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院長の独り言 226 ; 少し、研究のための研究になっていませんか?

東日本大震災で痛感させられたのは、我が国は多方面の分野で最先端を走る先進国と思っていたのですが、そうでも無いと分かった事です。
小生、何となくガッカリしたと云うのが、正直な気持ちです。
日本は地震が頻発する国なので、地震を研究している大学が沢山あります。
また、優れた地震学者が切磋琢磨して、その成因や予知について、最先端の研究をしているのだとばかり思っていました。
もし今回の大地震が予知出来ていたら、こんなに破滅的な被害を被(こうむ)らずに済んだ事でしょう。
あのM9.0の大地震が発生した二日前に、M7.4の地震が近くの海底で起きていました。
その時に八王子もかなり揺れました。
多分、その地震が前震だったのでしょう。
大被害の起きてしまった後から、『二日前の地震が、本震を教えていた!』と判断しても後の祭り。
本当に残念です…。
地震を予知する事は、確かに大変、難しいのでしょう。
進んだ我が国の地震学を以って、せめてM8.0以上の大地震だけでも予知をする事が出来ないのでしょうか。
地震の起きるメカニズムを知らない素人の小生が、愚痴を云っても始まらない事ぐらい分かっています。
が、あまりにも多くの方々の犠牲、そして建物や船、自動車などの破壊された風景をテレビで見ていると、『何故、大地震の予知が出来ないのだろう?』と素朴な疑問が湧いてきます。
しかも、これからの日本は地震頻発時代に入ったと言われているのです。
あまりの大被害に気が沈んでしまい、愚痴の一つも出てしまうのです…。
もう一つガッカリした事があります。
テレビ番組で、人間にソックリな動作をするロボットを見て、『流石(さすが)、日本のロボット技術は世界で一番だ!』と、ひとりで悦に入っていたのです。
福島の原発事故が起きるまでは…。
水素爆発を起こした建屋の内部に入って、破損箇所を点検して修理したくても、内部は放射能で汚れてしまっているので、当然、人間が入る事は出来ません。
ここで日本のロボットが登場して、大活躍すると思っていました。
あの人間ソックリのロボットが救世主として、大活躍すると期待したのです。
小生は固唾を飲んで見ていました。
ところが、画面に出てきたロボットは、人間とは似ても似つかない、如何にもひと昔もふた昔も前に見た、アームの付いた器具と云った感じです。
古めかしい型の、とてもロボットとは言えない代物で、随分、昔に日本で作ったロボットかと思っていたら、なんとアメリカ製とテレビで紹介したのです。
目が点になりました。
ロボットは日本製が飛び抜けに最先端だと思っていたので、本当に意外だったのです。
おまけに、そのロボットの性能がなかなか良いようなのです。
日本製ロボットの性能は、アメリカ製より、実用面で劣っているのでしょう。
でなければ、国産のロボットを使用する筈です。
日本のロボット技術は、所詮、人々を驚かせるカラクリ人形なのでしょうか。
世界一の人間型ロボットが、玩具(おもちゃ)に見えてきたのは、私だけでしょうか。
愚痴ばかり言って申し訳ありません…。
アメリカは、最先端の技術を軍事へ転用するので、実用的なのでしょう。
軍事技術という性質上、開発費も多く流れ込むのでしょうし…。
良く言われる事ですが、インターネットやGPSも、アメリカの軍事技術からの恩恵です。
現在の民主党政権は一時期、武器輸出を一部、解禁するようなアナウンスをしていましたが、どうなったのでしょうか?
その是非は措いておくとして、税金からの開発費によって補助されるばかりで、市場の原理に晒されなければ、技術は洗練されないのではないでしょうか?

院長の独り言 225 ; 寿司の歴史

東日本大震災で、宮古や大船渡などの漁港が壊滅してしまいました。
東北地方の漁港が壊滅してしまっている現在、魚の水揚げが極端に減少してしまっているとの事。
魚好きの私としては、大心配です。
焼き魚、煮魚、そして天麩羅も大好きです。
思っただけでも涎(よだれ)が垂れそうです。
特に好物なのがお寿司です。
お寿司のネタで、マグロ、ヒラメ、赤貝、数の子、ホッキ貝など、何でも大好きで、嫌いなものは全くありません。
日本人であれば、お寿司の苦手な人は、まずいないでしょう。
最近は、外人さんもお寿司に嵌(はま)っているようです。
世界中のどこに行っても寿司ブームで、フランスやスペインでも、お寿司屋さんの看板を目にしました。
正直、あまり外国にはお寿司を宣伝したくないと思います。
お寿司を一度、口にすると、絶対にお寿司好きになってしまい、われわれ日本人の口に入りにくくなるのではないかと、いらぬ心配をしてしまいます。
皆さんご存知ですか?
われわれが大好きな握り寿司の歴史は、意外と浅いのです。
せいぜい200年程度の歴史なのです。
江戸時代の後期に、屋台で江戸前寿司として現れたのです。
東京湾で獲れた魚介類を、握った酢飯に乗せて振る舞ったのが、江戸前寿司の始まりとされています。
江戸の街にだけで食べられていたのです。
冷蔵庫のない時代ですから、生魚の流通が行き届く範囲のみで食されていたのです。
そして寿司の原型は、数千年以上前に東南アジアで、米の中に生魚を入れ発酵させて、保存食として、魚だけを取り出して食べていたものだそうです。
その魚の保存食の製法が、中国経由で奈良時代に我が国に伝わったとされています。
伝わった当時は、やはり魚を発酵させて、魚だけを食べていたようです。
日本人は米好きという事もあって、今でいう関西風の寿司(なれ寿司)が、その後、登場したのです。
それが江戸の花屋なにがしと云う人物が、酢飯を握って、東京湾で獲れた江戸前の魚を上に乗せ、屋台で立ち食いを始めたのが、現在の握り寿司の始まりと云う事です。
江戸前寿司は関東大震災までは、東京近辺だけがテリトリーだったのです。
それが地震で壊滅して、東京で寿司の商売が出来なくなってしまい、日本各地に寿司職人が止むを得ずに拡散してしまい、それが切っ掛けで江戸前寿司が全国に伝わって行ったのです。
これは嘘ではありません。
本当の話です。
お寿司が全国的になったのは第二次大戦の後、戦後の事で、極く最近の事です。
更に世界中の大都市では、寿司がブームになって、海外旅行に行くと、街のアチコチに回転寿司屋がある始末です。
味はまだ劣るのですが…。
東北の漁港も早く震災前のように復興して、新鮮な寿司ネタが沢山、獲れるように心から願っています。
ちなみに『寿司』は当て字で、元々は『鮨』あるいは『鮓』です。

