院長の独り言 117 ; 宇宙と他力思想

小さい頃から夜空を眺めて、星座などを観察するのが大好きでした。

この歳になっても…と云うか、歳を取ったので、最近、宇宙に余計、興味を持ってきています。

残念ながら、この頃は街が明る過ぎるし、空気が濁っている…などの理由で、昔ほど、星の煌めきが見られなくなってしまいました。

しかし、旅行で箱根や日光などの郊外に出掛けた時は、夜の天空を眺めて興奮しているのです。

そして宇宙に関して色々と空想するのです。

宇宙が無限に大きい事は解っているのですが、肝心な事は未だ殆ど何も真実が解明されていません。

だから余計に空想する事が楽しいのです。

今も凄いスピードで宇宙は拡大を続けていて、宇宙の一番先は光速を超える程の速さで広がっているのだそうです。

光と同程度の速さで膨張しているという事は、どんなに科学が発達しても地球から宇宙の果ては、我々には永久に見る事が出来ないのです。

宇宙の不可思議な話は、科学雑誌に毎月のように沢山、書かれています。

宇宙に興味を抱くと、宇宙はどの様に出来たのか…と、誰でもまず疑問に思うそうです。

そして、宇宙のはじまりを想像するのです。

誰でも単純に、膨張の逆の事を考えて、宇宙がどんどん収縮していく事を想像します。

時間を過去に遡っていくのです。

現在の研究では、130億年以上前が宇宙のはじまりだそうです。

どんどん遡っていけば、宇宙は点に凝縮する事になると、通説では言われています。

いわゆる、ビックバン理論です。

現在の宇宙は無限に大きく、まだ膨張しているのに、宇宙のはじまりは、逆に、凝縮された限られた球状と云うのです。

ある塊の原子が何かのきっかけで大爆発して、膨張が始まり、今でもその拡大を続けていると言うのです。

小生には、宇宙の出発点が小さな塊の原子が大爆発した事がきっかけだとはとても信じられません…。

一体、130億年程前の宇宙に何が起こったのでしょうか。

自分も満天の夜空を仰ぎながら、馬鹿な脳味噌を絞って、宇宙のはじまりは、どのようなきっかけが原因かを考えるのですが、途中で頭の中が混乱してしまい、余りにも大きな宇宙を見上げて笑ってしまうしか無いのです。

何しろ夜空にピカピカ小さく輝いている星の殆どが、太陽のように自分で光を出している大きな恒星なのだから驚きです。

それも無数に存在するのです…。

こんな信じられない程の大きな宇宙が現に存在するのです。

あの天才物理科学者のアインシュタイン博士でも『宇宙のはじまりは神の手によるものだ!』と言っていたくらいですから。

話は少しそれますが、母方の祖父が浄土真宗の住職と云う事は何回かこのブログでも触れましたが、子供の時から親鸞の教えを祖父母から聞かされて育ちました。

特に、親鸞の弟子、唯円の書、『歎異抄』の話をよく聞かされました。

親鸞の訴えた他力の思想とは、神に救われる事です。

その我々を救って呉れる神とは、人間以外の動・植物、そして地球を含めた全宇宙と、親鸞は考えていたのかも知れません。

われわれ人間は考える事の出来る唯一の、所謂、生々しい存在です。

しかし、人間以外の動・植物、地球を含めた全宇宙に頼って生かされる以外、為す術が無いのです。

親鸞は『謙虚に生きよ!』と説いているような気がしてなりません。

不遜な考えが許されるとすれば、動物も植物も人間の為に存在していると、人間は勝手に考え勝ちです。

人間は牛や魚、野菜や果物を食べなければ生きていけません。

石材や材木も必要です。

勿論、太陽が存在しなければ、生きていく事も全く不可能です。

しかし人間だけが、自分の存在を意識出来ます。

その意識が自力の思想を生み出すのかも知れません。

一方、親鸞の生み出した浄土真宗では、ただただ、生かして頂いていると云うか、生かされていると信じて、神に感謝するのみです。

幼い頃から聞かされていた母方の祖父母のお説教がこの頃、毎日、身に沁みるのです…。

母は常に、われわれ子供達の耳にタコが出来る程、『自分は生かされている』と話していました。

『善人なをもて往生す、いわんや悪人をや』

歎異抄に出てくる、あまりにも有名な一節です。

善人とは修行をつんで、仏法に身を置く人の事を云うのでしょう。

悪人とは末法の世で、いけない事でも何でもしなければ生きていく術も無い、もだえ苦しんでいる庶民の事を指していると思われます。

『苦しんでいる庶民(悪人)を救えない教えは、本当の仏教ではない!』と親鸞は説いていたのかも知れません。

『善人(修行者)が極楽に行けるのであれば、悪人(庶民)は当然、極楽浄土に行く事が出来る』と言っているのだと…。

小生は当然、生かされている庶民です。

例によって独断の意見です。

すみません。