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院長の独り言 191 ; 桜に次いで、今回は梅について

前回のブログに続いて花の話と言っては何ですが、今回は梅について、ヒトクサリ。
梅も桜と同じで、バラ科の植物です。
未だ花ひとつ見ることの出来ない寒い冬に、マンサクの花と梅の花は競って咲き始め、いよいよ春の到来を感じさせてくれます。
マンサクの黄色い花も素敵ですが、梅の花のピンク色も、心を和ませてくれます。
梅はむかし、遣隋使や遣唐使が我が国に持ちこんだ植物です。
白梅と紅梅が有りますが、奈良時代までは白梅が万葉集などで主に詠われていましたが、平安時代になると紅梅の方が多く詠まれています。
多分、白よりピンクの花の方が見栄えがして、人気が出て来たのでしょう。
しかし、実がなる白梅は、イザという時の非常食になると云う事で、武士の時代になると梅干し目当てで、各藩が梅干し作りを奨励した結果、武士が梅林を作りだしたのです。
有名な梅林は、皆さんご存知であるように、水戸偕楽園の梅林です。
また梅の和歌と言えば、菅原道真が有名です。
我が母校の直ぐそばに、道真を祀っている湯島天神があります。
受験の神様として良く知られているので、受験生やその親御さんがお参りに来ていますが、神社内に小さい梅林が存在し、2月になると、今でも美しく可憐な梅の花を咲かせています。
『東風(こち)吹かば にほいおこせよ梅の花 あるじなしとて 春は忘れそ』と梅を詠っているのは有名です。
桜は自衛隊や警察官の階級章に使われていますが、一方、梅は県花とされている場合が多く、興味深いですね。
例えば、菅原道真を祀っている大宰府天満宮のある福岡県の県花ですし、梅干しが名産の和歌山県も梅が県花です。
何はともあれ、四季がハッキリしている、わが国日本は春夏秋冬、どの季節においても特徴的な綺麗な花を観る事が出来、これは世界でも稀に見る素晴らしい国なのです。
こんな素晴らしい国を、子供達にキチンと引き継いでいく義務が、われわれ日本人の大人にはあると思うのです。
素晴らしい自然と世界に誇れる伝統文化を、シッカリと守って欲しいと、切に願っています。

院長の独り言 190 ; いよいよ桜の季節ですね

いよいよ桜の季節ですね。
毎年、あの桜吹雪が楽しみです。
今年、桜の開花が例年より早くなるのではないかと言われています。
春の花と言えば、殆どの日本人は『桜!』と答えるでしょう。
ところが、桜がバラ科に属すると指摘すると、『ヘー、知らなかった…』と驚くことでしょう。
我が国では春の花の中で、桜が一番、人気がある理由は『パッと咲き、パッと散る』という散り際が良いのが、日本人の心情にピタッと合っているからだと思います。
満開の時は、葉の緑色は全く見えず、見事な花で一杯です。
『あの山は 風をひいたか 花(鼻)だらけ』と云う馬鹿々々しい川柳がありますが、ひと山全体が桜の花で埋まっている風景は、日本のあちこちで見かける春の風物詩なのです。
そして、アッと云う間に花は吹雪のように散ってしまいます。
こんな刹那感を味あわせてくれるところが、桜を好きになる理由なのでしょう。
外国の軍隊の階級章はだいたい星型ですが、日本の自衛隊や警察の階級章としては桜の花が使用されています。
ところが江戸時代に、武家の家紋としては全くと云って良いほどに桜は使われていなかったそうです。
余りに散り際が良過ぎた事が、嫌われたと言われています。
何しろ武士は、いつ命を落とすのか分からないので、散り際が良すぎる桜の花は縁起が悪いという事ですね。
一方、遠い奈良時代は、花と言えば梅の花だったそうです。
勿論、奈良時代の歴史書『古事記』や『日本書紀』にも、桜は記されてはいます。
また日本最古の歌集『万葉集』にも桜は歌われていますが、当時は梅の方が人気で、花としては梅が多く詠われているのです。
桜が花の代表になったのは平安時代になってからのようです。
平安時代の西行法師が桜の花をこよなく愛していた事を、皆さん、ご存知の通りです。
やはり吉野の桜が美しすぎて、花の代表が梅から桜に変わったのでしょうか。
また、何故、『桜』と言うのでしょうか。
皆さんご存知の様に、桜は花の塊で咲いています。
満開の時は、葉っぱは有りません。
『桜』の『ら』は『等(ら)』、即ち『塊』と云う事です。
『さく』は『咲く』と云う事です。
合わせて『桜』です。
これは昔から言われている、ひとつの説です。
まだ色々な説があるそうですが、私は上記の説以外、知りません。
いよいよ、あとひと月もすると、満開の桜が当院の近くでも見る事が出来ます。
八王子には桜の名所があちこちにあるのです。
夜桜の下での宴会も、楽しみですね。

院長の独り言 189 ; 被災者全員の無事を信じています!