院長の独り言 224 ; 日々の生活に新しい発見を…

茶華道教授の阿部治子先生の御好意により、当院の歯科衛生士2人が、煎茶を習い始めました。
阿部先生は以前より、当院の患者さんです。
先生が茶華道の先生であるとは、以前から存じ上げていたのですが、全国的に大活躍されている忙しい身体なので、まさか教えて頂けるとは思っていなかったのです。
何しろ、阿部先生は茶道の師範を指導している方です。
思ってもいなかったのですが、『どうぞ』と気さくに声を掛けて頂きました。
ご教授して頂く歯科衛生士2人、有若さんと蓮実さんは、喜び勇んで教えを請う事になったのです。
2人に先生の授業の感想を聞くと、『礼儀作法から日本の歴史まで、色々と教えて貰い、本当に楽しい!』だそうです。
お茶を点てる方法を主に習うのかと思っていたのに、教養を身に付ける事が出来て、目から鱗(うろこ)との事です。
そして『お茶』に対して考えが、180度、変わったそうです。
小生も歴史を学ぶ事が好きなので、茶道についての本も少しは読んでいるのですが、2人もてっきり、茶室で抹茶を頂く作法を習うのとばかり思っていました。
ところが2人の話によると、勿論、それも教えて貰うのですが、お茶が我が国に伝わってきた歴史や使う道具の由来だけでなく、茶道とは全く関係ないと思われていた事柄が、実は、茶道と重要な結び付きがある事を教わるのだそうです。
一つの例として、茶道には、扇子の所持が絶対不可欠だそうです。
先ずお茶を始めるに当たって、扇子を自分の前に置き、結界という儀式を行ってからお茶を始めるのだそうです。
2人は、抹茶は大変なので煎茶の作法を、先ず学習する事になりました。
抹茶の作法をマスターするのには、10年以上の歳月が必要との事です。
煎茶の作法をものにするのでも、少なくとも、2~3年間は掛るそうです。
先生との会話は凄く楽しいし、そして美味しい和菓子付きの授業。
2人の嬉しそうな話を聞いていると、私も参加したくなりました。
お茶は元々、中国の後漢時代に飲まれるようになったと歴史書には書かれています。
苦い飲み物で、薬として飲まれていたようです。
『茶』は、広東語で『チャ』であり、福建省の言葉では『ティ』と発音し、二つの伝わった系統で、発音が異なってしまったのです。
日本に伝わった発音は、広東語の『チャ』と云う事になります。
お茶は平安時代に入って、空海、最澄らが、遣唐使として留学していた唐の国から持ち帰ったものと言われていますが、最近の学説では、奈良時代には既に伝えられていたと云う説も言われています。
しかし、お茶を飲む習慣は、しばし衰退してしまいます。
その後、お茶をただの飲み物では無く、日本独自の文化である『茶道』として再構築させたのが、鎌倉時代の禅僧栄西と言われています。
室町時代になって、村田珠光が僧侶の立場から『侘び茶』という新しいお茶の概念を創作し、それを弟子の武野紹鴎が引き継ぎ、ついに千利休が完成させたとされています。
『草庵』や『にじり口』、『露地』など、現在、我々のイメージする、茶道の世界観が出来上がったのです。
茶道は江戸初期までは、僧侶や武士の社交だったそうですが、江戸中期頃には、庶民にも浸透していったようです。
現在は、『表千家』、『裏千家』、『武者小路千家』の三千家の家元に分かれています。
2人の衛生士さんは、阿部先生に『煎茶』の道をご教授して頂き、日々の生活に新しい発見を見出したとの事。
先生のお宅に行くのが、本当に楽しみだそうです。
阿部先生、有り難う御座います!

