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院長の独り言 238 ; 過去の記憶

現在、私は72歳です。
72歳になってみて月並みな感想ですが、アッと言う間の72年間であり、同時に、本当に月日が経つのは早いと思います。
記憶として残っている自分は、4歳の時に親父に連れられて、兄貴とトンボを獲りに行った時の情景です。
それ以前の記憶は、全くと言って良いほど、思い出せません。
3歳の話ですが、『お前は疫痢で一回死んだんだよ…』と私が成人になった時に、お袋に言われた事があるのですが、そんなに大変な事になったと云う記憶は、自分にはありません(院長の独り言 110;『疫痢で命を落としそうになったあの日…』を参照してください)。
トンボ獲りの事が、今でも記憶に残っている一番古い思い出なのです。
親父が必死にトンボを追いかけて、捕虫網で捕まえてくれた光景を、今でも鮮明に思い出す事が出来るのです。
これが4歳の夏です。
不思議な事に、それより以前の記憶は全く憶えていないのです。
自分の意識の誕生は、この4歳の時だと思っています。
その後で記憶に残っているのが、ブログで何度も触れている戦争で疎開した一連の出来事です。
その時はもう5歳になっていました。
母方の祖母と一緒に、岐阜に疎開したのですが、両親から離れて生活したのは、この時が勿論、初めてでした。
煙モクモクの汽車に乗った事。
降るような星々を散りばめた夜空。
敵機の空襲で真っ暗な空が真っ赤に染まった事。
何も食べられず、ヒモジイ思い。
栄養失調になって、ガリガリに痩せてしまった私を見た両親の涙顔。
縦に大揺れした地震。
戦争に負けて焼け野原になった東京など色々な事。
などなどを、今でも鮮明に思い出す事ができます。
6歳になって、小学校に入学した後の記憶は、皆さんと同じでしょうが、学校での出来事を中心に、ぽろぽろと思い出します。
それから60歳頃までは、手帳など必要ないほど記憶力は抜群でした。
社会で起きた、種々な事件も、よく覚えています。
ところが70歳を超えてきたこの頃は、ちょっとした事でも忘れてしまいます。
自分でも焦ってしまうほどに、記憶力が衰えてきました。
記憶は、海馬や大脳皮質で掌(つかさど)っていると言われています。
海馬や大脳皮質を鍛えれば、記憶力は増大すると脳科学者が提唱していますが、どのようにその部位を鍛えたものか、皆目、見当がつきません。
良く言われているのは、物事に感動しなさいとか、色々な事に興味を示しなさいとか、外に出て友達と交際したり、運動をしなさいなどです。
確かに、最近の私は、何事に対しても、心騒ぐ感動が無くなってきたのは、嫌でも認めざるを得ません。
何とか、この気持ちを打破しようと、ゴルフをしたり、本を読んだり、旅行に行ったり、自分なりに努力はしているつもりです。
絵画展などには出来るだけ出掛けるようにして、自力で野次馬精神を駆り立てるのは、勿論です。
元気で長生きしている患者さんに皆さん共通しているのは、外向きに生きている事で、なおかつ、常に楽しそうに生活している人たちです。
小生もそのように頑張っている人を模範にして、前向きに元気に生きていこうと思ってはいるのですが、中々…。