2月22日火曜日、いつも通りに午後6時頃、診療が終了し、医局にある自分の椅子に腰を下ろし、思わずホッとひと息。
テレビのスイッチを入れた途端、画面に倒壊したビルと逃げ惑う人々の映像が映っていました。
はじめは何処かの国で、また政変が起こったのかと思いました。
今、アフリカや中東の国々は独裁政権打倒へ向けて大荒れなので、直ぐ、それが閃(ひらめ)いたのです。
ところが、ニュージーランドで大地震が起きたようです。
政変だと思ったのは、完全に見当違いでした。
実を言うと小生、地震には敏感なのです。
大分前のブログにも書きましたが、戦争の末期に、疎開していた岐阜県中津川市で大きな断層地震に遭遇し、死ぬかと思ったくらいの縦揺れに驚かされた経験が有るのです。
それ以来、強度の地震恐怖症になってしまいました…。
少しの地震でもドキドキします。
今でも時々、思い出すのは阪神大地震です。
勿論、震源地から遠く離れた東京では、揺れを全く感じませんでした。
あの日の朝も、何時ものように、起きると直ぐテレビを見たのです。
すると岐阜地方で強い地震があったと、アナウンサーが言っていました。
暫くしてから、岐阜を訂正して京都でかなり大きな地震が発生したとの事でした。
テレビのアナウンサーが、何時もの調子で地震の報道を淡々と放送していたのです。
日本は地震大国、しかもアナウンサーの話し方から想像して『大した地震ではないな…』くらいに思っていました。
午前中、忙しく診療していたので、地震の事はスッカリ忘れていたのです。
ところが午前の診療を終えて、医局に戻ってテレビを付けると、何やら大きな街全体が大火災のようです。
何事が起こったのかと聞き耳を立て、テレビ画面を凝視。
そして神戸の街が、地震で壊滅的なダメージを受けた事を知ったのです。
朝のニュースでは、岐阜とか京都とか放送していたのに、あんなに大きな地震、しかも神戸が被災地の中心だとは、本当にびっくりした事を思い出します。
黙祷。
今回、日本ではなく、遠方の国の大地震ですが、日本人の被害者もかなり出ていると新聞やテレビで報道されています。
何故、遠く離れた南半球のニュージーランドで、日本人の若者が沢山、被害に遭っているのか、古い日本人である小生には不思議ですが、それだけ世界が狭くなってきているのでしょうか。
被害者全員の無事を祈って止みません…。
歯科の世界では、日本で発明された根管長測定器(所謂、痛くなった歯の神経を正確に除去する為には、絶対必要な器具)が現在、ヨーロッパ、アジア、アメリカの世界中のあらゆる歯科医院で使われています。
私が歯科医に成り立ての頃は、この器具は日本の極く僅かな歯科医院だけでしか使われていなかったのです。
それが、今では世界中で使われています。
本当にビックリするほど、世界は狭くなりましたね。
ニュージーランドの環境が良いとなれば、隣町に出掛けるような感じで行く事が出来ます。
素晴らしい器具が発明されれば、たちどころに世界中に伝わります。
ところで、この根管長測定器は、我が恩師、鈴木賢策教授と砂田今男教授が共同で発明開発した、今や歯科治療に無くてはならない器具です。
痛くなった歯を抜かないで、正確に治療出来、歯を保存できるのは、この器具に頼る事、大なのです。
患者さんにとっても、歯科医にとっても、この器具の恩恵は計り知れません。
われわれ保存科の弟子達にとって、この器具を発明した2人の教授は、心からの誇りです。
誇張ではなく、この器具の発明は日本の誇りです。
この根管長測定器のお陰で、世界中の虫歯を抜く事無く、正確に治療でき、飛躍的に保存出来る様になったからです。
特許を取っていれば、2人の恩師は今頃、大金持ちになっていた事でしょうが、彼らはそれをしませんでした。
いかにも日本人ですね。

院長の独り言 188 ; 休日診療の当番医

八王子市で開業している歯科医師(日本歯科医師会の会員のみ)は、1年に1回程度の割合で休日診療の当番となります。
先日、小生は1年振りに、休日診療の当番医になりました。
休日診療を行う病院は、八王子駅から歩くこと約20分間、甲州街道沿いにあります。
朝9時から夕方5時までの8時間、急患の治療を行います。
最近は、日曜や祝日も治療をしている歯科医院がたくさんあるので、以前と比べると、訪れる急患の数は減少傾向にあります。
ほとんどの休日は、歯科医師2名で診療所の治療室に待機していますが、5月のゴールデンウィークと12月の暮れからお正月の連休には、4名で診療に当たるのです。
ほとんどの休日診療は、痛くて我慢が出来ない患者さん以外、応急処置だけ施し、翌日まで待って、かかりつけの歯科医院へ行って治療してもらう場合が多いのです。
小生が当番であった日曜日は訪れる患者さんも少なく、もう1人の当番医と2人で、待機している時間が多くありました。
しかし数年前、お正月に当番が当たった時は大変でした。
朝9時少し前に診療所に行くと、待合室は患者さんで一杯です。
『歯が痛い!痛い!』と大泣きしている子供。
転んで前歯を折ってしまったお父さん。
親知らずの歯茎が感染してホッペを腫らし、痛みを堪えて深刻な顔をしている若い娘さん。
入れ歯が痛くて食事がとれないオバアちゃんなどなど…、お茶を飲む暇も無いほど忙しく、当番医4人とも必死に働きました。
午前10時に来院した患者さんを、午後2時にヤッと診る事が出来るくらいの忙しさだったのです。
偶然、小生の患者さんも1人来ていました。
『アラ、先生!明けましておめでとうございます!』
『ああ、おめでとうございます!』と、新年の挨拶を休日診療所でするとは、お互い思いもしませんでした。
一応、応急処置を施して、正月休みが終わった後に、あらためて当院に来て貰う事にしたのです。
当院を開業したての約40年前は、休日診療の当番になった時は、自分の医院で診療する決まりになっていました。
普段、使い慣れている道具を使えたので、安心して治療を行う事が出来たのです。
現在は、市の応急診療所に出掛けて行って、急患の治療をするのです。
何時もの馴れている診療室と異なり、そのほか諸々の道具も勝手が違うので、治療の調子が狂ってしまい勝ちです。
当日もお役目を無事、終える事が出来ました。
ホッと一息と云ったところです。

院長の独り言 187 ; 地球以外で生命体は存在するのか?

