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院長の独り言 211 ; 『自分史』へのいざない

最近、ある年齢に達すると、自分の過去を振り返って『自分の歩み』、所謂『自分史』を記録に残す人達がいると聞きます。
当初、このブログを書こうと思った理由は、そこにあったのです。
しかし自分史を時系列順に書こうとすると、記憶が今一、ハッキリしない事が多いのです。
実際、体験した出来事は小さな事でも、意外と鮮明に覚えているのです。
ところが自分としては、その出来事が10年前だったのか、20年前だったのか、時間の記憶がアヤフヤになってしまっているのです。
時間の関係を正確に記述しようとすると、何も書けなくなってしまいます…。
そこで、時間に関しては少し前後しても、情景は出来るだけ正確に、事実に基づいて、思い出した順に書いて行こうと思った次第です。
20年前の話になったり、50年前の話に戻ったり、つい最近の話を書いたりで、時の順序は滅茶苦茶になっていますが、出来るだけ正確に書いています。
自分としては、切りのいいところで読み易い様に修正して、一冊の本に纏めたい(まとめたい)と思っています。
そして、ブログを書いてみて思ったのです。
自分の人生は平々凡々だと思っていたのですが、結構、色々と体験しているのには、正直、自分でも驚いているのです。
これは70歳を超えるほど、長生きしたと云う事でしょうか。
例えば、体型だけの『自分史』を思い出しても、4歳の時は、自分で言うのも何ですが、結構、食事を充分食べさせて貰っていたので、ふくよかな感じだったのです。
ところが6歳頃には、ガリガリに痩せてしまって、同じ人間とは思えない程の大変化です。
戦争で疎開した時、疎開先では殆ど食べる事が出来なかったからです。
戦争の恐ろしさを幼児で体験してしまい、何時も、その事が自分の人生の『トラウマ』になってしまっているのです。
幼児の時に、栄養失調寸前にまでなってしまい、食事のとれない辛さ、爆弾を逃れての防空壕生活など、不安に怯える辛い経験。
そんな経験から、いつの間にか、出された食べ物が幾ら美味しくなくても、たとえ満腹の時でも、食べ物を残す事が出来なくなり、恥ずかしい話ですが、みんな食べてしまいます。
また完全な焼け野原から、高層ビルの立ち並ぶ街へ大変身した戦後の日本。
戦争の後遺症から立ち直って好景気になり、まれに見るバブルの到来。
そして、そのバブルが無惨に弾けてデフレに…。
日本史史上で、一番の大変化の中で、私は生きて来たのかも知れません。
その激動の波に揉まれて、辛い事、楽しい事、頑張った事、悲しい事など、結構、自分なりに色々と体験しているのです。
人と接する歯科医師という職業を選択した事により、沢山の素晴らしい人達に出会う事も出来ました。
ブログを書いてみて、『自分史』の話題には事欠かないのでビックリします。
まさか、この歳になって、日本有史以来の大津波をテレビで目の当たりにするなんて言葉もありません。
この大災害から日本が立ち直ってくれる事を心より祈っています。
皆さんも、自分の過去を思い出して、是非、『自分史』に挑戦してみて下さい。

院長の独り言 210 ; 希望の光を見失わない!

東北地方が大津波で被災した様子がテレビ画面に映ると、私は自然とアメリカ軍に空襲を受けた、60年前の東京の街を思い出してしまいます。
当時、空襲で亡くなった人も多かったのですが、命からがら逃げ延びた人も、夜が明けて、太陽の光に照らし出された一面の焼け野原に愕然としたようです。
戦災前に親父に連れて行ってもらった銀座は、多くの人で賑わっている華やかな街でした。
そして敗戦後、疎開先から帰って来て私が見た光景は、大津波に流された後の宮古や大船渡の瓦礫の山と酷似していたのです…。
このところ、八王子でも寒い日が続いていますが、東北地方はさぞかし寒さが身に応えていると思い、本当に心が痛みます。
被災者の方々は現在、緊張感で持ちこたえていると思うのですが、二月三月(ふたつきみつき)と時が経ってくると、次第に虚脱感が湧き出てくるのではないかと心配しています。
現実を受け止めれば受け止めるほど、悲嘆に暮れることとなるでしょう。
このような大災害に遭ってしまうと、オプティミズム(楽観主義)者でも、ペシミズム(厭世観)に陥るのは当然の事と思います。
一般的には、巨大な災害の後は、暫くの間はインフラが回復しません。
余りにもダメージが大きいので、電気、ガス、水道などの整備だけでも時間が掛かります。
遅々として進まない復興にイライラもするし、このまま一向に良い方向に進まないのではないかと、将来を悲観してしまう事に成り兼ねません。
しかし自分のつたない経験ですが、戦後の復興の様子を今思い出すと、遅々として回復が進まなかった世の中が、或る日を境に、急に加速度的に多方面から回復し出したのです。
一旦、復興の加速度がつくと、全てが良い方に動き出し、新幹線のように突っ走り、『あれよ、あれよ』という間に、世界第二の経済大国に上り詰めてしまいました。
少なくとも、ここ1~2年間は暗いトンネルの中に居るように思われますが、東北の被災者の方々、希望を持って頑張って下さい。
政府も無駄な経費を省いて、税金を集中的に被災者の為に投入するに決まっています。
ある日、突然、トンネルの暗闇から抜け出す事は間違いないのですから。

院長の独り言 209 ; われわれ都民は、避難されている福島の人々に感謝しなくては…

『ウラン鉱山で働いている人は、癌になり易い』とよく言われています。
ウラン鉱石はそのもの自体が不安定な物質なので、崩壊しながら安定物質の鉛のような鉱物になる性質を持っているのです。
以前のブログにも、ガスボンベに例えて表現しましたが、その崩壊の過程が放射能と云う事です。
要するに、ウラン鉱石(放射性物質)は、α線などの放射線を出しながら、鉛の様な物質となって安定していくのです。
この時に出る放射線に常に当たっていると、癌などの疾患になり易いと昔から言われているのです。
ウラン鉱石は、放射線を発生する、天然に存在する物質です。
いま問題になっている福島原発事故は、厳密に云えば、人間の作った原子力発電所から放射線が漏れているのです。
原発事故は、上記のウラン鉱山の件と異なり、人工すなわち、人が作り出したものなので、自然界には存在しないヨウ素やセシュームも発生します。
テレビで盛んにそれらの名前を言っているので、皆さんも小耳に挟んでいると思います。
人が作り出したもので一番怖くて、ポピュラーなのが水素爆弾のような核兵器から出てくるプルトニウムのような放射性物質です。
アメリカが1954年の春、太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船である第五福竜丸に放射性降下物である、いわゆる『死の灰』が降り、乗組員が被爆した事件は、当時、大変な衝撃を与えました。
核実験は放射性物質を空気中にまき散らし、広範囲の地域に大被害を起こさせます。
大気に放射性物質をまき散らさない為に、1961年以降はどの国も、核実験を地下で行うようになり、放射能による放射性物質の拡散被害は極端に減少したのです。
現在は、ソ連が崩壊した事もあり、世界規模の核戦争の危機も殆ど無くなったので、核実験も行われなくなりました。
しかし世界的にみて、使用する電気の量は拡大の一途です。
そして世界で使用する電気は、原発に頼らざるを得なくなってきました。
一難去って、また一難です。
科学の発達や生活の質の向上の為には、どうしても大量の電気が必要になり、世界的に電気の使用量がうなぎ上りに増加し、どの国も水力発電や火力発電だけでは必要な電気量を生産する事が困難な時代になってしまったのです。
やむを得ず、世界各国は危険と知りつつ、原子力発電所に頼らざるを得ない状態になってしまったのです。
勿論、我が国も国民の生活の為に、原発に頼らざるを得ません。
ロシアのチェルノブイリ原発事故やアメリカのスリーマイル島原発事故、そして今回の福島原発事故と、一度、原発事故が起こってしまうと、トンデモナイ事になってしまいます。
電気は欲しいし、原発事故は怖いし…。
一体、我々はどうしたら良いのでしょうか。
放射線治療(ラジュム)で、先駆的役割を果たしたキュリー夫人も放射能による白血病に冒されて命を落としています。
放射能は必要悪、あるいは諸刃の剣と云う事でしょうか。

