院長の独り言 242 ; 写楽と歌麿

写楽を語った以上、江戸随一の美人浮世絵師『歌麿』を紹介しなければ片手落ちと云うものです。
小生が思うに、写楽はあまりにも現実的な役者浮世絵を描いたので、当時はあまり人気が出ず、約10ヶ月間で、女形などの美人画を描くのを止めざるを得なかったのでしょう。
何と言っても、歌舞伎のブロマイドは、江戸庶民に夢を与えなければならないのに、写楽は画力があるのでしょうが、そのファン心理を無視したのが拙(まず)かったのではないでしょうか。
版元の蔦屋重三郎に、無理やり描かされたのか、写楽自身が自らの意思で描いたのかは定かでは有りません。
筆を折ってからは、世間から忘れられていた写楽に突然、明治43年、ドイツ人美術評論家のユリウス•クルトがレンブラント、ベラスケスと並んで東洲斎写楽を世界の三大肖像画家の一人だと、その著書に記したのです。
それからです。
国内は勿論、世界的に、天才浮世絵師として写楽が脚光を浴び、再登場したのは…。
以後の写楽人気は、皆さんご存知の通りです。
写楽と同時代に活躍した有名な浮世絵師は沢山いますが、何と言っても、写楽とよく対比される浮世絵師は、喜多川歌麿でしょう。
江戸美人を描かせたら、この人の右に出る人は絶対いないでしょう。
当然、歌麿の役者絵は大人気で、人気と云う点では、写楽は歌麿の足下にも及ばなかった事でしょう。
浮世絵師としての技量は、両者とも天才的である事は間違いありません。
歌麿の美人大首絵は、誰が見ても、美しいだけでなく妖艶に描かれていて、ついつい美人絵に吸い込まれてしまいそうです。
江戸一の人気浮世絵師と持て囃されたのも当然です。
一方、写楽のそれは、美人とはほど遠いユニークなもので、妖艶どころではなく、一般受けは、先ずしなかった事でしょう。
ところが、こんな人気者の歌麿は驚いた事に、生まれが不明なのです。
若い頃は、鳥や昆虫、貝、魚、草木などの繊細な写実絵を、得意にして描いていたのです。
信じられますか。
その後、写楽と同様に歌麿は、版元である蔦屋重三郎に、才能ある絵師としての腕を認められて、美人画『四季遊花之香遊』を出版して評判を取る事になるのです。
浮世絵師として順風満帆、歌麿は特に美人画では、彼に敵(かな)う者は全く存在しないほどに売れっ子になったのです。
ところが、『倹約、倹約』の寛政の改革で、歌麿の描いた絢爛な美人画は、お上から贅沢すぎると目をつけられる羽目になってしまうのです。
しかし、反骨精神旺盛な歌麿は、老中首座である松平定信に楯突くように、豪華な着物を身にまとった美人を描き続けたのです。
時の権力者に楯突いて描き続けた歌麿は、たいした度胸の持ち主です。
将軍徳川家斉の嫌っていた豊臣秀吉が、北政所や淀君等と花見を楽しんでいる『太閤五妻洛東遊観之図』を描くに及んで、歌麿は幕府にお咎めを受け、牢屋に入れられてしまうのです。
これが原因で、歌麿は心身共に急激に衰え、失意の末に50歳半ばで病死してしまいました。
阿波の能役者 斉藤十郎兵衛が正体であるとされている写楽も、版元の蔦屋重三郎も皆、早死にしているので、何となく寂しい気もしてしまうのです。
江戸の昔を思いながら、写楽特別展を感慨無量で見学した次第です。

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