介業者から『1億8千萬円でどうか?』と声が掛かったのです。
ここから後の話は、皆さんの想像通りに展開してしまいました…。
自分としては、ゴルフをプレーしている間は、どんなに値上がりしても、会員権を手放すつもりはありませんでした。
プレーが出来なくなったら、退職金代わりにしようと思っていたのです。
何しろ、億のお金ですよ。
ところが、平成2年頃から、何となく雲行きが怪しくなってきたのです。
世の中の景気が、です。
私は株を持っていませんでしたが、新聞やテレビで株の暴落を報じていました。
当然ですが、ゴルフの会員権の値も、坂道を転げ落ちていったのです。
あっと言う間に、退職金代わりの『一億円』は、パッと消えてしまいました。
現在の会員権、900万円で手に入れた会員権は、いくらになっていると思いますか、皆さん。
『300万円』です…。
豊臣秀吉ではないですが、『浪速のことは 夢のまた夢』と言った状態になりました。
そうそう上手い話は、この世の中には存在しないと云うのを、身を持って実感しました。

院長の独り言 316 ; 信じられないほどの驚き!

目の話をしたいと思います。
還暦を迎えるまでは、視力は然(さ)ることながら、色彩を見極める眼力に関しても、相当に自信がありました。
それは、随分前のブログでも書きました(院長の独り言 221 ; 老眼鏡は大のお友達)。
今回は色盲の話です。
『エッ!嘘!』と驚くことが、誰でも、たまにはあるものです。
例えば、素朴で長閑(のどか)な東北の街並を大津波が襲った後、瓦礫の山と化した景色には、エッ!嘘!と息を飲んでしまいました。
大津波に襲われて、家も車も流されていく映像は、CGの世界のようでしたが、現実の出来事です。
話は全く違うのですが、『エッ!信じられない!』とビックリした出来事を、中学生の時に体験したのです。
今朝のNHKの番組でもやっていました。
色覚異常、いわゆる色盲(色弱)の話です。
その後、色々驚かされた出来事は数えきれないほど経験しているのに、この事だけは、いつも思い出してしまうのです…。
それは、親父の仕事の関係で、官舎に入居した時の話です。
古い家なのですが、結構、広い庭付きの官舎でした。
八畳間から、庭が綺麗に見え、5月になると、正面の庭に真っ赤なバラの花が見事に咲き誇るのです。
お袋は『本当に真っ赤で素晴らしいバラ!』と感心して見惚れていました。
私が中学生になった年の梅雨に、例によって、お袋と一緒に真っ赤なバラを見ながら、『人間では、この見事な深紅の色は絶対、創り出せないね』と、バラ談義をしていた時です。
丁度、兄貴が学校から帰ってきて、我々二人の様子を不思議そうに見ながら、『そんなに感心して、何を見ているの?』と尋ねてきたのです。
『こんな見事な真っ赤バラ。こっちへ来て見てみなよ!』
『滅多に見られないよ!』と誘ったところ、兄貴は怪訝そうな顔をして、『何処にバラが咲いているの?』ときたのです。
一瞬、兄貴が何を言っているのか、理解出来ませんでした。
兄貴の手を引っ張って、花の前に呼び、赤いバラを指差して、『ほら、こんな真っ赤で凄いだろ!』と詰(なじ)るように言ったのです。
ところが、兄貴は『よく見れば、周りの葉っぱと同じ色の花びらがあるのは分かるけど、一つも綺麗じゃないね!』と宣(のたま)ったのです。
お袋と私は、目が点になるほどビックリしました。
皆さんお察しの通り、兄貴は色覚異常でした。
色覚異常にも色々あるのですが、兄貴は赤緑色盲と云って、赤色と緑色が同じ色に見えて区別の付かない、先天的な色彩異常なのです(後天的もある事はありますが、今回は先天的の色覚異常に限ります)。
交通信号の赤と青の区別がつかないので、事故にも繋(つな)がってしまうので怖い事もあります。
赤緑(せきりょく)色盲の兄貴は、勿論、自動車の運転はしません。
色彩異常でない私にとって、赤と緑の区別が出来ないとは、本当に『エッ!嘘!』と云った感じだったのです。
ところが、赤緑色盲の人は、残念ですが、区別がつかないのです。
普段の生活には、何の支障もありません。
色盲は、X染色体の異常なので、X染色体が一つしか無い男性は、女性より色覚異常の人が多いのです。
女性の場合、X染色体が二つなので、片方の染色体が異常でも、色は正常に見えます(潜在色盲)。
X染色体が二つある女性は、色盲はほとんどありません。
女性は長生きするし、何でもうまく出来ていますね~。

院長の独り言 315 ; 江戸川乱歩『芋虫』

小学校高学年から中学校を卒業するまで、私は江戸川乱歩の少年向け探偵小説『怪人二十面相』にゾッコンでした。
親に買って貰い、何度も、何度も、読みかえします。
今でも、その単行本を自宅に保管しているほどです。
この『怪人二十面相』は、昭和11年(1936年)に雑誌『少年倶楽部』に連載されて、人気を博し、後に単行本が売り出されたのです。
名探偵 明智小五郎と小林少年が率いる少年探偵団が、変装名人である怪人二十面相と対決して、様々な難事件を解決していくと云う、皆さんご存知の子供向けの痛快小説です。
小生、乱歩が推理小説作家として、勧善懲悪の探偵小説ばかり書いていると思い込んでいました。
忘れもしません。
大学に入った年の夏休みに、神田神保町の古本屋で『芋虫』と云う乱歩の短編集を見付けたのです。
乱歩の小説ですから、例によって、昆虫の生態でも書かれている、科学解説本だと思って買ったのです。
でも、乱歩らしく、一寸風変わりな推理的昆虫小説ではないかと、期待半分興味半分と言ったところでした。
普通の昆虫解説書と何処が違うのか、自宅に早く持ち帰って、読みたい気持ちで一杯でした。
驚きました。
読んでみての感想ですが、自分の頭の中に出来あがっていた、江戸川乱歩が書いたものとは信じられませんでした。
全く、昆虫解説本とは違うのでした。
簡単な内容を説明します。
戦争で命は助かったものの、主人公である元兵士は、傷痍軍人として、故郷に帰って来たのです。
大変な傷を負って…。
両手両足が無くなり、視覚と触覚以外は、五体のほとんどの機能が消失、まるで見た目は、芋虫のようになってしまったのでした。
題名はここからきているのです。
その芋虫のようになってしまい、自分の意思で全く動く事の出来なくなってしまった旦那を、奥さんが苛(いじ)めるのです。
過って、貞節だった奥さんが、動けない旦那をいたぶり、虐げます。
最後には、見えていた目も、奥さんは潰してしまいます。
読んでいて気持ちが悪くなってしまいました。
こんな内容の小説を江戸川乱歩が書いたという事実に、若かった自分は、大変なショックを受けてしまいました。
しかし、その後、乱歩は推理探偵小説以外にも、様々な変わった小説を書いている事が分かりました。
自分の勉強不足が恥ずかしい限りです。
いま思うに、小説『芋虫』は、人間の業の恐ろしさを書いたのです。
要するに、変形した愛欲小説だったのですね。
読んでない人は、気持ちが悪くなる事を覚悟で読んでみて下さい。
最近、『キャタピラー』という題名で、脚色映画化されたようです。
原作を思い返すと、あまり見る気が起きませんが…。

院長の独り言 314 ; ハンバーグ嫌い

以前、レストランに入って、ハンバーク料理を自ら注文することは全くありませんでした。
理由は単純で、ハンバーク料理が好きでなかったからです。
勿論、ハンバークが自宅で、おかずとして出てくる時は、否でも応でも食べていました。
実は小生、ハンバークを初めて食べたのは、大学に入った後でした。
幼い時からハンバークを食べていないので、初めて食べた時も、別段に美味しいとは思いませんでした。
ステーキと違い、ハンバークは歯応えがなく、そのグジャッとした、軟らかい食感が、自分に合わなかったのです。
今時の若い人達はハンバークが大好きですね。
娘も、息子も、ハンバークは小さい時から大好物でした。
私は、何であんなにハンバークが好きなのか、理解に苦しんでいました。
幼児期にその人の食べ物の好みは、大体、決まると言われています。
母親が刺身を嫌いだと食卓に刺身が出てきませんから、必然的に、その母親の子供は刺身を好まないそうです。
納豆などは、関西人は幼い時から食べていないので、大人になっても納豆を嫌う人が多いと聞きます。
小生の母親は大正生まれなので、ハンバークを食べたことが無かったのでしょう。
私が子供の頃、ハンバーク料理が食卓に並ぶことはありませんでした。
結婚して子供が生まれたのを契機に、家内がハンバークをよく作るようになりました。
それまでは、私がハンバークを好きでないと、家内は知っていたので、ハンバークは食卓に出てきませんでした。
逆に、子供達はハンバークが大好きでした。
子供達の催促で、ハンバーク料理を作るようになったと云う事です。
小生は云えば、ハンバークには箸を少しつける程度で、天ぷらや刺身で晩酌をしていました。
外食する時も、レストランでは、殆どステーキを注文していました。
ところが最近、レストランに入った時、ふとハンバークステーキを注文してみたのです。
そして、注文して気付いたのです。
当たり前と云えば当たり前なのですが、店によっては、ハンバークの味も見た目も微妙に違うのです。
よく味わって食べると、ハンバークは、なかなか捨て難い料理であるのに、この年になって、遅まきながら気が付きました。
ハンバークは、ドイツを起源とした料理です。
語源は、皆さんご存知の如く、ドイツの都市ハンブルクからです。
ドイツ人移民がアメリカに渡った際、故郷を懐かしんで食べていたようです。
何と言っても、アメリカでは、ステーキが主流であったのは、言うまでも有りません。
ところが、ヒョンな事から、ハンバークをパンの間に挟んで食べるようになったら馬鹿受けになってしまいました。
ハンバーカーの誕生です。
恥ずかしながら、私も2~3週間に1回は、ハンバーカーを買って食べたり、ハンバークを家内に頼むようになりました。
『昔は、あんなに食べなかったくせに!』と、嫌味を言われている、今日この頃です。

院長の独り言 313 ; 今年は、雪カキが大変ですね

先日、珍しく首都圏に雪が降りました。
例年は、次の日には雪が溶けてしまい、自動車通勤には何の支障もなかったのです。
ところが今回ばかりは様相が一寸と云うか、大分、違うのです。
夜半に雪が短時間にかなり激しく降った後、急激に冷え込んだのでしょう。
積もった雪が氷のように硬く残ってしまい、人は滑って転ぶし、車はハンドルをとられてしまい、スリップ事故続出です。
毎日、通勤に使う甲州街道は、凍結気味なので危険を感じ、高速道路の中央道で八王子まで行きました。
八王子インター出口までは、順調にスイスイでしたが、一般道に入ると大混雑。
全く前に進みません。
診療所まであと1キロ程度なのに…。
イライラしてしまいます。
我々の斜め前のトラックは、横滑りして、全くブレーキが効かず制御不能で、どうなる事かとハラハラ。
後ろに追突されたらと、ドキドキでした。
大幅に遅れて、どうにか診療所に着いた時は、グッタリです。
凍った雪は、一週間以上経っても、根雪として残っているしつこさ。
ここのところ世界的に、地球温暖化が話題になっています。
地球がどんどん暖かくなってきているのだそうです。
その影響で、北極や南極の氷山が溶け出して、シロクマやペンギンの住む処が狭まれているそうです。
地球の気温は、太陽の活動におおきく影響を受けています。
太陽活動が活発な時は、黒点の数が増加します。
逆に不活発な時は黒点の数は減少し、ゼロになってしまう時期もあるのです。
1750年頃から、黒点の数は観測されていて、黒点が11年周期で増減を繰り返している事も分かっているのです。
黒点の少ない時期は、地球は寒くなり、多い時は暖かくなります。
現在は、黒点の数は非常に少なく、太陽活動は不活発の時期なのです。
要するに、地球は寒冷期です。
ところが、地球は温暖化していると言われて久しいのです。
皆さんご存知のように、CO2による温暖化と言われています。
この大宇宙の摂理に反して、本当に地球は温暖化しているのでしょうか。
人間が放出している炭酸ガスが原因で、寒冷期を温暖期にしてしまうのでしょうか。
今回の雪の後の寒さを考えると、やはり地球は次第に寒冷化に向かうかも知れません。
現在、2カ月間も、黒点がひとつも観測されないと云う異常事態です。
過去の同様な事例から考察すると、今年から2~3年は猛烈な寒波に見舞われるかも知れません。
今回の大地震も千年単位できちんと起こっています。
自然は我々人間では、どうする事も出来ないのかも知れません。
『備えあれば憂いなし』
食物の出来るだけ自給自足を日本も考えるべきだと思うのですが。

院長の独り言 312 ; 阿部先生と煎茶席

当院の歯科衛生士2名(有若さんと蓮実さん)が、去年の春以来、煎茶の作法を阿部先生から教えて頂いています。
習い始めてから早(はや)、一年間が経とうとしています。
ひと月に3回、阿部先生の自宅に通って、煎茶作法の勉強中です。
今では、稽古の日が待ち遠しいそうです。
もう去年になってしまいましたが、暮れの29日(木)に、日本橋高島屋で『煎茶席』を催すとの案内を頂き、息子と出掛けてきました。
彼女たちが着物姿で、茶席のお手伝いをするとの事。
行かない訳にはいきません。
会場には、萬福寺開創350周年を記念して、インゲン豆を中国から本邦に伝えた事で有名な隠元(いんげん)禅師(京都宇治市にある黄檗宗大本山萬福寺の開祖)を偲び、萬福寺の創建時に作られた仏像など黄檗(おうばく)文化の名品が数多く展示されていました。
その記念の茶会として、『煎茶席』が設けられていたのです。
隠元禅師は、インゲン豆だけではなく、スイカ、蓮根、煎茶や、現在、使われている原稿用紙や、印刷に使われている書体を、我が国にもたらした人なのです。
展示会の一画に、煎茶の席が設けられていましたが、その入り口で、阿部先生がニコニコと立っていました。
我々が挨拶に行くと、先生は大歓迎して呉れました。
周りには着物姿のご婦人方が、忙しそうに茶席の準備をしていて、その中に、着物姿の有若さんと蓮実さんを見付けました。
小生と息子に気付くと、二人とも一寸恥ずかしそうにして、我々の所に来ました。
『二人とも似合っているよ、振袖が!』
『先生、カラカワナイで下さい』と、照れ臭そう。
息子が、阿部先生と二人の着物姿を写真に収めました。

若いお弟子さんがお茶を準備している横で、阿部先生にお茶の入れ方や道具、作法や結界の説明をしてもらいました。
無粋な私とすれば、飲み方の『間(ま)の取り方』も解らず、どのようなタイミングでお茶を飲んだら良いのかマゴマゴしてしまいました。
それを察してか、先生が『この茶席は、サロン感覚で良いのですよ』と言われたので、少し緊張がほぐれたのです。
少し甘みのある一回目の煎茶と、苦みの強い二回目の煎茶を点(た)てて頂き、その合間に、和菓子を頂きました。

日本には、このような茶会など、子孫に伝えていかなければならない伝統文化が沢山あります。
何も知らない私が言うのも何ですが、是非、伝統文化を子孫に残して欲しいと思いました。
この頃は、歌ったり踊ったり、所謂、西洋文化花盛りです。
勿論、それはそれで良いのですが、日本独特の文化も是非、継承して欲しいものです。
お茶会のあとには、爽やかな気分が残りました。

院長の独り言 311 ; 消費税の増税に不安な理由(その2)

歴史的な円高です。
私が学生の頃は、1ドル360円の固定相場でした。
為替レート360円の当時、日本に来て、ドルで買い物をしていた外国人にとっては、『日本は、なんて物価の低い国なんだろう!』と、さぞかし歓喜の声を上げていた事でしょう。
それが、今は完全に逆転しています。
今日の為替レートでは、1ドル77円前後です。
外国人観光客は、『日本は物価が高い国だ!』と落胆しているに違いありません。
これだけ円高になると、輸出をしている会社にとっては、大変そうに思えます。
しかし、見方を変えれば、製品を作る材料は輸入しているのですから、材料費は円安の時よりたいへん安く済む事になります。
円安の時より却って、競争力があるのではないでしょうか。
こんな意見を言うと怒られそうですが、我が国にとって、千歳一遇のチャンス到来のような気がします。
かつてドル高の時に、アメリカは不景気にならず、目を見張るほど経済成長したのですから。
勿論、アメリカの好景気は他にも理由はあったでしょうが、ドル高を上手く利用した事も確かです。
アメリカの真似ではないですが、円高のうちに、原材料(鉱物、石油、飼料など)や外国の一流会社の株、一等地、名画などを出来るだけ購入すべきです。
当時の外人旅行客が日本で思ったように、我々が外国に行くと、円高のメリットをよく理解出来ます。
為替によって、物の値段があまりに違うのに、目が点になってしまいます。
円安の時には、外国へ行くと何でも高く感じるし、円高の時は、実感として全ての物を安く思います。
原材料の輸入業者は、輸出業者に安くなった分を考慮して提供して欲しいものです。
輸入業者は日本人なのですから、日本全体の利益を考えて、日本経済の救世主になって下さい。
巡り巡って必ず輸入業者にプラスになって還元されるものと信じます。
日本の製品を、外国人が高いと思わない程度の値段で輸出する事が出来れば、魅力ある日本の製品が売れない筈がありません。
為替の差損だけ質を落として売ったり、買う意欲を削ぐほどに高くすれば、輸出は落ち込むに決っています。
先人の努力の結果、ブランド化している日本製品を、魅力のある状態で維持するには、輸出入業者の協力と日本政府の後ろ盾が必須条件です。
もうひとつ、内需の拡大です。
世界経済が思っているより深刻で、なかなか不況が回復しない場合も考えなければならないのは、言うまでも無い事です。
幸い、我が国は債権大国ですし、貯蓄大国です。
マスコミも良くないですよ。
日本の将来に対して、悲観的な事ばかり言い過ぎのきらいがあります。
確かに、何事にも慎重に対処すべきでしょうが、あまりにも消極的な意見は、脅かされているようで身動きがとれません。
年金が貰えなくなるなど言っても、遠い将来の事で、実際は、どうなるか分かりません。
本当に年金が貰えなくなるかどうかを今から心配していても始まらない事です。
それより、この不況感を一刻も早く払拭すべきです。
特に、年金がキチンと出ている60歳以上の人の購買意欲が湧いてくるような製品を、もっと考慮すべきです。
日本の貯蓄の62、3%は、60歳以上の人の貯蓄です。
言い換えれば、経済的に余裕がある人は、60歳以上の人が多いのです。
一番大切な事は、60歳以上の人に、将来に対する安心感を持って貰う事です。
私もそうですが、体の衰えを感じている上に、日本に未来が無いように言われれば、自己防衛せざるを得ません。
結果として、財布の紐がキツくなるに決ってます。
政府も、マスコミも、希望を持たせるようなシュミレーションを、高齢者に伝えるべきだと思います。
高齢者の購買意欲が出てくれば、税収入も増えると云うものです。
消費が上向けば、景気の回復は意外と速くなるものです。
その結果、消費税も上げずに済むかも知れませんよ。

院長の独り言 310 ; 消費税の増税に不安な理由(その1)

小学校に入った時から現在まで、『我が国は貿易立国である』と、耳にタコが出来るほど、学校でも、新聞でも、ラジオでも、テレビでも、あらゆるところで何度も聞かされています。
世界各国に工業製品を沢山、輸出しなければ、日本国も消滅するし、国民も生きて行けないと言われ続けてきました。
いわゆる外需頼みです。
現在でも、本当なのでしょうか。
我が国は、GDP(国民総生産)で、輸出の占めるパーセンテージは、1割程度です。
GDPとは、国民全員が1年間で稼いだお金の総額です。
その総額の中で、輸出で稼いだお金が、日本は1割だと云う事です。
あとの9割は、内需で生み出したものなのです。
ちなみに、各国の輸出依存度(2009年度)は、
中国はGDPの24.5%、
ドイツは33.6%、
韓国は43.4%、
そして、日本は11.4%です。
現在、欧州金融危機により、ユーロ安になっています。
結果として、良質なドイツ製品が、安く手に入ります。
ドイツはユーロが安いので、ユーロ圏では輸出額、一人勝ち状態です。
確かに、日本の輸出が減少すれば、国民生活は、ある程度の影響を受けるでしょう。
しかし、日本の優秀な製品は、世界中で大変に高い評価を受けています。
我が国の素晴らしい製品を、世界中の人々が購入したいので、円の価値が評価されていると云う面もあるのです。
ただ、『安全パイ』としての金融事情だけで、円が上がっているとは限りません。
日本の製品に魅力が無かったら、悔しくても、円高には振れないでしょう。
冷静に考えてGDPからみれば理解出来ますが、日本は貿易額が今より少なくなっても、上記の国々より国民生活に影響を受けないのです。
『輸出を増やせ!』などと叫んで、外需を増大する事が、本当に賢明なのでしょうか。
あまり知られていませんが(国民性が慎ましいので)、我が国は、世界最大の個人貯蓄大国です。
何だか、国の借金が世界一多いと言って騒いでいますが、例えれば、息子(国家)が親父(国民)にお金を借りているようなものなのです。
債務国と言っても、内輪の話です。
国内の富の蓄積は多く、世界の国々にお金を貸しています。
日本は世界一の債権国(外国にお金を貸している国)なのです。
要するに、もっと内需を増やすように努力するのが、大切と云う事です。
遠くは江戸時代、明治、大正、昭和、高度成長期…と、先人たちの努力によって、世界一の債権国になったのです。
現在のような世界的な不況下において、日本のように強い国はないのです。
われわれ国民の特性を生かして、真面目に、丈夫でデザインの良い製品を作れば、自ずと道は開かれてくるのではないでしょうか。
外需産業ばかりに頼らないで、少子高齢化の国の、身の丈に合った内需産業を充実化する方策もあるのです。
内需にブレーキをかける消費税の増税には、不安を感じます。
(次回に続く)

院長の独り言 309 ; 今年も、石川歯科医院を宜しくお願い致します!

明けまして、おめでとうございます。
平成24年の幕開けです。
石川歯科は八王子市で開業して、40年間を過ぎました。
開業時は、私と家内のたった2人で始めました。
暫くして、衛生士1名、受付1名が就職。
ほんとうに小さな歯科医院でした。
幸いその後、来院して頂く患者さんが順調に増え、朝9時から夜7時まで、休む暇もなくの診療で、毎日クタクタでした。
40年過ぎて見ると、あっという間でした。
娘が3歳、息子が1 歳の時の開業でした。
現在、その息子が医院を引き継いで、一般歯科の治療は勿論、歯周病やインプラントの治療、歯内療法、口腔外科そして口腔顎顔面痛の治療と、様々な分野の治療を頑張っています。
スタッフは、若い歯科医師の山森君、衛生士の有若さん、筋野さん、川添さん、蓮実さん、鈴木さんの5名、受付の山口さん、島田さん、そして学生アルバイトの阿部さんと、大所帯に発展しました。
私はと云うと、昔ながらの患者さんとの話し相手が、主な仕事になりました。
今年は、我が国にとっても、正念場になりそうです。
被災地の復興は、進むのか?
福島原発の処理は、進むのか?
我が国の財政や年金は、破綻しないのか?
欧州金融危機が、どのような影響を世界に与えるのか?
世界恐慌になってしまうのか?
大きな不安が世界中を覆っています。
しかし、人間の生活は、慎ましくも続くのです。
目の前にある仕事を、真剣に、真面目に続けていくだけです。
石川歯科も新年、心を新たに、スタッフ一同、診療に頑張るので、宜しくお願い致します。

院長の独り言 308 ; 高尾山へ日本国の安寧を祈願に行きました

寒さが本格的に厳しくなってきました。
311の後、その後遺症で、何も考える事が出来ず、自然の力にただ、ただ驚いて、あれよ、あれよと呆然としているうちに、クリスマスも過ぎてしまいました。
12月28日(水)午前で、今年の診療は終了。
午後は大掃除と忘年会です。
例年は、一年間、無事で、ホッとした気分でこの日を迎えるのですが、今年は無事に終わったにも関わらず、ホッと出来ない心境なのです。
昼休みになるのを待って、息子と山森君とたまたま用事で来た業者の社長さんと小生とで、高尾山に、この国の未来の無事と発展を祈願しに、早足で出向きました。
寒いにも関わらず、大勢の人が信仰の山である高尾山に登って来ています。
去年はニコニコしている人が多かったのですが、今年は、口を『への字』にしている人が目立ちます。
日本人の優しさと真面目さに感じ入ります。
皆さん、大震災で犠牲になられた方の冥福と、被害に合われた人達のいち早い立ち直りを考えているのでしょう。
高尾山薬王院と成田山新勝寺と川崎大師は、真言宗智山派の大本山として有名です。
不動明王が祀られています。
われわれも本堂で手を合わせた後、山道沿いの食堂で蕎麦とおでんを食べました。
『竜(たつ)年が、少しでも明るい年になって欲しい…』と願いつつ診療所に戻ったのでした。
大掃除を終えた後は、例年通りの忘年会です。
場所は、いつもの割烹料亭ですが、今年はお客が少なく感じました。
やはり、大震災の影響を受けて、世の中、自粛ムードなのでしょうか。
こう云う時こそ、元気を付けようと、忘年会では、石川歯科で初めての企画『ビンゴ』をやってみました。
思った以上に大受けで、女性スタッフは賞品が当たるたびに大歓声を上げていました。
今年もスタッフ全員、懸命に業務に励んだので、皆の顔も生き生きとしています。
お酒も入り、ワイワイ楽しそうに話も弾み、一時(いっとき)は、大震災も忘れてしまいました。
今年も、来院していただいた多くの患者さんに心より感謝すると同時に、来年も宜しくお願いします。

院長の独り言 307 ; 口腔清掃の重要な冬場

口の中には、ざっと数千億もの細菌が存在します。
400種類を超えると細菌学者は述べています。
細菌の中には、色々な感染症を引き起こす病原性のある細菌が含まれています。
食べ物と一緒に、その細菌が胃に行ってしまえば、大した問題にはなりません。
塩酸である胃酸で消化されてしまうだけですから…。
しかし、気管に食べ物が迷入したりすると大問題です。
特に高齢者になると、誤嚥(ごえん)を起こしやすくなります。
誤嚥とは、口の中の唾(つばき)や食べ物が、誤って肺に行ってしまう現象です。
通常、誤嚥して気管に入りかかった食べ物や唾液は、反射的にむせて吐き出せます。
ところが、気管の入り口の喉頭蓋(こうとうがい)の機能が衰えた場合、特にお年寄りは、その反射が上手く機能しないのです。
その時、口の中に、肺炎を引き起こす肺炎球菌が存在して(口の中にはよくいる菌です)、その菌を含んだ唾液が肺に入ってしまうと、誤嚥性肺炎を起こすのです。
常日頃、正しい歯磨きをシッカリして、唾液に含まれる細菌の量を減少させる事が、大切なのです。
歯磨きを怠っている人は問題外ですが、誤った歯磨き法では口の中の細菌の量は減りません。
誤った歯磨きでは細菌を減らすどころか、大切な歯肉も傷めつけてしまうのです。
空気の乾燥している冬場は、特に口腔清掃が肝心です。
風邪ウィルスや雑菌が、乾燥した空気に乗って、移動しやすいのです。
健康を保つには、外出後にはうがいや歯磨きを励行して、口の中を清潔に保つことです。
最初の入り口で防衛していれば、風邪になる確率も、かなり減少するのではないでしょうか。
若い人は、誤嚥はともかく、もう一度、正しい歯磨きを身に着け、歯周病やむし歯を防ぎましょう。
是非、一度、歯科医院を訪ねて、正しい歯磨きを歯科衛生士から教えてもらうべきでしょう。
お互い風邪を引かないように。

院長の独り言 306 ; ボーナス出ましたか?

ほとんどの企業では、今年の暮れのボーナスはもう支給されたのでしょうか。
新聞やテレビで話題になっていましたが、公務員のボーナスの支給額が、去年より増額されたそうです。
羨ましいですね…。
世界的な不景気風が吹き荒れているこの暮れ、全くボーナスが出ない会社も結構あるそうです。
減額されても、ボーナスが支給されれば、まだマシと云うことでしょう。
ボーナスと言えば、私も今から45年ほど前、国家公務員だったので、『賞与(ボーナス)』を頂いていました。
景気の良い時代だったので、銀行や証券会社に勤めていた高校の同級生は、『12月のボーナスが10カ月分支給された!』と鼻高々に吹聴しまくりでした。
一方、自分は…と云うと、国家公務員のボーナス支給額は、確か年4.7カ月分だったと記憶しています。
6月に2カ月分、12月に2,5カ月分、そして3月に0.2カ月分出ていたのです。
3月の0.2カ月分は、助手(助教)任官後、支給されてから初めて知ったのです。
その3月の『賞与』は、雀の涙ほどの支給額でしたが、予期しない突然の事だったので、家内も私も大変得をした気分になったのでした。
早速、二人で、ステーキを新宿に食べに行って、ほとんど使い果たしましたけど…。
当時は、日本が経済的に絶好調でしたので、給料も、ボーナスも、民間企業の方が、公務員より断トツに良かったのです。
公務員は『薄給の代表』のような職業でした。
『おまえの給料安くて気の毒だ…』
友人と会食すると、勘定を持つのは、いつも彼の方でした。
ほとんど全ての勤め人が、ボーナスが貰えていたので、12月になると、どこの繁華街も人で溢れて華やいでもいました。
最近は、シャッター商店街が目立ってきて、寂しい限りです。
お金の話に戻しますが、現在は、国も地方も公務員の待遇の方が、民間より上になっています。
40~50年前と現在では、驚いたことに、両者の立場が給与の面で、逆転してしまったのです。
マスコミの報道によると、民間の平均年俸は、公務員の年俸の三分の二程度だそうです。
小生はと云うと、40年前に歯科医院を開業したので、それ以来、ボーナスは無し、と云うより、スタッフに支払わなければならない立場です。
大変ですが、みんなの嬉しそうな顔を見る事が出来て、『今年もボーナスを支給出来て良かった…』と胸を撫で下ろしています。
ホッとして、一杯飲みたい心境なのですが、禁酒中なので我慢です…。

院長の独り言 305 ; 被災地にお金をまわしてください…

いよいよ今年もあと半月で、平成24年に突入します。
我が国にとって、平成23年は、敗戦以来の大変辛い年になってしまいました。
3月11日(金)午後2時46分に、突如襲ってきた東日本大震災と大津波、そして福島原子力発電所の放射能漏れ事故によって、壊滅的な打撃を東北各県が被(こうむ)りました。
勿論、その結果、日本中も、大なり小なりの被害を受けたのは云うまでもありません。
何千年に1回あるかどうかの自然災害の被害を目の当たりにするとは、私は思いも及びませんでした。
多くの幼い小学生が、学校ごと大津波の犠牲になったり、原発事故で無人の街と化してしまった恐ろしい光景には、心の底から身震いしてしまいました。
まさか自分の生きている時代で、こんな惨事が起こるとは…。
あの日も、息子と山森君と三人で昼飯を食べた後、ノンビリと八王子の街をぶらつきながら診療所に戻り、午後診る患者さんのレントゲン写真をチェック、準備を万端に整えていたのです。
午後の診療に入り、順調に治療は進み、三人目の患者さんを治療している最中です。
突然、グラグラと来たのは。
直ぐに地震が収まるだろうと思っていたのですが、益々揺れが大きくなり、患者さんも私も顔面蒼白。
診療室は三階ですので、本当に怖い思いをしました。
地震が収まったあとでも、しばらくはみんな(患者さん、スタッフ、私)で呆然としてしまいましたが、やっと、少し冷静になれた小生が、三階の窓から道路を見下ろすと、アチコチから見覚えのある近所の人達が大勢出て来て、ヒソヒソ話をしています。
どうやら大事にはならなかったようなので、胸を撫で下ろし、治療を再開したのでした。
まさか東北地方があんな惨事に見舞われているとは、その時は夢にも思ってもいませんでした。
そして、地震の事はスッカリ忘れて、患者さんの治療に没頭していたのです。
午後5時過ぎに、その日一日の治療を終えて、いつものように4階の医局に戻ってみると、驚いた事に、パソコンやプリンターが机から落ち、本などと共に周りにおおきく散乱しているではありませんか。
『そうだ!3時前に大きな地震があったのだ!』と思い出して、早速、テレビのスウィッチを入れて、驚愕してしまいました…。
テレビでは、街が大津波に飲まれていく様を、繰り返し放映していたのです。
後日、被害の大きさが明らかになってきましたが、現在、あまりの犠牲者の多さに(死者行方不明者を合わせて約2万人)鎮魂の思いを新たにしています。
神にも仏にも日本は見捨てられてしまったのでしょうか。
否、そんな事は絶対有り得ないと心の中で何度も叫んでしまいました。
叫んでいて手を拱(こまね)いていても物事は一向に解決しません。
何とかこの苦境から脱出するする解決策を国民みんなで知恵を絞るべきでしょう。
ただし大政翼賛会的な、上から抑えられた解決方法ではありません。
朝のニュースでも来年の1年間の税収が40兆円なのに、国の支出は90兆円以上と言っています。
差額50兆円は国債で賄うという、総額900兆円を超す財政赤字です。
また、年金に1年間に支出される額は13兆円ですが、10兆円しか積立られません。
3兆円のマイナスなのです。
このような財政を基盤にした国の運営が、続く訳ないのです。
少子高齢化で、今までの税体系を基本とした税収では、増税につぐ、増税しか、財政を直す手段は無いのです。
この不景気での増税は、恐ろしいです。
それよりも、税体系の根本的な見直しを考えたらどうでしょう。
たとえば付加価値税や貯蓄税、企業内部留保金への課税を導入し、その代わり所得税、法人税、相続税を大幅に減税するとか…。
いち早く、効果的で、われわれ庶民や企業の元気を失わせない、税体系の改革に取り組んで下さい。
そして、被災地の復興に、本腰を入れて取り組むべきです。
国を中心にした援助を主力にして、被害に遭われた方の一刻も早い立ち直りと、来年こそ日本にとって、少しでも明るい年になる事を心より祈念するのみです。

院長の独り言 304 ; 想像のできない数字

世界的に大変な不景気になってしまいました。
リーマンショックからようやく立ち直り始めたと思ったら、今度はヨーロッパです。
特に、ギリシャ国債暴落に端を発する欧州の国家破産が、PIGS(ピッグス;豚たちの意。ポルトガル、イタリー、ギリシャ、スペインの頭文字)に飛び火しそうです。
この危機を防ぐには、ヨーロッパでは100兆ユーロ、日本円に換算すれば、1万兆円ものお札を刷らなければならないそうです。
迅速に対処しないと、それこそ世界恐慌になり兼ねない危機なのです。
とうとう、『京』という天文学的な数字が出てきました。
今日は、その数の桁について、ひとくさり。
日常、数の単位として、一、十、百、千、万、億、程度が一般的です。
兆あたりの単位になると、知ってはいますが、どの程度のものなのかイマイチ、ピンときません。
特殊な数学に使われる場合のみです。
まさに100兆ユーロや1万兆円(つまり1京)となると、天文学的数字です。
兆の上の桁になると、小生の知っているのは、兆のひと桁上の単位である『京』までです。
勿論、『京』と云う桁を目にするのは、自分の大好きな天文学の専門書を読んでいる時ぐらいです。
本当の事を言うと、天文学の専門書には、その上の単位も出ていますが、あまりにも想像からかけ離れてしまうので、直ぐ忘れてしまいます。
その上の桁も、また、その上の桁の名前もある事は、あるのです。
『京』の上の桁は、確か10種類ぐらいあるのではないでしょうか。
名前の付いている、ほとんど最後の桁に、『不可思議』なんて云うものもあるのをご存知ですか。
天文学を趣味にしていると、星の事だけの勉強をしているようで、こんなバカバカしい桁の事を知る機会もあるのです。
知ったからと言って、何の足しにもなりませんよ。
確か、一番大きな単位は、『無量大数』だったと記憶しているのですが、どうでしたか…。
使う事は無いでしょうが。