院長の独り言 223 ; 痩せた猫を思い出す

皆さんは犬派ですか?
それとも猫派ですか?
動物好きの人はきっと、『両方、大好き!』と言うでしょう。
人によっては、『猫は好かないけど、犬は好きだ』と言うでしょうし、その逆の人もいるかと思います。
何度か、以前のブログに書きましたが、小生の学生時代、自宅で秋田犬を飼っていたのは、既に報告済みです。
以前、秋田犬を飼っていたと云う事もあって、どちらかと云うと自分は犬派でした。
その秋田犬『ふじ』は、私に良く懐いていたので、余計に犬好きになってしまったのでしょう。
別に、猫が嫌いと言うわけではないのです。
自分の考えでは、少年の頃から、『犬イコール番犬』であり、大きくて、威圧感があり、しかも忠実そのもので、小生の親友となるなら、それは犬であると思い込んでいました。
そう云う大きくて、飼い主に忠実な犬を飼ってみたくて堪らなかったのです。
そこに、大型犬の秋田犬を飼ったものですから、猫は眼中に無かったと云う事です。
今は、小さくて愛らしい愛玩犬の方が、強面(こわもて)の番犬よりズーッと人気があるようです。
私が子供の頃は、愛玩犬などトンとお目にかかった事は無かったのです。
犬は番犬として飼われていたのが、一般的でした。
これも以前のブログに書いた事ですが、可愛がっていた『ふじ』が癌で2歳の時に突然、死んでしまい、おまけに大学院の時に、研究で動物実験をしなければならなくなり、その時に凄く嫌だったのですが、犬を止むを得ずに屠殺したので、その後は、犬を遠ざけていた事も確かです。
それ以来、動物は飼わないと決めていたのです。
ところがある日の朝、新聞をポストに取りに行った時、足元にヨロヨロと倒れ込んできた茶色の猫がいたのです。
その猫は痩せ細っていて、何日も食べ物を口にしていない事は明らかでした。
気の毒に思って、早速、鰹節入りのご飯を食べさせたところ、必死に食べた後、直ぐに姿を晦(くら)ましてしまいました。
それからその猫は、2日に1回程度、顔を見せて、その都度、与えた餌を食べ終わるとそそくさと何処かへ消えてしまうのです。
結局2年ほど、つかず離れずに、その猫はウチの周りを徘徊していましたが、馴れる事は決して無かったのです。
常にその猫は1メートル以上離れていて、それ以上、近寄る事は決してありませんでした。
1メートルより人が近付くと、サッと逃げ、こっちが引き下がるとまた近付いて来るのです…。
こんなに用心深い猫は、後にも先にも、この猫以外、見た事はありません。
結局、2年ほどで姿を見せなくなったので、何処かへ行ってしまったと思って、猫の事は忘れていました。
忘れた頃に、黒ブチと茶色の2匹の子猫を連れて、その猫が我が家に再び出現したのです。
ところが、その2匹の子猫を置きざりにして、直ぐ何処かにまた消えてしまいました。
それから、その猫は二度と姿を見ませんでした。
本当に不思議な猫でした。
2匹の子猫は、我が家の人間に良く懐きました。
痩せていた親猫とは違い、子猫たちは与えた餌を良く食べ、太りました。
今回、原発事故で飼い主がいなくなり、やせ細った犬や猫、牛などの家畜が、市道を彷徨い歩いていますが、小生は思わず、かつての痩せた親猫を思い出してしまいます。
泣く泣く住民の方々が去られた街中を、痩せた牛の群れが歩いて行く…。
その光景が目に焼き付いて、離れません。
彼らはどうなるのでしょうか?

院長の独り言 222 ; 青い文字盤の時計と親父の思い出

私が自分の腕時計を持つ事が出来たのは、大学生に入学した時に、お祝いとして親からプレゼントして貰った、シチズン社製の青い文字盤をした時計が始めてでした。
今時は小学生でも、腕時計の一つや二つ持っているのは当り前で、更には携帯電話を持っているのが当然の世の中です。
70歳を超えるまでの間に、自分で買った腕時計は5本ですが、中でも一番大切にして、書斎の机の奥に、大切に仕舞い込んでいる時計が、その青の文字盤の時計です。
時計を貰った時の感激は、今でも鮮明に覚えています…。
親父が『入学、おめでとう!』とニコニコと笑いながら、リボン付きの小箱を渡して呉れたのです。
傍にいたお袋が『開けてごらん』と促したので、照れもあってか、乱暴にリボンを引っ張って小箱を開けたのです。
当時、家計が苦しかったのは、普段の生活で充分に理解出来ていたので、勿論、腕時計を入学祝いに貰えるなんて夢にも思ってもいなかったのです。
大学に通わせて貰うだけでも、感謝、感謝でした。
だいたい、プレゼントなんか親から貰った事は無かったので、その行為だけでビックリでした。
自分の腕時計が持てただけで、本当に嬉しくて、嬉しくて、お風呂に入る以外は寝ている時も、肌身離さず身に着けていたものです。
大学に入ってからは、様々なアルバイトをして、両親から小遣いを一切、貰いませんでしたが、自分で稼いだ小遣いとは云へ、タバコを吸ったり、ハイボールを飲んだりしている息子を、親はどう見ていたのでしょうか。
さぞ、『馬鹿息子!』と思っていた事でしょう。
大学生になってからは、親父からも、お袋からも、私生活について小言を言われる事は全くありませんでした。
高校生の時までは、親父は何かに付けて説教しましたが、大学生になった途端、怒る事が一切、無くなってしまったのです。
『大学生はもう大人だから…』が、親父の口癖でした。
小生も、一人前の男になった気分がしたものです。
その親父も、およそ20年前に亡くなりました。
今回の大震災で、東北地方の壊滅した街々を見て、親父が関東大震災の話をして呉れた事を思い出しました。
親父が大学3年生の時に、実家の在る新潟から上京する上越線の車内で、地震に遭遇したとの事でした。
幸いにも、高崎を出た直後に地震が起きたそうで、『もし東京の下宿に戻っていたら、生きていたかどうか分からなかった』と話していました。
電車が止まってしまい、やっと、二日後に上野に着いたそうですが、その時、車窓から見た東京の惨状は大変なもので、目を覆いたくなる程だったそうです。
今回の大津波の惨状と違い、関東大震災は火事による東京の壊滅でした。
お袋は、まだ幼すぎていたので、余りハッキリした記憶は無かったけれど、火事から逃げる為に、船に乗って東京湾に出たそうです。
その後、親父の話によると、日本は大不景気になってしまい、卒業後の就職には大変、苦労したと述懐していました。
東日本大震災の後も大不景気にならないように、日本国あげて頑張らないと、大変な事になり兼ねません。
歴史は繰り返す。
小生は、増税だけは絶対に避けるべきだと思うのですが…。