宇宙は無限である。
無限と言えば宇宙といっても良い。
このように広大な宇宙だからこそ、生命体が地球以外の宇宙の何処かに存在するのではないかと言われています。
地球は太陽の周りを、1年間365日をかけて1周する惑星です。
太陽は核反応しながら自ら熱や光を放っている恒星であり、惑星の周りを回っているのが衛星であり、月がその代表例と云う事です。
星雲とは恒星の集団で、地球はその星雲の一つである銀河星雲に存在しています。
銀河星雲は約2000億もの恒星から構成されているのです。
その他に塵やガスなどの星間物質が、どのくらいあるのか想像すら尽きません。
ひとつの星雲でこの有様です。
と言う事は、恒星の子供の様な惑星はその何倍も、孫に当たる月の様な衛星は幾つ存在するのか考えも及びません。
また2000億以上の恒星から成り立っている星雲の数は、発見されたものでも大変な数です。
大まかに言えば、星雲は無数に有るのです。
地球は銀河星雲の中心から、かなり端の方に外れた所に位置しています。
何故、地球が銀河星雲の端っこに存在していて、そこに生命が有るのか考えれば考えるほど不思議です。
地球と太陽の関係、地球と月の関係、太陽と星雲の関係、そして恒星としての太陽の大きさなど、全ての因子が微妙に絡まって、地球に生命体が存在しているのです。
例えば地球よりも、太陽に近い金星は灼熱地獄ですし、地球よりも太陽から遠い火星は極寒の惑星です。
生命体など存在出来る訳が有りません。
地球の衛星である月は、他の衛星と比較すると特別に大きいそうです。
この地球と月の重力の関係も、生命誕生に大きい影響があるそうです。
海の満ち引きにも、月の異常な大きさが関係している事は、承知の事実です。
現に海の満ち引きが、生命誕生に大きな影響があったと言う科学者もいるのです。
地球の恒星、太陽の容積から計算すると、約100億年間、熱や光を出し続ける事が出来るそうです。
恒星の寿命は、その大きさによって、決定してしまいます。
恒星の大きさが、大きければ大きいほど恒星の寿命は短くなります。
地球上で生命体が誕生するまでに、約40億年以上、経過しているとされています。
例えば恒星の大きさが、太陽より大きい以外、地球と全て同じ条件であるとします。
恒星の寿命が40億年の場合、生命は誕生出来ても、単細胞のような下等な生物止まりでしょう。
恒星の寿命が尽きれば、惑星も死んでしまいます。
逆に、恒星の大きさが太陽より小さい場合は、核反応が起こらないか起きても惑星に充分な熱や光を与える事が出来ないでしょう。
当然、生命体は誕生出来ません。
ひとつの生命体が誕生するには、やはり現在の宇宙の大きさが必要なのではないでしょうか。
この無限に近い大きさで初めて、生命が一つだけ誕生出来たのではないでしょうか。
それほど無の世界から命が生まれ出る事は、奇跡的だと私は思います。
もうひとつの命が誕生する為には、もう一つ現在の大きさの宇宙が必要だと私は思うのです。
この宇宙に人間の様に考える事の出来る生命体の存在は、この地球だけの様な気がしてなりません。
私の独善の考えですが、皆さんはどう思うでしょうか。

院長の独り言 186 ; 大学院時代のアルバイト先

歯科医師国家試験を受験し歯学部を卒業後、更に私は勉強が好きですから(冗談ですよ)大学院に進学し、博士号の取得を目指したのです。
6月に歯科医師免許が、厚生省から無事に送られて来ました。
その後、NHKの歯科診療室のアルバイトが決まりました。
NHK 放送センターが渋谷の丘に建設されたばかりで、歯科の診療室は確か4階にあったと記憶しています。
患者さんは勿論、主にNHKの職員でしたが、番組に出演しているタレントさんもたまに治療に来ていました。
私はタレントさんの名前をよく知りませんでしたが、テレビによく出演している人も受診しました。
NHKには大きな食堂があり、お昼時にはわれわれ診療室のメンバーも当然、その食堂に行って、天ぷらうどんやカツカレーなど日替わりメニューの中から自分の好きな物を選んで食べていました。
番組に出ているタレントさんたちも、職員と一緒の昼食を食べに来ていたのです。
そう云えば、隣のテーブルで植木等さんと黒柳徹子さんが、談笑していましたっけ。
黒柳さんが一方的に喋りまくり、植木さんがニヤニヤしながら相槌を打っていたのが、印象的でした。
タレントさんが食事に来ている風景は日常茶飯事なので、周りで食事を摂っている職員の方たちは、タレントさんに全く興味が無いようでした。
近代的な食堂で、時代劇に出演している俳優さんがチョンマゲ姿で、パスタやカツ丼を食べている姿に時代錯誤を感じて、妙な気分になったのを思い出します。
ある日、エレベーターを待っていた時です。
かつて一世を風靡した、朝の連続ドラマ『お花はん』に出演していた樫山文江さんが、あのお花はんの特徴である真丸い笑顔で、私の傍らをニコニコと通り過ぎて行きました。
またある時は、若くてハンサムな石坂浩二さんが何人かの出演者と談笑していました。
NHKの歯科診療室には丁度、一年間、アルバイトとして勤務した事になります。
一年間と云う短い期間でしたが、色々と面白い体験が出来たのです。
大学院に在籍していた時は教室の都合で、アルバイト先が色々と変わりました。
2年生の時は東京駅八重洲口にあった日本興業銀行(今は銀行同士の合併で存在していません)の歯科診療室でしたし、3年生の時は日本橋の伊藤忠商事の歯科診療室がアルバイト先でした。
友達のI君は、国鉄(現在のJR)の歯科診療所にアルバイトに行っていましたが、全国の何処へ行くのも、特急でも普通でも全て無料と云うパス券を貰っていて、医局員みんなから羨ましがられていたのです。
あの当時は日本全体が右肩上がりで、工業も商業もドンドン成長していたので、当時の医局員のアルバイト先は、今の若い医局員からみれば本当に信じられないほどに恵まれていたと思います。
先日も、かつての歯科保存教室医局員4人組で、当時の研究室時代の思い出を語り合ったのでした。
バイトの話はさて置いて、当時の先輩先生方の消息が一番の話題になります。
もう亡くなられた先生や廃業してしまった先生と、寂しい話が多いので気持ちも沈んでしまいます。
小生も医局で仲の良かった先輩先生方と、年賀状だけのお付き合いになってしまい、本当に寂しい限りです。
青春時代を過ごした昔の医局の思い出話に花を咲かせた後、話の締めは常に決まっていて、自然とインプラントや歯周病などの歯科治療に関する話になるのがオチです。
ここでやっと、何時もの4人の元気な話になるのです。
やはり我々は、根っからの歯医者と云う事です。

院長の独り言 185 ; とうとう東京にも、雪が積もりましたね…

先週の後半から、首都圏が大雪になるので用心するようにと、天気予報が少しシツコいくらいに降雪警報を流していました。

楽しみにしていたゴルフのコンペも、大雪予報を恐れてか、早々と中止する旨の連絡が幹事から入ってきました。

ところが雪は降らなかったのです!

