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院長の独り言 151 ; そして我が祖国は…。東欧から帰国して

今回、東欧を旅行してきてそこに住んでいる人々を見て思った事は、どの国民も物事に対する喜怒哀楽は当然、我々と同じという事です。

ところが『われわれ日本人とは全然、違うな』と感じた事が有ります。

それは、国に対する誇り、言葉を変えれば国に対する愛情の持ち方です。

今回の旅行で訪れた東欧の国々は、日本と比べれば、その規模は明らかに小さい国ばかりです。

しかし、ガイドさんもホテルの従業員もバスの運転手もお土産屋の店員も、今回の旅行で触れあった皆さん全員、自分の国に誇りと愛情を持っていました。

一寸した行動にも、自ずとそれが出て来ます。

国の欠点を指摘すれば、自分の事を悪く言われたように、執拗に反論してきます。

勿論、われわれ日本人も祖国に誇りと愛情を持っている人が多いのは分かっていますが、自分の国の悪口を言われても本気で怒る人は非常に稀です。

ちなみに、血の気の多い小生は本気で怒りますが…。

話は変わりますが、代議制民主主義の下、衆議院と参議院を構成している全ての国会議員は、日本国の国民に選ばれた所謂、『選良』です。

そこで私がこの『選良』である国会議員の先生方に最も要望したい事が一つだけ有ります。

主義主張はそれぞれの党などによって異なるのは当然ですが、全ての議員の方に共通して言える事は、国会で議論するに当たり、その根底に『日本国とその国民を愛する心』が無ければならないという事ではないでしょうか。

何度も述べますが、どの党の議員でも日本国民から選ばれた『選民』です。

国連とは違い、様々な国がそれぞれの国益を主張する場所とは違うのです。

党派など関係無く、まず共通している事は日本国民の代表なのです。

社会主義だろうが資本主義だろうが共産主義だろうが、右も左も、リベラルも保守も、国会議員の先生方がどんな主義、主張を展開するのでも、その原点は、まず『日本を愛する』事が前提に無ければならないと思うのです。

日本国民が幸せになる事を第一に考えて、何事も議論し合うべきです。

日本が嫌いだとか、国家に不利益をもたらす様な行動を取る人には、どの党からも国会議員として立候補して貰いたく無いと思います。

何処の党など関係なく、自国に不利益となる様な事を言う国会議員は、日本国の国会議員とは言えないと思うのです。

これは、決して全体国家主義では有りません。

今回、旅行してつくづく感じたのですが、東欧諸国の人々は少し貧しくても、祖国に誇りと愛情を持って行動しているのです。

ましてや、何処の国の国会議員でも主義主張関係無く、まず自国の利益を考えて行動する事は当り前の事です。

国会議員は国益をいつも考えなければならない。

国民の代表そのものなのですから当然です。

外交交渉の場においては、アメリカでも中国でも韓国でも何処の国の議員でも、祖国を代表して、取り敢えず自分の主義は二の次にして、国益を第一に行動しているのに、我が国の一部の国会議員は、まず相手の国の立場を考慮して行動している様に見えてしょうが無いのですが…。

挙句は、『自分は地球市民である!』などと世迷言まで繰り出す始末です。

日本の国会議員は、日本国民に愛情を持って、親身になって国政について国会で討論すべきで、その前提さえ有れば、国民はどのような結果でも納得出来ると思うのです。

何も無茶苦茶な道理の通らない議論を国民は望んでいるのでは無いのです。

過去、小生の中国人の友人が『日本の国会議員はいつも外国に謝っているのが不思議でしょうがない…』と言っていました。

その善し悪しは兎も角、交渉においては謝ってしまった方が負けだとその中国の友達は強調していました。

一方、日本の首相や大臣は、『靖国神社で再会しよう』と御国の為に戦って死んでいった青年の魂には献花せず、外国の戦死者には献花するとは信じられません…。

百歩譲っても、両者に献花すべきではないでしょうか。

日本政府は外国に謝罪する前に、日本国のこれまでの歴史と、これからの将来に禍根を残さないかをじっくりと熟考し判断して欲しいのです。

外交は国と国のぶつかり合いです。

65年前の大東亜戦争の謝罪をする前に、まずトコトン、国会で何故戦争に突入したのか、その原因や理由を超党派で話合う事から始めるべきではないでしょうか。

その結果の良否、主張すべきは堂々と主張すれば良いと思います。

外交相手の一時的な相好の好転を願った、小手先の外交は厳に慎むべきでしょう。

討論、議論を無くして、外交方針を決めてしまって良いのでしょうか。

将来、子供や孫の時代になって、祖国の栄誉を失う事にならなければ良いのですが…。

本当に、第二次世界大戦後の日本の外交表現は正しかったのでしょうか。

原爆を落とされ、国は焦土と化し、何百万人もの犠牲者を出し、今に至るまで、ただ日本だけが悪い悪いと言われ続けなければならない屈辱感を払って呉れるのが、党派など関係無い国会議員の先生方の役目ではないのかと思うのです。

この役目ばかりは他の人に代わりは出来ません。

一つでも肯定出来る事が有ったら、世界の人に正確に説明して主張すべきは主張すべきではないでしょうか。

第二次世界大戦の責任について、他の国の人が言うなら兎も角、日本の国会議員やマスコミが『全部、日本が悪かった!悪かった!』と言っているのでは、何も責任の無い将来の子供達に劣等感だけを植え付ける事になり、可哀そうでなりません。

