院長の独り言 234 ; 京都旅行(その八)

豊臣秀吉の拠点と云うと、直ぐに、大阪の街をイメージさせます。
大阪城の威容が、そう想起させるのでしょうか…。
また秀吉は、信長亡き後、この大阪を拠点にし、刀狩りや太閤検地などの政策を素早く推し進め、戦国時代後の日本を中央集権的に統治しました。
要するに、秀吉の活躍した都市イコール大阪と受けとられ勝ちです。
確かにそれも事実ですが、どっこい、京都を忘れてはいませんか。
室町時代末期から戦国時代の京都は、応仁の乱により、殆ど焼き尽くされてしまい、都市としての趣(おもむき)は皆無、惨憺(さんたん)たる有様だったのです。
その荒廃してしまった京都を、歴史のある、威厳のある都市として、都市機能を再建したのが、秀吉その人だったのです。
皆さん、ご存知でしたか。
秀吉の京都での人気は、皆さんが想像している以上、それは大変なものなのです。
何しろ、京の都を蘇らせて呉れたのですから、当然でしょう。
例えば、大阪城も素晴らしいお城ですが、秀吉が京都に建てた伏見城も、豪華絢爛なお城だったそうです。
いまや伏見城は現存していませんが、この城に元々、在った門構えや茶室などは、アチコチの場所に移築されて、今も残っているのです。
高台寺の傘亭や時雨亭、西本願寺の飛雲閣も、すべて、伏見城から移築されたものです。
また絢爛豪華と言えば、聚楽第が有名です。
聚楽第は平城(ひらじろ)として秀吉が創らせ、やはり現存していませんが、金箔の瓦や趣味を凝らした建物、手入れの行き届いた庭園が、屏風図に描かれ残っていて、現在、中学の教科書にも載っているほどの絢爛さであったようです。
聚楽第は、秀吉が政務の為、そして自分の住居として使っていたとの事。
そして、聚楽第の周囲には、千利休をはじめ、重鎮の邸宅が多く立ち並んでいたのです。
関白職を養子の秀次に譲り、聚楽第も同時に引き渡すのですが、その後、側室お茶々(淀殿)に秀頼が生まれ、悲しい哉、後継ぎとして用無しになった秀次を、和歌山(高野山)に追放した後、秀吉は聚楽第を目茶目茶に破壊してしまいます…。
また秀吉は、自分の権勢を世間に知らしめる為に、奈良の大仏より大きい大仏の建立を目指します。
その方広寺の大仏は、奈良の大仏を凌駕する大きさを誇っていたとの事です。
大仏の高さが20メートル弱、大仏殿は50メートル程だったそうです。
ところが、大仏が完成の直前、ついてないと言うか、慶長の大地震で倒壊してしまったので、幻の大仏様と言われています。
その他、秀吉は京都をあらゆる面で整備し、また多くの公共事業を起こして、京都の人々にお金を落としたのです。
今回の京都旅行の締めとして、タクシーで『方向寺のつり鐘』を案内して貰いました。
方向寺のつり鐘とは、家康にイチャモンを付けられて大阪城の落城に繋がり、豊臣家の滅亡に追い込んだ大鐘です。
鐘に彫り込んである銘文『国家安康 君臣豊楽』の事です。
その前文『国家安康』で家康を分断し、後文『君臣豊楽』で豊臣が楽しんでいると言って文句をつけてきたのです。
実際に銘文を見てみて、あまりに小さく字が書かれているのにはビックリしました。
前文と後文が同じ行(ぎょう)ではなく離れていて、なおかつ、長い文の中のほんの、ほんの一部分です。
よほど注意深く見なければ、見過ごしてしまいそうです。
やっぱり家康は、教科書で習ったように、明らかにイチャモンをつけた事は確かなようです。
目の前で、大鐘の『小さな銘文』を確認して、歴史的事実を了解出来ました。
二日目もアッと云う間に夕方になり、いよいよ明日は東京。
楽しい時間はホントに短く感じるものです。
秀吉の辞世の句

つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな なにわのことは ゆめのまた夢

を思い出していました。
(次回で『京都旅行』は最終回です)

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