* You are viewing the archive for 8月, 2010

院長の独り言 137 ; 明日は『防災の日』

6歳の時に疎開先の岐阜県中津川で、三河島断層大地震に遭遇した事は随分前のブログ(院長の独り言 42; 地震の経験)に書きました。

『関東大震災の被害を忘れないように…』と、今年も9月1日は『防災の日』と云う事で、防災訓練が各地で行われます。

通勤時に通っている多摩川の日野橋そばの河原では、毎年9月1日に、大規模な地震防災訓練が行われています。

多くの消防士や警察官、市役所の職員、一般市民が集合し、消防自動車、ハシゴ車、救急車、パトカーなどが勢揃いして、消火や怪我人の救助などの色々な訓練を集団で行うのです。

訓練する事によって地震の恐さをあらためて認識する事になるでしょう。

自分は小さい時に大地震を経験した事で、地震には大変関心を持っています。

東京都下に住んでいますから、関東地方のここ500年間の大地震についても、どのくらいの間隔で発生しているのかを遡って調べた事が有ります。

関東大震災は、1923年9月1日正午に発生。

M7.9と云う凄まじい地震でした…。

丁度、明日で87年目になります。

その前の大地震は、元禄の大地震で、1703年に起きています。

M8.1と云う、まれに見る大地震であったと物の本には書かれています。

関東大震災の220年前です。

また、その前の1293年、永仁の大地震(鎌倉大地震)は、関東大地震と同じ系列の地震である事が東京大学地震研究所の調査で明らかにされています。

即ち、『相模トラフ』と呼ばれるプレート境界で起こる大地震の事です。

この地震は1293年に起きていますから、元禄の大地震より410年前と云う事になります。

間隔はマチマチですが、末尾の年の数字が『3』であるのは、偶然とは云え、全く不思議ですね…。

その他に、地震の起こるメカニズムは異なりますが、安政の大地震は1855年に江戸の街に大きな被害をもたらしていますし、1649年には日光東照宮が被害に遭っている日光地震など、本当に数えると、多くの大地震が関東地方を襲っているのです。

そろそろ東京に大地震が来るのではないかと巷で囁かれていますが、地震の起きる間隔は当たり前ですが、自然現象なので一定では有りません。

ただ、関東大震災のようにM8級の大地震は、大体200年周期で、一回起きる程度である事を歴史は教えて呉れています。

しかし、M6前後の地震でも、直下型はどのくらいの間隔で起きるのかは全く分からないのが現状だそうです。

やはり、常に用心が必要なようですね…。

院長の独り言 136 ; 日本国政府への信頼がなければ、いくら為替介入しても水の泡です!

本日の為替レートでは、1ユーロは107円を切っています。

2年前にフランスを訪れた時は、1ユーロが160円以上でした…。

これは、東京の都市銀行でユーロに交換した時のレートです。

旅行を御一緒した人達が、現地のフランスで両替していたのですが、1ユーロ180円を超えており、大変なユーロ高でした。

2年前に東京で、3千円でランチを食べるとかなり豪華な感じでした。

ところが、パリのホテルでは3500円のランチが、東京のランチと比べ物にならないほどにお粗末な食べ物、サンドイッチ程度でした。

『全く、フランスの物価は高いなぁ~』と実感した2年前が嘘のように、今はユーロ安です。

この夏、ヨーロッパを旅行した友人の話によると、日本と比べると何でも安く感じるそうです。

と云う事は、ヨーロッパから日本に来る人は、逆に日本は何でも物価が高く感じるのではないかと思います。

私も2年前は友人にフランス旅行の感想を聞かれれば即座に、『フランスは物価が高い!』と強調していたので、それを聞いていた友人の中で、海外旅行を計画していた人は、ヨーロッパの物価に恐れをなして敬遠してしまったほどです…。

現在、欧米から日本に来ている旅行客は国に帰って、『日本は物価が高い!』と、私と同じように無邪気に吹聴している事でしょう。

政府と日銀が、早く円安傾向にしないと、海外からの観光客が激減するのでは無いかと心配になります。

過度の円高は、日本人の海外旅行、石油や小麦など外国からの輸入には大変好都合ですが、自動車や半導体など日本からの輸出にはすこぶる不利になりますし(我が国は輸出で繁栄している国です)、海外の観光客から日本は敬遠される訳です。