残念。せっかくゴルフを楽しみにしていたのに…。

ゴルフの予定はキャンセルになったので、丁度、土曜日と云う事もあってか、家内と娘の買い物に付き合わされました。

新宿のデパートは不景気など関係ないと云った具合で、買い物客で溢れていました。

2月14日のバレンタインデー間近と云う事もあってか、若い娘さん達が大勢、押し掛けていて、まるで朝のラッシュアワーの様です。

ところで2月14日、お昼過ぎまでは寒かったのですが、雪の降る様な天気ではなかったのです。

お昼の天気予報でも、先週の様な大騒ぎはしていませんでした。

一日の診療が終わって『今日も頑張った…』とホッとしながら、皆でお菓子をつまみ談笑して、午後6時過ぎ戸外へ出て見てビックリ!

雪がジャンジャン降っていたのです。

こんなに大雪になるとは全然、予期してなかったので、不意をつかれた感じです。

アッと言う間に、車の屋根に雪が積もっていました。

帰途の車の渋滞が気になったのですが、小生、この冬始めての雪景色に暫し見入ってしまったのです。

帰宅してから、明日、無事に診療所に行けるのか心配するほど、夜半まで深々と雪は降っていました。

翌朝、起きて外を見ると、雪はもう止んでいて、何とか車が使えそうです。

何時もより早目に家を出て、甲州街道に。

第一級国道の甲州街道を走る車は滑って事故っては大変!と、流石にノロノロ運転。

我々も診療所まで、何時もの倍近く時間を掛けて、慎重に出勤しました。

雪の影響が患者さんにも出るのではないかと心配でしたが、昨日の寒い天気とは打って変わって、朝から暖かく、昼頃までには殆ど雪は消えてしまっていたのです。

約束の患者さんで遠方からの方々以外は、皆さん、無事に来院。

通常の様に治療を受けて貰えました。

昼休みに、医局時代から仲良く付き合っている、富山で開業している先輩のK先生から久しぶりに電話が入ったので、何事かと出てみると、『大雪の陣中見舞いだよ!』との事。

東京が数年振りの大雪になっている事を、テレビで知ってのお見舞いが半分、冷やかしが半分。

逆に、『大雪はそちらさんでしょう?』と私が言い返すと、『こっちは何時もの事で慣れてるから、雪なんかどうと言う事は無い』そうです。

しかしK先輩の話では、正直なところ、今年の雪の量は半端じゃないそうで、毎日、雪かきで参いっているそうです。

こちらこそ同情してしまいます。

昨日、今日と大雪騒動の二日間でした。

院長の独り言 184 ; 初めて貰ったバレンタインデーのチョコレート

2月14日はバレンタインデー、日本では女性がチョコレートを男性に送る事になっています。

これを『日本式バレンタインデー』と呼ぶそうです。

私が若い頃は、その様な習慣は有りませんでした。

ただし物の本によると、戦前から日本でも、在日しているイギリス人がバレンタインデーに贈り物をし合っていたのを真似て、身内だけで物を贈り合う習慣が細々と有ったのです。

当時、女性からの贈り物は、チョコレートに限られてはいなかったようです。

このバレンタインデーはローマ帝国時代に、女神ユノの祝日が2月14日であった事から由来するのだと、その本には書かれています。

海外では送り主は女性とは限らず、反対に男性から送る場合も多々有るそうで、贈り物もチョコレートに限られてはいないようです。

つまりプレゼントの日が、2月14日と云う事です。

日本でこのバレンタインデーにチョコレートを女性が送るようになったのは、製菓会社の深謀(?)だそうで、女性がその陰謀にワザと粋(いき)で乗ったのか、1970年代(昭和50年代)から競って送るようになってきました。

この頃はテレビなどでも、その日が近付くと大々的に煽るので、義理でも女性が男性にチョコレートを送らなければならなくなってしまいました。

女性も色々な意味で大変です。

私がバレンタインデーにチョコレートを女性から初めて貰ったのは忘れもしません。

開業して6年目、お母さんに連れられてきていた4歳の可愛い患者のお嬢さんが『先生にあげる!』と言って、恥ずかしそうに渡されたチョコレートでした。

バレンタインデーの風習など、無粋な私はその当時、全く知りませんでした。

『有難う!』と小さな患者さんの頭を撫で撫でしながら、『一体、この箱に何が入っているのかな?』と問うと、『バレンタインのチョコレートだよ!』と大きな声が返ってきました。

