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院長の独り言 77 ; 病気とは良く言ったものだ

怒れば交感神経が興奮するので、動物は、攻撃態勢になります。

人間の場合は、毛細血管が緊張して締まるので、顔は青くなり、眼は瞳孔が開き眼光鋭く、まるで仁王様状態です。

逆にリラックスして穏やかな目をしている時は、副交感神経が活発に活動しています。

そして胃の活動が良くなるので、美味しく食事が出来ます。

この浮世では怒らなくても、普段知らず知らずに緊張状態でいる時が多い事を、みなさん常に感じていると思います。

われわれ現代人は交感神経がいつも興奮気味なのでしょうか…。

一方、いつも安らかな気持ちでいる事も、あながち良いとは言えないのが本当に面白いところです。

私の歳になると、徒に安らかな気分でばかり居ると、今度は『認知症』が心配になります。

緊張しすぎても、気を抜き過ぎても、危険が大いに有ると云う事です…。

実際、知り合いのサラリーマンの人が、仕事上の付き合いが原因で『鬱症』になる人が結構いるようですし、大学の教授、校長先生など定年退職して気が緩み、何もせずに安らかな気持ちになると、『認知症』になる人が出ると聞きます。

この頃、歯科の治療に来院する方の中に、舌の先や縁に耐えがたい疼痛を訴えて来院する患者さんが、以前と比較すると増加してきたように思います。

そして、頭痛や顎関節痛を訴える患者さんも以前と比べると増加傾向に有ります。

勿論、口内炎で食事時に舌が痛いとか、歯のかぶせ物が不良で、舌を変に刺激したり、顎を交通事故でぶつけてしまい顎関節痛を起こしているなど、原因がはっきり分かっている場合は別ですが、痛みの理由がはっきりせずに、舌や顎関節の慢性痛が起こる場合が多々診られます。

この原因がハッキリしない慢性痛に、患者さんの心の状態が関係することが、最近知られてきました。

原因不明の舌痛や顎関節痛が出た時、通常の歯科治療ではなかなか完治しない場合でも、心の方面から治療すると効果が上がる場合が多いのです。

わが医院でも、心療内科や精神科の医師と連携して、痛みの治療を行う機会が増えています。

昔の人は『病気』と、よくぞ名付けたものだと本当に感心します。

院長の独り言 76 ; 『こけし』の由来

中学生、高校生の修学旅行では、お土産として、必ず、『こけし』を買っていました。

その後、成人してからも、旅行した時は、その土地の『こけし』を、第一のお土産にしていました。

ところが或る年に、友達から『こけしは“子消し”だ』と言われて、驚きました。

彼が言うには、江戸時代、東北地方で大飢饉が発生して、その時に子供が出来た場合、間引いてしまい、『こけし』を作って供養したのだと教えてくれました。

それを聞いて以来、そんな可哀想な由来の有る『こけし』を買う事が出来なくなり、『こけし』を趣味で集める事を止めてしまいました。

しかしテレビでたまに、『こけし』についての番組を放送しますが、『子消し』と説明している番組は皆無です。

もし本当の説なら、一回くらいは耳にしてもよい筈です。

そこで、自分なりに色々調べてみたところ、『こけしは子消しではない』と思うようになりました。

自分の調べた有力情報では、『こけし』は子宝に恵まれるようにと作られた人形に由来するそうで、『子消し』の正反対で縁起物だそうです。

東北の鳴子地方の発祥で、芥子(けし)の花に似ている事にその名前が由来するんだそうです。

何事も人の話を鵜呑みにしてはまずいと云う事を強く強く感じました。

それからは、地方に出かけた時には、昔のように、その地元の名物こけしを求めるようにしています。

小生から『こけし』は縁起のいいお人形だと云う話を聞いて、友達はと云うと、自分がそんな子消しの話をした事も忘れてキョトンとしていました。

無駄な回り道をしたというのか、『ああ、アホくさ!』と云う心境です。

院長の独り言 75 ; 花を買いに出掛けたら

わが診療所の玄関の花を植え替えようと思い立ち、日曜日に、家族で八王子市内の花屋さんに、花を見つくろいに行きました。

途中、多摩動物園の横を抜けて、元多摩テック前を通り、目的地の花屋さんに行くのです。

花屋さんまで行く、この道は懐かしい道です。

まだ、二人の子供が3~6歳頃には、休みの日には頻繁にこの道を通って、多摩動物園と多摩テックに遊びに行っていたからです。

なにしろ、この動物園と遊園地に連れて行くと、子供は喜ぶし、安い費用で一日楽しめるし、自宅から近いしで、全く好い事尽くめの子供の遊び場でした。

その頃、今から思えば私の収入も少なかった時だっただけに、親とすればディズニーランドが存在しなかった事は大いに助かりました…。

もしディズニーランドが開園していたら、子供たちはディズニーランドに行きたがるに決まっています。

楽しい事は解っていますが、自宅から遠いし、費用も馬鹿にならないし、後から考えると、まだディズニーランドが無くて良かったと胸をなでおろしていたと云うところです。

子供たちが中学生になってから、遊園地と云うと、友達同士、多摩テックの代わりにディズニーランドに行っていましたが、我々夫婦は結局、今まで一度もディズニーランドに行かず仕舞いになりました。

ディズニーランドに行った友達も、『結構大人も楽しめる』と言うので、一度、夫婦でディズニーランドに行ってみようかとも思っています。

話を戻して、今の多摩動物園はと云うと、通りすがりに見ると、朝から駐車場は超満員で、相変わらず子供持ちの家族にとっては魅力あふれる人気スポットのようです。

35~6年前に多摩動物園に通っていた時を思い出すと、多摩動物園は上野動物園と違い、せせこましくなく、園内はたいへん開放的で広々としており、キリンなども広い場所を貰い、元気よく飛び回り、そして、我々見物人のところへ親しげに近づいてきて、餌をねだりに来ていました。

