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院長の独り言 176 ; 大学教官の仕事

前回のブログ(院長の独り言175)で、突飛に焼き肉を食べに行った事を書きましたが、また大学生活の話に戻します。

何しろ、1年振りに焼き肉を食べに行ったので、つい書きたくなったのです…。

大学教官の仕事は、大まかに言えば、学生指導、研究、治療の三本柱です。

学校ですから、第一は当然、学生指導と云う事になります。

そして研究です。

治療技術の向上を目指しての研究です。

いくら大学院で研究したからと言っても、助手になっても、講師になっても、大学の教室に籍を置く以上、たとえ教授であっても研究を続けなければならないのです。

研究をしない医局員は『無能の烙印』を押されてしまうので、大学の医局に残る事は、決して気楽では無いのです。

もう一つの大事な仕事は、患者さんの治療です。

私が所属していた教室は、東京医科歯科大学歯学部の臨床系講座でした。

大学の歯学部自体、歯科医師の養成機関ですから、色々な症例を学生に見せながら、教育するのです。

当然、口腔のあらゆる疾患を見せて、勉強させなければなりません。

口の中の狭い領域でも、様々な病気が存在するものです。

一番、知られている虫歯、歯周病、歯牙欠損症の他に、顎関節疾患、口腔癌、顎骨の骨折、唾液腺疾患などなど、挙げれば切りがない程です。

歯の審美治療も大変、大切です。

歯並びを気にしていると、人間は心も憂鬱になるものです。

自分が治療を出来る、出来ないはさて置いて、様々な疾患を知り、治療方法だけでも把握して、実際に患者さんに説明出来ないと、イザと言う時に恥をかいてしまいます。

まず学生は、5年生になると治療現場の見学です。

『ポリクリ』と言います。

口腔外科、矯正科、保存科、補綴科、小児歯科など臨床各科を小さいグループに分かれて見て回るのです。

朝から夕方まで、各科の教授、助教授、講師、そして助手の教官の治療を見学するのです。

要するに、治療の現場で患者さんを見ながら、各科の教官の説明を受けて勉強するのです。

私は臨床系の保存科に所属していました。

保存科とは、読んで字の如し。

虫歯や歯周病から歯、歯肉、歯槽骨を健全に保って、楽しく食事が摂れるように治療する事を目的にしている教室です。

その目的の為に、研究や治療をしているのです。

1人前の開業医になる為に最小限、身に付けなければならないのは、保存、補綴、口腔外科です。

歯科矯正科などの特殊な分野は、それだけを専門に開業している歯科医師がいます。

一般の歯科開業医は、そのような専門医に依頼する事になります。

歯科医師になる基本中の基本を指導しているのが、保存科と云う事です。

小生は、その大事な科で学生を指導している教官の一員だったのです。

まだ若輩者だったので、学生に馬鹿にされないように一生懸命、学生を教えていると、自分の方も色々な意味で上達するのです。

教官になると云う事は、自分にとって最大の研鑽でした。

学生の為だけでなく、自分自身の向上の場でもあったのです。

遠い昔の話です…。

もう一つ、大学病院での診療がどうしても必要なのは、開業医や地域病院では治療するのが難しい疾患の受け皿になっていると云う事です。

長年、大学で指導、研究、治療をしているベテランの名医(教授、助教授、講師等)がその任に当たるのです。

私にとっても、上司である先輩の先生の治療は勉強になりました。

開業を目的にしている若いドクターは、やはり大学にある期間、残って、勉強するものだと、この歳になった今でもつくづく感じています。

インプラントのセミナーの講師をしました。

昨日、ケンテック社主催の歯科医師向け『インプラント治療の実習セミナー』講師を、副院長である石川高行先生と共に行いました。

今回は昨年の10/31に続き、第2回目でした。

アゴの模型を用い、インプラント手術に必要な、基本的な外科手技(切開、剥離、インプラント埋入、縫合)を習得してもらう実践的なセミナーです。

当日は少し時間がオーバーしてしまいましたが、大きな問題もなく、無事に終わることが出来て、今はホッとしています。

セミナーの資料やスライドを最初から作り直したりと、準備は大変でしたが、そのために多くの専門書を読み直すことで、現在の知識がより深まり、また新たな発見もあり、私自身もとても勉強になりました。