中小企業の社長さんが、円高に関するテレビインタビューで悲鳴を上げて『早く円を適正なレートにしてください!』と、政府と日銀に訴えている姿が目に焼き付いてしまいました。

このまま円高が続けば、外国に物が売れなくなり、倒産する会社も増える事になり、益々不景気になることでしょう。

遅きに失する事の無いように、政府と日銀には、為替に迅速に対処して欲しいものです。

何をするにもタイミングが一番大事だと思うのですが…。

また、現在の日本政府は外国、特に欧米からの信頼を失しているのでしょうか?

日本政府と日銀だけが為替介入しても、外国政府が協調してもらえなければ、為替への効果は薄いと思われます。

この日本国の迷走状態をどうにかしなければ、所詮、為替も国民生活も不安定なままですね…。

院長の独り言 135 ; 頑張るぞ!!

8月20日(金)から今年後半の診療開始です。

休暇中も、『一週間も休んでしまい、患者さんに迷惑を掛けたのではないか…』と心配していました。

お盆休み中、何日かは息子と若いドクター山森君が、歯科専門誌に載せる為の原稿を書きに、診療所に来ていたのですが、痛くて困っている急患の方からかなり電話が入り、執筆が中々、捗らないほど忙しかったそうです。

治療を補助してくれるスタッフは休暇中でしたので、何時も以上に余計に大変だったようです。

私はと云うと、家内と一緒に両親のお墓参りへと千葉の八柱霊園へ、お花やお酒を手向けに行って来ました。

何しろ親父は酒が大好きだったので欠かせませんし、お袋も嫌いな方では無かったので、日本酒を持参しました。

霊園に着いてみると、平日だったのですがお盆と云う事もあり、多くの人がお参りに来ていました。

日本もまだまだ礼節を重んじる人が沢山いる事が分かり、思わず安心してしまいます。

それにしても、毎日暑くて暑くて、ジッとしていても全身から汗が吹き出てきそうです。

こう云う猛暑に負けない身体作りの為、逆も真なり!

次の日は、例の医科歯科大学の同級生4人組で、横浜カントリークラブにゴルフとしゃれ込みました。

その日も朝から陽差しが強く、ゴルフ場は体感40度を超えると思われ、毎日、アチコチへ忙しく動く小生に、『少しは自分の歳を考えなさい!』と家内も呆れ顔です。

小生も内心は少し『危ないかな…』と思ったのですが、勢いでプレーを楽しみに行きました。

ゴルフ場は当たり前の事ですが、この暑さですから春や秋の好シーズンと違い、かなり空いていましたが、若いプレーヤーに混じって、我々より年配の人もチラホラとラウンドしに来ていました。

『これは負けられない!頑張ろう!』と4人とも変に対抗意識が出て来たのです。

何しろ、混んでいないので、ティーグランドに立つと素晴らしい開放感を味わえます。

プレーする前から汗が出てきて、その上、日本の夏は多湿ですから蒸すので、身体は本当に辛いのですが、身体を動かす喜びには変え難く、はなはだ矛盾した感じです…。

ゴルフの内容は例の如く全員、スコアは100程度と相変わらず『下手の横好き』と云ったところでしたが、4人とも大いにリラックス出来たし、熱中病にもならず、ホッとしたのでした。

