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院長の独り言 284 ; 水上バスに乗って、品川から浅草まで

連休を利用して、家族でお墓参りに出掛ける事にしました。
例によって息子が運転手です。
お墓は千葉の八柱と東京の西多摩にあります。
先ず、遠い方の八柱霊園にお参りに行く事を決めて、朝8時過ぎに自宅を出発。
八柱の霊園に行くには、中央道から首都高速に入り、千葉方面に向かうのですが、道が空いていれば、約1時間で到着します。
中央道の上り車線に入った途端、目に入ったのは、反対車線の異常な混みようです。
下りの相模湖方面は、行楽地に向かう車でビッシリ。
上り方面は、下りの人の目に毒なくらいに、スイスイと順調に流れていたので、ホッとしました。
ところが、吉祥寺の首都高の料金所を過ぎたころから、上り車線も雲行きが怪しくなってきました。
何となく車が詰まってきた感じなのです。
早速、カーナビで松戸方面を調べてみたところ、都心から千葉方面に向かって、高速道路も、一般道も、渋滞を表す赤色に染まっています。
大渋滞のようです。
いま走ってきた中央道の下りの情景を目の当たりにしてきたので、正直、あんな渋滞に嵌(はま)る事だけは絶対に避けたいと思ったのでした。
止むを得ず、急遽(きゅうきょ)、ご先祖様には申し訳なかったのですが、今日のお墓参りは中止する事にしてしまいました。
日を改めて、なるべく早く墓参に行くつもりです。
ところで、中央道の下りは大渋滞なので、とんぼ返りで、自宅にも帰れそうにありません。
しばらく都内に留まる事にしたのです。
報道によると、品川が素晴らしく変身したようなので、一度、行ってみたかったのです。
丁度、良い機会でした。
『久し振りに、品川にでも行ってみようか!』と、意見が纏(まと)まりました。
新宿駅に駐車し、冷たいコーヒーでひと息ついた後、山手線に乗り、一路、品川へ。
本当に久し振りの品川。
新しい高層ビルが立ち並び、かつての東京と横浜の中継地と云った面影は、何処にも有りません。
新宿や渋谷のような、山手線沿線の大繁華街に様変わりしていたので、驚きました。
大変な混雑ぶりに、思わず気後れしてしまい、まるで『お上りさん』のように目をキョロキョロさせ、改札口を出たところで暫く立ちすくんでいました。
テレビ番組で、イルカのショーで有名な『エプソン 品川アクアスタジアム』を紹介していたのを思い出したので、『どんなものか観てみようか…』となったのです。
ところが、肝心のスタジアムの場所が何処だか分かりません。
長年、東京に住んでいる自分としては恥ずかしかったのですが、駅員さんに聞く羽目になりました。
訪れてみると、子供連れの親子を中心に、若い人達で超満員。
景気が少し上向いてきたのか、良い傾向です。
幼児は入場料金がおまけですが、われわれ夫婦も65歳以上と云う事で、少し割引料金。
得をした気分です。
中に入ると、左右そして頭上に大小様々、色とりどりの魚達が、大きな水槽の中で群れを組んで泳いでいて、平凡な感想ですが、まるで海の中にいる様な錯覚を覚えます。
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比較的に大きな魚が多いので、手前みそですが、石川歯科で飼育している熱帯魚やハリセンボンの方が、愛くるしく感じるのは、エコ贔屓(ひいき)?でしょうか。
運よく海豚(イルカ)ショーを座って見学出来ました。
大小10頭ほどのイルカが泳ぐと云うより、凄いスピードで水面を走ったり、高く跳びはねたりして、水飛沫(みずしぶき)を景気良く飛ばし、前列のお客さんはズブ濡れです。
子供たちの甲高い悲鳴で大盛り上がり、20分間のショータイムは、アッと云う間に終了です。
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大いに楽しんで、水族館を出たのが、まだお昼前です。
多分、帰りの下り方面中央道は、まだまだ渋滞に決っています…。
もう少し時間つぶしと云う事で、まだ一度も経験のない、隅田川の水上バスに乗ってみる事にしました。
知らなかったのですが、日の出桟橋から浅草まで、遊覧船で行く事が出来るのです。
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交通機関は電車でも良かったのですが、実は、小さい頃に住んでいた下町の変身振りを、久し振りに見たいと思ったのです。
日の出桟橋が品川の目と鼻の先と分かったので、早速、桟橋に出向いてみました。
遊覧船から見る下町の風景は、想像していた以上に様変わりしていました。
魚(セイゴやボラなど)を釣っていた60年以上前の、灰色の岸壁だけで、殺風景だった街並みとは大違い、隅田川の周りは、新しい高層マンションのオンパレードです。
川べりも緑豊かに整備されています。
パリのセーヌ川の遊覧船から見る景色といい勝負です。
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江戸時代から隅田川は、生活物資の運搬を司る、大切な動脈だったのです。
川幅はかなり広く、両岸を行き来する為に、明治時代から、大きな橋が何本も架けられました。
ところが勝鬨橋(築地)と永代橋(深川)の間の、かなり長い区間には、橋が無かったのです。
橋だけを利用すると、銀座、築地から月島、佃島方面に行くには随分と、遠回りを強いられていました。
今は佃大橋が架けられて便利になりましたが、それまでは橋の代わりに、渡し船が住民の足として運航されていたのです。
『渡船(とせん)』と言って、無料だったので、その渡船に友達たちと乗って遊んでいた幼い頃が、走馬灯のように蘇(よみがえ)ります。
隅田川沿いも綺麗になったもんだと感心すると同時に、情緒たっぷりの渡し船には、もう乗る事は出来なくなってしまったのでした…。
(次回に続く)