国会議員やマスコミは率先して、我が国の弁護士役を買い、日本が止むに止まれず、大戦に突入してしまった経緯を、外国に詳細に説明すべきではないでしょうか。

インドやマレーシアなど一部の国々では、その経緯を理解されている向きもあります。

当時、帝国主義が跋扈し、しかもABCD包囲網において『窮鼠猫を咬む』で、間違った事ばかりをしていたとは思えないのです。

以前のブログにも書きましたが、あの時の世界史(明治から昭和まで)を、日本国は早急に冷静に、そして正確に総括をすべきです。

あれだけの犠牲を払っているのです。

なぜ負けると分かっている無謀と思われる戦争をしたのか、その多因子的な原因を、国民は殆ど教育されていないから不思議です。

私も戦争犠牲者の端くれと言って良いでしょう。

日本が何故、あの戦争に突入したのか。

本当にあの戦争の悪は、全て日本だけに有るのか。

ただ謝るだけで恐れ入っているだけで、外国に永遠に何も言えないのか。

あの戦争の結果、アジアやアフリカの国々が何故、独立していったのか。

それに反比例するように、ヨーロッパの国々が何故、国力を落としていったのか。

以上の事に関して、日本国民は本当の事を知る権利が有ると思うのです。

民主党、公明党、共産党、自民党などの党派を離れ、国会議員は日本国民の一番の味方だと自分は信じています。

外国に謝罪するだけで無く、少しでも正当性が考えられたら国民の為に堂々と主張すべき点は主張して欲しいのです。

謝る事なら誰でも出来るのと違いますか。

国会議員の皆さん、あなた達は日本国民の事を信頼していますか。

皆さんは、その国民から選ばれた『選良』なのですよ。

日本国の名誉を捨てて、日本国民を信じられずに、国民を幸せにする政治が出来るのですか。

院長の独り言 150 ; 東欧への旅 第8日目-そして帰国…-

いよいよ帰国です。

プラハは9月23日(木)朝8時半にインターコンチネンタルホテルを出発。

ルズィニェ空港に到着後、チェックイン。

先ず、中継空港のヘルシンキに向かい、フィンランド航空AY716便で正午少し前に離陸、天気は快晴。

青空

ジェット機の窓から、下界に延々と続く田園が、箱庭のように小さく綺麗に見渡せます。

空から...

快適なフライトで、無事に午後2時40分にヘルシンキに到着し、毎度のセキュリティーチェックと出国審査を受けました。

この空港はヨーロッパ各地からの日本へのトランジット空港の一つのようで、成田行きの待合室には、日本人が多数、帰国の為に集結しています。

行きと同型の飛行機AY73便で成田に向かって、夕方5時15分離陸しました。

飛行機

途中、気流の関係で、何度か強く揺れましたが、全体のフライトとしては、安定した乗り心地でした。

機内で

成田空港に着いたのは9月24日(金)の朝9時、フィンランドと日本との時差は6時間なので、ヨーロッパは今頃、真夜中と云う事になります。

歳が歳なので、帰国第一声は『やれやれ…』という安堵の気持ちです。

先ず、頭の中に浮かんで来たのは『寿司が食べたい』『ラーメン、うどん、そばが食べたい』、そして一番食べたいのは炊きたてのご飯とみそ汁、お新香。

全く小生は、頭にバカの付いた日本人そのものです。

それにしても、食欲が一番とは情けない限りです…。

10日振りに我が家に帰ってみると、東欧のあちこちに行って来た場所や食べた物などが、走馬灯の様に脳の中を駆け巡り、ブタペストやクルムロフやプラハのお城、ウィーンやプラハ、ブタペストのレストランなど一週間前に行動して来た事が、脳の中でゴチャゴチャになってしまい、何がなんだか分からなくなってしまうのです。

理由は頭も鈍くなって来ているのも確かですが、何しろハンガリーもスロバキアもオーストリーもチェコもみんな、街並みも食べ物も似ているのです。

良くぞ、疲れていても眠くても、毎日、寝る前に一日の行動をメモしていたものだと、我ながら自分を褒めたい気分です…(誰かの物まねですね)。

このブログも何とか書けているのも、面倒がらずに、寝る前に毎日の出来事を、丁寧にメモしていたお陰です。

若い頃は、記憶力は結構良かった方なので、手帳などは無用の物でしたが、還暦を迎える頃からは、一寸した事でも何でも手帳に記録していないと、『忘却の彼方に…』現象と言ったところです。

加えて、今回、訪れた4カ国は見分けの付きにくいくらい、似たような街並みなので、余計に旅の記憶がゴチャゴチャになってしまいました。

メモする事と写真を撮る事の大切さを、今回のツアーほど痛感した事は有りません。

大いに遊んで来たので、帰国後の2日間、土曜日と日曜日に休養した後、月曜日から何時もの様に頑張って診療に励みます。

私が今回の旅行で一番感じた事は、何処の国の人もみんな、同じような事を考えていると云う事でした。

当たり前ですが、我々が楽しい事は何処の国の人も楽しいし、我々が腹立たしい事は何処の国の人も腹立たしいし、我々が悲しい事は何処の国の人も悲しいに決まっています。

美味しい物を食べている時に悲しい顔は有りませんし、名画を見ている目は、どの国の人も真剣です。

異国の文化に触れる事も勿論、大切です。

しかし、異国の人の心に接する事が、それ以上に大切と云う事を感じた10日間の旅でした。

楽しかった東欧旅行

(今回のブログで『東欧への旅』は最終回です)