院長の独り言 208 ; メンツにこだわらず、経験者に教えを請えば…

福島原発の放射能漏れが深刻な事になっています。
何となく分かるようで良く分からないのが、この放射能漏れです。
人体に多大な悪影響を及ぼす事だけは、かつてのロシアのチェリノブイリ放射能漏れ事故で、世界中に知れ渡っています。
我が国では広島や長崎の原子爆弾による被害があるので、なおさらです。
放射能漏れと聞いただけで、われわれ日本人は震え上がってしまいます。
放射能とは、放射線を出す能力の事です。
例えて言うなら、家庭で焼き肉に使うガスボンベからガスを出す行為及びガスが正しく出ている過程が放射能です。
出ているガスが放射線という事です。
ガスボンベが何かの理由で壊れてしまい、正規の過程を踏まずに漏れてしまうのが、要するに放射能漏れに当たります。
ガスボンベからのガス漏れ程度では『ガス臭い』で済みますが、原発からの放射能漏れでは人体に対する悪影響は計り知れません。
さらに継続的に漏れ続けたら、日本だけの問題では済みません。
万が一、爆発したら、あの小さなガスボンベでもかなりの被害が出るのです。
ましてや…。
想像しただけで、恐ろしい話です。
東電にとっては当然ですが、初めての本格的な原発事故です。
初めてなので、その処理の仕方が良く分からなければ、メンツに拘っている場合ではないと思うのです、東電は。
原発事故を経験しているロシアに頭を下げてでもお願いして、一刻も早く対策を打つべきではないでしょうか。
ロシアもこの緊急事態です、快く協力して呉れるものと確信します。
本当にその修理の仕方を東電で熟知しているのであれば頑張って貰いたいだけですが。
『絶対安全です!』と地元の人を説得して造り上げた原発です。
あの原発のお陰で、東京をはじめ、首都圏は大いに助かり潤ってきたのです。
あのような大津波は想定外で不可抗力であった事は間違いありません。
しかし、この緊急事態勃発!
恥などかなぐり捨て、あらゆる可能性を考えるように東電、そして行政に心からお願いします。
運良くこの難局を切り抜ける事が出来た暁には、われわれ日本人は皆で一致団結して頑張れば、必ず再生出来ると、後々、子孫たちがどのような難局に遭っても、勇気を以て対処できるでしょう。
いや、未来は震災前より、もっと素晴らしい国になると私は確信します!

院長の独り言 207 ; Tsunami

津波あるいはTsunamiは、世界共通語です。
日本語がそのまま共通語になるくらい津波は、日本の海岸に多く起こる自然現象なのでしょう。
特に、2004年のスマトラ沖地震から生じた大津波は、世界中の人々に津波と云う言葉を印象付けました。
東北関東大震災の大津波の被災地を見た人々は、あらためて津波の恐ろしさを見せつけられ、そして津波という言葉を一生、忘れる事は無いでしょう。
津波の意味は、船などが海の上に浮かんでいるより、港(津)の方に停泊している方が大被害を被(こうむ)る波と云う意味です。
津波が発生した時には、船は沖に逃げれば、どんな大きな津波に遭遇しても殆ど安全です。
しかし港に停泊していると、今回の津波を見ていても分かるように、悉(ことごと)く大波に破壊されてしまいます。
津波の原因は、皆さんご存知の様に、ほとんどは海底地震です。
海底が地震により縦方向に大きく動いた時に発生します。
海底が大きく隆起した場合には、今回の事例のように最初に大津波が襲ってきます。
逆に沈降した時には、海岸の海の水は先ず沖の方に引いていくのです。
海が引いた後に、魚が海岸に一杯、跳ねているので、喜んで捕まえていると揺り戻しの波が襲いかかって来て、命を失い兼ねません…。
大地震で横方向に大きくずれた場合は、津波は起きないものとされています。
今回は岩手、宮城、福島沖で縦方向に起きた大地震だったので、直ぐ津波が襲って来るのは分かった筈です。
それでもあのような分単位で、津波が襲って来るとは思わなかったので、逃げ遅れた人も多数、出てしまいました。
南米チリ沖の海底で縦方向に大きくずれた時には、半日以上過ぎてから襲って来るので、情報の無かった江戸時代のような昔では、人々は津波が襲って来るなんて夢にも思っていなかった筈です。
今回、宮古市では江戸時代の大津波などを踏まえて、10mの堤防で防御していたにも拘わらず、結果、町は壊滅状態です…。
結果から考えても、これ以上の対策は、中々、出来なかったでしょう。
犠牲者の冥福を祈る以外、為す術がありません。
津波の原因にはその他、火山の噴火に原因するものなど他の原因もありますが、規模は小さいそうです。
さらに、特筆すべき巨大津波の原因ですが、巨大隕石の海への衝突があります。
以前のブログに書きましたが、恐竜の絶滅の原因とされている(私はそうは思いませんが)メキシコ湾に落ちた巨大隕石による大津波などが、その代表例です。
6000万年以上前の堆積物にその証拠が残っているそうです。
その堆積層から推測すると、津波の高さは300mを優に超えていたとされています。
その時はさぞかし、恐竜たちは驚愕した事でしょう。