院長の独り言 283 ; パソコンの進化は、人間性の変化に繋がるのか?

今、書斎の机の上に置いてある、愛用のWindows PC(通称;パソコン)に、ブログ『院長の独り言』を打ち込んでいます。
使用ワープロソフトは、Microsoft社のOffice Wordです。
職場にあるのは、Apple社のiMacですから、Pagesというソフトを使用します。
パソコンは所謂、個人向けの電子計算機(パーソナルコンピューター)ですが、この機械が無いと、仕事は捗りません。
仕事以外にも、自分の生活を皆さんと同様、かなりの時間、パソコンの前で過ごしています。
最近は、Apple社からiPadというタブレット型PCが出現したので、ソファーに寝転びながらのネットサーフィンです。
小生が大学院生の頃、臨床統計の仕事で標準偏差や平均値などを計算するために、初めて、本格的な電子計算機なるものを使う事になったのです。
当時は現在のパソコンと違い、電子計算機は複雑な計算をする為にのみ、使用していました。
それしか使い道が無かったのです。
この電子計算機、最初、目にした時は、あまりにも大きい機械なので、先ずはビックリして圧倒されてしまいました。
大袈裟でなく、8畳の部屋に目一杯、陣取って鎮座していたのです。
何だか訳の解らない電気部品が連なっていて、それが大量のコードで結ばれていました。
半導体など無い時代です。
この大きな電子計算機一台が、研究室の一室に備え付けてあったのです。
基礎の研究室(病理学、解剖学、生理学、細菌学、薬理学など)から臨床の研究室(保存学、補綴学、口腔外科学など)まで、全ての教室が、この大きな電子計算機を順繰りに使用していました。
現在のパソコンは、有意差の検定など、立ち所に答えを出して呉れます。
ところが、当時の電子計算機は、図体が大きいのですが、統計の資料などを入力すると、答えが出て来るまで、大変な時間が掛かります。
複雑な計算を頼むと、ゴトゴトと音がしたかと思うと、急に静まり返ったり、またゴトゴトと動き出したりして、如何にも難しい計算を考え考え答えを出していると云った風情で、非常に人間的なのです。
如何にも人が頭をひねって苦闘して計算しているようで、ユーモラスです。
現在のパソコンは余りにも完璧で、人間味がありませんね。
電子計算機は信じられないほど、便利に進化して、小型軽量化してしまったと云う訳です。
ハードの進化は、半導体の高機能、小型化に依るものいって良いでしょう。
また、ハードの性能が向上するにつれ、プログラム(ソフト)も進化しました。
ワープロ、インターネット、電子メール、その他業務用や娯楽用ソフト、ゲームなど、広範囲に利用できる事は皆さんご存知の通りです。
インターネットのコンテンツが、1990年中頃から充実してきて、現在はまさしく、一人一台の、パソコンの時代になってしまいました。
単純に纏(まと)めてみると、(計算のみ)→(電卓、ワープロの基本ソフトの出現)→(インターネットやアニメーションなど、高度な作業を行なうハードとソフトの発展)と言う事になります。
50年ほど前の、あの図体のデカかった電子計算機が、小さな電卓に進歩して、そこから究極の小型パソコンに進化したのですが、それを余りにも短期間で成し遂げてしまったのには驚きです。
現在、我が家のリビングには、初代iPadとiPad2があり、当院の待合室にも、iPadが2台あります。
過去の症例写真などを示しながら、より視覚的に、分かりやすく患者さんに治療方針を説明できますし、待ち時間の余暇にもなります。
このように便利なデジタル機器を、幼い頃から、日常生活で使用すると、コミュニケーションの質はどのように変化するのか、興味津々です。
小生は、コミュニケーションが即物的にならないか、心配しています。

