院長の独り言 393 ; 誕生日で75歳!

6月は、私の生まれた月です。
昭和13年の生まれですから、75歳になった事になります。
よくぞ今日まで、大きな病気もせずに生きて来れたと神に感謝してしまいます。
昭和13年と云うと日中戦争の最中で、世の中、緊張状態。
大変な時に誕生しました。
私が3歳になると、両親が普段の緊張した顔より、何倍もの強い緊張状態になってきました。
いくら幼児でも、何か大変な事態になっていると本能的に察知したものです。
母親は普段、いつも着物姿でした。
しかし、気がついた時は、近所のおばさん達も勿論、母親や女性と云う女性はみんな『もんぺい姿』でした。
スカートの女性は、全くと言っていいほど姿を消しました。
男性はというと、簡単な作業用軍服を着ていました。
それから一年経つか経ないうちに、両親は防空壕を作ったり、バケツリレーで消火訓練をやり出しました。
『米英鬼畜を倒せ!』と云うスローガンのもと、戦争は中国から東南アジアに広がっていき、ついにアメリカとの戦いにエスカレートしていったのです。
いくら神風が味方しても、巷ではアメリカには勝てないと噂されていたのです。
結果、東京は焼け野原になり、広島、長崎は人道的にも許されない原子爆弾の被害にあったのでした。
沖縄をなんとか死守しようと戦艦大和を出動させましたが、徒労に終わってしまいました。
敵艦に対する零戦(ゼロ戦)による、決死の体当たり(特攻隊)も、沖縄を守るための手段であった事は当時の記録を読めば明らかです。
大和といい、零戦といい、必死に沖縄を守ろうとしたのですが、皆さんご存知の如く、あまりの軍事力の差は如何ともしがたく、沖縄も焼け野原にされてしまいました。
敗戦の時、自分は6歳、疎開先は岐阜県の中津川でした。
東京に戻って来て本当に驚きました。
親に買い物がてら連れて行ってもらった華やかな銀座が、全くの焼け野原になっていたのを目の当たりにした時は、戦争の悲惨さを感ぜずにはいられませんでした。
よくぞここまで日本は復興してきたものだと、今更ながら日本国民の頑張りに驚嘆してしまいます。
また、ヨーロッパ諸国の植民地だったアジアの国々全てが、多大な犠牲によって解放され、それは日本にとって唯一の救いだと思います。

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