院長の独り言 88 ; 疎開先で受けた、浮世の厳しさ
小さい頃から、暇な時に地図を見るのが大好きでした。
小学生低学年で、県の名前と県庁所在地、外国の国の名前と首都、内外の国立公園、長い大河、エベレストなどの高山の場所や高さなどを聞かれればスラスラ答える事が出来、親に褒められるのが嬉しいし、友達には得意になって自慢をしていたのです。
しかし今は、地図の上で覚えた場所は殆どその名前も忘れてしまいました。
記憶とは面白いもので、ただ覚えて暗記した事はある期間は覚えていても、結局は殆ど忘れてしまいますが、身体と一緒に覚えた事は一生忘れないものです。
実際に行った所はどんな小さな町でも覚えているものです。
何でも身体を使って覚える事が本当に大切です。
子供の教育は体験学習が一番でしょう。
我々大人でも全く同じだと思います。
小生のように歳を取れば取る程、記憶力は衰えてしまいます。
最近、本を読むにあたっては特に注意している事は、若い時は早い時間で数多く読みこなす事が出来ますが、私のように70歳を超えた者にとっては、ユックリ、ユックリ時間を掛けて、そして、特に興味を持った箇所は、何度も読み返すようにしています。
特に今、一番記憶に残っている事は、グアムから生還した横井庄一さんではないけれど、恥ずかしながら戦争当時、全くという程、食べ物を口にする事が出来なかった時期です。
この強烈な記憶は忘れようにも忘れられません。
振り返って考えてみると、ほとんど食べられなかったのは、ほんの3~4か月だったのですが、いつ思い出しても、もっともっと長く感じていて、最低でも一年以上続いていたように思います。
『食べ物の恨み』は、本当に恐ろしいですね…。
空襲の為に疎開していた場所は、遠い親戚に当たる母方の祖母筋でしたが、今思い出してもその時の仕打ちにムラムラ腹が立ってくる事があるのです。
私と一緒に疎開していた祖母と私が寝た後に、その家族は、我々に気づかれない様に静かにして自分達だけ食べていたのです。
我々二人には食べ物が『無い!無い!』と言って、ほんの少ししか分けて呉れませんでした。
祖母がある日、寝床からトイレに出ると目撃してしまったそうです。
祖母は自分の親戚筋なので余計に怒っていました。
敗戦後に暫く経ってから、その家族の息子が東京の大学に入った時に祖母の家に下宿しましたが、祖母はその息子の面倒を良く見ていたので『流石、おばあちゃん!』と感心しました。
なにしろ、祖母はお寺の住職の奥さんですから、特別に人間が出来ていたのかも知れません。
以後、祖母を手本に小生も、自分が嫌な経験した事は絶対に、他人にはしない様に注意していたのです。
そして時は経ち、歯科大学を卒業して臨床のある教室に大学院生として入局しました。
そこで医局の先輩にいじめられたり、嫌な思いさせられたり…を経験したのですが、後輩にだけは辛く当たる事をせず、出来るだけ優しく接するように努力しました。
しかし今、振り返って考えると、その事も決して良いとは思えないから不思議です。
却って、後輩のドクターを甘やかしてしまい、本当は厳密さを必要とする仕事なのに、『歯科は甘い』と思わせて、本人には気の毒な事をしてしまったのかも知れません。
もう少し厳しく後輩を指導すべきだった…、愛の鞭も時には必要だった…、かも知れません。
考えようによっては、嫌な厳しい事を経験し、それを乗り越えようと努力させる事も本人の為になるでしょう。
甘やかせ過ぎても厳し過ぎてもダメですが、愛情の裏打ちが絶対です。
とにかく、疎開で経験した嫌な事が、色々、小生を成長させて呉れたと今では思うようにしています。
しかし、あの時の親戚の態度に見た、世の中で生きていく厳しさは忘れ難く記憶に残っています。