一方、石川歯科の若い2人のドクターは休みらしい日は無く、気の毒な夏休みでした。

その他のスタッフと小生は一週間休みを取る事が出来、英気を養う事が出来ました。

アッという間に夏休みも終わってしまい、これから気合いを入れて診療に当たるよう、今年の後半初日の朝のミーティングでスタッフ一同確認し合ったのです。

院長の独り言 134 ; わが石川歯科医院…

八王子で開業して40年程になります。

わが医院に診療に来て頂いた患者さんは、ざっと一万人を超えています。

信頼して頂き、本当に心から感謝します。

40年間も診療していると、残念ながら亡くなった患者さんもいらっしゃいますが、開業以来ずっと、診療に来られる方が多くいます。

あまたの歯医者さんの中から、わが医院を選んで頂き、重ねて心から感謝する次第です。

毎朝、診療前にスタッフ全員で行っているミーティングでは、患者さん本位の診療を心掛けるように毎回、話し合っています。

『自分や自分の家族を診るように診る!』

これが石川歯科医院の究極の目標です。

我々スタッフは、患者さんの悩みを真摯に聞き、出来るだけその希望に沿える様に、常に勉強を怠っていないつもりです。

現在、若いドクター、衛生士、受付のスタッフ全員、休日でも研修会に参加して、最先端の知識を吸収する様に頑張っています。

以前は、例えば内科医は、身体全体を聴診器一つで診ていたものですが、今では胃だけの専門、肝臓だけ、大腸だけ、腎臓だけの専門の医師と云った具合で、総合的な診療を行うプライマリーケア医と並んで、各分野の専門医が活躍する時代になっています。

現に、手の指の外科診療のみの医師もおり、それはそれで、大変繁盛しているのです。

診療する側は、更なる専門的な知識を求められている訳です。

スタッフ全員、優しさと向上心を持ち、緊張して患者さまをお迎えしています。

従って、患者さんにもそれなりの対応をお願いする事になります。

診療する人もされる人も、お互いの立場を理解し合う思いやりの心が、素晴らしい医療を導くのではないでしょうか。

お互いに自分の立場からの発想しか出来ないようでは、良い関係は築けないでしょう。

幸い、わが医院は患者さんとのトラブルが殆ど起きません。

何しろ、石川歯科医院を信頼して頂いている患者さんばかりですから…。

本当に有り難い事です…。

ひと昔前までは、歯は疎かにされる向きがありましたが、近年は、テレビや新聞などメディアの報道で、歯の機能の重要性が良く指摘されています。

良く噛める幸せは、何物にも変え難いです。

何でも美味しく食べる事が出来れば、胃、腸などの消化器官を間接的に保護する事になり、健康な肉体の維持に繋がると云うものです。

また、良く噛むと脳血流を増加させ、結果、認知症の予防に役立つのです。

精神的に充実感も湧いてきます。

更に、美しい歯がのぞく笑顔は、本当に魅力的です。

『歯は生命の入り口』と言われて久しい事は、皆さんご存知の通りです。

われわれ歯科医療に携わっている者は、心して国民の心と身体の健康を守るべく努力すべきだとつくづく思います。

一方、歯科医院は出来るだけ訪れるのを避けたい場所で有る事も、重々承知しています。

嫌でも、定期的な口腔清掃が大事に至らない為の秘訣!と心得て、受診して下さい。

お願いします。

院長の独り言 133 ; お盆休み

8月12日から19日までの一週間、石川歯科医院はお盆で休診です。

お盆休み中に歯や歯肉が痛くなったり、炎症を起こしたりすると困るので、休みの前日の11日は、駆け込みの急患がかなり来院するのです。

現在、口の中の何処かが痛い人や具合の悪い人以外にも、虫歯で歯が痛くなりそうで不安な人、歯周病で歯茎が腫れてきそうで不安な人、親知らずの周りの歯肉がムズムズしてきた人など、大事になる前に診て欲しいと云う事で大忙しなのです。

何しろ、一週間以上休診してしまうので、我々とすれば、患者さんの不安を取り除かなければ、こちらも安心して休暇が取れないのです。

先日は早速、家内と一緒に、祖父祖母と、親父お袋の墓に、お参りして来ました。

墓地はやはり、ご先祖に感謝する人が、お年寄りから子供に至るまで大勢、お参りに来ていて、普段の静謐さとは違います。

もう20年前になりますが、同じお墓を、親父とお袋と一緒に、われわれ家族一同で、お参りをしていた頃が、ついこの間のようで、月日の経つのが余りにも速いのに驚きます。

本当に『光陰矢の如し』です…。

一方、テレビや新聞などのメディアでは、8月15日を前にして、戦争の特別プログラムを盛んに報道しています。

ところで、皆さんは玉砕地、硫黄島で散華された多くの御遺骨が、今も放置されたままになっているのをご存知ですか?

