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院長の独り言 113 ; 先輩!金の値段が上がって良かったですね

自分は株取引をほとんど行っていないので、バブルの頃から今に至るまで世間で囁かれているように、株が上がって儲かったとか、暴落して大損した…などの話は、遠い世界の出来事としてあまり興味がありません。

しかし或る時、知り合いの証券会社の人に勧められて、比較的に値段の上がり下がりが少ない大企業株を少々、所有してはいるのですが、長い期間、ただ保管していると云うところです。

少しでも株を所有していると、一応、経済に関する新聞記事に眼を通すので、今、日本国家が多額の負債を抱えて大変な事態になっているとか、ユーロが異常に安くなっているのでヨーロッパ旅行に行くチャンスである事などは理解しています。

株取引の好きな友達が言うには、『株で大儲けしてやろう!なんてスケベ心を出すと大損してしまう…』のだそうです。

或る時、その友達が株取引で儲かる方法を私に伝授して呉れると言うのです。

そこで眉に唾をつけて聞いてみる事にしました。

株で少し儲けてやろうかなと少し思ったのも事実です。

その方法とは、幾つかの銘柄の株価の動きを1年間、グラフにして観察すると、殆どの銘柄の株価には上限と下限の範囲があって、その間を行ったり来たりするのだそうです。

株を買う目安はグラフの下値より下がった時に、また売る時は上値の少し手前で売るのがコツだそうです。

中間の値の時は、決して手を出さないように我慢が大切との事です。

何だか当たり前の事のようで、真剣に聞いて損したような気分でした…。

ところが友達が言うには、これが簡単に出来そうで出来る人はすごく少ないのだそうです。

値が上がってくると、もっと上に行くのではないかと欲張る事になってしまい、それを期待して待っている投資家が殆どだそうです。

待っていて良い結果が出る時もたまにはあるのだそうですが、こう云うタイプの投資家は長い眼で見ると損をしている人が圧倒的に多いそうです。

そして少ない儲けを確保しつつ、コツコツと頻繁に取引しなければ駄目だと言うのです。

友達の話を聞いていて、何だかミミッチイ様な気がしてきて、やはり株への投資は自分には不向きであると確信しました。

話は飛びますが、30年程前に私の懇意にしていた先輩が、ある日、1㎏の金の延べ棒を80万円で購入したと言って、その現物を見せて呉れたのです。

実際に持たせても呉れたのですが、手にずっしりと重く、ピカピカと山吹色に輝き、『流石、ゴールド!』と感心したものです。

その後、日本経済はバブル期に向かって、金の値段がどんどん上昇し、一番天井の値段が1㎏700万円を超えたのです。

先輩の鼻高々で大喜びしている顔が目に浮かびました。

ところが話はハッピーエンドとは行かずに、その後、ご承知のようにバブル経済は物の見事に弾けてしまい、金の値段も1㎏80万円に下がってしまったのです…。

元の黙阿弥とは此の事を云うのでしょう。

さぞ、がっかりしているであろうと、先輩をどうやって慰めたら良いのか正直、悩みました。

ところが恒例の医局新年会で、その先輩にお会いしたのですが、ニコニコと微笑みながら先輩は『投資なんかこんなもんだよ』と言って、小生の注いだビールをグッと飲み干したのです。

ホッと胸を撫で下ろし、いつも通りに色々、四方山話で盛り上がり、楽しい新年会でしたが、その時、友達のあの『株取引の教訓』がフト頭に浮かんだのです。

そして更に時は進み、現在の金の値段は1㎏350万円を超えています。

先輩、良かったですね。

ケンテック社、新しいデザインのインプラント・フィクスチャー、Tapered F-typeを紹介!

先日のブログで紹介したTapered F-type (以下、TF)をもう少し詳しく紹介したいと思います。

TF-type開発のきっかけは、従来より発売しているF-typeの機能を補填するためです。

F-typeは、Platform switchingデザインを強調し、いわゆる『Bone platform swtiching』概念の実現化を図っています。

Bone platform switchingとは、Reverse conical neckを持つフィクスチャー・デザインにて実現する概念です。

去年のThe journal of Oral Implantologyや今年のQuintessence Internationalで紹介されている、比較的に新しいテクニカル・タームです。

Reverse conical neckとは、フィクスチャー・プラットフォーム外縁に傾斜を持つデザイン の事を指します。

下図はF-typeの40度傾斜です。

F傾斜

F

その傾斜の上にも骨を乗せると、非常に骨吸収しにくくなり、インプラント周囲炎の予防に繋がります。

つまり、インプラントの長期安定性を実現してくれるのです。

psデンタル写真

F-typeにより、Bone Platform switchingを達成できるフィクスチャー・デザインをケンテック社は手を入れたのですが、今回のTF-typeで目指す事は、初期固定強化型インプラントの開発です。

今年の9月には、ユーザーの手に届くと思います。

その美しいデザインをご覧ください。

TF3

院長の独り言 112 ; 成熟した民主主義とは、多数決のみで全てが決する学級会とは違う!

今日もワールドカップの話題がテレビや新聞を独占しています。

日本では今、参議院選挙が公示されて、選挙運動が進行中ですが、本当に国会議員の選挙が行われるのか疑問に思う程、盛り上がりに欠けた感じがします。

冷静に考えれば、われわれ日本人にとっては、サッカーより何十倍も参議院選挙に関心を向けなければいけないのではないかと思うのですが…。

今回の選挙結果次第では、われわれの生活がかなり変わる事になると思われるからです。

増税されるかも知れないし、夫婦別姓や外国人地方参政権が認められるかも知れないのです。

世の中がかなり変化する可能性が出てきたのです。

日本がチェンジする事が、本当に将来の日本にそして子供達にとって幸せに繋がって行くのでしょうか。

それで無くとも、家族がバラバラになって来ている現在、夫婦別姓になったら加速度的に家族の絆が失われていくのでは無いかと心配です。

地方参政権が通れば、長閑な日本古来からの仕来りや付き合いが消滅する可能性もあるのではと思われます。

増税すれば、益々、世の中不景気になってしまいそうです。

そこで私の国会論。

日本人の少数意見を、もっと拾って貰いたい!

学生時代から思っていたのですが、イギリスの哲学者ベンサムが『最大多数の最大幸福』論を唱えていましたが、いつも疑問に思っていました。

簡単に少数意見を切り捨てて良いのでしょうか?