キリンをすぐそばで見ると、舌が長くて黒いのには『ヘー!』とビックリです。

やはり、そばで見ると、迫力が違います。

其のほか、チンパンジーもオオワシも沢山の哺乳類、爬虫類や鳥類など、みんな傍で細かく観察出来て大変面白かったし、子供にとっては、一日中楽しく遊べる場所である事には間違い有りませんでした。

それとは逆に残念ながら、多摩テックの方は、ついこの間、閉園してしまいました。

多摩テックも色々な乗り物があって、子供たちが『キャーキャー』と絶叫して楽しんでいたのですが、本当に残念です。

花を買いに行き、久しぶりに多摩動物園や多摩テックの傍を通りながら、片方は相変わらず盛況、もう一方は閉園となったのを見ると同時に、自分の若い頃、家族で緑豊かな多摩の地で楽しんでいた事を思い出して、何となく、物悲しいようなセンチメンタルな気分になったのでした。

院長の独り言 74 ; ザリガニから世の厳しさを学んだ

息子が小学生のころ、近所の小川でアメリカザリガニを捕まえてきました。

その中で、一番デカイ雌のザリガニを金だらいに入れて、息子の生物の勉強がてら飼う事にしました。

2~3日経ったある朝、金だらいをのぞいてビックリ、たらい一杯に何やらうごめいているではありませんか。

最初は何だか分かりませんでしたが、落ち着いてルーペでじっくり見てみると、その小さいうごめく正体は驚くなかれ、ザリガニの子供だったのです。

数百匹の小さなザリガニがたらい一杯に存在する光景は、ただただ驚嘆するだけでした。

知識不足でしたが、ザリガニは卵から孵るのだとばかり思っていました。

まさか、ザリガニの形で親から数百匹も直接生まれてくるとは思いも及びませんでした。

息子も娘も家内も勿論、私も大人のザリガニを小さく小さくした、ミニチュアの手足もひげも目も、親ザリガニにそっくりな(当たり前ですが)数百匹の子供のザリガニを見て、生物の誕生の神秘に声も出ませんでした。