院長の独り言 149 ; 東欧への旅 第7日目の夜編-プラハでオペラ鑑賞-

ツアー最終日です。

本日は終日フリータイムなので、朝8時にユックリと起きて、先ず八王子の石川歯科医院に電話を入れてみました。

留守番の若いドクターとスタッフ達の元気な声を聞けたので、『これでひと安心…』と胸を撫で下ろしました。

何しろ、小生だけが休暇を取って海外旅行をしているので、気が引けるのです…。

まあ、この歳まで歯科医師として頑張ってきたご褒美としては、嬉しい限りですが。

出発前、10日間のツアーは長いと思っていたのですが、早いもので、もう今日が最終日になってしまいました。

当地の朝8時は、日本の八王子では午後3時です。

治療の真っ最中との事なので、診療の邪魔にならないように『明日、プラハからヘルシンキ経由で日本に帰ります!』と告げて、電話を切りました。

それから何時ものように、ホテルのバイキングの朝食に行ったのです。

午前中は十分に休み、午前10時半頃にホテルを出て、ブランド通りを歩いて広場に行き、仕事を頑張っているスタッフへのお土産を買う算段です。

1時間程度費やしてお土産を買いましたが、皆が気に入って呉れると良いのですが…。

プラハ滞在3日目なので、広場の何処に美味しいレストランが在るとか、薬局が何処だとか、お土産屋やスーパーは何処にあるだとか…、街にかなり馴染んだ感じです。

馴染み次いでに、昼食の為にボルダ川とプラハ城が綺麗に見えるレストランを見つけたので、そこで食事を摂る事にしたのです。

レストランの窓側の席から見える景色を肴に、昼食を摂る事が出来て大満足。

そしてツアー最終日に、日本から予約していた夕方のオペラ観劇を楽しみに、着て行く服装などの準備のため、ホテルにイソイソと戻ったのです。

今回のツアー仲間でこのオペラを見に行く人は、われわれ家族以外いません。

私はと云うと、茶色の背広に用意してきたネクタイを締めて、少し普段よりカッコをつけ、意気込んでオペラ座に向いました。

国立オペラ座にはホテルからタクシーに乗り、15分程で到着。

6時半開演のところ、6時前には劇場の前に立っていたのです。

意気込んで行ったのですが、オペラ座に着いてみると、シーンとしていて誰もいません。

予約の日を間違えるはずも無く、兎も角、オペラ座が開場するのを待つしかありません。

6時15分頃に数人が劇場の前にパラパラと集まって来た頃、正門の扉がおもむろに開いたのです。

係りの女性に案内されて、ようやく席に着く事が出来ました。

場内には観客は殆ど見えません。

ガラガラなので本当に歌劇が始まるか心配していたのですが、6時半の開演少し前から席が埋まり出し、またたく間に満席になったのです。

これには少し驚きました…。

皆ツアー客の予約のようで、アメリカやイギリスなどの人達の他に、われわれ以外の日本人のツアー客も観劇に来ていました。

地元の人は全く見に来て無いようです。

あらためて周りを見渡してみると、よくヨーロッパ映画に登場するような円形劇場の内部は、天井のシャンデリアや周りの壁に立体感が在って、大変ゴージャス!!

オペラ座の席

オペラ座のシャンデリア

前から4番目の中央の席をインターネットで予約していたので、視力の衰えてきた小生でもハッキリと観劇する事が出来ました。

料金は皆さんが想像しているよりも安く、この特等席で6千円程度でした。

もし日本での公演であれば、特等席は多分、数万円はかかるのでは無いでしょうか。

劇はシェイクスピアの有名な歌劇『オセロ』で、簡単に言えば男女の愛憎(主人公が嫉妬から奥さんを殺し、後に誤解と分かり後悔して自殺…)で、内容が単純なので、或る程度、話の筋を理解出来ましたが、何と言っても歌劇の歌い手の声やオーケストラの演奏がホール全体に大きく響き渡って迫力満点でした。

一生に一回はヨーロッパでオペラを観劇したかったので、良い経験をしたと云う事です。

主役オセロの男性も、その奥さん役のヒロインの女性も中年の俳優です。

一方、脇役の俳優は、男性はみな若くてハンサムで、女性も妙齢の美人です。

劇の筋が筋だけに、配役が逆の方が良かったような気がしないでも無い様に思いました…。

オペラの俳優

兎も角、無事にオペラを見終わって、ホテルに戻ったのは夜10時を過ぎていたのです。

今回のツアーも全ての日程通り無事に済み、ホッとしました。

明日はさらば東欧!

(次回は最終回)

院長の独り言 148 ; 東欧への旅 第7日目 -プラハ観光-

今回のツアーも第7日目に入りました。

このツアーの東欧城めぐりの中でも、最も規模の大きい城がプラハ城です。

プラハ城朝の景色

まず、お城の敷地に入ると、ストラホフ修道院があります(写真撮影は禁止です)。

この修道院には他では見る事が出来ない、中世の秘蔵の蔵書が沢山、無造作に置かれていました。

一見、どうでも良いような貝殻やタツノオトシゴの標本、サンゴなどが、一緒クタに置かれていたのには驚いてしまいました。

城内の敷地は大変広く、修道院以外に大聖堂、教会、王宮などが存在しています。

これらの建造物の説明はガイド本に詳しく出ているので省かして貰います。

敷地内は世界各国からの大勢のツアー客で溢れていて、さながらオリンピック会場に観客が一杯、集まって来たようです。

この一週間、多くの似たような歴史的建造物を見過ぎて来たので、お城や聖堂を見ているよりどちらかと云うと、様々の違った国の人々の顔や色々な異国の言葉を聞いている方が大変、興味深いものです。

違った国の人とは同じ言葉を分かち合えないけども、身振り手振りで、お互いニコニコ挨拶を交わす事は面白いもので、『メキシコ!』、『イタリ―!』、『ジャパン!』などと適当に言って握手して国際交流してきました。

また、城内にあるヴィート教会のステンドグラスは見事でした。

ヴィート教会正面

ヴィート教会のステンドガラス

色々な建造物を見終わって、お城の正門に出てきました。

プラハ城の門

プラハ城の衛兵

その門を出た所が絶好の見晴らしポイントになります。

プラハ城からの眺望

これから見に行く観光名所『カレル橋』が遠く、眼下に見る事が出来るのです。

城正門から長い階段を下りて行き、マラーストラナという繁華街地区を抜けると、いよいよ今日の観光の目玉、カレル橋が眼前に見えてきました。

カレル橋全景

無実の罪で、このカレル橋から逆さ吊りにされて処刑されたヤンという人の像が、橋の中央の欄干に建てられていて、そこに付いているプレートに触ると願いが叶うと云う事です。

一生懸命、何とか、このプレートに触って、幸運を手にしようと沢山の人が群がっていました。

カレル橋の賑わい

恥ずかしながら、私もそのプレートに人の波を押し分けて触ってきました…。

何しろ、多分、二度とこの地を訪れる事は無いでしょうから頑張ってしまいました。

ヤンさんの像

欄干に、小生にはガイドの人に説明されても、誰だか分からない偉人達が多数(30人!!)飾られていましたが、唯一、知っている偉人が一人、飾られていました。

皆さんご存知の学生の時に教わったキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルです。

ここでザビエルの像にお目にかかるとは思いも及びませんでした。

カレル橋を渡って振り返ると、いま見て来たプラハ城がボルダ川(ドナウ川をチェコではこう呼ぶのです)を越えて向こうの丘に、何とも言えない神々しい姿で見えるのには、一同、感嘆の声を上げたものです。