院長の独り言 221 ; 老眼鏡は大のお友達

自分は小学校、中学校、高校、大学と学生時代の全て、視力検査で視力2.5を保っていました。
小さい字でも、遠くの星でも、何でも良く見えてしまうので、目の悪い友人の気持ちが理解出来ませんでした。
眼鏡を掛けている人が不思議なくらいに感じていたのです。
何しろ、2.5の視力のお陰で、遠くでも、近くでも、本当に良く見えるのです。
お月様のゴツゴツしているクレーターも、裸眼で結構、良く観察出来ていた事を思い出します。
それに加えて、色彩や立体感覚も、目に関しては、自信があったのです。
歯科医になってから思うのですが、内科、耳鼻科、外科などの医療の実践には、目が非常に大切な事は分かっていますが、歯科の治療では特に重要なのです。
前歯は咬み切るだけで無く、審美的な面でも大切です。
外見にマッチした綺麗な歯は、その人柄まで良く見せます。
微妙な歯の色を出すには、色に対する眼力が欠かせません。
幸い小生の目は、暗い口の中も隅々まで良く観察出来る眼力があります。
当然ですが、この目の性能は、親から貰ったもので、後天的な努力は全く関係ありません。
色でも、例えば青色は一寸した薄い青や暗い青など、微妙な違いでも鮮明に分かります。
歯科医になってみて、目に関してどれだけ親に感謝した事でしょうか。
技工士には、個々の歯の微妙な色の違いにうるさいくらい注文をつけるので、嫌がられていますが…。
還暦を迎えるまでは、眼鏡のお世話になった事は、幸いにも無かったのです。
ところが、60歳を超えた途端、治療をしている時に、何となく近い場所がぼやけるようになってきたのです。
最初は疲れ目かなとも思って、目薬を点してみたのですが、その効果は全くありません。
(ひょっとして老眼になったのではないか?)と内心、ドキッとしたものです。
老眼を掛けて新聞を読んでいる時、上目使いに小生を見ていた親父の姿が、思い出されます。
毎日の治療に差し障りが出てきたので、止むを得ず、眼鏡屋さんで検査を受けた結果、正真正銘の老眼であると宣言されてしまいました。
ガッカリですが、急に老けた自分を感じました。
今まで眼鏡を掛けた自分の顔を見た事が無かったので、鏡に写った眼鏡を掛けた自分の顔を初めて見た時は、見知らぬ赤の他人の顔を見ているようで不思議でした。
それから、約10年経った現在、眼鏡は大の親友になっています。
老眼鏡が無いと治療も出来ませんし、新聞も読めません。
ただし、遠くは裸眼で今でも良く見えているから、本当に面白いものですね。

院長の独り言 220 ; メタンハイドレートとオーランチオキトリウム

今度の大地震の結果、原子力発電の安全神話がガタガタと崩れてしまいました。
代替燃料として、太陽熱や風力を利用する話が新聞やテレビで報道されています。
しかし、以前のブログで触れましたが、両者とも少しは足しになりますが、今の技術では到底、原子力発電の代わりにはなり得ません。
石油による火力発電も、短期においては大変、有力ですが、長期においては、エネルギーの枯渇問題を抱えています。
そこで俄(にわ)かに注目されて登場してきた代替燃料が、メタンハイドレートとオーランチオキトリウムの二つです。
メタンハイドレートとは、メタンの周囲を水が被覆している固形の物質で、無機燃料ではなく、石炭や石油と同じ生物燃料だそうです。
通称『燃える氷』とも云われています。
埋蔵場所は、深い海底です。
一方、オーランチオキトリウムは、海に自生している藻の一種です。

『仮に深さ1mの水槽で培養したとすると、面積1ヘクタールあたり年間約1万トンの炭化水素を作り出せると試算され、これは2万ヘクタールの培養面積で日本の年間石油消費量を賄える量であり、耕作放棄地などを利用した生産が考えられている。( Wikipediaより改変し引用 )』

両者ともに、その気にさえなれば、幸運な事に、日本列島の周囲で大量に調達出来るのです。
メタンハイドレートは、海底油田や天然ガスのように海底に埋蔵しています。
そして日本近海は、世界で有数の埋蔵量を誇っているのです。
しかしパイプを打ち込めば、容易に抽出する事が出来る海底油田の石油や天然ガスと違い、海底深くから掘り出さなければならない為に、採掘する費用が比較的に高価であり、大量に採掘する技術が開発されて無かった為に、敬遠されていたのです。
ところが最近、日本のある会社が簡単で、しかも大量に採掘できる技術を発明したと云う吉報が報じられています。
嬉しいですね。
オーランチオキトリウムは藻の一種ですから、栽培する畑が有れば、幾らでも採取する事が可能です。
筑波大学の開発チーム(渡邊信教授)が沖縄の海岸で発見し、研究しているとの事ですが、上記引用のように、2万ヘクタール程度の栽培する場所が有れば、日本の一年間で輸入する石油量に匹敵する量が生産出来るそうです。
今回の大津波で、海水により田畑として使う事が出来なくなってしまった土地が、不幸にも、多く出来てしまったと報道されています。
であれば、海に自生しているこの藻を、もし大々的に栽培すれば、被災地の皆さんの仕事も回復すると思われます。
いや、それ以上に、被災地の経済的な大発展も可能ではないでしょうか。
被災地が豊かな、産油地域となる、と云うのです。
夢の様な話で俄かに信じられませんが、実用化に向けて検討しても、損は無い話でしょう。
不幸な出来事を幸運の女神に変えて欲しいと、切に、切に願っています。
政府も、早急にこの二つの代替燃料について、専門家を招いて、真剣に検討して頂きたいです。
いつまでも、石油覇権国であるアメリカに、気を使っている場合ではないでしょう。

