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院長の独り言 164 ; かつて自転車の時代があった

最近はほとんど乗りませんが、小生も勿論、自転車に乗る事は出来ます。

現在、若い人達は何十万円もする(一台で何十万円もするのですよ!!)カッコの良い輸入物の自転車に乗っているのも珍しく有りませんし、お母さん達も買い物に下駄替わりに、自転車を使っています。

近場での、ちょっとした用事を済ませる為の交通手段としては、こんな手軽で便利な代物は他には無いでしょう。

何処の駅前でも、スーパーの前でも、そう云った理由で自転車が一杯です。

また昔話になりますが、小生が小学校の低学年であった昭和20年代前半は、街中で自転車を殆ど見かけませんでした。

たまに見る自転車は八百屋さんや大工さんなどの業務用で、それも機能一辺倒で、ごく格好の悪い物でした。

一般の家庭で自転車を持っていることは殆どありませんでした。

勿論、その当時、私の実家にも自転車は有りません。

しかし、われわれ悪ガキ達は結構、上手に自転車に乗る事が出来ていたのです。

それでは如何して、その頃の小学生や中学生は自転車に乗れる様になったのでしょうか。

今は全く見られる事が無くなりましたが、皆さん信じられないでしょうが、驚く事に子供達相手に『貸し自転屋さん』が有ったのです。

今時、自転車を貸してくれるのは、観光地やリゾート地以外は見られません。

各家庭、自転車は所有している訳ですから。

当時は、私の家もそうでしたが、殆どの家庭では自転車ですら買う余裕なんか無かったのです。

子供の着る服も、今では恥ずかしくて、とても着る事が出来ない様な、お古でツギハギのある、兄の『お下がり』を貰って着ていたほどです。

しかし、お袋が夜鍋仕事で、ほころんだ箇所を、背中を丸めて繕っている姿を見ていたので、文句はとても言えなかったし、周りの友達も同じ様なもの着ていたので、たいして苦にも成らなかったのです。