歯科医師の先生に説明をするということは、全く良い経験です。

このような機会がこれからもあると思うので、この経験を生かして頑張っていきたいと思います。

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院長の独り言 175 ; 久し振りに訪れた焼き肉屋さん

久し振りに、本当に久し振りに、自宅から歩いて12~3分の距離にある焼き肉屋さんに家族で行って来ました。

1年以上も行かなかったので、何となく照れ臭かったのですが、『久し振り!』とわざと照れ隠しで、大きな声を掛けて店に入ったのです。

ママさんはまだ出勤しておらず、実直そうなこの店の御主人がニコニコと迎え入れて呉れました。

多分、韓国出身の御夫婦と思われるのですが、何時も元気に応対してくれて、いい感じです。

御愛想など言わないのですが、応対する態度が誠実そのものです。

先ずマッカリを注文。

少し酔いの廻ったところで、ロース、はらみ、上タン、上ミノ、テッポウ、そしてユッケ刺し、センマイ刺し、温麺、冷麺と目一杯注文したのです。

適正価格ですし、味(タレ)も私好みで、美味しいのです。

何時も満員ですが、この日も超満員でした。

暫くすると、ママさんが出勤。

1年以上も御無沙汰していた言い訳をひとしきり。

ママさんが次から次へと運んでくるロースやタンをコンロの網に載せて、ほど良く焼き上ったところを頂いたのです。

久し振りの焼き肉は満足度、抜群でした。

糖尿気味の小生、飲んで食べて身体が少々心配です。

食べ過ぎたので、帰りもブラブラ歩いて、自分では少しは運動したつもり。

通りがかりのコンビニに立ち寄り、トイレットペーパーや洗剤を買うなど油を売った後、帰宅。

酔い覚ましの冷たい風が心地よく、本当に御機嫌の一日でした。

ところで、小生は子供の頃は焼き肉を殆ど食べた記憶が有りません。

肉料理と云うと、豚カツかすき焼きでした。

自分の親父は魚料理が好みだったのです。

お袋は親父の好みに合わせて、刺身や煮魚、焼き魚と云った魚料理を日替わりで出していました。

丁度、好都合な事に、仲の良い魚屋さんがいたので、新鮮な魚が入ると、何時も声を掛けて呉れていました。

そういった訳で、石川家の動物性タンパク質の摂取は、主に魚からでした。

何時の頃から、自分は焼き肉を食べる様になったのかとあらためて考えてみると、結婚してからと云う事になるのでしょう。

義理の父が、焼き肉大好き人間だったのも、その理由のひとつです。

家内の実家に遊びに行くと、何時も親父が『焼き肉奉行』を買って出て、我々を大歓迎して呉れました。

自分の親父は魚好き、家内の親父は焼き肉好きなので、小生は刺身も焼き肉も大好きになったと云う事です。

逆に家内はと云うと、小生の実家で魚料理を頻繁に食べる事になり、お互いに、焼き肉料理と魚料理を堪能する事になってしまいました。

しかし、カロリーの高い焼き肉を、最近、敬遠していたのも事実です。

今日、久し振りに焼き肉を食べてみると、たまには、焼き肉料理も良いものだと、あらためて感じ入ったのです。

帰り際に、『1~2カ月に1回は顔を出す事』をママさんと約束して会計を済ませ、お土産に韓国風焼きノリを貰って、ご機嫌で自宅に帰ったのでした。

一寸、カロリーを摂り過ぎて心配は心配だったのですが、喰い意地に負けてしまいました。

喰い意地には負けたけど、サッカーはオーストラリアに勝って、アジア杯で優勝して欲しい!

後書き

多分、内心、危ないだろうと思っていた強敵オーストラリアを破り、サッカーアジア杯で日本が優勝しました。

感激です!

日本の選手よりあんなに大きくて、ガタイの良い選手を相手にしてよく勝ったものです。

良かった!ヨカッタ!!

歯科雑誌に症例報告が掲載されました。

石川歯科の歯科医師の山森翔太です。

約1年振りにブログを書きます。

2月上旬に発売予定の「QuintessenceインプラントYEAR BOOK2011」というインプラントの専門誌に、当院のインプラント症例が掲載され、出版社から発売前の完成版が送られてきました。

この本は年に1度、日本で市販されている各インプラントメーカーの代表的な症例が掲載され、今回は当院で使用しているケンテック社アルファタイトインプラントの代表症例として掲載されました。

インプラントはただ噛めるだけではなく、長期安定性はもちろん、審美性もとても重要なものだと思います。

また、審美性と長期安定性は密接に関係していると考えています。

これからも理想的な治療を行い、学会や雑誌などで症例を発表できるように精進していきたいと思っています。

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院長の独り言 174 ; 私が大学生や教官であった頃

大学教官の最も重大な仕事の一つは教育ですから、当然、学生を教育して、一人前の歯科医師に育て上げる一翼を担うのです。

昔から医科・歯科系大学に入学して来る学生の経歴は、文科系や理科系の大学生とは異なり、千差万別です。

高校を卒業した後、たとえ浪人したとしても文科系や理科系の大学に入学して来る学生は、殆ど他の職業などは経験していません。

が、私が大学に籍を置いていた45年程前は、歯学部に入って来る学生は、他の大学を卒業してから入り直して来る者や、一旦、社会に出て会社などを退職して入学して来る者も可成りいたのです。

勿論、子持ちも結構いました。

従って、新入生の顔ぶれは、他の大学の学部と比べると年齢が高いのです。

そう云う学生は、自分の将来を真剣に考えての再チャレンジなので、気持ち的に必死です。

それに反して、自分の様に将来の事などあまり考えないで入学してきているノー天気の学生もいて、色々とユニークな友達が出来、大学生活は特に遊び方面(麻雀、囲碁、旅行などなど)では、大変充実?していました。

勿論、落第が嫌なので勉強もシッカリしていましたよ。

その後、大学院を卒業して助手になった事は前のブログで報告済みです。

甘チャンで社会経験もない、若い私は、悲しい哉、大学病院での臨床実習で学生を指導していると、患者さんに小生が学生とされ、教えられている学生の方が教官だと勘違いされるのはいつもの事でした。

小生より、可成り年上の学生を指導する場合も結構あるので、その様な間違いが生じるのです。

年上の学生には、こちらも気後れして敬語で話すので、余計、患者さんに勘違いされて仕舞います。

歯科以外の人生経験は、教官の私より学生の方がズーッと豊富な場合があるので本当に参ってしまいます…。

私の同級生も、子持ちの人が何人もいて、同じ同級生とはとても思えない、しっかりとした人生観を既に身に付けている人もいたのです。

極端な例では、インターンの時など、患者さんから教授と間違えられた友人がいたほどです。

その友達は頭が薄く(頭の上にあるべきものが完全に無い…)、誰が見ても教授と見間違いられるほど貫禄が有るのです。

その『勘違いされている教授』と『学生と勘違いされている教官』と『患者さん』の三者の関係を見て、『本物の教授』も苦笑していました。

何しろ、一般の大学では到底、味わえない様々な体験をし、学生時代も教官になった後も、今に成って振り返ると、本当に貴重な経験をしたものだと懐かしく述懐しているのです。

『患者力アップ!インプラント説明会』にご参加くださり、本当に有り難う御座いました!