カレル橋からプラハ城を眺める

ボルダ川の畔で昼食。

チキンロースト、チキンのブイヨンスープ、そして甘いケーキ。

相変わらず量は多目でした…。

バスと徒歩で旧市街の広場まで行き、色々なお土産屋を冷やかしで覗いて周りました。

チェコ語が分からなくとも、結構、何でも通じるもので、ボラれたり、間違いたりする事は皆無でした。

プラハの街の賑わい

この広場の呼び物はカラクリ時計で、1時間に1回、骸骨(がいこつ)人形の合図で、数体の人形が挨拶に出てくるのです。

それを見たくて、大勢の観光客がその時間に合わせて広場に三々五々集まってきて、広場は色々な国の人々で大賑わいになるのです。

小さなイベントを見た後、その広場から放射線状に延びている中の一つの路、通称『ブランド通り』をノンビリと歩いて行くと、インターコンチネンタルホテルに到着すると云う寸法です。

ひと休みした後、午後6時にホテルの最上階にあるレストランへ。

窓側の席に着いて、外の景色を眺めると、いま歩いてきたプラハの繁華街、広場、そしてカラクリ時計や街全体が、パノラマの風景として眼下に見事に展開。

プラハの街には、東京のような高層ビルは殆ど存在していません。

このホテルの最上階が10階程度ですが、そこからプラハの街の全体が良く見えるくらい街全体に高いビルが有りません。

レストランの店長は我々が日本人と分かると、料理を一品、サービスして呉れました。

残念ですが、料理の味はイマイチでしたが…。

毎日、濃い食事とバスと歩きの観光、後は一日の出来事をメモして寝るだけといった生活で、東京でのそれとの余りの違いに、身体が就いていけなくなった頃、グッドタイミングで、もうすぐ帰国と相成りました。

いよいよ明日がプラハ滞在の最後の日と云う事です。

(次回に続く)

院長の独り言 147 ; 東欧への旅 第6日目-チェスキー・クロムロフからチェコの首都プラハまで-

午前中はフリータイムなのでユックリ起きれば良いのに、朝4時に目が覚めてしまいました。

時間を持て余してしまい、朝風呂とシャレ込みました。

朝食を済ませた後、数人で昨日、訪れたクロムロフ城の塔に登ってみる事にしました。

チェスキー・クロムロフの朝

午前8時40分頃にホテルを出発し、ブラブラと広場を通って街中を散策した後、城のシンボルの塔に到着。

チェスキー・クロムロフ城の塔を眺める

160段の狭い階段をフーフー、ヒーヒー言いながら登って行ったのです。

朝早いので観光客も少なく、展望台まで比較的にスムーズに登る事が出来ました。

塔の上から望むクロムロフの街は、玩具(おもちゃ)の家の集まりといった感じです。

こうしてクロムロフを一望してみると、あまりにも小さい規模の集落なので拍子抜けしてしまいました。

まるで遊園地のようです。

チェスキー・クロムロフ城の塔から

昨日、城内を見学して思ったのは、小さい村にしては城が大き過ぎ、しかも城の管理が異常に厳重なのです。

ツアー客が出入りする度に部屋のドアのカギを懸けてしまいますし、監視している係員も異常に多いのです。

観光客に城内の物を持ち運ばれるなど、何か訳でもあるのでしょうか?

気後れしながら何となく緊張もして、マイセンのシャンデリアや陶器、金の馬車などを見学しました。

今朝、昨日見落とした場所も見学でき、一通り、お城の中を見終わって、城の裏にある英国庭園を見学し、街中に戻り、お土産屋を見てまわりました。

チェスキー・クロムロフのお土産屋

チェスキー・クロムロフのお土産

大概のお土産屋さんは閑散としている中、何故かチョコレートだけは人気のようで、店の中はお客で満員です。

しかし、チョコレート屋の店員はと云うと、混雑しているのにも関わらず、日本の店では考えられない程にのんびりしているのでビックリです。

売る気が有るのか無いのか、お客がイライラしていても平気の平左と云った風でチョコレートを売っていました。

味はイマイチ…。

小生には甘すぎました。

店の前から広場へ、そして、ホテルまでの石畳の路は歩きにくく転びそうになります。

地元の人達は何事もユックリと悠然と行動しているので大丈夫なのでしょう。

チェスキー・クロムロフの石畳

昼はチェコ料理のマスのムニエルとパンとチーズでした。

ここに至って、和食がいよいよ恋しくなって来きました…。

1時過ぎにバスに乗り込みプラハに出発。

途中で南ボヘミア地方の家並みが残る世界遺産のホラショヴィチエ村に立寄ましたが、観光客は殆ど見られず、閑散とした静かな田舎といった趣です。

ピンク、ホワイト、イエロー、ブルーなどパステルカラーで彩られた壁と特徴的な切妻の屋根という南ボヘミアのバロック様式の家が軒を並べています。

ホラショベチ村

その素朴な家は150年以上もの間、住民によって大切に保たれ続けているとの事。

色とりどりのお菓子で出来た家と云った感じです。

トイレなどを済ませてその村を出発し、プラハのインターコンチネンタルホテルに着いたのは夕方の5時近くでした。

プラハの街も、ブタペストやウイーンと同じ様に中世の街並みを見ているといったところです。

少しホテルで休んだ後、添乗員にせかされてディナーのチェコ料理を食べる為、バスでドナウ川の畔のレストランに出向きました。

常に東欧の大都市にはドナウ川が横たわっているので、こればかりは本当に驚嘆してしまったのです。

母なるドナウ川を実感しました(チェコではドナウ川をボルド川と言います)。

プラハ城を望んでディナー

出て来たプラハ料理はと云うと日本とは違い、肉や魚や野菜がドッサと出て来て、何となく食欲が失せてしまいそうです。

メインは鮭のグリル、アヒルのロースト、子豚のロースト、鹿のカルパッチョなどから一つを選ぶのですが、それも一つ一つの料理が半端じゃない量で、一人として全部の料理を食べる事が出来たツアー客はいませんでした。

その他に、デザートのプラム団子や野イチゴのワイン漬けなどが出るのですから…。

向こうの人は本当に大食漢ですね。

男性も女性も同じ物をペロッと平らげていました。

食後は、ボルド川の夜景を楽しみながら広場を通り、そこから放射線状にある通称ブランド通りを酔い覚ましがてら、ホテルまで歩いて御帰還。

ロビーで少し皆と今日一日に体験した事などを談笑して自室に戻りました。

(次回に続く)