ただ、たまに兄貴だけが新品の服を着ているのを見ると羨ましく思ったものです。

大きくなって兄弟が実家に集まり、その話が出ると、お袋は『わざと早目に弟達にまわしていた!』と真面目な顔をして、弟達に強調していました。

貸し自転車屋さんの話ですが、確か30分間5円で、子供用の自転車を借りる事が出来たのです。

蛇足ですが、その頃、駄菓子屋さんではおやつのおでんが3つで5円でした。

小生のお小遣いは10円だったのです。

おでんを食べたくても止めて、10円で一時間自転車を借りたものです。

一時期、自転車に乗るのが面白くて、学校から帰ると、近所の仲の良い友達数人と一緒に貸し自転屋さんに行って、少しでも状態の良い自転車を争って借りたのでした。

何故、親達も子供に気安く、子供だけの危険な自転車遊びを気軽に許していたのでしょうか。

今の感覚で考えれば、子供達だけの自転車遊びは非常に危険に思えるでしょうが、当時は、殆ど自動車は走っていなかったのです。

道路で野球の三角ベースも堂々と出来たくらいガラガラで、先ず交通事故など起こる事が無かったのです。

お互い、転んだり、ぶつかったりしましたが、却ってその天真爛漫さが、自転車運転が早く急激な上達に繋がったのでしょう。

今は、一家で一台、あるいは一人一台の自動車の世の中ですが、自転車も相変わらず人気が有ります。

しかし、私の小さかった頃とは、比べ物にならない位、道路は危険が一杯。

小学生を持つ親御さんは、子供を一人で自転車には乗せられないでしょう。

小学生は、あの頃の方が、自転車の操縦はズッと上手かったかも知れませんね。

街中を歩いていると、意外に80歳以上のお年寄りが上手に、軽やかに自転車に乗っている風景が見られますが、皆さん、小さい時から自転車には乗り馴れているのです。

石川歯科医院の年末・年始診療予定と1/23(日)の『インプラント説明会』について

もうすぐで今年もお終いですね。

一年が余りにも早く過ぎ去ってしまうので、恐ろしいです…。

さて、当院は12月29日水曜日~1月4日火曜日まで、お休みをとらせて頂きます。

スタッフ一同、来るべき年に向って、英気を養わせて頂きます。

また来年早々に(1月23日 日曜日)、八王子駅北口すぐの東急スクエアビルにて、『患者力アップ!!』と銘打ち、無料で歯科インプラントの説明会を行います。

何かと話題の歯科インプラントについての本物の知識を、患者さまに説明したいと思います。

これから治療を受けられる患者さま自身が知るべき知識を、なるべく分かりやすく解説しますので、肩肘を張らないで、気軽にご参加ください。

なお参加者全員に、お口のケア製品を無料で差し上げます。

会場の都合で、先着50名さま限定の説明・相談会ですので、早目に御予約頂ければ幸いです。

詳細は、新年1月15日(土曜日)の新聞折り込みチラシでご確認ください。

新年もまた、石川歯科医院を宜しくお願い致します。

院長の独り言 163 ; 伊藤さん、『ダイアモンド富士』の写真をありがとうございます!

先日、箱根を訪れた際に、中央道から見た富士山が素晴らしかった事をブログに書きました。

そのブログを読んで、当院の患者さんである伊藤正紀さんが、小生が大の富士山ファンである事を知り、『ダイアモンド富士』の写真を持って来て呉れました。

伊藤さんの話によると、八王子の高尾山から年に数回、『ダイアモンド富士』を拝める日が有るのだそうです。

その『ダイアモンド富士』を、今年も押し迫った12月22日(水)と23日(木)に観察出来たとの事。

若い頃から山登りの好きな伊藤さんは、『ダイアモンド富士』を拝みたくて、高尾山に登り(伊藤さんにとっては、高尾山の登山なんぞ散歩みたいなものですが…)、その『ダイアモンド富士』を写真に撮り、小生にプレゼントして呉れたのです!

写真はその時に撮影した富士山の素晴らしい姿で、この素敵な写真は午後4時頃の映像との事です。

この日(22日)、天気は快晴で、富士山頂の真上に、太陽が大きなダイアモンドのように輝いた瞬間、大勢の見物客から、一斉に大きな拍手が沸き上がったそうです。

伊藤さんの話によると、23日は天皇誕生日の祝日で、高尾山が混雑するのを予想出来たので、1日前に登ったのに、結構、大勢の人が来ていたとの事でした。

私は勿論、『ダイアモンド富士』を高尾山から拝むことが出来るとは、つゆ知りませんでした。

皆さん、良く御存知で、感心してしまいます。

小生、富士山が大好きなので、今迄、何度も霊峰富士を色々な場所から見てきているのです。

ですから、写真や動画では『ダイアモンド富士』を見ているのですが、実際の本物は一度も拝んだ事が有りません。

来年は、是非、実際の『ダイアモンド富士』を拝んでみて見たいものです。

今日は、12月28日(火)、御用納めです。

今年もいよいよ押し詰まって来ました。

午前中は急患治療でした。

午前12時前に、今年の診療は全て終わって、ホッとひと息。

ホットとひと息ついた時、伊藤さんの話していた『ダイアモンド富士』を思い出して、急に高尾山に行きたくなってしまいました。

幸い、ウチの診療所と高尾山は目と鼻の先です。

息子と山森ドクターの3人で、今年の診療も何とか無事に済んだ事でも有り、感謝をこめて、高尾山に行ってみました。

平日のわりには、青い目の外国人をはじめ、子供連れや元気なお年寄りなど、結構、沢山の人が登っていたのには驚きです。

山登りでお腹が空いたので、帰りに高尾山の麓でおそばを食べて(山道沿いのお店は全て、御休みでした)、午後からは大掃除の予定です。

診療所に帰って、ひと休みしている間にテレビに目をやると、今年1年間に起きたニュースを放送していましたが、本当に色々な事が世間では起きるものです…。

自分なりに振り返ってみても、1年を通じてニュースを総覧すると、ビックリさせられ通しでした。

より良い治療を目指して、石川歯科では、最新の滅菌器具など新しい機械も導入しました。

今まで来院して頂いている常連の患者さんに加えて、今年は新しい患者さんも沢山、治療に来て頂き、従業員も大いに頑張り甲斐が有ったと云うものです。

来年も気持ちを新たにして全員一致団結して、頑張る所存です。

ウサギ年も宜しくお願い致します。

富士山

院長の独り言 162 ; 年末に日本についてつぶやく

Oさんのご家族の皆さんは、開業した当時から石川歯科医院を大変贔屓にして頂いている患者さん一家です。

現在も、口の中のケア―で奥さんを始め、綺麗に成人した娘さん、そして御主人Oさんも、当歯科医院に定期的に来院して呉れています。

大分前のブログで靖国神社や戦争の思い出話、そして親父が玉音放送に涙した事などを書いたところ、Oさんが玉音放送全文の写しと戦争で焼け野原になった八王子の市街地の写真をニコニコしながら『先生、興味有るでしょう!』と言いながら持って来て呉れました。