昨日は多数の方々が説明会にご参加くださり、本当に有り難う御座いました。

こちらの準備不足な点も多々あり、ご迷惑をお掛けしたかも知れません。

例えば、会場が少し狭かったですね。

言い訳になりますが、60人規模の会場ではあったのです…。

個別相談をお待たせした方々もいました…。

以上、反省点は諸々ありますが、皆様に頂いた感想を生かして、是非、次回に繋げて行きたいと考えております。

また、皆様に熱心にご記入頂いたアンケートを、早速、精読させて頂きましたが、どうやら、こちらの開催趣旨は伝わったようですね。

私の個人的な思いですが、日々の診療に追われて、患者さまにここまで詳細にインプラント治療についてお話しできなかったフラストレーションが少し解消された気がし、また、これからの患者さまとの関係についても実りが多い、学びの会となりました。

この思いを石川歯科スタッフ一同、実感しました。

これからも『本当のインプラント患者力』を獲得して頂くことを目指し、説明会を開催して行きたいと思います。

宜しくお願い致します。

石川歯科医院スタッフ一同より

本日、午後2時から、JR八王子駅北口の東急スクエアビル12階(第5セミナー室)で『患者力アップ!インプラント説明会』開催します

石川歯科医院では、今まで10年にも及ぶ長い期間インプラント治療を行ってきました。

その結果、歯の欠損している部位にインプラント治療を施す事が、従来の治療法である義歯やブリッジの補綴物装着法と比較すると如何に素晴らしい治療法であるかが実感出来ました。

そこで、今日、1月23日(日)に地元八王子市で『インプラント説明会』を開く事にしたのです。

そして、今まで10年間のインプラント治療の成果を症例とともに発表、説明する事にしました。

インプラントメーカー、企画会社、歯科の材料店などの協力を得て準備していた、この『インプラント説明会』に、義歯やブリッジを入れているが上手く食事が出来ない方に是非、来て頂だきたいのです。

従来の歯牙欠損部の治療法、そこに義歯を入れている方々に、そのインプラント補綴物の素晴らしさを理解して欲しいのです。

本日の午後2時から、JR八王子駅北口の東急スクエアビル12階(第5セミナー室)で開催します。

詳しい説明は、石川歯科医院のホームページに載っていますので、参考にして是非いらして下さい。

宜しくお願い致します。

院長の独り言 173 ; 講師になって、突き上げられて…

昭和40年代から、歯科大学と歯学部が全国的に増設され出したのです。

それまでは、我が国には大学の歯学部と歯科の単科大学合わせて7校でした。

毎年、約700人の新しい歯科医が誕生するのですが、亡くなったり治療が出来なくなって引退してしまう歯科医の数を引くと結局、日本全体の歯科医師数は殆ど増加しないことになります。

1億人の人口を持つ大国日本とすれば、全てが高度成長の時を迎えたのに、歯科医師はあまりにも不足していたのです。

歯科治療の需要がうなぎ上りなのに、治療する歯科医が少な過ぎたのです。

時代は歯科医の増加を熱望していた訳です。

自分はそう云う歯科医不足の真っ只中で大学の教官をしていました。

ところで、今年も受験の季節2月がやって来ました。

2月は大学をはじめ、各種学校の受験生にとっては避けて通れない、総決算のシーズンです。

勿論、私も受験を経験しましたが、まさか自分が逆の立場に成るとは思ってもみませんでした。

即ち、講師になると、大学受験を実施する当日、試験の監督官がノルマになるのです。

幸か不幸か講師になってしまったので、我が大学、東京医科歯科大学の主任の監督官の一人として大学受験に立ち会う事になってしまったのです。

監督官になって一番困った事は、受験票に張ってある写真と目の前にいる受験生が正直、同一人物なのか迷う時です。

例えば、写真は若々しい紅顔の美少年なのに、試験場で目の前に座っている青年はと云うとヒゲズラで、本人の様なそうじゃ無い様な、あまりジロジロ観察する訳にもいかないし、ましてや、本人かどうか警察官のように聞く度胸もないしで、いま思い出しても、冷や汗が出てきます。

また丁度、講師時代には学生闘争運動の真っ只中でも有ったのです。

学生から大学側に突き付けられた抗議の集会場では、過激な学生から色々と突き上げられる側に小生もいて、大変な目にも遭いました。

時は日米安全保障条約(安保条約)の第二次闘争の時です。

第一次安保闘争は、所謂、日米安全保障条約の新条約の発足時の闘争です。

その時は、小生は大学生だったので、闘争運動を激しくやっていた側にいたのです。

第一次安保闘争の岸内閣の時は、空前の激しいデモをしながら国会議事堂になだれ込んだ学生の中に、小生も恥ずかしながらその一人として入っていたのです。

そして反対に、自分が学生抗議運動の説得側にいたのが、日米安保条約の自動継続阻止を目指して起こった第二次安保闘争の時と云う事です。

今でも学生闘争運動の象徴として、東大安田講堂の学生立てこもりは有名です。

所謂、70年安保闘争です。

まさか闘争側と説得側の両方を経験する事になるとは思いもしませんでした。

いま思い出しても、頭が混乱します。

話を歯科医師不足に戻します。

文部省も厚生省も、歯科医師を増やす為に、国立大学の歯学部と私立の歯科大学を全国に増設し、結局、7つの歯学部と歯科大学が29校になり、アッと云う間に歯科医師の過剰時代になってしまったのです。

いくら歯科医が不足していたとは云え、29は造り過ぎでしょう…。

過度の不足もまずいですが、多すぎる場合も、治療する側とされる側の両者にとって、決して良い訳では有りません。

不足していれば、治療を受けにくいし、過剰の場合は安易に受診しがちになります。

世の中、全て丁度いい具合にはいかないものですね。

院長の独り言 172 ; 大学院を卒業した後…

以前のブログで、無事に大学院を卒業して、大学の助手になった事は何度か書きました。

今まで大学院の学生として、毎日、自身の研究の為に通っていた同じ場所なのですが、助手としての初出勤の日は、気分的には全く違った、新しい職場に来たような変な感覚でした。

年度の始まりの4月1日の事です。

学生気分を自分なりに排除して、助手の仕事に専念しようと決めていた事がそう云う気持ちにさせて呉れたのだと思います。

大学院生の時は、自分の研究の事だけを考えて仕事をしていれば良かったのです。

助手になってみると、先ず教室の雑用を率先してやらなければならない(ちなみに大学院時代は、教授の考えで、教室の雑用は一切する事は無かったのです)し、学生の時と違い、上司にも色々と気を使わなければならない事が分かってきたのです。