院長の独り言 303 ; 今年は、お酒抜きの忘年会です

先日、生まれて初めてのアルコール抜きの忘年会を経験しました。
その日はゴルフをプレーした後、ゴルフ場から一旦、帰宅し、ひと休みをした後、定時に宴会場に入りました。
会場であった立川駅周辺は、不景気知らずの大勢の人出です。
乾杯!
掛け声を合図に、生ビールのなみなみ注がれたジョッキをゴクリ。
宴会の始まりです。
20名の参加者のうち、私を除いた全員は、本当に美味しそうにビールを飲みます。
今日は、今年最後のゴルフコンペでした。
プレー後に、毎年恒例の忘年会を行なうと、随分前から決っていたのです。
皆な良い汗を掻いた後なので、羨ましいことに、ビールを一気に飲み干していました。
一方、小生はと云うと、ウーロン茶で小さな声で乾杯…。
小さく溜息を吐いたのでした。
宴会では、今日のコンペの成績の発表もありました。
5位までが表彰されるのですが、ツイテない事に、私は6位です。
一打違いで、賞品を逃してしまい、やけ酒といきたいところでしたが、ウーロン茶では益々気が沈んでしまったのでした。
周りの友達はワインだ!焼酎だ!冷酒だ!と、自分好みのお酒を注文しては、嬉しそうに飲んで大騒ぎ。
Hさん、Aさん、Oさん、みんな酔いが回るにつれて、饒舌になってきました。
『石川さん、痛風なんか糞喰らえだよ!大丈夫だから、少し飲みなさいよ!一年の憂さを晴らさないと、新しい正月が迎えられないよ!』
『少し飲むくらいなら大丈夫、大丈夫!』
などなど、無責任な事を言っては、お酒を勧めてきます。
必死に誘惑から逃れているのに、分かっちゃないね。
内心、飲みたいに決っていますよ。
ブツブツブツ…。
ようやく魔の時間は終了。
我ながら、2時間半の誘惑に、良くぞ我慢出来たものです!
みんなが酔っている中で、自分ひとり素面(しらふ)でいる辛さ。
そして、寂しさが身に沁みた夜でした。
今年も、お歳暮で『越しの寒梅』やボルドーワインなどを頂いています。
でも、来年のお正月は、残念ですが、お酒は口に出来ないでしょう。
少なくとも、春には大好きな熱燗が飲めるようになると良いのですが…。

院長の独り言 302 ; お酒抜きの忘年会

忘年会は、一年間の締め括りとして、我が国では欠かせない年中行事です。
私も、医局時代に所属した運動部、同好会、そして同窓会、あるいは気の合った仲間で…などなど、数え上げれば切りが無いほどに、毎年、忘年会のお声が掛かります。
果たして、忘年会に何回、出席したのか考えてみると、小生、73歳になるまでに、恐ろしくなるほどの回数の酒席をこなしているのです。
お酒抜きの忘年会などあり得ないし、お酒に目の無い私とすれば、旧交あらたに盛り上がって、ついつい深酒となってしまうのがお決まりのパターンです。
少し前のブログに記しましたが、血液のデータ上では立派な『痛風』になってしまった小生。
症状はまだ出ていませんが、このまま食生活を維持して、さらに晩酌をしていると、大変に痛い目に合うのは、間違いありません。
断腸の思いのですが、11月から思い切って禁酒中です。
内心、アルコール中毒ではないのかと心配していたのですが、すんなり禁酒が出来たのでホッと胸を撫で下ろしています。
そこに禁酒の敵!忘年会が土曜日の夜に決りました。
今年初めての忘年会で、ゴルフ仲間20名での集いです。
ここでお酒の誘惑に負けて飲んでしまったら、元の黙阿弥です。
確実に、『痛風』と『腎不全』と云う奈落の底に落ちてしまいます。
気の合った仲間ばかりですし、普段の私の酒好きを知っていますから、『飲め!飲め!』とワァーワァー薦めてくるに決っています。
痛風になったとバラシテいませんから、余計、訝(いぶか)って、皆でお酒を注いでくるでしょう。
いつもは楽しい酒席ですが、これから始まる忘年会シーズンは、私にとって拷問みたいなものでしょう。
どうにか体調不良を理由に、仲間の攻撃を必死にかわして、何とか飲まずに済ませる予定です。
今年は大晦日まで、お酒を飲む機会が多いので、なんとなく憂鬱(ゆううつ)です。
年末年始は、お酒は勿論、駄目ですし、御馳走も出来るだけ少な目にしなければなりません。
恥ずかしい話ですが、生まれて初めて、酒抜きの忘年会を経験することになりそうです。
来年の事を言うと鬼が笑う云いますが、来年こそ、お酒を楽しめる忘年会を期待しているのですが、どうなることやら…。

院長の独り言 301 ; よくぞ、ロシアの植民地にならなかったものです

NHKで、司馬遼太郎氏原作の『坂の上の雲』のドラマ化が、3年掛かりで、放送されています。
先週は、見ているのも辛い『旅順総攻撃』でした。
わずか100余年前、大日本帝国海軍の連合艦隊は、ロシアのバルチィック艦隊を壊滅しました。
海戦史に名を残す日本海海戦の事です。
日本海海戦での、あまりにも鮮烈な勝利が際立ち過ぎて、日本海海戦の1年前に行なわれた黄海海戦での勝利を知る人は少ないです。
黄海海戦は、大日本帝国海軍と陸軍の連携によって、勝利を得た戦闘であったのです。
日露戦争開戦初期、ロシア太平洋艦隊は、中国からの租借地であった軍港 旅順港に停泊して、手が出せない状態でした。
日本海や黄海を、ロシア太平洋艦隊の好きなままに航海されると、満州で頑張って戦っている帝国陸軍へ送る物資(兵站)が行き届かなくなり、兵隊さんが干上がってしまいます。
しかも、バルティック艦隊が日本近海に到着してしまえば、連合艦隊は挟み撃ちに遭い、日本はロシア帝国の植民地になってしまうのです。
連合艦隊は、本隊であるバルティック艦隊が到着する前に、ロシア太平洋艦隊を壊滅しなければ、ならなかったのです。
しかし、ロシア太平洋艦隊もそう簡単には、旅順港から出てきませんでした。
旅順港から出た途端、戦力で優る連合艦隊が待ち受けているのですから…。
ロシア太平洋艦隊は、バルティック艦隊が到着するのを、旅順港で大人しく待っていれば良かった訳です。
ただし、旅順港で停泊するロシア太平洋艦隊には、弱点がありました。
旅順港を見下ろす丘203高地からの砲撃です。
港を見下ろす高台から砲撃を受ければ、ロシア太平洋艦隊は簡単に壊滅してしまいます。
仮に砲撃を避けて、旅順港を出れば、連合艦隊が待ち受けている訳です。
当然、帝国陸軍は203高地を抑えに掛かる訳ですが、そこにはロシアが誇る近代要塞である、堅牢な旅順要塞が立ち塞がっていました。
帝国陸軍が日本の命運を賭けて、旅順要塞を攻略したのは、悲しい運命であったのです。
死屍累々。
総攻撃は3回に渡って決行され、乃木希典大将率いる帝国陸軍 第3軍は2万人以上の死傷者を出してしまうのです…。
あまりにも多い犠牲のために、乃木の親友であった児玉源太郎陸軍総参謀長に第3軍の指揮権を奪われたとか(司馬遼太郎氏説)、乃木大将愚将説が囁かれました。
結果、児玉源太郎参謀長指揮下によって、旅順要塞は陥落したのです。
203高地から砲撃を受け、ロシア太平洋艦隊は旅順港から追い出されました。
そして、黄海海戦で連合艦隊に壊滅させられたのです。
前説が長かったですが、小生が書きたかったのは、ここからです。
前述のように、児玉源太郎総参謀長は旅順要塞攻略の立役者として有名ですが、小生はその児玉源太郎氏の孫と中学校の同級生だったのです。
一度遊びに彼の家に行きましたが、大変な大邸宅なのでビックリした思い出があります。
しかし児玉君は、自分があの有名な児玉大将の孫である事を皆に言わなかったので、在学中は全然知りませんでした。
大学に入った後に、同窓会で知ったのです。
彼の後ろに、児玉大将が立っているような、厳かな気持ちになったものです。
いまの若い人達は、児玉大将を知っているでしょうか?
東郷元帥率いる連合艦隊が、バルティック艦隊を壊滅させた際の名参謀が、秋山真之です。
丁字作戦と言って、敵艦隊の前を全ての艦隊でふさいで、一番先頭の敵主艦船に全戦力を集中し、撃沈する戦略です。
当時の海戦においては、戦略などなく、ただ戦艦同士の砲撃戦のみと云われていた時代に、海戦においての戦略を示したのです。
いま考えても、陸海軍協力し合い、よくぞロシア帝国に苦戦しながらも勝ったものだと感心します。
後方からの支援を出来ない様に陸軍がお膳立てをしてから、帝国海軍がロシア太平洋艦隊とバルティック艦隊を叩いて、ロシアに勝利したのです。
もし、あの時、ロシアに我が国が負けていたら、東アジアは全てロシアに飲み込まれていた事でしょう。
中国も韓国も、そして日本も…。
今週は『坂の上の雲』のドラマも、いよいよ『203高地』陥落です。
ロシアに植民地化されるのを想像して、このドラマを見ると、明治の先輩達の気持が、心の芯に迫ってきます。

院長の独り言 300 ; 痛風予備軍に仲間入り…

もう、いい歳をしているので、2~3ヶ月に一回、息子に頼んで血液採取して貰い、健康状態をチェックしています。
しかし今回は、血液データ(11月)を診て驚いてしまいました…。
夢にも思っていなかったのですが、尿酸値がかなり高い値を示したのです。
ちなみに、3ヶ月前の尿酸値は正常な値でした。
どうやら、通風の予備軍のようです。
本格的に通風になってしまうと、結晶化した尿酸が指先や関節に溜まり、あまりの痛さで動けなくなってしまうそうです。
早速、一番の好物であるアルコールを断ちました。
通風は、別名、贅沢病と言われているくらい、暴飲暴食の結果の報いであるのは十分解っています。
親父や兄貴も同じ様な生活をしていて通風とは無縁でした。
自分は遺伝的にみて、通風だけは関係無いとタカを括っていたのが、間違いでした…。
酒も駄目!
タバコも駄目!
肉や油物も駄目!
お腹一杯食べるのは、以ての外!
暫く野菜中心の食事なので、『食事のレパートリーはどうすればいいのか?』と、家内にこれまでの不摂生を叱責されています。
これからの人生、楽しみが益々少なくなるばかりです。
仙人の様な生活をしなければならないのかと思うと、ガッカリしてしまいます。
いや、仙人は大変な修行僧ですから、『冗談じゃない!一緒にしないでくれ』と怒られそうです。
食べ物だけを言っているのですから勘弁して下さい。
仙人の修行生活など、私には到底出来る筈ありません。
これからの忘年会シーズン、我慢するのは辛いなぁ~。
皆さんもお身体を大切にして下さいね。

院長の独り言 299 ; オリオン座ベテルギュースの最期

われわれの地球から見て、一番大きく見える恒星は、太陽です。
では、地球から二番目に大きく見える恒星は、何と言う星でしょうか?
答えは、ベテルギュースと云う鮮やかな赤い色をした恒星です(赤色超巨星)。
ベテルギュースは、冬の星座であるオリオン星座のα星です。
冬の夜に、いつも神秘的な、この星座を見上げてしまいます。
星座の真ん中に三ツ星が並んでいるのが、オリオン星座です。
星座の左上に赤く輝いている一等星がベテルギュースで、もうひとつの一等星は、対照的に白く輝いています。
リゲルと云います。
近年科学の進歩により天文学も大発展して、色々な天体の謎が解き明かされてきました。
ベテルギュースについても、なぜ見事な赤い色をしているのかとか、なぜこの星は周期的に明るくなったり暗くなったりするのか(波動型変光星)などの謎が解けてきました。
仮に、この星を現在の太陽の位置に置いてみると、最表層は木星の軌道を呑み込む程の大きさです。
見た目は大きいけれど、重量は軽いのです。
星は末期になると、膨張してガス状になります。
そして、最期の最期は爆発を起こし、宇宙空間に飛び散り、星の一生を終えるのです。
まさに、ベテルギュースはその末期の状態なのです。
爆発の程度は、星の大きさによって決ります。
星が大きければ、大きいほど、その爆発の程度が凄まじいのは当然です。
特に最近、一番注目されているのは、このベテルギュースが、近未来に超新星大爆発を起こすと予想されている事実です。
もしかして、明日にでも大爆発を起こすかも知れません。
地球とこの星の距離は650光年程度ですから(光速で650年の距離)、実際は、もうとっくに大爆発してしまっている事でしょう。
常にベテルギュースの650年前の姿を、我々は見ているからです。
宇宙的な物差しで考えると、スケールが違いすぎて頭が混乱してしまいます。
超巨星が大爆発すると、ブラックホールが出来ると言われています。
もし、そのような事が実現すれば、われわれ地球人はとんでもない天体ショーを目撃する事になるかも知れません。
650光年の距離は、地球的物差しで考えれば、物凄く遠いのですが、宇宙的には直ぐ近くの距離なので、近距離での大爆発が、我々にどのような影響をもたらすのか、皆目見当もつきません。
いずれにしても、ベテルギュースが大爆発を起こすと云う現実は、直ぐそこに迫ってきているのは確かです。
この一大天体ショーを、私は見たいような、恐ろしくて、起きて貰いたくないような複雑な気持ちです。
澄んだ夜空に赤く赤く輝いているベテルギュースを見上げては、ため息をついています。

院長の独り言 298 ; すべて忘却の彼方へ、アディオス!

昔の事はよく覚えているのに、最近の出来事は、自分でも呆れるほどに、直ぐ忘れてしまいます…。
例えば、『昨日の朝食は、何だったか?』と問われても、なかなか思い出す事が出来ません。
果たして、煮物だったのか、刺身だったのか…。
ヒントを与えられても、思い出せない場合もあるのです。
自分でも情けないと、つくづく感じてしまう瞬間です。
ところが、20年も、30年も、昔の出来事で、覚える必要もないツマラナイ事でも覚えているのですから、思わず笑っちゃいます。
例えば、50年前の事ですが、パジャマの上からズボンを穿(は)いて、職場である医局に着くまで、まったく気が付かなかったこともありましたし(学位論文の執筆で悩んでいた時期でしたので…)、また同じ頃、茨城の水戸で、パトカーを追い越して捕まってしまった事(制限速度がフザケ過ぎの20㎞!の追い越し禁止区域でした…)などなど…、思い出したくもない事を直ぐ思い出してしまいます。
子供の頃の出来事は、もっと思い出すのが容易です。
一体、人間の脳の記憶力はどのようになっているのでしょうか?
40年間もの長い期間、歯科医院を開業していると、沢山の患者さんと関わります。
仕事柄、患者さんの顔と治療内容は間違えないように、必死に覚えるようにしてきました。
再来院した時に、いつでも、以前に治療した内容を把握しておかなければならないので、自分の施した治療は、常に憶えるように訓練してきました。
ある日の昼下がりに、20年間以上もご無沙汰していた患者さんが、ひょっこりと来院して、『先生、久し振り!』とニコニコ笑って、受付に立っています。
その患者さんの顔は覚えていましたが、名前が出てきません。
一応、診療室の治療チェアーに寝かせて、口の中を診た途端、『Nさんだ!』と名前も思い出したし、前治療の内容も全てハッキリと思い出したのです。
その時は、『つくづく歯医者だなぁ~』と、自分を褒めてやりたい気分です。
20年前にタイムスリップして、話は弾みましたが、私とすれば、一番指摘されたくないのが容貌の事で、特に『髪の毛が薄くなりましたね』です。
その点、Nさん、本当に容赦なく、私の気持ちを知ってか、知らずか、『先生、髪の毛が寂しくなってきたね~』ときたのです…。
ここに至って、Nさんが大変な皮肉屋であったのを、鮮烈に思い出したのです。
記憶には短期記憶と長期記憶があります。
全ての記憶は、海馬のニューロン(神経細胞)で保存、記憶されますが、ひとつの記憶は、幾つかの神経細胞に記憶されるそうで、ひとつの記憶がひとつの神経細胞に記録されるのではありません。
また、短期記憶とは、一瞬の10~20秒間の記憶で、訓練によっては、少しは永く憶えられるそうです。
常時、脳に飛び込んでくる記憶を直ぐに忘れてしまい、その中から絶対、憶えていなければならない出来事を、長期記憶として、貯金箱(海馬などの記憶脳)に保管して後出しするのです。
長期記憶は一生ものなのです。
その中には、憶える必要のない記憶が、無意識に混在してしまうこともあります。
皆さんも経験がありませんか、突然、思い出し笑いをしてしまうことが…。
小生の脳は、貯金箱が小さいせいか、もう満杯で、短期記憶だけになってしまったのでしょうか。
この頃は、すべての記憶がアッと云う間に、アディオス!
忘却の彼方です…。

院長の独り言 297 ; 子供に対する言葉使いには、注意しましょう!

年寄りは朝、起きるのが早いと言われます。
私自身を振り返ってみると、還暦を過ぎたころから、間違いなく目覚めが早くなりました。
前の晩に早目に寝ても、夜更かししていても、決して大袈裟ではなく、朝4時には目が覚めています。
下手をすると、3時半ごろには目が開いてしまう日もあるのです。
このブログも、朝5時過ぎに、パソコンを開いて打ち込んでいます。
自分でも、『折角の休日なのに、アホじゃないか…』と、内心、舌打ちしている始末です。
退屈なので、5時にテレビのスイッチを入れて、NHKの番組を見てみました。
画面には、関西落語家の鶴光師匠が、例の独特なしゃべりで観客を笑わせた後、奇抜な金髪姿の小朝師匠が、教育評論家の尾木ママ(通称)とエッセイスト黒川伊保子さんと、子供の育て方について討論し始めました。
子供の性格形成もそうですが、お二人によると、言葉使いや礼儀作法などの所作は、8歳頃までに完成されてしまうそうです(臨界期といいます)。
特に、容積においては6歳までに、成人脳の容積の9割が、完成してしまうのです。
家庭で荒い言葉を多く使っていると、子供も荒い言葉使いになってしまうのです。
例えば、子供を叱る時には、8歳頃までは、『こら!』とか『くそ!』などと荒削りな言葉より、『いけません』とか『駄目でしょ』とたしなめるべきだそうです。
本当に、そんな悠長に育てていられるのかどうか、私には分かりませんが、少しでもこの事実を頭の隅に入れているかどうかで、子供の未来は変わってくると思います。
日本の時代劇映画で見られる事ですが、武士の親がその子供に対して、現代の我々にとっては信じられないほど、言葉使いや礼儀作法が綺麗です。
まるで、他人(ヒト)の子を育てているようです。
勿論、歴史的事実に基づいて描かれているのですから、嘘でもオーバーでもありません。
尾木ママも黒川女史も、小学校高学年や中学生に成長すれば、『こら』でも『くそ』でも、何でも良いそうです。
大切なのは、あくまでも8歳までだそうです。
元来、日本語は、心の襞まで届く、繊細で美しい言葉ですし、人を思う礼儀や所作も、元来、我が国ではたいへん大切にされてきました。
小学校低学年を受け持っている先生は、人間の成長で一番大切な時期を任せられているのですから、本当に御苦労さまですが、下品な言葉や礼儀には、大いに注意して当たるべきであると、二人は強調していました。
私も恥ずかしい事ですが、子育てを錯覚していたところがあったようです。
子供に対して、幼い頃から『嘘はつくな!正義感を大切に!人に思いやりを!』を三本柱に育て、言葉使いなどは、あまり気を使いませんでした。
子供の人格形成や、言葉使い、そして所作は、思春期を過ぎるまでの成長過程で、友達などの影響を受けて、ゆっくり育(はぐく)まれていくものと思っていたのです。
わが子育ての『三本柱』を、強調し過ぎた傾向がありますが…。
もうひとつ、お二人の先生が強調していた事は、親が決して先生の悪口を言わない事だそうです。
子供が先生を批判しても、それに絶対、乗らない事が大切だそうです。
この事は、あくまでも小学校低学年の話です。
もし先生の態度に疑問があったら、直接、相談に行けば良い事です。
『相棒』の水谷豊のマネではないですが、もうひとつ!
テレビの影響を子供はモロに受けるので、テレビ番組制作者は、くれぐれも、子供の成長を充分に意識して、内容や時間帯などを考えて、番組を制作すべきだそうです。
そう言えば、随分前のブログに書きましたが、小生が先生に怒られた事を不満に思って、母親に必死に告げ口したら、『先生がお前の事を怒ったのだから、お前が悪い!』と言って、相手にして貰えなかった事を思い出しました。
子供の純粋な心には、教育者に対する親の不信感が、ストレートに沁み入ってしまうのでしょう。
最後に、小生の早起きの話ですが、自分が早起きしてしまう最大の原因は、多分、昼休みに20~30分くらい昼寝をしているからだ!と気付き、息子に話してみましたら、息子は事無げに『年を取って、体力が落ちたからだよ。寝るのにも、体力が要るからね』とのことでした…。
まったく、年は取りたくないですね~。

院長の独り言 296 ; 若いひとを祝福して、育てていこう

バブルが弾けてから20年以上経つのに、我が国は一向に景気が良くなりません。
加えて、2008年のリーマンショックで、アメリカ経済が大打撃を受け、世界中がそのショックの余波をモロに受けてしまいました。
これらはすべて、欧米の投資銀行の、あまりにも自己中心的で、強欲な行為(Greed)による人災です。
そこに今年、日本は東日本大震災による大災害を受けてしまいました。
さらに、原発事故の酷(ひど)い被害…。
これも明らかに人災です。
そしてギリシア国債の下落による欧州金融危機…。
益々、日本は追い込まれています。
世の中暗い事ばかり起きてしまい、気が沈んでしまいます。
自殺者の増加、会社の倒産、若者の就職難、そして若者による犯罪…。
数え上げれば限(きり)がありません。
気が晴れる日は来るのでしょうか。
先日、ボーとテレビを見ていると、結婚式が行われています。
皆に祝福されて、幸せの絶頂にある新郎新婦の笑顔が、画面一杯に映し出されます。
おもむろに、10年前に読んだ、源氏鶏太氏の『わたしの人生案内』の一文を思い出しました。
このエッセイ集は、50遍ほどの短いエッセイをまとめた作品集です。
源氏鶏太氏は、サラリーマンの悲喜交々の日常生活を題材に、『三等重役』や『若い仲間』など映画化された作品も多い、大衆作家です。
どの小文も大変面白いのですが、その中で妙に頭の中に残る、『駅前の食堂』と題されたエッセイを紹介します。

(以下、要約引用)
ある地方の駅前食堂の話です。その食堂の2階で、会社の同僚男女10人ぐらいが集まって、にぎやかに酒を飲みながら食事をしていました。
傍から見ていても、本当に楽しそうでした。
その同じ食堂の片隅で、ひっそりと寄り添うように食事をしている若い男女がいたのです。
二人は、服装から貧しい会社員同士のようです。
その二人は、にぎやかなグループの方を眺めて何かヒソヒソ話をしていたのだが、意を決して起ちあがり、グループの方に近寄って行ったのです。
『たいへん失礼ですが…』
二人がひどく緊張しているのはその表情を見れば明らかです。
突然の飛び入りに、今まで、にぎやかに酒を飲んでいたグループは一瞬、シーン。
『何か…』グループの中の一番年長の課長らしき人が言いました。
『実は、私たち、たった今、八幡様で二人だけの結婚式を挙げてきました』
グループの人々は信じられないと云う顔をしました。
しかし、若い男は、自分の名刺を出して、更に、コンブとスルメ等を見せたのです。
『私たち、二人とも孤独で祝って呉れる近親者もいません。さっきから向こうの席で拝見していますと、たいへんにぎやかそうなので羨ましくなりました』
もし差し支えなかったら、ご一緒させて欲しいと突飛な申し出があったのです。
グループの一人が『結構じゃありませんか』と言うと、他の人々も『賛成、賛成』。
たちまち二人のために新しく中央の席が出来たのです。
『おめでとう』『乾杯!』皆はそう言っただけでなく、何人かが立って、祝辞も述べたのです。
さっきまで赤の他人同士であったのに、今の二人は、人々から百年の知己のように迎えられ、祝福されているのです。
若い二人は本当に幸せそうでした。
おそらく、二人にとって、人々の好意は、どんな盛大な披露宴より嬉しく感じ一生忘れる事はないでしょう。
(引用終わり)

何でこのエッセイが頭に突然浮かんできたのか、自分でも不思議なのです。
今の日本が不景気とは云え、私が子供のころの方が貧しくて、不便な世の中でしたが、人と人との触れ合いは、実に暖かいものでした。
ブログにも書きましたが、子供のころ、玄関のカギを掛けていた家は、周りには一軒もありませんでした。
近所のガキが悪さをすれば、赤の他人でも本気で怒って注意して呉れました。
いじめなど勿論、無かったと云うより、周りがさせなかったのです。
本当に、自分が子供の頃のように人と人がもう少し触れあうような世の中にならないものでしょうか。
映画ひとつとっても、殺し合いか機械人間などで、人情味のある心の琴線に触れる作品が本当に少なくなってしまいました(この事も大分前のブログに書きましたね)。
今の人は、自宅に何重もカギを掛けて生活しているなんて。
むかしは、近所のおばさん同士、しょっちゅうお互いのうちを自分の家のように出入りしていましたし、夕飯のおかずも融通し合っていました。
源氏さんのエッセイは、今となっては、完全にノスタルジーの世界ですが、もしかすると、大震災を機に、再び助け合いの精神が注目されるかも知れませんね。
われわれ壮年期を過ぎた大人たちが、老後の心配に駆られて、若い人たちを助けないと、日本は本当に駄目になってしまう…。

院長の独り言 295 ; 沖縄のK君

大学院を卒業して、めでたく文部教官(助手)になった年に、歯学部を卒業して専攻生として保存科に入局してきた沖縄出身のK君。
真面目な好青年です。
保存科は、虫歯や歯周病に侵された歯を抜歯しないで、保存するのをテーゼとする臨床系講座です。
また専攻生とは、歯学部だけの勉強では物足りないので、2~3年間、臨床系の医局に残って、専門的な治療実技を身に付け、腕力を蓄えてから、病院に就職しようする人の為にある制度です。
専攻生になると、先輩が治療している脇について指導を受けながら、治療の腕を磨く事になります。
彼は入局して直ぐ私と仲良くなりました。
理由は私が囲碁を少々打っていたからです。
私の囲碁の腕は、アマチュア2段程度で、大した事ありません。
彼は囲碁を始めたばかりなので、腕はと云うとまあまあと云うか、正直、下手でした。
しかし、碁を打てば打つほど、あまり上手くない私に、『是非、囲碁を教えて欲しい!』と喰いついてきます。
2ヶ月もしてスッカリ親しくなった頃には、沖縄出身であるとか、父親が中学校の校長であるなど、少しずつ生い立ちを話し始めたのです。
私が診療や学生指導などで、一日の仕事を終えた後、待っていた彼と遅くまで医局で囲碁を打ちました。
『先生、もう一度!もう一度!』と何度も挑戦してきましたが、いつも私の勝ちでした。
私が教授の講義係をしていた関係上、しばらく経つと、K君も一緒に教授の話を聞くことになったのです。
学生の時にも受講した、教授の講義をあらためて聴いてみると、『今回は良く理解できます!』と感激していました。
囲碁は結局、発展途上でしたが、治療に関して、大いに腕を上げたのです。
数年後、K君は治療と研究に奮闘して、晴れて、助手(助教)に昇格しました。
また、その数年後、私は八王子市で歯科医院を開業し、彼は郷里の那覇市で開業したのです。
あまりに遠すぎて、その後、年賀状だけのお付き合いとなってしまいました…。
今から10年前、保存学会の会場で15年振りに、偶然、彼と再会しました。
大学の医局時代のK君と変わらず、本当に元気そうでした。
『先生、お久しぶり』と言って、私に抱きつかんばかりに駆け寄り、しっかりと両手を握り合いました。
一頻(ひとしき)り、沖縄での生活や診療の現状を話してくれた後に、『先生、あれから随分、碁を修行したので、是非、お手合わせ願います』と、大きな目を更に、目一杯開いて、私に挑戦状を叩き付けてきたのです。
私はと云えば、開業して以来、診療や歯科医師会の業務に忙しくて、囲碁どころでは無かったのです。
自信も無かったので、『またにしよう…』と逃げたのですが、『如何しても、一回打って、先生をギャフンと言わせたい!』とセガムので、結局、旅館でお手合わせする事になってしまいました。
偶然、同じ旅館に泊まっていたのです。
昔の同僚や顔なじみの先生たちが興味津々で、われわれの対戦を観戦しています。
果たして、結果はどうだったでしょうか?
結果は、医局時代の時と同じで、私のジャン勝ちでした。
K君、本当にシュンとしてしまい、気の毒としか言いようがなかったのでした。
『江戸の敵を長崎で…』とは、いかなかったのです。
小生の返り討ちです。
そのK君が、小脳出血で突然倒れてしまったと緊急連絡が入ったのです。
K君、頑張って再起して下さい。
回復を祈るのみです。
彼の人懐っこい、大きな目が、頭から離れません…。
K君、元気になって、また碁を打とうよ!今度は、こちらからの挑戦状だ!

院長の独り言 294 ; 若い人はバンカラ精神で行こう!

この頃の若い男性は、女性に負けないほどにオシャレです。
大学生が学生服を着ているのに、まず会いません。
自分が二十歳(はたち)の時は、バンカラ風(?)が当たり前でした。
あくまでも『バンカラ風』で、いくら何でも、漱石や紅葉の小説に出て来るような旧制高校の流れを汲む、汚い学生服に破れかけた学生帽、高下駄を履いて、腰には手拭いといった、正統派バンカラで学生生活を送っていた訳では勿論ありません。
50年以上前は、ほとんどの男子大学生は入学時、高校の学生服をそのまま着用していました。
今と違って、高校生の制服は、金ボタン付きの学生服が9割以上だったのです。
まだ敗戦の雰囲気を色濃く残していた時代の事です。
日本自体が貧しかったので、大学に進学する人も大変、少なかったのです。
入学しても、背広などを新調すること無く、みんな金ボタン付きの高校の学生服だったので、親は貧しい家計の事を考えると、大助かりだったに違いありません。
今では、学生は勿論、若者みんな個性豊かな服装をしています。
バンカラの学生服として残っているのは、応援団が着ている学生服みたいな学ランだけでしょう。
『バンカラ』の語源は、明治初期に西洋から入ってきた服装文化を『ハイカラ』と言っていましたが、それと対比させた、所謂、造語です。
『バン』は野蛮の蛮からきたもので、ハイカラのアンチテーゼ(正反対)と言ったところです。
『バンカラ』と言っても、戦前の若者が『野蛮』を意識して、名前を付けたのではありません。
明治維新で活躍した若き獅子に憧れたからでしょう。
武士道の質実剛健さを汲んでいると云う事で、『ハイカラ』など糞喰らえ!と、若者の大人社会に対する反抗心が『バンカラ』なのでしょう。
今では国内で、このバンカラが強く残っているのは、岩手県だけで、岩手県では『バンカラ』はイコール模範生の事だそうです。
自分はと云うと、学生服は着ていましたが、これはただ単に、親になるべく負担をかけたく無かったからです。
多分、友達たちも同じ思いだったのでしょう。
大学に入学したのですから、新しい洋服を着たかったのが本音でした。
数年後には、アルバイトで稼いだお金で背広を買い込み、悦に入っていた自分を懐かしい気持ちで思い出します。
当時は貧乏学生ばかりでした。
地方出身の学生は、汚い寮に入って我慢していました。
今の若い女性が、もしその学生寮を訪れたら、あまりの不潔さで卒倒し兼ねません。
当時の学生は、政府が十分討議しないで、ある施策を国民に押し付けようとすれば、直ぐにデモを行い、社会に訴えました。
社会の歪みに対して、真っ先に抗議をしていたのは学生だったのです。
学生につられて、労働組合などの大人が後押ししていた訳です。
一方、今時の若者は大人しくて、内向的ですね。
政府がある施策に対して、国民に理解を得ないで決断しても、デモもしません。
現代の若者は、物分かりが大変、良いのでしょうか。
しかし、社会を動かしていくのは、正義感の強い若者の意見と行動が大切だと思います。
若者の意見は、ナイーブ過ぎても、青臭くても、偏っていても、私は良いと思うのです。
若者の捨二無な情熱が、大人達を覚醒させるのです。
お洒落(しゃれ)やゲームもいいけれど、日本の将来が幸福になるように、若い人は社会の色々な問題に敏感になって貰いたいと願っています。

院長の独り言 293 ; 足の怪我がキッカケで…

歯科医院開業から約40年間、歯の治療やクリーニングで通って頂いている患者さんは、私と同じ年代なので、治療に来ても、歯の治療もソッチ除けに、衰えてきた身体の話になってしまいます。
ある患者さん、つい最近、自分では全く平気だと思っていた階段で躓(つまづ)いて転んでしまったそうです。
その時、足の臑(すね)を強く打ってしまい、大きな青アザが出来てしまったのです。
『凄く痛かったけど、足の骨を折らなかっただけでも、まだ不幸中の幸いだ』と嘆いています。
そして、『先生も注意をした方が良いよ!』と警告されてしまいました。
私も一寸した段差に、最近、よく引っ掛かるので、転ばないように注意しています。
足を骨折して、寝たきりになってしまう方も多いとの事。
60代までは、段差に躓くなんて、ちっとも気にしなかったのに…。
若い頃は、スポーツ大好き人間でしたので、体力には自信があったからです。
小学生の時は、休日になると、日が暮れるまでバットを振り回して、近所の友達と野球の真似事をしていましたし、中学校に入学して直ぐに、バスケットボール部に入り、中高一貫校でしたので、高校を卒業するまでの6年間、コートを走り回わっていました。
自分は小学生の頃、背の高さが低い方でした。
バスケットボールをやると、背が伸びると聞いたので、何とか背が高くなりたい一心で、バスケット部に入部したのです。
ところが、中学2年生になった頃には、本当にニョキニョキとタケノコのように背が伸びてきて、あれよ、あれよと云う間に、自分より背の高かった友達たちを追い越してしまったのです。
自分より悪友が魂消(たまげ)ていました。
大学に入ってからは運動部には入らなかったのですが、水泳やハイキングなどで身体を常に動かして鍛えていたので、風邪などには、ほとんど無縁だったのです。
自慢になりますが、開業してからも、身体の不調で休診した事は一度もありません。
それほど体力に自信があったのに、いま現在、自分で考えているほどに、足が上がらなくなってしまったのです…。
70歳を超えてからですが、自分では10㎝ほど足を上げたつもりが、実際は5㎝程度しか上がっていないで、段差に引っ掛かってしまうのです。
午前の診療を終えて、昼休みにテレビ番組を見ていたら、聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明先生が映し出されていました。
ニュースによると日野原先生は、10月4日に満100歳になられて、未だ現役で頑張られているとの事でした。
一方、私はと云えば、情けない事に、階段などの段差があるところは、用心深く手すりに掴まっている状態です。
日野原先生のように自分より年配の方で、ビックリするほど若々しく、元気な先輩が世の中に沢山いらっしゃいます。
日野原先生の元気な姿を見た途端、小生は弱音を吐いていている場合ではない!と思ったのです。
随分前に買い込んだ鉄アレーを納戸から出してきて、毎朝、身体を鍛える事にしたのです。
せめて、手すりに掴まらないで、階段を上り下りしたいのです。
そして、なるべく長く、元気に患者さんと接したいと思っています。