子供二人の理科のいい勉強になったと云うより、自分の知識の肥やしになったのでした。

親ザリガニはこの世の摂理通り、すぐに、息絶えてしまいました。

息子は、庭の隅に親ザリガニを埋めて手を合わせていました。

残った数百匹の子ザリガニがこのままでは不憫なので、何とか生かして立派な大人のザリガニに成長させようと、私と息子で親ザリガニを捕獲した小川に放しに行きました。

小川に子ザリガニを放してホットした途端、見るも無残な光景が我々二人の眼に飛び込んできたのです。

『ウソー!』と思わず叫んでしまいました。

そこには信じられない事件が起きたのです。

皆様お察しの通り、フナのような小魚が子供のザリガニめがけて群がって来て、瞬く間に子ザリガニを食べつくしてしまったのです。

あまりの残酷な光景を見せられて、茫然とするやら、自分の浅はかな行動に憮然とするやらで、その日は心が沈んでしまい、その話を聞いた家内と娘は涙ぐんでいました。

今でもその事を思い出すと、心の中で手を合わせてしまいます。

院長の独り言 73 ; 『日本は安全』神話よ、どこへ…

この頃、殺人や強盗など物騒な事件が頻発に報道されています。

少し前までは、我が国は世界でも安全な国の代表のように思われていました。

それでも、60年ほど前に比べると危険な感じが少しずつ出てきていました。

60年前と云うと小生が小学生の頃です。

その当時はオーバーでなく、玄関に鍵をかけている家は全く見ませんでした。

隣近所は全て親類みたいなものでしたし、前のブログで書いたように、かなり遠くの人まで電話の呼び出しにも応じていました。

日本はどうして、このように怖い事件の多発するような危険な国になって来てしまったのでしょうか。

経済的に考えても、我が国は、60年前の方が今よりズーッと貧乏でした。

自分の家の事を振り返って見ても、喰うだけがヤッと…でした。

勿論、車もテレビも電気洗濯機も何も持っていません。

それでも戦争の頃の事を思えば、天国でした。

みんな食べるだけで嬉しそうでした。そして元気でした。

また、現在と比べると世の中、格段に安全でした。

その当時と比べると、今の方が何でも恵まれているのに、何と無く殺伐としているのは何故なんでしょうか。

私が思うに、安全な国にするには、世の中を明るくする事が一番大切だと思います。

なのに国をリードしなければならない政府関係者、マスコミはみんな揃って小難しい顔をし、テレビなど人前に出て来ては深刻な話ばかりします。

明るい話題を引っさげて、もっと元気よくニコニコしてテレビに出るべきです。

『笑う門には福来たる』ですよ。

今、子供全員が学校に行けるし、美味しい給食も食べられる幸せを、われわれ国民は享受しているのです。

しかも、働く場所も贅沢さえ言わなければ、十分確保出来るのです。

考えてみれば、世の中、殺伐になるか明るくなるかは、殆ど気分の問題ではないでしょうか。

幸せだと思えば幸せだし、不幸と感じればそうなるものです。

でも、本音で云えば、ただ一つだけ提言が有ります。

それは小学生、中学生の時に『人を思いやる気持ち』をキチンと教える事ではないでしょうか。

それさえ義務教育時代に、子供たちに伝える事が出来れば間違いなく、明るい安全な国家になって行くと思うのですが。

加えて、最近は外国の人が沢山、日本の永住権を得ています。

外国の人には日本人と同じように、『他人を思いやる気持ち』を持って貰うことと、『日本のしきたり(法律など)』を守って行動するように提言すべきです。

人の国だからと言って、『お客様扱い』的には絶対させない事です。

私の友達の外国人は、個人的にはみんな良い人ばかりです。

しかし、その人達が自国を意識する問題が起きると、当然の事ですが、態度が変わります。

外国の人との付き合いは、個人同士の付き合いは普段着でOKですが、国同士の利害が絡む場合は、やはり毅然とした前提のもとで何でもするのが大切です。

いま話題の地方参政権付与については、将来の事を考えて、子供たち後輩の事を思い、其のほか色々な事を考慮し、十分慎重を規して、事に当たるべきです。

日本の将来に禍根を残さないように、そして、未来の子供たちに迷惑にならないようにする事が、今、大人である我々の義務であり、責任でもあると思います。

院長の独り言 72 ; 宇宙旅行の夢

先週は素晴らしい十五夜の満月でした。

しかし、家々の屋根の上にすれすれに浮かんでいる時の大きな満月は、綺麗と云うよりは不気味な感じがします。

昔の人は、この満月を見て、どう思っていたのでしょうか。

我々は小学校で月についての学習をしているので、『地球の衛星』である事に関して当然の事として受け入れています。

ところで、大昔の人々は三日月になったり、丸くなったり、消えてしまったりするお月さまに対してどう思っていたのでしょうか。

そして、今と違って、夜になると降るような星が満天に煌めいていたのです。

また、朝夕はまん丸に見る事が出来る太陽ですが、昼間は正視できない程、眩しく輝きます。

火星は赤く見えるし、金星や木星はかなり明るく輝いています。

この色々な天体の動きや形や明るさなどの変化の不思議さは、畏敬の気持ちで受け入れる以外、大昔の人々は為す術がなかったと思います。

ましてや、皆既日食の時はさぞかし驚いた事でしょう…。

この世の終わりかと思ったかも知れません。そう思わなくとも、不吉な予感はしていたでしょう。

手品のタネがばれた時と同じように、何事も理由が分かってしまえばどうと云う事もないのですが、現実に起こっている理解出来ない現象に対して、驚嘆と恐怖を混ぜ合わせた不可思議な感情が湧くだけです。

我が国の創成期で、卑弥呼のような霊媒師が活躍出来たのも納得出来ると云うものです。

現代人は、昔の人々が、人間を寄せ付けないと信じていた宇宙に科学の力で挑戦しています。

しかし、人間が考えているように、宇宙は簡単に攻略出来るとは思いません。

小生の拙い知識によると、地球のように空気でコーテイングされていれば大丈夫なのですが、空気の無い真空の宇宙では厚い鋼鉄でも簡単に貫通してしまう宇宙線と云う恐ろしい殺人線が宇宙からどんどん飛んで来るそうです。

宇宙の科学雑誌やSF小説の読み過ぎですかね。

この恐怖の殺人線は頑丈な宇宙船でも簡単に貫通して中にいる人間を死に至らしめるのだそうです。

今、打ち上げている有人ロケットは薄くても地球の大気の中での存在ですから、命には支障をきたしませんが、完全な真空状態である地球から一番近い月への挑戦から始め、そして、オバマ大統領は近い将来には火星に有人宇宙船を飛ばす計画をほのめかしていますが、完全な真空状態にある月や火星の世界では殺人線を防御する手だてが出来上がっているのでしょうか。

心配ですね。

過去に、アメリカが有人宇宙船を月に飛ばしていますが、あの当時の技術では、怖ろしい宇宙線の防御の面から考えると、『あれは嘘だ』と、打ち上げ当初から、ズッーと世界中で噂されています。

宇宙旅行は人類の大いなる夢である事は確かです。

是非、怖ろしい宇宙から飛んでくる殺人線を防御するような方法を編み出して、月や火星に安全に行ける事を願っています。

院長の独り言 71 ; たまにはお休みも…

4月18日(日)、19日(月)、20日(火)の三日間、普段から懇意にしている友達夫妻、そして、小生と家内4人で、伊豆の今井浜温泉に遊びに行っていたので、ブログは休ませていただきました。

平日と云う事で(不景気も重なっているのかも知れません…)、この観光地も閑散としているのではないかと思いきや、かなり賑わっていたので、何と無くホッとしました。

ご多分に漏れず、温泉客の大部分は元気な高齢者でした。

日本も欧米諸国と同じく、高齢化社会の突入を肌で感じました。

宿泊したホテルでは、お年寄りの方が皆さんお元気そうで、友達同士、大笑いしながら、夕食の新鮮なアジの刺身などを美味しそうに食べていました。

西湘バイパスから熱海、伊豆と穏やかで雄大な太平洋を左手に見ながら、稲取海岸の先が、今回の目的地、今井浜です。

海の雄大さが魅力一杯で、つくづく、太平洋が我が国日本の所有物である事の幸せを、あらためて噛み締められました。

日本人である我々は、この事を心から神に感謝すべきです。

海を持たない国にとっては、羨ましくて羨ましくて、心の底から嫉妬心が湧いてくると想像出来ます。

太平洋は世界に存在する海のなかでも、一番魅力的な大洋である事は間違いありません。

まず第一に、多種類の魚の宝庫ですし、海産物だけではなく、最近、値段が急上昇している金などの鉱物資源も豊富に、海底に存在する事が近年の調査で明らかになってきています。

将来の子供たちの事を考えて、何としてでも、この太平洋の色々な既得権を、日本の為政者は全身全霊をもって死守すべきであると心の底から訴えたいと思います。

『友好!友好!』なんて、甘い事ばかり言っていると、足元を掬われますヨ。

外交は友好だけでは駄目です。

お互い、少しでも自国の国益を思って話し合いをするのですから、毅然とした態度が必要で、代表者が甘く見られたら、国民は立つ瀬が有りません。

話がソレテ申し訳ありません…。

太平洋の事を考えていたら、つい、腹が立ったのでした。

夕食は今が旬の金目鯛と鰺の刺身、それに地元の野菜がふんだんに出て、楽しい宴となり、友達夫妻と日本の将来や自分達のからだの事、ゴルフの失敗談など沢山の楽しい話で1日目の夜が更けていきました。