イベントやスポーツなどの一般的にみて、深刻な影響など無い場合での多数決による決定は兎も角、国会や裁判での多数決による判断は最も慎重を期すべきだと思います。

先日の国会での子供手当て法案の質疑でも、与党は数を力に強引に自分たちの法案を通していました。

自民党が政権を握っていた時は、自民党もやはり強引に自分たちの意見を通過させていました。

どちらも『われわれは国民の選良として、政権を付託されているのだ!われわれの政権が嫌なら、選挙で勝ってみろ!』が殺し文句です。

国民の大半は自分たちの代表である国会議員に色々、討議をし尽くして貰い、日本国民の為になる素晴らしい法案を作って欲しいと願っているのだと思います。

しかし時として、その期待は裏切られて仕舞うものです。

幸い我が国は二院制です。

衆議院は現在、民主党が過半数を握っている事は承知の事実です。

これで参議院の過半数を民主党が独占した場合、子供手当て法案の如く、与党の法案が討議もろくにしないで、成立してしまう事になってしまうかも知れないのです。

単に、与党の法案の善し悪しを小生は言っているのでは無く、もっと色々な意見を出し合って討議を尽くして、またそれを国民に全てを見せて欲しいと願っているのです。

参議院は与党以外の党で過半数を確保出来れば、どの党も強引には国会運営が出来ないのですから、国民の前で自分たちの党の意見を国民に分かりやすく説明して呉れるのではないでしょうか。

そうなれば、増税でも夫婦別姓や地方参政権でもトコトン討論して呉れると思います。

年寄りの小生からすれば、社会において『最大多数の最大幸福』なんて有りえない…。

90%以上の人が賛成している場合はともかく、60%程度の人が同じ意見でも、40%の人を切り捨てて良いのでしょうか。

切り捨てるにしても、40%の人が或る程度納得出来るように討論する事が、代議制民主主義の本筋なのではないでしょうか。

衆議院の多数党がA党なら、参議院は別のB党が多数党、衆議院の多数党がB党なら、参議院は別のA党が多数党、これが私の国会論です。

衆議院と参議院議員の数が捻じれている方が、どちらの党にとっても強引な事は避けざるを得ません。

強引にすればする程、野党の方が国民から見て紳士的に感じるに違いないからです。

捻じれている方が国会議員の先生にとっても、強引に法案を通す事が無いので、国民に信頼される事になるので好都合になると思うのですが、如何でしょうか?

さもなくば、参議院議員を政党に所属させない方がよっぽど良いでしょう。

成熟した民主主義とは、多数決のみで全てが決する学級会とは違うのです!

院長の独り言 111 ; 家電が本当に安くなりましたね…

歯科治療の経過写真を撮る為に最新の一眼レフ・デジカメを購入しようと、診療後に息子と2人で家電量販店にブラッと立ち寄ってみました。

多種多様の家電が所狭しと置かれていて思わずビックリするのですが、ふと、その正札を見ると思ったより値段が安いので嬉しくなります。

嘘のような話ですが、昭和26、7年、私が中学生の頃は白黒テレビの21インチ程度のものが20万円もしていたのです…。

今だったら、同じ値段で立派な液晶テレビを買うことが出来るでしょう。

当時のサラリーマンの月給が約1万3千円でしたから、白黒テレビが当時、いかに高かったのか理解出来ると思います。

テレビは超貴重そのものだったのです。

近所のお金持ちがテレビを購入すると瞬く間に周りの家々に知れ渡ってしまい、みんなに自宅に押し入られてしまい、テレビの前を占領されてしまうのです。

今は一人にテレビ一台の時代。

隔世の感が有りますね…。

またカラーテレビは昭和35、6年に初めて発売されたと記憶しているのですが、21インチで50万円以上していたのです。

ラーメン、ざるそばは確か30円だったと記憶しています。

現在は600円程ですから、20倍に値段が上がっているのです。

カラーテレビの値段を単純に20倍にすると、現在の価格で1千万円を超える事になるのです。

当時は食べ物や家賃は確かに今よりズーッと安かったのですが、テレビや自動車の贅沢品は現在の方が全然、安いのです。

大学院生の頃、ある大手総合商社の歯科診療所に週1回、非常勤で歯科治療に行っていました。

患者さんの中に販売担当部長さんがいらしたのですが、売値は原価の10倍にしないと儲からないと教えて呉れました。

カラーテレビが50万円もの値を付けていた頃は売れる数が限られるので、原価は想像以上に掛かっていたものと思われますから、メーカーは出血サービスしていたのかも知れません。

しかしそれでも、我々庶民には全く手の届かなかった存在でした。

その後、われわれ国民が頑張って経済大国になり、カラーテレビは日本中に拡がり、需要が大幅に増えた事で値段はご存じの通り大変、安くなりました。

55、6年前は、食べ物や家賃、銭湯など生活に密接しているものが安くて、家電製品や自動車などいわゆる贅沢品と言われている機械ものが高い世の中でした。

その正反対の家電製品や自動車が安くて、生活必需品にお金が掛かる現代社会が住み易いのか住みにくいのか、考え方はひと其々ですが、小生とすればもう年寄りですから、全ての面で便利になっている現在の方がずっと住み易くなっていると思うのです。

何しろ若い時と違って、食べる量は本当に少なくなってしまいましたし、家賃もゼロです。

普段の生活にはあまりお金が掛からないのです。

しかし、これから日本を背負って立つ若い人が住み易い世の中になって貰いたいと願っているのは勿論の事です。

若い人の事を考えれば、食べ物や家賃など生活するのに絶対必要な、生活必需品が安く済むような世の中の方がきっと良いのでしょう。

あちらが立てばこちらが立たず、こちらが立てばあちらが立たず、世の中、生きていく難しさを感じずにはいられません。

院長の独り言 110 ; 疫痢で命を落としそうになったあの日…

私が2歳半の時に、4歳年上の兄と共に『疫痢(えきり)』と云う恐ろしい病気に感染してしまって二人とも死にそうになった事があったのです。

よく耳にする『赤痢』の重症型を『疫痢』と言って、早く治療しないと命を落とし兼ねないのです。

その当時は良い薬が存在せずに、特に体力の無い幼児が罹患すると致死率が高く、怖い病気の代表格だったのです。

母の話では近所のお婆さんから貰った竹輪を二人が食べた後に急に熱が出て、食べた物を吐いた後にひきつけを起こすなど、大変な事になったのです。

父は仕事で不在の時でしたし、母は動転しながらもタクシーをすぐに呼び、東大病院に二人を運んだのだそうです。

後に母が話していたのですが、担当に当たった医師たちが『これは命が危ない…』と看護婦と囁いていたそうです。

静脈注射は良く聞きますが、その時は我々の心臓が止まりそうだったので、動脈注射を施したとの事です。

普通、医者でも余程の事がない限り、動脈注射は行わないものなのです。

その証拠と言っては何ですが、動脈を確保するための切開の跡が今でも、兄貴共々、腕に痛々しく残っています。

先生や看護婦さんの必死の治療のお陰で、何とか二人とも命を落とさずに済みました。

幼過ぎた私は、自分が死にそうになったなんて全然、記憶に有りませんが兄はよく覚えているそうです。

今だったら『疫痢』は怖い伝染病ですから、隔離をされるなど新聞沙汰になっていたかも知れません。

当時はまだ、ペニシリンやストレプトマイシンなどの抗生物質は一般的で無かったので、この病気で幼い子供が命を落とす場合が多々有ったのです。

発病したその日の朝には、親父が出勤するのを母親に抱かれた幼い私と、その傍にいた兄貴とで、元気に見送りしていたのに、午後2時頃、勤め先に二人の子供が重体だと連絡を受けた父は何が何だかその状況が理解出来ず、さぞかしビックリした事と思います。

直ぐに病院に飛んで来て、父は母の傍らでガタガタ震えていたそうです。

特に、年少で体力のない私の方が危なかったそうで、成人した後にも『お前は心臓が止まって一度死んだのだけれど、お医者さん、看護婦さん、そして、神様に助けて貰ったのだ!』と、父から何度も聞かされ、あの明治生まれの人前では決して涙を見せない頑固親父が徐に涙ぐむのです…。

母に言わせると、親父が泣いた姿を目撃したのは、幼い息子2人の命が医師から『もう大丈夫!』と太鼓判を押された時と、大東亜戦争敗戦の玉音放送を聞いた時の2回だけだったそうです。

独り身の時は、父が眼を潤ませて『疫痢』で大変な目に遭ったと何度も言うのを聞かされて、少々シツコいのではないかと内心思っていたのですが、子供の親になってみると、親父が『疫痢』騒動で、死ぬほど子供の事を心配した親心が分かるようになってきました。

一方、母は比較的冷静に、その当時の有り様を覚えていて、あらためて『女性は強い!』と思ったものです。

院長の独り言 109 ; 時には日常から解き放たれ、旅に出よう!