全く意味不明のまま、治療に対するお礼かなと思っていました。

これがバレンタインデー、2月14日の日に頂いた、初めてのチョコレートです。

もともとチョコレートは自分の好物ですが、こんな可愛いおチビさんからの贈り物は格別の味でした。

うちに帰って家内にチョコレートの経緯(いきさつ)を話すと、『良かったね~』と言いながらお茶を入れて呉れ、二人でチョコレートの御相伴。

そして『バレンタインデーのチョコね!』と言って、その意味の説明を受けて、初めて2月14日の意味を知ったと云う訳です。

今日も用事で某デパートに行きましたが、チョコレート売り場は女性の人だかりでした。

バレンタインデーのお返しはホワイトデー。

これも日本だけだそうですが、男性陣はお返しの贈り物が大変ですね。

頑張って下さいね。

院長の独り言 183 ; 研究生活も気楽ではないです…

私が主に活動していた学会は歯科保存学会です。

昔は、一年に一回開催される、この歯科保存学会は東京で開催される事が多かったのです。

何故なら、私が大学に在籍していた45年前は、歯学部と歯科大7校のうち、東京に4校も集中してあり、地方と云えば大阪と福岡しか無かったからです。

何年に一回は、大阪と福岡でも開催していました。

今は、日本中で29校もの歯学部や歯科大学が存在しているので、仙台、札幌、新潟、広島、鹿児島など歯学部や歯科大学が在る地方都市で開催しています。

そもそも学会とは、どの様な活動をしているのかと言いますと、主に若手研究者の発表の場なのです。

つまり若手研究者の登竜門なのです。

付録として、教授級の先生の特別講演があるのです。

この場で自分の研究が認められる事が、大切なのは言うまでもありません。

自分が発表をしなければならない学会では、噛んだり、詰まったりと、下手な発表をすると恥をかくので、研究室では勿論ですが、自宅に帰っても発表の練習を重ねるのです。

大学院時代は研究だけが仕事ですから、治療でも自分の研究テーマに関係する患者さんだけを診療していました。

小生は運良く、大学院2年生の夏に、教授の目に止まるような研究成果が得られ、その秋の歯科保存学会で発表する事になったのです。

壇上に上がって、大勢の先生達の前で発表するのですから、最初は誰でもアガってしまうものです。

大物政治家の誰かさんの様に、書いた文を見ながら発表するのでは、全く迫力がないので、発表する人はみんな何回も練習して、会場を見据えて発表するのです。

私も研究室の秘書さんや雑用係のバイト学生、結婚してからは家内に、無理矢理聞き手になって貰い、学会の1カ月ほど前から猛特訓していました。

初めての発表の時は、終わるまで緊張しまくりで、食欲も失せる感じでした。

この研究発表は、何度経験しても緊張してしまい、自信が付いてくる性格のものでは無いのです。

何しろ、自分の研究が他大学で同じテーマの研究者に如何(どう)評価されるのかが、一番の気掛かりなのです。

もし高い評価を受けると、歯科の専門雑誌に自分の研究成果が載る事になります。

自分の研究について執筆を依頼されてきた時は、本当に研究者として嬉しいものです。

今、こうやってブログを書いていても、当時の研究生活が走馬灯のように目に浮かんできて、思わず目がウルウルしてしまいます…。

大学院の研究生活では、研究が順調に進んでいる時は良いのですが、そうでない時は、イライラして温厚な(?)私でもやけ酒をあおったものです。

何はともあれ、何とか学位が貰えて、月謝を払う必要も無くなり、研究だけの生活から抜け出る事が出来たのでした。

院長の独り言 182 ; 登山の技術を知らないと…

親父は学生時代、登山部に籍を置いていたほど山登りが好きだったそうです。

私が中学生の時の夏休みに一回だけ、親父に誘われて一緒に山に行った事があります。

池の平温泉にあった一橋大学の寮を職場で紹介して貰い、そこの寮に泊まったのです。

今から思えば、ほぼ毎日、親父は仕事で午前様。

多忙を極め、家族サービスどころではなく、せめてもの罪滅ぼしに、私の夏休みに合わせて休暇を取って、山に連れて行ってくれたのでしょう。

私は学生時代、友人と幾つかの山に登った経験はありますが、本格的な登山の訓練は受けていません。

幾つか登った山の中で、色々な意味で、一番記憶に残っている山は、親父と一緒に登山した新潟県の妙高山です。

妙高山の姿は野尻湖から綺麗に臨めます。

この山の麓にある池の平温泉はにごり湯で有名です。

そこの温泉地にある大学寮に泊まったのですが、寮といっても一橋大学の娯楽施設で、温泉岩風呂付きの、学生には一寸贅沢な山小屋風と云った感じの佇まいでした。

妙高山は、二千五百メートルほどある、威風堂々とした新潟県を代表する名山です。

別名、越後富士と呼ばれているほどで、日本百名山の一つ、文字通り第一級の山です。

現在はスキー場として、全国にその名が知られているのはご存知の通りです。

もともとは、『名香山』と書いて『みょうこうさん』と呼ばれていたそうですが、現在は『妙高山』と字が変わっています。

話を親父と登山した時に戻します。

妙高山頂上の展望はそれは、それは素晴らしい!との事なので、そのパノラマ風景を是非、拝みたくて、前夜は早く床に就き、翌朝は4時前に起きたのです。

寮のおばさんに早く出発する旨、宜しく頼んでいたので、食堂に行くと朝食の支度はすでに整っていました。

今では考えられないのですが、食堂に入るとハエがブンブンと周りを飛んでいて、それも半端な数じゃ無いのです。

ご飯とみそ汁、勿論、新潟ですからコシヒカリ、アジの干物に沢庵のおしんこ、あとは確か、魚の煮物が出ていたと記憶していますが、状況が状況だったので、我々は急いで食事をして、横のテーブルをヒョイと見ると、同じ料理が4人前並んでいたのです。

が、その4人前のみそ汁に2~3匹ずつ、ハエが浮かんでいたのが見えました…。

ビックリしている所に、大学生のグループ4人が談笑しながら食堂に入って来たのです。

どうなるのか、固唾を飲んで見ていたのです、中学生の小生は。

ところが、4人の大学生はハエなど無視したように、みそ汁から箸でハエをつまみ出して、美味しそうに啜(すす)り、楽しそうに談笑しているでは有りませんか!!

何だか、私は拍子抜けしたと同時に、何となくウキウキして食堂を後にしたのでした。

大学生たちの振舞いに、何か感じ入るものがあったのでしょう。

そして、夏の雲ひとつない、風のさわやかな朝、燕温泉麓から登り始めました。

最初は元気一杯、口笛を吹きながら寮のおばさんに作って貰ったおにぎりを入れたリュックを背負い、水筒を斜めに掛けて、登山道を軽やかに進んだのです。

妙高山を登山した人は納得出来ると思うのですが、ここの山道は急坂が続くのです。

こんな急な坂の山は、今まで登った事が無かったし、当時の私はキチンとした登山の仕方が分からなかったので、無茶苦茶な登り方をしてしまい、小生は直ぐバテてしまったのです…。