アゴの骨を造る-再生医療-

インプラント治療を希望される患者さまの中で、アゴ骨の量が少ない方は、骨を造る必要があります。

まず、下のレントゲン写真の黄色→部位をご覧ください。

こちらはお鼻の空洞(上顎洞)を持ち上げて、支えるアゴ骨を造り、インプラントを維持しております。

勿論、再生した骨とはいえ、何でも普通に噛めます。

一方、青色→部位をご覧ください。

こちらはインプラントを傾斜埋入することで、インプラントを維持しております。

再生治療は行いませんでした。

この症例が示すように、インプラントを維持するためには、時には、アゴ骨の再生が必要となる場合があります。

わが医院の方針としては、なるべく、傾斜埋入などして、最大限、ご自身のアゴ骨を利用し、インプラントの維持を図りますが、どうしてもアゴ骨が少ない場合は、再生医療を行っております。

最後に赤→部位をご覧ください。

下アゴ骨の中に、白くモヤモヤしている部位がありますが、ここは『ハイドロキシアパタイト』といって、歯や骨など、身体の硬い組織を構成している物質を人工的に作り、ご自分の骨と混ぜ合わせて、アゴ骨の再生を試みています。

10年間以上経過していますが、全く問題なく、インプラントを維持しており、患者さまも大変満足しておられます。

アゴ骨が少ないなどインプラント治療をあきらめていた患者さまでも、再生医療など、様々な治療方法がありますので、何か質問などありましたら、遠慮なくスタッフにお尋ねください。

パノラマ傾斜埋入とサイナスリフト2

院長の独り言 70 ; 東照宮の宮大工は完璧な仕事をしなかった

日光の東照宮は『日光を見ずして結構と云うべからず』と言われているように、世界に誇る素晴らしい我が国の宝物です。

当時の宮大工が完璧を期して、全精力をつぎ込んで必死に完成させたものと思います。

ところが、物の本によると、わざと建物の柱の一本を上下反対にしたり、天井の一部の絵柄をわざと変にしたりしているそうです。

東照宮に行った折りには、その変な場所を探すのも一興ですヨ。

あの建造物を観れば、大勢の宮大工が全精力を出し切って仕事をした事は明らかです。

『自分たちの作った東照宮は、非の打ちどころのない完全完璧な建物である!』と胸を張って、自慢したいはずです。

その完璧なものに、わざと1~2ヶ所欠点を付けているのです。

『世の中に完全無欠なものは存在しない。完全なものが出来たらそこで終わりである』

宮大工は、『世の中に完璧なものは存在しないから、努力の甲斐がある!』と主張しているのです。

禅問答のようですが、彼ら名人は宇宙の真理真髄を突いているような気がします。

完全なものが出来てしまったら、それ以上する事が無くなると云う事は、もう努力する必要が無くなると云う事のようです。

角度を変えて考察すると、我々機械じゃないのですから、完璧主義なんて、息苦しくて息苦しくてこんなに辛い事はないと思います。

欠点がアチコチに有るから我々ホッとするし、努力の甲斐が出てくるのだと思います。

東照宮を建てた宮大工の皆さんは、わざと傷をつけて『遊んで楽しむ』程、腕に自信があり、心の余裕もあったのでしょう。

『完全無欠な事など、人間の世の中には何一つ存在するはずが無い』と忠告しているのかも知れません。

話は変わりますが、われわれ石川歯科のスタッフも、何とか患者さんの喜ぶ顔が見たくて、完璧な治療を目指しているのですが、宮大工のように余裕を持つ程に至らず、『ただただ毎日努力を…』と思っています。

オリンピックで優勝する素晴らしいアスリートも存在するし、どんなに頑張っても追いつかない人も私を含めて大勢いるのです。

しかし、雲の上の人を目標にして頑張れば楽しいではありませんか。

努力の甲斐が出てくると云うものです。

不完全な自分を意識して一生懸命努力した結果、素晴らしい仕事を残している人は世の中沢山存在します。

小生も寄る年ながら、頑張らなければと思っています。

院長の独り言 69 ; ゴルフは人生の縮図

テレビでも毎週ゴルフ番組が放映されるなど、ゴルフへの関心が高まってきています。

ゴルフを楽しむ女性も大変多くなりました。

40年以上前までは、ゴルフはどちらかと云うとテニスやサッカーなど過激な運動が苦手になってきた中年のするスポーツと云ったイメージでした。

私がゴルフを始めたのは、まだ、ゴルフがメジャーではない頃でした。

その当時は、ゴルフをする人もあまり多くなく、しかもかなり費用がかかるので、小生も一年に2~3度程度しかラウンド出来ず、常にビギナープレーヤーでした。

要するに、『へたくそ』だったのです。

正直、仕事も忙しく、ゴルフをする時間も無かったのですが、10年程前から、インプラントや外科治療、細かい歯髄治療などは息子を中心に若いドクターに任せる事が出来るようになり、その結果、小生は暇が出来、しかも、ゴルフもかなり大衆化してきて、下手でも気軽にプレー出来る世の中になってきたと云う事もあり、もう一度ゴルフを始めてみようと思ったのです。

