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院長の独り言 297 ; 子供に対する言葉使いには、注意しましょう!

年寄りは朝、起きるのが早いと言われます。
私自身を振り返ってみると、還暦を過ぎたころから、間違いなく目覚めが早くなりました。
前の晩に早目に寝ても、夜更かししていても、決して大袈裟ではなく、朝4時には目が覚めています。
下手をすると、3時半ごろには目が開いてしまう日もあるのです。
このブログも、朝5時過ぎに、パソコンを開いて打ち込んでいます。
自分でも、『折角の休日なのに、アホじゃないか…』と、内心、舌打ちしている始末です。
退屈なので、5時にテレビのスイッチを入れて、NHKの番組を見てみました。
画面には、関西落語家の鶴光師匠が、例の独特なしゃべりで観客を笑わせた後、奇抜な金髪姿の小朝師匠が、教育評論家の尾木ママ(通称)とエッセイスト黒川伊保子さんと、子供の育て方について討論し始めました。
子供の性格形成もそうですが、お二人によると、言葉使いや礼儀作法などの所作は、8歳頃までに完成されてしまうそうです(臨界期といいます)。
特に、容積においては6歳までに、成人脳の容積の9割が、完成してしまうのです。
家庭で荒い言葉を多く使っていると、子供も荒い言葉使いになってしまうのです。
例えば、子供を叱る時には、8歳頃までは、『こら!』とか『くそ!』などと荒削りな言葉より、『いけません』とか『駄目でしょ』とたしなめるべきだそうです。
本当に、そんな悠長に育てていられるのかどうか、私には分かりませんが、少しでもこの事実を頭の隅に入れているかどうかで、子供の未来は変わってくると思います。
日本の時代劇映画で見られる事ですが、武士の親がその子供に対して、現代の我々にとっては信じられないほど、言葉使いや礼儀作法が綺麗です。
まるで、他人(ヒト)の子を育てているようです。
勿論、歴史的事実に基づいて描かれているのですから、嘘でもオーバーでもありません。
尾木ママも黒川女史も、小学校高学年や中学生に成長すれば、『こら』でも『くそ』でも、何でも良いそうです。
大切なのは、あくまでも8歳までだそうです。
元来、日本語は、心の襞まで届く、繊細で美しい言葉ですし、人を思う礼儀や所作も、元来、我が国ではたいへん大切にされてきました。
小学校低学年を受け持っている先生は、人間の成長で一番大切な時期を任せられているのですから、本当に御苦労さまですが、下品な言葉や礼儀には、大いに注意して当たるべきであると、二人は強調していました。
私も恥ずかしい事ですが、子育てを錯覚していたところがあったようです。
子供に対して、幼い頃から『嘘はつくな!正義感を大切に!人に思いやりを!』を三本柱に育て、言葉使いなどは、あまり気を使いませんでした。
子供の人格形成や、言葉使い、そして所作は、思春期を過ぎるまでの成長過程で、友達などの影響を受けて、ゆっくり育(はぐく)まれていくものと思っていたのです。
わが子育ての『三本柱』を、強調し過ぎた傾向がありますが…。
もうひとつ、お二人の先生が強調していた事は、親が決して先生の悪口を言わない事だそうです。
子供が先生を批判しても、それに絶対、乗らない事が大切だそうです。
この事は、あくまでも小学校低学年の話です。
もし先生の態度に疑問があったら、直接、相談に行けば良い事です。
『相棒』の水谷豊のマネではないですが、もうひとつ!
テレビの影響を子供はモロに受けるので、テレビ番組制作者は、くれぐれも、子供の成長を充分に意識して、内容や時間帯などを考えて、番組を制作すべきだそうです。
そう言えば、随分前のブログに書きましたが、小生が先生に怒られた事を不満に思って、母親に必死に告げ口したら、『先生がお前の事を怒ったのだから、お前が悪い!』と言って、相手にして貰えなかった事を思い出しました。
子供の純粋な心には、教育者に対する親の不信感が、ストレートに沁み入ってしまうのでしょう。
最後に、小生の早起きの話ですが、自分が早起きしてしまう最大の原因は、多分、昼休みに20~30分くらい昼寝をしているからだ!と気付き、息子に話してみましたら、息子は事無げに『年を取って、体力が落ちたからだよ。寝るのにも、体力が要るからね』とのことでした…。
まったく、年は取りたくないですね~。