自分がまだ6歳の時に、日本は国中アメリカに焼け野原にされてしまいました…。

疎開地の岐阜県中津川から東京に戻った時は、あまりの惨状に子供ながら愕然とした事を、この歳になっても鮮烈に心の傷となって残っています。

あらためてOさんに頂いた焼け野原にされてしまった八王子市街の写真を注意深く見てみると、現在、頑張って診療している石川歯科医院の在る幸(みゆき)ビルの直ぐ近くの風景である事が分かりました。

一方、玉音放送のお言葉は小さい頃から何度も耳にしていますが、小生、全文を読んだ事は、今まで一度も有りませんでした。

親父をはじめ、日本中の大人がラジオで玉音放送を聞いて涙したお言葉をこの歳に成って初めて、全文を目にしたのです。

皇居前での、これも古い報道写真でよく見るのですが、頭を垂れ、泣いている人達の写真は、皆さんも目にした事があると思います。

あれから60年あまり経った現在、国民の必死の努力の結果、世界で第2、第3の経済大国になりました。

ノーベル賞受賞者も大勢輩出しています。

八王子も焼け野原の写真からは想像出来ない程に素晴らしい都市に、大発展を成し遂げて、現在も発展進行中です。

全くの焼け野原からの奇跡の復活を日本が成し遂げたと言っても過言では無いでしょう。

大したものです…。

しかし、奈良時代、平安、室町、戦国、江戸、そして明治時代の人が、現代の平成22年の日本に、もし蘇って戻って来たら、自分達の暮らしていた昔の日本と比較して心から素晴らしいと思うでしょうか。

ジェット機は空を飛び、新幹線や自動車は地を走り、テレビ、パソコン、携帯電話と至れり尽くせりの世の中です。

エアコンはどの家にも設置されているし、食生活は本当に充実しています。

でも、今のプライドが無くなってしまった日本に永住しようと心の底から思うでしょうか。

半年程度は興味津々、好奇心の目で今の日本を見ているでしょうが、冷静に成って現在の日本の国をユックリと観察してみると、確かに経済的には大発展を遂げている事には感嘆の声を上げる事でしょう。