院長の独り言 146 ; 東欧への旅 第5日目-チェスキー・クロムロフ観光-

本日は見学する場所が多いので、ホテルを午前8時に出発。

ウィーンから国境を越えて、チェコまで高速道路経由でバスを飛ばして行きました。

運転手はなかなかイケメンのチェコの若者で、運転技術も中々のものです。

狭い田舎道で器用にバスを操っていました。

ウィーンから郊外に出ると田園風景になり、チェコの国境を超えて古都チェスキー・クロムロフまで田園風景が延々と続きます。

日本と違って、車窓の背景には山が全く有りません。

単調で平坦な農耕地の連続で、ついつい眠くなってしまいます。

簡単に言えば、北海道の景色をもっと単調にした感じなのです。

平地と山地のある北海道の方がズーッと素敵で、美しいです。

景色が退屈なので、次に訪れるチェスキー・クロムロフのガイド本に目を通しているうちに目的のホテルに到着、ホテルのレストランで昼食を摂りました。

チェスキー・クロムロフの街の全景

大きなポークのグリルをメインに、ブドヴァイザーブドヴァルと云う地ビールを飲みましたが、苦い感じがしました。飲み馴れると一寸、癖になる味なのでしょうね。

ホテルから徒歩にてチェスキー.クロムロフの観光に出発。

チェスキー・クロムロフ

例によって街の中心には広場が有り、スヴォルノステイー広場と云う舌を咬みそうな名前です。

絶景の見える床屋橋(何で床屋橋と呼ばれているのか不明)を渡り、いよいよ目的のチェスキー・クロムロフ城に着きました。

チェスキー・クロムロフ城の案内

チェスキー・クロムロフ城の塔

今回の観光で沢山のお城を見ましたが、プラハ城に次ぐ規模の城郭で、城のシンボルは『熊』です。

実際、場内では大きな熊を何頭か飼育していました。

熊が死ぬと飾り物にしているとの事。

事実、城内に剥製や敷物として利用されていました…。

チェスキー・クロムロフ場内の熊

丁度、大阪から来たと云う40人程の大ツアーのグループと一緒になり、城内巡りのひと部屋が日本人の団体客で一杯になったのでした。

勿論、他の部屋にはドイツ人、アメリカ人などが沢山、観光に来ていて、どの部屋も観光客で溢れていましたが…。

このお城もハプスブルク家の所有で、ヨーロッパの何所へ行っても、この名門の名が出てくるのには全く驚かされます。

今日はあまりに歩き過ぎて、観光と云うよりは労働といったところです。

この街の旧市街地にあるホテルに泊まったのですが、このホテルは元々、修道院だったそうで、改造してホテルとして現在、使用しているのです。

ホテルの隅々まで清掃が行き届き、フロントの若い女性も親切で感じの良いホテルでした。

チェスキー・クロムロフのホテルロビー

只、廊下やホールの隅とか階段の踊り場に蝋人形が沢山、置かれているのには参りました。

人形なのですが、生きている人のようで、思わずドキッとします。

現地の言葉以外、英語と日本語で要所要所に、説明文が壁に掲示されていて、あらためて日本の底力に感激させられました。

ここは本当に小さい片田舎の村ですが、ユーロは当然として、ドルとポンドと円だけが地元のお金のチェココルナと交換出来るのにもビックリです。

日本のマスコミは日本の事を『駄目だ!駄目だ!』と、われわれ日本人の自信を無くすような事ばかり報道していますが、東ヨーロッパの田舎の村でも日本は凄く評価されているのです。

そして、現地の人はわれわれ日本人に大変好意的です。

日本人と分かると、幼い子供までもが日本語で、『コンニチワ!』や『サヨウナラ!』と傍によってくるのです。

理由はただ、『お金を落とすから…』と云う経済的な要因だけではありません。

泊まった部屋をある程度、掃除してチェックアウトするとか、ニコニコと愛想よく観光しているなど、外国旅行する上での一寸した行動に好感を持たれているとの事でした。

夜はホテルに併設しているレストランで牛のサーロインステーキとプラハハム、そしてデザートにメロンとテイラミスを食べました。

徒歩の多い観光で身体が疲れていたのか、濃い味付けが殊の外、美味しく感じたのでした。

また、地ビールのエッゲンベルグも、大変、口当たりの良いビールでした!

(次回に続く)

院長の独り言 145 ; 東欧への旅 第4日目 -ウィーン観光-

9月18日、土曜日。

ツアー、4日目に入りました。

いつもの様に9時にホテルを出発し、バスのドライバーはオーストリーの大人しいおじさんで、ガイドは当地に長く住んでいる日本人の女性の案内です。

まずハプスブルク家の夏の離宮で、世界遺産のシェーンブルン宮殿を見学したのです。

シェーンブルグ宮殿中庭

朝早いのに各国からのツアー客で一杯。

シェーンブルク宮殿

パリのベルサイユ宮殿と部屋の雰囲気といい、家具と飾ってある絵画も、そして庭園も殆ど同じ、まるで瓜二つの宮殿の様相を呈していました。

要は、ベルサイユ宮殿を少し小ぶりにした感じです。

シェーンブルグ宮殿全景

この宮殿は16人の子供を産んで、ヨーロッパのあちこちの王国に娘を嫁がせ、親密な関係を築いたマリア.テレジアが居城していた事で有名ですが、マリー・アントワネットも幼い頃、一緒に住んでいたのだそうです。

マリア・テレジア像

モーツァルトがこの宮殿で、しばしば演奏会を催していたので、マリー・アントワネットとモーツァルトは顔見知りだったのです。

二人とも運命であったのか、奇しくも早死にしています。

オペラ座、ゲーテとシラーの像、モーツァルト像、マリア・テレジア像や美術史博物館、自然史博物館、そして王宮、国会議事堂、ウィーン大学などをバスの車窓から眺めながら、その全てが『世界遺産』である街並みを、それこそ目を凝らして見学しました。

ウィーンの中心に位置するシュテファン寺院の近くでバスを降り、ウィーンの銀座ともいえるケルントナー通りを散策。

シュテファン寺院

さすがに芸術の都の中心は多くの人で賑わっていて、歩くのも難儀しました。

男性も女性も背が高く、骨格もシッカリしていて、私も日本人としては、比較的に背が高い方なのですが、思わず『大きいなぁ~』と威圧感を感じたものです。

現在、スポーツの世界で活躍している野球のイチロー選手や水泳の北島選手など、このように身体の大きい人を相手にして勝っているのですから、本当に大したものですね~。

身体の小さい、われわれ日本人にとっては、あらためて頭で勝負しなければならないと心の底から確信しました。

科学の分野においては、二番手ではダメで、一番を目指すべきです!