院長の独り言 219 ; 宣伝活動の大切さ

4月12日の火曜日から、小生の大好きなプロ野球の開幕です。
仙台がホームである楽天イーグルスは頑張ってロッテマリーンズを破り、また小生の贔屓(ひいき)チームである読売ジャイアンツも勝利したので、翌日のスポーツ新聞を見るのが楽しみでした。
日本のプロ野球チームの名前を見ていると、その時代、時代に活躍している会社が手に取るように分かります。
勿論、プロ野球に参入している会社だけの話ですが。
一方で、衰退していく会社も良く分かり、会社の栄枯盛衰がチーム名に有るか、無いかで一目瞭然です。
ファンとして小生は、ジャイアンツが勝った負けたで一喜一憂していますが、プロ野球の世界も、違った一面で考察すると、本当に厳しい世界ですね。
上場会社の、バレーやバスケットなどのチーム新設や廃部の場合も、同じでしょう。
昔からの友達で、超一流会社の元重役のS君の話によると、宣伝費を端折(はしょ)るようになると、間違いなく業績が落ち込み出した証拠だそうです。
話は少し逸れますが、宣伝する事は、本当に大切であると強く思っています。
例えば石川歯科でも、当院ではインプラント治療をどのように行っているのか?とか、その予後は?とか、費用は?などを、ホームページ上で説明しています。
このホームページを見た患者さんからの問い合わせが、実際、かなりきているのです。
また、今年の1月に、八王子駅前の東急スクエアで、インプラント説明会を初めて開いたのですが、大変、好評でした。
あらためて、説明を兼ねた宣伝は、本当に大切であると実感しました。
話をプロ野球に戻します。
プロ野球のチーム名は、シーズン中は勝っても負けても、毎日のように全ての新聞に載りますし、テレビにも放映されるのです。
プロ野球チームの親会社が素晴らしい一流会社に見えてくるから不思議です。
ところが辞めてしまうと、いつの間にかチーム名も忘れてしまうし、親会社の名前もすっかり忘却の彼方です。
東日本大震災でも、被害についての間違った報道が、世界各国に伝わっているようです。
まるで日本全体が崩壊したように報道されているのです。
また日本全体が原発の風評被害で困っています。
震災の被害は、日本の限定的な地域であることを、日本政府は声を大にして、一刻も早く、世界各国に発信すべきです。
この事実を世界に向かって早く発信しないと、大変な誤解がまかり通ってしまいます。
外務省には、外国のニュースにでも登場して頂いて、このような誤解を、是非、正して頂きたいです。
そして日本産の食品や工業製品の安全性を、声を大にして、どんどん報道すべきです。
良い意味でも悪い意味でも、宣伝(報道)ほど恐ろしいものはありません。
間違った報道(宣伝)は、会社でも、地域社会でも、本当に潰してしまい兼ねません。

院長の独り言 218 ; ゴルフ、再開

あの金曜日(3月11日)の昼休み、小生は呑気に息子と山森君に誘われて、八王子にあるインドカレーの有名店に行きました。
小生と山森君はチキンカレーのセット、息子はマトンカレーをチョイス。
本格的なインドカレーの滋味に大満足です。
ランチを食べながら、午後からの診療の打ち合わせもしました。
診療所からお店まで、徒歩で約10分間の距離。
帰途、頬を撫でていくそよ風に、春を感じます。
翌日は2カ月振りのゴルフコンペに行く事になっていたので、何となくハイな気分です。
張り切って、午後の治療を開始しました。
ところが午後2時45分に、あの大地震が起きてしまったのです…。
診療室も随分と長く、グラグラ揺れました。
揺れの後は、患者さんと大騒ぎ。
落ち着きを取り戻し、ビルの窓から周囲を見渡してみても、ご近所の皆さんが道路に出てきて不安そうに話し合っていましたが、倒壊などの損害は無さそうです。
患者さんもスタッフも、ホッとして笑顔を取り戻していました。
電気やガスは普通に使えましたし、CTなどの歯科用精密機械も壊れる事なく、どうやら普段通りに治療する事が出来そうです。
その後、しばらくは、患者さんと『怖かった!』とか『ビックリした!』などの会話は一通りありましたが、すぐに治療を再開したので、地震の事はスッカリ、頭から離れていました。
夕方、診療を無事に終えて、最後の患者さんを送り出してから医局に戻り、テレビのスイッチを入れた途端、地震の被害の全貌が映し出されたのです。
被害の状況が少しずつ明らかになるに従い、その被害の大きさにスタッフ全員、心から驚愕してしまったのです。
その上、大津波の発生を知りました。
日が経てば経つ程、その大被害に心は沈むばかりです。
大地震、大津波で壊滅された東日本の町々をメディアを通して見ていると、好きなゴルフもプレーする気が起きません。
経済学者は、色々な催し物を中止してしまうと経済活動が益々と疲弊してしまい、東日本だけではなく、日本全体が大変な不景気に成り兼ねないと訴えています。
出来れば気が乗らなくても、頑張って、催し物を開催すべきであると主張します。
ゴルフ仲間皆で相談して、3カ月振りにゴルフコンペを昨日(4月9日)、開催したのです。
3か月振りに集まった23名、犠牲者の冥福を祈った後、プレーを開始したのでした。
この時期に、果たしてゴルフをして良いものかと、ギリギリまで自問自答していましたが、いつもの、多くのプレーヤーで混み込みのゴルフ場と違い、ガラガラのゴルフ場を目の当たりにし、ゴルフ場のスタッフからも『よくぞ、来て頂いた!』と感謝され、本当にコンペに参加して良かったと確信しました
こんなに空いているゴルフ場は、リゾート地のゴルフ場以外に経験した事がありません。
ゴルフ場の従業員は『どんどん来てください!これでは潰れてしまいます!』とガラガラのクラブハウスを見まわしながら、悲鳴のような声を上げていました。
いつもは『入れ過ぎだよ!』と文句を言いたくらいの盛況ですが、このように、あまりにも空いているのも、決して良い気分ではありません。
やはり気候が良くなってきたのですから、無理をしてでも、外で食事をしたり、国内旅行をして、日本経済の活性化に寄与しなければと思った次第です。

院長の独り言 217 ; 絶対的に『絶対』はあり得ない?