当時の日本は敗戦色が濃厚で、本土決戦が眼前に迫って来た時でもあり、兵隊さんの数も不足してしまっていたので、一般の市民が『赤紙』一枚で招集され、戦いの最前線である硫黄島に送り込まれたのです。

即席の戦闘訓練を受けた兵士を中心に、本土決戦を少しでも遅らせようと必死に頑張ったのです。

硫黄島がアメリカ軍に占領されると、日本本土の都市に対する無差別爆撃が容易となってしまいます(事実、硫黄島陥落後、東京大空襲などの大都市に対する空襲は激しさを増します…)。

自分の親、奥さん、子供の命、そして、本土を守る為に、必死に防戦したのですが、如何せん、アメリカとの圧倒的な物量の違いで制圧されてしまい、玉砕してしまいました。

タコ壺の様な穴を掘ってその中に潜み、夜になると敵兵を襲うと云う、本当に過酷な戦闘を強いられていたようです。

結果、あの熱帯の小島で火炎放射機によって無残にも焼き殺されてしまいました…。

どうやら政府は特命チームを作り、1万3000人に及ぶ、現在も不明になっている御遺骨を収集するようです。

しかし、命を掛けて戦った人々の御遺骨を、何故、今までの政府は放置したままにしていたのでしょうか。

国として余りにも、無礼と云うか冷淡過ぎるのではないでしょうか…。

現在、我々が豊かに生命を謳歌出来ているのは、このような人達の尊い犠牲の上に有るのではないのですか。

国からの命令で、色々と葛藤はあったでしょうが、結局はお国の為に戦った多くの英霊に、失礼どころの話では有りません。

アメリカは、硫黄島で戦死した兵士の遺体を収集して丁寧に葬っているのです。

我が国も、遅れに遅れている御遺骨の収集を、早急に行うべきです。

国の為に犠牲となった魂を、長く放置した罪を深く反省して、国全体で英霊に対し、丁寧に弔い、そして謝罪すべきではないでしょうか。

国民から集めたお金(税金)を、このような事に使って頂く為に、我々は頑張って納めているのでは無いでしょうか。

今年の夏も家族で靖国神社にお参りに行って来た事は言うまでもありません(靖国神社についての私の考えは、『院長の独り言 17 ;歴史を善と悪に仕分けしないで…』を参照してください)。

必死に日本の為に戦い、犠牲になった方々の心中を察すると涙が止まりません…。

院長の独り言 132 ; 雨の音…、その他

先日、珍しく雨の降る音で目が覚めてしまいました。

時計を見ると、まだ4時前です。

このところ、好天と云うか連日の猛暑が続いていたので、却ってザーザー降ってくれて大助かり、ホッとしているのが正直な気持ちです。

全く運が良いと云うのか、八王子では夏祭りが終了した途端に雨が降って来たのですから、筋書き通りの展開とは、こう云う事を言うのでしょうか。

祭りを境に暑さもピーク、いよいよ実りの秋の到来です。

灌漑設備の整っている我が国では『日照りに不作なし』の言い伝えの通り、今年の米は豊作、あとは景気が回復すると良いのですが…。

何とか円安になって呉れれば、景気も回復すると思うのですがネ。

私が開業し立ての昭和48年は第一次オイルショックで、トイレットペーパーが品不足になり、スーパーにトイレットペーパーを求める主婦の群がる映像が毎日のようにテレビに流されていました。

しかし、その当時は円安で、景気は大変良かった事を思い出します。

自分の長い人生での経験上、何しろ、日本は円安の時は常に景気が良いのです。

現在の政府、日銀はどのような見解を持っているのでしょうか。

一見、物が安くなると良さそうに思うのですが、一寸考えれば分かる事ですが、巡り巡って皆の収入も少なくなる訳ですから、日本全体の大きい経済の動く範囲で考えてみると、経済活動はどんどん縮小していくし、その結果、失業者も増加する事になり兼ねません。

所謂、デフレスパイラルです。

物がもっと安くなると分かっていて、人は物を買う訳が有りません。

日本では円高は不景気を呼びデフレの源と云う事です。

買いたいものが一段と安くなるのが分かっていれば、物を買う事を躊躇する事になるでしょう。

安くなるのを待つに決まっているのが道理です。

反対に、待っていると物の値段が高くなってしまうなと思った時には、人は挙って物を買う事になり、結果として景気が良くなるのではないですか。

今日もテレビで失業者が増加している旨、深刻な数字を出して解説しています。

子供手当や外国に援助金を振る舞うより、5円~10円程度の円安にして貰えないものでしょうか。

金融政策も、常にアメリカドルの後塵を拝する事となります。

お願いしますよ、本当に!

