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院長の独り言 251 ; 蛭(ヒル)の恐怖

ハイキング中に蛭(ヒル)の被害にあったと云う記事が、雑誌に載っているのを偶然、目にした途端、去年の今頃、ゴルフで蛭にやられた事を思い出しました。
ゴルフが終わり、汗びっしょりの下着が気持ち悪いので、早速、風呂場に行き、下着を脱ぎ、靴下を取って見ると、足の付け根に何やら黒い塊がついているのです…。
で、何気なく触ってみると、ヌルっとした感触!
『蛭だ!』と直ぐに分かりました。
細くてミミズの様な身体が、丸々と肥えていて、突っつくとコロリと床に落ちましたが、咬まれたところから、血がタラタラと流れ落ちました。
蛭の唾液には麻酔作用と血液凝固阻害作用があり、要するに、咬まれた時は殆ど痛みを感じないし、身体から蛭が離なれた後、暫く血が止まらないのです。
蛭の唾液に含まれている血液抗凝固成分ヒルジンの作用により、血が止まりにくいと云う事です。
蛭は環形動物で、胴体の前後に吸盤を持っています。
充分に血を吸い込むと、自然に身体から離れますが、吸い足りない時には、無理に引っ張ったりすると、中々落とす事が難しく、蛭の体液が自分の血管の中に入ってしまい、細菌に感染したり、最悪の場合は敗血症になったりして重症化する事もあるので、蛭を落とす時は細心の注意をすべきなのです。
落ち着いて、アルコールやお酢や塩を付けたり綿棒で、脅かしたりすると蛭は直ぐ離れて呉れます。
山歩きをする時は、少し塩を持って行くくらいの用心も、この季節は必要です。
真実か嘘か定かではありませんが、登山に行き、疲れてぐっすり寝てしまい、起きたら目が見えなくなってしまったのか、真っ暗なのでビックリして飛び起きたら、顔中、そして目の周りも蛭だらけ。
何も見えなくなってしまい、病院に緊急搬送されたと、誰かに話を聞きました。
一寸した油断が悲劇を招きます。
蛭は人間などの動物の体温を感知して、忍者のように音も無く近づき、吸いつきます。
小生も去年は蛭にやられてしまいました。
ゴルフが上手ければ林の中なんかにボールを打ち込む事も無く、蛭の餌食になんかなる事もないのですが、何せ下手糞なので、ヘアウエーを外してボールはラフばかりに行ってしまいます…。
ラフには、蛭がテグスネを引いて待っているのです…。
この季節は当分、ゴルフには行かない事にします。
また秋になったら、プレーを楽しみたいと思っている次第です。

院長の独り言 250 ; 歯科用CTの導入で、歯科治療の質が劇的に向上しました!

歯科用のコンピューター断層撮影機器(Computed Tomography 以下、CT)が無いと、石川歯科では、正確な診断と治療、特にインプラント治療が正直、怖くて出来ません…。
通常、歯科で用いるレントゲン画像(1~2歯分を撮影する『デンタルレントゲン画像』と、アゴを全体的に撮影できる『パノラマレントゲン画像』)は、二次元しか診断出来ないのです。
平面で写るパノラマ画像を診ると、一見、治療の必要性を感じなくても、同じ部位を、CTで撮影した三次元レントゲン画像を注意深く観察してみると、思わぬ病変にぶち当たる事があります。
二次元的には、何でもなく見えていた部位も、三次元的に横から裏から診てみると、腫瘍が隠れていたり、太い動脈が歯根に近接している場合も稀ではないのです。
特に、インプラント治療を計画している場合、隣接する歯に、炎症が少しでも認められたら、躊躇(ちゅうちょ)なく、まず隣接する歯の治療を優先して行い、病巣を完治させなければ、折角、埋入したインプラント(人工歯根)が感染して、駄目になってしまう場合もあるのです。
二次元的なレントゲン画像では、病変の存在を認めなくても、三次元的に診ると、インプラント埋入部位に近接している歯に、異常が発見されるのです。
インプラント治療を希望して来院する患者さんは、歯が欠損しているくらいですから、40歳以上の患者さんが多いので、元々、歯周病に罹患していたり、不十分な歯の神経処置(神経処置;虫歯で歯髄を取ってしまう処置)を施している場合が多いからです。
神経処置をした歯の二次元のレントゲン画像を診て、平面的に病変を認めなくても、歯髄の複雑な構造上、歯髄の湾曲や側枝(歯髄の小さな枝)の存在などの関係で、治療後、数年間ほど経ってくると、治療した歯根の先端に、『うみの袋』が形成される場合があるのです。
歯の中には、幹となる主たる歯髄と、その幹から、細かい血管や神経の枝が生えているのです。
これを側枝といいます。
これはCT画像でないと、歯髄の湾曲の程度や複雑な側枝の存在を把握する事が、困難なのです。
二次元のレントゲン画像だけでの診断で、インプラント治療の経過が良好でホッとしていても、インプラント埋入から4~5年間、経過すると、インプラントの周囲組織が炎症を起こしてしまう症例があります。
そして理由が分からないと、歯科医から相談されるのです。
早速、CT画像で診てみると、案の定、近接している歯の炎症がインプラントに及んでいると診断できました。
二次元のレントゲン画像では、問題なく診えるのに、CT画像では、根の裏に大きな病巣が写っていました。
このような症例が存在する以上、あらゆる歯髄の治療でも、CT撮影が必要な気がしてしまいます。
問題は、CT撮影が1~2歯を撮影範囲とするデンタルレントゲン写真に比べると、少し被爆量が多い事です。
しかし、歯科用CT(コンビームCT)は、医科用(ヘリカルCT)と比較すると、断然、被爆は少ないのです。
例えば、下顎臼歯部のインプラント埋入や、下顎の親知らず(第三大臼歯)抜歯の場合、下歯槽管という、太い動・静脈、神経が直ぐ側(そば)を走っている症例が結構あるので、CT撮影は必須に思えます。
この動脈や神経を傷つけると、大出血や下唇のマヒなど、大変な事になる訳です…。
30年以上前に、パノラマレントゲン装置が歯科に導入された時も驚かされましたが、石川歯科で4年前にCT撮影機器を導入した際、CTを活用した診断の正確さには、小生、本当に驚きました。
きっちりと診断が出来ると云うことは、治療計画が正確に立てられると同義なのです。
CT様々(さまさま)という事ですね。