院長の独り言 282 ; 肝試しの想い出

もう60年以上前の話です。
私の通っていた小学校は、最終学年である6年生の夏休みに、箱根の林間学校を訪れるのが伝統でした。
5年生になると、上級生の6年生から、合宿について、いろいろな情報が伝えられます。
この合宿が待ち遠しい気持ちがあるのですが、卒業して、仲の良い友達と別れる寂しさを思ったり…と、複雑な心境でした。
林間学校での一週間の合宿生活が、小学生の卒業を意味していたのです。
子供を卒業して中学生の大人(?)になれると云う前向きな気持ちと、もうあまり子供染みた事は出来ないと云う後向きな気持ちが、錯綜していたのです。
いよいよ夏休みの箱根の合宿が近付くと、箱根の地理や歴史、特産物などを、幾つかの班に分かれて、研究と言うと大袈裟ですが、テーマを与えられて、自分達で色々と調べる事になっていました。
小生の所属する班は、戦国時代に、箱根や小田原を支配していた北条氏について調べて発表しなければなりませんでした。
北条氏の創始者 北条早雲は、斉藤道三と並び『下克上』を象徴する戦国大名です。
この2人の戦国大名は貸し漫画で、常に戦国時代を代表する英雄として、その善し悪しは別にしても、語られていました。
元々、道三は油売り、早雲は一介の素浪人であったのが、大名にまで登り詰めたのですから、子供達の人気者になる訳です。
戦国時代は波瀾万丈の乱世でしたから、成り上がり大名が、如何にも格好良く思えて、子供たちの憧れの的(まと)だったのです。
その北条氏を調べてみると、百姓出身と云われる豊臣秀吉によって、五代で滅ぼされてしまうのです。
あの武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった堅牢な小田原城を、秀吉は難なく陥落してしまうのですから、やはり天下を獲るだけの事はあったのでしょう。
ところが、近年の研究によると、北条早雲は一介の素浪人ではなく、室町幕府の政所執事を努めていた名門 伊勢氏を出自とする説が有力となり、低い身分の出でなかったと分かってきたのです。
しかも、早雲は出家するまで、『北条』の姓を名乗りませんでした。
きっと、名門『伊勢』氏の出身である事を、誇りにしていたのでしょう。
生涯、『伊勢新九郎長氏(盛時)』を名乗っていたのです。
話は逸れてしまいましたが、実は、ここからが今回、一番、お話したい事なのです。
箱根で合宿していた場所は、旅館ではありません。
合宿所です。
住み込みの夫婦とそのお手伝いさんが、食事の世話などをして呉れました。
そこでの生活は、朝6時に起床で始まります。
午前中は箱根の名所を、例えば大湧谷や芦ノ湖、戦場ヶ原などを訪ねたり、合宿所の周りを散策して、昆虫採集をしました。
富士山を写生したりもしました。
午後はプールで水泳をし、その後、温泉に入り、大はしゃぎした後、夕食。
夕食後は、一日の行動を皆で話し合ったり、各々が調べてきたテーマの発表会。
寝る前は当然、枕投げです。
いま思い出しても、本当に楽しい合宿でした…。
先生は殆ど怒らず、生徒の自由にさせていました。
そして、最終日の前日の真夜中に、この合宿のメインである『肝試し』があるのです。
5代続いた北条氏のお墓を、真っ暗闇の中、グルリとひと回りして帰って来るのですが、一人一人の間隔が、約100メートル離されて歩くのです。
子供たちは、真っ暗な山道に、ひとりぼっちにされるのが、怖くて、怖くて、ビビりまくりでした。
お墓で一分間、手を合わせた後、来た道と違った道を、必死に走って行くと、懐中電灯を持った先生がニコニコと笑っています。
後ろからお化けが追いかけて来るのではないかと怯え、子供ですから、生きた心地がしませんでした。
この肝試しが無事に済むと、我々みんなが中学生になる事を自覚するのでした。
現在の小学校で、こんな行事をしている学校が、果たして、あるのでしょうか。
懐かしい想い出です。

