* You are viewing the archive for 10月, 2012

院長の独り言 347 ; 前の千円札は、誰の肖像画が印刷されていましたか?

現在の千円札に印刷されている肖像画は野口英世のものです。
今日、コンビニで貰ったお釣りの中に、一代前の旧千円札が紛(まぎれ)込んでいました。
旧千円札のお札の色は、現行の淡いブルーと似ていますが、描かれている肖像人物は野口英世と異なり、皆様もご存知の夏目漱石です。
漱石と云えば明治の文豪です。
小中学校の教科書に必ず彼の小説が載っています。
漱石の処女作は、強烈な社会風刺小説『吾輩は猫である』です。
また、全ての学園小説の基になった『坊ちゃん』を知らない人はいません。
しかし、漱石は人間の内面の葛藤や心理小説も得意なのです。
『こころ』や『それから』、『門』といった一連の作品群です。
どちらかと云うと、自分の体験を基にした複雑な人間模様を展開している小説が目立ちます。
漱石はユーモア小説作家の如く思われているところがありますが、とんでもない誤解です。
『明暗』を書いている途中で、50歳の若さで亡くなりました。
病名は胃潰瘍です。
現在、胃潰瘍で命を落とすことは先ずありません。
もしかすると、漱石も胃潰瘍ではなく、胃がんだったのかも知れませんね。
何しろ漱石が小説の題材になる美味しいところは殆ど書いていると言われているのですから、後発の小説家は大変です。
これは画期的な題材だと書いてみると、漱石がとっくに取り込んでいたと言った具合です。
矢張り、お札になる人は、その分野の天才ですね。
ここ数年間、ノーベル文学賞の有力候補だった村上春樹は、残念ながら今年も見送りでした。
小説は本当に難しいものですネ。
日本語の表現では素晴らしいのですが、英語など外国語に翻訳すると平凡な感じになってしまう場合も多いのでしょうか。
もし漱石の小説を外国語に翻訳した場合、漱石が心血をそそいだ文章を外国の人に正確に伝える事が出来るのでしょうか。
伝える事が出来れば、世界中で漱石の人気が沸騰するでしょうね。
三島由紀夫は、翻訳されることを前提とした小説を書いていた、ともいわれています。
彼の文章は、耽美的な、とても真似のできない美しい日本語でしたが、あの美文を外国語で表現し得るのでしょうか?
私の個人的な小説の好みでは、志賀直哉のものが好きです。
志賀直哉の文章は簡潔で、こちらも美しい日本語です。
特に『和解』は、お勧めですよ。