院長の独り言 249 ; こう暑いと、朝から冷えたビールを呑みたい…

こんなに暑い梅雨は珍しいですね…。
本日(6月24日金曜日)も朝から30度に迫る勢いで、温度計の目盛りを見てビックリです。
昼間は汗を沢山かいて、仕事を終えた後のビールは、さぞかし美味しいと、午前から生唾を飲み込んでいる人もいるのではないかと想像します。
小生もその口です。
ところで、ビールが何故にこのように飲まれるようになったのか、本当の理由をご存知ですか。
急にビール人気が出てきたのは、戦後、進駐軍がビールを持ち込んだのが切っ掛けだと考えているのではないですか。
ところがこれは、とんだ勘違い、全く的外れなのです。
歴史の好きな人には『そんな事は勿論知っている!』と怒られてしまいそうですが、ビールを毎日、飲む呑ん兵衛さんでも、案外、知られていないのです。
ビールがここまで飲まれるようになった理由は、明治政府が日本酒には重い税金を掛けたのに対して、ビールには税金を課さなかったからなのです。
その後、ビールにも酒税が課せられる訳ですが、大手のビールメーカーが独り立ち出来た後なので、ビールは日本から消えないで済んだと云う事です。
そして今では、老若男女のビール党が、断トツの様相です。
酒税が絡む点においては、現在の発泡酒出現の様相と、全く同じなのです。
ビールは今から6000年も前から飲まれていたそうで、最初は放って置いた麦が、自然に発酵して、その液体を飲んだのが始まりだそうです。
メソポタミア文明のシュメール人が、ビールを飲んだ最初の人類だと、一応はされています。
その後、古代エジプトでは、ビールが庶民にも普及していた様子を、壁画で窺い知れます。
現在、ビールと言えば、ドイツです。
本当にドイツ人は毎日のようにビールを飲むそうで、その呑みっぷりは到底、日本人に真似の出来ない芸当だそうです。
関ヶ原の合戦の頃に、日本でも初めて、ビールが長崎にお目見えしたのです。
当時、西洋人はビールでも、ワインでも、お酒を冷やして飲む習慣があったのに、日本人はお酒を温めて飲むようだと、本国に驚いて報告しています。
現在、日本では、ビールやワインを飲む人が多くなり、日本酒は若者には以前ほど人気がないようですが、それに反比例して、欧米では、日本酒を飲む人が、ウナギ登りに増えてきたそうです。
皮肉と言えば皮肉ですね。
冷えたビール

院長の独り言 248 ; 皆さんは『月』ついて、何を知っていますか?