しかし、精神的な誇りが無くなり、外国に対してのあまりにもへり下った態度、子供達に対する道徳教育のお粗末さに、愕然とするのでは無いでしょうか。

昔の人達が頑張って永々と築いて来た、誇り高きわが国が、世界でも珍しい国に成り下がってしまったのですから。

何しろ、自分の国の防衛を他国任せの国なのです。

アメリカに膨大なお金と引き換えに守って貰っているのです。

国軍の無い国、自分の国の守りを人の国に任せている国なんかの意見を世界がマトモに聞いて呉れる訳が有りません。

最近、日本は何時も他の国から甘く見られている様で悲しく成ります。

何も、軍備力で威張れと言っているのでは有りません。

争いなんか好きな国は世界中一つも無いでしょう。

日本だって当然です。

ただ、正しい事はキチンと主張出来るようにして貰いたいだけです。

その為には、自主独立をすべきで、そうなって初めて他国も日本の意見が正しければそれを認めて呉れるでしょう。

万が一の時は、自分達で対処する気概が必要だと言っているだけです。

祖国の防衛を他国に任せている今の日本の現状、道徳心の劣化した日本を見て、余りのプライドの無さにご先祖様はガッカリしてしまうでしょう。

誇りを取り戻す為に、早く、今の自衛隊を日本以外の世界中の国と同じ様な普通の軍隊に移行して下さい。

自主防衛をして貰いたいのです。

その上で、民主主義を共有できる国々と協調して、同盟関係を築いて欲しいものです。

自衛隊の皆さん、大変でしょうけど、日本国民の為に我が国の防衛を宜しくお願いします。

また、学校の先生には、成長過程に有る子供達を素直で礼儀正しく、道徳心に溢れた明るい人間に育ててください。

そうすれば、社会は大歓迎で若者の支援をする事でしょう。

宜しくお願いします。

勿論、その前提として、われわれ先輩たちが率先して努力すべきであるのは当然ですが…。

何時もの小生の独り言です。

院長の独り言 161 ; 近くて遠い田舎の道、遠くて近いは男女の仲

私が中学に入学したばかりの時、校舎の隅で、男子の上級生数人がヒソヒソと話していたのを、たまたま通りがけに小耳にはさんでしまいました。

お年頃の彼らは、女のコについて話をしている様でした。

その話の言葉の端々に『近くて遠い田舎の道、遠くて近いは男女の仲…』と言って、『頑張れよ!』と聞こえました。

その話の全容は分かりませんでしたが、みんなが真剣な顔をしていたのは確かです。

いま思えば多分、誰かに皆で交際のハッパを仕掛けていたのでしょう。

自分はまだ中学に入ったばかりで、小学生みたいなものですから、男女の違いなんかよく分からない頃だったので、上級生の話など全然興味が有りませんでしたので、その後の展開はどうなったのか定かでは有りません。

確かに、田舎の道は近い様で実際、遠いものです。

意外に近く見えている目的の場所でも、歩いて行くと非常に遠いのでガックリと疲れた経験を自分は何度もしています。

当時は、自動車などの交通機関も貧弱で、道路もまず舗装されていないのが当然でした。

現在、テレビでたまに目にしますが、アフリカの砂埃の上がっている路と当時の田舎の路は殆ど同じ様なものでした。

ところで、本題の『男女の仲』の話ですが、私が中学生、高校生の頃は、自分の経験では、まず男子は男子だけで遊んでいましたし、女の子は女の子だけで一緒になっていました。

男子と女子が一緒に遊ぶ事は皆無に近かったのです。

オーバーでも無く、嘘でも有りません。

この世の人間社会は男と女しかいないのですから、男性の眼から見れば、女性は大変身近な存在のはずです。

女性と男性は直ぐ仲良くなれると思うのです。

『遠くて近いは男女の仲』なのですから…。

ところが当時、昭和20年代は小生だけでなく、若い男は殆どみんな、女性に声も掛けられなかったし、手も握れなかったのです。

今時は、手をつないだ高校生のカップルを街角などでよく見かけます。

誤解しないで下さい。

小生、ヤッカンで言っているのでは有りません。

今思えば、自分が人間として成長して大人に成っていく多感な頃、当時の日本社会が現在の様に全てのものが即物的な風潮で無くて本当に良かったと言っているのです。

あまりに若い頃、特に中学、高校生の頃から、まだ世間の事を色々な意味で経験不足な時から全ての事に対して早急に行動せず、ユックリ、ユックリ、そして、おおらかに、また色々と勉強したり遊んだりして成長していくのが得策ではないでしょうか。

男女交際でも、ある程度成長してきた暁に、相手の良い所も理解出来、お互い尊敬しあい、即物的と云うより精神的にも素晴らしい関係が出来るのではないでしょうか。

いくら『遠くて近い』とは言え、あまりにも安易に『男女の仲』に進むべきではないでしょう。

要らぬお節介と言われてしまいそうですね。

院長の独り言 160 ; 箱根に行きました!

先日(12月15日)の水曜日の午後から、私事の用事を済ませるついでに、夫婦で箱根に行って来ました。

午前中は石川歯科で診療に当たりました。

朝、診療所から、雪でお化粧した霊峰富士が綺麗に見えていたのです。

いつも箱根に行く時は、普段は一番ポピュラーな経路である東名高速道路から御殿場に行き、そこから箱根に入るのですが、あまりにも綺麗に雪を戴いた富士山が診療所の窓から見えていたので、どうしても近景の富士山が観たくなったのです。