院長の独り言 237 ; 今年初めての冷やし中華

先日、昼食で、今年初めて冷やし中華を食べました。
近頃は、天気さえ良ければ、もう夏。
軽い運動でも汗ばんでしまう季節です。
ましてや、歯科治療をしている時は、緊張しているので、冷や汗も含めて、結構な汗が出てくるものです…。
例えば、歯を削っている時、患者さんが急に動くと、ドリルで舌や頬っぺたを巻き込まない様に、瞬時に身体を反応させて、ドリルを急停止させます。
咳き程度なら良いのですが、急に身体を起こされると、冷や汗が出ます。
話は元に戻って、その日は、雲ひとつなく、太陽が燦々(さんさん)と降り注いでおり、冷やし中華が特に美味しく感じました。
現在、我々が『冷やし中華』として食べている麺は、中国から伝わってきたのではなく、仙台が発祥の地だそうです。
以前、テレビのグルメ番組で、『冷やし中華』発祥の地として、仙台の中華料理屋さんを紹介しているのを見た事があります。
その番組によると、昭和12年の夏に、初めて冷やし中華が誕生したとの事です。
中国は冷麺と云って、日本の冷やし中華とは全然違います。
何で、日本発明の冷やしソバを中華と呼ぶのでしょうか。
多分、日本には、昔から『もりそば』、『ざるそば』、『冷や麦』など、冷たくして食べる麺類が存在していたので、これらとは区別したのでしょう。
先日、旅行した京都では、たまたま訪れたお蕎麦屋さんは、応仁の乱以前から営業していたと言っていましたから、『中華』という枕詞を付けないと、伝統と貫禄の違いで、日本の『ざるそば』に間違えられてしまうのでしょう。
江戸川柳にも、おそばを題材にしているものが、結構、多く見受けられます。
松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶など蒼々たる俳人達が、歌に詠んでいるところをみると、蕎麦は昔から庶民にとって、大変、馴染みの深い食物だと云う事が理解出来ます。
小生もご多分に洩れず、蕎麦が大好物です。
特に、蒸し、蒸しした暑い日は、シャキンと冷えた『もり』や『ざる』は食欲をそそります。
しかし、人間は贅沢な生き物です。
夏、冷えた蕎麦やうどんばかり食べている、何となく物足りなく、飽きてしまいます。
矢張り、冷やし中華も食べたくなってしまうのです…。
これは麺類だけの話で、夏にカレーも美味しいものです。
我が国は、世界に誇る、ユニークで美味な食べ物には、本当に事欠きません。
特に、海外旅行に行くと、よく理解できます。
外国で、日本の料理より美味しい食べ物に、滅多にお目に掛かる事はありません。
食べ物だけでなく、工業製品でも、世界に誇れるものは、数えれば切りがありません。
今回の大震災で委縮する事なく、われわれ日本人は、全ての面で、もっと自信を持って生きていくべきです。
自信を以って、遣るべき事に集中すれば、自ずと道は開けてくるものです。
これは、小生の経験談でもあります。
本当に日本人で良かった!!

院長の独り言 236 ; 原子力発電に想定外は許されない…

二泊三日の京都小旅行を無事に終えて、我が家に帰ってみると、原子力発電を存続すべきか、廃止すべきかを、メディア等で盛んに論議しています。
廃止派の意見は、『我が国は地震多発地帯に在り、東日本大震災の時のように、自然災害が何処で起きても、不思議ではない。福島原発のように、事故が起きてからでは手の打ち様が無くなってしまう。所詮、原発は我が国には不向きである!』と云う事です。
一方、存続派は、『現在の我が国の電力事情を冷静に考えれば、原発を無くしてしまう事は無理である。既存の原発を、今まで以上に整備して、慎重に活用すれば良いのではないか!』です。
ところで、黒澤明監督の『夢』と云う映画を、皆さん、御覧になった事がありますか?
富士山が写っているので、多分、浜岡原発が爆発したのを想定しているのでしょうが、富士山の後ろで原子力発電所が大爆発している、恐ろしいシーンがあります。
監督は自分の見た『夢』として、絶対、安全といわれていた原発の事故を予言していたのですから、その洞察力は大変なものです。
今回、不幸にして、福島原発が事故を起こしてしまい、正夢になってしまった形です。
浜岡原発はしばらく機能しないようですが、現在、想定外の自然災害に遭うと、冷却電源が喪失してしまう原発が、日本のアチコチにあるとメディアで報道されています。
特に、インターネットの記事によると、福井県敦賀市にある高速増殖炉『もんじゅ』は今、非常に不安定な状態にあるとの事です。
『もんじゅ』の名前は文殊菩薩から由来しています。
『三人寄れば 文殊の知恵』の文殊です。
1991年に性能試験開始、夢の原子力発電所としてスタートしたのですが、4年後の1995年12月に早くも火災事故を起こしてしまいます。
2010年5月に運転を再開したものの、8月に、燃料棒の交換装置が落下してしまうという事故を起こしてしまい、いま現在も、燃料棒を取り出せない状態になっていて、事故を受けて運転を休止し、現在に至るとの事です。
このもんじゅは、広島や長崎に投下された原爆の何百倍もの規模といわれ、もし想定外の自然災害により核爆発でもしたら、日本はおろか、中国大陸や朝鮮半島にも甚大な被害を及ぼすようです。
一刻も早い、機能の回復を願うしかありません…。
原子力発電の最大の短所は、一度、放射能漏れ事故や核暴走を起こしてしまうと、何十年もの間、汚染された土地を生み出す危険性があるのです。
福島においては、散らばってしまった放射性物質を、土に染み込んでしまう前に、表土と一緒に除去するようです。
特に、放射能の影響を受けやすい子供の通う学校や通学路は、処理を急がなければなりません。
随分、以前のブログに記載しましたが、筑波大学の教授が、『オーランチキトリュム』と云う、大量に石油を生み出す藻を発見したと、メディアで報道されていました。
日本でも、自前で生産可能な、この夢の様な電力資源について、果たして、現実可能な話なのか、違うのか、この際、その先生に詳しく説明を受けるべきではないでしょうか。
本当の話であれば、日本は救われるのですが。