歯科医師の免許は持っているものの、大学院時代は学生なので当然、月謝を払っていました。

助手になった途端、給料を貰う身分になる訳ですから、気持ちの上でも仕事の内容も『月とスッポン』、雲泥の差なのです。

学生の時は、教授に対して気軽に声を掛けていたのですが、助手になってみると、そう易々と声を掛けられない雰囲気になってきたのです。

古参の助手も、今までの『教えて呉れる口調』から『命令調』に変化してきたのです。

最初の仕事は、教室の雑用は当たり前として、教授の講義の補佐をする事でした。

我が教室の鈴木賢策教授の講義は、火曜日の朝8時からの2時間と昔から決まっていました。

それが1年間、続くのです。

講義は当然、専門的な内容で、細かく大変難しいものです。

教授は、『頭のスッキリしている、朝の内に講義は行うもの!』と常に言っていました。

スムーズに講義が出来る様に、先輩の助手の先生と2人で、1時間前の朝7時前に出勤して準備をしなければならないので大変でした。

しかし当然の事ですが、私が年下の新米の助手なので、先輩より早く来て、教授がスムーズに講義が出来るように色々と支度をするのが常でした。

先輩の助手の先生は、教授のお出ましになる15分程前に出勤して来るのです。

当時はパソコンなどの便利な機械は、当然、有りませんでした。

2時間分のスライドなどを用意して、教授の講義が上手くいくように準備をするのですが、これが結構大変なのです。

その日の講義の内容を十分に把握していないと、チンプンカンプンの講義になってしまいます。

当然、そう云う時の教授は不機嫌そうです。

準備不足の時は、先輩の助手の先生に嫌みを言われもしました。

お小言を頂くのも癪なので、最初の頃は講義の前日から随分と緊張したものです。

自分が学生の時に受けていた時は、教授の話していた内容を今いち理解出来なかったし、大して将来、役に立つとも思えなかったものです。

ところが講義係を仰せつかって、改めて教授の講義を学生と一緒に聞いてみると、4年間の研究生活を送っただけの事はあったのか、その内容が大変良く理解出来るのです。

そして、教授の講義が素晴らしいものである事が良く理解できたのです。

講義係になって始めて、歯科治療が如何に大切かを、再確認出来て良い経験をしたのでした。

当時は、歯科医師不足の為に、殆どの先輩は大学に残るより開業を選択するので、早期に退職する場合が多いのです。

その結果、幸運にもすぐ出世する事が出来ました。

次の年には、後輩が2人も助手として入局して来たので、雑用係と講義準備係から放免されてホッとしたのです。

教室の職員構成は、当たり前ですが教授1名、そして助教授1名、講師2名、助手6名、秘書の女性が1名、そして雑用の夜学の大学生がアルバイトできていました。

その他に大学院生や専攻生が在籍していたのです。

小生はと云うと、1年間の助手の後、何人かの先輩を飛び越して、講師になる事が出来ました。

(次号に続く)

院長の独り言 171 ; 今年は、石川歯科が開業して39年目になります!

今年は、八王子市で歯科医院を開業してから39年目になります。

月並みに言い表せば、アッと云う間の39年間と云う事になります。

しかし開院した日を思い出すと、大変な幕開けでした。

昭和47年12月、八王子市内有数の繁華街であった、甲州街道沿いの八幡町にある6階建てビルの3階で開院しました。

広さは約30坪、診療チェアー2台、レントゲン室、技工室、受付け、待合室、そして我々スタッフの控え室、トイレ、化粧室と云った感じです。

開院初日は家内が受付、そして私が治療を担当。

朝7時に家を出発し、『記念すべき開院の日なのだから、何が起きても頑張って行こう!』と2人で気合いを入れて、八王子の診療室に向かいました。

開院の為に準備万端整えての第一日目です。

診療室はピカピカの新装、隅から隅まで塵のひとカケラも無いほどに掃除を完璧にして、午前9時に期待を込めて診療所を開いたのですが、予想に反して午前中は1人の患者さんも来ませんでした。

当時は、歯科医師が極端に不足していて、どの歯科医院も患者さんで溢れていた時なのにです…。

開業した先輩達は、ことごとく開業初日から千客万来と言っていました。

ところが、午前中は1人の患者さんにも来て貰えなかったのです。

開院告知の広告も、お怠り無く新聞の多摩版に出していたのです。

何の根拠も無いのですが、午後は患者さんがきっと来てくれる!と信じてはみるものの、何となく心細くなってきます…。

自分としては、開業すると決めた1年以上前から、暇を見付けてはアチコチの歯科医院をコマメに見学に行っていたのです。

そして、自分なりに頭に描いていた理想的な歯科医院を、業者さんに図面に起して貰い、歯科専門の材料店や内装屋さんにもお願いしてのヤッとの開業でした。

『これなら患者さんも、快適に歯科治療が受けられるのでは…』と自信半分。しかし未経験の開業でしたので、不安も半分ではじめたのです。

その不安の方が見事に的中したようで、午後5時になっても相変わらず患者さんは来ません。

家内の悄気(しょげ)ている顔を見ながら、暫くの間は患者さんが殆ど来院しない、非常に厳しい展開になる事を覚悟したその時、おばあちゃんが血相変えて『孫が、歯が痛い痛いと大泣きしている!』と飛び込んで来たのです!

おばあちゃんの後ろからワァーワァー泣きながら、5歳の男の子が入って来ました。

『いやだ!いやだ!』と暴れ回って、なかなか口を開いて、診せて呉れません。

散々にテコズりましたが、相当痛いらしく、おチビさんは我慢の限界を超えた様で、しかも泣き疲れたのか、とうとう30分くらい経ってから、大きな虫歯が巣食う乳歯の抜歯が出来ました。

抜歯した後、麻酔も効いている事もあり、痛みから解放されたおチビさんは喜んで飛び跳ね、走り回り、診療室の床に敷いたばかりの新品の絨毯を血で染めてしまったのです。

結局、開業初日はこのおチビさんが唯一の患者さんでした。

折角、無理して、お金をかけて敷いたグリーンの絨毯が血で汚されてしまい、本当に泣きたい気分の上に、おまけに患者さんも全然来院して貰えず、前途暗澹たる気持ちになった開業初日でした。

ところが、このオチビさんの家の皆さんが大変優しい人達で、開院の初日に新品の絨毯を汚してしまったと云う事も有ったのか、その後、おチビさんに付き添って来たおばあちゃんが患者さんを沢山紹介して呉れました。