最近は余震も少なくなり、小生の気持ちも落ち着き始めたのに、昨夜(4月7日木曜日)の午後11時半頃、またまた大きな地震です。
丁度、テレビを消して、布団に入ったところでしたが、ビックリ飛び起きてしまいました。
都内に住んでいる娘のマンションも大揺れで、娘は恐ろしさのあまり、ついに実家に電話を入れてきました。
『大丈夫?』と緊張した娘の声。
『勿論!でも、こっちも大揺れだったよ!』とお互いの無事を確認し、内心、ホッとしたのです。
一瞬、ホッとはしましたが、やはり福島原発が一番心配でした。
テレビの地震速報では、都下は震度3との事でしたが、実際はもっと大きく揺れた感じです。
直後のニュース速報ではマグニチュード7.4と報じられ、仙台は震度6強と出たので、結構、大きな余震です。
本当に肝を冷やしました。
被災地の方々の気持ちを考えると、言葉がありません。
3月11日の東日本大震災以来、小生は四六時中、自分の身体が揺れているようで、気持ちの悪い事、この上ありません。
そして、昨夜の大きな余震です。
気象庁の発表では、今後も大きな余震を何回かは覚悟しなければならないとの事です。
ただ、まだ救われるのは、東電の余震直後の報告では、福島原発には悪影響が出なかったとの事です。
何時もビクビクしていると、却って身体に良くないので、もう開き直って『矢でも、鉄砲でも、何でも持ってこい!』と云った心境です。
小生は福島産の野菜でも、魚でも、気にしないで何でも食べようと思っています。
かつて現在の核保有国が、世界中のアチコチで核実験を行っていたのは、皆さんご存知の通りです。
その時は、今の福島原発から漏れている放射線量の何百倍か、何千倍か分からないくらいの、大量の放射能が、世界中の大気に撒き散らされていた事を考えれば、あまりに神経質に成り過ぎです。
そして想定外の事故ですから、止むを得ない面もあります。
まさか、あんな大きな津波が襲って来るとは、夢にも思わなかった事です。
勿論、事故を起こした事に関しては、原発に関係している会社は、大いに反省すべきである事は言う迄もありません。
今は、これからどうすれば良い結果に繋がるかを、前向きに考えて行動する事が一番ではないでしょうか。
短絡的に『もう原子力発電所は全部、止めにするべきだ!』など云う意見をテレビで話している人もいますが、極端な考えは厳に慎むべきだと私は思います。
ただし、原発が絶対的に安全であるとする神話は崩れました。
特に、日本の様な資源の少ない産業立国は、今後、原発に頼らないとしても、次の一手を準備しておかなければなりません。
火力発電は二酸化炭素を排出してしまうし、水力発電はダムを造らねばなりません。
そして、風力発電は余りにも効率が悪く、現実味がありません。
皆さん、良い考えはありますか?

院長の独り言 216 ; お花見の自粛について

このところ計画停電は中止されていますが、ネオンの光が消えている夜の街に繰り出す気にもならず、自宅に籠って、ついついお酒を多めに飲んでしまいます。
私と同じ呑み助なら直ぐに理解して貰えると思うのですが、一旦、飲み始めると、必ず深酒になってしまいます。
深酒は身体に良くないのは分かっているのですが…。
ところで、皆さん、アルコールはどのように代謝されるかご存知ですか?
アルコールは胃で20%程、吸収されます。
胃は食べ物を消化する器官ですが、栄養分を吸収する器官ではありません。
しかしアルコールだけは別です。
残りのアルコールは小腸から吸収されて(十二指腸でも少しは吸収されますが)、肝臓で酵素によりアセトアルデヒドに分解された後、無害な酢酸になり、最終的には水などになって体外に排出されてしまいます。
下戸な人は、有害なアセトアルデヒドを無害な酢酸に分解する酵素が、極端に少ない人と云う事になります。
幸か不幸か、小生はアセトアルデヒドを酢酸に変えてしまう酵素が、人より多く出るみたいです。
別に飲酒を賛歌する訳ではないですが、毎日、1~2合程度の酒量を嗜んでいる人は、全く飲酒しない人や3合以上飲む人より、健康で長生きすると云うデータが報告されています。
物の本によると、『お酒は百薬の長である!』と、かの空海さまも言っているようです。
適度な飲酒の効用として、冷え性の改善、脳梗塞に成りにくい、気分が陽気になるなどがあげられます。
しかし一方で、毎日、飲酒している人は、食道、胃、膵臓、胆のう、大腸、肝臓などの消化器系の癌になり易いと云う報告もあるのです。
なるべく休肝日を設けるように、自戒した方が良いようですね。
これからの花見シーズンには、楽しいお酒が飲みたいところですが、今年ばかりは華やいだ気分になれません。
毎年4月になると、石川歯科ではスタッフの英気を養う為に、高尾山へ夜桜見物に出掛ける恒例ですが、今年は一体、どうしたものか思案しているのです。
自粛が過度であると、ただでさえ低迷している日本経済が更に縮小し、結果として、被災地にお金が回らなくなるのは重々、承知しているのですが…。

院長の独り言 215 ; 梟雄 斎藤道三の家紋

梟雄 斎藤道三は全く大した男です。
北条早雲と同様に、下克上を代表する戦国大名として知られています。
道三が何処の出か、定かではありません。
一説では、父親は御所を警備する北面の武士と云う事になっていますが、その正誤は不明です。
ただ斎藤道三が油売りから成り上がって、美濃の国(岐阜)を乗っ取った猛勇である事は史実です。
最近の研究によると、斎藤道三とは一人の人物ではなく、親子二代で国盗りを成就したとも云われています。
油売りのボテフリから一代で、一国の主に成り上がるとは、到底、信じられない偉業なのでしょう。
特に小生が、道三を心底、恐ろしいと思ったのは、その家紋を見た事に依ります。
『二頭波』と云う家紋で、波頭が二つ描かれています。
道三家紋
波形の家紋は珍しく、何か理由がある筈です。
道三ほどの男が、ただの思いつきで、波形を大事な家紋に決めたとは思えません。
何故、波を家紋にしたのかと云う由来ですが、その由来をさる歴史書で知り、小生、本当にビックリしました。
中国の『老子』にある『上善如水』の思想を表しているという説が有力です。
道三の事物に対する洞察力の深さには、本当に驚くばかりです。