フーフー言いながら、登っても、登っても、頂上にはたどり着きません。

本当に妙に高い山なので、よくぞ『妙高山』と名付けたものだと、感心するやら、癪にさわるやらで、カッカしながら登って行ったのです。

結局、情けない事に途中で白旗を上げてしまい、登山を中止し、下山すると云うお粗末な結果を余儀なくされてしまったのです。

親父には、『お前は山登りの仕方が全然、分かっていない』と呆れられてしまったのです。

それ以来、二千五百メートルを超すような険しい山には登っていません。

妙高山の登山で恐れをなしてしまったのです。

本格的な登山は甘くないと云う事が、その時、充分に理解出来たのでした。

院長の独り言 181 ; 生まれ変わっても、再び歯科医師になりたい

患者さんから、『先生は何故、歯医者さんになったんですか?』と云う質問を受ける事が有ります。

戦時中に母方の祖母と2人で、岐阜の田舎に疎開していた事は、以前のブログで報告済みです。

両親や兄弟と東京で普通に暮らしていたのが、戦争が激しくなり、急遽、祖母と2人で知らない土地に避難する事になったと云う話です。

疎開した岐阜の親戚の家では、寂しいやら、不安やらで、シュンと小さくしていたのですが、周りの大人達の普段、見た事の無いような緊張した顔を見ていると、小さいながらワガママを言えない事は分かっていました。

夜は敵機の来襲を恐れて、ほとんど毎日、電気を消している様に言われていたので、真っ暗でした。

真っ暗な上に、寂しい思いをしていたのですが、唯一、その真っ暗闇にお星様だけが、宝石を散りばめたように、夜空一面に見事に見えていたのです。

橙色に光る星、白く輝く星、たまに流れ星。

何で星が輝いたり、流れたりするのか不思議でした。

将来、天文学者になって、もっと星の事を知りたいと思ったのは、疎開時の体験からきていたのです。

小学校の高学年の頃は、昆虫や魚、トカゲ、蛇などの生き物に夢中になっていて、将来、絶対に動物学者になろうと心に決めていました。

中学生になった時はプロ野球選手に憧れてはいましたが、自分には実力的に無理だと承知していたので、当時のスター、川上や青田の所属するジャイアンツ、藤村、真田の所属するタイガーズなどのスター選手のブロマイドを夢中で集めて、友達に得意になって見せていたのです。

小学校の女性担任に一寸、絵を褒められた上に、東京都絵画展の小学生の部で、金賞を貰った一人に選ばれて、のぼせ上がっていたので、中学時代は絵描きを夢見ていた時期も有りました。

高校の時はかなり現実的になってきて、父親が公務員であった事もあり、平凡に親と同じ職業になりたいと思っていたのです。

いよいよ大学受験を真剣に考えなければならない時期になった頃、どのような方面に進んだら良いのか悩んでいた時に、親父が『今、歯科医が不足しているそうだ…』と同僚からの情報を、私にアドバイスしてきたのです。

その時、母親も進めてくれた事もあり、私は素直ですから、親の言う事を聞いて歯科医師になったと云うことです。

ちなみにその頃、親類には歯科医師は一人もいませんでした。

歯学部に入ってみると、今まで経験して来た世界とは全く異なり、体験する事全てが新鮮に感じ、解剖学から始まって、病理学、補綴学、口腔外科学、勿論、保存学も楽しく感じたのです。

もしかすると、自分にとって歯科医師が天職なのかも知れないと、その時に思いました。

人によっては血を見るのが苦手と云う場合もあるかと思います。

何はともあれ、50年近く、無事に歯科医をやってこれたのは、私達、石川歯科医院のスタッフを信頼してくれている患者さんのお陰だと心から感謝しています。

この歳になって、あらためて思います。

当時、同じ保存科の医局にいて、遊びに、研究に、切磋琢磨していた埼玉の友達Mさんと『また生まれ変わっても、お互い、歯医者を職業として選びたい!』と話し合っているのです。

院長の独り言 180 ; 恐竜の絶滅について

先日、テレビ番組で恐竜の絶滅をテーマに放送していました。

私も小学生の頃から恐竜についての本を読み、ステゴサウルス(草食性恐竜)やティラノサウルス(肉食性恐竜)など、大型恐竜の想像図を眺めるのが大好きでした。

恐竜は中生代の初期(三畳紀)に、原爬虫類から派生したとされています。

三畳紀とは、今から約2億5千万年前~1億9千万年前の6千万年の期間を指しています。

その恐竜が突然、この地球上から姿を消してしまったのです…。

恐竜の突然の絶滅については、色々な説が有ります。

その中で現在、一番有力な説が大隕石の地球衝突説です。

おおよそ6500万年前の白亜紀に、大きな隕石が現在の北アメリカ大陸メキシコ湾付近に激突した事が原因で、地球の気候が大変動をきたし、その気候の大変動が原因で恐竜が絶滅してしまったとされている説です。

その隕石衝突説が絶滅の決定的原因であるかの如く、番組のイギリス人キャスターは強調していました。

およそ2億年間、地球上で我が物顔に振舞っていた恐竜が、突然にいなくなったと言っているのです。

現在の地球上では千差万別。

数え切れないほどに多種類のホ乳類や爬虫類、両生類、魚類、昆虫類などが生息しています。

勿論、沢山の種類の植物も然りです。

しかし恐竜は全くいません。

鳥類が恐竜の生き残りだとする説が近頃浮上してきていますが、まだハッキリとは分かっていません。

我々にとっての恐竜のイメージは、映画やテレビで御馴染ですが、凶暴で大きな図体をした、失われた世紀の食物連鎖の頂点に君臨していた大王と云ったところです。

化石で発見されているのですから、確かに40トン以上の大恐竜も沢山、生息していたのは事実です。

しかし小犬ほどの体長の恐竜も、化石として結構、発見されているのです。

恐竜のイメージとは程遠い、可愛い恐竜です。

ホ乳類と同様に大小様々、色々な種類の恐竜の化石が見つかっています。

確かに恐竜絶滅の原因として、大隕石衝突による影響は大きいでしょう。

気候が大変動した事により(隕石の衝突により、莫大な量の塵が全地球上に舞い上がり、2~3年間は太陽光が遮られ、地球全体が大寒冷期になったとされています)、先ず太陽の恵みが大減少したので植物が枯れ、草食性恐竜が死に、その草食性恐竜を捕食していた肉食性恐竜が絶滅したと言われているのです。