また、息子さん夫婦をはじめ、親戚や知人の方には、今もって石川歯科に治療に来て頂いています。

あのおチビさんはと云うと、今は立派な青年になり、模範的な患者さんに変身しています。

残念ながら、石川歯科の恩人とも言えるおばあちゃんは、先年、天国に召されてしまいました…。

現在、新しいビルに移り、沢山の石川歯科医院のファンに支えられて、スタッフ一同、益々、気合いを入れて頑張っていこうと決心しているのです。

受診して頂いている患者さんや石川歯科医院を支えて下さっている多くの方々に、有難うございます!と感謝の気持ちを、そして開業して無事に39年経った今、心より3 9(サンキュウ)と叫びたい気持ちです(ダジャレです…)。

幸い、息子も一人前のドクターに成長して呉れたので、患者さんに迷惑をかけずに引き継ぎが出来そうです。

今後も、石川歯科医院を宜しくお願いします。

院長の独り言 170 ; 歴史は繰り返す…

珍獣パンダとか名画モナリザなど、我が国に初めて公開されるものがあると、自分はそれが見たくて、見たくて、つい見学しに行ってしまうのです。

公開している模様をテレビで見ていると、ウンザリするほどの大行列です。

それを見ていて大変だと分かっていても、自分もその行列の一人に加わってしまうのです。

好奇心旺盛と言えば聞こえが良いのですが、要するに小生は物好きと言う事です。

自分が国内外を問わず、旅行に行くのが大好きなのは、訪れた国や地域で今まで経験した事が無い文化や自然に接したいからです。

何しろ映画や写真で、ピサの斜塔が傾いているのを見て、本当にあのように傾斜しているのかどうしても確かめたくなりますし、鳥取の砂丘を本当に砂丘と言えるのかこの眼で確認したくなるのです。

『単なる野次馬じゃないか?』と言われて仕舞われそうですが、当の本人である私は真剣そのものなのです。

ピサの斜塔も眼の前で見て、『本当に傾いている』と納得が出来ましたし、鳥取の砂丘もフーフーゼーゼー息を切らせて登ってみてはじめて『なるほど砂丘だわい…』と思いました。

今年、自分の眼でどうしてもピラミッドがどのくらい『デカイ』のか確かめたいのですが、なんせ当地エジプトの治安が良くないと云う情報も有るので、実際に行くかどうか躊躇している状況です。

もうひとつ確かめたいのは、『全ての道はローマに通じる』と耳にタコが出来るほど聞かされていますが、当時の路がどんな路なのか見てみたいのです(保存されて残っているそうです)。

ポンペイを訪れた時、あんな昔に馬車道が整備されていたのには本当に驚かされましたが、ローマに通じる路とは如何なる路だったのか興味津々です。

ローマ史についての参考書で見ると、ローマに通じる路は、北はオランダ、ドイツ、イギリスまで、南はアフリカのサハラ砂漠手前まで、東はトルコ、アラビア半島、西はスペインと驚くほど広範囲に拡がっているのです。

こんなに広い地域を制していたローマ帝国は、その当時、皆さんご存知の様に、強大なる軍事力を持っていたからに違い有りません。

現在の日本の状況と酷似しているカルタゴも、結局、ローマ帝国に滅ぼされてしまいました。

当時、カルタゴの経済は大発展していたのですが、今日の日本と同じ様に、ローマとの大戦に敗れ、その後、重商主義に傾き軍備を怠った為に、見事にローマ帝国の毒牙にやられてしまって、二度と歴史に登場してきません。

我が国もカルタゴの轍を踏まないようにキチンと守りを固めて、子孫に迷惑を掛けないようにすべきではないでしょうか。

歴史は繰り返すと言われています。

転ばぬ先の杖ですよ。

我が国には、前のブログにも触れたように、原子力発電所を沢山保有しています。

万が一、その発電所を他国から攻撃されたら一発で日本は奈落の底に突き落とされるでしょう。

そんな事は起こり得ないと本当に自信を持って言えるのでしょうか。

万が一の抑止力として、日本は核武装すべきだと思うのですが…。

世界で唯一の被爆国、あんな悲惨な被害に二度と遭わないためにも抑止力として核を持つべきです。

アメリカも中国も世界中のどの国も、日本が核で武装する事に反対出来ないでしょう。

何しろ、絶対やってはいけない、原子爆弾を落とされている唯一の国なのです。

『二度とあのような惨禍に遭いたくないから、抑止力として核を持つ!』と言えば、どの国も納得するしかないでしょう。

原子力発電所を多数持っている以上、核兵器を持つ、持たないなどの論議はナンセンスです。

話がズレてしまいましたが、70歳を超えて足腰も衰えていく一方ですが、好奇心を無くす事なく、動けるうちに私は無理をしてでも、世界の博物館や美術館に行ったり、アチコチの名跡や名所を旅行したいと思っています。

院長の独り言 169 ; この不景気の世の中で、生き方を考える

わが国は20年前にバブルが弾けてからそれ以来、ズーッと不景気と云うか、デフレの風が吹き止みません。

20年間、不景気である事の恐ろしさは、皆さんご存知の通りです。

2年半前にアメリカでも金融不安が起きました。

所謂、2008年9月15日のリーマン•ショックです。

低所得者向け住宅債権(サブプライム•ローン)を束ねて数字をこねくり回し(金融工学と称して…)、さも儲けが出るように仕立て上げ、投資家たちに売り出した金融商品の価格崩壊が、アメリカ住宅公社を経営破綻させ、その巨額の債務が大手都市銀行を含めた、すべての金融システムを停滞させた事件です。

それをキッカケに日本は益々、不景気になるし、ヨーロッパは勿論、世界中の多くの国がひどい不景気に陥ってしまいました…。

過去でも現在でも、ある国の経済活動が活発になりお金が余ってくると、段々とインフレがひどくなりバブル状態を呈し、揺り戻しとして長期のデフレに陥るのです。

小さな好景気と不景気の波ならば経済では良くある事ですが、日本の不動産バブルの時の様に、あまりにも度が進んだ過熱状態になってしまうと、政府が金融の引き締めを行わざるを得なくなります。