『水はどのような器にも入る事が出来る。
丸い器でも、四角い器でも、自由自在に変化してしまう。
そして人間の命に欠かせないほど、水は最も大切な物である。
また水は高きから低きへと流れ、その様は人生の極意でもある。
人は誰しも低い所にいくことを嫌がるが、他の人が嫌がることをする謙虚さも必要だ。
しかし同時に、大量の水は人も、家も、何でも破壊する力も持ち合わせている。
水は必須でもあり、水は用心しなければならない物である』

つまり、水のように変幻自在に形を変える事ができる柔軟な物でも、時として、恐ろしく凶暴な物として襲いかかってくる。
道三は水のように、その時々に応じて、自らが変幻自在である事を、目標に置いたのではないでしょうか。
優しい人間にも、恐ろしい人間にもならなければ、戦国時代で生き抜く事は、到底、出来ないと悟ったからかも知れません。
今から500年も前の人物が、水について上記のような考えをしていたとされているのです。
普段は穏やかで、恵みを与えてくれる母なる海も、今回の大津波のように、恐ろしく凶暴になる事も、彼の念頭にあったのでしょう。
波形をした『二頭波』を家紋にしたのは、水のように柔軟である事、そして海のように雄々しくある事を、天下に、そして自分自身に宣言したのだと思います。
また、家紋にある水飛沫の数が、二つの偶数と三つの奇数であるのも興味深いです。
奇数と偶数は、2つに割り切れる物と割り切れない物、つまり数の全てを暗示しているのです。
偶然の意匠かも知れませんが、彼の宗教観すら感じさせます。
買い被り過ぎですかね…。
そして織田信長を娘婿(むすめむこ)に選んだのも、鋭い洞察力があっての事でしょう。
当時、信長は全くのウツケ者と断定されていたのです。
ウツケと云うより、気狂いの乱暴者と思われていたのです。
ワザと気狂いのウツケの振りをして、周りの連中を油断させていた信長の本心を、道三は鋭く見抜いていたのでしょう。
古今東西、出る杭は打たれるものと、相場は決まっています。
しかも時代は、生き馬の眼を抜く戦国時代です。
当時、親戚と織田家の覇権を争っていた信長に進んで援軍を出し、信長の留守中は、その居城である清州城を守る事、しばしばだったのです。
道三の判断如何によっては、信長は清州城から追放されかねない情勢であったのです。
斎藤道三は実に頭の良い人物で、美濃の国を略奪したのは、当然の帰結だったのでしょう。
道三にしろ、信長にしろ、また秀吉そして家康と、戦国時代の日本には羨ましいくらい、多くの優れたリーダーが輩出されています。
この非常時の日本に、一人でも道三のような人物が現れて欲しいと、切に思います。

院長の独り言 214 ; 代官は悪者ではなく、正義の味方であった!

小生の親父とお袋が生前、一番、気に入っていたテレビ番組は、TBSの『水戸黄門』でした。
特に、歳を取れば取るほど、二人とも黄門様の大ファンになっていきました。
私からすれば、決りきった勧善懲悪の時代劇で、歌舞伎ではないけれど、筋の内容も毎週ほとんど同じ展開です。
親父もお袋も、よく飽きないものだと感心していました。
ドラマの最後では、どう云う結果になるのか、二人ともよく理解していました。
筋が分かっていても、一週間に一回の黄門さまを、本当に楽しみにしていました。
大体、筋の出だしは決っていて、越前屋の大旦那と小悪党、後ろに黒幕の悪代官が隠れていて、善良な農民や庶民をハラハラするくらい苛めているところに、助さん、格さんを引き連れた黄門様のお出まし。
悪者どもを一網打尽に懲らしめると云う案配(あんばい)です。
人気番組でもあったので、『水戸黄門』を見ていた多くの人は、『江戸時代の代官は悪人ばっかり!』と思っていた事でしょう。
しかし、これは大きな間違いです。
今から思えば、水戸黄門のテレビドラマは本当に罪作りの番組なのです。
草葉の陰で、さぞかしや、このテレビドラマを制作していた放送局を、代官たちは恨めしく思っている事でしょう。
本当は、代官ほど庶民の味方で、正義感の強い人間は、江戸時代には、他にいなかったくらいなのです。
農民に過酷な税を納めさせようとする行政に対して、命を張り、率先して抵抗していたのが、他ならぬ代官たちなのですから。
困っている農民には、先祖伝来の家宝を売り払い、たとえ自分の家族が飢えようとも、食べ物を与えていたのです。
そのような史実は、当時の記録を少し読めば分かる事です。
天領(幕府の直轄地)の農民や商人には、絶大なる信頼を寄せられていたのが、他ならぬ代官なのです。
『代官様の頼み事なら…』と、一つ返事で従っていたくらいに、領民から信用されていたのです、当時の代官は。
『おぬしも本当に悪よのう~』と、お決まりの台詞(せりふ)を吐いていた悪代官などは、江戸時代、皆無だったのです。
まあ、少しの不正はあったかもしれませんが、殆どの代官は清貧を貫いて、領民を保護していたのです。
今回の大震災に遭遇した場合でも、多分、江戸時代の代官なら、間髪を入れず先頭に立って陣頭指揮をとった事でしょう。
ほうれん草などいくら食べても身体に悪影響が出ないと専門家が言っているのに、不安を煽るような事は絶対しなかったし、自ら食べて見せたでしょう。
危ないと思われた時に、国民に知らせれば良い事です。
地位と名誉もある人たちが、マスメディアの報道にパニックを起こし、外国へと転居することも無い筈です。
代官の爪の垢でも煎じて飲んで貰いたいものです。
人の上に立つ者は、江戸時代の代官のように、自ら率先して犠牲的精神を発揮してもらいたいものです。
発言と行動が一致している人こそ、尊敬されるし、信頼もされるのです。

