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院長の独り言 157 ; 私が子供の頃、犬は怖い存在でした…

私が小さい頃は、犬は恐い存在でした。

犬イコール番犬と云ったイメージだったのです。

今の時代のように、犬イコール愛玩、そして家族の一員であり、更には心の安らぎとしての存在とは違い、犬は咬みついてくる注意しなければいけない動物でした。

若い人には想像出来ないでしょうが、殆どの家が食べていくのがヤッとの時代でした。

犬を飼っている家は余程の経済的余裕がある『御大尽』でした。

その『御大尽』達は大きな家に住んでいたので、番犬が必要だったのでしょう。

犬を飼う事は、今風で言えば大きな家のステイタスシンボルと云ったところです。

戦後、私たち家族が住んでいた家は小さなものでした。

犬を飼うスペースも勿論、無かったし、親父も公務員でしたので、家族7人が食べて行くので大変で、犬を飼うどころでは有りませんでした。

犬好きの私とすれば何時かその大きな番犬を飼いたいと心の中でいつも思っていたのですが、多分、夢に終わるだろうと考えていました。

ところが自分が高校生の時、親父の仕事の関係上、官舎に入居する事になり、その官舎は古い建物でしたが、庭付きの大きな官舎だったのです。

犬を飼うチャンスが巡ってきた訳です。

しかし当時、親父もお袋も犬など飼う気など当然ですが、毛頭有りませんでした。

依然、我が家の家計に犬を食べさせるほどの余裕が無かったからです…。

そこに嘘みたいな話ですが、ある日、近所の家に空き巣が入って大騒ぎになったのです。

お巡りさんが何人か我が家にも来て、『空き巣には用心するように!』とお袋に言いつけて行ったのです。

現在はペットブームで、屋内で小さくて可愛い小型犬を飼う事が多く、秋田犬やシェパードのような番犬用の大型犬はあまり人気が有りません。

しかし前述したように、五十数年前は、一般的には犬をペットとは思わなかったのです。

犬は番犬として価値があったのです。

従って、可愛いペット犬を飼う事は本当に希でした。

ただ広いだけで、貧しい我が家に番犬など飼う気も無い両親を何とか説得して飼う気にさせるには、随分、苦労しましたが、結局子供4人の意見が通り、秋田犬を飼う事に目出度く相成りました。

何回もブログに書きましたが(院長の独り言 26 ; 千代藤号(秋田犬)の想いで)、秋田犬『千代藤号』が我が家の番犬になった瞬間です。

その千代藤号は実際、空き巣を撃退し、両親にも番犬としての存在価値を認めさせたのです。

家族だけには甘えて心を開くこの秋田犬は、『フジ、フジ』と一家中で可愛がられる事になり、結局は大きなペットと成ってしまいました。

石川家では、基本的にはいま人気の、可愛い小さなペット犬と全然、変わらない大きな愛玩犬に成り下がったと云う事です。

院長の独り言 156 ; 幼いお子さんをお持ちの親御さんは注意!!

久し振りに歯の話をします。

一生に一度だけ歯が生え代わる事を知らない人は、まず居ません。

乳歯は上下のアゴそれぞれ10本ずつで、合計20本生えます。

ある年齢になると、その乳歯は永久歯に生え代わります。

特に食物をスリ潰すのに有効な奥歯、所謂、大臼歯は第一大臼歯から第三大臼歯(通称、親知らず)まで上下の合計で12本生えます。

前述したように、乳歯の生え代わりの永久歯は、大臼歯の手前の、前歯から小臼歯まで合計20本です。

要するに、永久歯は、前歯から親知らずまで合計32本生えます。

咀嚼に大活躍する大臼歯は、乳歯の生え代わりの歯では無く、乳歯と同じで、拡大解釈すれば、一生一回しか生えてこない乳歯群に含まれるとも考えられます。

乳歯の一番後ろにある第二乳臼歯の更に後ろに生えて来る、この第一大臼歯は別名『6歳臼歯』とも言われる様に、まだ歯磨きが上手に出来ない幼児のうちに口の中に出て来てしまうのです。