院長の独り言 206 ; 戦時の宰相

豊臣秀吉が、美濃の国(岐阜)を狙う織田信長の命を受け、墨俣城を一夜で築造したのは有名な話です。
所謂、世に言う『墨俣の一夜城』です。
美濃の国を攻め落とす為に、家来の蜂須賀小六などと協力して一夜にして造り上げたとされているお城です。
梟雄 斎藤道三(一人の人物ではなく親子二代、つまり二人の道三によって美濃を奪取したとも言われています)の居城であった稲葉山城は険しい山城で、難攻不落のお城として有名でした。
その難攻不落のお城を攻め落とすための基点として、墨俣に出城を造るように、織田信長は、まず、はじめに織田家一番の重臣であった佐久間信盛と柴田勝家に命じたのです。
しかし勇将 斎藤義龍(道三の息子。父道三を殺して、美濃の国主となった)の抵抗に遭い、攻略に悉(ことごと)く失敗し、信長は美濃を攻めあぐんでいました。
信長はさぞ、イライラしていた事でしょう。
結局、義龍が病で死去するまで、美濃攻略は失敗続きでした。
義龍が倒れ、その息子である斎藤龍興が美濃の国を引き継ぎました。
龍興は祖父道三、父義龍には似ず、暗愚であったと伝わっています。
しかし主人は暗愚でも、それを支える美濃三人衆を中心とした家臣団の結束は堅く、信長の敗戦は続きました。
信長は仕方なく賭けに出たのでしょうか、織田家の家臣団でも格下であった秀吉に、駄目元で、美濃攻略の要所、墨俣に築城を命じてみたところ、見事に短期間で出城を造ってしまったのです。
あらかじめ城に用いる木材を川上で切り出して置き、その木材を長良川に乗せて船で運搬し、墨俣で組み立てることで、短期間に築城できた訳です。
この出来事は、謡曲でも時代小説でもよく語られています。
この出城を拠点にして、信長は難攻不落の稲葉山城を攻略する事に成功し、乱れた戦国の世の天下布武に一歩、踏み出したのです。
一方、秀吉の出世街道もここから始まりました。
今回の大津波で、福島の原子力発電所は全く回復不能、廃棄処分になる事は周知の事実です。
その結果、みなさんご存知のように、現在では首都圏で必要な電気量を充分に満たせず、計画停電を毎日、実施しています。
知り合いの洗濯屋さんも、居酒屋さんも、計画停電の影響で商売上がったりだそうです。
メディアを見聞するに、『今はこれでもこの程度の停電で済んでいるが、夏になるともっと大規模に計画停電を実施しなければならないだろう…』と訴えています。
悔しい事に電気は貯める事が出来ません。
必要な分だけ、その時に供給しなければならないのです。
唯一の解決策は、既成の火力発電所に発電機を増設するか、新しい火力発電所を急いで造る事です。
または、八ッ場ダムのような造成中のダムを急いで完成させ、水力発電による発電量を増やす事も急務ではないでしょうか。
色々、机の上で慎重に計画を練っている事も大切ですが、今は一秒でも早く必要な電気量を造り出すべきです。
秀吉のように計画を立て、直ぐに実行あるのみです。
今までは『平時の宰相』が日本を治めれば良かったのです。
これからは『戦時の宰相』が必要でしょう。
戦時に国を治めるには、特殊な才能が必要です。
現代の秀吉が現れる事を祈っています。

院長の独り言 205 ; 被災した水族館によせて

ホームページやブログで紹介しているように(『石川歯科医院についての情報』2010年7月15日 http://stygle.sakura.ne.jp/ishikawadent_info/blog/?p=1204 http://stygle.sakura.ne.jp/ishikawadent_info/blog/?p=1195 )、石川歯科医院には、2階のカウンセリング室にハリセンボン2匹、待合室に小さな熱帯魚が10匹ぐらい、3階の待合室にカクレクマノミなどの海水魚と淡水フグ(スバッティー)がいます。
3月11日(金)の地震の際には、水槽もかなり揺れました。
2階と3階の水槽の周りが水浸しになった程です。
魚たちの可愛い仕草が、歯科治療を受ける患者さんの緊張感を少しでも和らげてくれるものと願い、飼育しているのです。
しかし今回の地震の時ばかりは、魚たちが水槽から飛び出しそうになり、患者さんもスタッフもビックリ。
一番、驚いたのは、当の魚たちだったでしょうか。
今日で大震災から10日間、経ちました。
今朝、たまたまテレビ番組を見ていたら、福島原発近くのいわき市の水族館『アクアマリンふくしま』が、大津波の被害に遭い壊滅してしまい、約10万匹の魚が犠牲になった事を淡々とアナウンサーが報告していました。
淡々に言われれば、言われるほど、事の重大さがこちらに強く伝わってくるものです。
飼育係の人が『折角、大切に育ててきたのに…』と眼に涙をためて訴えていて、こちらも気が滅入ってしまいました。
自分は少年時代、釣ってきた魚やお祭りの縁日で買ってきた金魚などを随分と飼育しました。
その頃はいくら魚好きでも、飼育している魚が人に馴れるとは思っていませんでしたし、事実、馴れた魚は全くいませんでした。
何しろ魚を見る事が好きだったので、成人してからも機会を見つけては、日本全国アチラコチラの水族館を数え切れないほど見学に行きましたが、人に馴れている魚はついぞ見た事がありません。
気持ちは常に一方通行で、魚は一向に懐いてくれません。
自分としては、せいぜいエサ目当てで魚が寄ってくる事で十分に満足していたのです。
ところが診療所の待合室に魚を飼ってみて、意外な新発見をしたのです。
毎日、餌を与え、声を掛けていると、魚が人によく馴れてくる事が判明したのです。
これは、本当に意外な発見でした。
特にハリセンボンは、毎朝、2階のカウンセリング室に入って行くと、水槽の一番手前に待機していて、身体を左右に激しくクネらせての大歓迎です。
そして前ビレで私に、沢山の水を掛けてきます。
このハリセンボンくんを一番、可愛がっている息子には、特別に愛想を振りまき、息子の掌に収まり、頭を撫ぜて貰うと、まるで恍惚とした表情を見せるのには、更に驚きです。
知らない人を見ると、水槽の後方にある岩の中に隠れてしまいます。
多分、大きな丸い、青い眼から、こちらがよく見えているのでしょう。
小生にも、息子ほどではないのですが、ある程度は馴れてくれていて、私を見つけると、バチャバチャとオーバーに尾ヒレを揺すって近付いて来ますが、さすがに掌には乗りません。
幾度かご対面している患者さんには、近付いてきて愛嬌を振りまくので『本当に可愛い子ねぇ~』となります。
しかも、このハリセンボンには、ご機嫌がナナメな日もあるのです!
勿論、原因は不明ですが…。
まさか魚に感情があるとは思ってもなかったので、正直、驚いているのです。
話はいわき市の水族館壊滅の件ですが、普段、我々は水族館を訪れた時は、綺麗な熱帯魚や海水魚に感嘆し、見た事のない珍魚に興奮しているだけです。
一方、飼育係の人はと云うと、お客の見えない裏方として熱帯魚や深海魚、サメやフグなど、どの魚に対しても愛情を持って、一生懸命に世話をしている事でしょう。
魚たちをまるで、自分の子供の様に世話をしていると思うのです。
魚も飼育係の人たちに、信頼感を持っていたかも知れません。
うちのハリセンボンのように、まるで人間のように振る舞う魚も、沢山いた事でしょう。
きっと担当の飼育係に、大変、馴れていた魚もいた筈です。
その子たち10万匹以上を、アッと言う間に失ってしまったのですから、本当に辛い事、この上ないと心の底から同情します…。
一匹の魚が死んでも、辛いのですから…。
いわき市の水族館の皆さまには、今回の地震から復興した暁には是非、水族館の再生をお願いしたいと思います。
小生も必ず見学に行きます!
ぷくとぷい2