院長の独り言 292 ; アワビはやっぱり刺身でしょう

先日、ゴルフが終わった後に、大学時代の友人4人と一杯飲みながら、『俺たち、長生きしたお陰で、随分、色々な料理を楽しんできたけど、どの国の料理が一番、美味しかった?』となったのです。
敗戦で、成長期には、美味しい食べ物どころか、満腹になるのは稀であった4人。
食べ物に関しては、特に貪欲(どんよく)です。
喧々諤々、口角に泡を飛ばしながら、いい歳をしたオッサン達が、いつものゴルフ談議そっち除けで、『あれが美味しかった。これが口に合わなかった』と料理の話に夢中になったのです。
皆、社会人になってから以後、日本各地は勿論、外国にも、学会や旅行で随分と旅行しています。
我が国の類(たぐい)まれな経済成長の恩恵を受けて、様々な美味を楽しむ事が出来ました。
夢中で話しているうちに、異国の料理に共通しているのは、グツグツと煮込んだり、油で揚げたりする、熱を通したものが主流で、『折角の素材が勿体ない!』となったのです。
中華料理屋で立派なアワビが、干しアワビにされて煮込みで出てくると、ガッカリします。
『冷酒と一緒に、刺身にして食べたいなぁ~』なんて…。
日本でも火を通した料理を勿論、食べますが、外国と違い、われわれ日本人は刺身や寿司のような生(なま)の料理をよく食べます。
小生、外国旅行に行って、脂っこい料理が続くと、一番、恋しくなる料理は、やはり胃袋に優しい刺身や寿司、蕎麦(そば)やうどん、そして、白いご飯と味噌汁の和食です。
ところが、刺身のような生ものは、少し古くなると、生臭さが増してくるものです。
それを口にすると、しばらく生ものは食べたくなくなってしまいます…。
小生、大好きだった生の鳥貝を食べて、大当たりしてしまい、酷(ひど)い目にあった事がありました。
それ以来、鳥貝は見るのも嫌になってしまったのです。
東京は海が直ぐ近くなので、新鮮な魚介類が簡単に手に入り、私などは幼い頃から、生の魚や貝を食べ慣れていましたが、それでも鳥貝に当たってしまいました。
刺身は新鮮でなければ本当に駄目ですね。
東京のデパートで買った鳥貝でも当たったくらいですから、それ以来、外国では生の料理は口にしないように注意しています。
日本で、生の料理を多く食べるようになった理由は、冷凍技術の進歩も確かですが、国中、海に囲まれていると云う特殊な環境なので、海産物は豊富に獲れるし、保存剤として、塩が自前で、大量に調達出来たからでしょう。
特に調味料として、日本独特の醤油とワサビが発明された事も、生ものが沢山食べられるようになった大きな理由だと思うのです。
醤油とワサビが無かったら、こんなに日常的に、魚介類を生で食べるのは考えられません。
料理をあっさり味にするソイソース(醤油)は、世界のどの国の食堂にも置かれている調味料となりました。
交通機関や冷凍技術の発達した現在、日本だけでなく、世界中の何処へでも、新鮮なマグロやカツオを運ぶ事が出来る時代です。
その結果、最近は、寿司と醤油がセットで、世界中に輸出されています
スペインを訪れた際、マドリードで『Sushi』の看板が、大きく出ていたのを思い出します。
小さい頃から生の魚介類を食べ慣れていない外国人でさえも、寿司の虜(とりこ)になる世の中です。
本音で言えば、この生で食べる魚や貝の美味しさを、私は外国の人にはあまり知られたくないと思うのです。
あまり人気が出てくると、美味しい刺身やお寿司が、小生の口に入らなくなるか、心配だからです。
特に、美味しいものに目がない中国人が、寿司の魅力に気付いてしまうのが心配です。
日本には世界一の養殖技術があり、450万k㎡に及ぶ膨大な経済水域を保有しているので、たとえ天然の魚介類が少なくなり、手に入りにくくなったとしても、世界中の魚介類好きの口を賄(まかな)えるだけの量を、我が国では、養殖出来るでしょう。
結局、4人の料理に関する馬鹿話は、どこの国の料理も甲乙つけ難し、大変美味しいという平凡な結論でお開きと相成りました。
ワーワー言い合って、時間の無駄(?)でしたか…。

院長の独り言 291 ; みんな楽して健康になりたいですよね…

あらゆるマスコミ媒体で、健康関連グッツあるいは健康食などが、沢山紹介されています。
あれだけ毎日、広告を出しているのですから、多くの人が購入しているのでしょう。
簡単に腹回りの贅肉(ぜいにく)が落ちて、楽をして腹筋が出てくるなどと、ついつい購入したくなるような歌い文句、殺し文句で視聴者に迫ります。
財布のヒモも緩みます。
ところが、周りの友人から健康器具や健康食品を買ったと云う話は、殆ど聞いた事がありません。
多分、努力をしないで、簡便にダイエット出来る器具を使っている人は、あまり周りに言いたく無いのでしょう。
効果が目に見えてくれば、まだ良いのでしょうけど、逆に太ってしまったりしたら、その無精さを笑われてしまいます。
考えてみれば、知人で劇的に筋肉がついてきた人とか、お腹が見事に引っ込んできた人には、トンと会った事がないのです。
グッツ宣伝の『ビフォー&アフター』では、見事に変身しています。
小生、このところ体力も衰えてきていますし、腹回りも立派になってきました。
友達のドクターに相談しても、『健康だよ。大丈夫!大丈夫!』と言われて、マトモに相手にして呉れません。
実を言うと、私も自転車型のダイエット器具を買い入れて、朝に、晩にと、一生懸命、自転車を漕いでいたのですが•••。
さらに恥ずかしながら、肝臓に良いからとウコンを飲んだり、癌になりにくくなると言われてスッポン錠を試したりしましたが、今は全部、止めてしまいました。
40年前、まだ健在だったお袋が、近所の仲良し友達から、身体の全てに良い(?)という謳い文句の『紅茶キノコ』と云う、魔法の飲み物を分けて貰ってきました。
瓶いっぱいの溶液の中に、キノコの様な茶色の物体が浮いています。
本当に気持ちの悪い、毒キノコのお化けのようです。
その液を一日、何回か飲むと、高血圧、動脈硬化、白内障や歯周病、挙げ句の果ては、癌にならない身体になると、健康雑誌や新聞に当時、大々的に書かれていました。
かくして、日本中で、この『紅茶キノコ』健康法は、大ブームになったのです。
私は『紅茶キノコ』を見た目だけで気持ちが悪くなり、とても飲む気はしませんでしたが、お袋だけは暫く飲んでいたようです。
しかし、いつの間にか、この『紅茶キノコ』は日本中から消えてしまいました。
この『紅茶キノコ』が、健康に関する民間療法の火付け役だったのです。
『紅茶キノコ』をキッカケに、数え切れない程の健康食品や健康器具が、世の中に出まわりました。
健康系雑誌も多く出回っています。
皆さんご存知の通り、アメリカでは、我が国のような健康保険制度がありません。
アメリカの一般庶民は、日本のように気軽に病院にかかれません。
なぜなら、医療を享受するには、目の玉が飛び出るほどの高額な費用が必要だからです。
結果として、日本とは比べものにならない程に、民間療法が人気なのです。
民間療法に過度の期待をするのは、トラブルのもとですね。
アメリカと比べて、われわれ日本人は国民皆保険のもと、高度先進医療を含めてほとんどの治療方法を、誰でも安心して、しかも比較的安価に受けられるので、大変恵まれています。
この保険制度が崩壊しないように、守らなければならないとつくづく思うのです。

院長の独り言 290 ; 最近、太ったねぇ~

一年振りのクラス会で、『一年前より太ったんじゃないのか?』と指摘されてしまいました。
最近、一番、気にしていた事なので、久し振りに会った友人に改めて指摘されて、『やはり、そう見えるのか…』と焦ってしまいました。
ゴルフ仲間は、『恰幅(かっぷく)が良くなって、ボールが飛ぶようになったのだから、太って羨ましいな!』と、こちらが気にしているのを知っているくせにカラカいます。
ボールが飛ぶのか、飛ばないかは、実は、体重の重さにあまり関係無いのです。
太ると身体の切れが悪くなってしまい、逆に、ボールの飛距離は落ちてしまうものです。
私は酒好きで、特に最近は、毎日、晩酌をしていたのです。
『休肝日』を作らなければいけないと思ってはいたのです。
血液検査の結果も、あまり芳しくありません。
小生は、3~4カ月に1回、息子に採血をして貰って、主要検査項目だけでなく、感染症や腫瘍マーカーのチェックもしています。
身体の事を考え、体重を少し落とそうと、アルコールを控えてみました。
ところが、お酒を控えた事により、食べる量が増えてしまい、却って、体重が増加してしまったようです…。
しかし、家族から、『たとえ食べる量が増えたとしても、お酒を控えた事が、体重増加の原因では有り得ない!』と指摘されてしまったのです。
『運動不足が原因に決まっている!』と指摘されてしまいました。
認めたくはないのですが、潔(いさぎよ)く運動不足を認めざるを得ません。
理由は、家の建て替えで忙しくて、ゴルフもご無沙汰していましたし、運動らしい運動は、全くと言っていいほどしていません。
実は、40年前に、当時、ヘビースモーカーだった私は、タバコが身体に良くない事を知り、一日にして、禁煙に成功した経験があります。
それ以来、今日まで約40年間、タバコとはオサラバしています。
別に自慢しているのではありません。
周りの愛煙家の友達から、『タバコを無理して止めると、食事が進み太るぞ!』と脅かされていたのです。
折角、頑張って禁煙したのに、その結果、太るようではどうしたもんかと大いに悩んだのです。
ところが禁煙してから何年経っても、体重は増えず、却って、少し痩せる傾向になったのです。
その出来事が頭の中にあったので、タバコと同じ嗜好品であるアルコールを控えれば、体重も減ってくるのではないかと思ったのです。
しかし、ことは上手く運ばず、逆に体重は太り気味です。
タバコを止めた時には体重は減少したのに、アルコールを控えても痩せません。
予想外の結果に内心、驚いていたのです。
太り気味になったのは、家族が指摘しているように、多分に運動不足が原因なのでしょう。
何とか5~6キロ、体重を落としてみようと、毎日、鉄アレー(ひとつ2㎏を2個)で運動する事を家族に宣言しましたが、正直、いつまで続くのやら、自分でも自信がないです…。
テレビショッピング番組でも、家庭で簡単に出来る運動器具が花盛りです。
自分も手に入れてやってみようと思いましたが、恥ずかしながら、長続きする自信が全くありません。
毎日、朝に晩にと、ウォーキングをしている人は偉いですね。
本当に感心と尊敬の眼差しで見てしまいます…。
歯科医師として、現役を続行するために、本気で痩せるぞ!

院長の独り言 289 ; 『サメの歯が羨ましい!』と訴える患者さん

歯周病で治療中の患者さんと歯の大切さについて雑談中。
患者さん曰く
『何度も歯が生えてくるサメは、実に羨ましい。
サメのように何度も歯が生え変われば、私もこんなに苦労しないのに…。
もっと若いうちから歯を大切にしておくべきだった』
と、グラグラになってきた歯を嘆きます。
サメの歯は、この患者さんが羨ましがるように、一生涯に何度も生え変わります。
一匹のサメが、一生で生え変わる歯の数は何千本を軽く超えると言われています。
サメのアゴには、何列もの歯列が存在していて、その歯列に沢山の歯が並んでいます。
獲物を襲った際に、最前列に生えている歯列の、一本の歯でも損傷してしまうと、歯列ごと、その後ろに控えている歯列と交換してしまうのです。
その結果、サメが一生涯に生え代わる歯は、膨大な数になってしまい、何千本以上も生え変わるとされています。
まるでオートマチィックの部品交換のようです。
サメの歯はなぜ、このような構造になっているのでしょうか。
実は、サメの歯の由来を考えてみると、歯が何度も生え変わる事は、一つも羨ましくないのです。
サメの歯は、鱗(うろこ)が変化したものなのです。
われわれ人間の歯は、アゴ骨の中に入っているので丈夫です。
お陰で、硬い物でも噛み砕く事が可能です。
ところが、サメの歯は、皮膚の変化した鱗に由来しているのですから、あんな獰猛(どうもう)で、海の王者に見えるサメは、見た目とは似ても似つかないほど、その歯は脆(もろ)いのです。
人間の歯の歯根に相当する部位が、サメの歯には、全く無いのです。
サメの立場からすれば、一生に二度しか歯が生え変わらない人間の歯の方が、よほど羨ましいと思うのではないでしょうか。
サメは硬い物はおろか、殆どの獲物を咬み砕けないからです。
鋭い歯で獲物を捕獲したサメは、ほ乳類のライオンのようにバリバリと噛み砕いて咀嚼出来ず、丸呑み状態なのです。
獲物を捕獲する度に、直ぐ歯を痛めてしまい、交換しなければ生きていけないのです。
サメを羨ましいなどと、努々(ゆめゆめ)思わない事です。
かれらは、獲った獲物をゆっくり味わいながら食べる事が不可能な、可哀想な生き物なのです。
人間は、歯の管理を入念にすれば、一生、硬い物でも、何でも噛み砕いて、食事を楽しめるのです。
われわれ石川歯科のスタッフ一同は、患者さんが毎日、美味しく食事が出来るように、ささやかながら、そのお手伝いをさせて貰っています。
歯の事で、何かお悩みがあったら、是非、ご相談下さいね。

院長の独り言 288 ; 男女の差

先日、あるテレビ番組を見ていると、綺麗な女性タレントが、実は男性だと分かって、ビックリしました。
男女の違いが希薄になってきたのでしょうか。
染色体の数から言うと、人間の染色体の数は、46 です。
女性の性染色体はXXですが、男性のそれは、XY染色体という、おかしな(?)性染色体があるのです。
男女の違いは、この一つの染色体だけに由来するのですが、男女の外見も、考え方も、全く異なります。
勿論、同じヒト科ヒト属なのですが、考えようによっては、(男女は違った生物なのかも知れない?)と、ズーッと考えていました。
ある出来事に対して、男性の感じ方と女性の感じ方が同じだとするのは、大変な錯覚だと思います。
だから、考えように依っては、この世は大変、面白いのだと思うのです。
ところが、見た目が女性の様な男性が、数多く出現してきました。
確か、ある有名な生理学者が、医学的に考察すると、女性的男性は将来、激増するのではないかと危惧していました。
本当でしょうか。
もし本当だとしても、小生が思うに、外見は変えられても、内面は絶対に変えられないと思うのです。
男の場合、何か深刻な悩み事が発生した時に、自分ひとりで解決しようとする人が多いそうです。
これは決して自慢できる事ではありません。
変に同情して、解決に割り込むと、却って、お節介と嫌われてしまうのでは、敵いません。
女性の場合は反対に、困っている時に相談に載ると、親切な人だと思われて、株が上がります。
自分は男ですから、男性の考えに固執している時に、女性の意見を聞くと『目から鱗』になる場合があるのです。
思いもよらない意見を聞いて、あらためて自分の考えだけに固執してしまうのに、反省してしまいます。
何故、男女で考え方が異なるのでしょうか。
よく言われる事ですが、大脳は右脳と左脳に分かれていて、右脳は感情を司り、左脳は言語中枢や理性を司ると言われています(理性を司るのは本当かどうか分かっていません)。
その右脳と左脳を連絡しているのが脳梁です。
この脳梁が、男女で大きな違いがあります。
女性は、男性と比べて、この左右の脳を繋(つな)いでいる脳梁が、断然に太いのです。
例えれば、川で遮(さえぎ)られている、右の町と左の町を連絡している橋が、立派な大きな鉄橋(女性の脳梁)と細い丸太橋(男性の脳梁)の違いの様なものです。
大きな鉄橋は、左右の町の情報を、お互いに充分に伝える事が出来ますが、過多になり過ぎるかも知れません。
細い丸太橋は、情報が偏り勝ちになるでしょう。
女性は脳梁が太く、色々と考える時、左右全体の脳を使っているので、理論と感情が交じり合います。
良く言えばバランスのとれた意見が出ますが、悪く言えば纏(まと)まりのつかない場合も出てきます。
一方、男性は言語中枢のある理性的な左脳を中心に、物事を考えると言われています。
意見が一方的になり勝ちですが、嵌(はま)れば理論的で、冷静な考えと云う事です。
しかし、女性は大脳全体で考えるので、言い争いになれば、男性は女性の足元にも及びません。
神様は、わざわざ、男女の見た目や考え方を変化させて呉れた訳ですから、大いに感謝して、お互い相手の良いところを尊重しつつ生活すべきだと思うのです。
若い人にアドバイスですが、男も、女も、同じ考えであるなどと錯覚をして、交際していると上手く行かないのかも知れませんよ。
異性では、考え方が全く違うのですから。
話は変わりますが、長い間、石川歯科に来て頂いている患者さんは、私にとって、家族のようです。
女性の意見は、男性とは違った角度から話して貰えるので、特に大切にしています。
勿論、男性の意見も疎(おろそ)かにしてはいません。
この世は男性と女性だけですから、お互いの意見を尊重し合っていけば、こんなハッピーな事はありません。
考え方の男女の根本的な違いが生じる事こそ、素晴らしいと思うのです。

院長の独り言 287 ; かつて所属していた、大学の研究室の勉強会に出席しました

先日、自分が教員をしていた、大学の研究室(歯内療法)の勉強会に行ってきました。
最近の歯内治療(歯髄の治療)や現在、教室の若手が研究しているテーマについて、丁寧に報告してくれます。
新しい治療方法の勉強の為に、余程の用事がない限り、年2回、必ず出席しています。
最新の治療法や研究は、専門の雑誌を読めば、ある程度、把握できる事は分かっています。
しかし、最先端の研究をしている大学の研究室に行って、教授、助教授、講師、助教、そして大学院生や医員の若手から、直接、話を聞くのは、本当に大切です。
なぜなら、後輩が頑張って、研究に取り組んでいる姿は、かつての自分を見ているようで、もうひと踏ん張りしなければと、『ハッパ(発破)』を掛けられるからです。
私のように大学を退職して40年間も経過してしまった者にとって、西多摩から御茶ノ水まで出て、勉強会に参加するのは、正直、億劫です。
事実、今回の勉強会に出席していた多くの先生方の中で、70歳を超えている年寄りは、ほんの数名でした…。
しかし、現役の若い教室員を見ると、勉強会に出る意欲が湧いてくると云うものです。
また、かつての同僚たちに会うのも、楽しみです。
最初の講演は、口腔外科の講師の先生でした。
『口腔の粘膜病変にも、色々と種類があります。
歯肉炎のような、日常臨床で毎日、診られるものから、口腔癌のように、命に関わる重篤なものまで、色々な病変が診られます。
ハッキリと分かるような、特徴的な症状を呈している場合は、その診断は誰でも容易に出来ます。
しかし、歯肉炎だか、口内炎なのか、良性腫瘍なのか、そして悪性の癌なのか、診断を確定出来ない、境界線の症例も沢山あるのです。
特に、初期の場合は、見分ける事が大変、難しいものです。
癌のような命にかかわる病気の場合、初期に発見されれば、完治出来るのに、見過ごしてしまうと進行してしまい、大変な事になります。
かなり病気が進行している場合は、確定診断は比較的に容易です。
初期の状態で、どのように診断したら良いのかが、肝心です。』
と、スライドなどを参考に、分かりやすく講義してくれました。
次は、大学院生がいま現在、一生懸命に研究している、OCT(光干渉断層計)を用いて、簡便に、歯の破折を診断する方法を話してくれました。
その他、コンビームCT(歯科用CT)についての研究が2つ。
根管洗浄(感染した歯髄を、除去した後の洗浄)についての研究が3つ。
全て、歯の保存の限界を探る講演でした。
特に、歯の破折は、日常の臨床でも、かなり見受けられます。
この歯の破折は、歯肉が腫れたり、膿が出ている場合は、容易に対処出来ます。
ところが、2次元のレントゲン写真では一見、何の異常が診られないのに、患者さんが『食事の時、痛い感じがして、噛みにくい…』とか、『水が少し沁みる…』などといった、ちょっとした違和感を訴えて、来院する事があります。
こういう時に大活躍するのが、3次元であるコンビームCT(歯科用CT)です。
石川歯科医院には、幸い、コンビームCTがあるので、痛みの原因が不可解な時には、大いにコンビームCTを利用しています。
勿論、歯の破折の診断を、明視化に出来ます。
この破折は、無髄歯(歯髄を除去した歯)に多いのです。
死んでしまった無髄歯は、非常に脆(もろ)くなってしまい、割れやすくなるのです。
特に、噛む力の強い男性に多く、歯の破折は見られます。
だから、私は出来るだけ、歯髄を取らない様にしています。
結局、勉強会は、7人の演者による講演があり、午後1時から夕方6時まで、5時間に及びました。
良い勉強になりました、正直、少し疲れましたけど…。

院長の独り言 286 ; 『日本の大地震をお祝います』って…(怒)

我が国は『小国』だと、日本国民自身が思っています。
随分前のブログに書きましたが、国連海洋法条約で、排他的経済水域(EEZ;exclusive economic zone)という条項があり、自国の沿岸から200海里内の水産、鉱物などの開発において、独占的権利が認められています。
他国はEEZに、手を出す事は出来ません。
簡単に言えば、沿岸から200海里は、その国の領土と同じ様なものなのです。
経済的主権が及ぶ水域なので、EEZはその国にとって水産資源は勿論、海底に眠る石油などの資源も、自由に掘り出す事が出来るのです。
海はどの国においても、自由に航行出来る『公海』と他国が許可無く侵入出来ない『領海』と、『排他的経済水域(EEZ)』に分かれます。
日本の国土は38万k㎡で、約200カ国ある世界の国々の中で、面積では61位です。
ところが、日本の『領海』と『EZZ』を合わせると447万k㎡あり、世界第6位の経済水域を保有しているのです。
国土と領海を合わせると、485万㎢で世界第9位の広さを持つ大国となります。
人口は、勤勉で誠実な1億3千万人を有します。
1億3千万人は、世界中の国の中で第10位の人口数です。
領土的にも、人口からみても、我が国日本は、世界の約200国の中で堂々たる大国のひとつなのです。
おまけに、東京や大阪などの大都会だけでなく、日本中の都市に高層マンションが沢山、建設されています。
高層マンションが出来ると云う事は、縦方向に国土が増加した事を意味します。どんどん国土が拡大するのと同じ訳ですから、益々、国が大きく拡大していきます。
別に国が大きくなるから良いと言っている訳ではありません。
大国だからと言って威張るなんて興醒めです。
しかし、大国としてのプライドは、常に我々自身、持つべきだと思うのです。
様々な国の人と、学会やパーティーで話す機会がありますが、日本に対して、一番疑問に感じるのは、日本の様な大国が、国防を他国に委ねている事だそうです。
今度の大震災で分かった事ですが、世界の多くの国々から、確かに援助には来て呉れましたが、何となく軽んじられている感じがするのです。
『日本の大地震をお祝います』など中傷されたり、日本の工業製品を排除されたり、甘く見られているのも事実です。
外交においては、親密に、そして誠実にお付き合いするのは当然です。
しかし、抗議しなければならない時は、毅然と対処すべきで、その為には、自分の国は自分達で守ると云う気概が必要でしょう。
日本は、領土からみても、人口からみても、大国なのです。
素晴らしい科学技術も保持しています。
それなのに、小生が思うに、国の気概は無きに等しく、外交においても遠慮し過ぎなのです…。
いつも先戦の事を、反省、反省と言って、歴史を学ぶ事なく、他国の歴史観を押し付けられているばかりでは、若い人は自信を無くしてしまうでしょう。
もう戦後60年以上経っているのですよ…。
戦争に関しては、一方だけが悪い訳ではないと思います。
良い意味で、若い世代の人達が、祖国に誇りを持てるように、政治家、官僚、教育者、そしてマスコミの皆さん、宜しくお願い致します。

院長の独り言 285 ; 舟上から眺める、生まれ育った東京の下町

隅田川に遊覧船が運航されているのは知っていましたが、まさか、その遊覧船で浅草に行けるとは思っていませんでした。
勿論、遊覧船ではなく『海上バス』という名前ですが…。
このところ、本当に出不精になってしまい、生粋の江戸っ子なのに、最近の東京事情が、さっぱり分からないのです。
今まで、気が付かなかったのですが、品川から、船の出る『日の出桟橋』埠頭まで意外に近い!と分かったのです。
帰宅するまで、時間がたっぷりあったので、船に揺られてみようと云う事になりました。
日の出桟橋からは、浅草行きの『隅田川ライン』以外にも、『晴海お台場海浜公園ライン』と『東京ビックサイト•ペレットタウンライン』などが、運航されているそうです。
隅田川から眺める東京のビル群は、中々なものです。
隅田川と云えば、水が灰色で、しかも悪臭がするので、観光どころではないと自分では思い込んでいました。
小学校低学年の頃は、魚が沢山、釣れていたくらいですから、川は綺麗でした。
ところが、自分が中学校に入った頃には、どぶ川に成り下がっていたのです…。
高度成長により、工場からの工業排水と家庭汚水が、垂れ流しになってしまい、隅田川は無残な姿になってしまったのです。
何十年か振りに、現在の隅田川を目の当たりにして、昔の綺麗な川に蘇っているのを実感して、本当に感激しました。
中でも一番、感激して驚いたのは、この海上バスが大変、人気があり、乗客で埠頭が溢れていた事です。
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Picture 100
一時期、あんなに汚れていた隅田川が、東京を代表する観光名所の一つとして、大勢の人に認めてられているのには、東京都の職員関係者と地域住民の努力の結果なのでしょう。
われわれが桟橋に着いた時には、既に溢れる程の人達でした。
『これは、乗れないかな?』と一瞬、思ったのですが、駄目元で一応、列の後ろに並んでみました。
思ったより船が大きく、我々も、どうにか乗船出来ました。
船が動き出すと、東京湾からの爽やかな風が気持ち良く、つい両手を拡げて、深呼吸したい気分です。
すぐに、浅草に向かって左岸に、幼い頃、セミやカブトムシを採りに来ていた『浜離宮』が目に飛び込んできました。
浜離宮は、先日、銀座を訪れた際、寄ったのですが、子供時代の最高の遊び場だったのです。
浜離宮を過ぎると、東京の台所で有名な築地魚河岸市場が見えてきました。
この魚河岸は魚の『競り』の様子が、海外にも紹介されるほど有名です。
岸壁に横付けされている漁船の横を通り、日露戦争で勝利した際に、記念として建造された『勝鬨橋』の下を、船は静かに進みます。
そして、子供の頃、釣りに来たり、渡船に乗って遊んでいた、想い出深い『佃島の渡し場』を通過しました。
まるでタイムスリップした気分です…。
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さらに、夜釣りを楽しんでいた中之島、大型船の進水式が何度も見られた石川島造船所、綺麗な帆を靡(なび)かせた練習船が展示されていた東京商船大学などが、この辺りの川沿いにあったのですが…。
想い出は尽きません。
永代橋が見えてきました。
勝鬨橋と永代橋の間はたっぷりと距離があります。
現在は、中間に佃大橋が掛かったので、情緒たっぷりの渡船は、廃止されています。
永代橋の近くには深川、門前仲町と云った、昔からの(江戸時代からですよ)繁華街があって、特に夏祭りの時は、大変な賑(にぎわい)でしたが、今は居酒屋の街として知られています。
浅草までは、まだまだ幾つもの橋をくぐって行ったのですが、一時間弱の想い出たっぷりの楽しい船旅?でした。
到着した浅草の仲見世は、身動きが出来ない程のひと、ひと、ひとです。

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青い目の観光客も、日本情緒たっぷりのお土産屋さんを眺めています。
一方、我々は…と云うと、流石に、朝からの強行軍。
多分、『中央道の渋滞が緩和されたろう』との読みで、この辺で、家路に着く事にしたのです。
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院長の独り言 284 ; 水上バスに乗って、品川から浅草まで

連休を利用して、家族でお墓参りに出掛ける事にしました。
例によって息子が運転手です。
お墓は千葉の八柱と東京の西多摩にあります。
先ず、遠い方の八柱霊園にお参りに行く事を決めて、朝8時過ぎに自宅を出発。
八柱の霊園に行くには、中央道から首都高速に入り、千葉方面に向かうのですが、道が空いていれば、約1時間で到着します。
中央道の上り車線に入った途端、目に入ったのは、反対車線の異常な混みようです。
下りの相模湖方面は、行楽地に向かう車でビッシリ。
上り方面は、下りの人の目に毒なくらいに、スイスイと順調に流れていたので、ホッとしました。
ところが、吉祥寺の首都高の料金所を過ぎたころから、上り車線も雲行きが怪しくなってきました。
何となく車が詰まってきた感じなのです。
早速、カーナビで松戸方面を調べてみたところ、都心から千葉方面に向かって、高速道路も、一般道も、渋滞を表す赤色に染まっています。
大渋滞のようです。
いま走ってきた中央道の下りの情景を目の当たりにしてきたので、正直、あんな渋滞に嵌(はま)る事だけは絶対に避けたいと思ったのでした。
止むを得ず、急遽(きゅうきょ)、ご先祖様には申し訳なかったのですが、今日のお墓参りは中止する事にしてしまいました。
日を改めて、なるべく早く墓参に行くつもりです。
ところで、中央道の下りは大渋滞なので、とんぼ返りで、自宅にも帰れそうにありません。
しばらく都内に留まる事にしたのです。
報道によると、品川が素晴らしく変身したようなので、一度、行ってみたかったのです。
丁度、良い機会でした。
『久し振りに、品川にでも行ってみようか!』と、意見が纏(まと)まりました。
新宿駅に駐車し、冷たいコーヒーでひと息ついた後、山手線に乗り、一路、品川へ。
本当に久し振りの品川。
新しい高層ビルが立ち並び、かつての東京と横浜の中継地と云った面影は、何処にも有りません。
新宿や渋谷のような、山手線沿線の大繁華街に様変わりしていたので、驚きました。
大変な混雑ぶりに、思わず気後れしてしまい、まるで『お上りさん』のように目をキョロキョロさせ、改札口を出たところで暫く立ちすくんでいました。
テレビ番組で、イルカのショーで有名な『エプソン 品川アクアスタジアム』を紹介していたのを思い出したので、『どんなものか観てみようか…』となったのです。
ところが、肝心のスタジアムの場所が何処だか分かりません。
長年、東京に住んでいる自分としては恥ずかしかったのですが、駅員さんに聞く羽目になりました。
訪れてみると、子供連れの親子を中心に、若い人達で超満員。
景気が少し上向いてきたのか、良い傾向です。
幼児は入場料金がおまけですが、われわれ夫婦も65歳以上と云う事で、少し割引料金。
得をした気分です。
中に入ると、左右そして頭上に大小様々、色とりどりの魚達が、大きな水槽の中で群れを組んで泳いでいて、平凡な感想ですが、まるで海の中にいる様な錯覚を覚えます。
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比較的に大きな魚が多いので、手前みそですが、石川歯科で飼育している熱帯魚やハリセンボンの方が、愛くるしく感じるのは、エコ贔屓(ひいき)?でしょうか。
運よく海豚(イルカ)ショーを座って見学出来ました。
大小10頭ほどのイルカが泳ぐと云うより、凄いスピードで水面を走ったり、高く跳びはねたりして、水飛沫(みずしぶき)を景気良く飛ばし、前列のお客さんはズブ濡れです。
子供たちの甲高い悲鳴で大盛り上がり、20分間のショータイムは、アッと云う間に終了です。
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大いに楽しんで、水族館を出たのが、まだお昼前です。
多分、帰りの下り方面中央道は、まだまだ渋滞に決っています…。
もう少し時間つぶしと云う事で、まだ一度も経験のない、隅田川の水上バスに乗ってみる事にしました。
知らなかったのですが、日の出桟橋から浅草まで、遊覧船で行く事が出来るのです。
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交通機関は電車でも良かったのですが、実は、小さい頃に住んでいた下町の変身振りを、久し振りに見たいと思ったのです。
日の出桟橋が品川の目と鼻の先と分かったので、早速、桟橋に出向いてみました。
遊覧船から見る下町の風景は、想像していた以上に様変わりしていました。
魚(セイゴやボラなど)を釣っていた60年以上前の、灰色の岸壁だけで、殺風景だった街並みとは大違い、隅田川の周りは、新しい高層マンションのオンパレードです。
川べりも緑豊かに整備されています。
パリのセーヌ川の遊覧船から見る景色といい勝負です。
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江戸時代から隅田川は、生活物資の運搬を司る、大切な動脈だったのです。
川幅はかなり広く、両岸を行き来する為に、明治時代から、大きな橋が何本も架けられました。
ところが勝鬨橋(築地)と永代橋(深川)の間の、かなり長い区間には、橋が無かったのです。
橋だけを利用すると、銀座、築地から月島、佃島方面に行くには随分と、遠回りを強いられていました。
今は佃大橋が架けられて便利になりましたが、それまでは橋の代わりに、渡し船が住民の足として運航されていたのです。
『渡船(とせん)』と言って、無料だったので、その渡船に友達たちと乗って遊んでいた幼い頃が、走馬灯のように蘇(よみがえ)ります。
隅田川沿いも綺麗になったもんだと感心すると同時に、情緒たっぷりの渡し船には、もう乗る事は出来なくなってしまったのでした…。
(次回に続く)

院長の独り言 283 ; パソコンの進化は、人間性の変化に繋がるのか?