親が余程、注意して口腔清掃を手伝ってあげないと、直ぐに虫歯に成ってしまう恐れが有るのです。

特に、口の中に萌出したばかりの永久歯は、歯の最表層にあって歯を守るエナメル質がまだ幼弱で、その量も少なく、成人の硬度の高い歯よりずっとヤワなのです。

此の時に手入れが悪く、第一大臼歯を虫歯にしてしまい、歯痛を起こし、歯髄処置(一般には『歯の神経を抜く』と言われています)を施したり、あげくは抜歯して歯を失う事にでもなれば、噛み合わせのバランスが崩れて、一生、歯医者と縁が切れなくなってしまいます…。

ご両親を始め、オジイちゃんとオバアちゃんもその事実を踏まえて、チビさん達に砂糖の一杯入ったお菓子を与える時は、食後、歯磨きを欠かさないように注意してやって下さい。

小さい子供の口腔衛生は、ご両親の管理次第。

良くも悪くも親の関心の程度で、その子のお口の運命が決まります。

欧米諸国では、虫歯、噛み合わせ、歯並びなど歯に関しては、幼い時から熱心にケアしています。

先日、訪れた東欧でも矯正治療器具を付けている子供を街で沢山、見かけました。

彼らはわれわれ日本人と文化が異なり、挨拶でキスをし、より顔を近づけて話をするので、口腔の清掃に十分、注意しているのかも知れません。

しかも日本のように歯科治療に保険が効かないので、その治療には高額な治療費が掛かるために、なるべく関わらないように頑張って歯を磨くのでしょう。

食生活では、シッカリと咀嚼しなければ消化できない肉を常食としている事も関係するのだと思います。

しかし、われわれもウカウカと出来ません。

身辺からドンドン国際化している、グローバリゼーションの世の中です。

口を手で隠してのコミュニケーションではみっともナイですし、魚の漁獲量は減り、肉を食べる機会も今後、増加するでしょう。

健康保険制度だって、昨今の財政難では、いつまで現状を保てるのか分かりません…。

『歯は命』と言われている昨今、精神衛生上から見ても、食生活の面から考えても今後、益々、歯の重要性が注目されていくと思われます。

皆さん、是非、歯を大切にして下さい。

院長の独り言 155 ; 両親との九州旅行(パート5) 別府温泉編

最終目的地の、湯煙昇る別府温泉郷に到着しました。

別府温泉は市内に数百もの湯元が存在するそうですが、見つかった順番から8か所に分けて、所謂、別府八湯と呼んでいるのです。

赤い色の温泉『柴石』、湯の花が採取出来る『明礬(みょうばん)』、『亀川』、『堀田』、地獄湯巡りの中心の『鉄輪(かんなわ)』、『浜脇』、『観海寺』そして繁華街で有名な『別府』の八湯を指します。

随分昔の事なので、実を言うと自分は何処の旅館に泊まったのか忘れてしまいました…。

和風旅館であった事は覚えているのですが、夜の食事も何だったかも殆ど忘れてしまったのです。

関サバだか関アジの刺身が出た事は確かだと思うのですが、多分、一般的な懐石料理だったんでしょう。

只、何時もは少食のお袋が珍しく、残さずに全部食べていた事だけは記憶に残っているのです。

翌日は温泉郷の地獄谷巡りをしたのですが、グツグツと沸騰している池、真っ赤な池、青い池、そしてモクモクと水蒸気の上がる谷など、それぞれの特徴がある名勝を一日かけて見て歩きました。