今日は夏至。
北半球では一番、日照時間が長い日です。
今の時期は梅雨の真っ盛りなので、例年では雨や曇りの日が多く、暑い日は少ないのですが、珍しく今日は、朝から蒸し暑かったですね。
そこで太陽の話でもと思ったのですが、以前のブログに、既に太陽について載せているので(院長の独り言 212 ; 太陽のエネルギーを電気に変換出来ないものか?)、今回は月について一寸、触れてみます。
お月様を、我々はいつも何気なく見ています。
小学校の生徒でも、月が地球の周りを回っている衛星であると理解しています。
また、明るい女神の太陽に対して月は、昔から太陰と言われているように、正反対の影の存在です。
十五夜の時、地平線に近いビルの上に出て来る月は、不気味に大きく見えます。
勿論、これは目の錯覚です。
頭上の月と同じ大きさなのですが、月の直ぐ傍に、山やビルのような対照物があると、月は大きく見えるのです。
『月』と云う漢字の由来は、三日月の形から想像した象形文字から出来たものです。
ひと月は、月の満ち欠けを基に、30日間としています。
月の光っている部分が、毎日、少しずつ満ちてきて、満月に戻るのに、実際は29.5日間、掛かります。
なので、ひと月を31日間としたり、29日間としたりして調整して、人間の生活がし易いようにしているのです。
ところで、月は衛星としては、異常に図体が大きく、大変、珍しい衛星なのです。
地球の約80分の1の重量ですが、太陽系の惑星の中で、次に大きな衛星は、海王星の衛星『トリトン』で、海王星の800分の1なのです。
木星や土星、火星にも、衛星は回っていますが、親の惑星と比較すると、非常に小さい衛星なのです。
月の直径は、地球の約4分の1もあります。
この大きな衛星の影響で、海の潮汐運動が非常に強く起こり、特に20億年以上前は、地球と月の距離は今より近接していた事もあって、海の満潮干潮の差も大きく、潮汐作用による海水の撹拌は、想像を遥かに超える大きさだったと言われています。
勿論、太陽による潮汐作用もありますが、月の潮汐作用の方が、その影響は全然、大きいのです。
なぜなら、潮汐作用は距離の三乗に反比例するので、巨大な太陽より地球の直ぐ近くに存在する月の方が、潮汐作用を強く引き起こすのです。
この潮汐作用による海水の撹拌が、生命の誕生に大きく寄与しているとされているのです。
この大きな衛星である月が何故、地球の周りを回っているのか、今まで様々な説が唱えられているのですが、未だ解明には至っていません。
一応、4つの仮説が唱えられています。
1) 衝突説 
2) 親子説 
3) 兄弟説 
4) 他人説
です。
衝突説とは、遠い昔に、地球と星とが衝突した衝撃で、月が誕生したとする説。
親子説は、地球から月が、遠心力で分離したとする説で、太平洋を月の痕跡としています。
兄弟説は、ガス状態の塊から、地球と月が出来あがったとする説。
他人説とは、何処からか来た月が、地球の引力に掴まったとする説です。
その他にも、まだまだ色々な説があるのかも知れません。
また月の自転周期と、地球の周りを回る公転周期が一緒なので、地球からは永久に、月の裏側を見る事が出来ないのです。
しかし、1959年、旧ソ連の人工衛星ルナ3号によって、月の裏側を初めて見る事が出来たのです。
そして10年遅れて、1969年に、アメリカのアポロ11号によって、人類が月面に降り立ったと云う事です。
日本も2007年9月に、月探査周回衛星『かぐや』が月を周回し、月面を観察しています。
小学生の時に、父親から天体望遠鏡をプレゼントされたので、小生も月をよく観察していました。
良く見ると、月は結構、不気味ですよ…。
今回は、月についてのお話でした。

院長の独り言 247 ; 2回も誕生日を祝ってもらいました!

去る6月18日(土)は、私の誕生日でした。
その日のお昼に、スタッフ全員からケーキと笑顔で祝福されたのは、本当に嬉しいひと時でした。
祝福されるまでは自分でも、その日が自分の誕生日である事をうっかり忘れていたのです。
実は、1週間前に家内と子供達から、『次の土曜日はお父さんの誕生日だからお祝いしようね!』と知らされていたのですが、歳の所為(せい)か、すっかりと忘却の彼方だったのです。
石川歯科で1回、自宅に帰ってもう1回と、2回も祝福された嬉しい誕生日でした。
日本では、誕生日を大切にしてお祝いしますが、世界的に見るとそうでもない国が結構、あるのです。
ひとつは、宗教的な理由がある場合です。
また、四季のない国にみられるのですが、大袈裟ではなくて、自分の誕生日が分からない場合もあるのです。
誕生日をそれほど大切にしていないと云う事のようです。
日本のように、春夏秋冬が見事に色分けされていると、自分の生まれた季節に絡(から)めて、誕生した日を憶えやすいし、自分がうっかり忘れていても、家族や親しい友人が憶えてくれているものです。
日本は、昔から誕生日を大切にしている国なのです。
少なくとも、自分の生まれた月日を知らない人は、日本には存在しません。
周りの人が憶えているくらいですから。
ところが、一年中、季節に殆ど変化が見られない国では、余程の国家的な記念日はともかく、誕生日のような個人的なものは、ついウッカリと通り過ぎてしまうと云うより、生まれた日など全然、眼中に無い場合が多いのです。
我が国では、履歴書を作成する時に、生年月日を書き込むのが当然なので、自分の誕生日は覚えざるを得ませんが、そのような手続きを必要としない国では、自分の生年月日を知らなくて当り前です。
その点、日本では、誕生日を祝え合えて良いですね。
何はともあれ、73歳の誕生日を無事に迎える事が出来たのは、自分としては嬉しい限りです。
スタッフには、『まだまだ頑張って下さい!』と励まされ、患者さんにも『引退しては、絶対、駄目ですよ!』とハッパを掛けられています。
家族や診療所のスタッフに、心のこもったお祝いをして貰い、ご機嫌の一日でした。