今、書斎の机の上に置いてある、愛用のWindows PC(通称;パソコン)に、ブログ『院長の独り言』を打ち込んでいます。
使用ワープロソフトは、Microsoft社のOffice Wordです。
職場にあるのは、Apple社のiMacですから、Pagesというソフトを使用します。
パソコンは所謂、個人向けの電子計算機(パーソナルコンピューター)ですが、この機械が無いと、仕事は捗りません。
仕事以外にも、自分の生活を皆さんと同様、かなりの時間、パソコンの前で過ごしています。
最近は、Apple社からiPadというタブレット型PCが出現したので、ソファーに寝転びながらのネットサーフィンです。
小生が大学院生の頃、臨床統計の仕事で標準偏差や平均値などを計算するために、初めて、本格的な電子計算機なるものを使う事になったのです。
当時は現在のパソコンと違い、電子計算機は複雑な計算をする為にのみ、使用していました。
それしか使い道が無かったのです。
この電子計算機、最初、目にした時は、あまりにも大きい機械なので、先ずはビックリして圧倒されてしまいました。
大袈裟でなく、8畳の部屋に目一杯、陣取って鎮座していたのです。
何だか訳の解らない電気部品が連なっていて、それが大量のコードで結ばれていました。
半導体など無い時代です。
この大きな電子計算機一台が、研究室の一室に備え付けてあったのです。
基礎の研究室(病理学、解剖学、生理学、細菌学、薬理学など)から臨床の研究室(保存学、補綴学、口腔外科学など)まで、全ての教室が、この大きな電子計算機を順繰りに使用していました。
現在のパソコンは、有意差の検定など、立ち所に答えを出して呉れます。
ところが、当時の電子計算機は、図体が大きいのですが、統計の資料などを入力すると、答えが出て来るまで、大変な時間が掛かります。
複雑な計算を頼むと、ゴトゴトと音がしたかと思うと、急に静まり返ったり、またゴトゴトと動き出したりして、如何にも難しい計算を考え考え答えを出していると云った風情で、非常に人間的なのです。
如何にも人が頭をひねって苦闘して計算しているようで、ユーモラスです。
現在のパソコンは余りにも完璧で、人間味がありませんね。
電子計算機は信じられないほど、便利に進化して、小型軽量化してしまったと云う訳です。
ハードの進化は、半導体の高機能、小型化に依るものいって良いでしょう。
また、ハードの性能が向上するにつれ、プログラム(ソフト)も進化しました。
ワープロ、インターネット、電子メール、その他業務用や娯楽用ソフト、ゲームなど、広範囲に利用できる事は皆さんご存知の通りです。
インターネットのコンテンツが、1990年中頃から充実してきて、現在はまさしく、一人一台の、パソコンの時代になってしまいました。
単純に纏(まと)めてみると、(計算のみ)→(電卓、ワープロの基本ソフトの出現)→(インターネットやアニメーションなど、高度な作業を行なうハードとソフトの発展)と言う事になります。
50年ほど前の、あの図体のデカかった電子計算機が、小さな電卓に進歩して、そこから究極の小型パソコンに進化したのですが、それを余りにも短期間で成し遂げてしまったのには驚きです。
現在、我が家のリビングには、初代iPadとiPad2があり、当院の待合室にも、iPadが2台あります。
過去の症例写真などを示しながら、より視覚的に、分かりやすく患者さんに治療方針を説明できますし、待ち時間の余暇にもなります。
このように便利なデジタル機器を、幼い頃から、日常生活で使用すると、コミュニケーションの質はどのように変化するのか、興味津々です。
小生は、コミュニケーションが即物的にならないか、心配しています。

院長の独り言 282 ; 肝試しの想い出

もう60年以上前の話です。
私の通っていた小学校は、最終学年である6年生の夏休みに、箱根の林間学校を訪れるのが伝統でした。
5年生になると、上級生の6年生から、合宿について、いろいろな情報が伝えられます。
この合宿が待ち遠しい気持ちがあるのですが、卒業して、仲の良い友達と別れる寂しさを思ったり…と、複雑な心境でした。
林間学校での一週間の合宿生活が、小学生の卒業を意味していたのです。
子供を卒業して中学生の大人(?)になれると云う前向きな気持ちと、もうあまり子供染みた事は出来ないと云う後向きな気持ちが、錯綜していたのです。
いよいよ夏休みの箱根の合宿が近付くと、箱根の地理や歴史、特産物などを、幾つかの班に分かれて、研究と言うと大袈裟ですが、テーマを与えられて、自分達で色々と調べる事になっていました。
小生の所属する班は、戦国時代に、箱根や小田原を支配していた北条氏について調べて発表しなければなりませんでした。
北条氏の創始者 北条早雲は、斉藤道三と並び『下克上』を象徴する戦国大名です。
この2人の戦国大名は貸し漫画で、常に戦国時代を代表する英雄として、その善し悪しは別にしても、語られていました。
元々、道三は油売り、早雲は一介の素浪人であったのが、大名にまで登り詰めたのですから、子供達の人気者になる訳です。
戦国時代は波瀾万丈の乱世でしたから、成り上がり大名が、如何にも格好良く思えて、子供たちの憧れの的(まと)だったのです。
その北条氏を調べてみると、百姓出身と云われる豊臣秀吉によって、五代で滅ぼされてしまうのです。
あの武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった堅牢な小田原城を、秀吉は難なく陥落してしまうのですから、やはり天下を獲るだけの事はあったのでしょう。
ところが、近年の研究によると、北条早雲は一介の素浪人ではなく、室町幕府の政所執事を努めていた名門 伊勢氏を出自とする説が有力となり、低い身分の出でなかったと分かってきたのです。
しかも、早雲は出家するまで、『北条』の姓を名乗りませんでした。
きっと、名門『伊勢』氏の出身である事を、誇りにしていたのでしょう。
生涯、『伊勢新九郎長氏(盛時)』を名乗っていたのです。
話は逸れてしまいましたが、実は、ここからが今回、一番、お話したい事なのです。
箱根で合宿していた場所は、旅館ではありません。
合宿所です。
住み込みの夫婦とそのお手伝いさんが、食事の世話などをして呉れました。
そこでの生活は、朝6時に起床で始まります。
午前中は箱根の名所を、例えば大湧谷や芦ノ湖、戦場ヶ原などを訪ねたり、合宿所の周りを散策して、昆虫採集をしました。
富士山を写生したりもしました。
午後はプールで水泳をし、その後、温泉に入り、大はしゃぎした後、夕食。
夕食後は、一日の行動を皆で話し合ったり、各々が調べてきたテーマの発表会。
寝る前は当然、枕投げです。
いま思い出しても、本当に楽しい合宿でした…。
先生は殆ど怒らず、生徒の自由にさせていました。
そして、最終日の前日の真夜中に、この合宿のメインである『肝試し』があるのです。
5代続いた北条氏のお墓を、真っ暗闇の中、グルリとひと回りして帰って来るのですが、一人一人の間隔が、約100メートル離されて歩くのです。
子供たちは、真っ暗な山道に、ひとりぼっちにされるのが、怖くて、怖くて、ビビりまくりでした。
お墓で一分間、手を合わせた後、来た道と違った道を、必死に走って行くと、懐中電灯を持った先生がニコニコと笑っています。
後ろからお化けが追いかけて来るのではないかと怯え、子供ですから、生きた心地がしませんでした。
この肝試しが無事に済むと、我々みんなが中学生になる事を自覚するのでした。
現在の小学校で、こんな行事をしている学校が、果たして、あるのでしょうか。
懐かしい想い出です。

院長の独り言 281 ; 海水に浸かった土地の再生

以前のブログ(院長の独り言264 ; 植物の生命の尽きる時)に、自宅の鉢植えのシクラメンを観察していて、植物の水を吸い取る力は驚嘆すべきものがあると書きました。
植物はわれわれ動物と違い、移動する事が出来ません。
しかし、意外に思うでしょうが、大昔(30億年以上前の話ですが)、植物も動物と同じように動く事が出来ていたのです。
海の中で生息していた植物が陸に上がり、光合成によって栄養分を合成でき、動く必要が無くなったと云う訳です。
植物が生きる為には、太陽エネルギー以外に、水が必須です。
水分の摂取は、雨次第です。
潤沢に雨が降れば問題ないのですが、日照りが続く時もあるのですから、植物にとって水分の摂取は、太陽エネルギーを取り込むように簡単にはいきません。
植物は、そう云う時は必死なのです。
何しろ動けないのですから…。
ちなみに、ここで話している植物は、動物と対比しての話で、一般的に我々が認識している範囲の『植物』と理解して下さい。
専門的になると『植物』の定義は大変、難しいのです。
一応、動物と植物の区別は、動ける、動けないかは別にして、細胞レベルでは、細胞膜があるのが植物、無いのが動物と分類されています。
植物は、自分自身で生きていくのに必要な栄養分を、作り出す事が出来ますが、動物はそれが出来ないので、自ら動いて、食物を摂取しなければなりません。
換言すれば、植物は自立型であり、動物は寄生型と言う事になります。
人間は、牛や豚を飼育したり、魚を養殖したり、または野菜を作ったりしますが、食物を常に自ら調達しなければならない、その他の動物は、生きていくのは本当に厳しいものです。
植物は、水さえ簡単に手に入れば、生きていくのは、動物より楽かも知れませんね。
植物は永い、永い期間をかけて、少量の水でも無駄なく吸い上げる力を獲得したのでしょう。
その方法は、根を広範囲に伸ばしていくか、水を吸収する力を身に付けるほかありません(導管、篩管などの話は、またの機会に…)。
40年前に八王子で歯科医院を開業した時、甲州街道にある、多摩川に掛かっている日野橋を渡って通勤していました。
当時、日野橋から多摩川を見下すと、大きな中州があり、雑草が中州を覆っていたので、中州は小さな雑草の島のようでした。
ところがある時、関東地方に台風が襲来したのです。
35年ぐらい前だったと思います。
その中州に、上流から流されてきた、長さ1~2メートルの枝が数本、引っ掛かったのです。
その時は別に気にも留めなかったのですが、7~8年経ったある時、日野橋から見る多摩川の景色が、何となく違うのに気がついたのです。
どうしてだろうと橋の上からジックリ眺めて見ると、景色が変わったのも道理で、雑草だらけだった中州が、背丈5~6メートルの低木の生い茂っている林に変身しているではないですか。
考えてみれば、植物にとって生きていくのに、こんなに良い条件はそうざらにはありません。
日光は燦々(さんさん)と降り注ぐし、多摩川の水もたっぷりです。
現に、青々とした木々の大集落が、短期間で形成されていました。
この事実からして、東日本大震災で破壊された陸前高田の松林は勿論、大津波に襲われて破壊された植物は、意外に早く再生出来るのではないかと思いました。
早期に蘇(よみがえ)る事、間違いないでしょう。
植物が定着してくれれば、塩水に漬かった土地も、その保水力から再生されるでしょう。
問題はむしろ、人間の精神の方かも知れませんね。
悔しい事に、紀伊半島も、台風で大被害を受けてしまいました。
今年の日本列島はどうなっているのでしょうか。
自然界に間借りさせてもらっている立場を、思い知らされますね。

院長の独り言 280 ; 医療技術の驚くべき進歩

医科歯科大学歯学部2年生の時、内科の授業で、老化についての講義を受けました。
内科教授曰く『老化には、回復不可能な真の老化と改善可能なニセの老化のふた通りがある』との事。
真の老化とは、大脳皮質がやられてしまった場合で、昔風に言えば『脳軟化症』、所謂、『認知症』です。
この認知症、教授の話していた頃は、病状の進行するがママでしたが、現在は医療技術の進歩により、進行度合をある程度、遅らせる事が出来るようになってきました。
主に、薬物療法の進歩ですが、アルツハイマー型認知症の進行を遅らせる『アリセプト』という薬、または、現在、治験中である、アルツハイマー病の根治を目指す『レンバー』などの薬です。
しかし、現在の最先端医学をもってしても、認知症の多くを占める脳血管性認知症などは、根治が困難です。
一方、ニセの老化とは具体的にどう云うものを言うのでしょうか。
昔から、目、歯、耳が衰えてくると、年寄り扱いされると言うより、自分自身で身体の衰えを痛感させられる事、しばしばです。
この三つの感覚の衰えが、『ニセの老化である!』と教授は言うのです。
ニセの老化は真の老化と異なり、脳が機能不全を起こしている訳ではありません。
ニセの老化は治療する事で治癒するか、あるいは大幅に改善するのです。
白内障や老眼になると、若い頃と違い、字も読み辛くなるし、歯が抜け緩んでしまうと、肉や線維性の野菜などを、つい敬遠します。
また、耳が遠くなれば、周りの人の会話について行けません。
勝手に、自ら老化と決めてしまい、行動も消極的になり勝ちです。
このニセの老化は、真の老化と違い、『改善余地があるのだから、絶対に落ち込む事はない!』と教授は強調していました。
ところが、教授が当時、強調していたより、現在は信じられないほどに、ニセの老化に対する医療は進歩してきているのです。
実は、このニセの老化撃退法には、医療工学の驚異的進歩によるところが多いのです。
老眼の場合は私もですが、素晴らしく精巧になった老眼鏡を掛けた事により改善していますし、白内障で物が光って眩しく見えたり、ぼやけて見えている場合は、人工の眼内レンズで見事に解決です。
老人性難聴には、補聴器(骨伝導など)の性能が随分、改善されてきていて、ひと昔前の雑音入りの、大きな補聴器とは全く違います。
さて、私の専門である歯科ですが、最近10年間の進歩は驚くべきものがあります。
全歯28本の8割が残存している人の咬む力を100とした場合、総義歯では、数パーセント程度しか、その機能の回復を期待出来ないと言われています。
総義歯では、硬軟すべての食物を咀嚼する事など、土台、無理な相談なのです…。
オーバーでなく、総義歯での食事は、殆ど呑みこんでいる状態です。
結果、消化器官に、過度の負担を強いる事になります。
また、噛む刺激が脳にあまり伝わらない事により、それこそ、ニセの老化から真の老化である認知症に移行してしまったら大変です。
若者に負けないほど元気で、しかも長生きしているご老人は、歯が丈夫である人が多いと言われています。
しかし、歯が全く無くなってしまった人でも、ガッカリする事はありません。
驚く事に、インプラント治療を施せば、咬む力は28本歯を持っている人と何ら変わらなくなるのです。
風貌も口の周りに張りが出て、歯科医師がビックリするほど若返る人もいます。
また、歯が一本無くなると、従来は、歯の欠損した部位の前後にある、健全な歯を削って、更に歯の神経を取り、ブリッジを入れていたのですが、インプラントを入れれば、前後の歯を痛めつける事も全く有りません。
インプラント治療でも、眼内レンズでも、そして骨伝導補聴器でも、良い事ずくめですが、健康保険が効かないので、ある程度の費用は掛かります。
前述のように、インプラント治療の場合、医療工学の画期的進歩のお陰が大ですが、それを施す側の術者の技量が伴わなければ、何もなりません。
更には、治療を成功させるにはドクターだけでなく、衛生士をはじめスタッフ全員の努力が欠かせないのです。
患者さんから『本当に美味しく物が食べられるようになりました!』と言われる事が、我々スタッフ全員の願いです。

  術前
術前

  術後(すべてインプラントです)
術後
                    

院長の独り言 279 ; 日本の歴史は、われわれの命に繋がっているのです

物事を一つの方向からのみ考察して、別に疑問を持たないでいる場合が、意外と多いものです。
全く違った観点から考えると、目から鱗(うろこ)の場合もあるものです。
例え話をします。
戦後60年以上経ちますが、現在、還暦前(60歳以下)の人は、殆どの確率で、第二次世界大戦が勃発していなければ、この世に誕生しなかったでしょう。
戦争で亡くなられた方々が沢山、おられたからです。
もし戦争さえ無かったら、戦死や空襲で犠牲になった方々の殆どの人は、健在だったでしょう。
当然、若者の結婚相手は、全く異なっていた筈です。
確かにどんな理由があっても、戦争は絶対に避けるべきです。
しかし、第二次世界大戦が起こらなかったと仮定したら、老人以外、現在の日本人の大半は、この世に生れる事はなかったのではないでしょうか。
このような極く微細な視点から考えて、この世に生を受けないとしたら、戦争をしたからいけないとか、戦争をしなければ良かったなどと、論議する事も出来ません。
現在、口角に泡を飛ばして、開戦の良否を議論している殆どの人が、この世に生まれていないのですから意見どころではありません。
戦争で多くの犠牲を出した事によって、悲しい哉、我々は存在しているのです。
新任された野田総理も、やはり靖国神社の参拝をしないそうです。
理由はA級戦犯が一緒に祀られているからです…。
御霊に頭を垂れる事と戦争責任を追及する事は、全く議論の矛先が違うと私は思うのです。
我々が現在この世に生かされているのは、御霊になられた全員の犠牲の下だと思うからなのです。
野田総理も戦争が起こらなかったら、殆どの確率でこの世に存在していないでしょう。
何はともあれ、参拝して、現在の日本の繁栄とその結果、生じた社会の歪みを、御霊に報告すべきだと思います。
二度と戦争が起こらない様に、野田総理を中心に、我々は知恵を絞るのは当然です。
しかし、現在の殆どの日本人が、日本人として、この日本で存在出来ている最大の理由は、考えたくは無いのですが、第二次世界大戦が勃発して、多大の犠牲を払わされた結果と云う事も一面の事実なのです。
もし戦争が無かったら、現在の日本人は別人であったのです。
小生の両親は、戦前の事なので当然ですが、お見合い結婚でした。
親父は大学生の時に、運よく関東大震災の犠牲にならずに済んだのです。
間一髪、危うかったそうです。
もし親父が震災の犠牲になっていたら、兄も、弟も、私も、この世には存在していません。
そうなれば、私の二人の子供も生まれてこない事になります。
最近、あるテレビ番組で、歴史的大事件の現場を、ワイドショー的にまとめて分かりやすく解説するものがあります。
私も歴史が大好きなので、様々な歴史的事件を空想します。
卑弥呼はどんな女性だったのか、神風(台風)が吹いたとは云え、よく元寇を追い払ったものだとか…。
また、なぜ光秀は信長を襲ったのかなど、呑気に考えて、時々『ハッ』とする事があります。
光秀が謀反を起こさなかったら、かなりの高確率で、自分はこの世に誕生しなかったろうし、更には、もし元寇に敗れていたらと思うと、『神風』様々です。
勿論、元寇に敗れていたら、私の存在どころか、日本史の存在自体がゼロでしょう。
色々と考えれば考えるほど、過去に起こってきた歴史を真摯に受け止めて、自分の存在に寄与して呉れた、全てに対して感謝しています。
国にとって良かった出来事、悪かった出来事、いずれにしても過去に起きた全ての出来事の結果、我々が存在しています。
我が国の宗教観は、世界でも独特のものがあります。
外国人から観ると、日本人を無信論者だと思っている人が多いのですが、決して日本人が宗教を信じてない訳ではありません。
自分で言うのも何ですが、どちらかと言うと、信心深く真面目な民族です。
宗教に対して、ただ大らかなだけなのです(決して、他宗教を批判している訳ではありません)。
日本は神仏習合で、神社も寺院もあります。
お寺に鳥居が存在している場合も見受けられます。
大まかに言えば、日本人の宗教は自然崇拝であり、先祖崇拝です。
多くの家庭では、お盆やお彼岸に、ご先祖のお墓参りを欠かしません。
これは人間の魂と霊魂が日常生活上、結び付いていて、ある人が亡くなっても、残された家族と亡くなった人は繋がっていると信じているからです。
魂が、常に現世の人を見守って呉れていると云う、独特の思想が日本には有るのです。
そして、亡くなった人たちは全て、生前の行いに関係なく、平等であると信じている人が多いのです。
大らかでいいですね。
政治家の皆さんは、肩の力を抜いて、縄文時代から2千年以上、脈々と続いている日本人独特の、このおおらかな宗教観を、外国に対して説明すべきではないでしょうか。
必ず理解して呉れるものと信じます。

院長の独り言 278 ; 自宅を建て替えるので、息子のマンションに居候中

とうとう、40年間、住んでいた我が家のアチコチに、ガタがきてしまいました…。
40年前、親父の知り合いである大工さんに建てて貰った、純和風の二階屋です。
わたし自身が設計した家なので、自宅に対する思い入れは半端じゃありません。
この純和風の二階屋は、数年前から見た目から、明らかにどうにかしなければいけない状態にはなっていたのです。
金属製のベランダは、ペンキが剥げて醜(みにく)く、早くリホームか、あるいは、建て替えるべきだと、家族から指摘されていました。
しかし、思い入れのある自宅を壊してしまうのに、ズーッと躊躇していたのです。
確かに、外見だけでなく、居間の土台部分や現在、納戸になってしまった二階の子供部屋の床も腐っていました。
部屋のアチラコチラに隙間(すきま)が出来てしまい、『絶対にガス中毒にはならない構造』になったと、皆にカラカわれていたのです。
私だけが、中々、家の立て替えに踏ん切りがつかなかったのです。
ところが、今回の東日本大震災で、ついに重い腰を上げざるを得なくなってしまいました。
40年前は、耐震建築などと五月蝿(うるさ)く言われていませんでした。
確か、今から20年くらい前から、耐震、耐震と言われ出したのです。
勿論、我が家は、耐震構造など真剣に考えて建ててはいません。
関東地方に震度6クラスの地震に見舞われれば、近所でウチだけが崩壊するのではないかと脅かされていました。
『ヨシ!一丁、やるか!』と決心して、家内と住宅展示場を見て回り、9月から家の建て替え準備に入りました。
暫くの間、息子のマンションに、夫婦で世話になる事になったのです。
息子の部屋は13階です。
今まで、高層マンションなどに住んだ経験がありません。
13階に寝泊まりする事に対して、前々から、興味津々(しんしん)ではいたのです。
実際に住んでみて、ビールを飲みながら、高層階から夜景を見ていると、ある種の新鮮さを感じます。
窓から外を見ると、あまりに遠くまで見えるので、仰天してしまうのです。
近年、若い夫婦が高層マンションに入居したがるのも、理解出来ると云うものです。
私も20歳、若かったら、高層マンション暮らしをしてみたかったと今、思っています。
まさか、多摩から副都心の新宿の摩天楼が見えるとは、思いませんでした。
ベランダに出ると、気持ちの良い、爽やかな風が、頬をなでて呉れます。
新居の完成する半年間、13階からの景色を楽しみたいと思っています。

院長の独り言 277 ; 宇宙と縁について

宇宙は無限に大きく、宇宙の事を考えると『人間の存在は余りにも小さい…』と言う人がいます。
しかし、私はそうは思いません。
私が高校生の頃、仲の良い友人数人と夏休みに、信州の高原へと一泊のキャンプ旅行を敢行しました。
旅行した日は本当に天気が良く、風もなく、月も出ていなかったので、夜になると辺りは真っ暗闇となりました。
テントを張った場所には、他に誰もいません。
キャンプと洒落込み、もっと他のグループがいるかと予想していたのですが、生憎、誰もいません。
真っ暗で静まり返っているので、熊か、あるいは幽霊でも出るのではないかと、全員、流石(さすが)に心細くなりました。
みんな空(から)元気を出して、小さなキャンプファイアーを作り、その周りで肩を組み、大きな歌声を張り上げて景気付けをしたのです。
かなり時間が経ち、火も消えると、墨を塗りたくったように、辺りは真っ暗で、友人の顔はおろか何も見えません。
シーンとして音ひとつしないのです。
皆な興奮から覚めて、ふと天を見上げると降る様な星空。
空一面が、大小の星で一杯です。
『スゲーなぁ~!!』
全員で歓声を上げて、首が痛くなるのも忘れ、しばし満天の星空を見上げていたのです。
この光景は、『降る様な星』と云う以外、表現の仕様がありません。
実感として、小生、あらためて星は無限に存在すると確信したのでした。
一つ前のブログに書きましたが、地球外に知的生物体の存在を思わせる根拠は、今のところ皆無です。
この満天の星空の中、地球以外に、生命の存在を証明する星は、今のところ何も有りません。
勿論、ウィルスなどの下等動物は存在するかも知れませんが…。
しかし、現在の科学では、そのような兆候も発見には至っていません。
多分に私見ですが、この無限の宇宙で、地球以外に命を育(はぐく)む星は無いでしょう(独善?)。
唯一の生物が存在するこの地球で、その上、知的生物体の人間は、あまりにも奇跡的存在と思えるのです。
人間がいなかったら、人間が小さい存在と考える人もいない訳ですから、『小さい存在』もへったくれも有りません。
考えてみれば、人間ほど大きな存在は、この宇宙で、他に存在しない事になるのでは無いでしょうか。
これも随分前のブログで触れましたが、一旦、死んだ生物は、当り前ですが、二度と命を宿りません。
いつも思うのですが、最初の命は宇宙の何処で、どの様にして授かったのか、本当に不思議ですね。
果たして、それがこの地球だったのでしょうか…。
『無から有』など、この宇宙がどんなに無限でも、二度と起きないと思っています。
そう考えると、家族は勿論、スタッフ、先輩、後輩、患者さん、ひと言でも話をした人は、気持ち悪いくらいの『縁』があったのだと、いつも思っています。
そして、その縁を大事にしたいのです。

院長の独り言 276 ; 地球外生命体からのメッセージ!?

小生の一番の趣味は、満天の星が煌(きら)めく宇宙を観察する事です。
残念ですが、最近は都市の光が眩し過ぎて、昔のように、天の川を観れません。
それとも、日本社会が発展した証でしょうか。
宇宙のアチラコチラに、地球のように多くの生命体が存在して、宇宙は生命に溢れていると考えている科学者は多いのです。
一方、その真逆で宇宙は、地球以外には、ゾウリムシの様な下等な単細胞生物すら存在しない静寂な世界であり、地球だけが生命の存在する奇跡の天体と考えている人もいます。
宇宙の事を考えたり、天体望遠鏡を覗いて星を見ている時は、自分にとって本当に楽しい時間です。
随分、昔になりますが、新聞に大きく出た、ある記事がありました。
宇宙のある方向から、一定の間隔で、それも信じられない程の正確な間隔で、パッパッと送られて来る信号が発見されたと云う記事です。
『すわ!宇宙人からのメッセージだ!』と、天文学者を驚喜させた出来事がありました。
ところが、同じ様な信号を発信している星が、その後、続々と発見されてきたのです。
地球外の知的生物体からのメッセージなどでは、有り得なかったのです…。
パルス星といいますが、現在までに1600個ほど発見されています。
天体望遠鏡や電波科学の画期的な進歩により、ここ数十年間で、パルス星以外にも、宇宙の色々な場所でブラックホールなど、新しい発見がされました。
天文学者の研究から、このパルス星は、ブラックホールになり損ねた星と分かったのです。
恒星の中には、寿命が尽きる時に大爆発する星があります。
超大型恒星は大爆発して、ブラックホールになり、ブラックホールになれない程度の星はパルス星(中性子星)になります。
もっと小型の恒星は寿命が尽きると、光を放さない暗い星になり、静かに死んだ星になってしまいます。
パルス星から出る、正確な間隔で放たれる信号はパルサーといいます。
このパルサーは、パルス星が自転する過程で発生するのです。
この自転の正確さは驚くべきで、1年間の誤差は10億分の1です。
あまりの正確さなので、とても自然現象とは信じられなかったのは、当然です。
赤色巨星の寿命が尽きて、爆発した後に、中性子星が残るのですが、この中性子星は超高速回転します。
その時の過程で発生するのがフレア現象、即ちパルス信号と云う訳です。
太陽程度の大きさの恒星は、寿命が尽きる最後に、段々と膨張していきます。
そして、膨張の限界に達すると、大爆発を起こします。
大爆発をした時に、恒星の殆どは宇宙に飛び散ってしまいますが、残骸として残るのが中性子星なのです。
中性子星になるのか、ブラックホールになるのかは、恒星の大きさで決まります。
太陽には、ブラックホールになる程の質量はありません。
我々の母なる太陽の寿命は、約80億年と言われています。
現在、丁度、太陽が誕生してから、寿命の半分である約40億年が経過しているのです。
後、40億年経つと、太陽は火星の軌道まで膨張して、大爆発を起こし、中性子星になるか、あるいは、静かに収縮して、光が消え死を迎える事になるのです。
結局、規則的信号は、知的生物体の信号ではなく、ただの勘違いと分かり、未だ、地球以外の生物体の痕跡は見付けられないでいるのです。
無限と云われている宇宙には、地球に存在するような生物体は、果たして、存在するのでしょうか…。

院長の独り言 275 ; 納豆中毒

ほとんど毎日、我が家の朝食には、みそ汁と納豆が付きます。
勿論、それ以外に、日替わりで魚の煮付けなどの魚料理、目玉焼きなどの卵料理が出てきます。
白い飯も茶碗一杯食べます。
その話をすると、『よく朝からそんなに食べられるね…』と驚く友人がいます。
毎朝シッカリと、スタミナを付けているのです。
納豆は実家が東京なので、物心がついた時は朝食にいつも出ていたのです。
出ていない日は、何となく違和感を覚えるほどです。
よく言われる事ですが、関東に比べて関西では、昔からあまり納豆を食べないようです。
最近、納豆の効能の素晴らしさが、徐々に広まってきたのでしょうか、関西の人も納豆を食べる機会が多くなってきたようです。
ひと昔前までは、『水戸納豆』で有名な茨城県と比べると、関西での納豆の消費量は、十分の一にも満たなかったのです。
納豆は独特の臭いがするので、関西の人には、その臭いが合わなかったのでしょうか。
納豆は、ご存知のように、大豆を納豆菌によって発酵させたもので、所謂(いわゆる)、糸ひき納豆が主流です。
我が国では、11世紀の中頃、平安時代には存在していたようです。
その成分の『ナットウキナーゼ』は、健康増進効果があるとされていて、戦国時代、侍(さむらい)のスタミナ源として重宝されていましたし、戦時中や戦後は、主要なタンパク源として日本を救ったのです。
また、納豆は元来、精進料理としてお寺の倉庫である納所(なっしょ)で作られていた事から名がついたとされています。
そして、血栓を溶かす酵素(ナットウキナーゼ)の他に、納豆の中には、食物繊維が豊富に含まれていて、腸内環境を整えても呉れるのです。
この納豆は地方、地方によって、味が微妙に異なります。
たかが納豆と言いますが、北海道から関東、北陸、中部など、生産地によって、色々な味や感触の違いがあり、仕事や観光で地方に出掛けた際には、朝食で出る納豆はどんな味がするのか本当に楽しみです。
人によって、茨城産の納豆が好きだとか、長野の納豆しか食べないとか、好みは全く異なります。
小生は、東京都府中市で生産された納豆が非常に口に合い、毎朝、府中の納豆を頂いています。
納豆をかき混ぜて食べるのは、納豆の粘り気の中にあるグルテンの構造が、かき混ぜる事により、一定の方向になり、味が美味しくなるのです。
かき混ぜている途中から逆方向にかき混ぜると、グルテンの構造が破壊されてまずくなります。
クレグレもかき混ぜる時は、同じ方向にやって下さい。
かき混ぜる回数は70回前後が良いそうですよ。

9/4(日)に歯科医師向けのインプラントセミナーを行います。

お久しぶりです。
石川歯科医院の歯科医師である山森翔太です。
9/4(日)に、ケンテック社主催の歯科医師向けインプラント治療セミナーの講師を、副院長である石川高行先生と共に行います。
今回のテーマは『インプラント辺縁骨吸収を抑制する術式』ということで、インプラント治療に関しての基礎的なものから具体的な外科術式、補綴に関してまでテーマに沿って話していく予定です。
『インプラント辺縁骨吸収を抑制する』ということは、インプラントの長期安定性に密接に関わっています。
また、新しく発売されたTF-typeのインプラントの特長や埋入のポイントなどを症例写真を通して説明していきます。
奮ってご参加ください。
ケンテック講演会

院長の独り言 274 ; 若い友人たちに囲まれて、仕事ができる幸せ

老人の過った運転による交通事故が、テレビや新聞に良く載ります。
アクセルとブレーキの踏み間違い事故であったり、高速道路での逆行による事故です。
私もいい歳をした老人ではありますが、ごく最近まで、自分とは無縁な事故と思っていました。
大学時代に運転免許を取得していましたし(当時、ほとんどの若い人は、取得していませんでした)、大学院生の時から50年間近く、ほとんど毎日のように運転していました。
自慢じゃないですが、無事故の優良ドライバーで、ゴールド免許証を長期に渡って持っていたのです。
しかも運転が好きだったので、長距離、例えば盛岡や金沢に旅行するのにも、自分で運転して行きました。
報道で、アクセルとブレーキの踏み間違い事故を見て、『何で踏み間違えるのか信じられん…』などと、まるで全くの人事のようにしていたのです。
踏み間違えた人は、どうして間違えたのか、自分自身が信じられない気持の筈です。
ましてや、高速道路を逆行した本人は、交通事故を起こすまで、自分が逆行している事が分からないのでしょうか…。
そんな事を考えていたら、自分も70歳を既に超えている訳ですから、自動車を運転するのが、急に怖くなってしまったのです。
踏み間違いを『自分も起こしてしまうのではないか…』と思ったりするのです。
今は、都内へ行くのにも、安全第一で、バスと電車です。
車を運転していた時は、踏切でつかえると、『電車がまだ来ないうちから、遮断機を早く閉め過ぎだ!』と内心、腹を立てたりしました。
しかし、何処へ行くにも、電車を利用するようになった現在、もっと電車の運行数を増やして欲しいなどと思うようになりました。
本当に、あまりの自分勝手さに呆れてしまいます…。
同世代の友人もみんな、運転が下手になってしまい、『バンパーをこすりまくりだ…』と苦笑いしています。
自分も若い頃は、あんなにマニュアル車の運転を楽しんでいたのに、この頃は、オートマ車しか運転する気がしません。
しかし、歯科治療だけは、患者さんに励まされながら、出来るだけ頑張りたいと思っています。
スタッフや患者さん達に煽(おだ)てられて、その気にさせられているのです。
また、若いドクターの教育にも、気を入れて、頑張っています。
人生の終盤になって、若い人とのコミュニケーションを、心から楽しんでいるのです。

院長の独り言 273 ; 熱闘!甲子園、どちらも頑張れ!!

毎夏の事ですが、高校球児が甲子園で、熱戦を繰り広げています。
何故、高校野球は人気があるのでしょうか。
高校野球はプロ野球と異なり、純真無垢に思えるからでしょう。
選手は一生懸命プレーするし、応援は汗まみれで必死です。
勝っても、負けても、実に清々(すがすが)しいのです。
私は、一つの目標に向かって、汗を流す若者が大好きなのです。
今年は残念ですが、大震災で国中騒然としています。
正直、甲子園どころではないと思っている人が多いのも、確かでしょう。
特に、大津波や原発事故で大変な被害を被(こうむ)った東北の出場校は、本当に練習不足であったでしょう。
たとえ代表になった学校でも、気の毒ですが、一回戦で殆ど姿を消してしまうものと思っていました。
例年では、どちらかと云うと、関東から西のチームが圧倒的に強いのは、過去のデータが如実に示しています。
ところが今回、驚いた事に、決勝に進出するチームが、青森県代表の光星学院です!
俄然、高校野球の決勝戦を見る気になってきました。
このような気持ちになるのは、久し振りです
別に、小生、青森県出身ではありません。
北海道、東北、関東、北陸、中部、関西、中国、四国、そして、九州地方と、日本を9分割してみると、東北だけが夏の大会も、春の選抜大会も、甲子園での覇者を出していません。
青森、岩手、秋田、宮城、福島の代表で2位になった事は、過去に2回あったようですが、優勝は未だありません。
つい判官贔屓になっていまい、青森の光星学院を応援したくなってしまったと云う訳です。
昨日の夕方、診療の終わった後に、テレビで知ったのですが、決勝戦のもう一方のチームは、西東京代表の日大3高との事。
私の地元の高校です。
私は一体、どちらのチームを応援したらいいのでしょうか。
本気で、どちらにも優勝して貰いたいのです。
本当は無理してでも、決勝戦を見学したいのですが、明日は診療もあるので、多分、テレビの観戦はしないと思います。
と言うより、見る事が出来ない心境です…。
ただただ、両チームの正々堂々、高校生らしい試合を望むだけです。
勝利の女神はどちらに微笑むのか…。

院長の独り言 272 ; 自宅の掃除に明け暮れたお盆休み

7月11日(木)から1週間、お盆休みを兼ねて夏休みを取りました。
1週間も休むので、患者さんには大変な迷惑を掛けるとも考えましたが、節電を兼ねて、休ませて貰う事にしたのです。
ただし、息子を主として、スタッフが順番を決め、急患対策に、ある時間帯のみ、医院で待機する事にしました。
自分としては、この休みに自宅の大掃除をしようと、休む前から決めていたのです。
何しろ現在の家を建てたのが約40年前なので、家中(うちじゅう)、要らない物で一杯になってしまっているのです。
いつかは整理をしなければいけないと思うと、常に頭痛の種でした…。
あるテレビ番組で、掃除の名人が断言していた教訓があります。
『家の中を綺麗に、そして快適に暮らしたかったら、3年間、ホッタラカシにして使用しない物は、躊躇なく処分する!』のが、最大のコツだそうです。
小生、戦争を体験しているので、物を捨てられないで、後生大事に、何でも保管しているのです(本当はメンドクサイからです…)。
今回は、絶対に整理をやり遂げると、家族に宣言しました。
先ず、大学の医局時代から40年間に、溜りに溜った書類の整理を始め、殆ど廃棄してしまいました。
次は、色々な書籍です。
専門分野の医学書を始め、小説、ルポタージュ、百科事典、科学解説書、手塚漫画など、よくぞ、こんなに買ったもんだと呆れるほどの本を、医院の倉庫に運び込みました。
この大量の本は、スタッフの協力の下、整理して図書館でも寄付したいと思っているところです。
本は自宅2階の押入れを、殆ど占領していて、尚且(なおかつ)、部屋にも溢れていたのです。
本を運び出して、あらためて、本の重量の凄さを感じましたが、本の重みで、よくぞ今まで、家が潰れなかったものだと思いもしました。
自宅から殆どの本が消えて、随分、家が身軽になったようです。
そして次に手をつけたのが、写真です。
懐かしい写真が沢山、出てきました。
ここで、ついつい、仕事の手がストップしてしまいます。
独身時代の写真、新婚早々の写真、二人の子供の誕生から幼稚園、小学校と成長していく写真、そして家族旅行の写真を見ながら、家内と当時の思い出話をしていると、仕事が全く進まなくなってしまうのです。
更に、まだ大物が残っていました。
鏡台が二つ、大きな本箱が三つ、箪笥(たんす)が二さお、などなどです。
これらの大物は、整理を始める前から処分するのを、夫婦で決めていたのですが、その中身の整理に、いつになったら入れるのか、心配になってきました。
40年間も住んできた家の整理整頓は、想像以上に大変な仕事であると、身を以って、思い知らされたのです。
皆さんは、自宅の整理整頓をしていますか?

院長の独り言 271 ; 8月15日の今日に、新聞が休刊なの?