市内のアチコチが湯煙で霞んでいて、全く街全体が温泉そのものです。

ちなみに入浴可能な温泉の噴出量は別府が世界ナンバーワンだそうです。

ここで両親にプレゼントをした九州の観光旅行も計画通りに無事済みました。

異国情緒溢れる長崎から始まり、いかにも日本の名城を堪能した熊本、昔ながらの面影一杯の小国と杖立、最後に世界で一二を競うカルデラ火山の阿蘇と別府温泉。

観光した各所、個々に特徴のある素晴らしい九州旅行が出来て、兄貴夫婦も我々夫婦もホッとしました。

東京に帰ったら緊張が緩み、疲れがドッと出て、翌日は一日中、寝込んでしまいました。

この九州旅行に行った後から、毎年、お正月に実家に遊びに行った時、必ずこの観光旅行の事が話題に上がり、何時も寡黙な親父がニコニコしながら旅行での出来事を楽しそうに話していました。

勿論、日本酒付きでしたが…。

お袋も相槌を打ちながら、丹誠込めて作った石川家伝統のおせち料理を出して呉れ、賑々しいお正月に成るのが定番になってしまったのです。

小生が子供の頃は、父親が仕事一筋の人間で、母親はと云うと殆ど家から出ないで腕白息子達と姑の世話で明け暮れ、趣味と云えば近所の友達と暇を見付けて三味線を楽しんでいた程度でした。

勿論、我々息子は友達と外で遊んでいたので、家族の共通の話題がほとんど無かった事になります。

この九州旅行が格好の話題作りに成ったのです。

しかし、この話題は上の兄弟2人だけで、旅行に行けなかった下の兄弟の2人の弟達には可愛想そうですが、旅行の話題に入れないのは止むを得ません。

この九州旅行から30年間以上経って、旅行記念の家族写真を医局員に見せたところ、みんなが異口同音に『先生、お父さんとお母さんにソックリ!』と言われました。

『ひとは歳を取ると、面影が両親に自然と似てくる…』とは良く言われますが、嬉しいのか悲しいのか複雑な心境です。

遠い昔の自己満足の思い出話でした。

(今回で 『両親との九州旅行』 は終了となります)

九州旅行家族写真のコピー

院長の独り言 154 ; 両親との九州旅行(パート4) 杖立温泉と阿蘇山編

両親と兄貴の家族と一緒に九州を旅した話(院長の独り言139、140、141)が、途中で中断したママでしたので、再開したいと思います。

もう30数年前の事なので、記憶がウヤムヤの箇所が有るのも確かですが、懐かしい思い出として小生の記憶に残っている事も間違いない事実です。

東欧から帰国したら直ぐに続きを書くつもりでしたが、歯医者の仕事は当然として、それ以外にも色々と雑用が重なってしまい、ブログに載せるのが今日まで延びに延びてしまい失礼しました。

小生も長崎から熊本に行ったまでの話で止まってしまい気にしていたのです…。

旅の続きの話ですが、熊本城を見たり、馬刺など熊本の地元料理を堪能した後は、義理の姉さんの実家である小国町に寄りがてら、その近くにある穴場の温泉、杖立温泉に行ったのです。