院長の独り言 246 ; 『Tの字』の極意

大学入学時に、ある教授が新入生歓迎の挨拶で声高らかに言いました。
先生曰く
『大学は専門性を高める学び舎である。
要は、生涯の進路の決定であります。
さらに言葉を変えれば、自分の職業を決定付け、素晴らしい職業人になるように勉強するのが大学ですから、勉強の虫になって頑張りなさい。
要はTの字になる事です!』
と挨拶しました。
大学に入学すると、2年間は教養課程で、数学、理科、社会、外国語などを高校より幅広く学習します。
様々な教養を身に付けるのが、文字通り、大学の教養課程なのです。
そして3年目から、専門課程に入ります。
歯学部専門課程では、人体解剖学に始まり、組織学、生理学、薬理学、細菌学、病理学など、人体に関する基礎的な勉強をした後、歯科に関する専門的な学問、例えば口腔外科学(抜歯、骨折の整復、炎症や腫瘍の治療)、歯科保存学(歯痛除去、歯周病の治療)、補綴学(入れ歯や被せ物の製作)、歯科矯正学などを勉強します。
大学在籍の6年間(教養課程2年、専門課程4年)では、一人前の歯科医師になるのには時間が短すぎるので、卒後、大学院に入学したり、専攻生になったりで、色々な形で歯学の研鑽に励む事になります。
何とか一人前の歯科医として社会で認められるには、大学を卒業してから随分と時間が経過してしまうのです。
特に専門性の強い職業である医師は、『何でも屋』であっては駄目で、ひと昔前の医師、歯科医師の極端に少ない時代に、何でも適当にこなしていた時なら兎も角、現在は、歯科医師の人数が過剰になっている事もあって、より高度な医療が求められます。
社会は『何でも屋』の医師より、専門性の高い医師を必要とするように変化してきました。
歯科医過剰時代を予測していたのか、『Tの字』になるように努力すべきである事を、50年以上前に強調していた先生の先見性には、本当に驚かされます。
『Tの字』のようになると云う事は、浅くて広い教養、技術を身につける事も大切だけれど、誰にも負けない得意な分野を確立し、出来るだけ深く追求し続ける事が大切であると、先生は新入生に強調したのです。
丁度、アルファベットのティ(T)の字の様に、横棒は広くて浅い知識を身に付ける事を意味し、と同時に、縦棒の様に一つだけは、誰にも負けない様な知識と技術を身に付ける事が、これからの人生にとって肝要であると仰った訳です。
ただ得意な分野を一つ持っているだけでは、人間の深みが出ないものです。
その背骨には、浅くても良いから、幅広い知識の裏付けが必要です。
医学だけではなく、政治、経済、哲学、歴史、美術、スポーツ、音楽などを、ある程度、知る事が肝要であると、教授は講義でも常に説いていました。

院長の独り言 245 ; おじさんだけの小旅行に出掛けました

ブログで何回か触れましたが、医局時代の仲間4人と1年に1回、毎年6月に、温泉地などの旅館やホテルを、4人で順番に予約当番をして、1泊2日の小旅行をしています。
初日の夜に宴会を開き、医局時代の出来事、例えば、研究で胃を痛めた話や、成績の芳しくなかった学生が立派な歯科医になって活躍しているなどなど…、四方山話を楽しみ、翌日はゴルフをプレーするのが恒例になっています。
4人は、丁度、同じ時期に、東京医科歯科大学歯学部第三保存学教室の文部教官(助手)として勤務し、苦楽を共にした生涯の友なのです。
この『4人の会』は、平成元年が初回でしたので、今回が23回目になります。
よくぞ、この会が23回も続いたものだと、4人で先ずは乾杯!
実を言うと、家内には、『ゴルフをするのに梅雨時にプレーするなんて、ワザワザ、雨に濡れに行くようなものだ…』と毎年、呆れられているのです。
私はゴルフをプレーするより、皆で集まって、一年振りに色々と雑談するのが楽しくて、それが目的で参加しているのです。
勿論、皆の元気な顔に会いたいのは、当然です。
加えて、梅雨時は観光地が空いているので、却って、厚遇されると云う利点があります。
旅行の前後は、雨の日が多いのに、不思議と当日は、殆ど雨にやられた事がありません。
余程運が良いのか、我々4人の普段の行いが良いのか定かではありませんが、23回のうち傘が必要だったのは、たった2回だけなのです。
雨の降らないという迷信のある日、例の東京オリンピック開幕日の10月10日に集合日を変更したとしても、このような好結果になったかは疑問です。
今年も当然のように、旅行の2日間だけは、薄日の差す好天に恵まれたのでした。
雨の神様が、たった4人のお祭りが終わったのを見計らったように、2日目の夕方の帰途である中央道では、雨が降り出してきたのでした。
毎回、ゴルフを終えてからは、風呂で汗を流した後、暫く皆のスコアーを見比べながら、反省会をするのが決まりになっているのです。
4人のうち、K先生とT先生は、かつてはシングルプレヤーだった程の腕前です。
もう1人のI先生も、ハンデ13となかなかの腕前なのです。
小生はと云うと情けない事に、ハンデ23が最高でした。
23回のうち、前半は、常にK先生とT先生のトップ争いでしたが、還暦を超えた後半は、I先生と小生も善戦するようになってきたのです。
今回の成績もT先生が98、私が100、I先生は104、K先生が105と云う結果でした。
70歳を超えると、ゴルフは皆同じ程度に、言葉を換えれば、歳を重ねるにつれて、ゴルフは下手くそになるようです。
『もう、止めようか…』と言いつつ、4人が皆、元気なうちは、来年も頑張ると云う事でお開きと相成りました。