国内の製造業を弱体化し、結果として失業者を増やし、これ以上の不景気風を吹かして、一体、どうする気なんでしょうか?

院長の独り言 131 ; 八王子は夏祭り中です!

今週の土曜日(8月7日)から、夏祭が当地八王子で盛大に始まりました。

今年はお祭りを盛り上げるのに相応しい、如何にも夏らしい好天に恵まれています。

お昼前からタコ焼きに焼きそば、綿アメや景品付きクジ、金魚すくいなど、大人も子供も楽しめる屋台がズラリと甲州街道に沿って勢ぞろいです。

昼過ぎからは、浴衣姿の若い娘さん達が艶やかに商店街を歩き、不景気風も吹き飛ばす、華やかな雰囲気です。

少子化の影響なのか、普段は集団を見る事の少ない子供達の可愛い姿も沢山見られます。

綺麗に飾り付けされた山車が市内のあちこちに繰り出され、お祭りは否が応でも、賑やかさを増幅させて行くようです。

わが診療所前の大通りも大の賑わいです。

何台もの山車が、子供や若い衆の元気な掛け声を伴って行く様は、如何にも『日本の夏だなぁ〜』と感じ入ります。

色々な物が加速度的に変わっていく日本ですが、このお祭りの雰囲気だけは遠い昔の、自分が幼い頃とちっとも変りません…。

歓声を浴びながら引かれて行く山車達も、嬉しそうに見えるから不思議です。

一方、わが診療所は…と云うと、外のお祭りの喧騒を傍目に、ガッチリと診療中です。

8月7日(土)の午前は、朝からインプラントのオペなどを行い、午後は補綴、充填、衛生指導、そして完全に顎骨に埋伏している過剰歯の抜去などの難しい手術で大忙し、夜7時過ぎにようやく一日の診療が終了し、患者さんもスタッフも全員本当にご苦労さん!と云ったところです。

患者さんに感謝される事が、われわれスタッフ皆が頑張る事の出来る一番の薬。

『今日も大いに頑張った!全ての治療が上手くいった!』と安堵の気分もソコソコに、皆で、喧騒を更に増し、クライマックスとなるお祭りへと楽しみに行くのです。

院長の独り言 130 ; 50年前の山陰旅行 (最終回)

本日(平成22年8月6日)、原爆投下による犠牲者の慰霊祭・原爆忌の第65回平和記念式典が、広島の平和記念公園で行われました。

65年経った今でも、原子爆弾から生じた放射能の影響の為、犠牲者総数は30万人に迫ろうとしています。

長崎での犠牲者を加えると50万人を超えるのでしょうか…。

50年前の山陰旅行の最後に、広島を訪れた時は、心の底からムラムラと怒りが込み上げて、手の震えが止まりませんでした。

原爆投下は、人間がどのような残酷な事でも平気で行える生き物で有る事を証明したようなものです。

都市に原爆を投下すればどのような惨事になるのかを十二分に理解していても、このような残虐な行為が出来るのです…。

広島では暗澹たる気持ちとなり、今回の旅行の最後は、憮然とした暗い気持ちを東京まで引きずって帰宅しました。

結局、楽しさ半分、悲しさ半分の夏休み二週間でした。

戦争に巻き込まれた私は、5歳から6歳にかけて、親元から遠く離れた岐阜で疎開生活を送り、酷くひもじい思いを経験しましたが、広島に落とされた原爆の被害のあまりにも残酷な記録を目の当たりにして、『どうしてこんな酷い事をしたのか?』、『もし被害者の立場だったらどう思うのか?』を、思わず聞いてみたい気持ちになったものです。

