『坂の上の雲』から子規の強さを思う;そこが空つぽになるぢやないか
誰もが自分とは何者なのか探しはじめた時代。日本人にとって、それが明治でした。
実在の不安が生じたのです。自我が生まれたといっても良いでしょう。
現在、終身雇用制度が崩れ、派遣社員制度が法律の下、認められました。封建制度下における“家”とは少しく異なりますが、第二次世界大戦後の“家”に似た存在は会社であり、日米安保下の国家体制であったのではないでしょうか。しかし、冷戦が終わり、グローバリズムの波が押し寄せるに及んで、“家”は再び壊れました。われわれは、また新種の実在の不安に向き合わねばならないのでしょうか?
立場の規定されぬ自我は非常に脆いものです。明治人は、ある者は武士道に自我を求め、ある者は神を見出しました。
ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』と題された絵は、常に不安を喚起します。
その実在への不安を克服し、その人生を見事に写生俳句の世界で昇華させたのが正岡子規だと思います。
当時、死病であった結核に身体を蝕まれながら、死に至るおよそ十年間、子規の写実精神は輝きを増していきます。
子規が死の二年前、根岸の自宅における寝たきりの床の中で、脊髓カリエスの激痛に耐えつつ詠んだ短歌が残っています。
くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨の降る
死を自覚した人の歌には思えない程、冷静な写実の視線が生きています。本当に、子規は強いひとだと思います。
少年小説が有名で、子規の俳句の弟子でもあった佐藤紅緑が、『糸瓜棚の下にて』というエッセイに、子規のある思い出話を綴っています。子規の強さを思うと、より胸に応えるエピソードです。
『(引用はじめ) 或日。
期せずして同人が六、七人先生の枕頭に会した。三並良氏(先生の従兄弟)が久し振で訪ねて来た。先生の機嫌が好かつた。其の時は先生が墨汁一滴(?)に自力他力の問題を書いた時なので哲学者の三並氏も気持よく先生と談論した。其れから間もなく三並氏は暇を告げて起ち上つた。
「良さん!」
突然先生の叫び声が聞えた。同時に先生は声を挙げて泣き出した。僕等は只々驚いてどうしたのかと怪しむばかりであつた。三並氏は棒立になつたまゝ動かない。一座は全く悽然としてしまつた。すると先生は泣きながら言つた。
「もう少し居ておくれよ。お前帰るとそこが空つぽになるぢやないか」
これですつかり解つた。同人靄々として団欒して居たものが、一人でも欠けると座敷が急に穴が明いた様に調和が乱れる。其れが先生には堪らない苦痛であつたのだ。三並氏は座に複した。ものの十分も経てから先生は晴やかに言つた。
「もういゝよ良さん。帰つてもいゝよ」
三並氏の眼鏡の底が涙に光つて居た。(引用終わり)』
自我が確立しても、孤独は死に至るまで、人に寄り添うものなのですね…。
子規の生きざまは、常に私を導いてくれます。