国も科学技術の開発に精一杯の予算を付けるべきです。

何しろ、身体で勝負するのは縦横のガタイが違いすぎて大変です。

その後は、オペラ座の前で解散して、家族で其々の思い思いの場所に行きました。

我々は、前もって行きたいと調べていた歴史博物館に行ったのです。

この博物館にはハプスブルク家の所有している絵画やエジプト古代の出土品が沢山展示されていて、ユックリと見学すると丸一日は掛かってしまいそうです。

あまり沢山の展示物に、この名門の当時の隆盛が伺い知れたのです。

ウィーンの賑わい

博物館を出た後、かなり疲れていたのですが、何事も経験と云う事で、ウィーンの路面電車に乗ってみました。

まず切符の買い方から分からないのですが、何とか買う事が出来、次には電車に乗り込んだのは良いのですが、切符を何処に出したら良いのか思案に暮れていると、老夫婦(英語は通じません)が、身振り手振りで切符の使い方を教えて呉れました。

降りる駅も親切に合図をして呉れました。

無事、目的の駅に降りる事が出来、我々がホッとしていると、周りの乗客方も皆どうなるのか、状況をハラハラして見守っていたようで、我々と一緒になってホットした顔。

電車を無事、降りた我々にみんなでニコニコと手を振って呉れました。

ウィーンの人は、みんな親切ですね…。

乗降の方法が分かったので、今度、路面電車に乗る時はモー大丈夫です。

降りた駅の近くに、ウィーンで有名なレストランが有る事を、出発前にガイド本で調べていたので、是非、そこで昼食を摂りたかったのです。

少し冒険して路面電車に乗ったのは、そのレストランに行きたかった為です。

到着すると、地元の人達でレストランは一杯。

また得意の身振り手振りと片言の英語で、サラダ、鶏肉、サンドイッチなどの3〜4種類の料理を注文してみました。

一寸濃い目でしたが、和食の味付けに似ていて、本当に美味しかったのです。

満腹になったので、また路面電車に乗り(今度はうまく乗降出来ました)、ホテルの近くで降り、腹ごなしと云う事で街を散策してみました。

ハンガリーもスロヴァキアもオーストリーも、東欧の街の有り様はそっくりで、日本と違い電線が無く、空がスッキリして、本当に中世の街にタイムスリップしたようですが、個々の建物を近くで見ると、結構、汚れていて、街全体の整備はイマイチと云った感じでした。

ヒルトンホテルに戻り、夕方まで自室で休み、疲れが何とか取れた後にディナーに出掛けました。

メインはシャケのムニエルでした。

(次回に続く)

院長の独り言 144 ; 東欧への旅 第3日目 -スロヴァキヤ首都ブラスチラヴァからオーストリー首都ウィーンへ-

三日目は朝6時起床。

午前6時半にバイキング形式の朝食を頂く。

ホテルを午前9時に出発。

バスに乗り高速道路経由でスロヴァキヤの首都ブラスチラヴァへ向かう。

観光バスの運転手は中年紳士のスロヴァキア人でしたが、其の大人しい風貌の割りにはバスをバンバン飛ばして、3時間掛かるところを2時間程で目的地に着いてしまいました。

ブラスチラヴァの街並みは、まるで中世ヨーロッパにタイムスリップしたような歴史を感じさせるものです。

東欧の大都市には中央広場が必ずと言って良い程に存在していて、此の街もご多分に漏れず広場が有り、そこには自然と人が大勢集まって来るようになっているのです。

プラスチラヴァア街並み

その広場を中心に放射線状に路が延びていて、どの路からも広場に出られるようになっているので、迷子になりません。

バスはハンガリー国王の戴冠式が行われたと云う聖マルティン教会やベートーヴェン、モーツァルト、リストの記念碑を見ながらブラスチラヴァの街のホテルに到着しました。

街から丘の上にそびえ立つブラスチラヴァ城が見えます。

プラスチラヴァア城

城は街全体を見下ろしています。

ホテルに荷物を置き、昼食をとった後、いよいよブラスチラヴァ観光です。

ブラスチラヴァの昼食はブタペストよりズーット美味しい物で、久し振りに新鮮な野菜サラダを食す事が出来、メインのナマズのムニエルはカジキマグロのようで大変美味しく頂きました。

ホテルから街の中心までブラブラ歩いて行きました。

さっきバスの窓から見えていた聖マルティン教会や大作曲家の像を見学。

ミハエル門、大司教宮殿を通って例の如く広場に出て来ました。

広場のベンチには街の老人がのんびり日向ぼっこしています。

広場の一画に日本大使館がひっそりと存在していて、ガイドの人に言われて初めて気が付いた程でした。

ここで少し違和感を感じたのは、他の国の大使館は、祖国の国旗を綺麗に風になびかせているのですが、日の丸はクシャッと小さく丸まっています…。

突発事故とは思いますが、もう少し何とかならないものでしょうか?

ソロヴァキア日本大使館

何軒かお土産を売っている出店も有りましたが、買っている人は少ないようです。

一旦、ホテルに戻って、今度はバスに乗ってブラスチラバ城目指して坂道を上って行きました。結構きつい急坂です。

城から眼下のドナウ川とそこに広がる街並みを眺めると、何となく中世の為政者達が国民をどのように管理していたのか、その仕組みが垣間見えてきます。城から全て街の隅から隅まで監視出来るようになっているのです。

プラスチラヴァとドナウ川

そして、ドナウ川の存在が、この地域の人々にとっての生活の必須条件であると云う事が実際、此の場に立ってみると良く理解出来ました。

地図を見ているだけでは本当のところは分からないものですね。

お城から眺める風景はブタペストの王宮の丘の『漁夫の砦』から眺めた風景とそっくりでした。

休む暇も無く、またバスでの移動となりました。

例の如くバスはどんどんスピードを上げながらウィーンのヒルトンホテルに定刻より早く到着。

ウィーンは日本でも芸術の都として有名ですが、初めて訪れてみると、今までに訪れた町々よりズーッと活気が感じられて、流石、東欧一の賑わいです。

ウィーン到着

夕食は、ツアー搭乗員が絶対のオススメのレストランに案内して貰い、シュニッツウェルなどウィーンの名物料理を食べたのですが、本音を言えば、小生の口にはあまり合わないものでした。

毎料理、本当に味が濃くて、更に肉料理ばかりで、此の国の人達はよくも、この様にコッテリした料理を食すものだと感心してしまいます。

ガイドさんの話によると平均寿命は日本より10歳程度少ないとの事ですが、当然の事に思われます…。

ウィーンの街には活気が有りますが、食事はブラスチラヴァの方が断然、旨かった!