院長の独り言 235 ; 京都旅行(その九)

そして3日目。
5月3日(火)は憲法記念日。
今回の旅行の最終日です。
贅沢を言うようですが、もう、いい歳をしているので、たった二泊三日の旅行でも、結構、疲れてしまいました…。
朝8時に起床し、いつもより遅めの眼醒めです。
8時半頃、ホテルの食堂に行って、和食を食べました。
昨夜は、京風フランス料理にワインを少々、飲んだので、何となく暖かい御飯と味噌汁を食べたかったのです。
味噌汁は、東京のそれより、味が薄い気がしましたが、自分の口には合っていて、実に美味しく頂きました。
ただ関東の朝食には、必ず付いている納豆が無かったので、少々がっかりです。
『そうだ!ここは関西なのだ!』と改めて実感させられました。
帰りの身支度を整えて、ホテルを出たのは10時半過ぎ。
ホテルの前の通りは、京都でいち二を争う広い道路です。
この大通りはビジネス街を貫いていて、京都駅のまん前に行き着きます。
道の両側は、高層ビルが何棟も聳(そび)え立っています。
ホテルからブラブラ12~3分間、歩いて、小路の外れに、室町時代から続いている老舗のおそば屋さんがあり、そのおそば屋さんが今日のお昼の目的のお店です。
前もって、調べておいたお店です。
このおそば屋さんは遠い室町時代に、お菓子屋さんだったそうです。
お菓子からそばを作るようになったのが、応仁の乱の前だと云う話ですから、随分と歴史を感じさせられる、老舗のおそば屋さんと云う事になります。
いつも満員と聞いていたので、11時前には暖簾(のれん)をくぐりました。
まだお昼までは充分に時間があるのに、一階の席は満員、我々は運よく二階の窓側の席を確保する事が出来たので、ホッと一息。
私は天ざるの大盛りを注文しました。
本当に、あと少し遅く来たら、随分と待たされたに違いありません。
注文したおそばが運ばれて来る短い間にも、お客さんが次から次へとお店に入ってきます。
東京で、こんなに忙しそうにしているおそば屋さんをあまり見掛けません。
運ばれてきたおそばは、東京のおそばと比べると、麺は細く軟らかい感じ、タレ汁は昆布出汁の薄味で、甘みを少し感じました。
東京の醤油の濃いタレとは、かなり違っています。
出汁の味を重視する自分の好みとしては、やはり京都に軍配を上げてしまいます。
また、元は京菓子を献上していた訳ですから、勿論、今でも和菓子も売っています。
和菓子作りは、500年以上も前からの伝統を受け継いでいるので、おそば屋さんのものとはとても思えないほどに洗練された、甘さ控えめの美味でした。
昼食を早目に済まして、京都駅ビルのデパートに行ってみましたが、デパートばかりは断然、東京に軍配が上がります。
あらためて、東京のデパートの規模の大きさと豪華さを思い知らされました。
後は、新幹線で帰京。
久し振りの京都の3日間は、また京都に来たくなるほどに、楽しいものでした。
(『京都旅行』は今回で、最終回です)

院長の独り言 234 ; 京都旅行(その八)