院長の独り言 281 ; 海水に浸かった土地の再生

以前のブログ(院長の独り言264 ; 植物の生命の尽きる時)に、自宅の鉢植えのシクラメンを観察していて、植物の水を吸い取る力は驚嘆すべきものがあると書きました。
植物はわれわれ動物と違い、移動する事が出来ません。
しかし、意外に思うでしょうが、大昔(30億年以上前の話ですが)、植物も動物と同じように動く事が出来ていたのです。
海の中で生息していた植物が陸に上がり、光合成によって栄養分を合成でき、動く必要が無くなったと云う訳です。
植物が生きる為には、太陽エネルギー以外に、水が必須です。
水分の摂取は、雨次第です。
潤沢に雨が降れば問題ないのですが、日照りが続く時もあるのですから、植物にとって水分の摂取は、太陽エネルギーを取り込むように簡単にはいきません。
植物は、そう云う時は必死なのです。
何しろ動けないのですから…。
ちなみに、ここで話している植物は、動物と対比しての話で、一般的に我々が認識している範囲の『植物』と理解して下さい。
専門的になると『植物』の定義は大変、難しいのです。
一応、動物と植物の区別は、動ける、動けないかは別にして、細胞レベルでは、細胞膜があるのが植物、無いのが動物と分類されています。
植物は、自分自身で生きていくのに必要な栄養分を、作り出す事が出来ますが、動物はそれが出来ないので、自ら動いて、食物を摂取しなければなりません。
換言すれば、植物は自立型であり、動物は寄生型と言う事になります。
人間は、牛や豚を飼育したり、魚を養殖したり、または野菜を作ったりしますが、食物を常に自ら調達しなければならない、その他の動物は、生きていくのは本当に厳しいものです。
植物は、水さえ簡単に手に入れば、生きていくのは、動物より楽かも知れませんね。
植物は永い、永い期間をかけて、少量の水でも無駄なく吸い上げる力を獲得したのでしょう。
その方法は、根を広範囲に伸ばしていくか、水を吸収する力を身に付けるほかありません(導管、篩管などの話は、またの機会に…)。
40年前に八王子で歯科医院を開業した時、甲州街道にある、多摩川に掛かっている日野橋を渡って通勤していました。
当時、日野橋から多摩川を見下すと、大きな中州があり、雑草が中州を覆っていたので、中州は小さな雑草の島のようでした。
ところがある時、関東地方に台風が襲来したのです。
35年ぐらい前だったと思います。
その中州に、上流から流されてきた、長さ1~2メートルの枝が数本、引っ掛かったのです。
その時は別に気にも留めなかったのですが、7~8年経ったある時、日野橋から見る多摩川の景色が、何となく違うのに気がついたのです。
どうしてだろうと橋の上からジックリ眺めて見ると、景色が変わったのも道理で、雑草だらけだった中州が、背丈5~6メートルの低木の生い茂っている林に変身しているではないですか。
考えてみれば、植物にとって生きていくのに、こんなに良い条件はそうざらにはありません。
日光は燦々(さんさん)と降り注ぐし、多摩川の水もたっぷりです。
現に、青々とした木々の大集落が、短期間で形成されていました。
この事実からして、東日本大震災で破壊された陸前高田の松林は勿論、大津波に襲われて破壊された植物は、意外に早く再生出来るのではないかと思いました。
早期に蘇(よみがえ)る事、間違いないでしょう。
植物が定着してくれれば、塩水に漬かった土地も、その保水力から再生されるでしょう。
問題はむしろ、人間の精神の方かも知れませんね。
悔しい事に、紀伊半島も、台風で大被害を受けてしまいました。
今年の日本列島はどうなっているのでしょうか。
自然界に間借りさせてもらっている立場を、思い知らされますね。

