院長の独り言 206 ; 戦時の宰相

豊臣秀吉が、美濃の国(岐阜)を狙う織田信長の命を受け、墨俣城を一夜で築造したのは有名な話です。
所謂、世に言う『墨俣の一夜城』です。
美濃の国を攻め落とす為に、家来の蜂須賀小六などと協力して一夜にして造り上げたとされているお城です。
梟雄 斎藤道三(一人の人物ではなく親子二代、つまり二人の道三によって美濃を奪取したとも言われています)の居城であった稲葉山城は険しい山城で、難攻不落のお城として有名でした。
その難攻不落のお城を攻め落とすための基点として、墨俣に出城を造るように、織田信長は、まず、はじめに織田家一番の重臣であった佐久間信盛と柴田勝家に命じたのです。
しかし勇将 斎藤義龍(道三の息子。父道三を殺して、美濃の国主となった)の抵抗に遭い、攻略に悉(ことごと)く失敗し、信長は美濃を攻めあぐんでいました。
信長はさぞ、イライラしていた事でしょう。
結局、義龍が病で死去するまで、美濃攻略は失敗続きでした。
義龍が倒れ、その息子である斎藤龍興が美濃の国を引き継ぎました。
龍興は祖父道三、父義龍には似ず、暗愚であったと伝わっています。
しかし主人は暗愚でも、それを支える美濃三人衆を中心とした家臣団の結束は堅く、信長の敗戦は続きました。
信長は仕方なく賭けに出たのでしょうか、織田家の家臣団でも格下であった秀吉に、駄目元で、美濃攻略の要所、墨俣に築城を命じてみたところ、見事に短期間で出城を造ってしまったのです。
あらかじめ城に用いる木材を川上で切り出して置き、その木材を長良川に乗せて船で運搬し、墨俣で組み立てることで、短期間に築城できた訳です。
この出来事は、謡曲でも時代小説でもよく語られています。
この出城を拠点にして、信長は難攻不落の稲葉山城を攻略する事に成功し、乱れた戦国の世の天下布武に一歩、踏み出したのです。
一方、秀吉の出世街道もここから始まりました。
今回の大津波で、福島の原子力発電所は全く回復不能、廃棄処分になる事は周知の事実です。
その結果、みなさんご存知のように、現在では首都圏で必要な電気量を充分に満たせず、計画停電を毎日、実施しています。
知り合いの洗濯屋さんも、居酒屋さんも、計画停電の影響で商売上がったりだそうです。
メディアを見聞するに、『今はこれでもこの程度の停電で済んでいるが、夏になるともっと大規模に計画停電を実施しなければならないだろう…』と訴えています。
悔しい事に電気は貯める事が出来ません。
必要な分だけ、その時に供給しなければならないのです。
唯一の解決策は、既成の火力発電所に発電機を増設するか、新しい火力発電所を急いで造る事です。
または、八ッ場ダムのような造成中のダムを急いで完成させ、水力発電による発電量を増やす事も急務ではないでしょうか。
色々、机の上で慎重に計画を練っている事も大切ですが、今は一秒でも早く必要な電気量を造り出すべきです。
秀吉のように計画を立て、直ぐに実行あるのみです。
今までは『平時の宰相』が日本を治めれば良かったのです。
これからは『戦時の宰相』が必要でしょう。
戦時に国を治めるには、特殊な才能が必要です。
現代の秀吉が現れる事を祈っています。

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