院長の独り言 244 ; 江戸川柳から考える

『絵で見ては 地獄の方が 面白し』
蓮の花が咲き乱れる、穏やかな極楽に比べて、地獄は血の池地獄に、仁王様や赤鬼青鬼が棍棒を持ってドヤシつける、辺りは針の山と変化に富んでいて、さぞかし毎日が退屈しないで、面白いだろうと云う江戸時代の川柳です。
見ているだけでは、大した事では無く、却って楽しいのではないかと思われるようでも、実際に体験してみると、二度と嫌だと云う事は結構、あるものです。
戦争映画で兵隊が機関銃に打たれて、次々に倒れて行くシーンや、ロケット弾を打ち込まれて、ビルから大勢の人が逃げて行くシーンなど、アクション映画を見て、手を叩いて見ているのは、架空の世界の出来事なので安心していられるからです。
実際、小生が小さい頃に体験した戦争での、本当の爆撃は、いま思い出しても恐ろしい体験で、今でも時々、夢で魘(うな)されてしまいます。
もし自分が本当に地獄に落ちて、血の池地獄に投げ込まれたら、すぐに気がおかしくなるに間違いないでしょう。
上記の地獄川柳を詠っていられるうちは、心にユトリがある、実に幸せな状態であると云う事です。
明治維新以来の我が国のあり様を見詰めてみると、国民が頑張って、ある程度良い線まで行くと、まるで地獄に突き落とされてしまうような連続です。
危うく白人国家の植民地から逃れて、アジアで唯一の先進国になったと思ったら、関東大震災で国中は壊滅状態になってしまい地獄落ちです。
そこから必死に頑張って、盛り返してきたら、アメリカに壊滅されてしまい地獄行き。
またまた必死に頑張って、戦後の大復興を遂げると、バブルが弾けてしまい大不況で地獄行き。
何とか不況から脱したかと思いきや、今度は東日本大震災で、またまた我が国は雲行きが怪しくなってきて、地獄行きの様相を呈してきました。
日本ほど、このように浮き沈みがある国も、本当に珍しいのではないでしょうか。
雲の上から神様は、『見ていれば 日本の国は 面白し』と愉しんでいるのでしょうか。
あるいは、神様は礼節が無くなった我々日本人に警笛を鳴らしているのでしょうか。

院長の独り言 243 ; NHKの朝ドラ『おひさま』の今後の展開に思う…

現在、NHKの朝の連続テレビ小説『おひさま』では、第二次世界大戦戦中の張りつめた空気の日本を、ドラマ化して放送しています。
私もそうですが、私より年長の人にとっては、昭和10年代の開戦前から20年代の敗戦後の辛い経験を、本当は思い出したくもないでしょう。
家族や親族をはじめ、親しい友人などの戦争犠牲者が周りに大勢いたのですから…。
敗戦末期は、空襲のサイレンに怯えて、防空壕の中でハラハラ。
勿論、食事を満足に摂る事も出来ませんでした。
『勝てば官軍 負ければ賊軍』
これは戦争をやる以上、勝たなければ意味が無いと云う経験からの教えです。
識者の中には、『戦争に勝ち負けは無い!』と分かった風を言う人もいますが、負け戦(いくさ)ほど惨めなものはありません。
当然ですが、敗戦後の日本各地では、占領軍の兵隊が勝ち誇って、街中を闊歩(かっぽ)しており、その姿を少年であった私も、屢々(しばしば)目撃したものです。
着の身着のままで焼け出された敗戦国民を前に、青い目の奥さん連が綺麗に着飾って、大きな声で笑い声を上げ、ハシャイでいました。
それを横目で見ている惨めさは、子供だった私でさえも、悔し涙で泣けてきた思い出があります。
戦争は人間同士の殺し合いです。
いくら双方にどんな事情があっても、本来、戦争は極力、避けるべきが当然でしょう。
しかし、軍事力に勝る相手が無理難題を突きつけてきたら、国は一体どうしたら良いのでしょうか。
黙って相手の国の言う事を聞いていれば、最終的には属国にされてしまいます。
当時の我が国は、戦争を避けたくても、否が応でも戦わざるを得なかった理由があったに違いありません。
世界史で皆さんも習っていると思われますが、当時、帝国主義国であったイギリス、フランス、ソビエト連邦、そしてアメリカなどの欧米の白人国家が、アフリカ全土、南米、北欧、東欧、そして日本を除くアジア全体を植民地として支配していました。
特にアメリカは、その溢れる工業力を背景に、中国全土を新たな市場にすべく、その障壁となる日本を攻めて来たのです。
イギリスやフランスが、インドや中国をいとも簡単に攻略して、支配下に置いた状況を目の当たりにした、明治の日本の為政者は、今度は日本がやられると深刻に思ったに違いありません。
特に、あらゆる面で兄貴分と思っていた大国中国が、あまりにも簡単にヨーロッパ諸国に貶(おとし)められてしまったのには、大きな衝撃を受けたに違いありません。
おまけに、北からはソ連が南下政策を掲(かか)げて、北東アジアを手に入れようと機を窺(うかが)っていましたし、太平洋側からはアメリカが中国の利権を手に入れようとしていたのです。
そのような東アジアの地政学的な状況下、孤立無援で、否応なく頑張らざるを得なかったのが、当時の日本だったのです。
A(アメリカ)B(イギリス)、C(中国)D(オランダ)の、所謂、ABCDラインの包囲網で、石油や鉄などの工業原料材料が全くと言って良いほどに手に入らなくなってしまった結果、日本は開戦に踏み切らざるを得なかった訳です。
しかし、いくら頑張っても、所詮、国力の差は如何とも難(しがた)く、結果は、皆さんご存知の如くです。
日本が惨敗していく、これからの朝ドラ『おひさま』を、私は本当は見たくないのですが…。
ただ第二次世界大戦の後、アジア、アフリカ、南米などの植民地が、全て独立国になったのは事実です。
この事実は、東南アジアやアフリカ各国では、良く認められているのです。
世界から植民地が消えたのは、日本の頑張りと大きな犠牲のお陰といっても過言ではないでしょう。
我が国は、この事実を誇りに思うべきなのです。