本日8月15日は、我が祖国 日本がアメリカに降伏(実際は国体護持、つまり「天皇陛下を中心とした秩序の維持」を条件に提示した有条件降伏)した日です。
1945年、今から66年前の事です。
終戦記念日と言えば聞こえが良いのですが、現実は日本が敗戦した日です。
第二次世界大戦では、無差別爆撃や原子爆弾によって、世界史上、類を見ない戦禍を受けたのです。
運良く助かった人々も、物質的、あるいは精神的に、大きなダメージを受けました。
特に、戦地に出征した多くの軍人さんや看護婦さんは、日本がこの戦争で勝つと信じ、『靖国神社で会おう!』を合言葉に、命を散らしていきました。
その8月15日に、新聞各社が休刊日としたとあって、本当に驚愕しました。
この日こそ、どんな理由があったとしても、戦争について書き記して、犠牲者の鎮魂をして頂きたかったのです。
戦争に勝つ事を夢見て、国民の為に、尊い命を擲(なげう)ち、天に召された魂を鎮める責任が、我々にはあるのです。
戦争責任(戦争を始めた責任なのか、戦争を継続した責任なのか、あるいは、敗戦した責任なのか、不明)を、靖国神社の御霊に意見をするのは、お門違いだと思うのです。
例えば、戦争を始めた責任は、日本のみにあるのでしょうか。
真珠湾攻撃以前に、中国南部で、アメリカ空軍『フライング タイガーズ』と日本軍は戦争を開始していたのです。
戦争の反省と靖国神社に手を合わせに行くのとは、全く話が違うと、小生は思うのです。
特に、東日本大震災が起きた本年、2011年8月15 日は日本史上、忘れられない年であります。
鎮魂しなければ…と思います。
靖国神社に行きたくない人も当然、いるでしょうが、自宅で手を合わせても良いのではないでしょうか。
この特別な日に、新聞が休刊だとは、本当に驚きです。
今日こそ、社を代表する論説委員による、あの戦争についての社説を期待したのですが…。
一寸した事件でも、号外を出すのに…。
不思議ですね。
福島の原発事故も世界中で、議論の的になっています。
全ての新聞社が、戦争について、そして、核について、社運を賭けての大論説を載せるのを、期待していたのです。
戦争や原発、そして核兵器に関して、自分なりの考えはありますが、それぞれの新聞社がどのように考えているのか、8月15日の新聞を楽しみにしていたのです。
今日でも、明日でも、明後日でも、同じようなものだと言う人もいるでしょうが、今日の終戦記念日だからこそ価値があるのと違いますか。

院長の独り言 270 ; 岩手の豊かな稲穂を想いながら、銘酒『酔仙』を偲ぶ

東日本大震災による大津波で、無残にも消滅してしまった陸前高田の銘酒『酔仙』は、岩手を代表する銘酒として、その名を轟かせていました。
お酒の苦手な女性でも、このお酒を一度、口にすると、飲み易くて美味しいと、ファンになってしまうのです。
理由は、ゴクリと飲む喉越しに、何とも云えない清涼感が残るからです。
地元の美味しい水とお米が上手くマッチして生まれたもので、この陸前高田でしか造れない地酒でした。
当然の事ですが、銘酒品評会で、数々の受賞をしています。
なぜ『酔仙』と命名したのかと言えば、『酔うて 仙境に入る』と云う意味だそうです。
前置きはこの位にして、本題に入らせて貰います。
実は、当院受付の山口さんのお父上が、津波で大被害を受けた陸前高田の出身で、故郷の銘酒『酔仙』を大事に保管していたのです。
お父上は、私がかなりの呑み助なのを、娘さんから聞いていたようです。
『もう、二度と酔仙は飲めないかも知れない…』と、自分の為に取っておいた『酔仙』を、快く私にプレゼントして呉れたのです。
津波によって、酔仙酒造は全て流されて、酒蔵が消滅してしまったのです…。
東北地方には、小生、何度も訪ねているのですが、こんな大災害になり、『酔仙』をはじめ、多くの地酒を嗜む事が出来なくなってしまい、ガッカリしていたところです。
お父上から一升瓶の『酔仙』を頂いたので、早速、診療を終えた後、スタッフ一同で、ジックリと味わう事にしました。
この『酔仙』、常温で頂くのがベストかも知れませんが、冷やして頂く事にしました。
熱燗なんかにして飲んだら、艶消しもいいところです…。
全ての診療が終了し、後片付けを終えて、早速、医局に集合です。
飲めるスタッフと一緒に、お酒をガラスのグラスに注いで、乾杯!
コップに注がれた銘酒『酔仙』の色は、薄い琥珀色で、岩手の豊かな稲穂を想起させます。
スタッフ10名の内、男性2人、女性4人がお相伴にあずかりました。
空きっ腹で飲んだので、直ぐに、ほろ酔い機嫌になってしまった小生。
味は、喉越しまろやかで、少々辛口といったところでしょうか。
肴は何も無かったのですが、お酒だけで大いに楽しませて頂きました。
男性のドクターは勿論、女性軍もご機嫌に飲んでいました。
報道によると、この『酔仙』の酒蔵を再建するのは、大変、困難なようです。
酵母菌が全部、流されてしまったからです。
酵母菌は生き物ですから、全く同じものを造り出すのは、至難の業なのです。
多分、口にするのが、最後になるであろう銘酒『酔仙』を、皆で味わいながら何となくしんみりしてします…。
何はともあれ、お父さんも最後の『酔仙』飲みたかったでしょうが、われわれに譲って頂き、本当に有難う御座いました!
もう一度、『酔仙』、飲みたいなぁ~
20110810酔仙 00120110810酔仙 00520110810酔仙 003

院長の独り言 269 ; 花壇で見守って下さいね、カエルウオ君…

今回は、当院3階の待合室で飼っている、小さな観賞魚のお話です。
狭い水槽の中に、カクレクマノミ、デバスズメ、ニセモチノウオ、ヤエヤマカエルウオなど、8種類の海水魚が元気に泳いでいて、患者さんを楽しませています。
今朝、出勤して、餌を与えようと水槽に行ってみると、足下に、何やら黒い塊が落ちています。
何だろうとよく見ると、一番、可愛がっていたヤエヤマカエルウオが転がっていたのです。
もう干乾びて、多分、我々が帰った後に、水槽から飛び出して、死んでしまったのでしょう。
ヤエヤマカエルウオを正面から見ると、その風貌はカエルそっくりです。
横から見るとハゼのようで、やっぱり魚です。
水槽に入れている他の魚は慣れませんが、このカエルウオ君は、実に人懐っこいのです。
普段、水槽の底に沈んでいますが、餌を与えると、尾ヒレを振りながら水面に上がってきます。
大きな目を器用にクリクリ動かして、周りを警戒しながら餌をパクつくのです。
その仕草は本当に可愛く、他の海水魚が無表情なので、対照的に目立ちます。
慣れていたヤエヤマカエルウオが死んでしまったので、残念でなりません。
何で飛び降り自殺したのでしょうか。
小生だけではなく、患者さんの中にも、この海水魚が好きな人もいるので、新しいカエルウオを早急に迎えようと考えているのですが…。
迎えたとしても、折角、懐いていたカエルウオ君とは違うので、本当にガッカリしています。
話は変わりますが、一緒の水槽に入れているカクレクマノミは、ディズニーのアニメ映画でおなじみの『ニモ』です。
テレビでは剽軽(ひょうきん)で、愛らしく紹介されていますが、実際、飼ってみると、気が強くて、かなり獰猛(どうもう)です。
弱っている魚を見付けると、集団で襲いかかって食べてしまいます。
もしかすると、カエルウオ君もニモに襲われて、水槽から飛び出てしまったのでしょうか。
ちなみに、干乾びたカエルウオ君は、当院の花壇に埋めてあげました。
いつも花が咲いていて綺麗ですし、患者さんが沢山、通るので、寂しくないでしょうから…。

参照写真;カエルウオの仲間
カエルウオ

院長の独り言 268 ; いまの日本で起きている事は、すべて戦国時代に起きている

今から500年前の室町時代末期、政治的にも、経済的にも、日本国中が末期症状を呈し、人心は乱れに乱れ、結果、必然的に戦国時代に突入して行ったのは皆さんご存知の通りです。
戦国時代は群雄割拠。
誰がどのように各地を統治していくのか、混沌としていた時です。
何となく現代の日本に類似している気がしますが…。
武田信玄は、言わずと知れた甲斐(今の山梨県)生まれの戦国武将です。
51才で死没していますが、もし仮に70歳まで生きていたら、乱世を治め、天下を統一したのは信長、秀吉、家康では無く、信玄ではないかとも云われています。
理由は、信玄は人材を育てる名人だからです。
あの戦い上手の信長は、戦(いくさ)の勝率が約80%だったのに対して、信玄のそれは96%と驚異的な勝率です。
信玄の有名な格言は沢山ありますが、『人は城 人は人垣 人は堀 情けは味方 仇(かたき)は敵なり』など、組織運営に纏(まつ)わる箴言を多く残しています。
前半では、組織の根幹は人材であると云っています。
そして後半は、親身になって面倒をみれば、人心を繋(つな)ぎ、逆に、仇(かたき)が多いほど、失敗するという事です。
信長は桶狭間の戦いなどに見られるように、戦術に、天才的に長(た)けていました。
しかし信長は元来、気性が荒く、結果、その家来に殺されてしまうのです。
結局、愛情を以って、人を育てる事が、組織運営に不可欠であると言う事です。
厳しく教え導いても、愛情の裏付けがあれば、必ず人材は育つものです。
信玄は、それは、それは怖い大将であったと言われていますが、家来本人だけでなく、その家族についても、常に気を配っていたと、伝えられています。
有能で、忠実な家臣を多く育てた結果、戦に連戦連勝。
『甲斐に虎あり』と信玄は恐れられていました。
前述したように、信玄がもう少し長生きしていれば、天下を取っていた確率が高かったのではないでしょうか。
260年間、続いた徳川幕府の祖 徳川家康も、信玄に大敗を喫したひとりです。
三方ヶ原合戦では、武田軍に完全に打ちのめされてしまい、退却中、恐怖のあまり、馬上で脱糞したと伝えられています。
しかし家康は、その信玄を生涯、尊敬しました。
さらに、信長に滅ぼされた武田家の家臣を、徳川家に招いたりもしたのです。
まさしく、『情けは味方 仇(かたき)は敵なり』ですね。
バブルが弾けて以来、今回の大震災にも遭い、日本丸は沈みそうです。
武田一族が証明しているように、国の存亡は優秀な人材次第です。
継続的に若い人材を育てて行く事が、国の存続上、如何に大切かを、信玄は教えてくれます。
もう経済的な物差しで、すべてを測るのは止めにして、若い人を育てようではありませんか。
今、日本の大人に一番、足りないのは、人を育てる事です。

院長の独り言 267 ; 人生で初めて救急車で運ばれた、あの日

私の人生で初めて、救急車のお世話になった話を、3月20日のブログ『院長の独り言 204 ; 人生で初めて、救急車で運ばれました…』で書きました。
その時は、東北大震災の直後。
その凄まじい惨状にショックを受けて、体調が狂ったのだと、当時、勝手に思い込んでいました。
あの時は、救急隊員をはじめ、患者さん、石川歯科のスタッフ、そして家族に、自分が体調管理を怠った為に、大変な迷惑を掛けてしまったのです。
しかし、あれから4ヶ月経過した現在、改めて冷静に考えてみると、ストレスだけが原因で、倒れたのではないと、思うようになったのです。
倒れた日は、3月11日(金)の翌日である12日(土)夕方、仕事を終えて帰宅した直後だったのです。
その日は、朝からいつもと様子が違って、身体が大変、怠(だる)く、起き上がるのも辛かったのです。
前日は、ご存知のように、あの大震災です。
各種の報道で、あの悲惨な大津波の映像を目の当たりにし、気が動転し、精神的に少し参ってしまったのではないかと思っていました。
小生、普段は朝の目覚めが大変、良い方で、あの311の前日も、朝食を美味しく食べられていたのに、12日の朝は、全く食欲がありません。
仕事が仕事なので、清潔が第一、毎朝、お風呂に入り、シャワーで全身を洗う事にしているのですが、その気も起きません。
それでも何とか気合いを入れて、お風呂に入ったのですが、とうとう眩暈(めまい)が起きたので、直ぐ上がったのです。
本当に怠(だる)くて、怠くて、思わず、ソファに倒れ込んでしまいました。
『どうしたの?顔色が真っ青だけど…』と、家内は心配そうです。
暫く横になって休んでいたところ、怠さも改善してきたので、暖かい日本茶を飲んで、病院に出勤したのです。
病院のある八王子市八日町は、計画停電の第2グループであったので、午前中は治療したくても、電気が止められて治療が出来ません。
午後からは、治療が可能でしたが、その頃には小生、吐き気がして、気持ちが悪く、治療を殆どすることが出来ず、本来、自分が診なければならない患者さんを息子に任せて、医局で寝ていたのです。
夕方、早めに帰宅させてもらうと、ソファでひと休みし、落ち着いたところで、お風呂に入った途端、卒倒してしまいました。
この時点では、福島の原発事故についての報道が少しはありましたが、大津波による惨状が余りにも酷すぎて、トップ記事ではありませんでした。
いつ、どのくらいの量で、どの範囲に、放射性物質が飛散したのか、正しい報道は無かったのです。
ところが、あれから数ヶ月経った現在、政府発表では、あの3月11日に福島第一原発が爆発し、同時に天文学的な量の放射性物質が拡散していたのです。
それも東北を中心に、かなり遠方まで飛散していた事実を公表したのでした。
家族やスタッフは、私のように、身体の不調を訴えなかったのですが、小生は放射能に感受性が高かったのかも知れません。
開業して40年間、体調を崩して休診したのは、ただの一度も無かったのです。
その私が体調を崩した本当の原因は、水素爆発によって漏れ出た放射性物質を浴びた事によるのではないかと、勝手に推測しています。
あの3月11日と12日に、想像以上に遠くまで、放射性物質が飛んだのではないかと、専門家が解説していました。
その後、人体に影響が無いほどに、放射性物質は減少したとの事です。
水素爆発した日に、大量の放射性物質が飛散した事を、当時、政府や東電は把握していたと、後(のち)の報道で明らかになっています。
何故、その時すぐに、放射能漏れを国民に教えて呉れなかったのでしょうか。
正しく発表していれば、福島原発付近の住民は放射能を浴びずに済んだでしょうし、家畜も、放射能に汚染された藁を食べずに済んだのではないでしょうか。
小生の事はどうでも良いのですが、関東、東北のお子さん達が、本当に心配です。

院長の独り言 266 ; 恒例のホタル観賞会

毎年恒例のホタル狩りをしに、高尾山の麓にある割烹『うかい竹亭』へ、スタッフ一同で出掛けて来ました。
今年の前期に、一生懸命、仕事を頑張ったお疲れ様会と云うか、ご褒美会です。
ホタルを鑑賞できる期間は本当に短いし、おまけに、このホタル観賞付きの催し物は大変、人気があるので、随分、前から予約しなければなりません。
従って、その日の天気は運次第になります。
当日の7月30日(土)、いつもより早く、午後5時に仕事を終えた後、高尾山を目指して甲州街道を下るのですが、その日は生憎、朝からの雨模様です。
天気予報では夕方からは大雨との事です。
今年は残念ながら、大雨に災いされて、ホタルを見る事が出来ないのではないかと、半分、諦(あきら)めていました。
ところが、うかい竹亭に着く頃になると、雲に切れ目が見えるようになってきたのです。
雨粒も殆ど落ちてきません。
嬉しいのですが、大雨予報は外れたのでしょうか。
お昼のニュースでは、新潟方面は、川が氾濫していて、大災害の様相です。
その大雨を齎(もたら)している雲が、関東に南下してくる筈なのですが…。
このまま宴会が終わる午後8時過ぎまで、何とか雨が降らないで欲しいと、本気で願ったのでした。
うかい竹亭には、毎年、結構、お世話になっており、仲居さんとも顔見知りの人がいるので、居心地が良く、お酒が飲めるといったところです。
大雨にならなければ、こんなラッキーな事はありません。
ワイワイと話が盛り上がり、時間の経つのも忘れているうちに、窓の外は、もう真っ暗になってきました。
突然、部屋の明かりがパッと消えて、それこそ料理も、隣のスタッフの顔も、全く見えないくらいの暗闇になったのです。
意表を憑かれた女性軍の何人かは、『キャッ』と悲鳴を上げました。
ホタルの観賞タイムなのです。
線香花火を持ってきた仲居さんに、『窓を開けて庭に出て、ホタルを見て下さい』と促された我々は、漆黒の闇の中を小さく照らすホタルに、歓声を上げたのです。
暗闇に目が慣れてくると、木の茂みや庭石の上を、優雅に飛んでいる光りの点滅が幾つも見えてきました。
思い出すに、私が小学生の頃には、東京の公園でも、ホタルを観察出来ような気がします。
若いスタッフ達が喜んでいるのを見て、本当に雨が降らなくてよかったと胸を撫で下ろした次第です。
照明が点くと、今度は線香花火です。
縁側で花火を楽しむスタッフの後ろ姿を眺めつつ、熱燗をグイッ!
また明日から頑張りたいと思いました。

院長の独り言 265 ; 夏の長雨と不作

あの妙な軌道を描いた台風6号の通過を境に、急に過ごし易い日々が続いています。
台風の来る前日までは、マスコミ報道で、毎日のように『熱中症に注意!』と報道していました。
ところが、これからが夏本番の筈なのに、何となく梅雨の様な、秋の様な、変な天気なのです。
数日前から、韓国では大洪水になり、大被害が出ているようです。
そして今、日本の北陸地方では、豪雨騒ぎです。
気圧配置を見ると、暫く局地的に、大雨が降るようで、特に災害地の人は大災難です…。
大震災といい、大洪水といい、今年の日本列島は、自然の猛威に翻弄(ほんろう)されています。
このまま秋になってしまうと、お米の出来も心配になってきます。
ひと月前のブログでは、『日照りに不作なし』などと、日本の灌漑設備の素晴らしさを自慢して、必ず大豊作のなると書いていたのに(院長の独り言 258 ; 『日照りに不作なし』)、たったひと月で、この変わり様…。
トンデモナイ事になりそうです。
『女心(失礼)と秋の空は当てにならない』と例えられるほど、『秋の空』は、急変する代名詞ですが、豊作が不作にならなければ良いのですが。
本来は、一年中で一番、暑い夏本番なのです。
今から秋梅雨(あきつゆ)になってしまうと、お米が不作になる可能性も出てきました。
来週から、通年のように、暑い、暑い夏に戻って欲しいと、願わざるを得ません。
昨日は、午前の診療が終わり、医局でお昼のNHKニュースを見ていると、ヘリコプターが、新潟の信濃川上空を写しています。
信濃川に架かっている臼井橋と小須戸橋の冠水している映像が、映し出されていました。
橋上の乗用車の屋根だけが、見えています。
すでに、信濃川が一部で決壊して、加茂市の田畑や住宅が広い範囲に渡って冠水しています。
川より、住宅密集地の標高が低いので、このまま氾濫が続いたら、大変な被害になる事、間違いありません。
お米の本場、新潟で、コシヒカリが不作になってしまったら、それこそ大変な事。
幸か、不幸か、為替は円高です。
今のうちに、小麦や大豆など農作物を出来るだけ沢山、輸入すべきではないでしょうか。
勿論、石油や天然ガスなども輸入するように、検討すべきというより、即刻、実行すべきではないでしょうか。
モタモタしていると、円安に振れてしまい、折角のチャンスを逃す事になりますよ。
万が一、お米が不作になっても、今から手当てをしておけば、慌てる事ないのです。

院長の独り言 264 ; 植物の生命の尽きるとき

自宅2階の廊下に、白い蘭(ラン)と桃色のシクラメン、青々と葉の生い茂ったセントポーリア(真冬は深紅)の鉢植えが置いてあります。
家の南側が道路なので、前に遮(さえぎ)るものが無い2階の廊下は、陽の光がたっぷり注ぎ込んできます。
毎朝、起床すると、植木鉢に水を注(さ)しているので、これら3種類の植物は生き生きとしています。
そして1週間に1回、栄養素を与えています。
ところが、うっかり2〜3日間、水をあげるのを忘れてしまうと、花も、葉も、グッタリと萎(な)えてしまうのです。
何しろ、鉢が小さい事もあって、与えている水の量は1日分が、丁度、良い塩梅なのです。
コップにたっぷりと水を入れて、各々1杯ずつ、3つの鉢に注ぐのですが、不思議な事に、一滴の水も、鉢底の穴から漏れ落ちる事はありません。
自分としては、鉢から水が漏れないのが当たり前だと思って、いつも何も考えずに水を入れていました。
しかし、良く考えてみると、たかだか15センチ程度の高さと直径12〜3センチの小振りの鉢ですから、勢いよく水を流し込んでいると、鉢底から、水が当然、出てきそうなものです。
それを証明する事件がある日、起こりました。
鉢に注いだ水が、底の穴から流れ出てきたのです。
5月中旬に、冬の花シクラメンの寿命が尽きたのか、シクラメンが急激に弱ってきました。
桃色の花が、どんどん枯れて、廊下に落ちるようになってきたのです。
葉っぱの色も茶色く変わってしまい、茎もピンと立たなくなり、葉の重みに堪え兼ねてお辞儀をしています。
シクラメンを元気付けようと、栄養素入りの水を多目に与えました。
他の2種類の植木にも、同じように、栄養素入りの水を注いでいたのは、勿論の事です。
枯れかかったシクラメン、そして元気な蘭(ラン)とセントポーリアも、6月の末までは朝、水を鉢に、十分に入れても、鉢の底からは水は漏れてきませんでした。
ところが、7月に入ったある朝、いつものように、3つの鉢に水を与えたところ、真ん中にあるシクラメンの鉢の底から、勢いよく水が出てきたのです…。
結果、廊下一面が、水浸しになってしまったのでした。
何事が起きたのかと思いました。
その時ハッキリと、シクラメンの命が尽きたと私は確信したのです。
元気な蘭とセントポーリアの鉢底からは、水が一滴も出てきません。
生きている時と命が尽きた時の思わぬ違いを知って、暫(しばら)く濡れている廊下を拭く事も忘れ、呆然と、その光景をしばし見ていたのでした。
われわれ動物と違い、動く事が出来ない植物の、水を吸い取る、恐るべき能力をあらためて実感しました。
と同時に、命が亡くなった時の儚(はかな)さを、こんな形で思い知らされるとは…。
川上に木々が存在しないで、少し強く雨が降れば、川下は簡単に洪水になって、人間界に被害が及ぶ事を実感出来たのです。
三つの小さな植木から、緑の大切さを学んだのでした。

院長の独り言 263 ; 蝉の鳴かない夏…

ネットサーフィンをしていたら、今年は日本各地で、蝉(せみ)が全く鳴かないと載っていました。
昔から、蝉の鳴かない年には大きな天変地異、特に大地震が起きると言われているのです。
アブラ蝉は7年間も地中で生活しているので、地下の異変を感知するのでしょうか。
宝栄の大地震の起きた1707年10月(江戸時代中頃)の夏には、全くと云っていいほど、蝉の声が聞こえなかったそうです。
この年は、富士山も大爆発して、農作物に多大の被害が出たのです。
『前年は、蝉の大合唱で五月蝿(うるさ)いくらいだったのに、今年は蝉の声が全く聞こえず、逆に寂しい夏だ』と、古い記録に残っているのです。
1923年の関東大震災と1995年の阪神大震災の夏にも、蝉の声はトンと聞こえずに、あの大地震が起こったそうです。
今年は特に暑い東京ですが、蝉の声が聞こえないと皆さんおっしゃいます。
先日、家族で銀座に行ったついでに、日比谷公園をグルリと回ったのです。
車窓を開けていたのですが、青々と茂った木々の間から、蝉の声が結構、聞こえてきました。
『蝉が鳴いているじゃないか!』
去年よりは遠慮勝ちだけれど、確かに蝉が鳴いています。
古来からの言い伝えを信用すれば、どうやら東京には、大震災は無さそうで、ホッとひと安心。
久し振りの『銀ブラ』ついでに、日比谷や霞が関まで足を延ばしたのです。
それにしても、日比谷公園近辺の官庁街は、綺麗に整備されていているのでビックリしました。
ロンドンやパリよりも全く上手(うわて)をいっていて、私が学生の頃、安保闘争でデモをしていた当時を思い出すと、そのあまりの違いに、日本も随分、進化したものだと感無量です。
こんな素晴らしい環境の中で、国会議員の先生や官僚の方々は仕事をしているのですから、日本国民の為に、是非、頑張って貰いたいものです。
国民の血税を使って、官庁街を整備しているのですから、本当にお願いします。
小学生の頃、日比谷公園に友達と一緒に、蝉やトンボを採りによく来た事が、走馬灯のように頭の中を巡ったのでした。

院長の独り言 262 ; 久し振りの銀ブラ

今週の日曜日に、久し振りに、家族で『銀ブラ』と洒落込みました。
半年前に息子と一緒に、銀座『松屋』前にあるアップルストアに、デスクトップのパソコンを買いに行ったのですが、その時は目当ての商品を買ったら直ぐに、自宅へ帰宅しただけでした。
朝、目を覚ますと、真夏にしては心地の良いそよ風が吹いていて、そんなに暑くも無いので、何となく、何処かへ外出したくなったのです。
奥多摩にでも行って、緑を楽しんでみようかとも思ったのですが、どうせ外出するなら、久し振りに銀座でもブラついてみようか!となったのです。
奥多摩と銀座では自然と都市で、あまりに正反対の目的地。
思い付きとは云え、本当にいい加減な予定の立て方で、我ながら笑ってしまいます…。
自然を楽しむのは次の機会に譲って、銀座をブラつき、東京を楽しもうと意見が一致したのです。
午前中に急いで、書類の整理などを済ませて、午後1時過ぎに車で出発。
中央道は日曜日と云うこともあって、上下とも少し混んでいましたが、無事に銀座に着く事が出来ました。
ところが銀座に到着してみると、日曜日なので、銀座4丁目を中心に、歩行者天国だったのです。
その事をスッカリ忘れていました…。
歩道も、車道も、ひと、ひと、ひとで、溢(あふ)れ返っています。
当然ですが、駐車する場所がありません。
日比谷辺りから新橋、築地と、街をぐるぐる回って、駐車場を必死に探したのですが、どうしても見つかりません。
折角、銀座まで来たのに、残念ですが、止むを得ず、帰る事にしたのです。
ところが、銀座7丁目の角を曲がって、首都高速に向かおうとした時、目の前にあったコインパーキングが一つ空いているではありませんか。
一瞬、錯覚ではないかと、眼を擦ってよ~く見たのですが、間違いなく空いていたのです!
こんな嘘みたいな幸運に恵まれて、目的通り『銀ブラ』する事が出来、つい皆さんに報告したくなったのでした。
歩行者天国ですから、ワザと車道の真ん中を歩きます。
松屋とアップルストアの前を通り抜ける頃には、お腹がグーグー騒ぎ出したのです。
すると丁度、中華料理の銀座アスターが目の前。
ここも運よく、予約なしで、席が取れたのです。
女性軍は紹興酒を、私は生ビール。
結構、歩いたので、喉が渇き、生き返った感じです。
気の毒ですが、息子は運転手。
ノンアルコールビールで我慢して貰いました。
老若男女、外人さんなど沢山の人出には、本当にビックリしましたが、天気も良く、久し振りの『銀ブラ』。
英気を養う事が出来た一日でした。

院長の独り言 261 ; スカイツリーと五重塔

世界一、ノッポの電波塔が話題になっています。
いよいよ来年5月に一般公開される、高さ634メートルの東京スカイツリーの事です。
着工当時から注目の的で、東京タワーの高さを抜いた時は、マスコミに大いに騒がれました。
とうとう、上海にあるテレビ塔を凌駕(りょうが)して、世界一の高さの電波塔になったと云っては、話題になっていました。
この塔が完成するまでは、我が国では、電波塔と云えば東京タワーでした。
東京タワーは長い間、東京のシンボルで、観光名所だったのは、皆さんご存知の通りです。
全くの数合わせ、333メートルの高さを誇り、展望台からは都内全域を見下せます。
東京湾は当然として、晴れた日は遠く富士山まで、良く見る事が出来ます。
東京に初めて観光に訪れた人で、この塔に登らない人は、まずいなかったでしょう。
東京タワーが完成した1958年当時、東京の景色は今とは全く違っていて、大げさに言えば、真っ平らといった風情でした。
今となっては、日常の光景としか思えないでしょうが、超高層ビルなど皆無でした。
今で言う建築基準法で、ビルの高さは31メートルと制限されていたのです。
私もよく覚えていますが、東京タワーに遅れること5年後、1963年、霞ヶ関に日本で初めての超高層ビルが建った時は、東京タワーの時も驚きましたが、違った意味で、本当にビックリしました。
高さは147メートルと、高さが東京タワーより低いのですが、東京タワーは建物と言うより、鉄塔を大きく高くした感じです。
ところが、この霞ヶ関ビルは、映画で見るニューヨークの超高層ビルを彷彿させたから驚いたのです。
その後、東京では、副都心新宿を中心に、超高層ビルが雨後のタケノコのように出現してきました。
40階を超えるマンションも珍しくありません。
その結果、東京タワーから発する電波が、超高層ビルに遮断されてしまい、東京タワーは集約電波塔として、要を為さなくなってきたのです。
止むを得ず、東京タワーに変わる新しい電波塔が、必要になってしまった訳です。
東京スカイツリーはあまりに高い電波塔なので、もし大地震が東京に発生したら、倒壊しないのか、大変、心配はされていました。
3月11日の東日本大震災の時、殆ど完成している東京スカイツリーの、高さ600メートル付近で作業をしていた鳶(とび)の人達の話によると、凄く揺(ゆ)れたのは当然ですが、その揺れは半端でなく、左右に最大6メートル揺れたとの事…。
タワーが弓なりになり、大袈裟でなく、地上に振り落とされるのではないかと、必死に鉄柱にしがみ付いて、難を逃れ、皆生きた心地がしなかったそうです。
ところが、揺れが激しかったのは事実ですが、地震の後に、塔全体を細部にわたり検査したところ、故障箇所が全く見つからなかったそうです。
話は変わりますが、法隆寺の五重塔をはじめ、古来から千棟以上も建てられている五重塔が、なぜ大地震でも倒壊しないのか、不思議がられていました。
五重塔の周りに存在している本堂や宝物殿などは崩壊しているのに、五重塔は倒れません。
建築の専門家によると、五重塔の真ん中には、浮いた心柱(しんばしら)があるのだそうです。
要するに、心柱は一番上の天井から吊るされていて、土台にはくっ付いていないで、浮いている状態なのです。
この心柱が、地震の揺れ方向と、反対に揺れ、地震の揺れを吸収し、五重塔は倒壊しないのです。
東京スカイツリーは、その理論を応用しているのだそうです。
五重塔のように、心柱を持った建築物は、日本独特のもので、世界には例がありません。
五重塔の幾つかは、戦火や放火などの火事によって、消失していますが、地震で倒壊した事は無いのですから、東京スカイツリーが大地震の犠牲になる事はあり得ないのです。
古きを温(たず)ねて 新しきを知る…

院長の独り言 260 ; 台風6号の不思議な進路

7月20日(水曜日)の朝。
大型の台風6号が、日本列島に接近中!
すでに、四国に上陸したとの事。
朝起きたら、何となく台風が来そうな空模様ですが、雨は降っていないし、風も吹いていません。
ネットの天気図を見ていると、この台風6号の進路は、今まで見た事も無いような、妙な動きなのです…。
まず四国にぶち当たった後、直角に曲がります。
そして太平洋に出て、今度は紀伊半島をかすめ、東海沖をユックリと東に向かって進行しています。
気象庁は、この台風は超大型で、しかも日本列島を直撃すると、2~3日前から発表していました。
四国は勿論、一般的な台風コースに当たる関西地方、東海地方、そして関東地方は、特に注意するように…と呼びかけていたのです。
7月に発生する従来の台風ですと、四国沖から上陸した後は、少しずつ東にコースを曲げて、琵琶湖方面に向かいます。
そして、一旦、日本海に出て、東北地方に再上陸すると云ったパターンがお決まりで、簡単に言えば、緩(ゆる)い放物線を描きます。
今回の台風も、いつもの放物線を描いて進んで来るなら、超大型なので、東京でも、かなりの被害が出そうな嫌な感じでした。
水曜日から木曜日に掛けて、雨風(あめかぜ)が凄まじくなり、久しぶりに雨戸をキッチリと閉め、防御しなければならないのかと緊張していました。
子供の時分に、『キティ台風』と云う、関東地方に大被害を齎(もたら)した台風に遭遇した苦い経験を持っているので、台風が直撃すると云うと、今でも、つい緊張してしまうのです。
ところが、水曜日に、診療所に向かう車から外を見ていると、八王子は殆ど風も吹かず、雨脚もたいした事ありません。
昼頃には、薄日も射してきました。
患者さんと顔を見合わせながら、『予報と違って、たいした事になりそうもないね…』と、ホッとしていたのです。
テレビの天気予報を見ると、台風の進路予測は益々、太平洋に向かって、逆戻りの様相を呈しているのです。
夕方、診療を終えて、スタッフみんなで『ビアガーデンに行って、暑気払いでもしようか!』と冗談が出るほど、雨風は弱く、台風が遠ざかってしまったようです。
地図上で、太平洋を登って来て、日本列島に上陸した途端、今度は、太平洋に逆戻りしていった不思議な台風6号。
多分、これ以上、日本列島に被害をもたらさないでしょう。

院長の独り言 259 ; 日本の女性は、本当に強いですね!