が、いくら気候が大変化して食物が激減しても、チビ恐竜ぐらいは生き延びる事が出来ない訳が無かったでしょう。

そして現に、恐竜と親類のようなワニやトカゲは、今でも地球上に生息しています。

その大危機を乗り越えているのです。

人間の先祖のホ乳類も生き延びているのだから、我々も現在、存在しているのです。

他の色々な種類の生物、両生類、魚類、昆虫類などが生き残っているのに、恐竜だけが全種類、絶滅してしまうほど、恐竜は弱(やわ)な生物だったのでしょうか。

皆さん、如何(どう)思いますか。

小生は、恐竜が絶滅した決定的な他の要因が有る様な気がしてなりません。

考えも及ばないような、もっと恐ろしい理由が有る様に思えてならないのです。

例えば、隕石が地球に衝突しようがしまいが、『恐竜は2億年で絶滅する事になっていた』のではないでしょうか。

隕石衝突が、少しは絶滅時期を早めたかも知れませんが…。

もしかすると、われわれ人間にも『絶滅因子』が、その遺伝子レベルに埋め込まれているかも知れません。

100年後か1億年後か、想像は出来ませんが。

これは、いつもの様に小生の独り言ですよ。

院長の独り言 179 ; 早朝の交通事故

仕事の関係で、今日(2月4日)は何時もより早く家を出て、息子の運転する車に乗り、診療所に向かいました。

朝5時過ぎなので、外は真っ暗です。

冬の真っ只中、暗いだけならまだ良いのですが、寒いのには敵いません。

ほとんど人の姿も無く、車もあまり走っていません。

ところが、脇道から甲州街道(国道20号)に出た途端、様相がガラッと変わり、車の往来が激しくなり、流石、第一級国道と云った感じです。

トラックを中心に朝の暗いうちから忙しそうに車が行き来しているのです。

何時も混んでいて渋滞で悩まされるのは、日野橋の五叉路。

今日はまだ朝の5時と云う事もあってか、順調に通過出来、ホッとしていた時です。

隣にピタッと、小さなバイクが並走しているのに気が付きました。

そのバイクの運転が少々雑なのです。

ヘルメットに隠れていて、しかも周りが暗いので、あまりハッキリとは見えないのですが、50歳前後のおじさんのようです。

交差点の赤信号でも無視して突っ込みそうになり、少しフラついている様なので、アルコールでも入っているのではないかと思うくらいです…。

片道2車線、我々の車は内側の車線の方を走っていました。

外側の車線を走っていたバイクが、急に我々の前に車線変更して、前に割り込んできたのです。

随分と乱暴な運転に腹も立ったのですが、冷静になって、間隔を少し多目に空けて、暫くバイクの後ろを注意しながら走っていると、急にバイクが右折しようとしたのです。

その途端、勢い余ってバイクは横転してしまいました!

バイクが反対車線に飛び出して転んだところへトラックがバイクに乗り上げ、その勢いでおじさんは跳ね飛ばされて、我々の車の前にはじき飛ばされて来たのです。

咄嗟(とっさ)の事でしたが、息子が急ブレーキをかけて倒れているおじさんの寸前で止まる事が出来、間一髪!!!

大事故に成らずに済みました…。

はねたトラックは陰も形も無いほどに脱兎の如く、反対車線を走り去ってしまいました。

バイクおじさんの100%自損事故で、トラックには全く責任がないのは明らかでした。

さらにビックリですが、事故現場が交番の真ん前だったのです。

目撃者が警察官だったので、我々も面倒な事に巻き込まれないで済んだのは、『不幸中の幸い』でした。

お巡りさんが2人、目の前で事故をしっかり目撃していたのです。

『よく轢かなかったね…』とお巡りさん。

その時、息子はと云うと警察官より素早く携帯電話で119番していました。

命は大丈夫な様でしたが、ズボンの下からかなり出血していたのです…。

自力で立ち上がっていたので、奇跡的に軽傷で済んだようです。

事故の起こった場所は、国道20号(甲州街道)に架かっている八王子の大和田橋近辺で、この場所は江戸三大刑場の一つだった大和田刑場跡だそうです。

この刑場では、主に多摩の罪人を処刑していたそうです。

甲州街道に架かっているこの大和田橋付近では交通事故がよく起きるので、首を切られた罪人の祟りのせいだと噂されている気持ちの悪い場所なのです。

我々が事故には関係ないと云う事で、目撃していた警官も直ぐ解放して呉れました。

自分が安全運転していても、事故に巻き込まれる事もあるのです。

私もそうですが、皆さん、運転には充分注意しましょう!