院長の独り言 204 ; 人生で初めて、救急車で運ばれました…

小生、患者さんを清潔な診療を心がけているので、いつもの習慣で、起床したら直ぐにお風呂に入り、身体全体を念入りに洗い、心身共に気合を入れて、診療所に向かう事にしています。
ところが3月12日(土)早朝、お風呂から出てきたら、クラっと眩暈(めまい)がして、気持ちが悪くなったのです。
ここ二、三日間、東北関東大震災のあまりの悲惨さと、常に起こる余震、福島原発の放射能漏れの事故の報道で、睡眠不足も重なり、かつて若い頃に患った胃潰瘍が再発して、下血を起こしたのかと、咄嗟(とっさ)に感じたのです。
ソファーに腰を下して暫く様子をみました。
昔の胃潰瘍の時の大量出血体験では、顔面が蒼白になると同時に、手足がしびれてきたのですが、今回の症状はしびれが出なかったし、暫くして鏡を覗くと顔色も良くなってきたので、とりあえずは緊張と寝不足からくる脳貧血だろうと自分なりに判断したのです。
朝食は全く口にする気が起きず、熱いお茶だけすすって、いつも通りに息子の運転する車に乗り、気力を振り絞って診療所に向かいました。
少しばかりの体調の不調で、患者さんに迷惑をかける事は出来ません。
八王子は計画停電の第2グループに属しており、この日は午前中一杯が停電と云う事になっていました。
勿論、電気を必要とする道具ばかりの歯科医院は、午前中、閉院し、スタッフ皆で待機です。
結局、診療は午後1時から開始となり、まだ身体が少々、重苦しかったので、自分としては休む事が出来てホッとしていました。
食欲が全く出てこなかったので、お茶以外、昼食も摂りませんでした。
午後からの患者さんとの殆どの会話は、『被災者に何かできないか?』『これから日本は、一体どうなるのか?』『福島の原発事故が心配!』から始まります。
救いは、みなさんが比較的に冷静で、自分達の事より被災者の心配に重点を置いている事です。
あらためて日本人の優しさに感じ入った次第です。
そして午後3時頃、診療している最中に、突如、猛烈な吐き気を催してきたのです。
患者さんに事情を説明して、その後の診療は中断して、休む事にしました。
すでにいらっしゃっていた患者さんは息子が診療に当たりました。
他のドクターとスタッフの仕事が終わるのを待って、早目に帰宅させてもらう事にしたのです。
帰宅して、用意してくれていたお風呂に入り、出た途端、朝以上に眩暈がして、脳貧血を起こし、ひっくり返ってしまったのです。
丁度、居合せた息子が応急処置を施してくれている間に、家内が119番して救急車の手配をしてくれました。
それでも息子の言によると、数秒間、意識が混濁していたようです。
自力で立つ事は出来なかったのですが、しばらくすると意識が正常に戻ってきたので、脳梗塞や狭心症ではないと、自分ではひと安心。
5~6分間で救急車が到着しました。
救急隊員が『お名前は?』『住所は?』『生年月日は?』と矢継ぎ早に質問してきます。
隊員は私の意識レベルを確かめているのですが、家内が先に全てを答えてしまい、一同、苦笑する場面もありました。
家内とすれば必死だったのでしょう。
立川の病院で診察を受け、1時間半程度、糖分と電解質入りの点滴を受けた後、同伴した息子とタクシーで帰宅しました。
診断は『朝から食事を摂らず、しかも水分も殆ど摂らない事から、脱水と軽い胃腸炎を起こしている』ところに、『お風呂に長い間、入っていたので、脳貧血を起こしたのではないか』と言う事でした。
『処方した薬を飲んで、2~3日間、安静にしていれば大丈夫です!』と担当した、若いドクターは笑顔で答えてくれました。
初めて救急車に乗ってみて思ったのですが、まずは救急隊員の的確で、優しい応対に感心しました。
しかし、その素晴らしい隊員に反して、贅沢を言えば、救急車の乗り心地の悪いのにはビックリしました。
気持ちが悪かったので、もう数分間、乗っていたら、吐いてしまい車内を汚してしまうところでした。
この個人的な体験を通じて、インフラの重要さを改めて思い知りました…。
そして、この大震災をきっかけに、この際、われわれ国民皆は、国家と云う概念をいま一度、再考すべきだと思ったのです。
被災地からの報道によると、人のつながりが重要なのは勿論ですが、一番、復興に効果を発揮するのは、日頃、意識しない国家の実力でしょう。
その国家を支えているのは、われわれ国民ひとりひとりに他なりません。
われわれは決してパニックにならずに、被災地のインフラを支えるために、個人個人がなすべき役割を淡々と行うべきでしょう。
小生は養生し、今週早々に石川歯科に復帰します。

院長の独り言 203 ; 急激な円高なのですから、資源を輸入すれば…

3月17日(木)、朝のテレビニュースを見ていたら、現在、猛烈な円高との事です。
日本がこんな大災害に合っているのですから、アホな私の脳では、円の価値が下がって円安に振れるのではないかと思ったのですが、現実はいま円高です。
世界最大の債権保持国である日本が、この大災害に際して財産を世界中から日本に戻しているようですが、私の頭ではイマイチ理解も納得も出来ません…。
ところで、円高の理由はどうでもいいと思うのです。
私が思うのですが、こんな非常時にも関わらず円高になっていると云う事は、輸出立国である我が国にとっては逆風かもしれませんが、逆に千歳一遇のチャンスかも知れません。
円の価値が上がった訳ですから、早急に原油や小麦、大豆などの資源をどんどん輸入すべきです。
海外から調達しなければならない資源や資材はこの際、形振(なりふり)構わず輸入して備蓄して下さい。
計画を行動に移すに際して、何時も日本は慎重になりすぎて、後手後手にまわる悪い癖があります。
慎重な計画も大切ですが、何時もの調子で用心深く、遅々として行動を躊躇していると、泣きを見る事になりますよ。
迅速に行動しなければならない時もあります。
もうひとつ、此の際ですから言わせて貰えば、以前のブログでも何度か触れましたが、自衛隊の大切さです。
さる国会議員や評論家たちは『日本の国には自衛隊は必要ない!』などと言って、挙句の果てに『自衛隊は人殺しである!』などと失礼な言動を吐いているのです。
そう言っている人たちは、福島の原発事故での自衛隊の決死の行動を見ていて、一体、どう思っているのでしょうか?
何時も自衛隊をけなしている議員や評論家は、その失礼な言動に対して、今こそ頭を垂れている事でしょう。
大津波の災害地でも自衛隊隊員は、被害者の人たちから本当に頼りにされていますし、感謝もされています。
小生は何も出来ません。
ただただ、自衛隊を中心に黙々と救助活動をしている方々に感謝と応援をするのみです。
福島原発で、現在、必死の消火を行っている方々に感謝します。
本日、決死の放水をしてくれた自衛隊の方々、その後、警視庁機動隊の放水車の方々、東電の社員の方々、宜しくお願い致します…。

院長の独り言 202 ; 計画停電の時間を避けて、いつも通りに石川歯科は診療しています!

前のブログでも述べましたが、11日(金)の大地震の時は、八王子もビックリするほどに揺れました。
ごく私的な報告になりますが、日常生活に必要なインフラ(水道、電気、ガス)に関しては、今までのところ何とか無事です。
ただしガソリンスタンドだけはどこも長蛇の車の列が続いています。
小生も車のガソリンが五分の一を切ってしまったので、1時間程度並んで、ハイオクガソリンを満タンに入れました。
いつもレギュラーガソリンを入れているのですが、レギュラーは上限10ℓまでしか給油できないとの事なので、仕方なくハイオクを選択したのです。
しかし被災者の皆様のご苦労を思えば、これしきの事はなんでもありません。
また石川歯科医院の事ですが、この非常時にも関わらず、有り難い事に約束の時間通りに、ほとんどの患者さんが来院して呉れているのです。
普段と違い、交通事情が良くないので、キャンセルが多く出るのではないかと思っていたのですが、嬉しい誤算です。
我々スタッフも、手持ち無沙汰にならずに済み、張り切って診療に励んだのです。
翌日土曜日からは、毎日の様に余震が起こり、緊張の連続です。
今日(3月16日)の八王子地区の計画停電は、午後3時20分から夜7時迄なので、診療は午後3時で終了です。
午後3時以降の患者さんには、昼の12時から1時半の間に来て貰うようにしました。
従って、昼休みは取らないで、昼食抜きでの診療です。
こんな生活が何時まで続くのか、本当に心配ですが、これも被災者の皆様の事を思えば…。
もうひとつの心配は、原発事故です。
どうか、これ以上の大事にならないように祈るのみです。
今から計画停電の予定時間ですので、これで失礼します。

院長の独り言 201 ; 国民みんなで復興を急げ!