丁度その時、『国立会』と云うゴルフコンペの仲間に、家内と一緒に快く参加させていただく事が出来ました。

そして、月に一度、神奈川県の相模湖カントリークラブでスコアーはともかくプレーを楽しむ事になったのです。

『国立会』の名前の通り、当初、メンバーは国立市在住のゴルフ好き数人で始まったそうです。

今は八王子、日野、多摩、三鷹市や都内のメンバーが加入し、男女合わせて総勢30名程の大所帯になっています。

皆さん紳士淑女なので、ゴルフをラウンドするだけでなく、旅行などもご一緒しています。

ところで、私がゴルフをするきっかけとなったのは随分昔ですが、医局に在籍していた時に、シングルプレーヤーのMさんに『修ちゃん、ゴルフは人生みたいで面白いぞ~。いいかな~と思って悦に入っていると、OBが出て奈落の底に落とされるし、悪いショットでガッカリしていると、長いパットが入っていい気分になる事もあるので、丁度人生そのもの、こんな面白いスポーツは他に無いヨ』と、進められて始めたのです。

実際、プレーしてみると、奈落の底ばかりで、これが人生としたらゴルフなんかやっていられない心境でした…。

従って当時は、ゴルフは全く面白いとは思いませんでした。

そうこうしているうちに、20年程アッという間に時が経ってしまいました。

開業して、仕事に集中していた事もありました。

再開したきっかけは、前述の『国立会』に入会出来た事と、医局に同じ時期の40年程前に一緒に在籍していた仲間4人が医局の忘年会で会った時に、お互い仕事も落ち着いてきたので、『体の為にゴルフでもしようか』と云う事になったからです。

そして、意気投合して一年に一度、一泊でラウンドする事になったのです。

一年ぶりに合うので、ラウンド前夜、温泉に入り、お酒を飲みながら4人で、医局にいた頃の思い出話をしたり、それぞれの家庭の話に花を咲かせて、ゴルフは二の次と云う感じで、ダベリに来たのかプレーしに来たのかいつも分かりませんでした。

まあ、元気なうちは、『下手』でも続けようと云う事で意見が一致しました。

其の他に、同級生の仲良し4人組とは3~4ヶ月に一度、『国立会』と合わせて、合計でゴルフは一年に20回前後プレーしている事になります。

現在の公式ハンデは26で、ラウンド100前後と云うところです。

この頃は、ゴルフは人生に似ているかもと、ほんの少し思えるようになってきました。

相変わらず、下手ですけど…。

院長の独り言 68 ; 我が家に十姉妹がやってきた

二十歳の頃だったと思うのですが、大学から帰宅した時に、庭に面している廊下の隅に、何やら蠢いている雀のような小さな鳥を見つけました。

かなり衰弱している感じで、早速、取り上げてみると、雀ではないようです。

手の中でぐったりしていて、今にも死にそうでした。

嘴に水を含ませて休ませた後、近くの本屋さんに鳥類図鑑を買いに行きました。

十姉妹(じゅうしまつ)だとは大体分かっていたのですが、一応確かめてみると、やはりその鳥でした。

図鑑によると、この鳥は野生種がないそうで、中国で飼鳥として作られた家禽鳥だそうです。

16世紀頃、我が国に入って来たのです。

自宅で飼育する鳥の中で、一番飼い易い鳥なんだそうです。

先ほどまでグッタリしていた十姉妹が、直ぐに元気になってピーピー囀り、暫くすると餌もよく食べるようになってきました。

何処か近所の家で飼われていて、なんかの拍子に逃げ出して来たものと思い、庭から放してみました。

ところが放した途端、家の中に逃げ込んでくるのです。

あまり飼いたくなかったのですが、しかたなく、暫く家で飼う事にしました。

本によると、十姉妹は飼いやすいけれど文鳥やインコほど人に慣れないとの事。

ところが、この十姉妹、初めは家の者を大変怖がっていましたが、2~3日で籠の扉を開けてあげると我々の手の上に乗って来る程に慣れてきたのです。

それからは、扉を開けっ放しにしていました。

家族が他の部屋で談笑していると、籠から出てきて我々の傍に来て、いかにも我々と一緒の家族だよと主張するようにピーピー話しかけてくるのです。

しばらく囀ると自分の籠の巣に入り、餌を食べたり寝たりしていました。

仕草は可愛いし、頭もよさそうなので、これは拾いものだと云う事になりました。

それから、家族全員の大切なペットになったのです。

春夏秋のいい天気の時は窓を開けていましたが、このピーちゃんは内外を自由に出入りして遊んでいました。

オスだと云う事が判明したので、鳥屋さんから、メスの十姉妹を買ってきて繁殖を試みてみましたが、このピーちゃん、お嫁さんの鳥より人の方が好きなようで、いつも、我々家族の方に来ていて結局子供は出来ませんでした。

我が家に飛び込んで来てから二年半ぐらい経った頃、籠の留り木からすべり落ちるようになり、上手く止まり木につかまる事が出来なくなったのです。

巣の中でじっとしていることが多くなつてから暫くして、眠るように息を引き取りました。老衰のようでした。

鳥は木に止まれなくなると寿命が尽きて死ぬと云う事を身をもって知りました。

院長の独り言 67 ; マイカー時代の到来

私は26歳の時に、自動車の免許を取得しました。

免許を取った一年前頃から日本にも、大衆車ブームの到来の予感がしていたのです。

そこで私も、免許を何とか取ろうと複数のアルバイトをして頑張り、自動車教習所に通いました。

まだ、大学院の学生の時でした。

今は知りませんが、当時の教習所の教官は大変厳しく、『車は場合によっては人を殺す凶器にもなる!』に始まり、『遊園地のおもちゃと違うぞ!』が口癖で、仮免まで進むのが大変でした。