院長の独り言 280 ; 医療技術の驚くべき進歩

医科歯科大学歯学部2年生の時、内科の授業で、老化についての講義を受けました。
内科教授曰く『老化には、回復不可能な真の老化と改善可能なニセの老化のふた通りがある』との事。
真の老化とは、大脳皮質がやられてしまった場合で、昔風に言えば『脳軟化症』、所謂、『認知症』です。
この認知症、教授の話していた頃は、病状の進行するがママでしたが、現在は医療技術の進歩により、進行度合をある程度、遅らせる事が出来るようになってきました。
主に、薬物療法の進歩ですが、アルツハイマー型認知症の進行を遅らせる『アリセプト』という薬、または、現在、治験中である、アルツハイマー病の根治を目指す『レンバー』などの薬です。
しかし、現在の最先端医学をもってしても、認知症の多くを占める脳血管性認知症などは、根治が困難です。
一方、ニセの老化とは具体的にどう云うものを言うのでしょうか。
昔から、目、歯、耳が衰えてくると、年寄り扱いされると言うより、自分自身で身体の衰えを痛感させられる事、しばしばです。
この三つの感覚の衰えが、『ニセの老化である!』と教授は言うのです。
ニセの老化は真の老化と異なり、脳が機能不全を起こしている訳ではありません。
ニセの老化は治療する事で治癒するか、あるいは大幅に改善するのです。
白内障や老眼になると、若い頃と違い、字も読み辛くなるし、歯が抜け緩んでしまうと、肉や線維性の野菜などを、つい敬遠します。
また、耳が遠くなれば、周りの人の会話について行けません。
勝手に、自ら老化と決めてしまい、行動も消極的になり勝ちです。
このニセの老化は、真の老化と違い、『改善余地があるのだから、絶対に落ち込む事はない!』と教授は強調していました。
ところが、教授が当時、強調していたより、現在は信じられないほどに、ニセの老化に対する医療は進歩してきているのです。
実は、このニセの老化撃退法には、医療工学の驚異的進歩によるところが多いのです。
老眼の場合は私もですが、素晴らしく精巧になった老眼鏡を掛けた事により改善していますし、白内障で物が光って眩しく見えたり、ぼやけて見えている場合は、人工の眼内レンズで見事に解決です。
老人性難聴には、補聴器(骨伝導など)の性能が随分、改善されてきていて、ひと昔前の雑音入りの、大きな補聴器とは全く違います。
さて、私の専門である歯科ですが、最近10年間の進歩は驚くべきものがあります。
全歯28本の8割が残存している人の咬む力を100とした場合、総義歯では、数パーセント程度しか、その機能の回復を期待出来ないと言われています。
総義歯では、硬軟すべての食物を咀嚼する事など、土台、無理な相談なのです…。
オーバーでなく、総義歯での食事は、殆ど呑みこんでいる状態です。
結果、消化器官に、過度の負担を強いる事になります。
また、噛む刺激が脳にあまり伝わらない事により、それこそ、ニセの老化から真の老化である認知症に移行してしまったら大変です。
若者に負けないほど元気で、しかも長生きしているご老人は、歯が丈夫である人が多いと言われています。
しかし、歯が全く無くなってしまった人でも、ガッカリする事はありません。
驚く事に、インプラント治療を施せば、咬む力は28本歯を持っている人と何ら変わらなくなるのです。
風貌も口の周りに張りが出て、歯科医師がビックリするほど若返る人もいます。
また、歯が一本無くなると、従来は、歯の欠損した部位の前後にある、健全な歯を削って、更に歯の神経を取り、ブリッジを入れていたのですが、インプラントを入れれば、前後の歯を痛めつける事も全く有りません。
インプラント治療でも、眼内レンズでも、そして骨伝導補聴器でも、良い事ずくめですが、健康保険が効かないので、ある程度の費用は掛かります。
前述のように、インプラント治療の場合、医療工学の画期的進歩のお陰が大ですが、それを施す側の術者の技量が伴わなければ、何もなりません。
更には、治療を成功させるにはドクターだけでなく、衛生士をはじめスタッフ全員の努力が欠かせないのです。
患者さんから『本当に美味しく物が食べられるようになりました!』と言われる事が、我々スタッフ全員の願いです。