そして、二度とあの非人間的な原爆の被害に遭わない為の抑止力として、世界で唯一の被爆国日本だけは、核兵器を持つ権利が有ると思いました。

我が国が核兵器を持っていれば、日本が他国から攻撃される確率はゼロに近い事になるに決まっています。

核攻撃を核保有国に行えば、核ミサイルの報復が必ずあるのです。

勿論、唯一の被爆国日本ほど、戦争の惨さを身に沁みて感じている国は他にありません。

その日本が他国を先制攻撃し、再び戦争を行う理由は100%有り得ません。

色々な考えが頭の中を巡り巡った大学2年の夏の事です。

院長の独り言 129 ; 50年前の山陰旅行 (パート4)

出雲大社、鳥取砂丘と訪ねて、なぜ次に益田を訪問したのか、皆さん不思議に思うでしょう。

それはこの山陰旅行を計画するに当たって、前回書いたように、気儘なぶらり旅と2人で決めてはいたのですが、旅行全体の大まかな計画を一応、話し合っていました。

寝台列車出雲に乗る事、出雲大社にお参りする事、鳥取砂丘に行く事、秋吉台の鍾乳洞を見る事、そして締めとして山陰では無いのですが、広島の原爆の悲惨さを原爆ドームや記念館を見学する事によって、あのような非人間的な行為が人間として何故、出来たのか自分なりに検証したかったからです。

益田には三番目の目的地、秋芳洞への中継地として泊まったと云う事でした。

その益田では前述したように、予想外の幸運に恵まれて、勇気百倍!となりました。

その親切な旅館で二泊した後、ご主人達に笑顔で見送られながら、今では交通博物館でしか見る事が出来ない年代物の古びた列車にゴトゴトと揺られ、のんびりと山口市に向って行きました。

山口県の県庁所在地は当り前ですが山口市です。

それまでどちらかと云うと、トラフグ料理や関門トンネルで有名な下関市の方が、山口県の中心の様に自分は思っていました。

果たして、実際、現地を訪れてみると、下関市は地元の経済の中心地で活気が有りましたが、それに対して山口市は街全体が落着いて、しかも整然としていて、県庁所在地に相応しい雰囲気のある街だと感じました。

現在はどうなっているのか定かでは有りませんが…。

秋芳洞は日本一のカルスト台地であり、秋吉台の地下100mに存在する、世界でも有名な鍾乳洞です。

東京の日原鍾乳洞には数回行っていたので、この日本一の秋芳鍾乳洞が日原鍾乳洞と比較して何処が違うのかを出発前から楽しみにしていました。

山口市からバスに乗り1時間程で鍾乳洞の入り口に到着し、吊り橋を渡って洞の中に入って行くのです。

鍾乳洞の中は夏なのに、まるで別世界のように寒く感じました。

世界的に有名な畦石池からなる百枚皿、見上げるほど高い秋芳洞のシンボルである見事な黄金柱、無数の鍾乳石が天井からぶら下がっている五月雨御殿、そして日本一の大きな洞内空間千畳敷などを時間も忘れて見学しました。

しかし、我が東京の日原鍾乳洞は秋芳洞より、随分とこぢんまりとしています。

鍾乳洞も場所によって、それぞれの自然が為せる技が異なり、それなりに特徴が有ると云う事が良く理解出来ました。

鍾乳洞から出て、秋吉台のカルスト台地を見渡すと、流石に広大で、所々に石灰の奇岩がニョキニョキと出ている所も有り、ビックリさせられました。

係りの人の話によると、秋吉台の鍾乳洞では秋芳洞が飛び抜けて全国的に名が知れているが、地下には景清洞、大正洞など大小400箇所以上もの鍾乳洞が見つかっているそうで、まだまだこれからも新しい鍾乳洞が発見される可能性が強いのだそうです。

秋吉台を訪れた日は随分と歩いたので、近くの温泉に泊まって疲れを取る事にしました。

しかし皆さん、山口市に温泉が有る事をご存知ですか?