そこで中央道から大月周りで河口湖に出て、雄大な富士の山を眺めながら、御殿場から箱根に入る事に決めたのです。

12時半に午前の診療を終えて、午後からの診療をスタッフにお願いし、大急ぎで八王子を出発しました。

中央道は平日という事もあって、トラック軍団のオンパレードでしたが、順調に大月に着き、そこから本道の中央道を逸れて、大月から河口湖に向かったのです。

大月から暫く走って行くと、雪を戴き、絵に描いたような大きな富士山が前方に突然現れました。

アッと息を呑むほどの大きな富士に思わず見惚れてしまい、家内に運転を注意する様に言われた程です。

八王子の診療所の窓から、遠景の富士は毎日の様に見ているし、また、今まで旅行やゴルフで何度も富士山を見ているのに、その都度この山には感動させられます。

この道も今までに何度も通って、富士を見ているのですが、この雄大な景色にはいつも心を惹き付けられてしまう私なのです。

その日は空気が澄み、素晴らしい快晴なので、霊峰の姿は驚くほど近くに感じ、そして大きく、神々しく見えて、心から感動です!

心洗われる気分とはこう云う気持ちの事を言うのでしょう。

東名高速道路周りでなく、中央道周りを選択した事は本当に大正解でした。

この雪を戴いた富士の山は間違いなく日本一と云うよりは世界一の山だとあらためて確信したのです。

東富士五湖道路を進み、向かって右側に大きな富士山を見ながら須走インターを出て、御殿場に向かいました。

素晴らしい富士山の姿の全景をたっぷり見る事が出来て、今日は全くラッキー!と云ったところです。

普段の日は、午後からは富士の山頂は雲に隠れてしまう日が多いのです。

富士山は雄大な割には、恥ずかしがり屋なのでしょうか。

夏休みや紅葉の季節は渋滞で有名な須走から御殿場までの道は、暮れも押し迫った12月の中旬と云う事も有ってスキスキでした。

そう云う事で、目的地には予定していた時間より、かなり早く無事に着く事が出来たのです。

到着した仙石原のホテルはこの不況下でもあり、ガラガラかと思いきや、元気なおじいさんやおばあさんで大入り満員なので、心底驚いてしまいました。

本当は驚く事も無いのです。

私も年寄りの仲間ですから…。

さすがに平日なので若い人は殆ど見受けませんでしたけど。

翌朝、起床し、窓を開けて外を見ると、昨日の好天気は何処へやら。

空はドンヨリと曇っていて、富士山などとても見える天気では無いのです。

今にも雨粒が落ちて来そうな雰囲気。

一日違いで、昨日は空が透き通るように晴れていて綺麗な富士が見る事が出来て、本当にわれわれはツイていました。

今朝は手がカジカむ程の寒さです。

あまり寒いので、直ぐに自宅にトンボ帰りしようかとも思ったのですが、折角、箱根まで用事とはいえ、わざわざ無理して来たので、家内と相談して、ついでに、帰り道の途中にある『ガラスの森美術館』に立ち寄ってみる事にしたのです。

美術館は丁度、クリスマスの特別企画中で、美術館内の広い庭はクリスタルのイルミネーションが一面に飾られていて、華やいだ雰囲気に包まれています。

館内にはベネチィアングラスが所狭しと展示されていました。

赤や青の目にも鮮やかな原色のべネチィアングラスを見ていると、10年程前に行ったイタリ―旅行が懐かしく、何となく当時の楽しかった事を思い出してしまい、またイタリ―に行きたくなってしまったのです…。

あらためて、時の流れが速い事に驚くやら、切ないやら、複雑な心境です。

外に出て美術館を見上げると、美術館の煙突にしがみついて登っている飾りのサンタクロースの人形が目に入りました。

そのポーズがあまり滑稽なので、つい笑ってしまいました。

そして庭園を散歩し、ひと休みしたくなり、館内のレストランに入ってみました。

そのレストランで、サーモンと生ハムの軽食を摂っていた時、本場イタリーの歌手が現われ、クリスマスシーズンによく聞くポピュラーなイタリ―民謡を張りのあるテノールで歌いはじめ、店内もクリスマスムード一色です。

食事を楽しんでいるわれわれお客の気分も盛り上げてくれました。

雄大な冬の富士山も見る事が出来たし、ガラスの森美術館ではクリスマスの雰囲気を先取りして堪能出来た、楽しい二日間でした。

食後、紅葉が所々に名残惜しそうに残っている裏箱根街道を湯本まで下り、厚木街道を走り、東名高速道から川崎街道を抜けてわが家に帰還。

午前中の帰宅予定が、自宅に着いたのは午後4時を過ぎていたのです。

院長の独り言 159 ; 頂きますとノイローゼ

子供の頃を思い出すと、随分、殺生をしたものだと反省しきりです…。

昆虫のトンボ、チョウ、カブトムシをはじめ、ザリガニ、メダカ、オタマジャクシと自分の周りにいる小動物を、何でも捕まえては籠に入れたり、金盥に入れたりして飼ったりしましたが、殆どは直ぐ死んでしまいました。