東日本全体が大変な事になっています…。
先ずは、今回の大震災で心ならずも犠牲になられた方々に、心からお悔やみを申し上げます。
この大地震の規模であるマグニチュード9.0は、日本の有史以来、縄文•弥生時代から平成の今日まで、一、二を争う大きな地震である事は間違いありません。
『東北関東大震災』のような大きな地震は、日本では1000年に一回起きるかどうかと云った規模なのでしょう。
我々は歴史的な大災害に遭遇した事になり、この事は子孫代々語り継がれていく事だと思います。
今回の大津波は、我が国とすれば、東北地方で西暦869年に起こった『貞観地震』以来の大津波だそうです。
そして3日前、現実に大震災、大津波は起きてしまったのです。
残念ですが、被災した方も、幸い難を逃れた人も日本国民全員で、頑張って再建に努める以外、無いでしょう。
第二次世界大戦の廃墟から見事に立ち直った日本ですから、今回の未曾有の天災ですが、この大震災からも日本国は必ずや、復活するでしょう。
必ず復活します。
テレビで見ていても、被災者のみなさんが実に落ち着いて、冷静に行動しているので、驚嘆すると同時に心から尊敬の念が生じます。
思い返すと30年程前、夏休みを使って、友達と岩手県三陸沖を旅した事があります。
仙台を通過し、古城の傍らでひっそりと落ち着いた街並をもつ盛岡市に入り、そこから岩手県を東に移動し、まず宮古市の外れの浄土が浜へ観光に行きました。
浄土が浜は、白い火山岩の岩々が壁の様に海の前にそそり立ち、太平洋の荒波から浜を守っているのです。
その白い岩々のお陰で、波の静かな神秘的な入り江になっていました。
名勝浄土ヶ浜は、連なってそそり立つ岩の壁のお陰で今回の大津波の襲来から免れる事が出来たものと願うばかりです。
入り江には白い小石が敷き詰められ、まるで極楽浄土を思わせるところから、浄土が浜と呼ばれる様になったと云う説があるくらい清楚な浜です。
是非、もう一度ゆっくり浄土ヶ浜を見に行きたいと思っていたのです。
願いが叶うといいのですが…。
浄土ヶ浜を見学した後、宮古市に戻って街のあちこちを見て回りました。
宮古市は漁業の基地として、沢山の漁船が停留していて壮観です。
リアス式海岸は素晴らしく、太平洋の荒波に面した開放的な港町です。
今から思えば、この開放的な地形が、あの大津波の侵入を容易足らしめたのでしょうか。
次に訪れたのは、製鉄の町である釜石市でした。
釜石市は、原料である鉄鉱石を外国から輸入し、出来た製品を海外に輸出するので、大きな港を持つ海岸都市です。
そして、大船渡市と宮城県気仙沼市も観光して回りました。
これらも、やはり東北を代表する漁港です。
全てこれらの都市は、仕事の構造上、太平洋に面していたので、大津波の犠牲になって壊滅状態です。
旅行の時を思い出すと、いずれの都市も太平洋に面した風光明媚で美しい街並でした。
その素晴らしい街が、もう見る事が出来ないとは本当に信じられないし、残念でなりません。
繰り返すのですが、この大災害からの立て直しは、地元の方々だけでは酷というものです。
こう云う時の為に国民が頑張って納めている税金を使うべきです。
時期を失すると復興が大幅に遅れてしまいますよ。
魂の復興も然りです。
遅れれば遅れるほど、希望という生きていく力を徐々に奪ってしまうことになるでしょう。

院長の独り言 200 ; 東北地方太平洋沖地震について(その3) 日本国民の団結を示そうではないか!

大地震が起きて3日目を向かえた日曜日。
今日もテレビでは、早朝から『東北地方太平洋沖地震』の報道一色です。
新聞も一面から大きな文字で、この地震の記事が踊っています。
私の個人的な感想ですが、思い返すと『予兆かな?』と思うことをありました。
大地震の起きた先週金曜日の2日前である水曜日、治療が長引き、診療が終わったのが午後7時半を過ぎていました。
後片付けを済まして、診療所を出た時、戸外は真っ暗でした。
何時もはこの時間になると、空は真っ暗のはずなのに、その空がいやに明るく輝いていたのです。
よくよく空を観察して見ると、空一面に雲が掛っていて、何時もと違って、その雲が明るく輝いているのです。
『空の雲が変に輝いているぞ。もしかすると天変地異の前触れかも知れない…』と、実を言うと息子と話していたのです。
次の木曜日は用事で新宿に行き、帰途の車窓から見た雲が気持ち悪いほど、低く灰色に垂れさがっていて、一緒に乗っていた家内が『気持ち悪い雲だね。何か天災が起きるかも…』と不安そうにしていました。
そして翌日の金曜日にあんな事になるとは…。
後から振り返ってみて、家中で驚いているのです。
本当に地震雲なんか有るのでしょうか…。

それにしても、被害の凄さに目を覆いたくなります。
亡くなった方、所在不明の方を合わせると、万を優に超えると、テレビ番組でアナウンサーが報道しています。
津波の襲った前の地形の衛星写真と後の写真が、Googleに出ていますが、あまりの変わりように言葉も出ません。
報道写真で見る、海沿いの綺麗な街並みが、水没していて見るも無残です。
それも街全体が壊滅状態です。
原発事故による放射能漏れも心配です。
政府の発表ではハッキリとしませんが、今朝の日経新聞に掲載されている専門家の意見を読むと、もっと深刻な事態になっているようです。
果たして、核分裂はコントロール出来ているのでしょうか?
パニックにならずに、政府や東電の方々の発表を待って、冷静に対処するしかないですね…。
その2でも書きましたが、子育て手当やODAへの寄付金を被災地に是非、迅速に回すようにして、幸い被害に合わなかった我々同胞は、出来るだけの援助をしたいものです。
報道では、地震の規模が訂正されて、マグニチュード9.0 になったそうです。
このM9.0の規模は、M8.8より何倍も凄いのです。
この試練に日本民族は必ず打ち勝つものと、私は確信しています。
行動の時を待つのみと、私は思っています。
今は節電ですね。
あとは出所不明のチェーンメールに惑わされずに、冷静に事態を見守ることです。
被災地のみなさん!必ず日本全国からの支援が届きますから、もう少し頑張ってください!
また、日本国民の行動を世界中の人々は、固唾を飲んで見ているのです。
いざと云う時の国民の団結を見せようではありませんか。

院長の独り言 199 ; 東北地方太平洋沖地震について(その2)