人為的に景気の過熱を抑えるのですから、殆どの場合、抑え過ぎてしまう訳です。

丁度、良い具合には上手くいかないものですね…。

あるいはソフトランディングすると、再び金融系会社がバブルを求めて、モラルを忘れ強欲に走り、本当の金融恐慌まで行ってしまうかです。

好景気の波が高ければ高いほどその反動は大きいと昔から云われています。

所謂、格言『山高ければ、谷深し』です。

しかし、われわれ人間は愚かな事ですが、多くの国が昔から繰り返して過剰な好景気と不景気の波を引き起こしているのです。

日本のバブル後のように金融政策を失敗させると、なかなか景気が回復して来ません。

今後、どうなるのか心配です。

歴史をみると、かつてオランダがチューリップバブルになり、一番のピークの時はチューリップ1株の価格が今の値段に換算して100万円以上で取引され、その後、当然の事ですがバブルは弾けてしまい、回復するのに1世紀以上か掛かっているのです。

随分、昔の話ですが、約300年前に江戸時代にも何度か繰り返して好景気と不景気の波が起こっています。

景気が過熱すると引き締めをするのが、時の為政者の常套手段と云う事です。

江戸幕府8代将軍吉宗の時に、金融引き締めが行われました。

世に言う『享保の改革』です。

吉宗の前の将軍の5代綱吉、6代家宣、7代家継の時代のツケを吉宗が払ったと云う事です。

ちなみに家宣は高齢で将軍になり、綱吉の経済活動をそのまま続けただけですし、家継は満6歳で亡くなっているので何もしていないのも同然です。

綱吉の放漫経済が、大変なインフレの災いの原因であるのは明白です。

『生類憐れみの令』は有名ですが、綱吉はその当時、約10万頭の犬を飼っていたと云う記録が残っています。

餌代だけでも大変な無駄使いで、周りから顰蹙をかっていたものと思われます。

『享保の改革』は江戸時代の三大改革の1つですが、後の2つの改革は、『寛政の改革』と『天保の改革』です。

どの改革もその前の放漫経済の尻拭いをしていたのです。

そして、その改革はあまりうまく行かなかったと云われていますが、一応、その中である程度評価されている改革は、吉宗の行った『享保の改革』だとされています。

もし、この享保の改革が無かったら、もっと早く江戸幕府は終焉を向かえていただろうと言われているくらいですから。

現在でもテレビの時代劇では、吉宗は正義の将軍として出て来ます。

吉宗は一言で云えば、引き締め政策を行ったのです。

いつの時代でも、引き締め政策を行った後には景気がしぼみ過ぎてしまう場合が多いのです。

デフレの時よりインフレの時の方が、世の中は華やいでいて、楽しく生活出来るのですから、バブル景気がもたらす物も多いです。

事実、江戸の三大改革の前の時代には、華麗な文化が花開いていますし、20年前のバブルの前は、日本中で活気がみなぎっていました。

八王子の石川歯科の前も、人で溢れていました。

その時の為政者があまりの経済の過熱を心配して、適当なところで押さえようとするのでしょうが、巧く行かないのが世の常と云う事です。

現在の平成バブルの後のインフレ調整は上手くいっているとは思えませんが、皆さんはどう感じているでしょうか。

長い不景気は何時終焉を迎えるのでしょうか。

小生の生きているうちは、無理かも知れませんね。

無理なら、われわれの生き方自体を再考すべきなのでしょうね。

院長の独り言 168 ; 初月給の思い出

およそ45年前の随分と昔の話です。

大学を卒業後、将来の事を考えて、大学院に入学しました。

再び学生生活を送る事になったのです。

高校時代の友人達からは『いい歳をして、まだ学生かよ』などと、カラカワレました。

色々苦労しましたが、何とか無事に大学院を修了して学位の授与を受け、晴れて国家公務員(保存科助手)に成る事が出来ました。

大学院3年の時に結婚したのですが、生活費は奨学金と週一回のアルバイトだけで賄わなければならず、本当に食べるのに精一杯でした。

その当時、奨学金の有り難さを身にしみて感じました。

奨学金が無かったら、研究生活と結婚生活は両立出来なかったでしょう。

いま思い出しても、国に感謝の気持ちで一杯です。

大学院の研究生活が修了して、助手になり、初月給を貰った日の感激を、70歳を超えた今になっても昨日の事の様に憶えています。

当時の給料は、今の様に銀行振り込みではなく、給料袋に現金が入っていたのです。

初月給と云う事で、家内は何時もより豪華な食事とお酒を用意して、どのくらいの給料が貰えるのかと期待して私の帰りを今か今かと待っていたそうです。

小生はと云うと、月給袋の封も切らず、早目に帰宅。

早速、家内と一緒に中身を開けて見てビックリ仰天…。

あまりの薄給にガッカリして、二人とも無言で、思わず目を見合わせてしまいました。

税込みで4万円。

それでも初月給の明細書を見ながら、家内は嬉し涙を流していましたが…。

そこから諸手当を引いた後の手取りの額は、大学院時代の収入(奨学金+アルバイト)より減収になってしまったのです…。

とてもじゃないですが、これでは家族4人で食べていけないので、教授に頼み込んで週半日のアルバイトの追加を許して貰った程でした。

助手に成っても、全然、生活レベルは向上せず、何とか食べるだけの状態がその後2年間、続いたのでした。

大学助手の主な仕事は、教授の補佐や学部の学生指導、自身の研究、そして大学病院での治療です。

毎日、結構忙しく、奨学金の御礼奉公をさせて頂いた様なものでした。

勿論、その後、10年掛けて奨学金を完済した事は言うまでも有りません。

ところが、皆さんご存知の様に日本は高度成長時代に突入、月給も徐々に上りはじめ出したのです。

小生は国家公務員でしたので、民間の勤め人と比べると月給の上昇率は低かったのですが、それでも月給が3年ほどで倍以上に成ったと記憶しています。

同い歳の友達の銀行マンや商社マンの月給は、軽く私の2倍を超していました。

今と違い、公務員の当時の給料は安かったのです。

民間会社の勤め人の給料は、羨ましいくらいの額でした。

日本中の生活が驚くほどに、右肩上がりに向上していき、若者も就職先に困るどころか選択するのに、ひと苦労すると云った、今では考えられない状況が訪れたのです。

我が国の歴史上、稀に見る大好景気時代に突入する前夜の話です。

院長の独り言 167 ; 自動車免許を取得した頃

小生が自動車免許を取得したのは、大学4年生の春でした。

当時は、自家用車など殆ど走っていない時代でしたし、まさか、自家用車が持てる世に成るとは正直私は思ってもいませんでした。

しかし自動車に関する雑誌は結構、出版されていたので、われわれ若者は憧れの眼差しで自動車の写真を凝視しては溜息をついていたのです。

ただ私は、将来、万が一、自動車を持つことが出来たら嬉しいと思いつつ、自動車教習所の自動車でも運転が実際にしたくて、通っただけでした。

ところが、大学院に通うようになると、毎日、夜遅くまで研究室に残り、自分の研究に関係する外国の論文を読んだり、実験したりで、帰宅するのが夜の11時、12時になるのは当り前…。