院長の独り言 213 ; 助け合える事は、日本人であることの証

今回の大震災の後で、最も感銘を受けた事は、被災した東北の人達の、誠実で冷静な態度です。
大震災は自然の為せる業、われわれ人間にはどうする事も出来ません。
あまりにも過酷な運命ですが、運命と思う以外、どう仕様もありません。
殆どの国では、大災害が起こると、ひったくり、強盗などの悪質な略奪行為が頻発します。
ところが東北大震災の時は、その手の話は少ないです。
外国のメデイアでは、驚きを以って、それらの事実を報道しています。
以前からよく言われる事ですが、屋外の自動販売機は外国では考えられないそうです。
こんなに自動販売機が屋外に設置されていても、略奪行為がほとんど起きないので、『日本人は素晴らしい!』と外国人が口を揃えて言います。
われわれ日本人が温和で自己主張の少ない民族であるのは、農耕民族がルーツであるからだと良く言われますが、この理由だけとは到底考えられません。
もっと日本人の根幹に関わっているのではないでしょうか?
そこで今回は、日本人のルーツについて少し書きたいと思います。
元々は、ユーラシア大陸と地続きであった日本列島ですが、約5〜6百万年前の地殻変動により大陸から分離して、古日本列島が誕生されたとされています。
まだその当時、人類が古日本列島に住んでいなかったのは当然の事です。
分離する前には、色々な動物が行き来していたし、メタセコイアなどの植物が大森林を形成していたようです。
分離した後も、幾度も訪れた氷河期には、海が浅くなってユーラシア大陸と陸続きになったり、また気候が暖かくなって離れたりしていたと思われます。
陸続きの時には、ナウマン象や大型の鹿の仲間も、日本列島に渡って来て住み着いていたのです。
化石から大型の鹿や小型の象が、日本各地に生息していた事は証明されています。
さらに物の本によると、日本列島に人類がやって来たのは、4〜5万年程前の事とされています。
人類は食料となる大型の動物群を追いながら、日本列島にやって来たと思われます。
時代的には後期旧石器時代に当たります。
縄文時代の前の時代が、日本では後期旧石器時代です。
旧石器時代は前期、中期、後期に三分割されていますが、250万年程前にヨーロッパで石器が発見されています(前期旧石器時代)。
私が学生の頃は、人類はアフリカを起源に、北京原人、ジャワ原人などに分かれて、各地域でそれぞれ、現在の人間に進化していったと教わりました。
しかし最新の人類学では、DNAの分析によって、人類の起源はアフリカの一人の原人にたどり着くと言われています。
他の原人(北京原人やジャワ原人など)は、みなアフリカから来た原人に滅ぼされてしまったのでしょう。
現在、生きている人間は全て、アフリカの一人の原人が先祖という事です。
従って、それぞれの民族の性格は、定住後に決まったものと云う事になります。
人類が初めて、日本列島にやって来て、石器などを使用して定住したのが4〜5万年前だと言われています。
その後、縄文時代になりますが、例えば縄文時代の三内丸山遺跡で見られるように、大集落を造って生活していた事を考えると、生活基盤はみんなで仲良く秩序立ち、集団生活を営んでいたものと想像出来ます。
私も三内丸山遺跡は見学してきましたが、結構、豊かな生活をしていた事が窺い知れました。
5千年以上も前の話です。
それ以来、隣人たちを大切に生きてきた日本人は、集団生活を円滑に営む事が一番、大切であると悟ったのでしょう。
島国なので他国と争う事も少なく、地震や津波といった、個人の力では抵抗の出来ない自然災害に晒され、益々、隣人との付き合いを大切にする温和な民族になってしまったと思います。
大陸に住んでいる場合は、周囲の他民族からの襲撃に、常に備えなければなりません。
当然、他人を疑いの目で見てしまい、用心深くなるに決まっています。
どちらが良いと言っている訳ではありません。
大災害の時には、一致団結し事に当たるのは、われわれ日本人が先祖代々、自然の脅威に晒されながら生きてきた証なのでしょう。

院長の独り言 212 ; 太陽のエネルギーを電気に変換出来ないものか?

太陽こそ巨大な核爆弾の塊のようなものです。
太陽の直径は約150万kmです。
太陽系の質量の約99.9%が、太陽です。
残りの質量0.1%が、地球や木星などの惑星、月などの衛星、小惑星や塵の合計と云う事になります。
如何に太陽が大きいのか、理解出来ると思います。
太陽の中心10万kmを中心核といい、熱核反応を起こしていて、その熱が太陽の光と熱の源です。
そのエネルギーが太陽の表面に出て来るのに、なんと20万年以上もかかると言われています。
20万年ですよ!
あまりにも話が大き過ぎて現実離れしていて、嘘のような話ですが本当の話です。
繰り返しますが、中心核の熱核反応で生まれたエネルギーが、20万年以上かけて太陽表面に出てきて、その熱と光が地球や火星などの惑星にそそがれると云う訳です。
要するに、地球にもたらされる熱と光は、太陽の中心で起こっている熱核反応の賜物と云う事です。
この太陽からのエネルギーを電気に変換出来たら、われわれ人間にとってこんな幸せな事は無いでしょう。
驚く事に太陽が地球にもたらす約1時間のエネルギー量で、全世界の一年分の電気使用量を賄(まかな)得てしまうのです。
おまけに化石燃料(石油、石炭)のような有害廃棄物は出ません。
良い事尽くめですね。
原子力発電所なんか全て廃棄してしまって、太陽発電に変換してしまうべきです。
が、そうは問屋が下ろしません。
まず太陽熱を集めるには、膨大な広い面積が必要なのです。
今の技術では、満足する電気量を造り出すには、地球が三つも四つも必要です。
おまけに以前のブログにも書きましたが、電気は貯める事が出来ません。
夜や雨の日には、電気が供給出来ないのです。
しかし、いま流行(はや)りのソーラパネルを屋根に付ければ、少しは役に立つかも知れません。
太陽のエネルギーを狭い場所に集積出来る技術が生まれると良いのですが…。
現在のところは、太陽エネルギーで満足出来るような電気量を確保するには、SF小説の世界、ドラえもんの世界で、夢の中の話でしょう。
しかし日本の優秀な科学者によって、遠くない将来に発明されるかも知れません。
そうなれば、人類は安泰と云う事になりますね。