午後10時の遅い夕食を食べてから、テレビのスイッチをまず入れてみました。
早朝も、まずはテレビをつけて、地震についての報道をチェックします。
勿論、どの局もこの大地震関係の事だけを報道しています。
『関東大震災』や『阪神淡路地震』の時は、地震の後に起こった火災が被害を大きく拡大していました。
今回の『東北地方太平洋沖地震』は、津波が原因で大災害になってしまいました…。
ただ強く揺れるだけでは、どんなに揺れてもその被害は限られます。
地震による被害を大きくする最大の原因は、火災と津波である事をあらためてわれわれに知らしめたのです。
岩手県釜石市を襲う津波の様子をテレビで見ましたが、津波の破壊力の凄まじさは、言葉では表現出来ません。
家や車が簡単に波に流されているのを見ると、何処からあのエネルギーが湧いて出て来るのでしょうか。
高台に避難している住民の皆さんも、茫然自失。
唖然として津波によって破壊されていく自分の街を見ている以外、為す術が無いのです…。
悲しげに見つめている住民の姿が目に焼き付いてしまいました。
翌日の3月12日(土曜日)、一夜明けて、大災害の全貌が明らかになりつつ有ります。
明らかになればなる程、その被害の甚大さに目を覆うばかりです。
10mの高さの津波など想像を超えています。
岩手県の陸前高田市、福島県南相馬市などは、街全体が津波で壊滅してしまいました。
また東京電力福島第一原発、第二原発で放射能物質『Cs(セシューム)』が検出されていると報道されています。
広範囲の住民に避難勧告が発令されました。
いよいよ放射能災害の様相です。
何とか放射能災害にならない様に、心から願って止みません。
この際、われわれ日本国民は出来るだけの援助を被災地にしなければならないと思います。
自衛隊の様に、あるいは若者の様に、身体を張っての救助が出来ない私は、せめて何がしかを寄付するしか方法が有りません。
本当に申し訳ないと思います。
政府にお願いですが、せめて子育て手当のお金を、今回の大地震の被災者に回せないものでしょうか?
また外国に援助するお金があったら、それもこの地震の被害者に使うべきです。
こう云う時の為にこそ、税金は使うものです。
ODAを受け取っている外国の人も、文句は言わないと思いますよ。

院長の独り言 198 ; 東北地方太平洋沖地震について(その1)

3月11日(金曜日)、午後2時半30分頃、治療中に突然、グラグラ…。
目眩(めまい)かと思ったら、地震です。
揺れは直ぐ終わるかと思いきや、ますます強く揺れ出してきたのです。
患者さんもスタッフも全員、真っ青。
しゃがみ込んだり、壁に掴まったり、しばらく全員、ジッとしていました。
随分、長く、強い揺れを感じましたが、多分、2分間程度の揺れだったと思われます。
ヤッと揺れも収まって、一同、目を見合わせて『凄かったね~』、『怖かったね~』。
お互い顔面蒼白です。
しかし、みんな怪我も無く無事だったので、ようやく笑顔が出たのでした。
何度かブログに書きましたが、自分の長い人生で、三河島断層地震以来の大きな地震に遭遇したと云う事になります。
診療室に一緒にいた患者さんも、スタッフも、こんなに揺れた地震の経験は初めてだそうです。
一応、歯科用ドリルや歯科用CT、パソコンなどの機械類は勿論、電気、水道もどうやら無事のようで、またひと安心したのでした。
笑顔が戻ったのも束の間、結構、大きな余震が何度か起こってくるので、気持ちの悪い事、この上ないと云うか、ドキドキしてしまいます。
テレビでは、地震学者が『あまりにも大きな地震なので、余震と言っても今までの経験値からは想像出来ないほど、大きな揺れがくるかも知れない…』と真剣な顔で言うので、余計に心配してしまいます。
『私もマグニチュード8.8(M8.8)という、巨大地震の経験が無いので、何とも云えません…』と彼は付け加えたものですから、『もう大丈夫!』といった答えを期待していたアナウンサーも更に不安そうにしていました。
アメリカの調査によれば、M8.8以上の巨大地震は、世界規模でみても殆ど起こらない大きな地震だそうで、1900年以降、たった7回しか起こっていないそうです。
大地震の代表格である関東大震災や関西淡路大地震でも、この地震よりズッと規模は小さいのです。
1900年以降の巨大地震を調べてみると、1) チリ大地震(1960年)M 9.5、 2)アラスカ大地震(1964年)M9.2 、 3) スマトラ島沖大地震(2004年)M9.1、 4)カムチャッカ半島沖大地震(1952年)M9.0、そして今度の『東北地方太平洋沖地震』のM8.8で、このマグニチュードの地震は他に二つ起こっています。
以上、7回です。
夕方6時半頃、診療室を出て、帰路に着いたのです。
普段は約30分間で帰れるのですが、通勤で通っている甲州街道は車がほとんど進まないほど混雑していて、今日は驚く事に自宅に着いたのは午後9時半を過ぎていました。
勿論、携帯電話も全然、繋がらなかったので、自宅に連絡は一切とれず、何とか自宅にたどり着いた我々の疲れた姿を見て、家内は安堵したようです。
(次回に続く)

歯界展望3月号のTCH特集に寄稿しました

私の恩師で、東京医科歯科大学 顎関節治療部 部長である木野孔司先生が執筆した『完全図解 顎関節症とかみ合わせの悩みが解決する本』という本が、講談社より出版されました。
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顎関節症は、難病のようにも思える、難しげなこの病名から、その治癒は非常に難しいと思われ勝ちですが、そのような心配はありません。
私も非常勤講師をしている医科歯科大の顎関節治療部では、約70%の患者さんは初診と、1ヶ月後の再診の2回で改善しています。
顎関節症は、病院で治療を行わなくても、自然治癒する人の多い、極めて良性な疾患といえるでしょう。
また患者さん自身の生活習慣が、症状を誘因したり、悪化させたりするので、患者さん自身のセルフマネージメントが必須である生活習慣病でもあります。
特にTCH(Tooth Contacting Habits;日中の上下歯列接触癖)は顎関節症の重要な関連因子として、治療部では注目しています。
TCHとは、いわゆる『くいしばり』とは異なる概念で、奥歯を軽く接している状態も含めての歯の接触癖です。
ある研究によると、上の歯と下の歯が接触している時間は、食事や嚥下、発音時などを含めても、20〜30分間程度であったと報告されています。
入れ歯を何度、調整しても、歯茎が痛くて噛めない患者さんや、歯磨きを欠かさずに行っても、虫歯が多い患者さんは、このTCHによって、顎や歯の負担が過多なのかも知れません。
事実、顎関節症の患者さんでも、このTCHを予防するだけで、治癒する患者さんがとても多いのです。
木野先生の本は、顎関節症の知識を分かりやすく、TCHも含めて教えてくれる、患者さんだけではなく、歯科医師にも有効なものとなっております。
ご参考にしてください。

また歯科医師の方には、歯界展望3月号がTCHの特集記事となっております。
医科歯科大顎関節治療部の7人の歯科医師が協力して執筆しました。
私は『顎関節症治療の戦術と戦略 行動学的因子•精神学的因子への対応』を担当しました。
先生方の日々の臨床の手助けとなれば幸いです。
歯界展望2011年3月号TCH特集石川分担