研究室で朝を迎えるのも稀ではないといった、とんでもない生活に激変してしまったのです。

止むを得ず、出世払いと云う事で親父に借金をして、トヨタのコロナを購入しました。

今から思えば、免許を取得していて大変良かったと思いますが、運転はお世辞にも上手いとは言えず、『事故に遭ったらどうしよう…』と常に怯えつつ、オッカなビックリ運転していた始末でした。

何しろオートマチック車は発売したばかりで、とても高価で買えずに、マニュアル車でしたからなおさらでした。

当時、家族で横浜に住んでいたので、国道1号線を利用して、自宅と大学を往復していました。

今では考えられないことですが、道路の状態も悪く、一級国道でさえもアチコチが凸凹していて、運転していても何度も怖い思いをしたものです。

おまけに運転マナーは滅茶苦茶で、追い越し禁止などの規制などは無かったので、無理な追い越しをする車は当り前、酒気帯び運転で蛇行している車もかなり見受けられたのです。

そんな交通事情の中、よくぞ交通事故に巻き込まれなかったと言いたいところですが、自分が大学院3年生の時に、わき見運転の若者に信号待ちをしていた時、追突されてしまったのです…。

追突された時は何事が起きたのか理解できず、雷でも落ちたのかと思った程の衝撃を受けました。

事故に遭った次の日、眼が覚めると、右手がしびれていて、物が何も持てなくなるほど手の力が抜けてしまっていたのです。

直ぐに、医科歯科大学医学部の整形外科に入院と云う事に成ってしまいました。

2日経っても回復してこなかったので、『これは、傷害が残ってしまうかも…』と本気で心配したものですが、1週間ぐらいで回復してホッとしました。

大きな衝撃の割りには大した大事に成らなかった理由は、ぶつけられる寸前にハンドルをシッカリと握り締めたからだと今でも思っています。

あるいは信号待ちをしていた時、自分の車が先頭だった事も幸いしたのかも知れません。

しかし、50年近く経った今でも、季節の変わり目には頸の付け根あたりが痛くなると云う後遺症が残ってしまいました。

その後は幸いにも、他人を巻き込むような自動車事故は経験していませんが、自宅の車庫入れでぶつけてしまうなど自損事故は結構、やらかしています…。

何しろ、少しでもアルコールが入った場合は、車の運転は禁忌ですから、この頃はバスを利用する事が多くなり、結果として、歩く事が多くなったので、身体には良いのかも知れません。

院長の独り言 166 ; 政府やマスコミによる情報の選択にはうんざり…

本来、国民に知らせるべき情報を、変に隠ペイしたがる悪癖が、政府やマスコミにはあります。

この民主主義の世の中、隠す事ほど罪深い事は無いのではないでしょうか。

世の中で、起こった事が国民生活に少しでも関係があると思われたら、内容の善し悪しに関係なく、国民に迅速に全てを報告する義務が政府やマスコミに生じるのは当然の事です。

皆さんご存知の先般の尖閣諸島の事件でも、何であのように、官邸主導で国民に情報を隠しているのか理解に苦しみます。

隠す理由が何だったのか教えて欲しいものです。

お隣の国、韓国では同じ様な事件が起きたら直ちに国民に知らせています。

我が国では、隠しに隠しています。

余程、政府は国民の事を信用していないのか馬鹿にしているのでしょう。

しかし、国民をもし馬鹿にしているのならお門違いと言うものです。

政府も国会議員もその馬鹿にしている国民から選ばれているのですから。

まったく天に向って唾を吐いている様なものですよ。

欧米のマスコミだったら、もしこの様な隠し事が明らかにされたら、政府に対して、猛烈なバッシングの嵐になる事でしょう。

小生は何も、マスコミが諸々な事象に対して、もっと批評的である事を望んでいる訳ではありません。

少なくとも、国民の生活と福祉に関係する事実だけは、淡々と正確に国民に知らせれば良いのではないでしょうか。

しかし、政府が事実を隠して国民に知らせない事に対しては、マスコミは大いに怒るべきです。

特にNHKは民放と異なり、全ての家庭から強制的に放送受信料を徴収している訳ですから、国に強い影響を及ぼすような法案が国会に提案されたら直ちに全国に放送すべきでしょう。

受信料を強制的に徴収されている国民の中には、保守派もいればリベラル派もいるし、民主党を支持している人、自民党、公明党、共産党を支持している人など、その政治的立場は千差万別です。

従って、NHKは与党民主党に都合の悪い事でも、自民党、公明党などの全ての党に都合の悪い事でも依怙贔屓せずに、淡々と何でも隠さずに、国民に報告する義務が有るのではないでしょうか。

例えば、以前から気になっていた事ですが、自分の周りの人達、ゴルフ仲間、よく行く食べ物屋さんに集まる人達、医療関係の友達などに外国人の地方参政権についての意見を訊いてみると、殆どの人が『何、それ?』と云った感じです。

現在、『外国人の地方参政権』について、NHKや大手の新聞のマスコミの場で報道する機会など、ほとんど無いでしょう。

日本には色々な考えの人がいるのですから、『外国人の地方参政権』の法律としての善し悪しは、われわれ日本国民が一人一人考えて結論を出せば良い事です。

ただ、事実上の国営放送局であるNHKが『外国人の地方参政権』についての内容を国民にほとんど解説せず、与党民主党から法案として国会に提出されようとしている事実を、全く放送しない事が問題だと言っているだけです。