大学病院に所属していた時の医局の同僚と、一年に一回のゴルフ旅行を兼ねて、先日、日光に久し振りに行って来ました。

初日は東照宮、薬師堂、二荒山神社、輪王寺三仏堂、そして家康の奥宮と参拝したのですが、何しろ階段があまりにも多くて、足の筋肉がヘニャヘニャになってしまいました。

修学旅行中の元気な小学生が何組も来ていて、加えて外国人も大勢、この豪華絢爛たる徳川家の遺産を驚きの眼で見学していました。

三代将軍、家光公の門外不出のお像を現在、開帳しているので、余計に人気があるのだそうです。

東京の多摩から自動車で日光に行くには、ひと昔前までは結構面倒でしたが、今や、中央道~首都高~東北道と高速道路だけで、そのまま日光高速道路に繋がっていて、2時間ほどで目的地の日光についてしまいました。

朝からかなり強い雨が降っていたので、日光に行っても旅館から一歩も出られないのではないかと内心ガッカリしていましたが、現地に到着する頃には雨が嘘のように上がり、青空まで見えてきたのです。

いつも4人で一年に一度、ゴルフをプレーしていたのですが、今回は一人都合により欠席しました。

集まった元同僚3人と『俺たちは普段の行いが良いから日光の神様がほほ笑んでくれたのだ』と、何所かで聞いたような冗談を言い合いながら、快晴の日光を散策できたのです。

東照宮は何度参拝に訪れても、300年以上前に創った建造物には思えない程に煌びやかで、そして荘厳さが失われていないのには本当に驚かされます。

随分前に初めてイタリアを訪れ、ミラノのドーモ(大聖堂)を眼の当たりにした時には、その規模とデザインの華やかさに、異国に来たと云う実感を否応なく感じさせられ、随分、刺激を受けました。

日本には存在しない異質の文化を肌で触れ、積極的に異郷へと旅に出掛ける大切さを思い知ったのです。

それまでは国内旅行が多かったのですが、それから外国旅行へと随分出掛けました。

外国から来ている大勢の観光客も、日光を見て私と同じように思った事でしょう。

翌日も大変天気が良く、霧降カントリークラブでプレーしたのですが、このゴルフ場にはカートが用意されて無かったので、ボールを打った後も歩かなければならず、前日に東照宮の階段を上り下りの難行苦行した後の事でもあり、ラウンド終了後、3人ともがっくり疲れてしまったのです。

小生とすれば、2日間のきつい運動は数年ぶりでしたが、翌日には、いつもの様に患者さんに迷惑を掛けずに診療が出来たので、『まだまだイケるゾ!』と変な自信がついたのでした。

特段に体力に自信を失う理由もないのですが、何となく健康に不安を抱いていた今日この頃、すっかり気を良くしたのです。

たまには無理もするものですね。

院長の独り言 108 ; これからの相撲界に期待!大内山関の想い出

此のところ、毎日のように野球賭博問題で相撲界が大揺れです。

大の相撲ファンとしては、今後どうなるのか心配です。

小生は小学校5年生の頃から相撲の大ファンでした。

羽黒山、鏡里、千代の山など70歳以上の方には懐かしい四股名でしょう。

どの力士も当時の大横綱でした。

昭和25,6年の話です。

私の贔屓にしていた力士はと言うと、自分はマニアック(?)だったので、その当時、人気力士とは言えない大内山と云う幕内力士の中でも飛びぬけの大男、2メートル以上の関取は今でも珍しいのですが、6尺7寸の超長身のお相撲さんの大ファンでした。

アントニオ猪木張りに顎が突き出し、突っ張りを得意技にしていました。

勝つ時も豪快でしたが、身体がデカいので、その負けっぷりは凄まじいものでした。

大内山の取り組みが近づいてくると心臓がドキドキしてくるのです。

今から思えば、何であんなに緊張していたのか自分で理解に苦しみます…。

大内山が勝てば一日嬉しかったし、負ければ意気消沈…。

ホントに馬鹿ですね。

勿論、テレビの放送は無かったので、大内山の取り組み中、ラジオに耳をくっ付けて相撲放送を夢中になって聞いていたものです。

映像の無い時代であったので、お相撲さんの闘う姿を実際に、眼にすることは出来ません。

贔屓の大内山の闘いを頭の中で想像しながら、ラジオの実況アナウンサーの解説を、それも今から思えばオーバーな程の熱のこもった実況放送を、手に汗を握って友達と聞いていました。

テレビで見ているよりラジオの熱狂放送の方が色々想像出来るので却って興奮します。

取り組みが始まると、アナウンサーが『土俵際、危ない!!』と金切り声で強烈に叫びます。

いまテレビで見ていると、そんな場面は殆んど見ることが無いのですから、当時のアナウンサーはこちらが見えないのを良い事に、全くオーバーな放送をしていたのでしょうか。

小生が一生懸命応援した大内山は、結局、横綱になれず仕舞いで引退してしまいました。

それから10年程後、歯科医師になって大学病院で患者さんを毎日忙しく診療していたある日、口腔外科外来に大きな元お相撲さんが患者さんとして来院していました。

歯科の診療椅子に乗れない程の縦横の大きな身体なので、診療している先生がすごく困っていると、看護婦さん達がコソコソ話しているのを小耳にしました。

相撲と云うと眼の無い私ですから、早速、興味半分で見に行ってみました。

チラッと見ただけでその大きな患者さんが今は現役を引退して親方になっている、かつての大内山だと直ぐに分かりました。

年を取っては見えましたが、間違いなく小学生から高校生の頃大ファンだった大内山関でした…。

当時の新聞に記事が出ていましたが、脳下垂体の腫瘍が原因の先端肥大症(末端肥大症)と云う難病で、成長ホルモンの過剰分泌により下顎が大きくなり、上下の歯列が合わなく成ってしまったそうです。