本日のバスでの移動距離は約250㎞。

歩行距離は万歩計で約2万歩。

本当に疲れました…。

(次回に続く)

・帰国後の後日譚

本日のニュース(10月9日)で、ハンガリーのアルミ工場で堤防の決壊により大量の酸化アルミニウムがドナウ川上流に流れ出し、その汚染が本流にも拡がり、被害が拡大しているとの事。

生活用水の汚染は他人事で無く心配です。

何しろ、ハンガリーだけで無く、東欧諸国にとってはドナウ川の大切さをこの目で見て来たばかりですから…。

二週間ほど前までハンガリーに滞在していたし、滞在していた時は勿論、何でも無かったのです。

被害が最小限で済むように心から祈っています。

院長の独り言 143 ; 東欧への旅 第2日目 ―ブタペスト観光―

軽い時差呆けの翌朝は、午前5時前に眼が覚めてしまいました。

朝6時半から朝食バイキングで卵焼き、ハム、ヨーグルト、パンなどを食べた後、早速、ブタペスト観光に出掛けます。

午前9時にホテルをバスで出発しました。

バスが走り出してから直ぐに、車窓から中世のお城を思わせるハンガリーの国会議事堂が目に飛び込んできたのです。

とても国会議事堂とは思えない外観にビックリしている暇も無くバスが停車しました。

ハンガリー国会議事堂

バスを降りて比較的に近代的なビル群が続く路を、聖イシュトヴァーン大聖堂まで歩き、これから始まるブタペスト観光への期待に胸を膨らませたのです。

ブタペスト近代的な街並み

しばらく歩いて街角を曲がった途端、広場の前に立つ聖イシュトヴァーン大聖堂が目に飛び込んできました。

目の前に現れた大聖堂は想像していたより少しコンパクトな感じを受けました。日本で買ったガイド書の写真と案内文から想像していた聖堂は、もっと大きい建物と頭の中で想像していたのです。

この教会は約50年の歳月を掛けて1905年に完成した、ネオルネッサンス様式を代表する建築物だそうです。

大聖堂

イタリアのミラノで初めて見た大聖堂は、その大きさと華やかさに圧倒され、『西洋の聖堂、かくたるべし!』と感嘆したものです。

そのミラノのドーモ(大聖堂)とは少し違った感じを受けたのも事実です。

聖イシュトヴァーン大聖堂は荘厳な外観ですが、ミラノの大聖堂とは少々違うのです。

この違和感は何処から来るのだろうと一瞬思ったのですが、ブタペストの大聖堂はスラブやアラブの文化の影響を受けているとの事でした。

イタリーのそれを上回るほどに彩色豊かで細密なステンドグラスが聖堂の内部を飾っていましたが、何となく地味な感じです。

大聖堂ステンドグラス

多分、西欧と東欧の国民性の違いからくるのでしょうか。

しかし、どちらも素晴らしい大聖堂である事は疑う余地も有りませんが…。

もっとユックリと鑑賞していたかったのですが、ツアー添乗員に促されて、王宮の丘を見学する為に急いで聖堂を出発しました。

当地では大変有名な『くさり橋』をバスで渡って、王宮の丘に向いました。

くさり橋通過

昨夜のドナウ川クルーズでライトアップされた全長約400mの『くさり橋』を船から見た時は、随分、大きくて長い橋だと思ったのですが、バスで走るとアッという間に過ぎてしまいました。

王宮は現在、博物館と図書館として利用されています。

王宮の丘

そこから少し歩いた所にマーチャーシュ教会が有り、此の教会の売りは、何といってもジョルナイ焼きの瓦で、その鮮やかな橙色の美しい屋根ですが、内部も色彩豊かで素敵な教会です。

ジャルナイ焼き

やはり、この教会もイスラムの影響を強く受けているようでした。

教会から少し歩いて行くと『漁夫の砦』と云う見晴らし台が有ります。

漁夫の砦全景

そこから悠々と流れるドナウ川と、たった今、見てきた対岸のペストの街並みが遠くまで綺麗に望めて、まるで絵ハガキを見ているようでした。

漁夫の砦

清々しい風に当った後はバスに乗り込み、次の目的地の中央市場を訪れ、ブタペストの市民の台所を見学しました。

日本と違って値引き交渉をするお客も多く、食品も雑々と置かれていて、国が変われば品変わると肌で感じた次第です。

昼食にはハンガリー料理のパプリカ・チキンやパラチンタを食べて一息ついたのですが、食事中に雨が降り始めたのです。

ここで自由行動となりました。

われわれは驟雨に濡れながら、頑張って英雄広場に行き、その近くの国立美術館で見切れない程の名画を鑑賞したのです。

英雄広場

名画をたっぷり見過ぎた感想は、いくら名画でも余りにも沢山に一気に見ると有難味が薄れるものです。

事実、見飽きたのか、地元の人の姿は無く、閑散としていました。

当地の人が見飽きているのなら、日本に少し名画を寄付して欲しいものですね。

頑張ってひと通り鑑賞した後は、ハンガリーの諸々を体験したかったので、あえてタクシーには乗らずに小さな冒険気分で、市営地下鉄に乗ってホテル近くの広場の駅まで行ってみました。

地下鉄

市民が楽しそうに歓談している広場のオープンカフェでお茶を飲みながら、若い女性が路上で演奏しているヴァイオリンを聞き、まるでハンガリー人になった気分で談笑したのです。

広場の出店では絵ハガキなどを買い、ホテルに帰り、すっかり緊張から解放されてソファーにヘタリ込んでしまいました…。

1時間程度、ホテルで仮眠を取った後、地元料理のレストランでハンガリー民族舞踊を見ながらの夕食の予定だったのですが、夕食までの仮眠のつもりが、夫婦でつい寝過して集合時間に遅刻をしてしまい、一緒に参加しているツアー仲間から笑われてしまいました。