仮免で初めて、一般の道路を運転した時はオーバーの話ではなく、手足がガクガク震えました。

今でも仮免で練習している車に出合った時は、当時を思い出して、驚かさない様に注意して運転しています。

予想通り、マイカーブームが到来しました。

しかし、自家用として走っている車は、スバルや三菱360など、小さい車ばかりでした。

それでも、当時の我が国の収入から考えると、個人で持つ事は殆ど無理で、乗用車はあまり見かけませんでした。

走っているのは営業用のダイハツの軽三輪か、トラックか、進駐軍の兵隊とその家族が運転しているデカイ大型のアメ車でした。

昭和41年(1966年)にトヨタがカローラ、日産はサニーを発表したのです。

この年が、日本のマイカー元年と云われている記念すべき年なのです。

小生が免許を取得した年が、まさに昭和41年、この年でした。

三種の神器、自家用車、カラーテレビ、クーラーが買いたい物の代表として、新聞、テレビに毎日のように大きく宣伝され出したのでした。

いくら車が大衆化しても、勿論、自分の当時の立場では残念ながら車を買う事は出来ませんでした。

自分で車が持てるようになったのが、八王子で開業して3年目の年でした。

大学院の学生の時に、夜、アルバイトをしていた歯科医院に頻繁に顔を出していたトヨタの営業マンとの繋がりで、最初に購入したマイカーは、忘れもしないピカピカの『コロナ』です。

今から思うと少し興奮していたのでしょう。

車の色ですが、『真っ赤か』の派手なセダンにしてしまい、冷静になってみると、もっとシックな大人の色にすれば良かったと後悔したものです…。

当時は、道は空いていたのですが、まだ運転する人も歩いている人も、車と云うものに慣れていない為、全員が交通マナーが滅茶苦茶で、小生も、今から思うと、よく事故を起こさなかったものだと胸を撫で下ろしているような次第です。

現在も近場の移動は自動車の運転で楽しんでいますが、若い頃と違い、遠出をするのは自動車では億劫になってしまい、大いに、電車など公共の交通機関を利用している今日この頃です。

院長の独り言 66 ; 本当の信頼関係が出来るまで

前回に親の話を語った次いでにと、このブログに書くのも何ですが、今回は親父の父親、つまり、私の父方の祖父(以下、おじいちゃん)と親父の母親、私の父方の祖母(おばあちゃん)について少々書いてみます。

お袋の話によると、おじいちゃんは宮大工でした。

素晴らしい大工の腕をしていたそうで、家宝とはオーバーですが、祖父の作った飾棚が小生が結婚する頃までは親父のうちに飾ってありました。

今は確か、兄貴のうちに有るはずです。

小生が2歳の時に亡くなっているので、おじいちゃんに関する記憶は全く有りません。

自分の母は、その当時として当然の事ですが、お見合いで父と一緒になっています。

若くして嫁ぎ、おまけに、親父の両親と同居と云う事で、結婚当初の話を母から聞くと、大変な気苦労があり、精神的にも辛い状況であったとのことです。

私が中学生になった頃に、母が良く話していました。

『私が嫁いで来て、何とか我慢が出来たのは、お前たち子供がいた事と、もう一つ、おじいちゃんが優しくして呉れたから…』だと、しみじみ言っていました。

結婚して数年間は、実家に帰ろうと、何度思ったか勘定出来ない程だったそうです。

その度に、実家の母に説得されて我慢したとの事です。

母の『実家の母』とは、例の『お寺のおばあちゃん』です。

色々な小説で『お姑さんは意地悪の代表』として書かれているように、ご多分に洩れず、母はかなりイビラレたとの事です。

お姑さん(私の父方の祖母)は明治前半の生まれの人ですから、其の頃の社会風潮を考えれば、イビる事も多々あったかも知れません。

お姑さんにしてみれば、イビっているのでは無く、躾と思っていたのかもしれません。

そして、いつも味方になって、母をかばって呉れたのがおじいちゃん(私の父方の祖父)だったのです。

宮大工だけあって、何に対しても毅然とした態度で対処するので、流石のおばあちゃん(私の父方の祖母)もおじいちゃんに睨まれると、黙ってしまったそうです。

そのおじいちゃんが『人間、一生のうち、誰でも死にたいほど辛い事が3回、本当にツイテいると思う時が3回巡って来る』から、『辛い時は耐えていれば、必ず良い事が巡って来る』と、母を良く慰めたそうです。

『クヨクヨしないで頑張るようにと、励ましてくれたおかげで、どうにかやって来れた』と、母は遠くを見る目で言っていました。

おじいちゃんは、70歳になる少し前に亡くなりました。

一方、母をイビっていたおばあちゃんはと云うと、晩年は母の事を『ねえちゃん、姉ちゃん』と言って、自分の子供である親父より信頼するようになり、何でも母に相談するし、母の云いなりになって、大変、物分かりの良いおばあちゃんに変身してしまいました。

おばあちゃんの変身した姿は小生も目撃しています。

人が人を信頼するには長い時間が本当に必要ですが、心の底から信頼されてしまうと、その信頼に応えざるを得ない気持ちになるそうで、『イビラレた事も忘れてしまった…』と、母は笑っていました。

院長の独り言 65 ; 昔の子育て術を参考にしてみれば…

私の両親は、明治生まれの父、大正生まれの母です。

既に10年以上前に、二人とも亡くなっています。

親父は真面目で几帳面でしたが、絵に書いたような頑固な人でした。

母は典型的な専業主婦で、家事一切を切り盛りしていて、父も母を心から信頼していました。

給料は封を切らず毎月きちんと渡していましたし、子育て全てを母に一任していましたが、たまの親父の雷は凄まじいもので、『地震 雷 火事 親父』の怖さがあって、我々子供たちは、親父に怒られないように、酷い悪さをしないように、また他の人に迷惑をかけないように、常日頃から訓練されていたのです。