歯列が合わなくなると咬む事が出来ず、食事が出来なくなってしまうのです。

口腔外科で顎を整形する手術を受け咬合を作ってから、無事に食事が出来るようになり、ニコニコ退院して行きました。

全くの奇遇でしたが、大内山関は私の事を知る由も有りません。

でも元大ファンとしては、大内山が無事退院した事に、陰で胸を撫で下ろしたのでした…。

大内山以外に熱中したお相撲さんはそれ以来いませんが、今も大相撲ファンである事には変わり有りません。

現在、野球賭博問題でテレビや新聞などのマスコミ報道では、名古屋場所の取り止めもあると聞きます。

世界に誇る江戸時代からの伝統ある大相撲が破滅しないように、かつて大内山の健康を祈ったように陰から見守っています。

院長の独り言 107 ; デジタル化の今昔

平成に変わる少し前の昭和62年春に、初めてパーソナル・コンピューター(以下、パソコン)なるものを購入しました。

現在のパソコンと比較すると大きさと云い、性能と云い、あまりの違いに今更ながら驚かされます。

まだインターネットや電子メールは一般的では無かった時の事です。

パソコンは、ワープロと電気計算機を足した様なものでした。

ただし、頑張って付属のソフトウェアを駆使すれば単純な図形も描けましたし、更には専用のソフトウェアを購入すれば動画も見る事が可能でした。

値段は安売り店で40万円程度と、かなりの高額であったと記憶しています。

約50年前、大学の医局にいた頃、タイプライターは存在していたのですが、当然ですが英語を書く以外に使用出来ませんでした。

昭和60年頃になってワープロが発売当時よりぐっと安く手に入る様になったので、物は試しと思い、早速、購入して使ってみたところ、病みつきになってしまったのです。

小生は生まれつきのサウスポーの為に、子供の頃に箸の使い方や文字を書く事を、母から強引に右手だけを使うように指導されたのです。

母も左利きでしたが、やはり自分の母親に矯正されたそうで、右手で裁縫でも、包丁を使う事も難無くこなしていました。

特に、字は大変上手に書いていました。

私はと云うと、どうにか右手で箸を使う事は何とかなったのですが、どうしても右手で上手く字を書く事が出来ず、人前で文字を書くのが大変なコンプレックスでした。

自分の字体は小学校から大学までの学生時代、常に印刷の字のような真四角な字を書いて誤魔化していたのです。

書く時間も右利きの人の何倍も掛っていました。

だから和文ワープロを使ってみて、オーバーでなく、字を書くと云う『生まれ出づる悩み』から解消されて、ワープロメーカーに心から感謝したものです。

話を戻しますが、和文ワープロを使い慣れていたので、その当時、発売開始したばかりのパソコンを買う気になったのです。

現在のパソコンしか知らない人は、今から25、6年前の発売初期のパソコンを見た事も無いでしょうが、ものすごく大きい機械でした。

しかしそれでも、50年ほど前に医局にあった電気計算機から比べればビックリする程、小型化していたのです。

大学院生の時の研究で、統計処理を行う時に、電気計算機を使用していたのですが、その大きさは6畳の部屋一杯のものでした。

電気計算機と云う割には計算する時間がかなり掛かり、図体が大きいくせに今のパソコンと比べると何から何まで劣っていて『うどの大木』とはこの事です。

電気計算機から進化した、初期のパソコンは今のそれと比べて大きいと云っても、普通の仕事机の二つ分程度の大きさでした。

その後、インターネット上でのサイトの充実化が進んでから、益々パソコンが大衆化していった事は皆さんご存じの通りです。

今は、ノートパソコンが一台あれば何でも出来るし、世界のあらゆる情報をたちどころに知る事が出来ます。

文を書く事だけではなく、自作のアニメーションや映画を作る事も自由自在です。

独りでいても、パソコンさえ有れば全く退屈しません。

小生も、いま話題のiPadを購入しようと考えています。

身体を使う事がシンドクなってきた自分にとって、大人の玩具と云ったところだからです。

しかし、もし自分が子供の時にパソコンが実在していたらどうだったのだろうかと、この頃ふっと考える事が有ります。

この頃の子供達はゲーム遊びにのめり込んで、身体を使った遊びをあまりしないそうですが、これも世の中がデジタル化したからでしょう。

世の中あまりにもデジタル化して子供の遊びにも及んでくると、何となく空恐ろしく感じてもいます。

やはり小生の本音は、釣りや缶蹴り、水泳、昆虫取りなど、身体を使った田舎遊びの方に熱中している子供の方が、ずっと魅力的に思っているアナログ親父ですね。

平成22年6月27日(日),インプラント治療についての講演を行います.

平成22年6月27日(日)に、(株)ケーオーデンタル城南営業所の主催で、

インプラント治療についての講演会(講演会場は川崎市高津区にて)を行います。

インプラント治療の基礎から、最新の知見までの総覧的な講演会です。

副院長が講師を務めます。

デザインや表面性状など、使用するインプラントに関する知識を深めて頂ければ幸いです。

またケンテック社より、本年9月に発売予定の新しいデザインのインプラント体 『Tapered F-type (テーパード・エフタイプ)』の紹介もします。

F-typeのデザインに比べ、初期固定強化型のデザインとなっています。

軟らかい骨質やスプリットクレストの症例において、より良い初期固定の埋入を実現できるでしょう。

Tapered F-type

近隣の歯科医師、歯科技工士そして歯科衛生士の方々、奮ってご参加ください。

宜しくお願い致します。

20100627講演会

院長の独り言 106 ; 忘年会の幹事は大変だ!

『酒は飲んでも呑まれるな』とよく言われますが、残念ながら呑まれてしまう場合が多いようです…。

私の両親は結構、アルコール好きでした。

特に親父は酒に強く、かなり飲んでも酔って乱れるような事は無かったと記憶しています。

お袋もお酒の量は少ないなりに楽しんでいました。

その両親の子供ですから四人兄弟、お酒が弱いはずが有りません。

まだ両親が元気な頃、お正月、実家に皆が集合して一升瓶を何本も空にしていたのが懐かしくて堪りません。

石川家の酒にまつわる話となると、あまりに多いので枚挙に事欠かないのですが、今思い出しても冷や汗が出る経験もしています。

大学を卒業して臨床系の大学院生として入局したのですが、わが教室の伝統として、新人がその年の忘年会の幹事をやらなければならないのです。

常勤医局員は教授、助教授、講師、助手、大学院生など総勢で20余名、其の外、医局出身の他大学に所属している先生、開業医、勤務医など30余名、併せて50名程度の忘年会となります。

新人だった私が忘年会の幹事を仰せつかったのは、暮れも押し迫った12月の20日頃でした。

当時の助教授に一応相談しながら設定したのですが、まだ学生気分が抜けない私は軽いノリで、池袋の大衆酒場の2階で行う事にしてしまったのです。

当時、医局員全員が『金の無い集団』ですので、安い宴会場は大歓迎だったのですが、先輩の開業医の先生方は会場に入ってくるなり、どの先生も『何だ!この汚い宴会場は!!』、『一年に一回の医局の飲み会を楽しみにして来たのに馬鹿にしているのか!!』と大ブーイングになってしまったのです…。

挙句の果てに、『誰がこんな汚い所に決めたのだ!』と怒鳴りこむ先輩も出てきたのです。

会場は、二十畳程の座敷がふた部屋ぶち抜かれ、そこに細長い卓袱台が10脚程度、無造作に並べられていて、座布団がその下に置かれているのですが、其の座布団をよく見ると、どの座布団にも酒や汁をこぼした後のシミで汚れている始末です。

