* You are viewing the archive for 2月, 2012

院長の独り言 319 ; 東京国立博物館特別展『北京故宮博物院200選』の招待券を頂きました!

患者さんのKさん、展覧会の招待券を、いろいろプレゼントしてくれます。
今回も、東京国立博物館特別展『北京故宮博物院200選』の招待券を頂きました。
Kさん、いつも本当に有り難う御座います!
2月18日(土)に、家内と行ってきました。
当日は気象情報によると、今年一番の寒さだそうです。
昨晩から、都心でも雪が降っていたくらいの寒さですから、午前10時前に博物館に着けば、少しは空いているのではないかとハリキッたのです。
上野に10時前に着いたのですが、お年寄りを中心に多くの人々が、寒いにも関わらず、訪れていました。
どうやら、われわれの考えが甘かったようです…。
中国の内戦で敗れた蒋介石が、明時代から清時代の故宮秘蔵の名宝を、台湾に運んでしまったようですが、それでも、現在の北京故宮博物院には180万件を超えるコレクションを所蔵しているとの事です。
その膨大な文物から、選りすぐりの名宝200点が今回、展示されました。
宋、元時代の書画、宮廷絵画、紀元前11世紀の商時代の精巧な青銅器、色々な時代の漆器や陶磁器など…、多彩な名品がずらりと並んでいました。
私が一番、吃驚(びっくり)したのは、『行書』の展示されているコーナーで、ある漢書に、日本の『平仮名(ひらがな)』が漢字の中に混じって書かれていたのです。
何故、平仮名が漢字に混ざって書かれていたのか、本当に不思議に感じました。日本と中国でどのような交流があったのでしょうか。
平仮名は我が国の発明した文字です。
『ふ』や『つ』が、漢字の中にポツンポツンと混じっているのですが、それが文を引きたてている不思議さがありました。
多くの見学者は関心が無いのか、平仮名の存在を気にもしないで、通り過ぎていました。
長い漢文に、平仮名が交じっている理由を、係の人に尋ねたかったのですが、生憎、周りにはそれらしき人は見当たりませんでした。
漢字は勿論、水墨画や陶磁器など、中国から伝わってきた文物が多いのを、思い知らされたのも確かですが、その文化を、本家よりも見事に成熟させた我が国の先達も、たいしたものだと感じ入りました。
このような展覧会を訪れると、いつも思うのですが、千年も二千年も前の人の書画や工芸品の精緻な美しさには、毎回、感心させられます。
ヨーロッパの古い美術品や今回の中国の美術品を観ても、技術は、積み重ねによって、少しずつ進歩はしていますが、脳細胞の程度は2千年前の人も、5千年前の人も、現代人も全く同じだと思いました。
科学技術は進歩していますが、最近の美術や文学の芸術は、奇を衒った表現がまかり通って、人間やその生活と遊離しているようで、ヒョッとしたら凋(しず)んできているのではないか。
人間の有り様は、このままで良いのか。
と、古き芸術家たちに、心の中で問い掛けていました…。

