院長の独り言 18 ;我々は生かされている…、他力の思想

今日、テレビや新聞で、人口18万人の山口県宇部市で宝くじの一等2本、前後賞4本が出て話題になっていました。この様な狭い地区で、このように何度も福の神が舞い降りてきた確率はゼロに近く、事実、宝くじ発売始まって以来の出来事だそうです。

話は変わりますが、皆さん、我々が今この世に存在している確率と宝くじの三億円に当たる確率と、どちらがゼロに近いものでしょうか?

答えは我々の存在する確率の方が、全然比較に成らないほど、無限大にゼロに近いのです。

秀吉とその家来についての、ある昔話があります。

ある時、戦で大活躍した家来に、『褒美として望みの物は何でも与える』と、秀吉は約束しました。そして、その家来は『それでは将棋盤の升に端から1粒、次の升に2粒、3番目の升は4粒、4番目は8粒と、1升ごとに倍々に、最後の升までの合計の米粒を頂きたい』と願いました。

秀吉は『それだけで良いのか。随分と遠慮深いの~』と安請け合いしたとか。

秀吉のこの返事は実に軽率で、将棋盤の升は9×9で81升、たかだか知れていると彼は判断したのでしょう。

皆さん、この乗数の数学ゲームの恐ろしさを計算してみて下さい。

その当時、日本で取れていた米の全ての取れ高よりはるかに多いのです。

『申し訳ない。それだけは勘弁してくれ』と秀吉は謝ったとか。この話は2のn乗のすごさを分かりやすく説明した話で、実話かどうかは定かでは有りません。

話を我々の存在がゼロである事の証明に戻します。

我々の親は言うまでもなく父と母2人です。祖父母の代になると4人、その前になると8人と言った具合で、時代を遡っていくと、どのような結果になるのでしょうか。こちらも、2のn乗の世界です。つまり、私の5代前の直接の祖先は、2の5乗で、32人存在したわけです。

多分、奈良や平安時代の頃まで遡ると、何かしら関連していて、とどの詰まり、今の日本人全員が親戚になるでしょう。『壬申の乱がもしなかったら』とか『関ヶ原の戦いが一寸違っていたら』とか、または一日天候が変化しただけでも、いま存在している我々は1人も存在しなくて、全く違った人間が生きているかも知れません。

もしかすると、出会うはずであった、我々の先祖の男女2人が、大雨で会えなくなったかもしれないのですから…。

こういった観点から物事をみると、歴史も大変興味深く身近に感じてきます。

さらに時代を遡り、マンモスの闊歩していた何十万年の昔、恐竜の生きていた1億年前、そして三葉虫やアンモナイトなどがこの地球を我が物顔で生きていた4億年以上の昔と、連綿と生命の連鎖は続いてきた訳です。今までで発見された一番古い生物は40億年程むかしに存在した単細胞だそうです。

この約40億年の間で、どこか少しでも違っていたら、例えば、ある三葉虫が子供を産む前に古代魚に食われてたらとか、もし、ある類人猿同士のひと組でも死に至るような喧嘩をしていたら、きっと今と違った人が存在していて、我々はこの世に存在しないかも知れません。

計算してみて下さい。生命は連続しているのですから。

要は、我々は宝くじの一等を当てたより、それ以上の偶然性を受けて、この世に生を受けているのです。決して、いま、ここにいる自分が必然性を持って、この世に生を享受している訳ではないのでしょう。

三億円当たると人は「ついていたなぁ~」と言いますが、この世に生を受けた我々は、もっともっと比較にならない程に、ついていると思います。しかも、人間として生まれてきたのですから、尚更、ついています。

この世に動物として生まれていれば、お腹が空いたとか味への好みを、知覚は出来たかも知れませんが、自分の存在については自覚できなかったでしょう。

人として辛いこと、悲しいこと、そして負の経験も沢山経験することも事実ですが、やはり偶然の偶然の偶然で生まれてきたという事、ゼロの確率で生まれてきた事を大切にして、淡々とそして大きな力に感謝して生きていきたいと思っています。

また、ゼロとゼロの確率が出会い、時には愛しあったりするのです。この世に共に生きている“縁”を、是非、大切にしたいものです。

ここに他力の思想が誕生するのです。

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