慌てて私が座布団を裏返して見ると、ビックリ仰天。

もっと汚く大きなシミの跡がついているのです。

おまけに運ばれてきた料理の刺身を見ると、色が黒ずんでいてとてもじゃないけど、生では気持ちが悪くて食べられそうもないのです。

お酒はと云うと二級酒で、燗をしなければ飲めない混ぜ物の薄い代物です。

自分はペーペーの新入医局員、そして忘年会設営の責任者でもあるのです。

幹事として教授に恥をかかせたのではないかと泣きたい気分でしたが、その時、教授が『戦争の時より全然ましだぞ!』と言った後、『このごろは贅沢になり過ぎているから、こんな忘年会も一回くらいいいのではないか…』と助け船を出して呉れたのです。

教授の鶴一声で会場の雰囲気が一変し、先輩の先生方も『戦時中の何も食べられなかった時よりはマシマシ』と、ドンチャン騒ぎに一変したのでした。

先輩後輩も関係なく、医局員も開業医、勤務医も区別なく酒を注いだり注がれたり、刺身は鍋に入れてグツグツ煮て食し、俄然、みなの話は盛り上がり、肩を組んで軍歌を歌い、時の経つのも忘れるほどの大盛り上がりの嘗てない忘年会になってしまったのです。

私にとっては、盛り上がっただけの忘年会ではなく、忘れ難い教訓になりましたが…。

シッチャカメッチャカのその忘年会のお蔭で、幹事で新人の私は、却って先輩の先生方に顔と名前を覚えられてしまい、可愛がられる事となり、後に学会などでバッタリと先輩にお会いした時など親しげに肩を叩かれて酒などをおごって貰ったりもしました。

どの先輩も『もう一度、あんなに和気あいあいの忘年会に出席したい…』と結構、本気で言ってくれましたが、私が医局に在籍中も、その後も、二度とあのようなドンチャン騒ぎの忘年会をした事は有りませんでした。

自分が開業してから出席した忘年会は有名なホテルばかりで、今となっては若気の至り、何も知らずに幹事をしたあの忘年会が忘れ難いのです。

あの時のわが恩師の鈴木賢策教授の嬉しそうな笑顔、当時の医局員の、そして、先輩の先生方の楽しそうな笑顔が今でも忘れ難い記憶として残っています。

院長の独り言 105 ; 小惑星探査機『はやぶさ』の快挙!

全く素晴らしい快挙ですね!

今から7年前の5月に、小惑星『いとかわ』に向けて発射された小惑星探査機『はやぶさ』が地球に無事戻ってきました。

テレビや新聞の報道によると、何度も地球に帰還出来ないのでは無いかと思われるような危機をその都度、担当者の素晴らしい知恵と大変な苦労で乗り越えて、60億㎞の気が遠くなるような距離を飛んで無事に地球に戻って来たのですから、このはやぶさに関わった人達に心から『おめでとう!』と言わせていただきます。

同時に日本人として世界に誇れる気持ちで一杯です。

それにしても、火星以上に遠い、もう少しで木星に行けてしまうと云う小惑星まで往復したのです。

勿論、このように遠い惑星まで探査機を飛ばしたのは世界初ですから、日本人としてこんなに誇らしく嬉しい事は有りません。

日本時間で昨夜11時少し前に、オーストラリアの砂漠に無事に落下した事が確認されたとのことです。

目的地の小惑星の名前が『いとかわ』と日本名です。

日本のロケット開発の父、糸川英夫博士の名前から由来しているのです。

このいとかわ小惑星はアメリカのマサチューセッツ工科大学リンカーン研究所で、1998年に発見されています。

丁度、日本で、この小惑星に向けて探査機を2003年5月に発射に成功し、探査に出発した事を祝して、その年の8月に『いとかわ』と命名されたそうです。

地球と小惑星を往復する距離の60億㎞とは、多分、地球と月を5千回以上往復する距離に匹敵するのではないでしょうか。

確か事業仕分けの時に、科学分野で『日本は2番目でもいいのではないか?』と科学者のプライドをひどく傷つける事を、さる政治家が言っていましたが、やはり科学は世界で一番が特に良いですね。

二番煎じはお茶だって美味くないですよ。

この小惑星往復の快挙は世界中で大変な話題になっていると思います。

現に本日、香港のニュース番組をBS放送で流していましたが、トップニュースは『はやぶさの無事帰還』でした。

それにしても全く、日本人は謙虚な国民ですね。

この快挙を外国にほとんど宣伝することもないですから。

日本人の事を野蛮人とかなんとか言う外国の人がいますが、本当に失礼な話です。

世界で一番礼節を重んじる国なのに…。

もし、その様な失礼な事を言う国があったら、政府は厳重に抗議をして下さい。

あんまり下手に出ていると甘く見られるだけです。

サッカーワールドカップに出ている外国人選手を見ても、日本人選手が気の毒になるほど、ガンガン自己主張している選手ばかりです。

是非、日本選手は気後れしないように頑張って下さい。

まずは今夜の初戦です。

『頑張れ!!日本!!!』

院長の独り言 104 ; むかしむかしのお正月

昨日、お正月の夢を見たのです。

夢の中では突飛で可笑しな状況が展開するので、ビックリする事が多々あります。

こんな夏に季節外れのお正月の夢を見るなんて小生の頭の中は一体どうなっているのですかね…。

その上、昨夜の夢の中では自分がまだ小学生だったのです。

眼が醒めてからも、いやにハッキリ覚えています。

夢の中の事ですが、親父とお袋の若くて元気な姿に久しぶりに会えたので嬉しくなりました。

ついでに、その当時のお正月の事を少々思い出しました。

我が家のお祖父さんの代からの仕来りで、元旦の朝、家族全員食卓を囲み、親父が去年一年間の家族の無事と、今年も各自健康に留意するように訓示をした後、お袋の作った石川家独特のお雑煮を食べるのです。

新しい年を迎えるにあたって、まずお雑煮に入れるお餅の準備を始めます。

その為に毎年12月30日にはお餅をついていました。

親父の弟一家と一緒にお餅をついていたのです。

お袋と叔母さんがもち米を沢山蒸かし、親父と伯父さんが代わる代わるつくのです。

我々子供連中はその周りで歓声を上げながら見ている訳です。

お餅がつき上がると、つきたてのお餅を我々は小さく丸めて、口一杯に頬張るのが毎年の楽しみでした。

砂糖や醤油をつけて、ムチムチ出来立ての柔らかいお餅を、皆で食べるのは子供にとって、それはそれは楽しいひと時だったのです。

沢山お餅が出来るので、近所にお裾分けするのは勿論の事です。

近所の人たちも餅つきをニコニコして、遠まきにして見ていて、時には若い力自慢のお兄ちゃんが餅をつくのを手伝って呉れたものです。

そうこうして、やがて大晦日になると、今度は何処の家でも大掃除をするのです。

石川家も親父、お袋、そして、我々子供も総動員でやりました。

一年の裡で、障子を滅茶苦茶に破いても良い唯一の日だったので、我々兄弟は障子を破りまくって、手伝いと云うよりは両親の掃除を邪魔しているようなものであったかも知れません。