豊臣秀吉の拠点と云うと、直ぐに、大阪の街をイメージさせます。
大阪城の威容が、そう想起させるのでしょうか…。
また秀吉は、信長亡き後、この大阪を拠点にし、刀狩りや太閤検地などの政策を素早く推し進め、戦国時代後の日本を中央集権的に統治しました。
要するに、秀吉の活躍した都市イコール大阪と受けとられ勝ちです。
確かにそれも事実ですが、どっこい、京都を忘れてはいませんか。
室町時代末期から戦国時代の京都は、応仁の乱により、殆ど焼き尽くされてしまい、都市としての趣(おもむき)は皆無、惨憺(さんたん)たる有様だったのです。
その荒廃してしまった京都を、歴史のある、威厳のある都市として、都市機能を再建したのが、秀吉その人だったのです。
皆さん、ご存知でしたか。
秀吉の京都での人気は、皆さんが想像している以上、それは大変なものなのです。
何しろ、京の都を蘇らせて呉れたのですから、当然でしょう。
例えば、大阪城も素晴らしいお城ですが、秀吉が京都に建てた伏見城も、豪華絢爛なお城だったそうです。
いまや伏見城は現存していませんが、この城に元々、在った門構えや茶室などは、アチコチの場所に移築されて、今も残っているのです。
高台寺の傘亭や時雨亭、西本願寺の飛雲閣も、すべて、伏見城から移築されたものです。
また絢爛豪華と言えば、聚楽第が有名です。
聚楽第は平城(ひらじろ)として秀吉が創らせ、やはり現存していませんが、金箔の瓦や趣味を凝らした建物、手入れの行き届いた庭園が、屏風図に描かれ残っていて、現在、中学の教科書にも載っているほどの絢爛さであったようです。
聚楽第は、秀吉が政務の為、そして自分の住居として使っていたとの事。
そして、聚楽第の周囲には、千利休をはじめ、重鎮の邸宅が多く立ち並んでいたのです。
関白職を養子の秀次に譲り、聚楽第も同時に引き渡すのですが、その後、側室お茶々(淀殿)に秀頼が生まれ、悲しい哉、後継ぎとして用無しになった秀次を、和歌山(高野山)に追放した後、秀吉は聚楽第を目茶目茶に破壊してしまいます…。
また秀吉は、自分の権勢を世間に知らしめる為に、奈良の大仏より大きい大仏の建立を目指します。
その方広寺の大仏は、奈良の大仏を凌駕する大きさを誇っていたとの事です。
大仏の高さが20メートル弱、大仏殿は50メートル程だったそうです。
ところが、大仏が完成の直前、ついてないと言うか、慶長の大地震で倒壊してしまったので、幻の大仏様と言われています。
その他、秀吉は京都をあらゆる面で整備し、また多くの公共事業を起こして、京都の人々にお金を落としたのです。
今回の京都旅行の締めとして、タクシーで『方向寺のつり鐘』を案内して貰いました。
方向寺のつり鐘とは、家康にイチャモンを付けられて大阪城の落城に繋がり、豊臣家の滅亡に追い込んだ大鐘です。
鐘に彫り込んである銘文『国家安康 君臣豊楽』の事です。
その前文『国家安康』で家康を分断し、後文『君臣豊楽』で豊臣が楽しんでいると言って文句をつけてきたのです。
実際に銘文を見てみて、あまりに小さく字が書かれているのにはビックリしました。
前文と後文が同じ行(ぎょう)ではなく離れていて、なおかつ、長い文の中のほんの、ほんの一部分です。
よほど注意深く見なければ、見過ごしてしまいそうです。
やっぱり家康は、教科書で習ったように、明らかにイチャモンをつけた事は確かなようです。
目の前で、大鐘の『小さな銘文』を確認して、歴史的事実を了解出来ました。
二日目もアッと云う間に夕方になり、いよいよ明日は東京。
楽しい時間はホントに短く感じるものです。
秀吉の辞世の句

つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな なにわのことは ゆめのまた夢

を思い出していました。
(次回で『京都旅行』は最終回です)

院長の独り言 233 ; 京都旅行(その七)

我々の傍にいた若いカップルや老夫婦も、1001体の千手観音立像や風神雷神などの国宝を目の当たりにして、ビックリしていました。
本堂の端から端まで、1000体もの千手観音立像が並ぶ様(さま)に、観ている人全てが、圧倒されてしまいます。
まさしく圧巻です。
外国人も、真剣な眼差しで見学しています。
もう少しユックリと観ていたかったのですが、時間の関係上、後ろ髪を引かれる思いで、三十三間堂を後にしました。
予定が遅れ気味だったので、某鉄道会社による京都観光の宣伝に使われている、例の『千本鳥居』で有名な伏見稲荷神社に、タクシーを急いで走らせたのです。
伏見神社3
たくさんの赤い鳥居のトンネルを、テレビ番組で見て、急に伏見稲荷に行きたくなったのですから、野次馬根性も良いところです。
全国にある稲荷神社の総本宮である伏見稲荷大社は、これも三十三間堂にある1001体の観音立像と同じように、先ず、鳥居の数で驚かされます。
1000本の鳥居が、境内をトンネルのように、長く長く続いて貫いています。
伏見神社1
伏見神社2
伏見稲荷神社は、境内の入り口である一番鳥居に入ると、大きな桜門が、そして桜門の左右にキツネが鎮座しています。
そのキツネは、今まで見た事もないほどの大きさのお稲荷さんで、顔の怖い事、怖い事。
思わず、ドキッとします。
そこから暫く歩くと、千本鳥居の入り口に。
千本鳥居の入り口からは二手(ふたて)に別れて、どちらから入っても、テレビでおなじみの長く続く、赤い鳥居のトンネルです。
二手に分かれている、どちらのトンネルを歩いて行っても、出口は同じ場所に行き着きます。
その場所が、奥社奉拝所と云い、殆どの観光客はここまで来て、それ以上、先には行きません。
本当は、ここからが本番みたいなものです。
ところが、ここからは急坂で登るのがきつく、一番の頂上にある寺社までは、大変な道のりになるので、千本鳥居をくぐった事を思い出に、殆どの観光客はここまでで引き返す訳です。
奥社奉拝所には『おもかる石』と云うスイカの大きさ程の石が祀られていて、その祀られている石を持ち上げた時に軽く感じた場合は『商売繁盛』、逆に、重く感じれば、その逆になると言い伝えられています。
5分間くらい、遠巻きに見ていると、おもかる石を持ち揚げた人の全員が『重い!』と言っていました。
自分も当然、重く感じると思ったので、おもかる石を持ち上げるのは、今回、遠慮(パス)しました。
入り口から奥社奉拝所までの鳥居の数は1000本との事ですが、千本鳥居から上に登って行けば、まだまだ沢山の鳥居のトンネルが続くのだそうです。
私も殆どの観光客も長く続く坂道を見上げて、ため息をつき『帰るとするか…』と言う事になってしまい、引き返す訳です。
予定より早く戻ってきた我々を見て、憎たらしい事に、タクシーの運転手はニヤニヤしながら、『おもかる石まででしたか?」と言わんばかりの顔をしていたのが、癪の種でした。
(次回に続く)