そして、標本を作る為に随分と昆虫を殺したりもしていたのですが、当時はそれが当然の行為だと思って気にも留めていませんでした。

ところが高校生の時に、念願の秋田犬を飼ってからはどんな小さい生き物も粗末に扱えなく成ってしまったのです。

ましてや、殺すなんてとんでもないと思う様に成ってしまいました。

魚を釣りに行くのが大好きだったのですが、ピタリと止めました。

皆さん笑うかもしれませんが蟻(アリ)も踏まないでよけて歩く始末です。

所謂、現代風に言えば『生き物を殺せないノイローゼ』に成ってしまったのです。

それ以来、大学院に入る迄は、無意識の時は別にして、意識しては生き物を殆ど殺生出来なくなってしまいました。

ところが、大学院の2年生に成った時、自分の研究テーマを押し進めて行くのに、どうしても動物実験をしなければ成らない羽目に陥ったのです。

当時の私とすれば、最もやりたくない事でした。

情けないかな、何とか動物実験を回避出来ないかと悩みに悩んだものです。

一方、主査の教授には、研究を早く進める様に注意されていました。

実験に使う動物は犬と決まっていたので、なおさら実験を躊躇していたのです。丁度、その頃、買って間もないテレビの番組で、ライオンの狩りの記録映画を見たのです。

その映画のあるシーンでのシマウマを襲う、凄まじいライオンの形相は、残酷というより、不思議にもその時自分は崇高な感じを受けて、思わず、テレビの画面を穴のあくほど凝視してしまいました。

何でそう感じたのか今でも分かりません。

ただ、ライオンとシマウマの両者の、喰うか食われるかの切迫した雰囲気がそう感じさせたのかも知れません。

愛らしいフクロウが子供に食べ与える為、野ネズミを襲ったり、シャチがイルカを狩りしているのも、みんな生きる為の切実な行動です。

その様な食物連鎖のひとコマを見ていたら、生きる為の厳しさが心にズシッときて、自分の生半可の浅はかさを突かれた様な気に成ったのです。

そして、気持ちを新たにして犬の生体実験を決意する事が出来たのです。

付き物が落ちた様に、『生命』に対する考えが変わった瞬間です。

早速、保健所に行って、雑種犬2頭を貰い受けて、実験したいある物質を犬の身体に埋め込み、10ヶ月後に薬殺して、動物実験を終えました…。

大分前のブログにも書きましたが、人間だけが考える事の出来る動物です。

人間以外の動物には嬉しいとか悲しいとか怖いなどは分かっているでしょうが、生き死には理解出来ないでしょう。

われわれ人間が殺生しては可愛そうだと思っている事こそ、不遜ではないかと思い当ったのです。

毎日、牛肉を食べ、魚を食べ、野菜を食べて、生命を保持しているのですから小生は…。

漁師さんのお陰で、美味しい魚を食べる事が出来るのですし、牛やブタの肉を食べる事が出来るのは畜産をしている方々が苦労して飼育しているからです。

お米、野菜、果物は勿論、農家の方々のお陰です。

自分が殺生する代理をして呉れている人達が存在するから、安心して食事が出来ると云う事です。

色々な事を考えると、食事をする時には必ず『頂きます』と自然に口をついて出てきます。

『頂きます』は、動物や植物の生命を頂きますと云う事ですし、苦労して食べ物を供給して呉れた漁師、畜産業者、農家の皆さんに、そして料理を作って呉れる皆さんに感謝を込めての『頂きます』です。