いつも厳しい親父もおどけて一緒になってバリバリ破いて、お袋に注意を受けていました。

障子をマッサラにすると、いよいよ明日はお正月だなと緊張したものです。

神棚、そして、母の実家がお寺さんと云う事もあって、小さい我が家に不似合いなほど大きな仏壇をまず綺麗に掃除をし、その後、台所や居間などを片付けるのです。

最後に神棚や玄関などにお飾りを仕立て、新しい年を迎える準備が整います。

大掃除の疲れを吹き飛ばす為に、夕食はすき焼きを食べる慣わしでした。

そして新年を迎えて、12月30日に皆でついた出来たてのお餅の入ったお雑煮を食べると云う段取りです。

また、お正月の楽しみで忘れられないのは、お年玉です。

小額でしたが、それでも嬉しかったものです。

60年前のお正月は今と違って、元旦から七日までは、一切、お店は商売をしていませんでした。

従って、大晦日までに一週間分の食料を買い込んでおかないと、それこそ喰い逸れてしまうのです。

前日の大晦日までは大変な喧騒の中で、近所の商店街も、丁度、現在の御徒町の様に大勢の人でごった返していたのが、元旦を迎えると嘘のような静けさです。

シーンと街全体が静まり返ります。

大晦日と元旦の違いは喧騒と静寂、そのギャップは全く感嘆に値します!

現在では絶対経験出来ません。

『新しい年を迎えたのだ…』と、子供ながらに再び、神妙な気持ちになったものです。

靖国神社、明治神宮など神社だけが対照的に、初詣をする人達で大賑いですが、勿論、デパートも休業していました。

今は元旦からファミリーレストランでもコンビニでも何処でも商売をしています。

大晦日も正月も、普段の日と殆ど変りません。

昨夜、60年前のお正月の夢を見て、あの静かなお正月を懐かしく思ったのでした。

院長の独り言 103 ; われわれモンゴロイドの社会的定年は、現行の10年先で良い!

モンゴル人種(日本人、中国人、韓国人などのモンゴロイド)は脳の成長が止まるのは、ヨーロッパ人種(イギリス人、ドイツ人、フランス人などのコーカソイド)と比較すると10年位、遅れるそうです。

もう少し具体的に説明すれば、ヨーロッパ人は、20歳前後で大人の考えが出来るようになるのに、モンゴル人はまだ成長過程(未成熟、ネオテニー)にあると云う事です。

モンゴル人種、われわれ日本人もそうですが、大人の考えが出来るようになるには10年位先の30歳前後になってからと言われています。

脳が成熟するのにヨーロッパ人種は20年程度の時間で済むところ、モンゴル人種は30年程度の時間が必要なのです。

別に、モンゴル人種がヨーロッパ人種より脳が劣っていると言っている訳では勿論有りません。

脳の成長に時間が掛ると云う事です。

テレビや新聞などで見ていると、アメリカやイギリスの指導者たちは、日本人の指導者と比較して若いのに驚きますが、人間の成長を生理的に考慮すれば、前者が40歳代であれば、後者は60歳代でも心配ないと云う事です。

勿論、個人差はあるでしょうが。

つまり、日本人などモンゴル人種はヨーロッパ人種より大器晩成の人が多いと云う事です。

我々はどっしり構えて、ゆっくりと自身の成長を楽しめば良いのではないですか。

近頃、話題になっている選挙権を既成の20歳より、もっと早く18歳にする事などは、あまり考えない方が良いような気がするのですが…。

親御さんも20歳位で子供の将来など判断するのはもっての外で、早計と云うものです。

子供の成長をじっくりと見守ってあげるのも親の仕事、焦らない事だと思います。

よく昔の人と比較すると年齢の八掛けがその人の本当の年齢だと言われていますが、これは昔の人ではなく、ヨーロッパ人と比べた時と言い換えるのが正しい表現ではないでしょうか。

石川歯科医院に30年も前から治療に来られている患者さんが次から次に定年を迎えるのですが、皆さんお元気で、とてもじゃないですが、社会的に引退なんかする必要も無い感じです。

一言で云えば、仕事を辞めてしまうのは本当に勿体ないと断言出来ます。

お給料がたとえ少し安くなっても、家族や会社の為に、そして、自分の生きがいにもなるのですから、退職しないで是非続けて働いて貰いたいものです。

生理的にはヨーロッパの人より、10年は定年を遅らせて当然だと思うからです。

色々学んできた40年の経験を60歳で切り捨ててしまうのは如何にも勿体ない気がして為りません。

長い間苦労して積み重ねてきた経験と云う宝物を生かす事が、本人にとっても、社会にとっても、そして、会社にも国にも大変有意義な事ではないでしょうか。

何も還暦なったと云っても、急に老けこむ事もないでしょう。

もし仕事は辞めても、趣味を探して元気に行動すべきです。

われわれモンゴル系は、少なく見積もっても70歳が定年です。

院長の独り言 102 ; 霧の中の写楽

前回のブログで珍しい浮世絵画を日本ではなく、フランスで観て驚いた話をしましたので、ついでに、もう少し浮世絵の話をしたいと思います。

安藤広重や喜多川歌麿は浮世絵師として大変有名ですが、東洲斎写楽はどうですか?

江戸後期の浮世絵師で、歌舞伎役者の肖像画を中心に10か月程度の短い期間に、約百四五十枚の浮世絵を書いて、忽然と消息を絶った人物です。

謎の浮世絵師と云われる所以です。

当然、生没年は不明で、写楽がどの様な浮世絵師だったのかも、はっきり分かっていません。

ただ描いた浮世絵が残っているのですから、実在していた事は確かです。

ドイツ人のある美術評論家がレンブランド、ベラスケスと並んで写楽を世界三大肖像画家の一人であると評した事で、大正時代に日本で急に脚光を浴びる事となったのです。

写楽がどのような人物なのか分からない為、後世の作家や学者などが色々推理をしています。

阿波の能役者、斉藤十郎兵衛が一番の候補者ですが、確定した訳では有りません。

当時の有名な浮世絵師の葛飾北斎、喜多川歌麿、歌川豊国、掛け軸などで有名な絵師の谷文晁、丸山応挙、作家の十返舎一九と云った江戸時代後期の現在でも名の通った颯爽たるメンバーが写楽の候補に上って、現在でも喧々諤々、写楽が誰なのか浮世絵ファンを中心に沢山の人が推理して楽しんでいるのです。

ところで、小生は写楽が誰なのかと云う事にはあまり関心を持っている訳では有りません。

以前から思っていたのですが、葛飾北斎の北斎に『あ』を一字加えると『あほくさい』となり、東洲斎写楽の写楽に『さい』を足すと『しゃらくさい』です。

写楽と云う人は、この北斎の『あほくさい』に呼応するように『しゃらくさい』と洒落て名乗ったので、本当の名前を名乗る事を避けたのではないでしょうか。

江戸の文化は粋(いき)の文化です。

余程、洒落っ気のある人物がその当時、浮世絵師として一番売れていた一人の葛飾北斎を鹹かって東洲斎写楽とふざけたのかも知れないと私もふざけてみました。

この話は私の作った戯言(たわごと)ですよ。

本気にしないで下さい。

そう云えば、モネの館にも沢山の浮世絵に混じって、写楽の浮世絵が展示されていたような気がします。

これだけ世界的に謎めいた楽しみを与える東洲斎写楽と云う人物、あの世で今頃笑っているのではないですか。

院長の独り言 101 ; オルセー美術館展2010に行きたくて…

5月末から8月半ばまで、東京六本木の国立新美術館でオルセー美術館展2010を開催する事を知って、是非、もう一度オルセーの秘蔵絵画を鑑賞したくなりました。

パリのオルセー美術館には一度、ルーブル美術館には二度行っています。

以前のブログにも書きましたが、小学生の頃、担任の先生に『絵が上手い!』とおだてられて、大して上手くもないのに絵を描く事や鑑賞する事が好きになってしまったのです。

初めてパリを訪れた時に、以前からどうしても行きたいと思っていたルーブルとオルセー美術館を早速訪れ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ルノワール、ゴーギャンなど、世界的に名の知られている画家の素晴らしい絵画を、家内と二人で堪能してきました。