全国民に『外国人の地方参政権』がどの様なものなのか、その内容を事細かに知らせる義務がNHKには有るのと違いますか。

NHKは国民に影響のある事象を、全国津々浦々に知らせる事こそ、最も大切な業務だと小生は思っています。

その為にこそ、受診料を国民は安心料として納めているのですから。

『外国人の地方参政権』の様な、国民生活に重大な影響を及ぼす事柄を国民に知らせず端折っているようでは、NHKが泣くと云うものです。

またNHKは、大変素晴らしい番組を沢山放送している事も事実です。

勿論、小生はNHKの製作する番組を、信頼もしているし愛着も持っています。

ただ、『外国人の地方参政権』についての報道をNHKは放送しないで、隠しているように思えてならないのです…。

尖閣諸島の事件を官邸が隠した様に、隠す理由が何かNHKには有るのでしょうか。

インターネット上では、NHKの番組上で『外国人の地方参政権』賛成の立場から、印象操作のようなタレントの発言があったとの情報が流れています。

是非、日本国民、特に過疎地域の人達に、この法案が成立した時に、どの様な影響が降りかかってくるのか細かく説明して下さい。

NHKは我が国が世界に誇る日本の国営放送局で有り、日本国民の味方だと私は心より信じています。

でなければ、NHKを乗り越えて、インターネットの方が情報確度の高く、伝播速度の速い、便宜性も有るメディアになり変わるでしょう。

院長の独り言 165 ; 歯の話、その他…

使わない身体の部分、例えば眼や手足は使わなければどんどん退行性変化を起こしてしまいます。

進化学からみても、長い間、洞窟や地中で生活していると、モグラやコウモリのある種のように、眼が無くなり見えなくなります。

今、われわれ人間は、身体の何処の部位を使わなくなってきているのでしょうか。

軟らかい物ばかり食べていると、将来、人類の歯も数が少なくなったり、歯の形が小さくなってしまうかも知れません。

縄文人の人骨を調査すると、まず現代人と比較して、背が低い事が挙げられます。

これは当然な事ですが、栄養状態が良くなかったからです。

当時は、食物を調達するのさえ困難だった事は、容易に想像出来ます。

また木の実など硬い食べ物も多く、顎や歯が丈夫でなければ生きていけなかったのでしょう。

現代人の様に、顎の形はスマートでは有りません。

顎骨が張っていてイカつい感じです。

事実、虫歯なんかは全くと言って良いほどに観察されません。

ところが江戸時代になると、顎骨を調べると歯周病が観察されるし、虫歯が認められるのです。

食生活が向上した事が関係しているのでしょう。

科学が発展し自動車や電車の存在により歩かなくなり、冗談ではなく、1万年あるいは10万年先の人類は、手足がかなりスマートと云うか細々しい人間になってしまいそうです。

そのうえ軟食の結果、顎も脆弱になってしまうのではないでしょうか。

口の中で言えば、今でも硬い物を殆ど食べなくなってきているので、1万年先と言わず、もっと早い時期に、親知らず(第三大臼歯)だけでなく、歯の数が減少してしまうだろうと言われています。

既に、その傾向は出ていて、親知らずや第二小臼歯の無い人が結構、存在するのです。

常に、使えばその部分は発達するし、使わなければ身体はどんどん衰えてしまいます。

怖いですね…。

閉話休題。

あらためて、新年明けまして、おめでとう御座います。

本年も宜しくお願い致します。

今年はウサギ年ですね。

そこで早速、ウサギについて、少し話してみたいと思います。

ウサギの前足が短く、後ろ足はそれに比べて長いのはご存知の通りです。

こう云う身体の構造をしていると云う事は、登り坂には強く、下り坂は不得意だと考えられます。

オオカミなど天敵の肉食動物は身体の構造上、下り坂より上り坂が苦手だったので、ウサギはその隙を突いて必死に登って逃げるので、あのような体型に成って行かざるを得なかったのでしょう(独断です)。

もし野ウサギを見つけたら、その時は下りの方に追い込んでいけば容易に捕まえる事が出来るのでは無いでしょうか。

登りの方に追いかければ簡単に逃げられてしまうでしょう。

ウサギに水を与えるのは禁物のように言われていますが、それは真っ赤なウソです。

水を多目に与えるべきで、少ないとウサギは早死にしてしまうでしょう。

そして、よく言われるのに、ウサギの数え方を一羽二羽と数えるのは、昔、動物を食べるのを禁止していたので、それを隠す為に一匹二匹と数えないで一羽二羽と鳥の様に数えていたと言われています。

ちなみに鳥は、四本足でなく二本足であり、仏教という宗教上、食べて良いとされたからです。

しかし、それも眉唾ものです。

ウサギほど繁殖力が強い動物はいないのです。

余り増えて、農産物を食い荒らして野菜や穀類に甚大な被害を出す為に、ウサギだけは暗黙の了解で摂って良かったと思われるのです。

一年中、子供を産む事が出来る哺乳類はウサギやネズミぐらいのものです。

繁殖期が一年中と云う事で、ウサギは昔の農家の人にとっては、天敵だったのです。

農産物の被害を少なくする為に駆除が大切だった事でしょう。

そして、動物性タンパク質を摂る為にも、格好の生き物だったのです。

何しろ、一杯の野兎が生息している訳ですから、簡単に一度に沢山捕獲出来るので『十羽ひとからげ』から『羽』と数える様になったと言われる程です。

皆さん、この説を信じますか。

最近のニュースによると、ウサギはペットとして大変な人気だそうです。

簡単に手に入らないくらいウサギが品薄?に成ってしまいました。

でも、繁殖力抜群のウサギの事ですから、多分、大丈夫でしょう。

それにウサギは、現在は食用と云うよりは、可愛いいペットとしての存在価値が認められているのですから、大切に保護される事、請け合いですし、ウサギ年ですからなおさら大切にされるでしょう。

今年は、石川歯科の患者さんが、そして日本中がウサギの様に、ぴょんぴょん跳ねて、飛躍の年に成るように心より念じています。