当り前の事ですが、この世に不必要な職業も無いし、不必要な人間も動物も植物も無いと云う事です。

この世は、みんなが共存して生きていく以外ないと云うか、悲しいかな、多くの犠牲の上に自分が成り立っている事を強く感じてしまいます。

随分、歳を重ねた小生は、大宇宙の輪廻転生を考え、宗教を強く意識する歳に成ってしまいました…。

2011年1月30日(日曜日)、再び『ベーシック•インプラント外科実習コース』開講

来年の話となりますが、2011年1月30日(日)に『ケンテックインプラントのインプラント外科実習コース』を、神保町で開催します。

チラシが昨日、出来上がったのですが、すでに3名のドクターが申し込みをしたとの事。

参加ご希望の方は、是非、早目の申し込みをお願い致します。

この実習セミナーは第二回目となるのですが、各種インプラントシステムの製品としての特徴を知ることから始まり、辺縁骨吸収を抑制する埋入術式を理論からご理解頂き、実践するコースです。

また、器具縫合や簡単な減張縫合を参加者全員がマスターするまで、講師は帰りません!から、基本的な外科手技が曖昧な方は、是非、ご参加ください。

20110130ケンテック実習チラシ

院長の独り言 158 ; キティ台風の襲来

先の10月中旬、台風14号が奄美大島に接近して、その余波による豪雨によって奄美地方は大きな被害を受けました。

災害に遭った奄美の人には大変、気の毒でしたが、一方、今年は東京には大きな台風が来なかったので、豪雨や大風による被害は受けずに済みました。

台風と云うと私が小学生の時に、キティ台風と云う大型台風が首都圏を襲い、猛威を振るった事を思い出します。

昭和24年(1949年)の事です。

敗戦後しばらくの間は、台風はアメリカ女性の名前がつけられていました。

戦争に負けると云う事は本当に惨めなものです。

“カスリーン”だとか“ジェーン”と言った具合に、台風に名前が付けられていたのです。

1953年にサンフランシスコ講和条約の発効以降、台風の名前が日本名に戻りました。

大型で並外れて大きな被害をもたらした台風には特別に“洞爺丸台風”とか“狩野川台風”、“伊勢湾台風”などのように名付けられ、あとは1号2号3号と番号で台風を呼んでいる事は皆さんご存知の通りです。

話をキティ台風に遭遇した時に戻します。

勿論、テレビなど無い時代です。

緊急の情報は全てラジオからです。

気象衛星などは存在する訳が有りません。

当然、難しい天気予報など殆ど当たらないのが当たり前。

このキティ台風の前日の予報は確か、『千葉の房総半島の遥か沖を通過する』とラジオで言っていたので、私の両親は『どうやら大した事には成りそうもない』と、タカをくくって安心していました。

ところが夜中になると、窓に吹き付ける風の音が凄くなり、雨もバケツをひっくり返すような感じで降り出してきたのです。

古い我が家は大風が吹くたびに地震に遭った時のようにミシミシ揺れるので、家が倒れるのではないかと大げさでなく、一家中不安で顔面蒼白になり眠れぬ夜を過ごしたのでした。

敗戦後、停電には慣れていましたが、今まで経験した事も無い物凄い風雨には本当にビックリしたものです…。

翌朝、ようやくキティ台風が過ぎ去り、家の周りが明るくなってきたので、外へ出て見ると、木の塀は奇麗サッパリ消えていて、前の道路は川に大変身。

こんなビックリした事は戦争の空襲以来でした。

水量(みずかさ)は大人の腰辺りまであり、水の中をよく見ると小魚が泳いでいるのには二度ビックリです。

台風一過とはよく言ったもので、昼前には太陽が雲間から顔を出すほどの青空になり、滅茶苦茶になった家の周りの整理を一家総出で頑張って行ったのです。

腰まであった水も直ぐに無くなり、所々の水溜まりに小魚が浮いていました。

それ以来、自分は台風にはいやに敏感に反応する様になってしまい、興味も湧いてきました。

そもそも何故『台風』と言うのか今回、不思議に思って調べてみたところ、色々な説が有るので驚きました。

一番有力な説は、ギリシャ神話の巨大な怪物『テュポン(Typhon)』から『Typhoon』になったと言う説や、中国で暴風の事を『大風(たいふん)』と言っていた事からであると言う説。

また、アラビア語の嵐『Tufan』からきたと言う説など、其の他にもまだまだ色々有るそうです。

何はともあれ、キティ台風来襲以来60年以上経った現在、東京湾は堤防も排水も安全に整備されているので、あの時のような水害には無縁の時代に成りました。

良い世の中に成った事も確かですが、あの時の大騒ぎも懐かしく思い出すのです。