湯田温泉と云って、現在は山口の奥座敷として、大変栄えているそうです。

50年前、我々がお世話になった当時は、畑のド真ん中にあった、とてもではないですが、温泉街とは程遠い感じとして記憶しているのですが…。

遠い遠い昔の事なので、小生の記憶違いかも知れません。

当の温泉は湯量が多く、とても熱くて、お陰ですっかり疲れが取れた事はシッカリと覚えています。

(次号に続く)

院長の独り言 128 ; 50年前の山陰旅行(パート3)

出雲から鳥取に移動した後、島根の益田に行ってみました。

本当に行き当たりばったりの気儘な旅だったので、場合によっては野宿をするといった感じでした。

行きの寝台列車『出雲』号を予約していただけで、何処へ泊まるのかは現地で決定する事にしていたのです。

後にも先にも、こんな気儘と云うか、チャランポランな旅は二度と経験していません…。

まさに若さの特権ですね。

益田で泊まった旅館は、魚釣り専門の古風な旅館でしたが、目当ての釣りがオフシーズンだったので、お客は我々二人だけでした。

東京から来た事が分かると、旅館の主人、女将さん、お手伝いさんの皆さんが『よくぞ遠い東京から来てくれた!』と大歓迎して呉れたのです。

今では考えられない事ですが、島根の人からみると、その当時、東京から来た人は、まるで遠来の異邦人のような存在だったのです。

益田に釣りに来る人は遠いと云っても、精々、大阪止まりで、さすがに東京からは物好きでも来なかったようです。

大学生の貧乏旅行と分かると、夕食は赤字覚悟の大御馳走を振る舞って呉れた上に、次の日は頼みもしないのに、益田海岸の沖に浮かんでいる小さな島に、魚やサザエなどの漁に連れていって呉れました。

その小島では小魚や色々な貝が沢山採れたので、その海岸で、旅館から予め用意してきた野菜や豚肉などと一緒に、美味しい料理を作って頂き、盛大な酒盛りとなったのです。

この歳になっても昨日のように覚えている、この親切に出会えた事は、ひとえに益田の旅館の人の心使い…。

あらためて心より感謝の気持ちで一杯になります。

それにしても汚い服装の、今風で云えば、ホームレス状態の二人の苦学生を、よくぞ歓待して呉れたものだと感謝を込めて思うのです。

この旅より帰ってから礼状を出したのは勿論です。

『また来るように…』と、旅館のご主人から返信は来たのですが、その後は、すっかりご無沙汰状態で今日まで来てしまいました…。

多分、あのように心暖まる接待は、わが人生で二度と訪れる事は無いでしょう。

(次回に続く)

院長の独り言 127 ; 50年前の山陰旅行(パート2)

やはり興奮していた事に加えて、寝台列車に乗るのが初めてと云う事もあってか、グッスリと寝むれたのは2時間程度で、直ぐ眼が覚めてしまいました…。

仕方が無いので、これから訪れる島根、鳥取、山口の名勝、名物などのガイド本を読んでやり過ごす事にしました。

京都を通過するまでは、窓外は漆黒の暗闇で、何も見る事が出来なかったのですが、しばらくすると日本海側に列車が到達しました。

余部に在る、高さ42mの断崖絶壁の間を渡る、日本一高い鉄橋を通過する頃には随分と薄明るくなってきて、眼を凝らして景色を見ると、日本海がボーッと霞が掛かった中に浮かんで見えてきたのです。

友人と思わず歓声を上げたのは言うまでも有りません。

その後、この鉄橋を通過していた列車が突風で落下して、大勢の犠牲者を出した痛ましい事故は、この旅行よりずっと後の事ですが、その事故が原因で、強風による事故防止の為に、新しい鉄橋に造り替えている工事が現在進行中で、当時の赤い名物鉄橋の姿を今は見る事が出来ません。