院長の独り言 346 ; 喉越しツルツル、新潟名物のへきそば

わが歯科医院の近くに、新潟魚沼の名物を出すそば屋さんを見付けました。
弥彦(やひこ)という名前のおそば屋さんです。
そのお店のそばを口に入れると、たいへんなツルツル感があるのです。
齢七十余年、私はこんな感触のソバを初めて食しました。
ツルツルしているうどんは、世の中に沢山出回っていますが、そばは大変珍しいと思います。
私の恩師であり、今は亡き鈴木賢策東京医科歯科大学教授が新潟県魚沼市浦佐出身です。
教授には現役の頃、よくおそばを食べに連れていってもらいましたが、このツルツル蕎麦を出すおそば屋さんに連れてって貰った経験はありません。
ツルツルそばの話は大変なそば好きの教授の口から、一度も聞いた事がなかったのですから、もしかすると魚沼の名物ではないのかも知れません。
(名物であったら、魚沼の方々、申し訳ありません!)
通常のそばは、繋ぎには小麦粉を使うので、パサパサして喉に引っかかる感じがします。
しかし、このツルツルそばは喉越し滑らかで、スッキリした感じです。
小麦の代わりに繋ぎは『ふのり』と云う海藻を使用しているのだそうです。
正式には『へぎ蕎麦』と言って、特殊な『へぎ』と云う器に入れて、そばが供されます。
そばを笊(ざる)に入れて出してくるのが普通の蕎麦屋さんですが、『へぎ蕎麦』は、見た目がもりそばでも、陶器で作った笊に似せた入れ物に盛って出してくるのです。
魚沼のそばと聞いたので、そば好きの教授のニコニコ顔が直ぐ目に浮かびました。
ついでに、自分の若かりし頃の医局生活が思い出され、研究と学生指導に明け暮れていた50年前が蘇った気分でした。
先輩によると、研究に熱を入れていた40代の鈴木教授は、大変厳しくて怖い鬼のような師匠で、その鋭い眼差しで見つめられると、蛇に睨まれたカエル、傍に行くのも憚られる程だったとの事…。
『よく、教授と二人でソバなど食いに行けるな!』
『俺など緊張して、いくら何でもそばが喉に引っかかってしまうよ!』
と先輩方に言われていましたが、私が入局した頃は、功も名も共に成し遂げた鈴木教授は、小生など孫みたいな存在だったでしょう。
一度も怖いと感じた事はありませんでした。
教授から誘いがあれば、二人で何処へでも平気で出かけていました。
しかし、教授の世界的な素晴らしい業績を考えれば、若い時はさぞかし厳しい先生であったのは、容易に想像出来ます。
教授の発明した『根管長測定器』は、歯髄処置(炎症を起こしている歯の神経を除去して詰め物をする治療)をする時は必ず、世界中で使われているのです。
この測定器のお陰で歯を抜かずに保存出来るので、患者さんにも多大に貢献しているし、われわれ歯科医にとっては無くてはならない器具なのです。
思えば、あの頃の鈴木教授と同じような歳に、小生もなりました。
教授と一杯飲みながら、ツルツル『へぎ蕎麦』を食べてみたいと、心から思います。

自著『こうすれば防げるインプラント周囲炎』、売り出し前に売り切れ中です…

当院の山森翔太先生と著した『こうすれば防げるインプラント周囲炎』が、出版元のクインテッセンス出版やAmazonなどの書店で売り切れてしまいました。
しかも、発売日の10月10日以前に、です。
当院にご連絡頂いても、本はありません。
もし購入希望の方がいらしたら、アルファタイト•インプラントを発売しているケンテック社の買い取った在庫が若干ありますので、同社に問い合わせて下さい。
http://www.alpha-kentec.co.jp
宜しくお願い致します。

院長の独り言 345 ; 葡萄の美味しい食べ方

季節は収穫の秋。
今年の秋は夏が暑かったので、お米、果物など素晴らしい収穫が期待されそうです。
冷夏の時は全ての作物が不作になってしまいます。
水害に遭ったりして、作物が被害を受けた地方もありましたが、日本は広いので全体としては豊作間違いないでしょう。
被害を受けた地区は当然、国が親身になって援助すべきです。
国民同士が助け合えるのが、一流国の証と云うものです。
秋の果物と云えば、リンゴ、梨、ブドウ、柿が定番です。
ブドウは甘酸っぱくて大好きな果物の一つですが、私が子供の頃には『種無しブドウ』はありませんでした。
最初に種無しブドウが出て来たのは、私が中学生になった頃だったと記憶しています。
豆粒のような小さなブドウでした。
今でも、この豆粒のような『種なしブドウ』をたまに目にします。
あまりに小さいブドウなので、当時は5~6粒を一気に頬張って食べたものです。
種が無いので皮ごと何粒も口に入れて食べることが出来、甘い上に面倒くさくないので、それまでの一粒ずつ種を出しながら食べていたブドウよりゼンゼン好きでした。
『品種改良万歳!』と言ったところです。
ところが、大学に入り、山梨出身の友達が従来の大粒の種有りブドウを、種も出さずに当然の如く、ドンドン口に放り込んで食べているのを見て、ビックリ仰天。
『種なんか出していると酸っぱいだけだ』と宣って、『ブドウの食べ方の知らない人間は可哀想だ』との事。
しかし、小生、今もって、種有りブドウは種を出して食べているのです。
確かに、彼が言うように、試しに種の有る、従来の甲州ブドウをそのまま皮だけとって種をとらずに飲み込んでみると、確かに甘いのです。
現在は外国産の大粒の『種無しブドウ』がスーパーや果物店にたくさん並んでいますがね。
おまけに、皮など剥かずに食べられるのもあるので驚きです。
面倒くさくないし、甘くて美味しいし、益々ブドウが好きになっています。
早速、スーパーに行って、ブドウを買ってこよっと!

