院長の独り言 110 ; 疫痢で命を落としそうになったあの日…
私が2歳半の時に、4歳年上の兄と共に『疫痢(えきり)』と云う恐ろしい病気に感染してしまって二人とも死にそうになった事があったのです。
よく耳にする『赤痢』の重症型を『疫痢』と言って、早く治療しないと命を落とし兼ねないのです。
その当時は良い薬が存在せずに、特に体力の無い幼児が罹患すると致死率が高く、怖い病気の代表格だったのです。
母の話では近所のお婆さんから貰った竹輪を二人が食べた後に急に熱が出て、食べた物を吐いた後にひきつけを起こすなど、大変な事になったのです。
父は仕事で不在の時でしたし、母は動転しながらもタクシーをすぐに呼び、東大病院に二人を運んだのだそうです。
後に母が話していたのですが、担当に当たった医師たちが『これは命が危ない…』と看護婦と囁いていたそうです。
静脈注射は良く聞きますが、その時は我々の心臓が止まりそうだったので、動脈注射を施したとの事です。
普通、医者でも余程の事がない限り、動脈注射は行わないものなのです。
その証拠と言っては何ですが、動脈を確保するための切開の跡が今でも、兄貴共々、腕に痛々しく残っています。
先生や看護婦さんの必死の治療のお陰で、何とか二人とも命を落とさずに済みました。
幼過ぎた私は、自分が死にそうになったなんて全然、記憶に有りませんが兄はよく覚えているそうです。
今だったら『疫痢』は怖い伝染病ですから、隔離をされるなど新聞沙汰になっていたかも知れません。
当時はまだ、ペニシリンやストレプトマイシンなどの抗生物質は一般的で無かったので、この病気で幼い子供が命を落とす場合が多々有ったのです。
発病したその日の朝には、親父が出勤するのを母親に抱かれた幼い私と、その傍にいた兄貴とで、元気に見送りしていたのに、午後2時頃、勤め先に二人の子供が重体だと連絡を受けた父は何が何だかその状況が理解出来ず、さぞかしビックリした事と思います。
直ぐに病院に飛んで来て、父は母の傍らでガタガタ震えていたそうです。
特に、年少で体力のない私の方が危なかったそうで、成人した後にも『お前は心臓が止まって一度死んだのだけれど、お医者さん、看護婦さん、そして、神様に助けて貰ったのだ!』と、父から何度も聞かされ、あの明治生まれの人前では決して涙を見せない頑固親父が徐に涙ぐむのです…。
母に言わせると、親父が泣いた姿を目撃したのは、幼い息子2人の命が医師から『もう大丈夫!』と太鼓判を押された時と、大東亜戦争敗戦の玉音放送を聞いた時の2回だけだったそうです。
独り身の時は、父が眼を潤ませて『疫痢』で大変な目に遭ったと何度も言うのを聞かされて、少々シツコいのではないかと内心思っていたのですが、子供の親になってみると、親父が『疫痢』騒動で、死ぬほど子供の事を心配した親心が分かるようになってきました。
一方、母は比較的冷静に、その当時の有り様を覚えていて、あらためて『女性は強い!』と思ったものです。