院長の独り言 296 ; 若いひとを祝福して、育てていこう

バブルが弾けてから20年以上経つのに、我が国は一向に景気が良くなりません。
加えて、2008年のリーマンショックで、アメリカ経済が大打撃を受け、世界中がそのショックの余波をモロに受けてしまいました。
これらはすべて、欧米の投資銀行の、あまりにも自己中心的で、強欲な行為(Greed)による人災です。
そこに今年、日本は東日本大震災による大災害を受けてしまいました。
さらに、原発事故の酷(ひど)い被害…。
これも明らかに人災です。
そしてギリシア国債の下落による欧州金融危機…。
益々、日本は追い込まれています。
世の中暗い事ばかり起きてしまい、気が沈んでしまいます。
自殺者の増加、会社の倒産、若者の就職難、そして若者による犯罪…。
数え上げれば限(きり)がありません。
気が晴れる日は来るのでしょうか。
先日、ボーとテレビを見ていると、結婚式が行われています。
皆に祝福されて、幸せの絶頂にある新郎新婦の笑顔が、画面一杯に映し出されます。
おもむろに、10年前に読んだ、源氏鶏太氏の『わたしの人生案内』の一文を思い出しました。
このエッセイ集は、50遍ほどの短いエッセイをまとめた作品集です。
源氏鶏太氏は、サラリーマンの悲喜交々の日常生活を題材に、『三等重役』や『若い仲間』など映画化された作品も多い、大衆作家です。
どの小文も大変面白いのですが、その中で妙に頭の中に残る、『駅前の食堂』と題されたエッセイを紹介します。

(以下、要約引用)
ある地方の駅前食堂の話です。その食堂の2階で、会社の同僚男女10人ぐらいが集まって、にぎやかに酒を飲みながら食事をしていました。
傍から見ていても、本当に楽しそうでした。
その同じ食堂の片隅で、ひっそりと寄り添うように食事をしている若い男女がいたのです。
二人は、服装から貧しい会社員同士のようです。
その二人は、にぎやかなグループの方を眺めて何かヒソヒソ話をしていたのだが、意を決して起ちあがり、グループの方に近寄って行ったのです。
『たいへん失礼ですが…』
二人がひどく緊張しているのはその表情を見れば明らかです。
突然の飛び入りに、今まで、にぎやかに酒を飲んでいたグループは一瞬、シーン。
『何か…』グループの中の一番年長の課長らしき人が言いました。
『実は、私たち、たった今、八幡様で二人だけの結婚式を挙げてきました』
グループの人々は信じられないと云う顔をしました。
しかし、若い男は、自分の名刺を出して、更に、コンブとスルメ等を見せたのです。
『私たち、二人とも孤独で祝って呉れる近親者もいません。さっきから向こうの席で拝見していますと、たいへんにぎやかそうなので羨ましくなりました』
もし差し支えなかったら、ご一緒させて欲しいと突飛な申し出があったのです。
グループの一人が『結構じゃありませんか』と言うと、他の人々も『賛成、賛成』。
たちまち二人のために新しく中央の席が出来たのです。
『おめでとう』『乾杯!』皆はそう言っただけでなく、何人かが立って、祝辞も述べたのです。
さっきまで赤の他人同士であったのに、今の二人は、人々から百年の知己のように迎えられ、祝福されているのです。
若い二人は本当に幸せそうでした。
おそらく、二人にとって、人々の好意は、どんな盛大な披露宴より嬉しく感じ一生忘れる事はないでしょう。
(引用終わり)