今考えてみると、多分、子育てに関しては、両親で良く相談していたのだと思います。

怒り役が親父だったのでしょう。

『悪い事をすると、お父さんに言いつけるよ!』と、我々悪ガキの息子達は、母に、日常的にプレッシャーを掛けられていました。

子供の前では、常に母は父を立てていました。

しかし、子供の見えないところでは、結構、母は父に自己主張して、我儘を言っていたきらいがあったと今は思うのです。

趣味の三味線も嬉しそうにやっていましたし、友達の奥さん連を家に呼んで、騒ぎ楽しんでいました。

母は子育てに、大いに怖い親父を利用したのです。

勿論、父と相談ずくで…。

父も仕事が忙しすぎて、家庭の事は母に全面的に頼っていたのも事実だったのでしょう。

おかげで、4人の息子は道を大きく逸れずに、何とか大人になれたのです。

母は、内心してやったりと思っていたはずです。

若い母さん達にちょっと意見ですが、子育ての時期は、父親を絶対的に怖い存在にして、子供の前で亭主を馬鹿にするような態度はユメユメとらないように注意すべきです。

父親を子供の前では怖い存在にする事が、子育てのコツですヨ。

要らぬお節介ですかネ。

表向き、我が家は、『ワンマン親父の石川家』でした。

母は、そのように世間から見られていたのは、自分の演技がうまいからだと納得していたと思います。

親父が仕事を引退した後、頻繁に、家内が両親の様子を見がてら、二人の子供をお供に私の実家に行っていました。

お袋は孫たちに対して、いつもニコニコ接していて『お婆ちゃん、お婆ちゃん』と人気者で、親父はその傍で嬉しそうにその光景を満足そうに見ていました。

親の事を言うのも何ですが、両親は基本的には、仲の好い、お似合いの夫婦だったと思います。

春秋のお彼岸には、我々夫婦と子供たちとお墓参りに行き、両親を思い出しながら手を合わせています。

院長の独り言 64 ; 前歯をデコボコに並べると自然感が増します!

義歯を製作する時に、私が一番気を使っている事があります。

勿論、良く咬める義歯など基本的なものは当然として、それ以外に、前歯の見た目の立体感に一番気を使うのです。

歯の色調も大切ですが、わざと、少し『ガタガタ』に並べる事にして立体感を出すのです。

奇麗には絶対並べない事にしています。

『ガタガタ』と言っても義歯が緩んいるのではなく、前歯の人工歯を少し、互い違いに配列するのです。

これが意外と患者さんに好評で、『凸凹』していて、カッコ悪いからイヤだと云う患者さんは、この方法で作った義歯に対して一人もいません。

みなさんに喜んで頂いています。

前歯が、あまりにも、スッキリして綺麗に並んでいると、自然な感じが失せて、いかにも人工物が入っている感じになり、他人から見て、義歯だと見抜かれてしまいます。

町並みが整って綺麗なのとは全く違のです。

新患の五十歳程の女性の患者さんが、前歯部の部分義歯の再製希望で来院されました。

今までの入れ歯がどうもしっくりこないので、新しく義歯を作りたいとの事でした。

綺麗な入れ歯が入っているのですが、いかにも人工物と云う感じです。

綺麗すぎて却って不自然な感じなのです…。

そこで思い切って凸凹に前歯を並べて作ってみました。

患者さんがいやがった時は、再製作も考慮に入れて作ってみたのです。

新しい義歯を患者さんが口の中へ装着してみると、笑った時、歯並びに立体感があり、顔全体がチャーミングに見えるのです。

その患者さんは『嬉しい!』と言って、小生の手を握って大喜びでした。

それからは、自信を持って、前歯の審美に関する治療は、患者さんと相談の上、『凸凹』に並べています。

そして、その患者さんは入れ歯を装着してから、およそ半年に一度、定期的に来院されています。

昔から、『笑う門には福来たる』と言われている通りで、歯を手で隠して話をするご婦人を、時々、見かけますが、是非、その手を外して大笑いして貰いたいですネ。

ブログの第一回に登場したインプラントで総義歯を希望していたお婆ちゃんの義歯が最近、完成しました!

今までの総義歯と比べて、あまりの違いにビックリしていました。

今まで食べられなかったおしんこ、お肉などを本当に美味しく食べる事が、こんなに幸せな満足感を得られるとは『想像以上だった!』との事でした。

怖いと思って躊躇していたけれど、思い切って『清水の舞台から飛び降りる』つもりで、インプラント支持の総義歯を作り、『飛び降りて本当に良かった…』と嬉しそうに言ってくれました。

我々ドクター側も、患者さんの満足した笑顔を見てホッと胸を撫で下ろしています。

勿論、この患者さんの前歯も凸凹に並べたのは云うまでもない事です。

院長の独り言 63 ; その青白い青年棋士は格段に強かった!