院長の独り言 242 ; 写楽と歌麿

写楽を語った以上、江戸随一の美人浮世絵師『歌麿』を紹介しなければ片手落ちと云うものです。
小生が思うに、写楽はあまりにも現実的な役者浮世絵を描いたので、当時はあまり人気が出ず、約10ヶ月間で、女形などの美人画を描くのを止めざるを得なかったのでしょう。
何と言っても、歌舞伎のブロマイドは、江戸庶民に夢を与えなければならないのに、写楽は画力があるのでしょうが、そのファン心理を無視したのが拙(まず)かったのではないでしょうか。
版元の蔦屋重三郎に、無理やり描かされたのか、写楽自身が自らの意思で描いたのかは定かでは有りません。
筆を折ってからは、世間から忘れられていた写楽に突然、明治43年、ドイツ人美術評論家のユリウス•クルトがレンブラント、ベラスケスと並んで東洲斎写楽を世界の三大肖像画家の一人だと、その著書に記したのです。
それからです。
国内は勿論、世界的に、天才浮世絵師として写楽が脚光を浴び、再登場したのは…。
以後の写楽人気は、皆さんご存知の通りです。
写楽と同時代に活躍した有名な浮世絵師は沢山いますが、何と言っても、写楽とよく対比される浮世絵師は、喜多川歌麿でしょう。
江戸美人を描かせたら、この人の右に出る人は絶対いないでしょう。
当然、歌麿の役者絵は大人気で、人気と云う点では、写楽は歌麿の足下にも及ばなかった事でしょう。
浮世絵師としての技量は、両者とも天才的である事は間違いありません。
歌麿の美人大首絵は、誰が見ても、美しいだけでなく妖艶に描かれていて、ついつい美人絵に吸い込まれてしまいそうです。
江戸一の人気浮世絵師と持て囃されたのも当然です。
一方、写楽のそれは、美人とはほど遠いユニークなもので、妖艶どころではなく、一般受けは、先ずしなかった事でしょう。
ところが、こんな人気者の歌麿は驚いた事に、生まれが不明なのです。
若い頃は、鳥や昆虫、貝、魚、草木などの繊細な写実絵を、得意にして描いていたのです。
信じられますか。
その後、写楽と同様に歌麿は、版元である蔦屋重三郎に、才能ある絵師としての腕を認められて、美人画『四季遊花之香遊』を出版して評判を取る事になるのです。
浮世絵師として順風満帆、歌麿は特に美人画では、彼に敵(かな)う者は全く存在しないほどに売れっ子になったのです。
ところが、『倹約、倹約』の寛政の改革で、歌麿の描いた絢爛な美人画は、お上から贅沢すぎると目をつけられる羽目になってしまうのです。
しかし、反骨精神旺盛な歌麿は、老中首座である松平定信に楯突くように、豪華な着物を身にまとった美人を描き続けたのです。
時の権力者に楯突いて描き続けた歌麿は、たいした度胸の持ち主です。
将軍徳川家斉の嫌っていた豊臣秀吉が、北政所や淀君等と花見を楽しんでいる『太閤五妻洛東遊観之図』を描くに及んで、歌麿は幕府にお咎めを受け、牢屋に入れられてしまうのです。
これが原因で、歌麿は心身共に急激に衰え、失意の末に50歳半ばで病死してしまいました。
阿波の能役者 斉藤十郎兵衛が正体であるとされている写楽も、版元の蔦屋重三郎も皆、早死にしているので、何となく寂しい気もしてしまうのです。
江戸の昔を思いながら、写楽特別展を感慨無量で見学した次第です。

院長の独り言 241 ; 写楽展に行ってきました!

