院長の独り言 173 ; 講師になって、突き上げられて…
昭和40年代から、歯科大学と歯学部が全国的に増設され出したのです。
それまでは、我が国には大学の歯学部と歯科の単科大学合わせて7校でした。
毎年、約700人の新しい歯科医が誕生するのですが、亡くなったり治療が出来なくなって引退してしまう歯科医の数を引くと結局、日本全体の歯科医師数は殆ど増加しないことになります。
1億人の人口を持つ大国日本とすれば、全てが高度成長の時を迎えたのに、歯科医師はあまりにも不足していたのです。
歯科治療の需要がうなぎ上りなのに、治療する歯科医が少な過ぎたのです。
時代は歯科医の増加を熱望していた訳です。
自分はそう云う歯科医不足の真っ只中で大学の教官をしていました。
ところで、今年も受験の季節2月がやって来ました。
2月は大学をはじめ、各種学校の受験生にとっては避けて通れない、総決算のシーズンです。
勿論、私も受験を経験しましたが、まさか自分が逆の立場に成るとは思ってもみませんでした。
即ち、講師になると、大学受験を実施する当日、試験の監督官がノルマになるのです。
幸か不幸か講師になってしまったので、我が大学、東京医科歯科大学の主任の監督官の一人として大学受験に立ち会う事になってしまったのです。
監督官になって一番困った事は、受験票に張ってある写真と目の前にいる受験生が正直、同一人物なのか迷う時です。
例えば、写真は若々しい紅顔の美少年なのに、試験場で目の前に座っている青年はと云うとヒゲズラで、本人の様なそうじゃ無い様な、あまりジロジロ観察する訳にもいかないし、ましてや、本人かどうか警察官のように聞く度胸もないしで、いま思い出しても、冷や汗が出てきます。
また丁度、講師時代には学生闘争運動の真っ只中でも有ったのです。
学生から大学側に突き付けられた抗議の集会場では、過激な学生から色々と突き上げられる側に小生もいて、大変な目にも遭いました。
時は日米安全保障条約(安保条約)の第二次闘争の時です。
第一次安保闘争は、所謂、日米安全保障条約の新条約の発足時の闘争です。
その時は、小生は大学生だったので、闘争運動を激しくやっていた側にいたのです。
第一次安保闘争の岸内閣の時は、空前の激しいデモをしながら国会議事堂になだれ込んだ学生の中に、小生も恥ずかしながらその一人として入っていたのです。
そして反対に、自分が学生抗議運動の説得側にいたのが、日米安保条約の自動継続阻止を目指して起こった第二次安保闘争の時と云う事です。
今でも学生闘争運動の象徴として、東大安田講堂の学生立てこもりは有名です。
所謂、70年安保闘争です。
まさか闘争側と説得側の両方を経験する事になるとは思いもしませんでした。
いま思い出しても、頭が混乱します。
話を歯科医師不足に戻します。
文部省も厚生省も、歯科医師を増やす為に、国立大学の歯学部と私立の歯科大学を全国に増設し、結局、7つの歯学部と歯科大学が29校になり、アッと云う間に歯科医師の過剰時代になってしまったのです。
いくら歯科医が不足していたとは云え、29は造り過ぎでしょう…。
過度の不足もまずいですが、多すぎる場合も、治療する側とされる側の両者にとって、決して良い訳では有りません。
不足していれば、治療を受けにくいし、過剰の場合は安易に受診しがちになります。
世の中、全て丁度いい具合にはいかないものですね。