二度目のフランス旅行の時は、ルーブル美術館を訪れた次いでに、ジヴェルニーのモネの庭も見学してきました。

そのモネの館で一番驚いた事は、広重、歌麿などの描いた有名な浮世絵が沢山展示されていた事です。

モネがジャポニズムの影響を受けている事は側聞していましたが、日本の美術館では見た事もない珍しい浮世絵をまさかフランスで多く観るとは思いも及びませんでした。

本当に、世界は広いようで狭いものだと感に入ると同時に、日本芸術が印象派に大変な影響を与えていた事をあらためて実感して、嬉しく思った次第です。

素晴らしい景色や由緒ある建物、そして、心を打たれる絵画や彫刻などの美術品は、同じものを何度見ても、感動してしまいます。

今度は東京でオルセー美術館秘蔵の有名な作品を鑑賞出来るので、直ぐにでも見に行きたいのですが、思いは皆同じようで、大変な混雑との事…。

少し様子を見て、空くのを待っている状態です。

若い頃は、どちらかと云うと写実的な精密画に心動かされたものです。

カラー写真のように、あるいはそれ以上に精密に描くのを観て、人間業ではないと思って感心していましたし、それを描いた画家の事を自分では絶対に描く事は出来ない別の世界の人と思っていました。

ところが、横山大観やピカソの抽象画は、不遜にも自分でも似たように描けるのではないかと内心思っていたのです。

ある時、大観やピカソが若い頃に描いた絵を偶然に美術本で観た時に、自分の浅はかさに恥ずかしく、大笑いしたのでした。

彼ら大家は、若い頃には素晴らしく、そして大変魅力的な写実絵を一杯描いている事が分かったのです。

無知と云う事ほど恐ろしい事は有りませんね…。

ピカソや大観は、若い頃、寝るのも忘れるぐらい絵の勉強をして、十分な基礎が出来た上で、自分なりに試行錯誤を繰り返し、あのような抽象画を描くようになったのでしょう。

初めからあのような摩訶不思議な絵を描いていた訳ではないのです。

初めからあのような抽象画を描いていたら、世界的に称賛される画家には成り得ないのだと、ツクヅク思いました。

抽象画の大家は、絵の勉強は勿論、きっと絵を描く以外の諸々の人生勉強も沢山したから大成したのでしょう。

結果は後からついてくるものなのです。

何事も大変な苦労と努力の上に、他人が認める成功が有るのだと思います。

まったく『ローマは一日にして成らず』ですね。

院長の独り言 100 ; ブログ更新100回の節目に、友を、妻を、両親をおもう…

昨日、大学の同級生3人と千葉県一宮カントリー倶楽部でゴルフを楽しんできました。

楽しんできたと云うよりプレーそのものは難行苦行と云うべきでしょう。

結局、4人ともスコア100を切れず、情けない結果となったのです…。

プレーは兎も角、1か月に一回、4人で色々駄弁る事が本当に楽しいのです。

大学を卒業した後に4人とも臨床系の大学院に入り学位を貰った後、文部教官として学生指導をし研究や治療など一緒にやってきたので、気心知れた生涯の親友と云ったところです。

若い頃は、自分で言うのもオコガマシイのですが、四人とも身体も顔も引き締まっていたものです。この頃は腹も出てきて、皆まともな体とは言えなくなってしまいました。

しかし、お互いに気持だけは若い者に負けないように頑張ろうと言いつつ、無理だけは避けて健康に気を配り、下手でもゴルフを毎月1回、続ける事で意見が一致したのです。

今回も他人には言えない諸々の話を時間が経つのを忘れて駄弁り、また、お互い元気で1カ月後に会える事を楽しみにして家路につきました。

仲の良い友達は同業の先輩や同僚、同じ医局出身の先生、そして全く仕事に関係のない畑違いの人など一杯で、小生は本当に友達には恵まれています。

でも、生涯の親友と云う事になると、私にとっては家内でしょう。

結婚してから辛い事、苦しい事、そして、楽しい事など色々な経験を共有してきたと云う事は親より長い付き合いなのですから当然と言えば当然の事です。

他人から見れば、どう云う夫婦に見えているのか分かりませんが、我々夫婦はお互いを人生の親友だと思って生活しているのです。

自分が70歳を超えた今、親を思い出し、両親は戦前戦中戦後と大波乱の人生の中、時代の波に翻弄されながら4人の子供を育て上げるなど、親友以上の気持ちで緊張しながら家庭を築いていたと思うと感無量と云ったところです。

親から比べれば、人生、さざ波程度で、自分達は基本的には平和に暮らすことが出来たのですから大きな神の力に感謝しています。

これからも、日本が、そして世界の人が平和に幸せに生活出来る事を祈るのみです。

院長の独り言 99 ; 普段は意識しない『国と云う概念』

国と云う概念、皆さんはどう思っていますか?

一番簡単で卑近に考えるに、もし地球が一つの国だとしたら、まずオリンピックやいま開催前から世界中で話題になっているワールドカップサッカー大会の試合などが、国体のようになってしまい、全然盛り上がらなくなってしまうでしょう。