九州の人は湯治場として何日も泊まり込んで、所謂、温泉療法として利用する温泉で、当時はあまり一般客は訪れない穴場のようでした。

現在の事は自分には分かりませんが…。

我々が泊まったのは、杖立温泉街でその当時、唯一のホテルでした。

ホテル横には清流が流れており、そのせせらぎが耳に心地よく聞こえます。

そしてホテルの建物のド真ん中を、大分県と熊本県の県境が通っていた事を思い出します。

子供達は面白がってホテルの廊下で『コッチが熊本、ソッチが大分!』と跨いでは、キャーキャーと県境を飛び跳ねて喜んでいました。

湯治場だけあって、温泉の湯量は大変豊富で、しかも風呂場は広々していて素晴らしいのです。

東京や大阪の近くにこの杖立温泉があったら、さぞや大勢のお客が殺到する事でしょう。

山の幸の御馳走を十分に頂いて、明日の阿蘇登山を楽しみにその日が終わりました。

翌朝、世界に名を覇せるカルデラ火山、阿蘇に向かって出かけたのですが、いくら元気とは云え、親父とお袋が山頂まで辿り着けるのか心配でした。

ところが、我々の心配など何処吹く風で、二人とも小石の混ざった登山路をどんどん登って、煙と蒸気を吹き上げている火口まで頑張って登りきったのです。

大きな火口を恐る恐る覗くと、地獄の底に吸い込まれそうな恐ろしい気持ちになり、つい屁っ放り腰になってしまいました。

『今、噴火したら怖い、怖い…』と怖さ見たさで、チビさん達もこの大自然の贈り物、阿蘇の火口を無我夢中で覗きこんで観察していました。

チビさん達も、きっとこの壮大なカルデラ噴火口を幼い頃の思い出として大人になっても記憶している事と思います。

親父もお袋も自分達が楽しむ事より三人の孫が大喜びしている姿に目を細めていました。

短い時間でしたが好天の下、山頂から煙が出ている噴火口や遠くの雄大なパノラマ風景を家族全員で充分に堪能したのです。

ほのぼのとした気分になり、記念撮影を取ったり、おやつを食べながら麓まで下りて来ました。

これから、いよいよ今回の旅の締めくくり、別府温泉郷に向って出発進行!

(次回に続く)

院長の独り言 153 ; クラス会で名古屋を訪問する

一年振りの大学同級生のクラス会を10月9日(土)に、名古屋の老舗割烹料理店で賑やかに行いました。

北は北海道、西は沖縄、四国など、全国に散らばっている旧友21名が集合。

例によって、クラス会の設営は名幹事のK君です。

学生の頃は皆、髪の毛がフサフサしていて、当時は若かった我々も昔の面影はいずこへと消え、髪は薄く白く変身してしまいましたが、気持ちだけは20歳の頃と同じで、意気軒昂といったところです。

学生時代の話が出て来ると、気持ちはタイムスリップして、当時の楽しかったり辛かったりした事で大盛り上がり。

全員、いい歳をして、アルコールを飲み過ぎて羽目を外し、馬鹿話に花を咲かせたのです。

30年程前、名古屋を訪れた時は『大きな村』と云った感じでしたが、現在は素晴らしい近代都市になっていて、駅前も高層ビルが立ち並んでいるし、道路は広く整備されていて驚きました。

ついこの間旅行した東ヨーロッパのブタペストやプラハなどの都市は、観光で1〜2週間、訪れるのは楽しいのですが、住むとなると名古屋の方が断然、快適に過ごせそうです。

翌日は愛知県犬山市の明治村と国宝犬山城へ観光に出かけました。

明治時代に建てられ、壊される予定であった、由緒あるホテルや教会などを『解体消滅させてしまうのは、如何にも勿体ない…』と云う事で、此の地に移築して出来た村が明治村と云う事です。

明治初期の三重県庁舎、銀行や郵便局、帝国ホテルや聖ヨハネ教会堂、呉服座、そして明治の文豪、鴎外と漱石が奇しくも相前後して住んだとされている家屋など、歴史的にも価値のある建物が展示されています。