夕食はグヤーシュと云う名物料理です。

先ずレストランの入り口でウェルカム・パーリンカという、キツイ蒸留酒で歓迎され、メイン料理は近くのバラトン湖で採れた白身魚の揚げ物でした。

何とか2日目を無事に終える事が出来たので、ホッとしてベッドに入り熟睡したのは云う迄も有りません。

(次回に続く)

院長の独り言 142 ; 東欧への旅 第1日目 ―ブタペスト着―

ブログには九州への家族旅行の話を連続して掲載していた途中なのですが、欧州旅行に9月15日(水)から出かけてしまいましたので、ブログを長い間、お休みしてしまい失礼をしました。

フランス、イタリア、スペインなど、西ヨーロッパには何度か訪ねていたのですが、オーストリーやハンガリーなど東ヨーロッパを一度も旅した事が無かったので、『西欧』と『東欧』の違いを知りたくて是非、一度旅行してみたいと思い、1年程前から、家内と東欧旅行を計画していました。

東欧旅行の感想を忘れないうちに、先ず、旅行の感想をブログに載せてから九州の思い出話をまた書きたいと思いますので宜しくお願いします。

9月15日の朝5時半に自宅を出発。

立川駅から成田エキスプレスで成田国際空港の第2空港駅で降り、飛行機に搭乗といった段取りです。

出国手続きは何時ものように結構な時間がかかり、11時過ぎにやっと成田を離陸出来ました。

東欧旅行-3

目的地はハンガリーのブタペストです。

途中、フィンランドのヘルシンキを中継地としてトランジットし、ブタペストに向かったのですが、ヘルシンキの出国手続が大変厳しく、窓口に長蛇の列が出来ていて、ツアー同行者一同、皆ウンザリしたのでした…。

東欧旅行-011

しかし、ハンガリーでの入国手続はあっさり済みました。

12時間以上の移動の後、やっと辿り着いたブタペストは大変天気が良く、午後7時を過ぎていたのですが、まだ外は明るく、気温21度程度で空気が乾燥していて、風が心地よい感じです。

日本との時差は7時間ですので、今頃、東京は真夜中の2時と云う事になります。

東欧旅行-お姉ちゃんカメラー-0121

現地のガイドさんの説明によると、9月中旬になると、普段は日中でもなかなか15度を超える事は無いそうで、早朝は7度前後まで気温が下がり、ハンガリーでは6、7、8月が暑い夏で、後の9ヶ月間は寒い冬と云った感じで、殆ど春と秋の季節が無いそうです。

今年は9月になっても寒くならず、近年に無いほど過ごし易い日が続いているそうです。

現地のテレビで報道されていた世界の天気によると、東京は31度を超える猛暑だそうで、大変申し訳無い気分です。

ドナウ川の見えるホテル『ソフィテル・チェーンブリッジ』にやっと着いたのは午後8時を過ぎていました。

軽く食事を摂った後、休む暇も無く、ドナウ川のクルーズに出かけたのです。

船から見る両岸の景色は非常に対照的で、川の上流に向かって左側はブタ地域と云い、中世のお城を中心に500年以上も昔の町にタイムスリップした感じですが、右側は現代風といった市街地で、ペスト地区というのです。

くさり橋など奇麗に飾られた幾つかのライトアップされた橋の下を船は進み、シャンパンを口に含み、やっと異国の東ヨーロッパに来た事を実感したのでした。

ただ街自体は日本よりずっと暗い感じで、改めて日本の凄さを思い知ったのです。

船着き場からホテルまでブラブラ散歩し、結局、床に就いたのは夜12時を過ぎていたのでした。

東欧旅行-019

東欧旅行-0161

(次号に続く)

院長の独り言 141 ; 両親との九州旅行(パート3) 熊本編

長崎の名所旧跡を足早に見学した後は、諫早を通り、当時、まだ噴火していなかった普賢岳を横目に雲仙国立公園の島原半島を一周して長崎に戻り、国鉄(JRでは有りません)で小郡を経由して熊本に向かったのです。

実は、兄貴のお嫁さんの実家が熊本県小国町であると云う事もあって、兄貴夫婦は九州、特に九州中央部に精通していたのです。

その二人に道案内をして貰うので、今回の旅行は最初から、大船に乗った気分な訳ですから、両親も我々も安心して旅を楽しむ事が出来ました。

地元の人しか分からないような観光の穴場も案内して貰ったのは言うまでも有りません。

熊本では、まず熊本城に向かいましたが、勿論、ここは有名すぎて穴場では有りません。

春休みと云う事もあって、子供連れを中心に、大勢の観光客で城内は大変な混雑でした。

熊本城は、戦国武将の加藤清正築城として有名です。

何であんなに大きなお城を建てたのかは謎とされていますが、有力な説として語られているのは次の如くです。

清正は言うまでも無く、豊臣秀吉の家臣です。

秀吉と親戚関係にあると云う説もあるほど関係が深く、万が一の時は、秀頼を助けて熊本城に立て篭って、徳川家康と一戦を交える覚悟が出来ていて、その為にあのような堅牢で大きなお城を造ったとされています。

生涯、秀吉に忠誠を誓っていた事は有名な話です。

しかし、関ヶ原の天下分け目の戦いでは、徳川方の東軍に付いています。

これは、西軍の石田三成、小西行長と仲が悪かった為で、結局、小西氏を滅ぼした事により、家康に認められて小西氏の領地を貰い受け、50万石以上の大大名になったのです。

熊本は元々、『隈本』と言っていたのですが、清正が勇ましい名前『熊本』に地名を代えてしまったのだそうです。

熊本は加藤清正が名づけ親と云う事になります。

熊本の郷土料理と云えば何と言っても『馬刺』です。

子供達には馬刺が気持ち悪かったようで、大人だけで舌鼓といき、また地酒を愉しんだのです。

チビさん達は東京と大して変わらないハンバーク、中でも『贅沢をした』といえば、大きなエビの天ぷら付きと云ったところでした。

男の子2人は親父に熊本名物の『コマ』と、何故か『コブラ』の剥製を買って貰って大機嫌、一方、娘は矢張り名物の羽子板をねだっていました。

(続く)