院長の独り言 318 ; 麻生元総理と電線地中化計画

今朝、テレビ番組で、麻生太郎元総理の元気な姿を、久し振りに拝見しました。
麻生政権末期のメディアのこき下ろし様は、大変なものでした。
エコ減税など、民主党政権にも引き継がれている政策が多く、経済政策が巧みであったのも、麻生政権でした。
話は変わりますが、ブログで何度も触れましたが、消費税増税の前に、内需拡大とデフレ克服が、景気回復に繋がると私は思うのです。
私の年代、65歳以上の人達が体験したような、我が国建国以来、前代未聞の大経済成長は現在、望みたくても無理な相談である事は分かっています。
私が住んでいる多摩地区を考えても、昭和60年代の、あの倍々ゲームのような景気の良さが戻って来るなんて無理な相談でしょう。
八王子から新宿まで、京王線に乗って車窓から沿線の風景を望めば、容易に理解出来ます。
今から40年ほど前は、沿線の風景は、まだ緑も多く、住宅と云えば、個人の平屋か二階家屋がほとんどでした。
京王線のどの駅前も静かなもので、ビルは駅前に、ポツン、ポツンとしか見られませんでした。
要するに、都内にも、美しい空が望めたのです。
それが、小生の気が付いた時には、どの駅前もビルだらけになってしまい、駅と駅の間も立派なマンションが立ち並んでいます。
あのビル群が建設されていた何十年かの間は、さぞかし景気が良かっただろうと、想像に難く有りません。
ダンプカーは何台も連なって、我が物顔に道を占領していましたし、夜の飲み屋街はひと、ひと、ひとで、活気に満ちていました。
ウチの診療所前も、終日、人で溢れていました。
高速道路は日本中あらゆるところに出来るし、結果として、車はドンドン売れるし、個人の家やマンションは、郊外に怒涛の如く建設されました。
大袈裟に言えば、日本中がひっくり返るほどのお祭り景気だったのです。
今は、国債をどんどん発行していますし、増税をしないと国が破たんするのでは、と言われています。
あの当時は、減税が当り前だったのです。
国家予算の税収が予定より多く入ってしまうので、取り過ぎたお金を、国が国民に返していたのです。
今、祭りの後と言うのか、本当に街中の活気が消えた感じがします。
ビルを建てたくても、その場所は駅前にはありません。
建て終わってしまいました。
車と云えば、矢張り、買い替え需要だけで、新車を買う家庭も会社も存在しないのではないでしょうか。
海外に目を向けても、アメリカをはじめ、あらゆる国の景気は右肩下がりです。
景気を少しでも回復させるには、何とか内需の景気を創り出し、デフレを克服しなければなりません。
皆さん大いなる錯覚をしていますが、日本の景気は、もともと内需で支えられているのです。
ドイツや、中国や、韓国より、我が国が輸出依存度の低い事は、少し前のブログでも説明しています。
我が国の景気を良くするのは、勿論、輸出も大切ですが、一番なのは、デフレの克服と内需の浮揚です。
しかし、内需、内需と言っても、具体的にどうしたら良いのでしょうか。
もう建設や車は、飽和状態です。
景気の牽引車にはなりえません。
随分前のブログで提案しましたが(院長の独り言 45 ; 日本の街から電柱と電線を無くそう!)、日本はヨーロッパの街並みと比べて唯一、劣るのは、電線が多くて、景観が悪いのです。
この際、思い切って、全ての電線を、大地震にも強い地下ケーブルに変換したらどうでしょうか。
これは、大工事になります。
我々市民の生活は工事中、大変、不便にはなるとは思います。
しかし、結果として、街は綺麗になり、景気は素晴らしく改善されるでしょう
何とか、官僚、マスコミ、政治家主導で実現出来ないでしょうか。
さすがに、麻生元総理も今朝、同じ事を強調していました。
それにしても、あの時、自民党政権に飽きてしまったとはいえ、麻生政権へのバッシングの異常さは、酷かったですね…。

院長の独り言 317 ; バブル狂想曲、退職金がパァ~

思い出してみると、昭和60年から平成元年頃までが、バブルの絶頂期だったと思います。
昭和47 年の暮に八王子市で歯科医院を開業して、6年目の昭和53年。
念願の府中カントリー倶楽部に入会する事が出来ました。
ゴルフの腕は恥ずかしいくらい下手ですが、友達に誘われたのを切っ掛けに、健康を思い、入会した次第です。
ゴルフ仲間は、ビギナーの小生に、全く厭な顔もせずに、付き合って呉れました。
お金の話で恐縮ですが、当時、会員権や入会金、その他の経費などで、確か総額900万円を支払いました。
いくら身体の為だとは云え、借金を抱えていたので、趣味に大金を出費するのですから、会員権を買う時は、家内から、嫌みのひとつぐらいは覚悟していました。
ところが、すんなりと『良かったね~』と家内が言って呉れたので、内心ホッとしたのです。
この会員権を買った半年前ぐらいから、我が国の景気がウナギ登りの右肩上がりで、それにつられて買った会員権もドンドン値上がりし出したのです。
アレヨ、アレヨと思っている間に、倍々ゲームのように会員権が値上がりしていったのです。
昭和62年頃には、とうとう1億円を超えてしまいました。
本当の話ですよ。
友達に薦められて買ったくせに、さも自分で買ったように、周りのみんなに自慢タラタラでした。
国家公務員出身の私にとっては、1億円などの大金は『想定外』の値です。
おまけに、開業したてだったので、想像を遥かに超える金額でした。
バブルの絶頂期には、会員権の仲介業者から『1億8千萬円でどうか?』と声が掛かったのです。
ここから後の話は、皆さんの想像通りに展開してしまいました…。
自分としては、ゴルフをプレーしている間は、どんなに値上がりしても、会員権を手放すつもりはありませんでした。
プレーが出来なくなったら、退職金代わりにしようと思っていたのです。
何しろ、億のお金ですよ。
ところが、平成2年頃から、何となく雲行きが怪しくなってきたのです。
世の中の景気が、です。
私は株を持っていませんでしたが、新聞やテレビで株の暴落を報じていました。
当然ですが、ゴルフの会員権の値も、坂道を転げ落ちていったのです。
あっと言う間に、退職金代わりの『一億円』は、パッと消えてしまいました。
現在の会員権、900万円で手に入れた会員権は、いくらになっていると思いますか、皆さん。
『300万円』です…。
豊臣秀吉ではないですが、『浪速のことは 夢のまた夢』と言った状態になりました。
そうそう上手い話は、この世の中には存在しないと云うのを、身を持って実感しました。

院長の独り言 316 ; 信じられないほどの驚き!