我々は昭和の生まれです。

そして両親の殆どが明治生まれですから、親が生きていた明治の頃を思いながら神妙に見学出来ました。

全員、感慨に浸りながら、あまりにも丁寧にユックリと見学しているので、バスガイドのお姉さんに先を促され、次の目的地、犬山城に向かいました。

犬山城の近くのレストランで昼食を摂った後、お城の天守閣に登りました。

国宝犬山城は室町時代後半の1537年に築城されたものです。

戦国時代の堅牢な平山城として尾張国を守り、木曽川を利用した交易の場としても大変、重要な要の城だったのです。

全く急な階段で、脚をガタガタと震わせながら天守閣に頑張って登って、そこから下界を眺めると、戦国時代に最も大切な城の一つである事が心から納得出来たのです。

360度のパノラマで、遠くの遠くまで展望出来るのです。

しかも『後ろ堅固城』と云って、木曽川が壁となって城の後ろは完全に自然の要壁で防御されているのです。

日本も東欧も、お城の立地条件は同じようで、どちらも見晴らしがよく、敵から攻めにくい場所に存在しています。

大阪城や江戸城の様な平城は、平和な時代には政治や経済中心で、あまり防御の事を考えなくとも良いのですが、戦国時代の時は山城の方が敵を寄せ付けないので安全です。

犬山城や明治村をのんびりと観光巡りして楽しんだ後、名古屋駅に戻って来た時は夕方の5時を過ぎていました。

新幹線のぞみに乗ると、横浜までひと駅、東京までは三つ目の駅です。

ひと眠りしている間に東京駅に到着。

一年振りに会った旧友との楽しい時は、アッと言う間にジ•エンドとなりました…。

院長の独り言 152 ; 山梨のワイナリーを訪問,国産ワインを堪能する

最近の国産ワインは、フランス、イタリ―などの伝統あるヨーロッパ諸国のワインと比べて、味が遜色無くなってきたと言われます。

先日、山梨県の甲州のシャトレーゼベルホーレとサントリー登美の丘ワイナリーに、ゴルフ仲間の友人夫妻と一緒に、家内と遊びに行って来ました。

もうブドウの収穫は終わっていて、畑にはブドウの房を見る事は出来ませんでした。

シャトレーゼワイナリーで試飲したワインはアッサリ系で、日本料理にピッタリ!と云った感じです。

また、ここのワイナリーには、古代ローマ帝国時代の紀元1~4世紀に作られた素晴らしいガラス製品が沢山、展示されていました。

何が素晴らしいかと云うと、ローマ時代のワイングラス、デカンタ、花瓶、壺などのガラス製品が長い間、発見されず地中深く眠っていた為に、ガラスに含まれていた銀や金や亜鉛などの金属イオンが化学変化して、青色や緑色あるいは茶色や黄色など、人工的には出せない微妙な色合いのガラス製品に変化しているのです。

現代の物より歴史を経た深みが有り、見た事の無い色彩で、思わず『美しい…』と口をついて出ます。 もう一つのサントリーワイナリーは、規模が大変大きく、ブドウからワインになる迄の細かい過程を、説明係の若い女性の案内付きで見学出来て、最後に色々な赤白のワインを試飲させて呉れました。

やはりこれも素直な味で、和食のお供に抜群です! 両方のワイナリーの赤白のワインを数本ずつ、お土産に購入し、家族の皆で飲み比べてみましたが、どちらも大変好評でした。

ワインと云えば赤でも白でも、フランスワインが一番美味しいと言われています。

私でも、赤ワインはボルドー、白はシャブリが有名な事ぐらいは知っています。

しかし、日本のワインもなかなかイケるのではないかと思った今回のワイナリー巡りでした。

小生も酒飲みの端くれですから、若い頃からビール、日本酒、焼酎、ウィスキーとあらゆるお酒を飲んできても、不思議とワインだけは殆ど口にしませんでした。

ワインは60歳を超えてから少し飲むようになり、今ではビールの次にワインを飲んでいる状態です。

何故、そうなったのか今、色々考えているのですが、たいした理由が浮かんできません…。

強いて言えば、アルコールに弱くなってきて、お酒の嗜好が変わったのでしょうか。

勿論、日本酒、焼酎、ウィスキーも飲んではいるのですが、その量は随分減りました。

ワインで思い出したのですが、生前、お袋が赤玉ポートワインを好み、ニコニコと嬉しそうに飲んでいた事を思い出します。

赤玉ポートワインとは、今から100年以上前にサントリーの前身の会社が売り出した、甘い甘い、女性向けのジュースのようなワインです。

コアなファンが多く、現在も市販されているようです。 あの頃から思えば、日本のワインは格段の進歩と云う事ですね。サントリー赤玉ポートワインのポスターです