広津和郎『蚤と鶏』と捕鯨問題

今朝、テレビを見ていると、例によって、反捕鯨団体による、日本の調査捕鯨船に対する妨害行為が報告されていました。

水産庁によると、日本時間17日午後3時ごろから午後5時ごろにかけて、反捕鯨団体シー・シェパードのスティーブ・アーウィン号が、「第2昭南丸」の進路にロープを投げ入れたり、緑色のレーザー光線らしきものを発射するなどの妨害行為を行ったらしいのです(フジテレビの配信)。

オーストラリアの首相に対して、反捕鯨団体に港を貸すなどの協力ともとれる行為を止めるように、鳩山首相が求めたばかりなのに。

この反捕鯨行為は、この季節の風物詩になっては困る。調査捕鯨船や水産庁など関係者の方々のご苦労を思うと、心が痛むばかりです。

この毎度の報道を見聞きすると思い出すエッセイがあります。

奥本大三郎氏編著『百蟲譜』という、虫に関わる小説やエッセイのアンソロジーで読んだ広津和郎氏『蚤と鶏』です。

その中のエピソードで、一つは日本人が四足を食べなかった時代の話。蚤も殺せず、蚤を捕まえると殺さずに竹筒に溜め込み、それでも一杯になると、遠い川に捨てに行って、後ろを見ずに逃げ帰ってきた話。

次は、その対極の話。鶏をつぶす前に、その眼を潰して暗闇で飼い、鶏をブクブク太らせてから殺して食べるという残酷な話。

作者の広津氏は、この両極端の話を聞いて考えます。そして(引用始まり)、

『私はその晩寝床に這入ってからも長い間この二つの話を考へて見た。が、なかなか解決はつかなかつた。今でもつかない。今後も恐らくなかなかつかないに違ひない。

ただ私に解るのは、この両者の態度とも、私には同感し得ないといふ事だけだ。

鶏の眼をつぶすのを徹底的だと思ひ得る人もあるだらうが、そんなのを私は好かない。文壇でもかうした事に、その「徹底論」を持つて行かうとした単純な人間が、今はだんだん尠くなつて来たらしいが、以前にはかなりあった。自然主義が生み出したセンチメンタリズム(一寸センチメンタリズムと反対のものに見えるが、これこそ悪いセンチメンタリズムだ)の一つも、丁度かうした傾向を取るに至つた事を覚えてゐる。

だが、今はさうした傾向が文壇、思想界に下火になつた代りに、今度は蚤の始末に困つて、竹の筒を遠い川まで投げ込みに行きさうな人間が、大分多く生じさうな現象を呈してゐる。原の中で沢山の草を踏みつけて置きながら、唯一本の草を摘まうか摘むまいかと思ひ悩んだ揚句、たうとう摘まずに帰つて来たと云つて、それを一つの美事であるかのやうに、「私は草の生命を考へた」などとみづから得意になり愉快になつてゐる連中が、ウソでもなく、誇張でもなく、ほんたう近頃はゐるのである。

かうした認識不足のセンチメンタルな自己陶酔家達を、私はやつぱり好かない。

若し敢て押し切つて云ふならば、この両方の態度まで傾かないところに、此両方の態度を否定もしない、又肯定もしない、と云つて又無関心でもなければ、関心もしないところに、恐らくわれわれの行く道があるのだろう。そしてそれを導くものは恐らくわれわれの「心臓」だろう。自然と不自然とを敏感に見分ける「心臓」……併し此処まで云へば、それ以上は各人の問題だ。』

長い引用でしたが、捕鯨問題も根本にあるのは、広津氏のいう「心臓」の鈍感さ、あるいは(これは勘繰りなのかも知れないが)人種差別の現われのひとつなのかも知れません。

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