院長の独り言 344 ; サヨナラ、O君

先日、丁度、学校帰りの小学生の一団に遭遇したのです。
みんな仲良さそうに大きな声で雑談しながらの下校です。
その小学生達を見ていたら、随分、昔の小学校時代が走馬灯のように頭をよぎったのでした…。
小学校3年から5年生まで、同じクラスで本当に仲良くしていた友人がいました。
所謂、親友と云うやつです。
親友のO君は、ある日、突然、千葉から転校して来ました。
丁度、自分の席の隣が空席になっていたので、その席に彼が座ったのです。
直ぐに二人は仲好くなり、勉強するのも、遊ぶのも、いつも一緒。
家が比較的に近かったので、小学校に登校するのも時間を合わせて行きました。
クラスのみんなも、われわれがあまりに仲が良いので、好奇の目で見ていたのです。
一緒にいるだけで、別に話すわけでもないのですが、お互いに離れていると落ち着かなかったのです。
約2年間、本当に何処へ行くにも一緒、遊ぶのも常につるんで行動していました。
別れは、ある日突然訪れました…。
その理由は自分にあったのです。
親父が急に転勤になり、引っ越しすることになったのです。
日曜日の夕飯の時、親父が家族みんなに『仕事の都合で引っ越しをしなければならない!』と告げたのです。
我々兄弟はビックリしてしまいました。
慣れ親しんだ学校を去らなければならないので、兄弟全員シュンとして元気を無くしてしまったのです。
友達は勿論、先生も、校舎も、近所のお兄さんお姉さん、そして駄菓子屋さんなどなど、多くと『さよなら』です。
自分にとっては、親友のO君と別れるのが本当に辛かったのでした。
何とか自分だけ引っ越ししない方法がないものかと心から思ったものです。
勿論、そんな事が出来る筈も無く、『いつかまた会おう!』と固い約束をして引っ越したのでした。
しかし人間は薄情なもので(あるいは私だけが薄情なのか…)、いつしかO君を思い出すことも無くなってしまったのです。
とくに中学生になってからは、O君は忘却の彼方になりました。
皆さんも経験しているように、中学生になると、小学校の時とあらゆる点で環境も違ってきますし、身体も子供から脱却していきます。
自分はバスケットクラブに入部し、クラブ活動にのめり込んだ事もあって、完全にO君の事は忘れてしまいました。
大学生になった時、昔、小学生の頃住んでいた家の近くに用事があったので、帰りに例のO君の家の前に行って見ました。
住人はO君家族ではなく、全く別の家族が住んでいました。
近所の人をつかまえて話を聞くと、その家には、もういくつもの家族が変わって住んでいるそうです。
O君家族が何処に引っ越してしまったか定かではありませんでした。
20歳を超えたO君に是非、会いたかったのですが、願いは叶いませんでした。
『残念だ…』と、その時は思ったのですが、自宅に帰って考えてみると、会わなくてお互い良かったような気もしたのです。
小学校の2人の親友時代は、オブラートに包んで、そっと心の奥深くしまい込んでおいた方が良かった気がしたからです。
いま思い出すのは、屈託のないO君の笑顔だけです。

台風が迫り来るなか、説明会にご参加いただき有り難うございました。

昨日の9/30(日)午後2時から4時まで行ったインプラント説明会。
台風が迫り来るなか10人以上の方のご参加頂きました。
まことに有り難う御座いました。
参加者のみなさまの安全を考えて、開催するかしないかで、スタッフで議論をしましたが、天気予報では『午後6時以降に風雨が強くなる』とのことでしたので、参加者の方々の判断に任せました。
そして、10名以上のご参加でした。
手前勝手な判断をしないで、良かったと思いました。
説明会終了後は、つとめて早くご帰宅いただきました。
帰宅は大丈夫でしたか?
何かと至らない点もあったでしょうが、重ねて有り難う御座いました。
これからもインプラント治療の実際を話していきたいと思いました。