  術前
術前

  術後(すべてインプラントです)
術後
                    

院長の独り言 279 ; 日本の歴史は、われわれの命に繋がっているのです

物事を一つの方向からのみ考察して、別に疑問を持たないでいる場合が、意外と多いものです。
全く違った観点から考えると、目から鱗(うろこ)の場合もあるものです。
例え話をします。
戦後60年以上経ちますが、現在、還暦前(60歳以下)の人は、殆どの確率で、第二次世界大戦が勃発していなければ、この世に誕生しなかったでしょう。
戦争で亡くなられた方々が沢山、おられたからです。
もし戦争さえ無かったら、戦死や空襲で犠牲になった方々の殆どの人は、健在だったでしょう。
当然、若者の結婚相手は、全く異なっていた筈です。
確かにどんな理由があっても、戦争は絶対に避けるべきです。
しかし、第二次世界大戦が起こらなかったと仮定したら、老人以外、現在の日本人の大半は、この世に生れる事はなかったのではないでしょうか。
このような極く微細な視点から考えて、この世に生を受けないとしたら、戦争をしたからいけないとか、戦争をしなければ良かったなどと、論議する事も出来ません。
現在、口角に泡を飛ばして、開戦の良否を議論している殆どの人が、この世に生まれていないのですから意見どころではありません。
戦争で多くの犠牲を出した事によって、悲しい哉、我々は存在しているのです。
新任された野田総理も、やはり靖国神社の参拝をしないそうです。
理由はA級戦犯が一緒に祀られているからです…。
御霊に頭を垂れる事と戦争責任を追及する事は、全く議論の矛先が違うと私は思うのです。
我々が現在この世に生かされているのは、御霊になられた全員の犠牲の下だと思うからなのです。
野田総理も戦争が起こらなかったら、殆どの確率でこの世に存在していないでしょう。
何はともあれ、参拝して、現在の日本の繁栄とその結果、生じた社会の歪みを、御霊に報告すべきだと思います。
二度と戦争が起こらない様に、野田総理を中心に、我々は知恵を絞るのは当然です。
しかし、現在の殆どの日本人が、日本人として、この日本で存在出来ている最大の理由は、考えたくは無いのですが、第二次世界大戦が勃発して、多大の犠牲を払わされた結果と云う事も一面の事実なのです。
もし戦争が無かったら、現在の日本人は別人であったのです。
小生の両親は、戦前の事なので当然ですが、お見合い結婚でした。
親父は大学生の時に、運よく関東大震災の犠牲にならずに済んだのです。
間一髪、危うかったそうです。
もし親父が震災の犠牲になっていたら、兄も、弟も、私も、この世には存在していません。
そうなれば、私の二人の子供も生まれてこない事になります。
最近、あるテレビ番組で、歴史的大事件の現場を、ワイドショー的にまとめて分かりやすく解説するものがあります。
私も歴史が大好きなので、様々な歴史的事件を空想します。
卑弥呼はどんな女性だったのか、神風(台風)が吹いたとは云え、よく元寇を追い払ったものだとか…。
また、なぜ光秀は信長を襲ったのかなど、呑気に考えて、時々『ハッ』とする事があります。
光秀が謀反を起こさなかったら、かなりの高確率で、自分はこの世に誕生しなかったろうし、更には、もし元寇に敗れていたらと思うと、『神風』様々です。
勿論、元寇に敗れていたら、私の存在どころか、日本史の存在自体がゼロでしょう。
色々と考えれば考えるほど、過去に起こってきた歴史を真摯に受け止めて、自分の存在に寄与して呉れた、全てに対して感謝しています。
国にとって良かった出来事、悪かった出来事、いずれにしても過去に起きた全ての出来事の結果、我々が存在しています。
我が国の宗教観は、世界でも独特のものがあります。
外国人から観ると、日本人を無信論者だと思っている人が多いのですが、決して日本人が宗教を信じてない訳ではありません。
自分で言うのも何ですが、どちらかと言うと、信心深く真面目な民族です。
宗教に対して、ただ大らかなだけなのです(決して、他宗教を批判している訳ではありません)。
日本は神仏習合で、神社も寺院もあります。
お寺に鳥居が存在している場合も見受けられます。
大まかに言えば、日本人の宗教は自然崇拝であり、先祖崇拝です。
多くの家庭では、お盆やお彼岸に、ご先祖のお墓参りを欠かしません。
これは人間の魂と霊魂が日常生活上、結び付いていて、ある人が亡くなっても、残された家族と亡くなった人は繋がっていると信じているからです。
魂が、常に現世の人を見守って呉れていると云う、独特の思想が日本には有るのです。
そして、亡くなった人たちは全て、生前の行いに関係なく、平等であると信じている人が多いのです。
大らかでいいですね。
政治家の皆さんは、肩の力を抜いて、縄文時代から2千年以上、脈々と続いている日本人独特の、このおおらかな宗教観を、外国に対して説明すべきではないでしょうか。
必ず理解して呉れるものと信じます。