院長の独り言 197 ; 重力の不思議

物が棚から落ちてきたり、雪が空から降ってきたり、つまり落ちると云う事に我々は違和感を感じません。
ごく自然な現象と捉えて、当たり前だと思っていますが、よくよく考えてみると『何故、物は落ちるのか?』、不思議と言えば不思議ではありませんか。
教科書的には、物体に重力が働いているからだと説明されていますが、物体に何故、重力が働くのか、ハッキリとは証明されてはいないのです。
ニュートンは、リンゴの果実が木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したと言われています。
重力と万有引力が同じものだと、よく誤解され勝ちです。
重力と云う現象は別に、ニュートンが発見した訳ではないのです。
物が下に落ちる現象(地球上での事ですが)は、ニュートン出現より、かなり以前から研究されているのです。
繰り返しますが、重力の現象は分かっているようでも、何故、生じるのか決定的なハッキリした理由は、まだ証明されていないのが現状なのです。
ただニュートンは、地球の中心に引っ張られる力が働く、所謂、物体と地球との間に働く力、それが万有引力だと提唱したのです。
万有引力は物体と物体が引き合う力の事で、それに遠心力などが加わった力が重力と言われています。
かのアインシュタインが相対性理論を発表して、重力の起きる本当の理由の解明に一歩、近づいた事は確かなようです。
今回のブログで言いたい事は、ここからです。
下アゴの歯は、上アゴの歯が抜けてしまって、噛む相手の歯が無くなると、重力に逆らって上に伸びてきます。
この重力に逆らうと云う事は、大変な力が必要だと私は思うのです。
我々は常に地球の重力に引っ張られているので、下半身に多くの血が流れて行きます。
また、踏ん張っているので筋肉が強くなりますが、無重力の状態で一ヶ月間もいると、立てないくらい足の筋肉が萎えてしまうのです。
歯はアゴ骨にシッカリと支えられているにも拘らず、重力に逆らって浮いて出て来るのですから、歯がどんな力で重力に逆らっているのか本当に不思議です。
ちなみにアゴ骨にしっかり埋まっている歯を抜くのは大変な重労働で、簡単には抜歯する事は出来ません。
この身体の不思議な力は一体、何なんでしょうね…。
タケノコなどの植物も、重力に逆らって空へ向かって伸びて行きます。
重力の凄いのは、屋上から飛び降りれば直ぐ実証されます。
その凄い力に打ち勝って、歯も植物も伸びて行くのです。
本当は重力の力は弱いのかも知れませんね。
重力は、水戸黄門のように強い(重い)ものに厳しく、弱い(軽い)ものに優しい力が働く現象なのかも知れません。
重力がそのような力だとすれば、非常に地球の自然にマッチしている力のように思います。
勿論、宇宙にも、です。
小さい物には負荷は小さく、大きな物には負荷が大きく掛かる訳ですから、大きい生物は自然界にあまり増える事は出来ないでしょう。
結果、地球は安泰と云う事です。
全く重力が存在しなかったら、身体の筋肉が萎えてしまい、生物は生存出来ないでしょう。
この宇宙の偉大な力は、一体、何なんでしょうか…。

院長の独り言 196 ; 今春、新社会人となる君へ なるようになるものです!

小学校、中学校、高校、大学そして大学院と、それまで生きて来た人生の大半が学生だったので、若かった私は内心、社会に出て働く自信もなく、何事もなし得ず一生が終わってしまうのではないか?と不安でした。
両親も、私の行く末がどうなるのか、さぞや心配だった事でしょう。
長い学生生活を許してくれた両親に、今でも感謝しています…。
いつもお袋は、『急がば回れだよ!』が口癖でした。
一方、親父はと云うと、『勉強は若い時にしておけ!』でした。
やっと大学院を修了した時には、『これで勉強がひと段落した!』と解放感を感じたものです。
ところが、いざ学生生活を終了してみると、そこが出発点である事、ここからが本当の試練が始まる事に、改めて気づいたのです。
卒業後は臨床系講座の教官になった為、治療が上手く出来る様にならなければ、何の価値も無いのです。
博士号を取得したとはいえ、臨床の経験は、まだヒヨッコ程度です。
新米の助手になって学生を教えるのは、烏滸(おこ)がましい事、甚だしいと云ったところです。
患者さんに、しばしば学生に間違えられても仕方なかったのです…。
当時、私は童顔だったので、余計に間違えられてしまいました。
東京大学の高名な内科の教授がその著書に、自身の臨床経験を振り返って、『自分の誤診率は40%を超える』と告白していました。
勿論、厳密に細部まで徹底的に調べ上げての事で、治療結果は別だったのでしょう。
ましてや、歯科医師免許を貰ってから5年程度の新米ドクターは、一生懸命研鑽するしか無いのです。
当たり前ですが、患者さんは自分の身体を預けるのですから、担当医が果たして上手く治療してくれるのか?心配に決まっています。
内心、『この若造で大丈夫かな…』と思っているに違いありません。
いま告白すれば、この時、大学助手だったので、大学の権威に随分と救われたものでした。
一応、学生を教えながら、実は自分が腕を磨いていたのです。
しかし、学生さん達はそんな事情に、気付いていなかったことでしょう。
でも、教えなければならない治療の勘所は、私は随分と気を使って、丁寧に何度も教えていたつもりです。
患者さんの見えない所で、学生を怒ったり、褒めたり、すかしたり…。
何しろ患者さんからは、コチラが学生と間違えられるほどに気を使って、学生に対応していたのですから。
いま振り返ると、患者さんに怒られたり、感謝されたり、学生に気を使ったりで、私の社会人としての出発は、とても順風満帆とは云えなかったのでした。

院長の独り言 195 ; 万馬券を当てる

東京医科歯科大学歯学部での医局時代、競馬の大好きな同僚がいて、土曜日になると決まって競馬新聞を読んでいました。
私はダービーだとか、天皇賞ぐらいの大きなG1レースでは、馬券を買った事はありましたが、ホンのお遊び程度でした。
たまにお付き合い程度で馬券を買うのみなので、買う時はいつも大穴を狙いで当たった試しがありませんでした。
勿論、競馬新聞を買う事もなく、自分のヤマカンを頼るのみです。
ところがある時、日本ダービーか、天皇賞か、菊花賞か、今となってはスッカリ忘れてしまいましたが、大きなレースでの話です。
仕事が終わり、医局員みんなでお茶を飲みながら談笑していた時、『明日のメインレースの馬券を買いたい人がいたら、ついでに買って来てあげるよ!』と競馬好きの例の同僚が言ったのです。
何人かの医局員はスポーツ新聞を読みながら、3−5だとか2−7だとか頼んでいました。
私も誘われたので、何も分からずに1−8(いちかばちか)の語呂合わせで、200円買ったのです。
例によって、大穴狙いです。
滅多に馬券など買わないので、たまに買うのに本命なんか買っても、面白くも何ともありません。
それに少しの馬券しか買わないので、なおさら穴狙いになるのです。
その時も、確か逃げ馬の先走りと評されていた、人気の殆どない馬を絡めて買ったのです。
日曜日の昼下がり、馬券を買ったレースを家内とテレビ観戦していると、レースが始まった途端、この逃げ馬は、逃げる事、逃げる事。
アッという間にトップに立ち、大逃げをはじめたのです。
馬の名前は、パッシングゴールド。
たちまち後続馬を10馬身以上、引き離してしまいました。
普通のレースだと、中盤になる頃には後続に追いつかれてしまい、尻つぼみでペケと云うのがお決まりの経過です。
ところが、この逃げ馬の、なお頑張る事、頑張る事。
他の馬もなかなか抜かせないのです。
まさかの展開に、二人で『頑張れ、頑張れ!!』の大声援。
この逃げ馬、パッシングゴールドは、ビックリですが、トップを保ったままゴールを駆け抜けてしまったのです。
本当の話ですよ!
おまけに、2番の馬も当ててしまいました。
医局の皆は、私が万馬券を当てた事を勿論、知っていたので、笑って祝福し、また『みんなに奢っては駄目だよ』と忠告してくれました。
結果、せしめた大金は、女房のコートに化けたのでした。