まさかのなでしこジャパン、世界一!!
あの大きな相手を向こうに回して、互角に戦い、体格の差を見事に克服しての優勝は、素晴らしいのひと言です。
その試合の成り行きに、ハラハラドキドキのしっ放しで、勝利した後、グッタリしてしまいました…。
早朝から、テレビ画面を必死に観ていた小生。
1点リードされてしまい、もう駄目かと思ってガッカリしていたら、奇跡の同点!
女子軍団は、本当にたいしたものです。
何とか延長戦に持ち込んで呉れて、ホッと一息。
何時もはグーグー、夢の中の時間帯ですが、今日ばかりは、睡魔などは何処かに吹き飛んでしまったのです。
そして運命の延長戦が始まったのですが、大きなアメリカ人選手を見ていると、日本人選手があまりにもか弱く見えてしまい、ここまでよく頑張ったと、内心慰めの言葉を送っていたのでした。
スーパーコンピューターは毅然として、何が何でも世界一を取り返したけれど、なでしこジャパンには『2位で充分、良くやった!お疲れさん…』と、試合が終わる前から、勝手にひとりごちる始末。
延長戦に入り、またまたアメリカに先行されてしまい、『最早(もはや)これまで…』と、テレビ画面を正視出来ません。
残念だけど、日本の負けを覚悟して、一度はテレビを消してしまい、心の中で『しかし良くやったもんだ!ナデシコは…』と思いつつ、再び布団の中に入った私でしたが、頭が異常に興奮していて寝付く事が出来ません。
布団から起き上がって、恐る恐るテレビを点(つ)けて、目を細め、画面のスコアーを覗いてみると、なんと2対2の同点になっているではないですか!
ここからは俄然、応援にも気合が入ってきたのです(小生が気合を入れても始まらないのですが…)。
我ながら自分の『現金さ』に呆れるほどです。
そんな訳で、同点の劇的場面は、残念ながらライブでは観戦する事が出来ませんでしたが、そんな事はもうどうでも良い事で、その後は『頑張れ!頑張れ!』と必死に応援しまくりです。
何とかPK戦に持ち込む展開になり、ここまで来たら、何が何でも『優勝』のふた文字を心の底から願ったのでした。
結果は皆さんご存知の如く、日本女子は、FIFAサッカーワールドカップで見事、初優勝し、世界の頂点に上り詰めたのでした。
4年に1回の、女子W杯での優勝!
なでしこジャパンの女子軍団、本当に素晴らしかったですね。
心より『おめでとう!』を言わせて貰います。
ところで、小生が女子W杯を観戦していて一番、感じたのは、どんなに強いチームでも、守りに入ると負けに繋(つな)がってしまうと云う事でした。
アメリカは2回、守りに入ってしまい、結果として、その守りの姿勢が敗因になった気がしてなりません。
昔から言われているように、『攻撃は最大の防御である』を、あらためて実感したゲームでした。
なでしこジャパンの皆さま、優勝、本当におめでとう御座います。
そして、大震災でシュンとしてしまっている日本を、元気付けて呉れたなでしこジャパン、御苦労さまでした。

院長の独り言 258 ; 日照りに不作なし

『日照りに不作なし』とよく言われている事に、一寸、違和感を感じますが、本当の事です。
雨が降らないと、米でも、野菜でも、成長しないで枯れてしまう気がします。
今年のように7月に入ってから、日本全国、毎日の猛暑が続いていると、お米が不作になるのではないかと正直、心配してしまいます。
ところが、雨がシトシトと降り、日照りの正反対の冷夏こそ、お米は不作になってしまうのです。
もう30年も前になってしまったので、殆ど話題にもなりませんが、フィリピンのピナツボ火山が噴火した年の事です。
噴火の影響で、酷(ひど)い冷夏になり、その年の秋以降、お米屋さんから国産米が見事に姿を消してしまい、勿論、スーパーマーケットでも、国産米にお目にかかるのが出来なくなってしまったくらい、大不作になってしまったのです。
代わりに、高齢の方はご存知と思いますが、『タイ米』が売られていたのです。
タイ米はジャポニカ種より、かなり細身のインディカ種で、パサパサしていて、われわれ日本人のように、箸を使って、おかずと別々に食べる食習慣を持つ者にとっては、あまり旨いとは感じられないお米でした。
その年の後半、急にパンを食べる人が増えたと言われたのを覚えています。
ただし、このタイ米、カレーライスとして食べると、結構、美味しいのです。
タイでは、長い伝統と云うか習慣として、お米を素手で食べています。
ジャポニカ種のように、少々、粘り気のあるお米は、日本では良くても、タイでは不向きなのでしょう。
食にもグローバリゼーションが進む昨今、タイでも、素手でご飯を食べる人は少なくなってきているでしょうし、甘みある日本産のお米の人気が出て来るのも、時間の問題でしょうか。
何故、『日照りに不作なし』なのか、種明かしをすれば簡単なのです。
昔はやはり、日照りで、雨量が少なければ、お米などの農作物は、不作だったのでしょう。
ところが、現在の日本は、あらゆる田畑において、灌漑が完璧に設備されています。
灌漑のお陰で、水の供給に関しては全く心配がない訳です。
唯一、農作物の出来不出来に、決定的な影響を与えるのが、太陽と云う事になるのです。
いくら水が充分に足りていても、太陽からのエネルギーが不足してしまうと、お米や野菜が育たなくなってしまいます。
今年のように、毎日のカンカン照りの夏であれば、嬉しい事に、お米の大豊作は間違いないでしょう。
ただし、大きな台風が日本列島を直撃した時が心配です。
そうならない様に願いたいですね…。
アメリカ、ロシア、フランス、オーストラリアそしてブラジルなどの農業大国は、食料を輸出するほどに収穫出来るのです。
何処の国でも、自前で食べて行ける程の主食が収穫出来れば、国民の心に余裕が生まれます。
せめて我が国も、主食であるお米くらいは、余る程に生産すべきではないでしょうか。
全国民が充分、満足する程のお米が、一年中、日本の米蔵(こめぐら)に入っていれば、こんな安心出来る事はありません。

院長の独り言 257 ; 暑い夏の過ごし方

先日、書いたブログのオサライです。
子供の頃、何処の家でも、夏の暑さ対策として、窓と云う窓をすべて全開にして簾(すだれ)を垂らし、自然の風で涼を取っていたと書きました(院長の独り言 253 ; 節電の夏、到来)。
冷房という、シャレた製品が、この世に無かったからです。
今からでは考えられないほど、不格好な、飛行機のプロペラのような扇風機が精々、回ってくれれば、御の字と云った所でした。
ところが今夏、福島原発事故によって、電力不足になり、その節電対策として、この簾が復活したそうです。
スーパーの家具売り場で、去年まで、ひと夏で二つか三つ売れれば良かった簾が、今夏は売り切れ続出だそうです。
半世紀、時代を逆行してしまったのです。
流石に物騒な昨今、道路に面している1階での使用は殆ど無いようで、2階以上では、簾は重宝されているとテレビ番組のリポーターが言っていました。
電気の使用を節約するのは今時、当然です。
原発事故に関係なく、節電は良い事です。
しかし、名古屋大学のある准教授の話によると、日本の電力供給量はそんなに節約しなくとも、われわれ国民が今まで通りに使用していて、全く電力不足など起こらないほどに余裕があると、あるテレビ番組で言っていました。
もし我々が、今夏、普通に例年通り、エアコンを使用していても大丈夫ならば、こんなにハッピーな事はありません。
話は変わりますが、本音で言えば、私は年少の頃から、暑い夏が大好きでした。
小、中学生の頃は、夏休みは毎日のようにプールに通い、雨の日はガッカリしていたものです。
大人になってからも、猛暑の仕事帰り、ビヤホールでの生ビール一杯は、本当に加山雄三ではないけれど、『幸せだなぁ〜』と言ったところです。
一年中で一番、苦手な季節は、真冬の、骨の芯まで冷えてしまう2月です。
私は案外、暑い日は、そう苦手ではありません。
小さい頃から、夏は暑いものと思っていましたから…。
暑い季節だからこそ、カキ氷や冷えたスイカが美味しく感じるのだと思います。
日本は春夏秋冬があって、本当に幸せだなぁ~。

院長の独り言 256 ; 蒸し暑い日には、抹茶で元気回復を

いよいよ暑さのピーク、夏本番。
東京は、朝から30度に向かって、うなぎ上りと言ったところです。
汗が吹き出るくらいなので、身体から水分が蒸発してしまい、血液はドロドロ状態でしょう。
当院のスタッフが茶道の稽古を受けている、阿部治子先生は『石川先生の血はドロドロだそうだから、夏は、これを毎日、飲むのが一番よ!』と、濃い抹茶を、わざわざ冷やして持ってきてくれたのです(院長の独り言 224 ; 日々の生活に新しい発見を…)。
阿部先生曰く、『抹茶は血の流れを良くする』そうです。
抹茶の方が煎茶より、毎日、飲むと、身体を元気付けてくれるとの事。
実際、毎日、抹茶を飲んでいる阿部先生は、実にお元気です。
現在、阿部先生は、当院に通院中。
いつも治療を開始する前に、阿部先生からお茶の話を伺います。
例えば、『お茶の歴史』や『三千家の話』。
また、抹茶には『濃い』、『薄い』と云った飲み方があるとか、『抹茶の効用』などなど、面白い話を伺っているのです。
時には治療の時間より、先生とお茶の話をする時間の方が、長い場合もある位です。
本日のように暑い上に、湿気が強く、空気が淀んでネットリとした日は、患者さんの体調が悪くなる事があります。
一応、猛暑の脱水症状対策に、冷たいお茶を用意していますが、万が一、患者さんの体調が悪くなった場合は、他にも、それなりの対応策を用意しているのです。
寒い冬には、患者さんの要望によって、暖かいお茶を出すようにしています。
また他に、砂糖入りのコーヒーや飴などを置いておりますし、万が一の為に、AED(Automated External Defibrillator;自動体外式除細動器)や、エピネフリンなどの救急医薬品も、怠りなくシッカリと用意しています。
話を『お茶』に戻しますが、煎茶に比べて、抹茶は、その濃い緑色の割に、甘みがあって、老若男女、誰でも口に合うものです。
先日、京都の金閣寺で抹茶を頂いた時、小学校低学年と思(おぼ)しきチビさん達も、喜んで抹茶を飲んでいました。
もしかすると、あれは、抹茶と一緒に付いていたお菓子目当てだったのでしょうか…。
お抹茶

院長の独り言 255 ; 鳩事件、勃発!

毎月第2土曜日は、小生、72歳の高齢者と云う事で、スタッフ全員の好意の下、休ませて貰っています。
だから本来、本日は休日だったのですが、急用が出来てしまい、ひとりで車を運転して病院の前に車を止めて、4階にある医局に行き、所用を済ませて直ぐに帰宅するつもりでした。
普段は、息子の車に便乗して、通勤しています。
ところが、病院の前に行ってみると、息子が何やら必死に掃除をしているのです。
『どうしたの?』と声を掛けると、息子は『あれ、何しに来たの?』と、小生の突然の出現に、鳩が豆鉄砲を食らった感じのビックリ顔です。
掛け言葉ではないですが、その鳩が病院の玄関の前で、無残な殺され方をされていたのです…。
息子が病院の前に来た時、カラスが数匹、夢中で何かを食い漁っていたそうです。
息子が近づいて来たので、カラス共はパッと飛んで、逃げたそうです。
その後に、首のない鳩が内蔵を食い荒らされて、周囲は血が飛び散っていると云った、凄惨な状況が目の前に出現したとの事
それを見た息子が掃除をしていたところに、私が声を掛けたのでした。
そう云えば、結構、血生臭いがして、羽も広範囲に飛び散っています。
思わず、『ウッ』と息が詰まってしまいました。
丁度、土曜日の早朝だったので、幸いにも、人の通りは少なく、息子は素早く、綺麗に鳩の死骸を片付けていたのです。
汗をビッショリ掻いて、治療する前から、あまり気持ちの良くない仕事です。
彼は父親の思わぬ出現に、『ホッ…』とひと息入れ、苦笑しました。
以前、自宅の庭…、と言っても、猫の額ほどの可愛い庭ですが、庭木に鳩が巣作りを始め、卵を温めていた事がありました。
ある日、ヒナが孵ったので、巣立ちを、家族みんなで楽しみにしていました。
ところが、今回と同じく、鳩の親子はカラスに襲われてしまいました…。
変な音がしたので、直ぐに外に出てみると、ヒナは地面に落とされていて、直ぐに息絶えてしまったのです。
その時も『弱肉強食』、本当に生きていくと云うのは大変な事だと、つくづく感じたのですが、今回も、あらためて思い知らされました。
病院では、待合室の水槽に、カクレクマノミなどの観賞魚を飼っているのですが、普段はみんな、仲良く泳いでいるのですが、一寸でも弱ると、みんなでその弱った一匹を攻撃するのです。
食物連鎖の法則と言ってしまえば、本当にその通りなのですが、この地球上で、毎日、食うか、食われるかが繰り返されていると思うと、自分は常に、何かの力に突き動かされて生きていると、感じざるを得ません。
早朝の鳩事件で、何となく、朝からシュンとした土曜日でした…。

院長の独り言 254 ; ああ、勿体ない…

朝のNHK連続テレビ小説『おひさま』で、疎開の場面を見ていたら、小生、突然、66年前、疎開先で意地悪をされた、悲しい出来事を思い出してしまいました…。
この事は、何かに付けて、思い出してしまいます。
トラウマになっているのです。
72年間の人生で、トラウマになってしまった体験は、二度あります。
ひとつは戦中に、母方の祖母の遠い親戚に預けられて、疎開した時、そこで酷い待遇を受け、ヒモジい思いをさせられ、それ以来、満腹の時でも、出された食物は全て食べてしまうという、悲しい癖がついてしまった事です。
もうひとつは、ゴルフ大会の前夜に食べた、鳥貝の刺身に大アタリしてしまい、プレー中、腹を下したり、嘔吐したり、言葉に表せないほどの苦しみを味わい、その結果、大好きだった鳥貝を食べる事が出来なくなってしまったどころか、見るのもオゾマシイくらいになってしまった事です。
鳥貝を見ると、途端に吐き気がすると云うトラウマです。
両方ともに、食べ物関係と云うことで、『食べ物の恨みは怖い』と昔から言われていますが、全く本当ですね。
恥ずかしいけど、意地汚い話で申し訳ありません…。
色気の無い話で恐縮です。
と言った訳で、疎開先の話は今でも憎たらしく思うのです。
一緒に疎開していた祖母と私が寝た後に、隠れてコソコソと、その親戚一家が果物や白米を美味しそうに食べていたと、祖母から聞いたから尚更です。
丁度、私と同い年の男の子がいたのですが、そこのお爺さんとお婆さんがその孫を猫可愛がりし、勝ち誇った、その男の子の顔を思い出すと、全く腹立たしい限りなのです。
そんな事は露知らず、親父がお礼かたがた、しばらく振りに、その疎開先を訪れたのですが、プクプクと太って血色も良いその子と比べると、痩せて色艶の悪い私を見た途端、親父は唖然としたそうです。
何しろ、疎開前の私は、今で言う肥満児寸前の、太った子供だったからです。
親父の唖然とした理由は、自分の子供と祖母が、お世話になっているのは有り難い事ですが、いくら緊急時とは云え、かなりの金額を、毎月『お世話代』として送金していたので、大事に面倒をみていて呉れているものと思っていたのでしょう。
しかし頭を冷やして、今から思えば、意地悪されたとは云え、祖母と二人を受け入れて呉れただけでも、感謝しなければいけないのかも知れません。
その悲しいトラウマが身に付いてしまい、先日も、近所のコンビニで売れ残りのお弁当を、大量に廃棄しているのを目撃した途端、『何故、こんな勿体ない、酷(ひど)い事をしているのか…』と本気で、店員の人に言おうと思ったくらいです。
みんな拾って、食べてやろうかと、一寸ばかり考え込んでしまいました…。

院長の独り言 253 ; 節電の夏、到来

7月1日(金)からいよいよ、経済産業省が主導する節電アクション(節電対策)が始まりました。
ところで家電の中で、一番、電力を消費するのは何だか、ご存知ですか?
冷蔵庫、あるいはテレビ、あるいはエアコン、さて、どれでしょう。
一番、節電になるのは、冷蔵庫ではなくてエアコンで、ひと部屋の電気を止めていれば、一日中、稼働している冷蔵庫の消費電量の3倍は節電になるそうです。
そう言った訳で、部屋の温度設定を28度にするように、五月蝿(うるさ)く、新聞やテレビで協力を訴えるのも、理解出来ます。
マスコミによれば、役所や会社では、皆で頑張って、冷房の設定温度を28度にしており、我慢大会さながらで仕事をしているようです。
一方、自宅でエアコンを止めて、窓を開けていると、何かと物騒な昨今、泥棒の被害に合わないとも限りません。
私が小学生の頃は、夏は何処の家も、窓は開けっ放しでした。
本当に60年前の日本は、長閑(のどか)なものでした。
玄関の鍵でさえ、我が家では、掛けた事は一度もありませんでした。
当時、エアコンなどは、世の中に存在してなかったので、せいぜい扇風機があれば御の字。
殆どの家では、暑い日は窓という窓を全部、開けて、簾(すだれ)を掛けて、暑さ避(よ)け対策をしていました。
我々子供は、カキ氷を食べて、嬉しい暑さ対策もしていたのです。
勿論、我が家も、近所の家もみんな、そうして暑さから身を守っていたのです。
しかし、空き巣の被害を受けた事など、一度も聞いた事が無かったのです。
今から思えば、戦争に負けてしまい、食べるだけで精一杯、何も盗られるような物が無かった事も確かでした。
冷蔵庫も、テレビも、エアコンも、現在、重宝されている白物家電が存在しなかったので、節電なんか全然、必要無かったし、『節電』と云う言葉さえもありません。
オッさん連中は、夕方、殆ど裸同然に、道端で縁台将棋を差し、暑さをしのいでいました。
我々子供達は、日中、川やプールで水遊びに熱中していたのです。
我が家で玄関に鍵を掛けるようになったのは、確か自分が高校生になる少し前だったと思います。
世の中が色々と物騒になってきた時期は、日本が高度成長期に入った頃と符合するのです。
しかし、まだまだ今ほど危険な状態ではなかったので、夜遅くの女性の帰宅でも、それほど危険とは感じない時代だったのです。
ここ最近、右肩上がりに危険一杯の世の中になってしまい、60年前のように、窓を開けっ放しにして、涼を取るなど不可能です。
確かにエアコン、冷蔵庫、テレビ、そして自動車と、贅沢な暮らしになったのですが、その代償として、危険が一杯の世の中になってしまいました。
しかし、脱原発の旗の下に、今更、時代に逆行するのが、本当に世の中にとって良い事なのでしょうか。
それより積極的に、『オーランチオキトリウム』や『メタンハイドレート』などで(院長の独り言 220 ; メタンハイドレートとオーランチオキトリウム)、新しいエネルギー源を早く開発するべきでは、ないのでしょうか。
節電、節電で、小さく縮んで行くより、新しいエネルギーを開発して、大きく羽ばたいて行きたいものです。
我が国日本は、まだまだ、世界に誇れる技術を持っているのですから…。

院長の独り言 252 ; 世界中が日本の成り行きを注視しています

原発事故による放射能漏れは、益々、深刻の度を増してきています…。
大津波の災害と異なり、当然ですが、福島原発の事故に関しては、外国の反応は神経質で厳しいものです。
日本全体が、まるで放射能で汚染まみれになっているような、オーバーな報道をしている国もありますが、それだけ重大な事故と云う事です。
日本の農産物は、日本のどの地域で生産された物でも、輸入禁止とか、あげくは、洋服や自動車などの工業製品まで駄目出しを受けています。
放射能汚染を受けると、長期間にわたって、人体に悪い影響を及ぼしますから、世界が恐怖しているのも、当然と言えば当然です。
福島の原発事故の恐ろしさを目の当たりにして、ドイツやイタリアは、暫時、原子力発電所を閉鎖して行き、最終的には全廃する事を国民投票で決定しました。
ここからが今回の独り言です。
大震災、特に福島原発事故のような、自分たちも悪影響を受けてしまいそうな状態において、日本に対して見せる態度が、その国の本心なのでしょう。
普段、平和な時は、友好的に付き合っているのですが、ガラッと態度を豹変させる国があるのも事実です。
原発事故のような非常時こそ、物質の援助より、精神的に優しく手を差し伸べてくれる国が、本当の友好国であり、どれだけ我々日本人にとって嬉しい事か測り知れません。
我々も心して、今回の大震災に対する各国の反応を、冷静な目で見つめるべきです。
日本が大津波と原発事故に遭遇した事に、心から心配してくれている国もある反面、日本から今まで色々と援助を受けているにも関わらず、我が国を避ける国が存在すると、本当にガッカリしてしまいます。
日本人は本来、お人好しです。
困っている国に対して、常に無償で、手を差し伸べてきました。
貧困や飢餓で困っている国に対して、意地悪するなど愚の骨頂ですし、日本がそのような行為に出た事はほとんど無いでしょう。
今回の様な大災害時に遭遇して、日本国民が動揺せずに迅速、冷静に対処しているかどうかを、世界は注視しているのです。
自国の災害をしっかりと受け止めて、解決策を迅速に実行して、一人前の国家と云うものです。
外国からの援助にすがるより、先ず、自国で頑張らなければと思います。
日本が自力で再び立ち直る事が出来れば、世界中の人々は、都市文明の閉そく感に、希望を見出すのではないでしょうか。
また、そのような状況下で、日本中が今回ほど、自衛隊の大切さと有り難みを感じた事はありません。
自衛隊を、災害時にのみ便利に使い、日本国憲法で身分保障をしないのは、道理に合わないと云うものです。
外国を頼りにしすぎても、イザと云う時に、突き放されてしまうのです。
温情のある国が存在するのも確かですが、イザと云う時、心から信頼して頼りに出来るのは自国民である日本人です。
何処の国も、自国民が一番頼りになるのは、当たり前と云えば当たり前と云う事でしょう。
随分前のブログにも書きましたが、日本に核が無いなんて絵空事です。
今回の福島の原発事故がそれを証明しています。
『核兵器を持たない!』なんて、戯言を言っているどころではありません。
原子力発電所が54基もあると云う事は、日本も立派な核保有国である証左なのです。
テロが多発している昨今、アメリカをはじめ核保有国は、神経質なくらいに、原子力発電所を防御しています。
我が国も、世界中のほとんどの国(アメリカ、中国、ロシア、インド、韓国、フランス等)と同じように、国軍を持って、あらゆる脅威から国民を守って貰いたいものです。
いつ原発が狙われるか分かりませんよ。
攻撃されてから対処するので、良いのですか。
転ばぬ先の杖と云う箴言もあるのです。

院長の独り言 251 ; 蛭(ヒル)の恐怖

ハイキング中に蛭(ヒル)の被害にあったと云う記事が、雑誌に載っているのを偶然、目にした途端、去年の今頃、ゴルフで蛭にやられた事を思い出しました。
ゴルフが終わり、汗びっしょりの下着が気持ち悪いので、早速、風呂場に行き、下着を脱ぎ、靴下を取って見ると、足の付け根に何やら黒い塊がついているのです…。
で、何気なく触ってみると、ヌルっとした感触!
『蛭だ!』と直ぐに分かりました。
細くてミミズの様な身体が、丸々と肥えていて、突っつくとコロリと床に落ちましたが、咬まれたところから、血がタラタラと流れ落ちました。
蛭の唾液には麻酔作用と血液凝固阻害作用があり、要するに、咬まれた時は殆ど痛みを感じないし、身体から蛭が離なれた後、暫く血が止まらないのです。
蛭の唾液に含まれている血液抗凝固成分ヒルジンの作用により、血が止まりにくいと云う事です。
蛭は環形動物で、胴体の前後に吸盤を持っています。
充分に血を吸い込むと、自然に身体から離れますが、吸い足りない時には、無理に引っ張ったりすると、中々落とす事が難しく、蛭の体液が自分の血管の中に入ってしまい、細菌に感染したり、最悪の場合は敗血症になったりして重症化する事もあるので、蛭を落とす時は細心の注意をすべきなのです。
落ち着いて、アルコールやお酢や塩を付けたり綿棒で、脅かしたりすると蛭は直ぐ離れて呉れます。
山歩きをする時は、少し塩を持って行くくらいの用心も、この季節は必要です。
真実か嘘か定かではありませんが、登山に行き、疲れてぐっすり寝てしまい、起きたら目が見えなくなってしまったのか、真っ暗なのでビックリして飛び起きたら、顔中、そして目の周りも蛭だらけ。
何も見えなくなってしまい、病院に緊急搬送されたと、誰かに話を聞きました。
一寸した油断が悲劇を招きます。
蛭は人間などの動物の体温を感知して、忍者のように音も無く近づき、吸いつきます。
小生も去年は蛭にやられてしまいました。
ゴルフが上手ければ林の中なんかにボールを打ち込む事も無く、蛭の餌食になんかなる事もないのですが、何せ下手糞なので、ヘアウエーを外してボールはラフばかりに行ってしまいます…。
ラフには、蛭がテグスネを引いて待っているのです…。
この季節は当分、ゴルフには行かない事にします。
また秋になったら、プレーを楽しみたいと思っている次第です。

院長の独り言 250 ; 歯科用CTの導入で、歯科治療の質が劇的に向上しました!

歯科用のコンピューター断層撮影機器(Computed Tomography 以下、CT)が無いと、石川歯科では、正確な診断と治療、特にインプラント治療が正直、怖くて出来ません…。
通常、歯科で用いるレントゲン画像(1~2歯分を撮影する『デンタルレントゲン画像』と、アゴを全体的に撮影できる『パノラマレントゲン画像』)は、二次元しか診断出来ないのです。
平面で写るパノラマ画像を診ると、一見、治療の必要性を感じなくても、同じ部位を、CTで撮影した三次元レントゲン画像を注意深く観察してみると、思わぬ病変にぶち当たる事があります。
二次元的には、何でもなく見えていた部位も、三次元的に横から裏から診てみると、腫瘍が隠れていたり、太い動脈が歯根に近接している場合も稀ではないのです。
特に、インプラント治療を計画している場合、隣接する歯に、炎症が少しでも認められたら、躊躇(ちゅうちょ)なく、まず隣接する歯の治療を優先して行い、病巣を完治させなければ、折角、埋入したインプラント(人工歯根)が感染して、駄目になってしまう場合もあるのです。
二次元的なレントゲン画像では、病変の存在を認めなくても、三次元的に診ると、インプラント埋入部位に近接している歯に、異常が発見されるのです。
インプラント治療を希望して来院する患者さんは、歯が欠損しているくらいですから、40歳以上の患者さんが多いので、元々、歯周病に罹患していたり、不十分な歯の神経処置(神経処置;虫歯で歯髄を取ってしまう処置)を施している場合が多いからです。
神経処置をした歯の二次元のレントゲン画像を診て、平面的に病変を認めなくても、歯髄の複雑な構造上、歯髄の湾曲や側枝(歯髄の小さな枝)の存在などの関係で、治療後、数年間ほど経ってくると、治療した歯根の先端に、『うみの袋』が形成される場合があるのです。
歯の中には、幹となる主たる歯髄と、その幹から、細かい血管や神経の枝が生えているのです。
これを側枝といいます。
これはCT画像でないと、歯髄の湾曲の程度や複雑な側枝の存在を把握する事が、困難なのです。
二次元のレントゲン画像だけでの診断で、インプラント治療の経過が良好でホッとしていても、インプラント埋入から4~5年間、経過すると、インプラントの周囲組織が炎症を起こしてしまう症例があります。
そして理由が分からないと、歯科医から相談されるのです。
早速、CT画像で診てみると、案の定、近接している歯の炎症がインプラントに及んでいると診断できました。
二次元のレントゲン画像では、問題なく診えるのに、CT画像では、根の裏に大きな病巣が写っていました。
このような症例が存在する以上、あらゆる歯髄の治療でも、CT撮影が必要な気がしてしまいます。
問題は、CT撮影が1~2歯を撮影範囲とするデンタルレントゲン写真に比べると、少し被爆量が多い事です。
しかし、歯科用CT(コンビームCT)は、医科用(ヘリカルCT)と比較すると、断然、被爆は少ないのです。
例えば、下顎臼歯部のインプラント埋入や、下顎の親知らず(第三大臼歯)抜歯の場合、下歯槽管という、太い動・静脈、神経が直ぐ側(そば)を走っている症例が結構あるので、CT撮影は必須に思えます。
この動脈や神経を傷つけると、大出血や下唇のマヒなど、大変な事になる訳です…。
30年以上前に、パノラマレントゲン装置が歯科に導入された時も驚かされましたが、石川歯科で4年前にCT撮影機器を導入した際、CTを活用した診断の正確さには、小生、本当に驚きました。
きっちりと診断が出来ると云うことは、治療計画が正確に立てられると同義なのです。
CT様々(さまさま)という事ですね。

院長の独り言 249 ; こう暑いと、朝から冷えたビールを呑みたい…

こんなに暑い梅雨は珍しいですね…。
本日(6月24日金曜日)も朝から30度に迫る勢いで、温度計の目盛りを見てビックリです。
昼間は汗を沢山かいて、仕事を終えた後のビールは、さぞかし美味しいと、午前から生唾を飲み込んでいる人もいるのではないかと想像します。
小生もその口です。
ところで、ビールが何故にこのように飲まれるようになったのか、本当の理由をご存知ですか。
急にビール人気が出てきたのは、戦後、進駐軍がビールを持ち込んだのが切っ掛けだと考えているのではないですか。
ところがこれは、とんだ勘違い、全く的外れなのです。
歴史の好きな人には『そんな事は勿論知っている!』と怒られてしまいそうですが、ビールを毎日、飲む呑ん兵衛さんでも、案外、知られていないのです。
ビールがここまで飲まれるようになった理由は、明治政府が日本酒には重い税金を掛けたのに対して、ビールには税金を課さなかったからなのです。
その後、ビールにも酒税が課せられる訳ですが、大手のビールメーカーが独り立ち出来た後なので、ビールは日本から消えないで済んだと云う事です。
そして今では、老若男女のビール党が、断トツの様相です。
酒税が絡む点においては、現在の発泡酒出現の様相と、全く同じなのです。
ビールは今から6000年も前から飲まれていたそうで、最初は放って置いた麦が、自然に発酵して、その液体を飲んだのが始まりだそうです。
メソポタミア文明のシュメール人が、ビールを飲んだ最初の人類だと、一応はされています。
その後、古代エジプトでは、ビールが庶民にも普及していた様子を、壁画で窺い知れます。
現在、ビールと言えば、ドイツです。
本当にドイツ人は毎日のようにビールを飲むそうで、その呑みっぷりは到底、日本人に真似の出来ない芸当だそうです。
関ヶ原の合戦の頃に、日本でも初めて、ビールが長崎にお目見えしたのです。
当時、西洋人はビールでも、ワインでも、お酒を冷やして飲む習慣があったのに、日本人はお酒を温めて飲むようだと、本国に驚いて報告しています。
現在、日本では、ビールやワインを飲む人が多くなり、日本酒は若者には以前ほど人気がないようですが、それに反比例して、欧米では、日本酒を飲む人が、ウナギ登りに増えてきたそうです。
皮肉と言えば皮肉ですね。
冷えたビール

院長の独り言 248 ; 皆さんは『月』ついて、何を知っていますか?

今日は夏至。
北半球では一番、日照時間が長い日です。
今の時期は梅雨の真っ盛りなので、例年では雨や曇りの日が多く、暑い日は少ないのですが、珍しく今日は、朝から蒸し暑かったですね。
そこで太陽の話でもと思ったのですが、以前のブログに、既に太陽について載せているので(院長の独り言 212 ; 太陽のエネルギーを電気に変換出来ないものか?)、今回は月について一寸、触れてみます。
お月様を、我々はいつも何気なく見ています。
小学校の生徒でも、月が地球の周りを回っている衛星であると理解しています。
また、明るい女神の太陽に対して月は、昔から太陰と言われているように、正反対の影の存在です。
十五夜の時、地平線に近いビルの上に出て来る月は、不気味に大きく見えます。
勿論、これは目の錯覚です。
頭上の月と同じ大きさなのですが、月の直ぐ傍に、山やビルのような対照物があると、月は大きく見えるのです。
『月』と云う漢字の由来は、三日月の形から想像した象形文字から出来たものです。
ひと月は、月の満ち欠けを基に、30日間としています。
月の光っている部分が、毎日、少しずつ満ちてきて、満月に戻るのに、実際は29.5日間、掛かります。
なので、ひと月を31日間としたり、29日間としたりして調整して、人間の生活がし易いようにしているのです。
ところで、月は衛星としては、異常に図体が大きく、大変、珍しい衛星なのです。
地球の約80分の1の重量ですが、太陽系の惑星の中で、次に大きな衛星は、海王星の衛星『トリトン』で、海王星の800分の1なのです。
木星や土星、火星にも、衛星は回っていますが、親の惑星と比較すると、非常に小さい衛星なのです。
月の直径は、地球の約4分の1もあります。
この大きな衛星の影響で、海の潮汐運動が非常に強く起こり、特に20億年以上前は、地球と月の距離は今より近接していた事もあって、海の満潮干潮の差も大きく、潮汐作用による海水の撹拌は、想像を遥かに超える大きさだったと言われています。
勿論、太陽による潮汐作用もありますが、月の潮汐作用の方が、その影響は全然、大きいのです。
なぜなら、潮汐作用は距離の三乗に反比例するので、巨大な太陽より地球の直ぐ近くに存在する月の方が、潮汐作用を強く引き起こすのです。
この潮汐作用による海水の撹拌が、生命の誕生に大きく寄与しているとされているのです。
この大きな衛星である月が何故、地球の周りを回っているのか、今まで様々な説が唱えられているのですが、未だ解明には至っていません。
一応、4つの仮説が唱えられています。
1) 衝突説 
2) 親子説 
3) 兄弟説 
4) 他人説
です。
衝突説とは、遠い昔に、地球と星とが衝突した衝撃で、月が誕生したとする説。
親子説は、地球から月が、遠心力で分離したとする説で、太平洋を月の痕跡としています。
兄弟説は、ガス状態の塊から、地球と月が出来あがったとする説。
他人説とは、何処からか来た月が、地球の引力に掴まったとする説です。
その他にも、まだまだ色々な説があるのかも知れません。
また月の自転周期と、地球の周りを回る公転周期が一緒なので、地球からは永久に、月の裏側を見る事が出来ないのです。
しかし、1959年、旧ソ連の人工衛星ルナ3号によって、月の裏側を初めて見る事が出来たのです。
そして10年遅れて、1969年に、アメリカのアポロ11号によって、人類が月面に降り立ったと云う事です。
日本も2007年9月に、月探査周回衛星『かぐや』が月を周回し、月面を観察しています。
小学生の時に、父親から天体望遠鏡をプレゼントされたので、小生も月をよく観察していました。
良く見ると、月は結構、不気味ですよ…。
今回は、月についてのお話でした。

院長の独り言 247 ; 2回も誕生日を祝ってもらいました!

去る6月18日(土)は、私の誕生日でした。
その日のお昼に、スタッフ全員からケーキと笑顔で祝福されたのは、本当に嬉しいひと時でした。
祝福されるまでは自分でも、その日が自分の誕生日である事をうっかり忘れていたのです。
実は、1週間前に家内と子供達から、『次の土曜日はお父さんの誕生日だからお祝いしようね!』と知らされていたのですが、歳の所為(せい)か、すっかりと忘却の彼方だったのです。
石川歯科で1回、自宅に帰ってもう1回と、2回も祝福された嬉しい誕生日でした。
日本では、誕生日を大切にしてお祝いしますが、世界的に見るとそうでもない国が結構、あるのです。
ひとつは、宗教的な理由がある場合です。
また、四季のない国にみられるのですが、大袈裟ではなくて、自分の誕生日が分からない場合もあるのです。
誕生日をそれほど大切にしていないと云う事のようです。
日本のように、春夏秋冬が見事に色分けされていると、自分の生まれた季節に絡(から)めて、誕生した日を憶えやすいし、自分がうっかり忘れていても、家族や親しい友人が憶えてくれているものです。
日本は、昔から誕生日を大切にしている国なのです。
少なくとも、自分の生まれた月日を知らない人は、日本には存在しません。
周りの人が憶えているくらいですから。
ところが、一年中、季節に殆ど変化が見られない国では、余程の国家的な記念日はともかく、誕生日のような個人的なものは、ついウッカリと通り過ぎてしまうと云うより、生まれた日など全然、眼中に無い場合が多いのです。
我が国では、履歴書を作成する時に、生年月日を書き込むのが当然なので、自分の誕生日は覚えざるを得ませんが、そのような手続きを必要としない国では、自分の生年月日を知らなくて当り前です。
その点、日本では、誕生日を祝え合えて良いですね。
何はともあれ、73歳の誕生日を無事に迎える事が出来たのは、自分としては嬉しい限りです。
スタッフには、『まだまだ頑張って下さい!』と励まされ、患者さんにも『引退しては、絶対、駄目ですよ!』とハッパを掛けられています。
家族や診療所のスタッフに、心のこもったお祝いをして貰い、ご機嫌の一日でした。

院長の独り言 246 ; 『Tの字』の極意

大学入学時に、ある教授が新入生歓迎の挨拶で声高らかに言いました。
先生曰く
『大学は専門性を高める学び舎である。
要は、生涯の進路の決定であります。
さらに言葉を変えれば、自分の職業を決定付け、素晴らしい職業人になるように勉強するのが大学ですから、勉強の虫になって頑張りなさい。
要はTの字になる事です!』
と挨拶しました。
大学に入学すると、2年間は教養課程で、数学、理科、社会、外国語などを高校より幅広く学習します。
様々な教養を身に付けるのが、文字通り、大学の教養課程なのです。
そして3年目から、専門課程に入ります。
歯学部専門課程では、人体解剖学に始まり、組織学、生理学、薬理学、細菌学、病理学など、人体に関する基礎的な勉強をした後、歯科に関する専門的な学問、例えば口腔外科学(抜歯、骨折の整復、炎症や腫瘍の治療)、歯科保存学(歯痛除去、歯周病の治療)、補綴学(入れ歯や被せ物の製作)、歯科矯正学などを勉強します。
大学在籍の6年間(教養課程2年、専門課程4年)では、一人前の歯科医師になるのには時間が短すぎるので、卒後、大学院に入学したり、専攻生になったりで、色々な形で歯学の研鑽に励む事になります。
何とか一人前の歯科医として社会で認められるには、大学を卒業してから随分と時間が経過してしまうのです。
特に専門性の強い職業である医師は、『何でも屋』であっては駄目で、ひと昔前の医師、歯科医師の極端に少ない時代に、何でも適当にこなしていた時なら兎も角、現在は、歯科医師の人数が過剰になっている事もあって、より高度な医療が求められます。
社会は『何でも屋』の医師より、専門性の高い医師を必要とするように変化してきました。
歯科医過剰時代を予測していたのか、『Tの字』になるように努力すべきである事を、50年以上前に強調していた先生の先見性には、本当に驚かされます。
『Tの字』のようになると云う事は、浅くて広い教養、技術を身につける事も大切だけれど、誰にも負けない得意な分野を確立し、出来るだけ深く追求し続ける事が大切であると、先生は新入生に強調したのです。
丁度、アルファベットのティ(T)の字の様に、横棒は広くて浅い知識を身に付ける事を意味し、と同時に、縦棒の様に一つだけは、誰にも負けない様な知識と技術を身に付ける事が、これからの人生にとって肝要であると仰った訳です。
ただ得意な分野を一つ持っているだけでは、人間の深みが出ないものです。
その背骨には、浅くても良いから、幅広い知識の裏付けが必要です。
医学だけではなく、政治、経済、哲学、歴史、美術、スポーツ、音楽などを、ある程度、知る事が肝要であると、教授は講義でも常に説いていました。