目の話をしたいと思います。
還暦を迎えるまでは、視力は然(さ)ることながら、色彩を見極める眼力に関しても、相当に自信がありました。
それは、随分前のブログでも書きました(院長の独り言 221 ; 老眼鏡は大のお友達)。
今回は色盲の話です。
『エッ!嘘!』と驚くことが、誰でも、たまにはあるものです。
例えば、素朴で長閑(のどか)な東北の街並を大津波が襲った後、瓦礫の山と化した景色には、エッ!嘘!と息を飲んでしまいました。
大津波に襲われて、家も車も流されていく映像は、CGの世界のようでしたが、現実の出来事です。
話は全く違うのですが、『エッ!信じられない!』とビックリした出来事を、中学生の時に体験したのです。
今朝のNHKの番組でもやっていました。
色覚異常、いわゆる色盲(色弱)の話です。
その後、色々驚かされた出来事は数えきれないほど経験しているのに、この事だけは、いつも思い出してしまうのです…。
それは、親父の仕事の関係で、官舎に入居した時の話です。
古い家なのですが、結構、広い庭付きの官舎でした。
八畳間から、庭が綺麗に見え、5月になると、正面の庭に真っ赤なバラの花が見事に咲き誇るのです。
お袋は『本当に真っ赤で素晴らしいバラ!』と感心して見惚れていました。
私が中学生になった年の梅雨に、例によって、お袋と一緒に真っ赤なバラを見ながら、『人間では、この見事な深紅の色は絶対、創り出せないね』と、バラ談義をしていた時です。
丁度、兄貴が学校から帰ってきて、我々二人の様子を不思議そうに見ながら、『そんなに感心して、何を見ているの?』と尋ねてきたのです。
『こんな見事な真っ赤バラ。こっちへ来て見てみなよ!』
『滅多に見られないよ!』と誘ったところ、兄貴は怪訝そうな顔をして、『何処にバラが咲いているの?』ときたのです。
一瞬、兄貴が何を言っているのか、理解出来ませんでした。
兄貴の手を引っ張って、花の前に呼び、赤いバラを指差して、『ほら、こんな真っ赤で凄いだろ!』と詰(なじ)るように言ったのです。
ところが、兄貴は『よく見れば、周りの葉っぱと同じ色の花びらがあるのは分かるけど、一つも綺麗じゃないね!』と宣(のたま)ったのです。
お袋と私は、目が点になるほどビックリしました。
皆さんお察しの通り、兄貴は色覚異常でした。
色覚異常にも色々あるのですが、兄貴は赤緑色盲と云って、赤色と緑色が同じ色に見えて区別の付かない、先天的な色彩異常なのです(後天的もある事はありますが、今回は先天的の色覚異常に限ります)。
交通信号の赤と青の区別がつかないので、事故にも繋(つな)がってしまうので怖い事もあります。
赤緑(せきりょく)色盲の兄貴は、勿論、自動車の運転はしません。
色彩異常でない私にとって、赤と緑の区別が出来ないとは、本当に『エッ!嘘!』と云った感じだったのです。
ところが、赤緑色盲の人は、残念ですが、区別がつかないのです。
普段の生活には、何の支障もありません。
色盲は、X染色体の異常なので、X染色体が一つしか無い男性は、女性より色覚異常の人が多いのです。
女性の場合、X染色体が二つなので、片方の染色体が異常でも、色は正常に見えます(潜在色盲)。
X染色体が二つある女性は、色盲はほとんどありません。
女性は長生きするし、何でもうまく出来ていますね~。