何でこのエッセイが頭に突然浮かんできたのか、自分でも不思議なのです。
今の日本が不景気とは云え、私が子供のころの方が貧しくて、不便な世の中でしたが、人と人との触れ合いは、実に暖かいものでした。
ブログにも書きましたが、子供のころ、玄関のカギを掛けていた家は、周りには一軒もありませんでした。
近所のガキが悪さをすれば、赤の他人でも本気で怒って注意して呉れました。
いじめなど勿論、無かったと云うより、周りがさせなかったのです。
本当に、自分が子供の頃のように人と人がもう少し触れあうような世の中にならないものでしょうか。
映画ひとつとっても、殺し合いか機械人間などで、人情味のある心の琴線に触れる作品が本当に少なくなってしまいました(この事も大分前のブログに書きましたね)。
今の人は、自宅に何重もカギを掛けて生活しているなんて。
むかしは、近所のおばさん同士、しょっちゅうお互いのうちを自分の家のように出入りしていましたし、夕飯のおかずも融通し合っていました。
源氏さんのエッセイは、今となっては、完全にノスタルジーの世界ですが、もしかすると、大震災を機に、再び助け合いの精神が注目されるかも知れませんね。
われわれ壮年期を過ぎた大人たちが、老後の心配に駆られて、若い人たちを助けないと、日本は本当に駄目になってしまう…。

院長の独り言 295 ; 沖縄のK君

大学院を卒業して、めでたく文部教官(助手)になった年に、歯学部を卒業して専攻生として保存科に入局してきた沖縄出身のK君。
真面目な好青年です。
保存科は、虫歯や歯周病に侵された歯を抜歯しないで、保存するのをテーゼとする臨床系講座です。
また専攻生とは、歯学部だけの勉強では物足りないので、2~3年間、臨床系の医局に残って、専門的な治療実技を身に付け、腕力を蓄えてから、病院に就職しようする人の為にある制度です。
専攻生になると、先輩が治療している脇について指導を受けながら、治療の腕を磨く事になります。
彼は入局して直ぐ私と仲良くなりました。
理由は私が囲碁を少々打っていたからです。
私の囲碁の腕は、アマチュア2段程度で、大した事ありません。
彼は囲碁を始めたばかりなので、腕はと云うとまあまあと云うか、正直、下手でした。
しかし、碁を打てば打つほど、あまり上手くない私に、『是非、囲碁を教えて欲しい!』と喰いついてきます。
2ヶ月もしてスッカリ親しくなった頃には、沖縄出身であるとか、父親が中学校の校長であるなど、少しずつ生い立ちを話し始めたのです。
私が診療や学生指導などで、一日の仕事を終えた後、待っていた彼と遅くまで医局で囲碁を打ちました。
『先生、もう一度!もう一度!』と何度も挑戦してきましたが、いつも私の勝ちでした。
私が教授の講義係をしていた関係上、しばらく経つと、K君も一緒に教授の話を聞くことになったのです。
学生の時にも受講した、教授の講義をあらためて聴いてみると、『今回は良く理解できます!』と感激していました。
囲碁は結局、発展途上でしたが、治療に関して、大いに腕を上げたのです。
数年後、K君は治療と研究に奮闘して、晴れて、助手(助教)に昇格しました。
また、その数年後、私は八王子市で歯科医院を開業し、彼は郷里の那覇市で開業したのです。
あまりに遠すぎて、その後、年賀状だけのお付き合いとなってしまいました…。
今から10年前、保存学会の会場で15年振りに、偶然、彼と再会しました。
大学の医局時代のK君と変わらず、本当に元気そうでした。
『先生、お久しぶり』と言って、私に抱きつかんばかりに駆け寄り、しっかりと両手を握り合いました。
一頻(ひとしき)り、沖縄での生活や診療の現状を話してくれた後に、『先生、あれから随分、碁を修行したので、是非、お手合わせ願います』と、大きな目を更に、目一杯開いて、私に挑戦状を叩き付けてきたのです。
私はと云えば、開業して以来、診療や歯科医師会の業務に忙しくて、囲碁どころでは無かったのです。
自信も無かったので、『またにしよう…』と逃げたのですが、『如何しても、一回打って、先生をギャフンと言わせたい!』とセガムので、結局、旅館でお手合わせする事になってしまいました。
偶然、同じ旅館に泊まっていたのです。
昔の同僚や顔なじみの先生たちが興味津々で、われわれの対戦を観戦しています。
果たして、結果はどうだったでしょうか?
結果は、医局時代の時と同じで、私のジャン勝ちでした。
K君、本当にシュンとしてしまい、気の毒としか言いようがなかったのでした。
『江戸の敵を長崎で…』とは、いかなかったのです。
小生の返り討ちです。
そのK君が、小脳出血で突然倒れてしまったと緊急連絡が入ったのです。
K君、頑張って再起して下さい。
回復を祈るのみです。
彼の人懐っこい、大きな目が、頭から離れません…。
K君、元気になって、また碁を打とうよ!今度は、こちらからの挑戦状だ!