院長の独り言 232 ; 京都旅行(その六)

昼食後、観光用のタクシーを手配して、三十三間堂に向かいました。
料金は、3時間で9千円です。
私が高校生の時に行った修学旅行では、観光バスで名所旧跡巡りをしました。
皆さんご存知の通り、古都である京都には、狭い道路と坂道が多いのです。
バスなので、当然、狭い道には入る事が出来ないので、バス用の駐車場に止めて、その後は、結構、シンドイ徒歩での観光でした。
今時の修学旅行は、4人一組で、タクシーに分乗し、自分達の気に入ったお寺や神社を見学するのだと、乗ったタクシーの運転手さんが話していました。
タクシーなので、狭い道でも平気で入れるので、歩く事は殆どありません。
お昼御飯も有名な老舗で、懐石弁当を食べるそうです。
別に、僻(ひが)んで書いているのではないですよ。
ただ時代の違いを感じているだけです(やっぱり僻んでいるのかな…)。
つまらない話を書いて失礼しました。
三十三間堂と言えば、1000体の千手観音立像が直ぐ頭に浮かびます。
実際、ずらっと並んだ立像を目の当たりにすると、実に壮観であり、圧倒されてしまいす。
一つとして、同じお顔の仏像は存在しません。
解説によると、1000体(実際は1001体)のうち124体が、平安時代に作られたお像です。
その他のお像は、鎌倉時代のものだそうです。
三十三間堂は長さ120メートル、柱の間が33に仕切られているところから、その名がついているのです。
『蓮華王院本堂』が正式の名前です。
平安時代後期に、権勢を誇った平清盛の財政協力の基に、後白河天皇により創建されたのですが、残念ですが、暫くして焼失してしまいます。
その後、鎌倉時代に、本堂だけ再建されて、現在に至る訳です。
もし万が一でも、再び火災で、三十三間堂が焼失でもしてしまったら、沢山のお像が一遍に無くなってしまうのですから、国家の大損失です。
しっかり管理して欲しいものです。
中央に本尊の千手観音坐像が祀られていて、そこを境に500体の千手観音立像が左右に配置されており、両端に国宝の風神像と雷神像がユーモラスな表情で見下ろしています。
前列に平安時代作の国宝の28部衆像が安置されています。
ちなみに1001体の千手観音立像は国宝ではなく、重要文化財との事です。
(次回に続く)
三十三間堂

院長の独り言 231 ; 京都旅行(その五)