院長の独り言 315 ; 江戸川乱歩『芋虫』

小学校高学年から中学校を卒業するまで、私は江戸川乱歩の少年向け探偵小説『怪人二十面相』にゾッコンでした。
親に買って貰い、何度も、何度も、読みかえします。
今でも、その単行本を自宅に保管しているほどです。
この『怪人二十面相』は、昭和11年(1936年)に雑誌『少年倶楽部』に連載されて、人気を博し、後に単行本が売り出されたのです。
名探偵 明智小五郎と小林少年が率いる少年探偵団が、変装名人である怪人二十面相と対決して、様々な難事件を解決していくと云う、皆さんご存知の子供向けの痛快小説です。
小生、乱歩が推理小説作家として、勧善懲悪の探偵小説ばかり書いていると思い込んでいました。
忘れもしません。
大学に入った年の夏休みに、神田神保町の古本屋で『芋虫』と云う乱歩の短編集を見付けたのです。
乱歩の小説ですから、例によって、昆虫の生態でも書かれている、科学解説本だと思って買ったのです。
でも、乱歩らしく、一寸風変わりな推理的昆虫小説ではないかと、期待半分興味半分と言ったところでした。
普通の昆虫解説書と何処が違うのか、自宅に早く持ち帰って、読みたい気持ちで一杯でした。
驚きました。
読んでみての感想ですが、自分の頭の中に出来あがっていた、江戸川乱歩が書いたものとは信じられませんでした。
全く、昆虫解説本とは違うのでした。
簡単な内容を説明します。
戦争で命は助かったものの、主人公である元兵士は、傷痍軍人として、故郷に帰って来たのです。
大変な傷を負って…。
両手両足が無くなり、視覚と触覚以外は、五体のほとんどの機能が消失、まるで見た目は、芋虫のようになってしまったのでした。
題名はここからきているのです。
その芋虫のようになってしまい、自分の意思で全く動く事の出来なくなってしまった旦那を、奥さんが苛(いじ)めるのです。
過って、貞節だった奥さんが、動けない旦那をいたぶり、虐げます。
最後には、見えていた目も、奥さんは潰してしまいます。
読んでいて気持ちが悪くなってしまいました。
こんな内容の小説を江戸川乱歩が書いたという事実に、若かった自分は、大変なショックを受けてしまいました。
しかし、その後、乱歩は推理探偵小説以外にも、様々な変わった小説を書いている事が分かりました。
自分の勉強不足が恥ずかしい限りです。
いま思うに、小説『芋虫』は、人間の業の恐ろしさを書いたのです。
要するに、変形した愛欲小説だったのですね。
読んでない人は、気持ちが悪くなる事を覚悟で読んでみて下さい。
最近、『キャタピラー』という題名で、脚色映画化されたようです。
原作を思い返すと、あまり見る気が起きませんが…。

院長の独り言 314 ; ハンバーグ嫌い

以前、レストランに入って、ハンバーク料理を自ら注文することは全くありませんでした。
理由は単純で、ハンバーク料理が好きでなかったからです。
勿論、ハンバークが自宅で、おかずとして出てくる時は、否でも応でも食べていました。
実は小生、ハンバークを初めて食べたのは、大学に入った後でした。
幼い時からハンバークを食べていないので、初めて食べた時も、別段に美味しいとは思いませんでした。
ステーキと違い、ハンバークは歯応えがなく、そのグジャッとした、軟らかい食感が、自分に合わなかったのです。
今時の若い人達はハンバークが大好きですね。
娘も、息子も、ハンバークは小さい時から大好物でした。
私は、何であんなにハンバークが好きなのか、理解に苦しんでいました。
幼児期にその人の食べ物の好みは、大体、決まると言われています。
母親が刺身を嫌いだと食卓に刺身が出てきませんから、必然的に、その母親の子供は刺身を好まないそうです。
納豆などは、関西人は幼い時から食べていないので、大人になっても納豆を嫌う人が多いと聞きます。
小生の母親は大正生まれなので、ハンバークを食べたことが無かったのでしょう。
私が子供の頃、ハンバーク料理が食卓に並ぶことはありませんでした。
結婚して子供が生まれたのを契機に、家内がハンバークをよく作るようになりました。
それまでは、私がハンバークを好きでないと、家内は知っていたので、ハンバークは食卓に出てきませんでした。
逆に、子供達はハンバークが大好きでした。
子供達の催促で、ハンバーク料理を作るようになったと云う事です。
小生は云えば、ハンバークには箸を少しつける程度で、天ぷらや刺身で晩酌をしていました。
外食する時も、レストランでは、殆どステーキを注文していました。
ところが最近、レストランに入った時、ふとハンバークステーキを注文してみたのです。
そして、注文して気付いたのです。
当たり前と云えば当たり前なのですが、店によっては、ハンバークの味も見た目も微妙に違うのです。
よく味わって食べると、ハンバークは、なかなか捨て難い料理であるのに、この年になって、遅まきながら気が付きました。
ハンバークは、ドイツを起源とした料理です。
語源は、皆さんご存知の如く、ドイツの都市ハンブルクからです。
ドイツ人移民がアメリカに渡った際、故郷を懐かしんで食べていたようです。
何と言っても、アメリカでは、ステーキが主流であったのは、言うまでも有りません。
ところが、ヒョンな事から、ハンバークをパンの間に挟んで食べるようになったら馬鹿受けになってしまいました。
ハンバーカーの誕生です。
恥ずかしながら、私も2~3週間に1回は、ハンバーカーを買って食べたり、ハンバークを家内に頼むようになりました。
『昔は、あんなに食べなかったくせに!』と、嫌味を言われている、今日この頃です。