院長の独り言 44 ; 他力で生きます
宗教上での『自力』と『他力』の違いとは、如何なるものでしょうか。
『自力』は修行して修行して修行し尽くして、難行苦行を乗り越えて、自らが悟りを開く、すなわち、自分自身が神あるいは仏になる事が最終目的で、禅宗がその代表的な仏教の宗派です。
一方、『他力』は絶対的に、神と仏が人間には手に届かない存在として有り、人間は唯、その偉大な力によってのみ救くって頂くと云う考え方で、浄土真宗やキリスト教がその仏教宗派・宗教に当ります。
人の力を当てにする例えとして使われる、『他力本願』の『他力』の意味と、宗教での『他力』のそれとは、意味においては似て非なるものなのです。
『他力』を信じている宗派・宗教の人にとっては、『他力』の力とは大きな力、すなわち、神の力に救われると云う意味です。
だから、『他力』の宗派・宗教に帰依する人は、『他力本願』の『他力』と勘違いされては、迷惑と感じるでしょう。
宗教の『自力』と『他力』、どちらも夫々の考えが有り、『自力』あるいは『他力』か、どちらを信ずるかは、個人の領域の問題です。
閉話休題。なぜ、弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)、法然上人、親鸞聖人、日蓮上人と、日本人の『精神世界』で誇るべき偉大なる聖人が、西暦750~1250年頃に集中して世に現れたのでしょうか。
その当時の日本は、内戦に明け暮れて、常に緊張状態が続き、庶民の日常生活が困窮を極めた事は、容易に想像出来ます。
一方、マクロ的な視点では、鎌倉幕府が国の制度を次第に統一化して、混乱も終息したので、庶民は皆、ホッと安堵したものの、今度は社会の安定化がもたらした身分の流動化が成立しにくくなり、地位や出自によって人間存在が雁字搦メになってしまい、またまた違った悩みが生じてきたのでしょう。
物理的と云うより、益々、悩みが精神的な、内面的なものに向っていくはずです。
そこにも、新宗派が生まれる原因があったはずです。
現代の日本に生じている諸問題も、類似した事情に依るのかも知れません。
平安・鎌倉時代の人と比べたら、問題にならないくらい小さい悩みですが、私自身、最近、どんなに頑張っても、限界が有る事を、この年になってつくづく感じています。
若い時は、自分の力で何とでもなると信じていました。
自分の信じている治療が、患者さんの為に常に良い事だと確信して行い、その事は現在でも同じですが、医学的な側面だけでは無く、患者さん側の問題など、他の色々な事情から考えると、あながちそうとも言えない側面も在る事に、この年になって何となく気付かされるようになりました。
誰が気付かせてくれているのか分かりませんが…。
若い時は自分の力を前面に出す『自力』的。
勿論、自分が神仏になると云う訳では無く、不遜にも自分で何でも出来ると思っていた事です。
年を重ねてくると何か大きな力に動かさているようで、生き方が『他力』的になってきたような気がするのですが。