清水寺正門の真っ赤な仁王門の前の門前通りが『清水坂』で、小物や土産物などを売る老舗のお店が、路の左右にギッシリと並んでいます。
赤門

如何にも京都らしい、風情のある坂道です。
清水寺赤門
暫く清水坂を下り、右に折れると『産寧坂』。
さらに産寧坂から『高台寺』に至る石畳の坂道が『二年坂』です。
二年坂の前の車道を渡って、高台寺の境内に入ります。
高台寺門
高台寺は、秀吉の妻のねねが、夫である豊臣秀吉の冥福を祈って創建し、ねね自身、晩年を過ごしたお寺です。
高台寺を自分の終の棲家として暮らしたのです。
そして、高台寺の中心の霊廟に、秀吉とねねの像が安置されています。
その像の下が、ねねのお墓だそうです。
この霊廟の左右の襖絵(ふすまえ)は、長谷川等伯の書いた墨絵です。
等伯と云えば、東京国立博物館に展示されている国宝『松林図屏風』が有名です。
あの幻想的な屏風絵は記念切手にもなっているので、皆さんも本などで一度は見ている事と思います。
実に不思議な絵で、墨の濃淡のみで松林に流れる霧の流れを、写実的に表現し得ているのです。
接近して観ると、少々、粗雑にも感じる、荒々しい筆使いですが、少し離れると、実に緻密な風景画が存在するのです。
長谷川等伯は、狩野派の代表的画人 狩野永徳らと並ぶ、安土桃山時代の最も有名な絵師の一人です。
等伯は、秀吉のみならず、家康にも愛され、江戸時代初期まで活躍しました。
また、秀吉が『お茶』をこよなく愛していた事は、有名です。
千利休が秀吉の依頼で、伏見城境内に茶席として、傘亭と時雨亭を創り、秀吉はそこで親しい人を招待してお茶会を楽しんでいたと云われています。
傘を拡げた独特な形をした屋根の傘亭。
時雨亭は茶席としては、大変、珍しい二階屋です。
ねねは、その傘亭と時雨亭を、亡き夫である秀吉の為に、伏見城から高台寺にわざわざ移築したのです。
高台寺のお庭はと云うと、龍安寺の石庭とはまた趣を異にし、お茶会にはドンピシャです。
高台寺庭
多分、ねねはお茶を愛した秀吉の為に、死後、高台寺を創建したのでしょう。
高台寺は、現代でも安土桃山時代の名庭として、大変、人気があるのです。
夜になると、高台寺全体がライトアップされているのだそうです。
今度、京都に行く機会があったら、是非、夜にライトアップされた、この名庭を楽しみたいと思います。
ここで、お昼御飯です。
予約していた京懐石を楽しみました。
京懐石
京懐石2
(次回に続く)

院長の独り言 230 ; 京都旅行(その四)

久し振りの京都駅に着いた、旅行初日の午後。
小雨が降ったり、止んだり…。
雨雲を見上げながら、これ以上、天気が悪化しない事を祈りつつ、まず金閣寺に向かいました。
天気は良くなかったのですが、そのお陰か、大人気の観光地、金閣寺や龍安寺は混雑していません。
予想以上に、古寺を愉しむ事が出来ました。
そして旅行二日目、5月2日月曜日です。
昨夜、肉料理をたくさん頂いたので、朝起きても、食欲が全く湧きません。
朝食を抜こうと思ったのですが、予定では、坂道を歩かなければならないので、軽めの食事を摂る事にしたのです。
ホテルの近くの喫茶店に入り、パンと卵入りのサラダ、それにコーヒーをブラックで飲みました。
今回の旅行は、二泊三日の小旅行です。
息子や山森君、そして女性スタッフ皆さんのお陰で、5/2(月)は平日ですが、医院を任せきりにして、休ませて貰いました。
本日の観光予定は、清水寺に先ず行き、清水坂、産寧坂(さんねいざか)と二年坂の三つの坂を歩き、その途上にある雑貨屋、名物のお菓子屋、お土産屋をヒヤカシながらブラブラ、高台寺まで探索したのです。
京都の小路
天気予報では、昨日と違い、朝から好天に恵まれるとの事でした。
ところが、ホテルを出て驚いたのですが、京都を取り巻く山々が全く見えないほどに視界が悪いのです。
お日様も全く見えません。
今日は晴天の筈なのに、天気予報が外れたのかと思いました。
結局、気象庁は予想を外していなかったのですが、この汚れた空気の原因は、中国大陸からの『黄砂』と分かったのです。
毎年の事ですが、目も喉も痛いし、この黄砂、何とかならないものでしょうか?
黄砂に出鼻を挫かれた感じでしたが、気を取り直して、清水寺に向かいました。
清水寺の由来は、奈良時代末期に、征夷大将軍 坂上田村麻呂が千手観音像をこのお寺に安置したのが始まりです。
『清水の舞台から飛び降りる』で知られる本堂をはじめ、仁王門など現在、清水寺に残っている国宝は、家光(徳川三代将軍)によって再建されたものです。
本堂は、有名な清水の舞台です。
辺りはひと、ひと、ひとで、混雑はしているのですが、いつもと違い、人との間に余裕があるので、舞台の先端まで直ぐに行く事が出来ました。
そこから見た下界には、境内の道を歩いている大勢の人々が、アリの行列のように見えます。
清水の舞台から
しかし普段なら、古都が若々しい新緑に映え、素晴らしい景色な筈なのに、今日ばかりは、黄砂のモヤで霞(かす)んで、何も見えません。
全く残念です…。
帰途、山道から振り返ると、たった今、立っていた清水寺の全景が目に入ってきました。
威風堂々、歳月の経た貫禄すら感じる清水寺は、世界遺産になるのが当然といったところです。
下の山道から見上げると、今度は逆に舞台に立っている大勢の人が小さく、人形のように見えて、箱庭のようでした。
清水の舞台を振り返る
もう少し清水寺を見ていたかったのですが、時間の関係上、後ろ髪を引かれる思いで、先に進みました。
途中で、ひと休み。
抹茶を頂いた後、高台寺に向かったのです。
(次回に続く)

