院長の独り言 282 ; 肝試しの想い出

もう60年以上前の話です。
私の通っていた小学校は、最終学年である6年生の夏休みに、箱根の林間学校を訪れるのが伝統でした。
5年生になると、上級生の6年生から、合宿について、いろいろな情報が伝えられます。
この合宿が待ち遠しい気持ちがあるのですが、卒業して、仲の良い友達と別れる寂しさを思ったり…と、複雑な心境でした。
林間学校での一週間の合宿生活が、小学生の卒業を意味していたのです。
子供を卒業して中学生の大人(?)になれると云う前向きな気持ちと、もうあまり子供染みた事は出来ないと云う後向きな気持ちが、錯綜していたのです。
いよいよ夏休みの箱根の合宿が近付くと、箱根の地理や歴史、特産物などを、幾つかの班に分かれて、研究と言うと大袈裟ですが、テーマを与えられて、自分達で色々と調べる事になっていました。
小生の所属する班は、戦国時代に、箱根や小田原を支配していた北条氏について調べて発表しなければなりませんでした。
北条氏の創始者 北条早雲は、斉藤道三と並び『下克上』を象徴する戦国大名です。
この2人の戦国大名は貸し漫画で、常に戦国時代を代表する英雄として、その善し悪しは別にしても、語られていました。
元々、道三は油売り、早雲は一介の素浪人であったのが、大名にまで登り詰めたのですから、子供達の人気者になる訳です。
戦国時代は波瀾万丈の乱世でしたから、成り上がり大名が、如何にも格好良く思えて、子供たちの憧れの的(まと)だったのです。
その北条氏を調べてみると、百姓出身と云われる豊臣秀吉によって、五代で滅ぼされてしまうのです。
あの武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった堅牢な小田原城を、秀吉は難なく陥落してしまうのですから、やはり天下を獲るだけの事はあったのでしょう。
ところが、近年の研究によると、北条早雲は一介の素浪人ではなく、室町幕府の政所執事を努めていた名門 伊勢氏を出自とする説が有力となり、低い身分の出でなかったと分かってきたのです。
しかも、早雲は出家するまで、『北条』の姓を名乗りませんでした。
きっと、名門『伊勢』氏の出身である事を、誇りにしていたのでしょう。
生涯、『伊勢新九郎長氏(盛時)』を名乗っていたのです。
話は逸れてしまいましたが、実は、ここからが今回、一番、お話したい事なのです。
箱根で合宿していた場所は、旅館ではありません。
合宿所です。
住み込みの夫婦とそのお手伝いさんが、食事の世話などをして呉れました。
そこでの生活は、朝6時に起床で始まります。
午前中は箱根の名所を、例えば大湧谷や芦ノ湖、戦場ヶ原などを訪ねたり、合宿所の周りを散策して、昆虫採集をしました。
富士山を写生したりもしました。
午後はプールで水泳をし、その後、温泉に入り、大はしゃぎした後、夕食。
夕食後は、一日の行動を皆で話し合ったり、各々が調べてきたテーマの発表会。
寝る前は当然、枕投げです。
いま思い出しても、本当に楽しい合宿でした…。
先生は殆ど怒らず、生徒の自由にさせていました。
そして、最終日の前日の真夜中に、この合宿のメインである『肝試し』があるのです。
5代続いた北条氏のお墓を、真っ暗闇の中、グルリとひと回りして帰って来るのですが、一人一人の間隔が、約100メートル離されて歩くのです。
子供たちは、真っ暗な山道に、ひとりぼっちにされるのが、怖くて、怖くて、ビビりまくりでした。
お墓で一分間、手を合わせた後、来た道と違った道を、必死に走って行くと、懐中電灯を持った先生がニコニコと笑っています。
後ろからお化けが追いかけて来るのではないかと怯え、子供ですから、生きた心地がしませんでした。
この肝試しが無事に済むと、我々みんなが中学生になる事を自覚するのでした。
現在の小学校で、こんな行事をしている学校が、果たして、あるのでしょうか。
懐かしい想い出です。

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