それにしても、二等寝台の乗り心地は良くないと云うか、常に上下左右にかなり揺れて、快適なゆりかごの様にはいきません…。

しかし当時は、若かったと云う事も有り、徹夜麻雀も平気でこなしていた位です。

2時間寝れば十分、疲れなど全く感じないのです。

陽が昇り、明るくなってきて、更に周りの景色が見えるようになりました。

朝日に照らされて、波面がキラキラと輝いて見えるのですが、よく観察すると、いつも見慣れている太平洋の海の色より濃い蒼色で、何となく寒々しい暗い感じがするのです。

後で聞いたのですが、地元の人によると、結構、海が荒れる日が多いとの事でしたので、日本海と太平洋ではあらゆる点でかなり違った海なのでしょう。

朝8時になり、終着駅の出雲駅にゆっくりと到着しました。

まずは無事、山陰の地に第一歩を踏み出したのです。

朝食もそこそこに出雲大社に向かって出発進行!と相成った次第です。

出雲大社は縁結びの神社だそうですが、伊勢神宮の明るい感じの『陽』に比べると、出雲大社は清楚な感じの『陰』で、縁結びの御宮とは不思議に感じたのですが、祀られている大国主大神が多くの苦難を乗り越え、国を創った大地の神と云う事で縁結びの神になったのでしょうか。

ちなみに伊勢神宮は太陽神、天照大神です。

きっと、この出雲神社で夫婦(めおと)になったカップルは幸せ一杯になる事でしょう。

出雲大社の建物は大変高い塀にぐるりと囲われていて、案外、小振りに建てられていたのは意外な感じを受けました。

今回の旅が無事で終わるようにと、シッカリとお参りを済ませて、次の目的地の鳥取砂丘に向いました。

鳥取砂丘の思い出はと云うと、一口で言うと『外国に来た。ここは日本では無い…』と感じた事でした。

バスで砂丘の入り口に着き、辺りを見渡すと、遠くの方に砂丘が見え、その丘に米粒ぐらいに小さく見える観光客が点々とその頂を目指して登って行く姿が見えるだけで、海は全く見えないのです。

我々も必死に砂丘を登って行ったのですが、結構な重労働でした。

砂丘と云うよりは砂の山といった感じで、足元が覚束きません。

そして山を登りきった途端、突如として日本海が眼前に広がったのでした。

汗ばんだ額に心地のよい突風が吹く中、遠くの沖の彼方まで見渡せて、しばし紺碧の日本海を堪能出来たのが良い思い出です…。

(次回に続く)

院長の独り言 126 ; 50年前の山陰旅行(パート1)

大学2年生の夏休みに、約2週間かけて友人と2人、山陰地方を貧乏旅行した時の話です。

勿論、まだ新幹線は走っていなかった時代の事です。

夜行列車の出雲号に乗って、東京駅を夜8時に出発しました。

当時、この出雲号は大変人気があって、随分前からの乗車予約が必要でした。

苦労してやっと取れた寝台急行であり、しかも寝台列車に乗る事がお互い初めての経験だったので、前日からかなり興奮したものです。

それまでの旅はと云うと、一番遠出でも東京—大阪間、上野—仙台間をウロチョロしている程度で、本州から出た事はありません。

まして、10時間以上の電車での移動はその時が初めてでした。

大学生の頃は、京都や大阪などの関西地方を訪れるのも、東京から随分遠いと感じたものです。

出発前に、九州出身の同級生の話を聞いても、一旦、上京すると、実家に帰る事が物凄く面倒になるとの事でした…。

実際、当時、東京—博多間は急行でも20時間以上掛かっていたのです!

現在は、新幹線に乗れば東京から九州まで約7時間で行けてしまうのですから本当に便利になった反面、情緒感が無くなったと云うか、心にドンとくる旅情など、夢のまた夢になってしまいました。

ドックイヤーと言われている昨今(一部の業界ではラットイヤーなどとも言われているようです…)、今となっては不便さはありましたが、ノンビリと旅を楽しめなくなった寂しさを感じ、なおさら大学生の頃の貧乏旅行が懐かしく思い出されます。

夜8時に東京駅をガタコトと動き出した、寝台急行出雲号に話を戻します。

車窓から見るネオン輝く夜の東京はいつもと違い、何となく切なく感じたのはどうしてなのでしょうか。

直ぐ寝てしまうのも芸が無いので、友達と二人、暫く外の景色を楽しみました。

横浜、静岡と進んで、名古屋に着いた辺りから眠くなってきたので、これからの旅がどんな展開になるのかワクワクしながら、夢の世界に入ったのでした…。

(次回に続く)