以前のブログでも少し触れましたが、国同士は仲良く付き合うのは当たり前として、良好な外交関係にはある程度の排他性が絶対不可欠な前提だと言いたいのです。

勿論、お互いの内政は不干渉なのは言うまでも有りません。

ヨーロッパの国が有り、アフリカの国が有り、アジアの国が有り、両アメリカ大陸の国が存在し、社会主義国家や資本主義国家が地球上に存在します。

ユニークで独特な国が沢山存在するので色々な面白い発見も出来、自分の国では想像できない、心踊らされる発見が出来るのではないでしょうか。

スポーツの試合でも国と国がぶつかり合うから手に汗を握って興奮しながら観戦出来るのではと思います。

そこには理屈抜きの心底からの愛国感情が、自然と湧き立ちます。

日本国は日本人だけのものです。

イギリスはイギリス人だけのものです。

中国は中国人だけのものです。

どこの国もそこの国民だけのものに決まっています。

現に、他国民が国政に参加できる国は、ほとんど存在しないのです。

『日本は日本人だけのモノではない』

…冗談じゃないですよ。

お互いの国を旅行したり、長期滞在する事は、お互いの条約で仲良く決めれば問題ないでしょう。

時には国同士が衝突する事を避けられない場合も有りますが、人間は考える葦です。

その時は、外交手段を用いて解決すべきです。

近所同士でも場合によっては争いごとが起きる事も有るのです。

人間は生身の血の通った動物なのですから、ただ綺麗事だけでは上手くいくとは限りません。

実行力を持った解決手段を何も持たず、ただ話し合いのみで解決できると信じるほど、性善説に依ることはできません。

現実に、世界中どの国にも軍隊が存在します。

別に戦争を望むわけではありません。

逆に戦争に対する抑止力として、軍隊が必要と云う事です。

国の根幹は国民と国土です。

何処の国の国民も自国に誇りを持って生活を営んでいるのですから、その国土は心の拠り所です。

国土を侵される事は誇りを汚されるのと同じでしょう。

日本に来ている異国の人に『自分の生まれた国をどう思っていますか?』の問いに、まず全員が『誇りに感じている!』と答えますよ。

日本では、よく自分の国を卑下し、公然と自分の生まれた国、日本を嫌いだと発言している識者をテレビで見る事が有りますが、私には信じられません。

何処の国の人も自国は愛おしいに決まっているし、誇りに思っています。

たとえ傍から見ると変な国に見えても、その国の人にとっては、素晴らしい国なのです。

毎年、BBCが行っている調査によっても、我が国は『世界に良い影響を与えている国』であると多くの異国の人達が認めて呉れているのです。

いくら冗談にしても、自分の国を嫌いだなどと言って貰いたくないのです。

少し興奮し過ぎですかね?

院長の独り言 98 ; 毎夕、銭湯に通った頃

私が小学生の頃、殆どの家庭に内風呂は無かったのです。

毎日、学校から帰ってから、外で遊んだ後、夕方前に近所の友達たち数人と銭湯に行っていました。

その一団の学年はまちまちで、一年生から六年生まで、場合によっては中学生も混じっていたのです。

いつも外で昆虫採集や三角ベースなど、身体を汚す遊びばかりしていたので、どうしても毎日、風呂に入らざるを得ないのです。

銭湯に行くのは、遊びの延長みたいなものだったので、それはそれで結構楽しいものでした。

今では考えられない事ですが、風呂代はその時代の物価と比較しても大変安かったのです。

また、早い時間帯のため、まだ大人は誰も来ていないので、格好の子供の遊び場となっていました。

大人は戦後の混乱期と云う事もあって、みんな遅くまで一生懸命働かなければならなかったので、夜遅くなってから銭湯に行っていました。

そう云った訳でわれわれ子供達以外、誰も入っていないので、熱い風呂にジャンジャン水を足して、ぬるくした後に潜ったりして遊んでいました。

ところがたまに、年配の頑固そうなお爺さんが先に入っている時には、全く閉口します。

何しろ、風呂のお湯をぬるくさせないのです。

水を足そうとすると『こら!』と、怒鳴られてしまうのです。

そう云う時には熱すぎて子供には湯船にゆっくり入る事が出来ず、仕方が無いので、身体を洗うだけにして、しょんぼり帰る事になるのです。

今と違い、小さい時から上級生も下級生も裸の付き合いをしていたので、陰惨ないじめなどは全くと言って良いほど有りませんでした。

一寸したいじめでも、必ず上級生が止めていたのです。

このごろは、どこの家にも内風呂が有る世の中です。

銭湯も少なくなってしまいました。

少年時代の自然な裸の付き合いも消滅してしまった事もいじめが大変増加している原因の一つかも知れません。

大人も子供も、時には裸の付き合いは大切ですぞ。

院長の独り言 97 ; 当世子育て事情

結婚して子供が授かると殆どの父親は、その子の将来の成功を祈って、出来るだけ幸運を掴める良い名前を…と、良い字画を解説するその種の本を何冊も買い込むものです。

自分が一生懸命寝ずに考えてつけた名前が、運の良くない名前だと運勢の本に載っていたら、一生、子供や母親に嫌味を言われてしまいそうです。

子供が順風満帆であれば問題ないのですが、人間は良い時ばかりではない訳ですから、ツイていない時など父親のつけた名前のせいにされそうです。

父親に出来る精一杯のサービスは、運勢の本を買ってきて、必死に字画を数えて縁起の良い名前を、生まれてくる子供だけでなく奥さんの為にも無い知恵を絞って考える事なのです。

特に男は出産時、それ位しか協力する術が無いからです。

何せ、女性と違い、男性は子供が生まれてくるのを唯、ドキドキしながら、日に日に奥さんのおなかが大きく成長していくのを見ている以外、全く為す術が無いのです。

何でも良いから役に立ちたいと焦ってしまうものです。

母親にもうすぐなる奥さんの落ち着いて平然としている姿とは対照的に、父親になる旦那の方はと云うと心配そうにソワソワしているだけなのです。

ここで夫婦の力関係が殆ど決まってしまう気がします。

子供の誕生をキッカケに女性上位となる場合も多いようです。

皆さんの場合は違いますか?

さらに、一般的に父親は外で働きますから、子供に身近で働いている姿を見せる事が出来るのは母親だけです。

子供の時は『お母さんは休日が無くて、大変だな~』と思うし、お父さんは家ではいつもゴロゴロしているばかりで、子供にとってみれば『お母さんを召使のように使って、お父さんは全く楽だな…』と思えるでしょう。

しかし、ある時期までは子供は確かに母親側についているものですが、成人して世間の荒波を経験してくると、そうでも無くなってきます。

男女を問わず子供は、父親の重要な存在と役割が理解出来てくるのです。

まあ、『そうであって貰いたい…』と願望します。

事実、家の中では頼りなさそうな父親が職場で働いている颯爽とした姿を見れば、子供の目が輝き、父親に対するイメージが180度変換して尊敬の眼差しになっていくと云うテレビ番組を見た事が有ります。

特に我が家の場合は、子供が自分で働き始めて、他人の飯を食うようになると、余計に父親の大変さが理解出来たようです。

やはり子供の時に、外で働いている父親の姿を一度は見て欲しいと思います。

きっと子供が社会人になった時、特に辛い時に、父親の働いている姿を思い出して頑張る勇気が出てくるのではないでしょうか。

小生も子供の時は、日曜日の父親は朝からズーッと寝ていたと云う記憶ばかりで、そばで騒ぐと母親が『お父さんを起こしてはダメ!』と我々子供たちに注意していた事を思い出します。

今から思えば本当に、親父は仕事でクタクタになっていたのでしょう。

ところが現在は社会の構造が変化し、私の子供の頃と違い夫婦共働きの家庭が多くなってきています。

外の仕事でクタクタになっているのは夫婦お互い様と云った感じです。

ですから、もし夫が自宅で家事を手伝わないとしたら、妻の負担はあまりにも多大だと云う事ですね。

夫婦とも仕事でクタクタになってしまうでしょうから、子供の世話やしつけが少しお座なりになっても、止むを得ないといった感じでしょうか。

子供達の将来が少し心配になってしまいます。

まあ、子供の名前に字画だ、またその手相だなど、関係無い関係無い。

幼児虐待など子供に対する厳しい報道を多く耳にする昨今、お忙しいでしょうけれど子供のあるご夫婦は、なるべく愛情をもって子育てをしてくれる事を祈って止みません。