院長の独り言 245 ; おじさんだけの小旅行に出掛けました

ブログで何回か触れましたが、医局時代の仲間4人と1年に1回、毎年6月に、温泉地などの旅館やホテルを、4人で順番に予約当番をして、1泊2日の小旅行をしています。
初日の夜に宴会を開き、医局時代の出来事、例えば、研究で胃を痛めた話や、成績の芳しくなかった学生が立派な歯科医になって活躍しているなどなど…、四方山話を楽しみ、翌日はゴルフをプレーするのが恒例になっています。
4人は、丁度、同じ時期に、東京医科歯科大学歯学部第三保存学教室の文部教官(助手)として勤務し、苦楽を共にした生涯の友なのです。
この『4人の会』は、平成元年が初回でしたので、今回が23回目になります。
よくぞ、この会が23回も続いたものだと、4人で先ずは乾杯!
実を言うと、家内には、『ゴルフをするのに梅雨時にプレーするなんて、ワザワザ、雨に濡れに行くようなものだ…』と毎年、呆れられているのです。
私はゴルフをプレーするより、皆で集まって、一年振りに色々と雑談するのが楽しくて、それが目的で参加しているのです。
勿論、皆の元気な顔に会いたいのは、当然です。
加えて、梅雨時は観光地が空いているので、却って、厚遇されると云う利点があります。
旅行の前後は、雨の日が多いのに、不思議と当日は、殆ど雨にやられた事がありません。
余程運が良いのか、我々4人の普段の行いが良いのか定かではありませんが、23回のうち傘が必要だったのは、たった2回だけなのです。
雨の降らないという迷信のある日、例の東京オリンピック開幕日の10月10日に集合日を変更したとしても、このような好結果になったかは疑問です。
今年も当然のように、旅行の2日間だけは、薄日の差す好天に恵まれたのでした。
雨の神様が、たった4人のお祭りが終わったのを見計らったように、2日目の夕方の帰途である中央道では、雨が降り出してきたのでした。
毎回、ゴルフを終えてからは、風呂で汗を流した後、暫く皆のスコアーを見比べながら、反省会をするのが決まりになっているのです。
4人のうち、K先生とT先生は、かつてはシングルプレヤーだった程の腕前です。
もう1人のI先生も、ハンデ13となかなかの腕前なのです。
小生はと云うと情けない事に、ハンデ23が最高でした。
23回のうち、前半は、常にK先生とT先生のトップ争いでしたが、還暦を超えた後半は、I先生と小生も善戦するようになってきたのです。
今回の成績もT先生が98、私が100、I先生は104、K先生が105と云う結果でした。
70歳を超えると、ゴルフは皆同じ程度に、言葉を換えれば、歳を重ねるにつれて、ゴルフは下手くそになるようです。
『もう、止めようか…』と言いつつ、4人が皆、元気なうちは、来年も頑張ると云う事でお開きと相成りました。

院長の独り言 244 ; 江戸川柳から考える

『絵で見ては 地獄の方が 面白し』
蓮の花が咲き乱れる、穏やかな極楽に比べて、地獄は血の池地獄に、仁王様や赤鬼青鬼が棍棒を持ってドヤシつける、辺りは針の山と変化に富んでいて、さぞかし毎日が退屈しないで、面白いだろうと云う江戸時代の川柳です。
見ているだけでは、大した事では無く、却って楽しいのではないかと思われるようでも、実際に体験してみると、二度と嫌だと云う事は結構、あるものです。
戦争映画で兵隊が機関銃に打たれて、次々に倒れて行くシーンや、ロケット弾を打ち込まれて、ビルから大勢の人が逃げて行くシーンなど、アクション映画を見て、手を叩いて見ているのは、架空の世界の出来事なので安心していられるからです。
実際、小生が小さい頃に体験した戦争での、本当の爆撃は、いま思い出しても恐ろしい体験で、今でも時々、夢で魘(うな)されてしまいます。
もし自分が本当に地獄に落ちて、血の池地獄に投げ込まれたら、すぐに気がおかしくなるに間違いないでしょう。
上記の地獄川柳を詠っていられるうちは、心にユトリがある、実に幸せな状態であると云う事です。
明治維新以来の我が国のあり様を見詰めてみると、国民が頑張って、ある程度良い線まで行くと、まるで地獄に突き落とされてしまうような連続です。
危うく白人国家の植民地から逃れて、アジアで唯一の先進国になったと思ったら、関東大震災で国中は壊滅状態になってしまい地獄落ちです。
そこから必死に頑張って、盛り返してきたら、アメリカに壊滅されてしまい地獄行き。
またまた必死に頑張って、戦後の大復興を遂げると、バブルが弾けてしまい大不況で地獄行き。
何とか不況から脱したかと思いきや、今度は東日本大震災で、またまた我が国は雲行きが怪しくなってきて、地獄行きの様相を呈してきました。
日本ほど、このように浮き沈みがある国も、本当に珍しいのではないでしょうか。
雲の上から神様は、『見ていれば 日本の国は 面白し』と愉しんでいるのでしょうか。
あるいは、神様は礼節が無くなった我々日本人に警笛を鳴らしているのでしょうか。

院長の独り言 243 ; NHKの朝ドラ『おひさま』の今後の展開に思う…

現在、NHKの朝の連続テレビ小説『おひさま』では、第二次世界大戦戦中の張りつめた空気の日本を、ドラマ化して放送しています。
私もそうですが、私より年長の人にとっては、昭和10年代の開戦前から20年代の敗戦後の辛い経験を、本当は思い出したくもないでしょう。
家族や親族をはじめ、親しい友人などの戦争犠牲者が周りに大勢いたのですから…。
敗戦末期は、空襲のサイレンに怯えて、防空壕の中でハラハラ。
勿論、食事を満足に摂る事も出来ませんでした。
『勝てば官軍 負ければ賊軍』
これは戦争をやる以上、勝たなければ意味が無いと云う経験からの教えです。
識者の中には、『戦争に勝ち負けは無い!』と分かった風を言う人もいますが、負け戦(いくさ)ほど惨めなものはありません。
当然ですが、敗戦後の日本各地では、占領軍の兵隊が勝ち誇って、街中を闊歩(かっぽ)しており、その姿を少年であった私も、屢々(しばしば)目撃したものです。
着の身着のままで焼け出された敗戦国民を前に、青い目の奥さん連が綺麗に着飾って、大きな声で笑い声を上げ、ハシャイでいました。
それを横目で見ている惨めさは、子供だった私でさえも、悔し涙で泣けてきた思い出があります。
戦争は人間同士の殺し合いです。
いくら双方にどんな事情があっても、本来、戦争は極力、避けるべきが当然でしょう。
しかし、軍事力に勝る相手が無理難題を突きつけてきたら、国は一体どうしたら良いのでしょうか。
黙って相手の国の言う事を聞いていれば、最終的には属国にされてしまいます。
当時の我が国は、戦争を避けたくても、否が応でも戦わざるを得なかった理由があったに違いありません。
世界史で皆さんも習っていると思われますが、当時、帝国主義国であったイギリス、フランス、ソビエト連邦、そしてアメリカなどの欧米の白人国家が、アフリカ全土、南米、北欧、東欧、そして日本を除くアジア全体を植民地として支配していました。
特にアメリカは、その溢れる工業力を背景に、中国全土を新たな市場にすべく、その障壁となる日本を攻めて来たのです。
イギリスやフランスが、インドや中国をいとも簡単に攻略して、支配下に置いた状況を目の当たりにした、明治の日本の為政者は、今度は日本がやられると深刻に思ったに違いありません。
特に、あらゆる面で兄貴分と思っていた大国中国が、あまりにも簡単にヨーロッパ諸国に貶(おとし)められてしまったのには、大きな衝撃を受けたに違いありません。
おまけに、北からはソ連が南下政策を掲(かか)げて、北東アジアを手に入れようと機を窺(うかが)っていましたし、太平洋側からはアメリカが中国の利権を手に入れようとしていたのです。
そのような東アジアの地政学的な状況下、孤立無援で、否応なく頑張らざるを得なかったのが、当時の日本だったのです。
A(アメリカ)B(イギリス)、C(中国)D(オランダ)の、所謂、ABCDラインの包囲網で、石油や鉄などの工業原料材料が全くと言って良いほどに手に入らなくなってしまった結果、日本は開戦に踏み切らざるを得なかった訳です。
しかし、いくら頑張っても、所詮、国力の差は如何とも難(しがた)く、結果は、皆さんご存知の如くです。
日本が惨敗していく、これからの朝ドラ『おひさま』を、私は本当は見たくないのですが…。
ただ第二次世界大戦の後、アジア、アフリカ、南米などの植民地が、全て独立国になったのは事実です。
この事実は、東南アジアやアフリカ各国では、良く認められているのです。
世界から植民地が消えたのは、日本の頑張りと大きな犠牲のお陰といっても過言ではないでしょう。
我が国は、この事実を誇りに思うべきなのです。

院長の独り言 242 ; 写楽と歌麿

写楽を語った以上、江戸随一の美人浮世絵師『歌麿』を紹介しなければ片手落ちと云うものです。
小生が思うに、写楽はあまりにも現実的な役者浮世絵を描いたので、当時はあまり人気が出ず、約10ヶ月間で、女形などの美人画を描くのを止めざるを得なかったのでしょう。
何と言っても、歌舞伎のブロマイドは、江戸庶民に夢を与えなければならないのに、写楽は画力があるのでしょうが、そのファン心理を無視したのが拙(まず)かったのではないでしょうか。
版元の蔦屋重三郎に、無理やり描かされたのか、写楽自身が自らの意思で描いたのかは定かでは有りません。
筆を折ってからは、世間から忘れられていた写楽に突然、明治43年、ドイツ人美術評論家のユリウス•クルトがレンブラント、ベラスケスと並んで東洲斎写楽を世界の三大肖像画家の一人だと、その著書に記したのです。
それからです。
国内は勿論、世界的に、天才浮世絵師として写楽が脚光を浴び、再登場したのは…。
以後の写楽人気は、皆さんご存知の通りです。
写楽と同時代に活躍した有名な浮世絵師は沢山いますが、何と言っても、写楽とよく対比される浮世絵師は、喜多川歌麿でしょう。
江戸美人を描かせたら、この人の右に出る人は絶対いないでしょう。
当然、歌麿の役者絵は大人気で、人気と云う点では、写楽は歌麿の足下にも及ばなかった事でしょう。
浮世絵師としての技量は、両者とも天才的である事は間違いありません。
歌麿の美人大首絵は、誰が見ても、美しいだけでなく妖艶に描かれていて、ついつい美人絵に吸い込まれてしまいそうです。
江戸一の人気浮世絵師と持て囃されたのも当然です。
一方、写楽のそれは、美人とはほど遠いユニークなもので、妖艶どころではなく、一般受けは、先ずしなかった事でしょう。
ところが、こんな人気者の歌麿は驚いた事に、生まれが不明なのです。
若い頃は、鳥や昆虫、貝、魚、草木などの繊細な写実絵を、得意にして描いていたのです。
信じられますか。
その後、写楽と同様に歌麿は、版元である蔦屋重三郎に、才能ある絵師としての腕を認められて、美人画『四季遊花之香遊』を出版して評判を取る事になるのです。
浮世絵師として順風満帆、歌麿は特に美人画では、彼に敵(かな)う者は全く存在しないほどに売れっ子になったのです。
ところが、『倹約、倹約』の寛政の改革で、歌麿の描いた絢爛な美人画は、お上から贅沢すぎると目をつけられる羽目になってしまうのです。
しかし、反骨精神旺盛な歌麿は、老中首座である松平定信に楯突くように、豪華な着物を身にまとった美人を描き続けたのです。
時の権力者に楯突いて描き続けた歌麿は、たいした度胸の持ち主です。
将軍徳川家斉の嫌っていた豊臣秀吉が、北政所や淀君等と花見を楽しんでいる『太閤五妻洛東遊観之図』を描くに及んで、歌麿は幕府にお咎めを受け、牢屋に入れられてしまうのです。
これが原因で、歌麿は心身共に急激に衰え、失意の末に50歳半ばで病死してしまいました。
阿波の能役者 斉藤十郎兵衛が正体であるとされている写楽も、版元の蔦屋重三郎も皆、早死にしているので、何となく寂しい気もしてしまうのです。
江戸の昔を思いながら、写楽特別展を感慨無量で見学した次第です。

院長の独り言 241 ; 写楽展に行ってきました!

今朝は日曜日の朝。
起きたら天気が良く、上野の東京国立博物館に、予てより予定していた写楽展を見学しに行きました。
息子と一緒に、車で出掛けました。
国立博物館近辺の駐車場は、すべて満車。
午前10時なのに、沢山の人が、写楽特別展に足を運んで来ているのには感心させられます。
混雑
やっとの事で、博物館から歩いて15分ほどにあるコインパーキングに、駐車する事が出来たのですが、到着した頃には、結構、気温も高くなってきて、博物館まで汗ばむくらいの良い運動です。
風情のある
言問通りからは、建設中の東京スカイツリーもジックリと見学する事も出来ましたし、久し振りに、懐かしい上野界隈を見物する事も出来ました。
スカイツリー
小生、大学が上野に近かったので、上野近辺にはよく出没していたのですが、50年前と比べると、上野は本当に素晴らしい街になったものです…。
目的の博物館に向かう人の長い列が出来ていたので、入場する前から、館内が混み混みなのは分かっていたのですが、実際、その通りで、歩いてきた上に大勢の人の熱気で、館内に入った途端、頭が少しボーっとしてしまう始末。
本館
『これは気合を入れて見なければ…』と、戦闘態勢に入った私でした。
そう言えば、パリやプラハの美術館では、見物客は疎らで閑散としていた事を思い出します。
我々日本人は向学心が強い事を、改めて感じ入ったのでした。
写楽については、大勢の学者や小説家が、あらゆる面から研究されつくされているので、文献も沢山、出版されています。
要するに、写楽と云う人物は、突然、世に現れて、短期間で歌舞伎役者絵を中心に、多数のユニークな浮世絵を書き、突然、姿を消してしまった絵師と云う事です。
小生、今まで国内外において、写楽の浮世絵を見学していますし、関連本もかなり読んでいます。
しかし、こんなに多数の写楽の浮世絵を、しかも目近で見る事が出来たのは、今回が初めてです。
しかも、当時、活躍していた浮世絵師の喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国などの浮世絵と比較するように展示されているので、写楽の描いた人物像が他の絵師と比べて、如何に表情豊かであるのか、よく理解出来ました。
中でも、歌麿の美人画とのあまりの違いには、ビックリしたと云うよりも、よくあのような個性的な描写を、版元である蔦谷重三郎が許したものだと、あらためて感心しました。
多分、この版元の重三郎が、ユニークなこれらの表情を描く事を許したところに、写楽の正体を謎解くカギがあるような気がしてなりません。
本当に、写楽が自ら率先して、あの醜いとも思えるような、個性的な女形を描いたのか、あるいは重三郎に描かされたのか、その辺の研究がこれからの愉しみと云うものです。
そこがハッキリすれば、全ての謎が解き明かされるのではないでしょうか。
写楽が凄いのか、それとも版元の重三郎が凄いのか。
いずれにしても、大勢の見物客に挟まれ押されながら、写楽の描いた第一期から第四期までの、そして、当時、お相撲社会で横綱谷風や大関雷電に伍して大人気だった怪童大童山の浮世絵を熱心に見ていたら、12時をとっくに過ぎていたのでした。
周りの見物客の会話が耳に入ってきますが、『写楽の浮世絵は動きがあって面白い!』と言っている中年男性がいる半面、女性には歌麿の美人画の方が『綺麗!』との事でお気に入りのようでした。
江戸の当時でも多分、同じような評価だったのではないでしょうか。
Kさん、本当に有難う御座いました。
写楽展入り口

院長の独り言 240 ; 写楽の正体

浅間山の噴火と東北地方の冷夏が重なって大飢饉となり、不景気の上にインフレ状態、所謂、スタグフレーションに陥ってしまった時代に、東洲斎写楽は登場したのです。
その大変な時代を、何とか立て直そうと、老中である松平定信が行ったのが寛政の改革です。
寛政の改革は『一に倹約、二に倹約』という趣旨であったのですが、田沼時代に贅沢を味わった庶民には合わなかったのか、結局、挫折する事となるのです…。
不景気風の吹いている世の中、庶民は歌舞伎見物どころではなかったのではないかと想像出来ます。
歌舞伎もお客が入らず、関係者一同、困っていたのではないでしょうか。
ここからは例によって私見ですが、歌舞伎の興行主達は、何とか江戸庶民の眼を歌舞伎に向かわそうと、色々と奇抜なアイディアで宣伝に努めたことでしょう。
ただでさえ不景気で、世の中は暗く沈んでいるのに、お上は『節約、節約』と、更に経済の停滞を招いてしまいます。
お客さんの足は、益々、歌舞伎から遠のいてしまうのです。
そこで一計を…と考え出したのが、あの面白い役者絵だったのではないでしょうか。
当然、有名な浮世絵師、喜多川歌麿や葛飾北斎には、奇抜な役者絵など頼む事は出来ない相談です。
多分、依頼すれば、けんもほろろに拒否されてしまうでしょう。
アゴが極端に張っていたり、眉間に皺が深く入っている女形を描けば、役者さん達からブーイングが起きるに決まっています。
しかし、何とか、庶民がビックリするような話題をブチ上げたい!
そこで版元である蔦谷重三郎に、歌舞伎の興行主達は、達ての願いと頼みこんで、人々をアッと言わせる役者絵を描かせたのではないでしょうか。
重三郎は、素人でもあっても、絵が達者であった阿波の能役者 斎藤十郎兵衛に、28枚の、あの奇抜な大首絵を描かせたのではないでしょうか。
斎藤十郎兵衛は能役者でしたが、絵が大変上手かったと記録に残っています。
そして東洲斎写楽と名乗ったという推測です。
あの写楽絵を、歌舞伎の5月興業と8月興業の時に売り出して、話題作りは成功したのではないでしょうか。
しかし、お客さんが増えたのか、全くの無駄であったのかは、小生は知りません。
ただ、その直後に写楽は筆を折ってしまった事は事実です。
このように考えると、写楽が突然出現して、歌舞伎の話題を作り、アッと言う間に消えてしまった事実に、辻褄がよく合います。
勿論、いつものように、これは小生の独り言です。
皆さんも、色々、空想すると、楽しいものですよ。
(次回に続く)

院長の独り言 239 ; 上野の写楽展を訪れる予定です

上野の国立博物館で、写楽特別展が開催されています。
私は写楽ファンなので、その事を知っている患者のKさんが、なんと、その入場券をプレゼントしてくれたのです!
Kさん、本当に有難うございます。
ネットの情報によると、東日本大震災の為に、一か月ほど開催時期がズレたようです。
ここにも地震の影響が出てしまいました…。
皆さんご存知のように、写楽の役者絵は大変、ユニークです。
写楽以外の浮世絵師は、当時の人気歌舞伎役者の顔を、美男美女に描き込んでいます。
ところが、写楽は、描いている役者の顔を、決して綺麗には描きません。
年相応に、口元に深い皺(しわ)を入れたり、目を細く吊り上げたり、女形を美人には表現しませんし、男役でも鼻を異常に大きくしたり、寄り眼に描いたりしています。
もし写楽が存在しなかったら、動きのない役者絵ばかりで、生き生きとした動きのある、江戸時代の歌舞伎を想像する事が出来ず、大げさに言えば、現代の歌舞伎の人気も半減していたかも知れません。
写楽は人気者なので、この浮世絵師に関する文献は、今日まで多数出版されています。
写楽が突然、現れたのは、天明飢饉の後で、今風で言えば、デフレもいいところ、大不況の真っ只中の寛政6年5月です。
当時、大変、景気が悪く、庶民は歌舞伎を見物するどころではなかったと思われます。
そこへ突如、例の大首絵が一気に沢山、売り出されたのです(なんと28枚!)。
その表情は、今までの役者絵からは全く想像もできないほど、異質な顔をしたものでした。
江戸の人々は、さぞかし驚いた事でしょう。
それまでの役者絵は、男役は男前、女形は美人に描かれていますが、動きに乏しく、お人形のようでした。
そこへ表情豊かな写楽絵が、世に出てきた訳です。
浮世絵図は、現在で言えばスターのブロマイド、そのブロマイドをワザと変な表情にしたら、ファンはどう思うでしょうか。
版元であった蔦谷重三郎は随分、大胆な事をしたものです。
それもプロの浮世絵師ではなく、素人である阿波の能役者 斎藤十郎兵衛(東洲斎写楽)に描かせたのですから、二重にビックリと云う事になります。
寛永6年5月に突如世に出てきた写楽は、約10カ月後にまた、突如消えてしまいました。
余談ですが、写楽が何者であるか、今もって、謎とされています。
あまりにも突然、世に出てきて、あまりにも突然に消えてしまったので、その正体について、謎が謎を呼ぶ事になったのでしょう。
喜多川歌麿、葛飾北斎、谷文晁など、同時代に活躍した錚錚(そうそう)たるメンバーが、その候補に挙がっていますが、研究の結果、一応、能役者の斎藤十郎兵衛で決着しています。
写楽の活躍した、わずか約10カ月間を、画風によって4期に別けて説明されています。
なぜなら、あまりに絵の描き方が変化しているからです。
第1期の写楽と言えば、なんと云っても大首絵!
アッと言わせた役者絵28枚で、歌舞伎の5月興業を描いた浮世絵です。
第2期は、大首絵に下半身を描いたもので、所謂、役者の全身姿図です。
これは8月興業を描いているのです。
第3期、第4期は、役者の周りの背景を描き入れています。
そして、後半の第3期と4期に描いたものは、前半の第1期と2期のそれと比較すると、全く筆力が衰えているのです。
特に第4期は、写楽の絵ではないのではないかと言われるくらいに、衰えています。
ここで、『写楽は消えた!』と評価されるのも、当然と言えるのです。
要するに、写楽絵の真骨頂は、わずか10カ月間の前半に描いたものと云う事です。
写楽展
(次回に続く)

院長の独り言 238 ; 過去の記憶

現在、私は72歳です。
72歳になってみて月並みな感想ですが、アッと言う間の72年間であり、同時に、本当に月日が経つのは早いと思います。
記憶として残っている自分は、4歳の時に親父に連れられて、兄貴とトンボを獲りに行った時の情景です。
それ以前の記憶は、全くと言って良いほど、思い出せません。
3歳の話ですが、『お前は疫痢で一回死んだんだよ…』と私が成人になった時に、お袋に言われた事があるのですが、そんなに大変な事になったと云う記憶は、自分にはありません(院長の独り言 110;『疫痢で命を落としそうになったあの日…』を参照してください)。
トンボ獲りの事が、今でも記憶に残っている一番古い思い出なのです。
親父が必死にトンボを追いかけて、捕虫網で捕まえてくれた光景を、今でも鮮明に思い出す事が出来るのです。
これが4歳の夏です。
不思議な事に、それより以前の記憶は全く憶えていないのです。
自分の意識の誕生は、この4歳の時だと思っています。
その後で記憶に残っているのが、ブログで何度も触れている戦争で疎開した一連の出来事です。
その時はもう5歳になっていました。
母方の祖母と一緒に、岐阜に疎開したのですが、両親から離れて生活したのは、この時が勿論、初めてでした。
煙モクモクの汽車に乗った事。
降るような星々を散りばめた夜空。
敵機の空襲で真っ暗な空が真っ赤に染まった事。
何も食べられず、ヒモジイ思い。
栄養失調になって、ガリガリに痩せてしまった私を見た両親の涙顔。
縦に大揺れした地震。
戦争に負けて焼け野原になった東京など色々な事。
などなどを、今でも鮮明に思い出す事ができます。
6歳になって、小学校に入学した後の記憶は、皆さんと同じでしょうが、学校での出来事を中心に、ぽろぽろと思い出します。
それから60歳頃までは、手帳など必要ないほど記憶力は抜群でした。
社会で起きた、種々な事件も、よく覚えています。
ところが70歳を超えてきたこの頃は、ちょっとした事でも忘れてしまいます。
自分でも焦ってしまうほどに、記憶力が衰えてきました。
記憶は、海馬や大脳皮質で掌(つかさど)っていると言われています。
海馬や大脳皮質を鍛えれば、記憶力は増大すると脳科学者が提唱していますが、どのようにその部位を鍛えたものか、皆目、見当がつきません。
良く言われているのは、物事に感動しなさいとか、色々な事に興味を示しなさいとか、外に出て友達と交際したり、運動をしなさいなどです。
確かに、最近の私は、何事に対しても、心騒ぐ感動が無くなってきたのは、嫌でも認めざるを得ません。
何とか、この気持ちを打破しようと、ゴルフをしたり、本を読んだり、旅行に行ったり、自分なりに努力はしているつもりです。
絵画展などには出来るだけ出掛けるようにして、自力で野次馬精神を駆り立てるのは、勿論です。
元気で長生きしている患者さんに皆さん共通しているのは、外向きに生きている事で、なおかつ、常に楽しそうに生活している人たちです。
小生もそのように頑張っている人を模範にして、前向きに元気に生きていこうと思ってはいるのですが、中々…。

院長の独り言 237 ; 今年初めての冷やし中華

先日、昼食で、今年初めて冷やし中華を食べました。
近頃は、天気さえ良ければ、もう夏。
軽い運動でも汗ばんでしまう季節です。
ましてや、歯科治療をしている時は、緊張しているので、冷や汗も含めて、結構な汗が出てくるものです…。
例えば、歯を削っている時、患者さんが急に動くと、ドリルで舌や頬っぺたを巻き込まない様に、瞬時に身体を反応させて、ドリルを急停止させます。
咳き程度なら良いのですが、急に身体を起こされると、冷や汗が出ます。
話は元に戻って、その日は、雲ひとつなく、太陽が燦々(さんさん)と降り注いでおり、冷やし中華が特に美味しく感じました。
現在、我々が『冷やし中華』として食べている麺は、中国から伝わってきたのではなく、仙台が発祥の地だそうです。
以前、テレビのグルメ番組で、『冷やし中華』発祥の地として、仙台の中華料理屋さんを紹介しているのを見た事があります。
その番組によると、昭和12年の夏に、初めて冷やし中華が誕生したとの事です。
中国は冷麺と云って、日本の冷やし中華とは全然違います。
何で、日本発明の冷やしソバを中華と呼ぶのでしょうか。
多分、日本には、昔から『もりそば』、『ざるそば』、『冷や麦』など、冷たくして食べる麺類が存在していたので、これらとは区別したのでしょう。
先日、旅行した京都では、たまたま訪れたお蕎麦屋さんは、応仁の乱以前から営業していたと言っていましたから、『中華』という枕詞を付けないと、伝統と貫禄の違いで、日本の『ざるそば』に間違えられてしまうのでしょう。
江戸川柳にも、おそばを題材にしているものが、結構、多く見受けられます。
松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶など蒼々たる俳人達が、歌に詠んでいるところをみると、蕎麦は昔から庶民にとって、大変、馴染みの深い食物だと云う事が理解出来ます。
小生もご多分に洩れず、蕎麦が大好物です。
特に、蒸し、蒸しした暑い日は、シャキンと冷えた『もり』や『ざる』は食欲をそそります。
しかし、人間は贅沢な生き物です。
夏、冷えた蕎麦やうどんばかり食べている、何となく物足りなく、飽きてしまいます。
矢張り、冷やし中華も食べたくなってしまうのです…。
これは麺類だけの話で、夏にカレーも美味しいものです。
我が国は、世界に誇る、ユニークで美味な食べ物には、本当に事欠きません。
特に、海外旅行に行くと、よく理解できます。
外国で、日本の料理より美味しい食べ物に、滅多にお目に掛かる事はありません。
食べ物だけでなく、工業製品でも、世界に誇れるものは、数えれば切りがありません。
今回の大震災で委縮する事なく、われわれ日本人は、全ての面で、もっと自信を持って生きていくべきです。
自信を以って、遣るべき事に集中すれば、自ずと道は開けてくるものです。
これは、小生の経験談でもあります。
本当に日本人で良かった!!

院長の独り言 236 ; 原子力発電に想定外は許されない…

二泊三日の京都小旅行を無事に終えて、我が家に帰ってみると、原子力発電を存続すべきか、廃止すべきかを、メディア等で盛んに論議しています。
廃止派の意見は、『我が国は地震多発地帯に在り、東日本大震災の時のように、自然災害が何処で起きても、不思議ではない。福島原発のように、事故が起きてからでは手の打ち様が無くなってしまう。所詮、原発は我が国には不向きである!』と云う事です。
一方、存続派は、『現在の我が国の電力事情を冷静に考えれば、原発を無くしてしまう事は無理である。既存の原発を、今まで以上に整備して、慎重に活用すれば良いのではないか!』です。
ところで、黒澤明監督の『夢』と云う映画を、皆さん、御覧になった事がありますか?
富士山が写っているので、多分、浜岡原発が爆発したのを想定しているのでしょうが、富士山の後ろで原子力発電所が大爆発している、恐ろしいシーンがあります。
監督は自分の見た『夢』として、絶対、安全といわれていた原発の事故を予言していたのですから、その洞察力は大変なものです。
今回、不幸にして、福島原発が事故を起こしてしまい、正夢になってしまった形です。
浜岡原発はしばらく機能しないようですが、現在、想定外の自然災害に遭うと、冷却電源が喪失してしまう原発が、日本のアチコチにあるとメディアで報道されています。
特に、インターネットの記事によると、福井県敦賀市にある高速増殖炉『もんじゅ』は今、非常に不安定な状態にあるとの事です。
『もんじゅ』の名前は文殊菩薩から由来しています。
『三人寄れば 文殊の知恵』の文殊です。
1991年に性能試験開始、夢の原子力発電所としてスタートしたのですが、4年後の1995年12月に早くも火災事故を起こしてしまいます。
2010年5月に運転を再開したものの、8月に、燃料棒の交換装置が落下してしまうという事故を起こしてしまい、いま現在も、燃料棒を取り出せない状態になっていて、事故を受けて運転を休止し、現在に至るとの事です。
このもんじゅは、広島や長崎に投下された原爆の何百倍もの規模といわれ、もし想定外の自然災害により核爆発でもしたら、日本はおろか、中国大陸や朝鮮半島にも甚大な被害を及ぼすようです。
一刻も早い、機能の回復を願うしかありません…。
原子力発電の最大の短所は、一度、放射能漏れ事故や核暴走を起こしてしまうと、何十年もの間、汚染された土地を生み出す危険性があるのです。
福島においては、散らばってしまった放射性物質を、土に染み込んでしまう前に、表土と一緒に除去するようです。
特に、放射能の影響を受けやすい子供の通う学校や通学路は、処理を急がなければなりません。
随分、以前のブログに記載しましたが、筑波大学の教授が、『オーランチキトリュム』と云う、大量に石油を生み出す藻を発見したと、メディアで報道されていました。
日本でも、自前で生産可能な、この夢の様な電力資源について、果たして、現実可能な話なのか、違うのか、この際、その先生に詳しく説明を受けるべきではないでしょうか。
本当の話であれば、日本は救われるのですが。

院長の独り言 235 ; 京都旅行(その九)

そして3日目。
5月3日(火)は憲法記念日。
今回の旅行の最終日です。
贅沢を言うようですが、もう、いい歳をしているので、たった二泊三日の旅行でも、結構、疲れてしまいました…。
朝8時に起床し、いつもより遅めの眼醒めです。
8時半頃、ホテルの食堂に行って、和食を食べました。
昨夜は、京風フランス料理にワインを少々、飲んだので、何となく暖かい御飯と味噌汁を食べたかったのです。
味噌汁は、東京のそれより、味が薄い気がしましたが、自分の口には合っていて、実に美味しく頂きました。
ただ関東の朝食には、必ず付いている納豆が無かったので、少々がっかりです。
『そうだ!ここは関西なのだ!』と改めて実感させられました。
帰りの身支度を整えて、ホテルを出たのは10時半過ぎ。
ホテルの前の通りは、京都でいち二を争う広い道路です。
この大通りはビジネス街を貫いていて、京都駅のまん前に行き着きます。
道の両側は、高層ビルが何棟も聳(そび)え立っています。
ホテルからブラブラ12~3分間、歩いて、小路の外れに、室町時代から続いている老舗のおそば屋さんがあり、そのおそば屋さんが今日のお昼の目的のお店です。
前もって、調べておいたお店です。
このおそば屋さんは遠い室町時代に、お菓子屋さんだったそうです。
お菓子からそばを作るようになったのが、応仁の乱の前だと云う話ですから、随分と歴史を感じさせられる、老舗のおそば屋さんと云う事になります。
いつも満員と聞いていたので、11時前には暖簾(のれん)をくぐりました。
まだお昼までは充分に時間があるのに、一階の席は満員、我々は運よく二階の窓側の席を確保する事が出来たので、ホッと一息。
私は天ざるの大盛りを注文しました。
本当に、あと少し遅く来たら、随分と待たされたに違いありません。
注文したおそばが運ばれて来る短い間にも、お客さんが次から次へとお店に入ってきます。
東京で、こんなに忙しそうにしているおそば屋さんをあまり見掛けません。
運ばれてきたおそばは、東京のおそばと比べると、麺は細く軟らかい感じ、タレ汁は昆布出汁の薄味で、甘みを少し感じました。
東京の醤油の濃いタレとは、かなり違っています。
出汁の味を重視する自分の好みとしては、やはり京都に軍配を上げてしまいます。
また、元は京菓子を献上していた訳ですから、勿論、今でも和菓子も売っています。
和菓子作りは、500年以上も前からの伝統を受け継いでいるので、おそば屋さんのものとはとても思えないほどに洗練された、甘さ控えめの美味でした。
昼食を早目に済まして、京都駅ビルのデパートに行ってみましたが、デパートばかりは断然、東京に軍配が上がります。
あらためて、東京のデパートの規模の大きさと豪華さを思い知らされました。
後は、新幹線で帰京。
久し振りの京都の3日間は、また京都に来たくなるほどに、楽しいものでした。
(『京都旅行』は今回で、最終回です)

院長の独り言 234 ; 京都旅行(その八)

豊臣秀吉の拠点と云うと、直ぐに、大阪の街をイメージさせます。
大阪城の威容が、そう想起させるのでしょうか…。
また秀吉は、信長亡き後、この大阪を拠点にし、刀狩りや太閤検地などの政策を素早く推し進め、戦国時代後の日本を中央集権的に統治しました。
要するに、秀吉の活躍した都市イコール大阪と受けとられ勝ちです。
確かにそれも事実ですが、どっこい、京都を忘れてはいませんか。
室町時代末期から戦国時代の京都は、応仁の乱により、殆ど焼き尽くされてしまい、都市としての趣(おもむき)は皆無、惨憺(さんたん)たる有様だったのです。
その荒廃してしまった京都を、歴史のある、威厳のある都市として、都市機能を再建したのが、秀吉その人だったのです。
皆さん、ご存知でしたか。
秀吉の京都での人気は、皆さんが想像している以上、それは大変なものなのです。
何しろ、京の都を蘇らせて呉れたのですから、当然でしょう。
例えば、大阪城も素晴らしいお城ですが、秀吉が京都に建てた伏見城も、豪華絢爛なお城だったそうです。
いまや伏見城は現存していませんが、この城に元々、在った門構えや茶室などは、アチコチの場所に移築されて、今も残っているのです。
高台寺の傘亭や時雨亭、西本願寺の飛雲閣も、すべて、伏見城から移築されたものです。
また絢爛豪華と言えば、聚楽第が有名です。
聚楽第は平城(ひらじろ)として秀吉が創らせ、やはり現存していませんが、金箔の瓦や趣味を凝らした建物、手入れの行き届いた庭園が、屏風図に描かれ残っていて、現在、中学の教科書にも載っているほどの絢爛さであったようです。
聚楽第は、秀吉が政務の為、そして自分の住居として使っていたとの事。
そして、聚楽第の周囲には、千利休をはじめ、重鎮の邸宅が多く立ち並んでいたのです。
関白職を養子の秀次に譲り、聚楽第も同時に引き渡すのですが、その後、側室お茶々(淀殿)に秀頼が生まれ、悲しい哉、後継ぎとして用無しになった秀次を、和歌山(高野山)に追放した後、秀吉は聚楽第を目茶目茶に破壊してしまいます…。
また秀吉は、自分の権勢を世間に知らしめる為に、奈良の大仏より大きい大仏の建立を目指します。
その方広寺の大仏は、奈良の大仏を凌駕する大きさを誇っていたとの事です。
大仏の高さが20メートル弱、大仏殿は50メートル程だったそうです。
ところが、大仏が完成の直前、ついてないと言うか、慶長の大地震で倒壊してしまったので、幻の大仏様と言われています。
その他、秀吉は京都をあらゆる面で整備し、また多くの公共事業を起こして、京都の人々にお金を落としたのです。
今回の京都旅行の締めとして、タクシーで『方向寺のつり鐘』を案内して貰いました。
方向寺のつり鐘とは、家康にイチャモンを付けられて大阪城の落城に繋がり、豊臣家の滅亡に追い込んだ大鐘です。
鐘に彫り込んである銘文『国家安康 君臣豊楽』の事です。
その前文『国家安康』で家康を分断し、後文『君臣豊楽』で豊臣が楽しんでいると言って文句をつけてきたのです。
実際に銘文を見てみて、あまりに小さく字が書かれているのにはビックリしました。
前文と後文が同じ行(ぎょう)ではなく離れていて、なおかつ、長い文の中のほんの、ほんの一部分です。
よほど注意深く見なければ、見過ごしてしまいそうです。
やっぱり家康は、教科書で習ったように、明らかにイチャモンをつけた事は確かなようです。
目の前で、大鐘の『小さな銘文』を確認して、歴史的事実を了解出来ました。
二日目もアッと云う間に夕方になり、いよいよ明日は東京。
楽しい時間はホントに短く感じるものです。
秀吉の辞世の句

つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな なにわのことは ゆめのまた夢

を思い出していました。
(次回で『京都旅行』は最終回です)

院長の独り言 233 ; 京都旅行(その七)

我々の傍にいた若いカップルや老夫婦も、1001体の千手観音立像や風神雷神などの国宝を目の当たりにして、ビックリしていました。
本堂の端から端まで、1000体もの千手観音立像が並ぶ様(さま)に、観ている人全てが、圧倒されてしまいます。
まさしく圧巻です。
外国人も、真剣な眼差しで見学しています。
もう少しユックリと観ていたかったのですが、時間の関係上、後ろ髪を引かれる思いで、三十三間堂を後にしました。
予定が遅れ気味だったので、某鉄道会社による京都観光の宣伝に使われている、例の『千本鳥居』で有名な伏見稲荷神社に、タクシーを急いで走らせたのです。
伏見神社3
たくさんの赤い鳥居のトンネルを、テレビ番組で見て、急に伏見稲荷に行きたくなったのですから、野次馬根性も良いところです。
全国にある稲荷神社の総本宮である伏見稲荷大社は、これも三十三間堂にある1001体の観音立像と同じように、先ず、鳥居の数で驚かされます。
1000本の鳥居が、境内をトンネルのように、長く長く続いて貫いています。
伏見神社1
伏見神社2
伏見稲荷神社は、境内の入り口である一番鳥居に入ると、大きな桜門が、そして桜門の左右にキツネが鎮座しています。
そのキツネは、今まで見た事もないほどの大きさのお稲荷さんで、顔の怖い事、怖い事。
思わず、ドキッとします。
そこから暫く歩くと、千本鳥居の入り口に。
千本鳥居の入り口からは二手(ふたて)に別れて、どちらから入っても、テレビでおなじみの長く続く、赤い鳥居のトンネルです。
二手に分かれている、どちらのトンネルを歩いて行っても、出口は同じ場所に行き着きます。
その場所が、奥社奉拝所と云い、殆どの観光客はここまで来て、それ以上、先には行きません。
本当は、ここからが本番みたいなものです。
ところが、ここからは急坂で登るのがきつく、一番の頂上にある寺社までは、大変な道のりになるので、千本鳥居をくぐった事を思い出に、殆どの観光客はここまでで引き返す訳です。
奥社奉拝所には『おもかる石』と云うスイカの大きさ程の石が祀られていて、その祀られている石を持ち上げた時に軽く感じた場合は『商売繁盛』、逆に、重く感じれば、その逆になると言い伝えられています。
5分間くらい、遠巻きに見ていると、おもかる石を持ち揚げた人の全員が『重い!』と言っていました。
自分も当然、重く感じると思ったので、おもかる石を持ち上げるのは、今回、遠慮(パス)しました。
入り口から奥社奉拝所までの鳥居の数は1000本との事ですが、千本鳥居から上に登って行けば、まだまだ沢山の鳥居のトンネルが続くのだそうです。
私も殆どの観光客も長く続く坂道を見上げて、ため息をつき『帰るとするか…』と言う事になってしまい、引き返す訳です。
予定より早く戻ってきた我々を見て、憎たらしい事に、タクシーの運転手はニヤニヤしながら、『おもかる石まででしたか?」と言わんばかりの顔をしていたのが、癪の種でした。
(次回に続く)

院長の独り言 232 ; 京都旅行(その六)

昼食後、観光用のタクシーを手配して、三十三間堂に向かいました。
料金は、3時間で9千円です。
私が高校生の時に行った修学旅行では、観光バスで名所旧跡巡りをしました。
皆さんご存知の通り、古都である京都には、狭い道路と坂道が多いのです。
バスなので、当然、狭い道には入る事が出来ないので、バス用の駐車場に止めて、その後は、結構、シンドイ徒歩での観光でした。
今時の修学旅行は、4人一組で、タクシーに分乗し、自分達の気に入ったお寺や神社を見学するのだと、乗ったタクシーの運転手さんが話していました。
タクシーなので、狭い道でも平気で入れるので、歩く事は殆どありません。
お昼御飯も有名な老舗で、懐石弁当を食べるそうです。
別に、僻(ひが)んで書いているのではないですよ。
ただ時代の違いを感じているだけです(やっぱり僻んでいるのかな…)。
つまらない話を書いて失礼しました。
三十三間堂と言えば、1000体の千手観音立像が直ぐ頭に浮かびます。
実際、ずらっと並んだ立像を目の当たりにすると、実に壮観であり、圧倒されてしまいす。
一つとして、同じお顔の仏像は存在しません。
解説によると、1000体(実際は1001体)のうち124体が、平安時代に作られたお像です。
その他のお像は、鎌倉時代のものだそうです。
三十三間堂は長さ120メートル、柱の間が33に仕切られているところから、その名がついているのです。
『蓮華王院本堂』が正式の名前です。
平安時代後期に、権勢を誇った平清盛の財政協力の基に、後白河天皇により創建されたのですが、残念ですが、暫くして焼失してしまいます。
その後、鎌倉時代に、本堂だけ再建されて、現在に至る訳です。
もし万が一でも、再び火災で、三十三間堂が焼失でもしてしまったら、沢山のお像が一遍に無くなってしまうのですから、国家の大損失です。
しっかり管理して欲しいものです。
中央に本尊の千手観音坐像が祀られていて、そこを境に500体の千手観音立像が左右に配置されており、両端に国宝の風神像と雷神像がユーモラスな表情で見下ろしています。
前列に平安時代作の国宝の28部衆像が安置されています。
ちなみに1001体の千手観音立像は国宝ではなく、重要文化財との事です。
(次回に続く)
三十三間堂

院長の独り言 231 ; 京都旅行(その五)

清水寺正門の真っ赤な仁王門の前の門前通りが『清水坂』で、小物や土産物などを売る老舗のお店が、路の左右にギッシリと並んでいます。
赤門

如何にも京都らしい、風情のある坂道です。
清水寺赤門
暫く清水坂を下り、右に折れると『産寧坂』。
さらに産寧坂から『高台寺』に至る石畳の坂道が『二年坂』です。
二年坂の前の車道を渡って、高台寺の境内に入ります。
高台寺門
高台寺は、秀吉の妻のねねが、夫である豊臣秀吉の冥福を祈って創建し、ねね自身、晩年を過ごしたお寺です。
高台寺を自分の終の棲家として暮らしたのです。
そして、高台寺の中心の霊廟に、秀吉とねねの像が安置されています。
その像の下が、ねねのお墓だそうです。
この霊廟の左右の襖絵(ふすまえ)は、長谷川等伯の書いた墨絵です。
等伯と云えば、東京国立博物館に展示されている国宝『松林図屏風』が有名です。
あの幻想的な屏風絵は記念切手にもなっているので、皆さんも本などで一度は見ている事と思います。
実に不思議な絵で、墨の濃淡のみで松林に流れる霧の流れを、写実的に表現し得ているのです。
接近して観ると、少々、粗雑にも感じる、荒々しい筆使いですが、少し離れると、実に緻密な風景画が存在するのです。
長谷川等伯は、狩野派の代表的画人 狩野永徳らと並ぶ、安土桃山時代の最も有名な絵師の一人です。
等伯は、秀吉のみならず、家康にも愛され、江戸時代初期まで活躍しました。
また、秀吉が『お茶』をこよなく愛していた事は、有名です。
千利休が秀吉の依頼で、伏見城境内に茶席として、傘亭と時雨亭を創り、秀吉はそこで親しい人を招待してお茶会を楽しんでいたと云われています。
傘を拡げた独特な形をした屋根の傘亭。
時雨亭は茶席としては、大変、珍しい二階屋です。
ねねは、その傘亭と時雨亭を、亡き夫である秀吉の為に、伏見城から高台寺にわざわざ移築したのです。
高台寺のお庭はと云うと、龍安寺の石庭とはまた趣を異にし、お茶会にはドンピシャです。
高台寺庭
多分、ねねはお茶を愛した秀吉の為に、死後、高台寺を創建したのでしょう。
高台寺は、現代でも安土桃山時代の名庭として、大変、人気があるのです。
夜になると、高台寺全体がライトアップされているのだそうです。
今度、京都に行く機会があったら、是非、夜にライトアップされた、この名庭を楽しみたいと思います。
ここで、お昼御飯です。
予約していた京懐石を楽しみました。
京懐石
京懐石2
(次回に続く)

院長の独り言 230 ; 京都旅行(その四)

久し振りの京都駅に着いた、旅行初日の午後。
小雨が降ったり、止んだり…。
雨雲を見上げながら、これ以上、天気が悪化しない事を祈りつつ、まず金閣寺に向かいました。
天気は良くなかったのですが、そのお陰か、大人気の観光地、金閣寺や龍安寺は混雑していません。
予想以上に、古寺を愉しむ事が出来ました。
そして旅行二日目、5月2日月曜日です。
昨夜、肉料理をたくさん頂いたので、朝起きても、食欲が全く湧きません。
朝食を抜こうと思ったのですが、予定では、坂道を歩かなければならないので、軽めの食事を摂る事にしたのです。
ホテルの近くの喫茶店に入り、パンと卵入りのサラダ、それにコーヒーをブラックで飲みました。
今回の旅行は、二泊三日の小旅行です。
息子や山森君、そして女性スタッフ皆さんのお陰で、5/2(月)は平日ですが、医院を任せきりにして、休ませて貰いました。
本日の観光予定は、清水寺に先ず行き、清水坂、産寧坂(さんねいざか)と二年坂の三つの坂を歩き、その途上にある雑貨屋、名物のお菓子屋、お土産屋をヒヤカシながらブラブラ、高台寺まで探索したのです。
京都の小路
天気予報では、昨日と違い、朝から好天に恵まれるとの事でした。
ところが、ホテルを出て驚いたのですが、京都を取り巻く山々が全く見えないほどに視界が悪いのです。
お日様も全く見えません。
今日は晴天の筈なのに、天気予報が外れたのかと思いました。
結局、気象庁は予想を外していなかったのですが、この汚れた空気の原因は、中国大陸からの『黄砂』と分かったのです。
毎年の事ですが、目も喉も痛いし、この黄砂、何とかならないものでしょうか?
黄砂に出鼻を挫かれた感じでしたが、気を取り直して、清水寺に向かいました。
清水寺の由来は、奈良時代末期に、征夷大将軍 坂上田村麻呂が千手観音像をこのお寺に安置したのが始まりです。
『清水の舞台から飛び降りる』で知られる本堂をはじめ、仁王門など現在、清水寺に残っている国宝は、家光(徳川三代将軍)によって再建されたものです。
本堂は、有名な清水の舞台です。
辺りはひと、ひと、ひとで、混雑はしているのですが、いつもと違い、人との間に余裕があるので、舞台の先端まで直ぐに行く事が出来ました。
そこから見た下界には、境内の道を歩いている大勢の人々が、アリの行列のように見えます。
清水の舞台から
しかし普段なら、古都が若々しい新緑に映え、素晴らしい景色な筈なのに、今日ばかりは、黄砂のモヤで霞(かす)んで、何も見えません。
全く残念です…。
帰途、山道から振り返ると、たった今、立っていた清水寺の全景が目に入ってきました。
威風堂々、歳月の経た貫禄すら感じる清水寺は、世界遺産になるのが当然といったところです。
下の山道から見上げると、今度は逆に舞台に立っている大勢の人が小さく、人形のように見えて、箱庭のようでした。
清水の舞台を振り返る
もう少し清水寺を見ていたかったのですが、時間の関係上、後ろ髪を引かれる思いで、先に進みました。
途中で、ひと休み。
抹茶を頂いた後、高台寺に向かったのです。
(次回に続く)

院長の独り言 229 ; 京都旅行(その三)

幸運にも、大人気の金閣寺で予定より時間が掛からず、スムーズに見学出来きました。
金閣寺を充分に堪能出来たし、小雨も降っていたので、ホテルへ引き揚げようとも思ったのですが、まだ午後4時前です。
思い切って、龍安寺の石庭を見学する事にしました。
運良く、龍安寺に着く頃には、雨も上がっていました。
お日様は拝めませんが、傘は必要無さそうです。
普段は、ヨーロッパ人が大勢、石庭の前で陣取って、長い間、瞑想に耽(ふけ)っているそうで、中々、座ってお庭をジックリ見る事が難しいそうです。
今日は天気もイマイチ、おまけに原発事故の影響で、外国人の姿もまばらで、縁側の一番、先に腰を掛けて、ゆっくり石庭を見る事が出来ました。
竜安寺で瞑想
龍安寺は臨済宗派の禅寺で、細川勝元が1450年に創建したのですが、ご存知のように、山名宗全と対立。
金閣寺と同じように、応仁の乱の際に、焼失してしまいます。
その後、1499年に勝元の子、政元によって再建され、現在に至る訳です。
禅の精神は、欧米の人達にも支持されている事もあって、彼ら観光客に龍安寺は大変、人気が高いのです。
小生も、今回は念入りに、石庭を隅から隅まで見学しましたが、確かに見れば見るほど不可思議なお庭です。
この庭をはじめに考案した人は、ユニークな宇宙観を持っていたのでしょう。
竜安寺石庭
普通、あのような庭は考え付かないものです。
庭木が綺麗に配されている庭や、芝生が生え揃っている手入の行き届いた庭も、確かに清々しさを感じますが、龍安寺の石庭には、不可思議な魅力を感じました。
1975年(昭和50年)に京都を訪れたイギリスのエリザベス女王が、この龍安寺の石庭を絶賛したのを切っ掛けとして、ヨーロッパでは禅ブームが起きたとされています。
箱庭
対照的な金閣寺と龍安寺の庭園を楽しみ過ぎて、少々、足がむくんでしまい、ホテルまで、タクシーのお世話になってしまいました。
夜の食事は、肉料理をホテルの近くにある小料理屋さんで愉しみ、疲れはしましたが、一日目を無事に終えたのです。

院長の独り言 228 ; 京都旅行 (その二)

新幹線に乗ると、何時も思い出すのが、フランスの超特急『TGV』です。
10年ほど前に、一度、乗った事があります。
日本の新幹線と比べてみたかったのです。
新幹線の乗り心地の良さに比較すると、フランスの超特急は揺れも激しく、乗り心地は全く劣っていました。
確かに、スピードは新幹線と同じですが、快適とはお世辞にも言えない経験でした。
『日本の新幹線を導入すれば良いのに…』と、内心、思ったものです。
技術面では優れていても、外国に中々、メイドインジャパンを売り込めないのは、ただ単に政治力の差でしょう。
新横浜を過ぎた頃、東京駅で買ったお弁当を食べ終えて、ひと息。
外は曇っていて本当に残念なのですが、大好きな富士の山に、お目にかかる事は出来ませんでした。
名古屋をいつの間にかに過ぎると、ゆっくりする暇もないくらいに、アッと言う間に京都駅に着いてしまったのです。
時計を見ると、午後0時半、いよいよ、久し振りの京都です。
もう少し新幹線には乗っていたいくらい、快適な乗り心地でした。
近代的な京都駅を後にして、京都御所の直ぐ近くにあるホテルに荷物を置き、計画通りに、まず金閣寺(鹿苑寺)に向かったのです。
小雨が降っていたので、タクシーを利用しました。
実は小生、京都に高校の同級生がいたので、彼の下宿を足掛かりにして、大学生時代に、殆どの名所旧跡を見て回っていたのです。
金閣寺は勿論、銀閣寺、清水寺、二条城、三十三間堂、嵐山など見所は殆ど見学しています。
おまけに大学の同窓会の時には、舞妓さん遊びの経験もあるのです。
以前、金閣寺は二回、見学していたので、今回が確か三度目、いや四度目かも知れません…。
以前に見た時は、金箔の部分が渋く疲れていて、如何にも古色蒼然、永い時間が経過している風格を感じたのですが、今日、見る金閣寺は、つい最近、リホームしたとの事。
あまりに金ピカになっていて、小生とすれば、軽薄な感じがしてしまい、ちょっとした違和感を持ったのでした。
多分、あと、十年位経つと、歴史を感じさせる趣が出てくる事でしょう。
震災の原発事故の所為(せい)か、外国人の姿を殆ど見る事が出来ず、普段は中国語、英語、フランス語、そしてドイツ語などの外国語が、乱れ飛んで聞こえるところですが、全く聞こえませんでした。
売店のひとの話によると、普段、観光客の半分は外国人だそうです。
当日はいつもの三分の一程度の人で、大変、見学し易かったのです。
新緑に映えた金閣寺を前から、斜めから、後ろからと、充分に堪能する事が出来ました。
少し喉も渇いたので、喫茶所に入って、お茶にする事にしたのです。
いつもは混んでいて、抹茶を飲みながら、お庭を堪能するには、かなり待たなければならないそうです。
今回は、お菓子付きの抹茶を、並ばずに、直ぐに愉しむ事が出来ました。
金閣でのお茶
たまには、苔生した端正な庭園で、お茶を楽しむのも、優雅な気持ちにさせられるものです。
金閣寺の庭
応仁の乱(応仁・文明の乱)では、山名宗全率いる西軍の本陣となり、寺の大半が焼失したとの事。
昭和25年にも、放火により金閣は焼かれました。
三島由紀夫がその事件に刺激され、名作『金閣寺』を著しました。
今となっては、三島調の流麗で耽美的な日本語は流行らないのでしょうが、とても美しい文章です。
新しい金箔に飾り立てられた金閣を眺めると、何となく、背景に焔が見えてくるようです…。
(次回に続く)
金閣

院長の独り言 227 ; 京都旅行 (その一)

小旅行をしていたので、ブログの更新をしばし、お休みしていました。
今日から再開します。
実は、東日本大震災が起きた3月11日(金)より一カ月前に、ゴールデンウィークに京都へ旅行するべく、ホテルと新幹線を予約していたのです。
何しろ京都は、JR東日本のテレビCM『そーだ、京都に行こう!』でお馴染みの人気スポットです。
早目に予約をしないと行けなくなると思ったから、2月に予約したのです。
早々とホテルに電話をした結果、無事に予約が取れて、京都旅行を大変、楽しみにしていました。
ところが、あの大災害発生です…。
旅行しようか、キャンセルしようか、夫婦で悩みました。
あの津波に襲われた、悲痛な被災者の姿を映像で目撃してしまうと、旅行を楽しもうと思っていた気持ちが、一遍に萎えてしまったのです。
気分が全く乗らないので、旅行を中止しようと、一旦は考えました。
しかし、色々と考えた結果、思い切って決行する事にしたのです。
皆さんも耳にタコが出来るほど聞いているでしょうが、『旅行やイベント、買い物や食事などを、むしろ自粛すべきではない!』と経済学者がメディアで口々に言っています。
只でさえ、現在の我が国はデフレなのに、皆が被災者の心中(しんちゅう)を察して、全ての面で自粛に自粛を重ねていると、益々、日本経済が委縮してしまい、税収が落ち込み、本末転倒になり兼ねないと思ったのです。
…と言う訳で、予定通りに、京都に行く事にしました。
5月1 日(日)、朝8時に自宅を出発。
新幹線に乗るべく東京駅に向かいました。
新幹線の改札口に行ってみると、少し以前のブログに書きましたが、名古屋で大学時代の同窓会を開いた時、新幹線乗り場は、ひと、ひと、ひとで溢れていたのですが、あの時の状況とちょっと様子が違います。
乗客の数が圧倒的に少ないのです。
やはり、旅行を自粛している人が多いのかも知れません。
何となく後ろめたい気がしましたが、気を取り直して、まず駅弁を買う事にしたのです。
駅弁は東北地方応援の為に、東北産のお弁当を買って、10時10分発の博多行き『のぞみ』に乗車したのです。
京都まで停車駅、四つで到着です。
品川、新横浜、名古屋、そして目的地の京都。
新幹線に乗っていると、大学生時代に京都に行った時を、つい思い出してします。
勿論、其の後、何回か京都は行っていますが、大学生の時には、京都までビックリするほど時間が掛かった思い出があるので、京都は遠隔の地と感じてしまうのです。
現実、今や、京都はあまりに近いので驚きです。
京都旅行1
(次回に続く)

院長の独り言 226 ; 少し、研究のための研究になっていませんか?

東日本大震災で痛感させられたのは、我が国は多方面の分野で最先端を走る先進国と思っていたのですが、そうでも無いと分かった事です。
小生、何となくガッカリしたと云うのが、正直な気持ちです。
日本は地震が頻発する国なので、地震を研究している大学が沢山あります。
また、優れた地震学者が切磋琢磨して、その成因や予知について、最先端の研究をしているのだとばかり思っていました。
もし今回の大地震が予知出来ていたら、こんなに破滅的な被害を被(こうむ)らずに済んだ事でしょう。
あのM9.0の大地震が発生した二日前に、M7.4の地震が近くの海底で起きていました。
その時に八王子もかなり揺れました。
多分、その地震が前震だったのでしょう。
大被害の起きてしまった後から、『二日前の地震が、本震を教えていた!』と判断しても後の祭り。
本当に残念です…。
地震を予知する事は、確かに大変、難しいのでしょう。
進んだ我が国の地震学を以って、せめてM8.0以上の大地震だけでも予知をする事が出来ないのでしょうか。
地震の起きるメカニズムを知らない素人の小生が、愚痴を云っても始まらない事ぐらい分かっています。
が、あまりにも多くの方々の犠牲、そして建物や船、自動車などの破壊された風景をテレビで見ていると、『何故、大地震の予知が出来ないのだろう?』と素朴な疑問が湧いてきます。
しかも、これからの日本は地震頻発時代に入ったと言われているのです。
あまりの大被害に気が沈んでしまい、愚痴の一つも出てしまうのです…。
もう一つガッカリした事があります。
テレビ番組で、人間にソックリな動作をするロボットを見て、『流石(さすが)、日本のロボット技術は世界で一番だ!』と、ひとりで悦に入っていたのです。
福島の原発事故が起きるまでは…。
水素爆発を起こした建屋の内部に入って、破損箇所を点検して修理したくても、内部は放射能で汚れてしまっているので、当然、人間が入る事は出来ません。
ここで日本のロボットが登場して、大活躍すると思っていました。
あの人間ソックリのロボットが救世主として、大活躍すると期待したのです。
小生は固唾を飲んで見ていました。
ところが、画面に出てきたロボットは、人間とは似ても似つかない、如何にもひと昔もふた昔も前に見た、アームの付いた器具と云った感じです。
古めかしい型の、とてもロボットとは言えない代物で、随分、昔に日本で作ったロボットかと思っていたら、なんとアメリカ製とテレビで紹介したのです。
目が点になりました。
ロボットは日本製が飛び抜けに最先端だと思っていたので、本当に意外だったのです。
おまけに、そのロボットの性能がなかなか良いようなのです。
日本製ロボットの性能は、アメリカ製より、実用面で劣っているのでしょう。
でなければ、国産のロボットを使用する筈です。
日本のロボット技術は、所詮、人々を驚かせるカラクリ人形なのでしょうか。
世界一の人間型ロボットが、玩具(おもちゃ)に見えてきたのは、私だけでしょうか。
愚痴ばかり言って申し訳ありません…。
アメリカは、最先端の技術を軍事へ転用するので、実用的なのでしょう。
軍事技術という性質上、開発費も多く流れ込むのでしょうし…。
良く言われる事ですが、インターネットやGPSも、アメリカの軍事技術からの恩恵です。
現在の民主党政権は一時期、武器輸出を一部、解禁するようなアナウンスをしていましたが、どうなったのでしょうか?
その是非は措いておくとして、税金からの開発費によって補助されるばかりで、市場の原理に晒されなければ、技術は洗練されないのではないでしょうか?

院長の独り言 225 ; 寿司の歴史

東日本大震災で、宮古や大船渡などの漁港が壊滅してしまいました。
東北地方の漁港が壊滅してしまっている現在、魚の水揚げが極端に減少してしまっているとの事。
魚好きの私としては、大心配です。
焼き魚、煮魚、そして天麩羅も大好きです。
思っただけでも涎(よだれ)が垂れそうです。
特に好物なのがお寿司です。
お寿司のネタで、マグロ、ヒラメ、赤貝、数の子、ホッキ貝など、何でも大好きで、嫌いなものは全くありません。
日本人であれば、お寿司の苦手な人は、まずいないでしょう。
最近は、外人さんもお寿司に嵌(はま)っているようです。
世界中のどこに行っても寿司ブームで、フランスやスペインでも、お寿司屋さんの看板を目にしました。
正直、あまり外国にはお寿司を宣伝したくないと思います。
お寿司を一度、口にすると、絶対にお寿司好きになってしまい、われわれ日本人の口に入りにくくなるのではないかと、いらぬ心配をしてしまいます。
皆さんご存知ですか?
われわれが大好きな握り寿司の歴史は、意外と浅いのです。
せいぜい200年程度の歴史なのです。
江戸時代の後期に、屋台で江戸前寿司として現れたのです。
東京湾で獲れた魚介類を、握った酢飯に乗せて振る舞ったのが、江戸前寿司の始まりとされています。
江戸の街にだけで食べられていたのです。
冷蔵庫のない時代ですから、生魚の流通が行き届く範囲のみで食されていたのです。
そして寿司の原型は、数千年以上前に東南アジアで、米の中に生魚を入れ発酵させて、保存食として、魚だけを取り出して食べていたものだそうです。
その魚の保存食の製法が、中国経由で奈良時代に我が国に伝わったとされています。
伝わった当時は、やはり魚を発酵させて、魚だけを食べていたようです。
日本人は米好きという事もあって、今でいう関西風の寿司(なれ寿司)が、その後、登場したのです。
それが江戸の花屋なにがしと云う人物が、酢飯を握って、東京湾で獲れた江戸前の魚を上に乗せ、屋台で立ち食いを始めたのが、現在の握り寿司の始まりと云う事です。
江戸前寿司は関東大震災までは、東京近辺だけがテリトリーだったのです。
それが地震で壊滅して、東京で寿司の商売が出来なくなってしまい、日本各地に寿司職人が止むを得ずに拡散してしまい、それが切っ掛けで江戸前寿司が全国に伝わって行ったのです。
これは嘘ではありません。
本当の話です。
お寿司が全国的になったのは第二次大戦の後、戦後の事で、極く最近の事です。
更に世界中の大都市では、寿司がブームになって、海外旅行に行くと、街のアチコチに回転寿司屋がある始末です。
味はまだ劣るのですが…。
東北の漁港も早く震災前のように復興して、新鮮な寿司ネタが沢山、獲れるように心から願っています。
ちなみに『寿司』は当て字で、元々は『鮨』あるいは『鮓』です。

院長の独り言 224 ; 日々の生活に新しい発見を…

茶華道教授の阿部治子先生の御好意により、当院の歯科衛生士2人が、煎茶を習い始めました。
阿部先生は以前より、当院の患者さんです。
先生が茶華道の先生であるとは、以前から存じ上げていたのですが、全国的に大活躍されている忙しい身体なので、まさか教えて頂けるとは思っていなかったのです。
何しろ、阿部先生は茶道の師範を指導している方です。
思ってもいなかったのですが、『どうぞ』と気さくに声を掛けて頂きました。
ご教授して頂く歯科衛生士2人、有若さんと蓮実さんは、喜び勇んで教えを請う事になったのです。
2人に先生の授業の感想を聞くと、『礼儀作法から日本の歴史まで、色々と教えて貰い、本当に楽しい!』だそうです。
お茶を点てる方法を主に習うのかと思っていたのに、教養を身に付ける事が出来て、目から鱗(うろこ)との事です。
そして『お茶』に対して考えが、180度、変わったそうです。
小生も歴史を学ぶ事が好きなので、茶道についての本も少しは読んでいるのですが、2人もてっきり、茶室で抹茶を頂く作法を習うのとばかり思っていました。
ところが2人の話によると、勿論、それも教えて貰うのですが、お茶が我が国に伝わってきた歴史や使う道具の由来だけでなく、茶道とは全く関係ないと思われていた事柄が、実は、茶道と重要な結び付きがある事を教わるのだそうです。
一つの例として、茶道には、扇子の所持が絶対不可欠だそうです。
先ずお茶を始めるに当たって、扇子を自分の前に置き、結界という儀式を行ってからお茶を始めるのだそうです。
2人は、抹茶は大変なので煎茶の作法を、先ず学習する事になりました。
抹茶の作法をマスターするのには、10年以上の歳月が必要との事です。
煎茶の作法をものにするのでも、少なくとも、2~3年間は掛るそうです。
先生との会話は凄く楽しいし、そして美味しい和菓子付きの授業。
2人の嬉しそうな話を聞いていると、私も参加したくなりました。
お茶は元々、中国の後漢時代に飲まれるようになったと歴史書には書かれています。
苦い飲み物で、薬として飲まれていたようです。
『茶』は、広東語で『チャ』であり、福建省の言葉では『ティ』と発音し、二つの伝わった系統で、発音が異なってしまったのです。
日本に伝わった発音は、広東語の『チャ』と云う事になります。
お茶は平安時代に入って、空海、最澄らが、遣唐使として留学していた唐の国から持ち帰ったものと言われていますが、最近の学説では、奈良時代には既に伝えられていたと云う説も言われています。
しかし、お茶を飲む習慣は、しばし衰退してしまいます。
その後、お茶をただの飲み物では無く、日本独自の文化である『茶道』として再構築させたのが、鎌倉時代の禅僧栄西と言われています。
室町時代になって、村田珠光が僧侶の立場から『侘び茶』という新しいお茶の概念を創作し、それを弟子の武野紹鴎が引き継ぎ、ついに千利休が完成させたとされています。
『草庵』や『にじり口』、『露地』など、現在、我々のイメージする、茶道の世界観が出来上がったのです。
茶道は江戸初期までは、僧侶や武士の社交だったそうですが、江戸中期頃には、庶民にも浸透していったようです。
現在は、『表千家』、『裏千家』、『武者小路千家』の三千家の家元に分かれています。
2人の衛生士さんは、阿部先生に『煎茶』の道をご教授して頂き、日々の生活に新しい発見を見出したとの事。
先生のお宅に行くのが、本当に楽しみだそうです。
阿部先生、有り難う御座います!

院長の独り言 223 ; 痩せた猫を思い出す

皆さんは犬派ですか?
それとも猫派ですか?
動物好きの人はきっと、『両方、大好き!』と言うでしょう。
人によっては、『猫は好かないけど、犬は好きだ』と言うでしょうし、その逆の人もいるかと思います。
何度か、以前のブログに書きましたが、小生の学生時代、自宅で秋田犬を飼っていたのは、既に報告済みです。
以前、秋田犬を飼っていたと云う事もあって、どちらかと云うと自分は犬派でした。
その秋田犬『ふじ』は、私に良く懐いていたので、余計に犬好きになってしまったのでしょう。
別に、猫が嫌いと言うわけではないのです。
自分の考えでは、少年の頃から、『犬イコール番犬』であり、大きくて、威圧感があり、しかも忠実そのもので、小生の親友となるなら、それは犬であると思い込んでいました。
そう云う大きくて、飼い主に忠実な犬を飼ってみたくて堪らなかったのです。
そこに、大型犬の秋田犬を飼ったものですから、猫は眼中に無かったと云う事です。
今は、小さくて愛らしい愛玩犬の方が、強面(こわもて)の番犬よりズーッと人気があるようです。
私が子供の頃は、愛玩犬などトンとお目にかかった事は無かったのです。
犬は番犬として飼われていたのが、一般的でした。
これも以前のブログに書いた事ですが、可愛がっていた『ふじ』が癌で2歳の時に突然、死んでしまい、おまけに大学院の時に、研究で動物実験をしなければならなくなり、その時に凄く嫌だったのですが、犬を止むを得ずに屠殺したので、その後は、犬を遠ざけていた事も確かです。
それ以来、動物は飼わないと決めていたのです。
ところがある日の朝、新聞をポストに取りに行った時、足元にヨロヨロと倒れ込んできた茶色の猫がいたのです。
その猫は痩せ細っていて、何日も食べ物を口にしていない事は明らかでした。
気の毒に思って、早速、鰹節入りのご飯を食べさせたところ、必死に食べた後、直ぐに姿を晦(くら)ましてしまいました。
それからその猫は、2日に1回程度、顔を見せて、その都度、与えた餌を食べ終わるとそそくさと何処かへ消えてしまうのです。
結局2年ほど、つかず離れずに、その猫はウチの周りを徘徊していましたが、馴れる事は決して無かったのです。
常にその猫は1メートル以上離れていて、それ以上、近寄る事は決してありませんでした。
1メートルより人が近付くと、サッと逃げ、こっちが引き下がるとまた近付いて来るのです…。
こんなに用心深い猫は、後にも先にも、この猫以外、見た事はありません。
結局、2年ほどで姿を見せなくなったので、何処かへ行ってしまったと思って、猫の事は忘れていました。
忘れた頃に、黒ブチと茶色の2匹の子猫を連れて、その猫が我が家に再び出現したのです。
ところが、その2匹の子猫を置きざりにして、直ぐ何処かにまた消えてしまいました。
それから、その猫は二度と姿を見ませんでした。
本当に不思議な猫でした。
2匹の子猫は、我が家の人間に良く懐きました。
痩せていた親猫とは違い、子猫たちは与えた餌を良く食べ、太りました。
今回、原発事故で飼い主がいなくなり、やせ細った犬や猫、牛などの家畜が、市道を彷徨い歩いていますが、小生は思わず、かつての痩せた親猫を思い出してしまいます。
泣く泣く住民の方々が去られた街中を、痩せた牛の群れが歩いて行く…。
その光景が目に焼き付いて、離れません。
彼らはどうなるのでしょうか?

院長の独り言 222 ; 青い文字盤の時計と親父の思い出

私が自分の腕時計を持つ事が出来たのは、大学生に入学した時に、お祝いとして親からプレゼントして貰った、シチズン社製の青い文字盤をした時計が始めてでした。
今時は小学生でも、腕時計の一つや二つ持っているのは当り前で、更には携帯電話を持っているのが当然の世の中です。
70歳を超えるまでの間に、自分で買った腕時計は5本ですが、中でも一番大切にして、書斎の机の奥に、大切に仕舞い込んでいる時計が、その青の文字盤の時計です。
時計を貰った時の感激は、今でも鮮明に覚えています…。
親父が『入学、おめでとう!』とニコニコと笑いながら、リボン付きの小箱を渡して呉れたのです。
傍にいたお袋が『開けてごらん』と促したので、照れもあってか、乱暴にリボンを引っ張って小箱を開けたのです。
当時、家計が苦しかったのは、普段の生活で充分に理解出来ていたので、勿論、腕時計を入学祝いに貰えるなんて夢にも思ってもいなかったのです。
大学に通わせて貰うだけでも、感謝、感謝でした。
だいたい、プレゼントなんか親から貰った事は無かったので、その行為だけでビックリでした。
自分の腕時計が持てただけで、本当に嬉しくて、嬉しくて、お風呂に入る以外は寝ている時も、肌身離さず身に着けていたものです。
大学に入ってからは、様々なアルバイトをして、両親から小遣いを一切、貰いませんでしたが、自分で稼いだ小遣いとは云へ、タバコを吸ったり、ハイボールを飲んだりしている息子を、親はどう見ていたのでしょうか。
さぞ、『馬鹿息子!』と思っていた事でしょう。
大学生になってからは、親父からも、お袋からも、私生活について小言を言われる事は全くありませんでした。
高校生の時までは、親父は何かに付けて説教しましたが、大学生になった途端、怒る事が一切、無くなってしまったのです。
『大学生はもう大人だから…』が、親父の口癖でした。
小生も、一人前の男になった気分がしたものです。
その親父も、およそ20年前に亡くなりました。
今回の大震災で、東北地方の壊滅した街々を見て、親父が関東大震災の話をして呉れた事を思い出しました。
親父が大学3年生の時に、実家の在る新潟から上京する上越線の車内で、地震に遭遇したとの事でした。
幸いにも、高崎を出た直後に地震が起きたそうで、『もし東京の下宿に戻っていたら、生きていたかどうか分からなかった』と話していました。
電車が止まってしまい、やっと、二日後に上野に着いたそうですが、その時、車窓から見た東京の惨状は大変なもので、目を覆いたくなる程だったそうです。
今回の大津波の惨状と違い、関東大震災は火事による東京の壊滅でした。
お袋は、まだ幼すぎていたので、余りハッキリした記憶は無かったけれど、火事から逃げる為に、船に乗って東京湾に出たそうです。
その後、親父の話によると、日本は大不景気になってしまい、卒業後の就職には大変、苦労したと述懐していました。
東日本大震災の後も大不景気にならないように、日本国あげて頑張らないと、大変な事になり兼ねません。
歴史は繰り返す。
小生は、増税だけは絶対に避けるべきだと思うのですが…。