今朝は日曜日の朝。
起きたら天気が良く、上野の東京国立博物館に、予てより予定していた写楽展を見学しに行きました。
息子と一緒に、車で出掛けました。
国立博物館近辺の駐車場は、すべて満車。
午前10時なのに、沢山の人が、写楽特別展に足を運んで来ているのには感心させられます。
混雑
やっとの事で、博物館から歩いて15分ほどにあるコインパーキングに、駐車する事が出来たのですが、到着した頃には、結構、気温も高くなってきて、博物館まで汗ばむくらいの良い運動です。
風情のある
言問通りからは、建設中の東京スカイツリーもジックリと見学する事も出来ましたし、久し振りに、懐かしい上野界隈を見物する事も出来ました。
スカイツリー
小生、大学が上野に近かったので、上野近辺にはよく出没していたのですが、50年前と比べると、上野は本当に素晴らしい街になったものです…。
目的の博物館に向かう人の長い列が出来ていたので、入場する前から、館内が混み混みなのは分かっていたのですが、実際、その通りで、歩いてきた上に大勢の人の熱気で、館内に入った途端、頭が少しボーっとしてしまう始末。
本館
『これは気合を入れて見なければ…』と、戦闘態勢に入った私でした。
そう言えば、パリやプラハの美術館では、見物客は疎らで閑散としていた事を思い出します。
我々日本人は向学心が強い事を、改めて感じ入ったのでした。
写楽については、大勢の学者や小説家が、あらゆる面から研究されつくされているので、文献も沢山、出版されています。
要するに、写楽と云う人物は、突然、世に現れて、短期間で歌舞伎役者絵を中心に、多数のユニークな浮世絵を書き、突然、姿を消してしまった絵師と云う事です。
小生、今まで国内外において、写楽の浮世絵を見学していますし、関連本もかなり読んでいます。
しかし、こんなに多数の写楽の浮世絵を、しかも目近で見る事が出来たのは、今回が初めてです。
しかも、当時、活躍していた浮世絵師の喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国などの浮世絵と比較するように展示されているので、写楽の描いた人物像が他の絵師と比べて、如何に表情豊かであるのか、よく理解出来ました。
中でも、歌麿の美人画とのあまりの違いには、ビックリしたと云うよりも、よくあのような個性的な描写を、版元である蔦谷重三郎が許したものだと、あらためて感心しました。
多分、この版元の重三郎が、ユニークなこれらの表情を描く事を許したところに、写楽の正体を謎解くカギがあるような気がしてなりません。
本当に、写楽が自ら率先して、あの醜いとも思えるような、個性的な女形を描いたのか、あるいは重三郎に描かされたのか、その辺の研究がこれからの愉しみと云うものです。
そこがハッキリすれば、全ての謎が解き明かされるのではないでしょうか。
写楽が凄いのか、それとも版元の重三郎が凄いのか。
いずれにしても、大勢の見物客に挟まれ押されながら、写楽の描いた第一期から第四期までの、そして、当時、お相撲社会で横綱谷風や大関雷電に伍して大人気だった怪童大童山の浮世絵を熱心に見ていたら、12時をとっくに過ぎていたのでした。
周りの見物客の会話が耳に入ってきますが、『写楽の浮世絵は動きがあって面白い!』と言っている中年男性がいる半面、女性には歌麿の美人画の方が『綺麗!』との事でお気に入りのようでした。
江戸の当時でも多分、同じような評価だったのではないでしょうか。
Kさん、本当に有難う御座いました。
写楽展入り口

院長の独り言 240 ; 写楽の正体

浅間山の噴火と東北地方の冷夏が重なって大飢饉となり、不景気の上にインフレ状態、所謂、スタグフレーションに陥ってしまった時代に、東洲斎写楽は登場したのです。
その大変な時代を、何とか立て直そうと、老中である松平定信が行ったのが寛政の改革です。
寛政の改革は『一に倹約、二に倹約』という趣旨であったのですが、田沼時代に贅沢を味わった庶民には合わなかったのか、結局、挫折する事となるのです…。
不景気風の吹いている世の中、庶民は歌舞伎見物どころではなかったのではないかと想像出来ます。
歌舞伎もお客が入らず、関係者一同、困っていたのではないでしょうか。
ここからは例によって私見ですが、歌舞伎の興行主達は、何とか江戸庶民の眼を歌舞伎に向かわそうと、色々と奇抜なアイディアで宣伝に努めたことでしょう。
ただでさえ不景気で、世の中は暗く沈んでいるのに、お上は『節約、節約』と、更に経済の停滞を招いてしまいます。
お客さんの足は、益々、歌舞伎から遠のいてしまうのです。
そこで一計を…と考え出したのが、あの面白い役者絵だったのではないでしょうか。
当然、有名な浮世絵師、喜多川歌麿や葛飾北斎には、奇抜な役者絵など頼む事は出来ない相談です。
多分、依頼すれば、けんもほろろに拒否されてしまうでしょう。
アゴが極端に張っていたり、眉間に皺が深く入っている女形を描けば、役者さん達からブーイングが起きるに決まっています。
しかし、何とか、庶民がビックリするような話題をブチ上げたい!
そこで版元である蔦谷重三郎に、歌舞伎の興行主達は、達ての願いと頼みこんで、人々をアッと言わせる役者絵を描かせたのではないでしょうか。
重三郎は、素人でもあっても、絵が達者であった阿波の能役者 斎藤十郎兵衛に、28枚の、あの奇抜な大首絵を描かせたのではないでしょうか。
斎藤十郎兵衛は能役者でしたが、絵が大変上手かったと記録に残っています。
そして東洲斎写楽と名乗ったという推測です。
あの写楽絵を、歌舞伎の5月興業と8月興業の時に売り出して、話題作りは成功したのではないでしょうか。
しかし、お客さんが増えたのか、全くの無駄であったのかは、小生は知りません。
ただ、その直後に写楽は筆を折ってしまった事は事実です。
このように考えると、写楽が突然出現して、歌舞伎の話題を作り、アッと言う間に消えてしまった事実に、辻褄がよく合います。
勿論、いつものように、これは小生の独り言です。
皆さんも、色々、空想すると、楽しいものですよ。
(次回に続く)