小生は囲碁が大好きです。

下手の横好きと云うところですが…。

40年も前になりますが、医局に在籍していた時が、小生の囲碁実力のピークで、アマチュア2段程度でした。

何しろ、囲碁の好きな同僚が多くて、対戦相手に事欠かず、仕事が終わった後、夜9時頃から囲碁好きの仲間が集合して、ワイワイ打っていました。

開業してからは囲碁相手もいないので、治療に専念し、結果として、碁を打つ機会が少なくなり、現在は実力が一級程度に落ちてしまっていると思います。

囲碁での一番の思い出は、大学の第一回囲碁大会Bクラスで優勝して、小さいけれど、優勝の盾を貰った事です。

ちなみに、Aクラスは3段以上で、2段以下がBクラスです。

そして、圧巻は、そのあと余興で行われたプロ棋士と、アマチュア5段以上の我が大学代表、ツワモノ5人との対戦試合でした。

その当時、プロになったばかりの青い顔のひ弱そうな青年が対戦相手でした。

アマチュアでも5段以上の人は、本当に強いのです。

プロ相手なので、5人ともハンディとして、一応、4目おかせて貰い、試合が始まりました。

周りは黒山の観戦者で一杯です。

その中で、私も必死に観ていました。

5人並んで端からアマチュアの人が打つと間髪を入れず、その青白い如何にも頼りなさそうなプロが打つのです。

5人が眉間に皺を寄せて、持ち時間を一杯使い必死に打つと、すぐにそのプロは打ち返してくるのです。

そして、物の一時間足らずで、並んで対戦していた5人のツワモノ全員が完敗してしまいました。

それも大敗です。

観戦していた大勢の人は、結果があまりにも一方的だったので、ガッカリしてため息を大きくついたのでした。

その青年プロが気になり、その後、囲碁雑誌や新聞の囲碁の記事を、たまにチェックしていましたが、そのプロの話題にはぶつかりませんでした。

それから少し経って、私は大学を退職し、八王子で開業して、忙しくしていたので、囲碁の事をすっかり忘れていましたが、ある日、見たような顔が新聞に出ているではないですか。

『天才棋士本因坊になる!』と、新聞に大きな記事が載っていました。

本因坊とは、囲碁の世界のNO1の事です。

その人こそ、あの囲碁の余興で5人のツワモノをなで切りにした青白い青年棋士でした。

彼の名前は加藤正夫、その後、大活躍をして、囲碁界に大旋風を巻き起こした人物です。

名人、十段、棋聖など囲碁のあらゆるタイトルを総なめにしたその人が、あのひ弱そうな青白い青年と分かっても、にわかに信じる事が出来ませんでした。

彼は、その後、日本棋院の理事長に上り詰めましたが、57歳と云う若さで急逝してしまいました。

囲碁界をこれからリードしていく逸材でした。

本人も色々な面で、これからの囲碁の世界を改革したいと熱く述べていました。

期待していたので、本当に残念です。

加藤正夫氏のご冥福を心より祈ります。

院長の独り言 62 ; 願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ

桜が咲きだしました。春の花で、桜ほど咲き始めも満開の時も散り際も綺麗な花は無いと私は思っています。

同じ時期に咲くつつじなどは、花が枯れても枝にいつまでもしがみ付いています。

それはそれで、頑張っているとは思うのですが、やはり、小生は春の花は優美さ、はかなさなどから考察して、桜に一番の軍配を上げたいです。

うちの診療所は八王子の繁華街、八日町にあります。

八王子は桜の名所が市内各所に点在している、大変住みやすい大都市です。

そして、春は桜、秋は紅葉が素晴らしい自然豊かな所で、人口は約60万人ほど、東京都で一番大きな市です。

高尾山と陣馬山がハイキングコースとして有名です。

八王子は、昔は繊維の町として大変有名でしたが、今は都内から沢山の大学が移転して来た関係上、学生の町に変身してきました。

伝統ある古い町から活気溢れる若者の街になってきたのです。

しかし、ご多分にもれず、ご時世と云うか日本中どこでも見られるように、シャッター商店街が目立つようになってきて、少々心配です。

市役所も市民も何とか活性化を図ろうと、8月の第一週目の土日には盛大な夏祭りを開催したり、11月の半ばにはイチョウ祭りを市民を交えて行い、色々な面で頑張っています。

甲州街道沿いのイチョウは、物の見事な大木の並木道で、秋になると、街路が真っ黄色に染まり、それは見応えのある風景です。

春は桜、夏は祭り、秋はイチョウと紅葉、冬は真っ白な雪を頂いた名峰、富士の山が市内各所から見る事ができます。

是非、一度、八王子に来て観て下さい。

そして、石川歯科医院にもお寄りください。木製の花壇に小さな花々が咲く、玄関が目印です。

院長の独り言 61 ; 今は懐かしい、プナラリアの再生実験

3月8日(日)午後9時、NHKスペシャルで再生治療に関して放送していました。

右手の人差し指だと思ったのですが、工作器具で上三分の一の部分を切り落とした男の人の話です。

確か豚の膀胱の皮を粉末状に加工して、その粉を指の切断面に塗っていました。

施術後、数か月後の映像が出ていましたが、爪までついて、物の見事に指が再生していました。

幹細胞が豚の膀胱から出来た粉末に引き寄せられた事によって、指が再生したとキャスターが説明していました。

間葉系幹細胞は身体の臓器や骨、筋肉、歯、皮膚など、あらゆる部分の素だそうで、その場に必要な臓器になるのです。

要は身体の部品を造るようなものです。

遠くない将来、病気や怪我で失った身体のあらゆる部分が、再生可能な時代が到来するようです。

本当に眉唾ではないみたいです…。

再生と云えば、小生と同年代の人は小学校の理科の時間で、水生生物プラナリアを使って再生実験をやったと思います。

頭が三角でナメクジみたいな、およそ2~3㎝の扁形動物です。

目が寄り目で、栄養の出入り口が一つで、つまり、口と肛門が一緒という魔か不思議な生き物です。

今は知りませんが、私が子供の頃はそこらじゅうの川にいました。

勿論、雌雄同体です。

このプラナリアの再生能力は尋常ではなく、身体を二つに切ると頭の方からは体幹と尻尾が出てきて、下半身の方からは頭部が再生してくるのです。

三つに切り刻むと、頭部からは体幹と尻尾が、真ん中の体幹の部分からは頭と尻尾が、尻尾からは頭と体幹が再生します。

切り刻んでも切り刻んでも、個体として再生してくるのです。

子供ながら、随分、便利な生き物が世の中には存在するものだと舌を巻いたものです。

今、医療の最先端技術として、脚光を浴びているのが再生治療です。

テレビを見ていて、プラナリアの再生能力を思い出し、あの素晴らしい再生力を、何とか我々人間に応用出来ないものかと、つい考えてしまいました。