院長の独り言 229 ; 京都旅行(その三)

幸運にも、大人気の金閣寺で予定より時間が掛からず、スムーズに見学出来きました。
金閣寺を充分に堪能出来たし、小雨も降っていたので、ホテルへ引き揚げようとも思ったのですが、まだ午後4時前です。
思い切って、龍安寺の石庭を見学する事にしました。
運良く、龍安寺に着く頃には、雨も上がっていました。
お日様は拝めませんが、傘は必要無さそうです。
普段は、ヨーロッパ人が大勢、石庭の前で陣取って、長い間、瞑想に耽(ふけ)っているそうで、中々、座ってお庭をジックリ見る事が難しいそうです。
今日は天気もイマイチ、おまけに原発事故の影響で、外国人の姿もまばらで、縁側の一番、先に腰を掛けて、ゆっくり石庭を見る事が出来ました。
竜安寺で瞑想
龍安寺は臨済宗派の禅寺で、細川勝元が1450年に創建したのですが、ご存知のように、山名宗全と対立。
金閣寺と同じように、応仁の乱の際に、焼失してしまいます。
その後、1499年に勝元の子、政元によって再建され、現在に至る訳です。
禅の精神は、欧米の人達にも支持されている事もあって、彼ら観光客に龍安寺は大変、人気が高いのです。
小生も、今回は念入りに、石庭を隅から隅まで見学しましたが、確かに見れば見るほど不可思議なお庭です。
この庭をはじめに考案した人は、ユニークな宇宙観を持っていたのでしょう。
竜安寺石庭
普通、あのような庭は考え付かないものです。
庭木が綺麗に配されている庭や、芝生が生え揃っている手入の行き届いた庭も、確かに清々しさを感じますが、龍安寺の石庭には、不可思議な魅力を感じました。
1975年(昭和50年)に京都を訪れたイギリスのエリザベス女王が、この龍安寺の石庭を絶賛したのを切っ掛けとして、ヨーロッパでは禅ブームが起きたとされています。
箱庭
対照的な金閣寺と龍安寺の庭園を楽しみ過ぎて、少々、足がむくんでしまい、ホテルまで、タクシーのお世話になってしまいました。
夜の食事は、肉料理をホテルの近くにある小料理屋さんで愉しみ、疲れはしましたが、一日目を無事に終えたのです。

院長の独り言 228 ; 京都旅行 (その二)