院長の独り言 239 ; 上野の写楽展を訪れる予定です

上野の国立博物館で、写楽特別展が開催されています。
私は写楽ファンなので、その事を知っている患者のKさんが、なんと、その入場券をプレゼントしてくれたのです!
Kさん、本当に有難うございます。
ネットの情報によると、東日本大震災の為に、一か月ほど開催時期がズレたようです。
ここにも地震の影響が出てしまいました…。
皆さんご存知のように、写楽の役者絵は大変、ユニークです。
写楽以外の浮世絵師は、当時の人気歌舞伎役者の顔を、美男美女に描き込んでいます。
ところが、写楽は、描いている役者の顔を、決して綺麗には描きません。
年相応に、口元に深い皺(しわ)を入れたり、目を細く吊り上げたり、女形を美人には表現しませんし、男役でも鼻を異常に大きくしたり、寄り眼に描いたりしています。
もし写楽が存在しなかったら、動きのない役者絵ばかりで、生き生きとした動きのある、江戸時代の歌舞伎を想像する事が出来ず、大げさに言えば、現代の歌舞伎の人気も半減していたかも知れません。
写楽は人気者なので、この浮世絵師に関する文献は、今日まで多数出版されています。
写楽が突然、現れたのは、天明飢饉の後で、今風で言えば、デフレもいいところ、大不況の真っ只中の寛政6年5月です。
当時、大変、景気が悪く、庶民は歌舞伎を見物するどころではなかったと思われます。
そこへ突如、例の大首絵が一気に沢山、売り出されたのです(なんと28枚!)。
その表情は、今までの役者絵からは全く想像もできないほど、異質な顔をしたものでした。
江戸の人々は、さぞかし驚いた事でしょう。
それまでの役者絵は、男役は男前、女形は美人に描かれていますが、動きに乏しく、お人形のようでした。
そこへ表情豊かな写楽絵が、世に出てきた訳です。
浮世絵図は、現在で言えばスターのブロマイド、そのブロマイドをワザと変な表情にしたら、ファンはどう思うでしょうか。
版元であった蔦谷重三郎は随分、大胆な事をしたものです。
それもプロの浮世絵師ではなく、素人である阿波の能役者 斎藤十郎兵衛(東洲斎写楽)に描かせたのですから、二重にビックリと云う事になります。
寛永6年5月に突如世に出てきた写楽は、約10カ月後にまた、突如消えてしまいました。
余談ですが、写楽が何者であるか、今もって、謎とされています。
あまりにも突然、世に出てきて、あまりにも突然に消えてしまったので、その正体について、謎が謎を呼ぶ事になったのでしょう。
喜多川歌麿、葛飾北斎、谷文晁など、同時代に活躍した錚錚(そうそう)たるメンバーが、その候補に挙がっていますが、研究の結果、一応、能役者の斎藤十郎兵衛で決着しています。
写楽の活躍した、わずか約10カ月間を、画風によって4期に別けて説明されています。
なぜなら、あまりに絵の描き方が変化しているからです。
第1期の写楽と言えば、なんと云っても大首絵!
アッと言わせた役者絵28枚で、歌舞伎の5月興業を描いた浮世絵です。
第2期は、大首絵に下半身を描いたもので、所謂、役者の全身姿図です。
これは8月興業を描いているのです。
第3期、第4期は、役者の周りの背景を描き入れています。
そして、後半の第3期と4期に描いたものは、前半の第1期と2期のそれと比較すると、全く筆力が衰えているのです。
特に第4期は、写楽の絵ではないのではないかと言われるくらいに、衰えています。
ここで、『写楽は消えた!』と評価されるのも、当然と言えるのです。
要するに、写楽絵の真骨頂は、わずか10カ月間の前半に描いたものと云う事です。
写楽展
(次回に続く)