院長の独り言 294 ; 若い人はバンカラ精神で行こう!

この頃の若い男性は、女性に負けないほどにオシャレです。
大学生が学生服を着ているのに、まず会いません。
自分が二十歳(はたち)の時は、バンカラ風(?)が当たり前でした。
あくまでも『バンカラ風』で、いくら何でも、漱石や紅葉の小説に出て来るような旧制高校の流れを汲む、汚い学生服に破れかけた学生帽、高下駄を履いて、腰には手拭いといった、正統派バンカラで学生生活を送っていた訳では勿論ありません。
50年以上前は、ほとんどの男子大学生は入学時、高校の学生服をそのまま着用していました。
今と違って、高校生の制服は、金ボタン付きの学生服が9割以上だったのです。
まだ敗戦の雰囲気を色濃く残していた時代の事です。
日本自体が貧しかったので、大学に進学する人も大変、少なかったのです。
入学しても、背広などを新調すること無く、みんな金ボタン付きの高校の学生服だったので、親は貧しい家計の事を考えると、大助かりだったに違いありません。
今では、学生は勿論、若者みんな個性豊かな服装をしています。
バンカラの学生服として残っているのは、応援団が着ている学生服みたいな学ランだけでしょう。
『バンカラ』の語源は、明治初期に西洋から入ってきた服装文化を『ハイカラ』と言っていましたが、それと対比させた、所謂、造語です。
『バン』は野蛮の蛮からきたもので、ハイカラのアンチテーゼ(正反対)と言ったところです。
『バンカラ』と言っても、戦前の若者が『野蛮』を意識して、名前を付けたのではありません。
明治維新で活躍した若き獅子に憧れたからでしょう。
武士道の質実剛健さを汲んでいると云う事で、『ハイカラ』など糞喰らえ!と、若者の大人社会に対する反抗心が『バンカラ』なのでしょう。
今では国内で、このバンカラが強く残っているのは、岩手県だけで、岩手県では『バンカラ』はイコール模範生の事だそうです。
自分はと云うと、学生服は着ていましたが、これはただ単に、親になるべく負担をかけたく無かったからです。
多分、友達たちも同じ思いだったのでしょう。
大学に入学したのですから、新しい洋服を着たかったのが本音でした。
数年後には、アルバイトで稼いだお金で背広を買い込み、悦に入っていた自分を懐かしい気持ちで思い出します。
当時は貧乏学生ばかりでした。
地方出身の学生は、汚い寮に入って我慢していました。
今の若い女性が、もしその学生寮を訪れたら、あまりの不潔さで卒倒し兼ねません。
当時の学生は、政府が十分討議しないで、ある施策を国民に押し付けようとすれば、直ぐにデモを行い、社会に訴えました。
社会の歪みに対して、真っ先に抗議をしていたのは学生だったのです。
学生につられて、労働組合などの大人が後押ししていた訳です。
一方、今時の若者は大人しくて、内向的ですね。
政府がある施策に対して、国民に理解を得ないで決断しても、デモもしません。
現代の若者は、物分かりが大変、良いのでしょうか。
しかし、社会を動かしていくのは、正義感の強い若者の意見と行動が大切だと思います。
若者の意見は、ナイーブ過ぎても、青臭くても、偏っていても、私は良いと思うのです。
若者の捨二無な情熱が、大人達を覚醒させるのです。
お洒落(しゃれ)やゲームもいいけれど、日本の将来が幸福になるように、若い人は社会の色々な問題に敏感になって貰いたいと願っています。