新幹線に乗ると、何時も思い出すのが、フランスの超特急『TGV』です。
10年ほど前に、一度、乗った事があります。
日本の新幹線と比べてみたかったのです。
新幹線の乗り心地の良さに比較すると、フランスの超特急は揺れも激しく、乗り心地は全く劣っていました。
確かに、スピードは新幹線と同じですが、快適とはお世辞にも言えない経験でした。
『日本の新幹線を導入すれば良いのに…』と、内心、思ったものです。
技術面では優れていても、外国に中々、メイドインジャパンを売り込めないのは、ただ単に政治力の差でしょう。
新横浜を過ぎた頃、東京駅で買ったお弁当を食べ終えて、ひと息。
外は曇っていて本当に残念なのですが、大好きな富士の山に、お目にかかる事は出来ませんでした。
名古屋をいつの間にかに過ぎると、ゆっくりする暇もないくらいに、アッと言う間に京都駅に着いてしまったのです。
時計を見ると、午後0時半、いよいよ、久し振りの京都です。
もう少し新幹線には乗っていたいくらい、快適な乗り心地でした。
近代的な京都駅を後にして、京都御所の直ぐ近くにあるホテルに荷物を置き、計画通りに、まず金閣寺(鹿苑寺)に向かったのです。
小雨が降っていたので、タクシーを利用しました。
実は小生、京都に高校の同級生がいたので、彼の下宿を足掛かりにして、大学生時代に、殆どの名所旧跡を見て回っていたのです。
金閣寺は勿論、銀閣寺、清水寺、二条城、三十三間堂、嵐山など見所は殆ど見学しています。
おまけに大学の同窓会の時には、舞妓さん遊びの経験もあるのです。
以前、金閣寺は二回、見学していたので、今回が確か三度目、いや四度目かも知れません…。
以前に見た時は、金箔の部分が渋く疲れていて、如何にも古色蒼然、永い時間が経過している風格を感じたのですが、今日、見る金閣寺は、つい最近、リホームしたとの事。
あまりに金ピカになっていて、小生とすれば、軽薄な感じがしてしまい、ちょっとした違和感を持ったのでした。
多分、あと、十年位経つと、歴史を感じさせる趣が出てくる事でしょう。
震災の原発事故の所為(せい)か、外国人の姿を殆ど見る事が出来ず、普段は中国語、英語、フランス語、そしてドイツ語などの外国語が、乱れ飛んで聞こえるところですが、全く聞こえませんでした。
売店のひとの話によると、普段、観光客の半分は外国人だそうです。
当日はいつもの三分の一程度の人で、大変、見学し易かったのです。
新緑に映えた金閣寺を前から、斜めから、後ろからと、充分に堪能する事が出来ました。
少し喉も渇いたので、喫茶所に入って、お茶にする事にしたのです。
いつもは混んでいて、抹茶を飲みながら、お庭を堪能するには、かなり待たなければならないそうです。
今回は、お菓子付きの抹茶を、並ばずに、直ぐに愉しむ事が出来ました。
金閣でのお茶
たまには、苔生した端正な庭園で、お茶を楽しむのも、優雅な気持ちにさせられるものです。
金閣寺の庭
応仁の乱(応仁・文明の乱)では、山名宗全率いる西軍の本陣となり、寺の大半が焼失したとの事。
昭和25年にも、放火により金閣は焼かれました。
三島由紀夫がその事件に刺激され、名作『金閣寺』を著しました。
今となっては、三島調の流麗で耽美的な日本語は流行らないのでしょうが、とても美しい文章です。
新しい金箔に飾り立てられた金閣を眺めると、何となく、背景に焔が見えてくるようです…。
(次回に続く)
金閣

院長の独り言 227 ; 京都旅行 (その一)

小旅行をしていたので、ブログの更新をしばし、お休みしていました。
今日から再開します。
実は、東日本大震災が起きた3月11日(金)より一カ月前に、ゴールデンウィークに京都へ旅行するべく、ホテルと新幹線を予約していたのです。
何しろ京都は、JR東日本のテレビCM『そーだ、京都に行こう!』でお馴染みの人気スポットです。
早目に予約をしないと行けなくなると思ったから、2月に予約したのです。
早々とホテルに電話をした結果、無事に予約が取れて、京都旅行を大変、楽しみにしていました。
ところが、あの大災害発生です…。
旅行しようか、キャンセルしようか、夫婦で悩みました。
あの津波に襲われた、悲痛な被災者の姿を映像で目撃してしまうと、旅行を楽しもうと思っていた気持ちが、一遍に萎えてしまったのです。
気分が全く乗らないので、旅行を中止しようと、一旦は考えました。
しかし、色々と考えた結果、思い切って決行する事にしたのです。
皆さんも耳にタコが出来るほど聞いているでしょうが、『旅行やイベント、買い物や食事などを、むしろ自粛すべきではない!』と経済学者がメディアで口々に言っています。
只でさえ、現在の我が国はデフレなのに、皆が被災者の心中(しんちゅう)を察して、全ての面で自粛に自粛を重ねていると、益々、日本経済が委縮してしまい、税収が落ち込み、本末転倒になり兼ねないと思ったのです。
…と言う訳で、予定通りに、京都に行く事にしました。
5月1 日(日)、朝8時に自宅を出発。
新幹線に乗るべく東京駅に向かいました。
新幹線の改札口に行ってみると、少し以前のブログに書きましたが、名古屋で大学時代の同窓会を開いた時、新幹線乗り場は、ひと、ひと、ひとで溢れていたのですが、あの時の状況とちょっと様子が違います。
乗客の数が圧倒的に少ないのです。
やはり、旅行を自粛している人が多いのかも知れません。
何となく後ろめたい気がしましたが、気を取り直して、まず駅弁を買う事にしたのです。
駅弁は東北地方応援の為に、東北産のお弁当を買って、10時10分発の博多行き『のぞみ』に乗車したのです。
京都まで停車駅、四つで到着です。
品川、新横浜、名古屋、そして目的地の京都。
新幹線に乗っていると、大学生時代に京都に行った時を、つい思い出してします。
勿論、其の後、何回か京都は行っていますが、大学生の時には、京都までビックリするほど時間が掛かった思い出があるので、京都は遠隔の地と感じてしまうのです。
現実、今や、京都はあまりに近いので驚きです。
京都旅行1
(次回に続く)