早朝から、本当にビックリさせられました…。

院長の独り言 178 ; 本当に今年の冬は寒いですな…

ここ一週間、日本列島は凍てつくような寒さです。

北海道は毎年の事ですが、日本海側の新潟、富山、石川、鳥取、島根県など、軒並み積雪の被害を受けていて、テレビの画面を見ていると同情しきりです。

今では差別的な表現とされメディアでは使用されなくなりましたが、私が小、中学校の頃は、本州の尾根を境に、表日本、裏日本と社会科の授業では教わっていました。

幼いながらに、実感として納得していたのです。

川端康成の『雪国』の冒頭では有りませんが、清水トンネルに入る前は、関東平野の晴天で雪のカケラも無い風景が、長いトンネルを出た途端、驚く程の雪景色。

小学校で習った社会科、日本地理の教科書にその対照的な写真が載っていました。

その写真から、『裏・表』の表現が本当にドンピシャで、古人の表現力に、単純に感心していました。

この頃は温暖化とやらで、雪の降る量が減って来て、今回の様な大雪は珍しいのではないでしょうか。

昭和30年代の私が子供であった頃は、東京でも、ひと冬に2~3度の大雪に見舞われて、友達と校庭に大きな雪だるまを作った記憶が有ります。

そして、降ってくる雪を掌に乗せて、マジマジと観察したものです。

雪の結晶はその時の気温だとか湿度などに深い関係が有るそうで、六角対称形では共通なのですが、皆さんご存知のように、形は千差万別です。

この雪の結晶を写真で見ると、本当に見事なもので、自然の力に驚くばかりで、ジッと暫し見惚れてしまいます。

雪を人工的に世界で初めて作って見せたのが、北海道大学の中谷博士だそうです。

氷では無いですぞ。

世界中の雪博士が出来なかった人工雪を初めて作り、雪の結晶と温度の関係を中谷博士が見事に解明したのだそうです。

あんなに見事で二つと無い、六角形の雪の結晶が何故、出来るのかを解明したのです。

雪も見ているだけなら、ロマンチックな気分にさせられますが、実際降られてみると、こんな厄介な白物(代物)はありません。

大雪の被害に遭われている皆さんには、重ねて同情しきりです…。

こちら八王子の少しぐらいの寒さで『寒い!寒い!』などと、弱音を吐いていては罰(バチ)が当たると云うものです。

実は2日前に、当院3階の診療室の暖房機が故障してしまい、患者さんに大迷惑をかけてしまいました。

よりによって、この冬一番の寒い日に故障とは、皮肉なものです。

早速、息子が八王子駅前の家電量販店に電気ストーブを3台、買いに行き、担いで持って帰り、グッタリしていました。

『患者さんが凍えた状態で、治療を受けさせたくないから…』と笑いながら息子は言っていました。

患者さん本位で動いている姿を見て、この診療所の患者さん達を将来、託す親としては、思わずホッとします。

院長の独り言 177 ; 裸のお付き合い

小生が在籍していた歯科保存学教室は、教授以下20数名の医局員で構成された教室でした。

新入医局員が入局して来て暫く経つと、親睦を兼ねて一泊旅行をする事が有りました。

大きな組織と異なり、小ぢんまりしていたので、新入医局員(助手、大学院の学生、専攻生)が入って来ても、直ぐにお互い顔を覚えてしまいます。

別に一泊旅行などする必要がない様に思えるのですが、これが大違いで、一緒に温泉に入り、宴会で酒を酌み交わすとアッという間に、親密度が増すのです。

教室員同志、親密度が増すと、教室の雰囲気も明るくなり、仕事の打ち合わせもスムーズに行き、結果として、学生に対する指導も、教室の研究も、さらに患者さんに対する治療にも良い影響を及ぼすのです。

学生時代に教わっていた時は凄く怖いと思い、また意地悪な先生だと感じていたS教官。

何しろ、取っ付きにくい先生なのです…。

入局してからも何となく敬遠していたのですが、この親睦会の旅行を境に、一遍に親密度が深まり、一緒に温泉に入ったり、熱燗を差しつ差されつした日からは『修ちゃん、修ちゃん』と、何かにつけて声を掛けて呉れる様になったのです。

学生の時の『負の印象』と異なり、付き合えば付き合うほど、味のある素晴らしい先生である事が分かってきました。

『物には触れてみよ、人には添うて見よ』とよく言われますが、人との付き合いは、上辺だけの付き合いではその人の本質には所詮、触れる事は出来ないのでしょう。

多分、親睦会に参加しなかったら、S先生と道で偶然、逢ったとしても、挨拶程度のお付き合いで終わっていた事でしょう。

開業してからもS先生との付き合いは続いて、色々な人生勉強をさせて貰いました。

S先生曰く、歯の治療でも、患者さんが『上の歯が痛い!』と訴えてきたら、先ず『下の歯をよく観察せよ』と、私が未熟で若い時に忠告して呉れましたが、この言葉は治療の神髄をついていると今でも思うのです。

お陰で診療している時に、この言葉を思い出して、焦る事も無く、慌てずに落ち着いて治療を無事、済ませています。

要するに、患部だけを診ないで、周りを十分、注意して事に当たれと云う事です。

この言葉は歯の治療の時だけでなく、自動車の運転の時や会議の時など、あらゆる場面で応用している私なのです。

入局して研究などで悩んだり、随分と苦労しましたが、入局したからこそ、良い先輩、同僚、後輩に出会う事が出来たのです。

小生にとって、保存科に入局して経験した事は生涯の宝物です。

いくら卒業後、医局に残っても、教室員と積極的に自分から付き合っていかなければ、大学に残った甲斐が無いと云うものです。

一度でも、お互いにヘベレケになるほど、お酒を飲み交わせば、大体、仲良く付き合える様になるものですよ、男同士は。

飲めない人には失礼しました…。

しかし、風呂に一緒に入り、裸の付き合いをすれば、万事オッケー。

丸く収まります。

但し、仲良くなったとしても、あまりドべドべと相手の心に踏み込まない事が長く上手に付き合うコツですね。

女性同士の付き合いは、この歳になっても小生には全然、分かりませんが。

アゴ骨を再生し、インプラント治療を審美的に行った症例

以前、『CTの有用性について2』にて書いた治療の続きです。

CT撮影にて、左上第一大臼歯の歯根の先に病巣が見つかり、その感染した歯を抜歯した後、インプラント治療を施しました。

抜歯後、ソケットプリザベーション(炎症で溶けてしまったアゴ骨の再生)を行い、4ヶ月待ってから、インプラントを埋入しました。

インプラント埋入の際、骨幅は十分ありましたが、骨の高さが不足していたため、ソケットリフト術(お鼻の空洞を持ち上げ、骨の高さを補填する方法)により骨の高さを持ち上げ、インプラント体を埋入しました。

その後、4ヶ月待ってから印象採得(歯型を採る事)をし、上部構造(被せ物、クラウン)を装着しました。

今回のケースでは根尖病巣が上顎洞(お鼻の空洞)まで近接しており、上顎洞粘膜も炎症で少し肥厚していたため、抜歯窩(歯を抜いた後の穴)の治癒を待ってからインプラントの埋入を行いました。

・抜歯前 根尖を囲むように大きな病巣があります。

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・抜歯後4ヶ月、抜歯窩に骨ができています。

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・ソケットリフト術を行い、インプラント体を埋入しました。

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・デンタル写真です。インプラント体はケンテック社のアルファタイトインプラントTF4.3㎜×10㎜を使用しました。

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図2

図3

 

 

 

 

 

・術前と術後の口腔内写真です。角化歯肉も十分あります。

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・咬合面です。… Continue Reading