院長の独り言 278 ; 自宅を建て替えるので、息子のマンションに居候中

とうとう、40年間、住んでいた我が家のアチコチに、ガタがきてしまいました…。
40年前、親父の知り合いである大工さんに建てて貰った、純和風の二階屋です。
わたし自身が設計した家なので、自宅に対する思い入れは半端じゃありません。
この純和風の二階屋は、数年前から見た目から、明らかにどうにかしなければいけない状態にはなっていたのです。
金属製のベランダは、ペンキが剥げて醜(みにく)く、早くリホームか、あるいは、建て替えるべきだと、家族から指摘されていました。
しかし、思い入れのある自宅を壊してしまうのに、ズーッと躊躇していたのです。
確かに、外見だけでなく、居間の土台部分や現在、納戸になってしまった二階の子供部屋の床も腐っていました。
部屋のアチラコチラに隙間(すきま)が出来てしまい、『絶対にガス中毒にはならない構造』になったと、皆にカラカわれていたのです。
私だけが、中々、家の立て替えに踏ん切りがつかなかったのです。
ところが、今回の東日本大震災で、ついに重い腰を上げざるを得なくなってしまいました。
40年前は、耐震建築などと五月蝿(うるさ)く言われていませんでした。
確か、今から20年くらい前から、耐震、耐震と言われ出したのです。
勿論、我が家は、耐震構造など真剣に考えて建ててはいません。
関東地方に震度6クラスの地震に見舞われれば、近所でウチだけが崩壊するのではないかと脅かされていました。
『ヨシ!一丁、やるか!』と決心して、家内と住宅展示場を見て回り、9月から家の建て替え準備に入りました。
暫くの間、息子のマンションに、夫婦で世話になる事になったのです。
息子の部屋は13階です。
今まで、高層マンションなどに住んだ経験がありません。
13階に寝泊まりする事に対して、前々から、興味津々(しんしん)ではいたのです。
実際に住んでみて、ビールを飲みながら、高層階から夜景を見ていると、ある種の新鮮さを感じます。
窓から外を見ると、あまりに遠くまで見えるので、仰天してしまうのです。
近年、若い夫婦が高層マンションに入居したがるのも、理解出来ると云うものです。
私も20歳、若かったら、高層マンション暮らしをしてみたかったと今、思っています。
まさか、多摩から副都心の新宿の摩天楼が見えるとは、思いませんでした。
ベランダに出ると、気持ちの良い、爽やかな風が、頬をなでて呉れます。
新居の完成する半年間、13階からの景色を楽しみたいと思っています。