院長の独り言 194 ; だるまの掛け軸

テレビのローカルニュース番組で、だるまの絵画展を紹介していました。
だるまと云うと、むかし実家に掛かっていた、だるまの掛け軸を思い出します。
私が小学校低学年であった、ハッキリと何時の頃からかは忘れてしまいましたが、床の間にだるまの掛け軸が掛かっていました。
当時、居住していたのは、小さな二階建ての和風家屋でしたが、一階にある六畳間に床の間がついていて、その床の間に掛かっていたのがだるまの掛け軸と云う訳です。
顔だけの墨絵でしたが、ギョロリと周囲を睨みつけた恐ろしい目、黒いヒゲ面の坊主頭で、京都のお坊さんの作だそうです。
親父の親父、つまり私のおじいさんが手に入れた掛け軸です。
そのだるまの形相がとても恐ろしい表情をしているので、子供の私たち兄弟にとっては、あまり好きになれないどころか、みな『怖くて嫌だな…』と話し合っていたのです。
ところが親父はこの掛け軸を好んで、一年中、床の間に掛けていたのです。
別に石川家にはこの掛け軸しか無かった訳ではなく、結構、何幅も所有していたのです。
理由は、おじいさんが掛け軸を集めるのを、趣味としていたからです。
幸い我が家は、戦渦には遭わずに済んだお陰で、掛け軸だけは一杯、ありました。
親父はお正月だけは、だるまに代えて、鶴とか富士山や朝日の図柄の掛け軸を掛けていました。
しかし、正月も7日を過ぎると、直ぐにだるまの掛け軸になってしまうのです。
このだるまは八方睨み図と云って一種のだまし絵で、何処の角度から見ても正面で見ているのと同じように、見る人を恐ろしい目で睨んでいるのです。
まるでこちらの心の中を見透かしたように睨んでいると云うか、『お前が嘘をついてもお見通しだぞ!』と言っている様で、だるまと目を合わすのが本当に怖かったのです。
われわれ四兄弟が幼い頃は、親父が『悪い事をすると、だるまさんが出てくるぞ!』と脅されて、いいように騙されていた訳です。
お袋もソバから真剣な顔付きで、相槌を入れていました。
親父とお袋はだるまの掛け軸を上手く、教育に利用していたのでしょう。
小学生の時は勿論ですが、中学生になっても、親に嘘をつきそうになると、例のだるまの怖い顔が頭の中をチラつき、親にとっては効果抜群だった事でしょう。
このだるまの掛け軸は、引っ越しをして家が変わっても、常に我が家の床の間に一年の大半、鎮座していました。
兄弟がみな独立した現在、このだるまの掛け軸は、長男の兄貴の家にありますが、床の間に掛かっている事は稀だと兄貴は笑っています。
何かの用事で兄弟が集まった際には、今でも、両親の思い出話になると、このだるまの掛け軸の話も出てきて、酒の肴になるのです。

院長の独り言 193 ; とうとう花粉症の季節、到来です!

先日、春一番の吹いた日。
ついに今年の花粉症が大爆発。
目の中に手を入れて引っ掻き回したいくらい、目の奥が痛痒くなり、涙はポロポロ。
小生にとって、最悪な季節の到来です。
報道では今年は杉の花粉量は例年の5〜6倍だそうで、テレビで焰の様な大量の花粉が飛散している画を見ただけで、小生は全身が震えてしまいます。
患者さんの中にも花粉症の人が大勢いて、お互いの顔をひと目、見ただけで同じ病気である事が直ぐに感知出来ます。
『辛いですね…』と慰め合う事となります。
花粉症の人はこの季節、目がショボショボして、白目が赤く充血しているのが特徴です。
プラス鼻詰りになれば、免許皆伝です。
或る年に突然発病し、年々とその症状がひどくなっていくばかりです。
おまけに私は歯医者ですから、仕事柄、マスクを着けるので息苦しい事、この上ありません。
血液検査をすると、杉の花粉に対するアレルギー反応は驚異的な高値を示します。
アレルギーですから、この杉花粉のアレルギー因子を持っていない人は、当然ですが、物凄い杉花粉の注ぐ中でも何の反応もしません。
そもそもアレルギーが発症する原因ですが、特定の異物、例えば杉花粉や大豆などに過剰に身体が反応してしまう免疫の過敏反応と云う事です。
免疫反応は、異物即ち抗原を排除しようとする身体にとって無くてはならない、生理的に大切な防衛反応です。
幼い頃に極端に清潔にして育てると、アレルギー反応を起こし易いと言っている学者の先生がいるそうです。
例えば私と同窓である、東京医科歯科大学の藤田紘一郎博士は免疫学の立場から、サナダ虫を体内に寄生(飼育?)させると、アトピー性皮膚炎などのアレルギー症状を発症しにくくなると述べ、メディアで話題になっています。
サナダ虫は寄生すると、宿主である人を健康にするように頑張ってくれるというのです。
宿主が不健康だと、サナダ虫も困ってしまうという事です。
本当でしょうか?
また、よく間違われるのですが、花粉症の様なアレルギー反応と関節リウマチの様な膠原病(自己免疫疾患)とは全く違うものです。
前者は異物に対して免疫反応が働いて排除する際に、過剰に反応してしまい、鼻水、鼻詰り、目の充血などのアレルギー症状を発症するのです。
自己免疫疾患は、本来、守るべき自己を免疫組織が攻撃し、自身の正常な組織を障害してしまう疾患です。
どちらも現在の医学では、対症療法しかありません。
アレルギー反応にしろ、自己免疫疾患にしろ、いずれにしろ、免疫に関する病気の完全治癒は難しいと云う事です。
小生も抗ヒスタミン薬を服用し、何とか頑張って、この季節を乗り越えます。
花粉症の人、お互いカンバリましょう!

院長の独り言 192 ; 世の中の変化にしがみついてます!

戦後の60年間で、色々な面で世の中が変化してしまいました。
自分では、世の中に自分なりに順応しているつもりですが、若い人たちから見ると『親父、全く何をやっているんだ!』と感じているようです。
例えば、車をバックで車庫入れをする時、ついつい窓を開けて後ろを見ながら少しずつバックして入れているのです。
それを見て、特に雨の日などは息子が笑います。
『そんな事をして、顔が雨に濡れるじゃないか?』とからかうのです。
私だって、車に装備してある後方を映し出す画面に従えば、後ろを見なくても車庫入れが出来る事を分かっているのです…。
またパソコンに至っては、若い人のように、身体の一部として使いこなせないで、いつもイライラしている私なのです。
携帯電話も然りで、メールがヤッと出来る程度と云ったところです。
視力が老眼で衰えてきたから、字が見えにくい事もあります。
インターネットは使えずに、ほとんど電話専用として使っているのみです。
携帯電話と言うくらいだから、それで良いのだ!と開き直っている始末です。
しかし、今時の携帯電話には色々な機能が付いていて、使いこなせば実に便利な代物なのは分かっているのですが、息子に何度も教えてもらっても、すぐに操作を忘れてしまいます。
洋食も馴れません…。
小•中学生の頃の朝食は、白いご飯(食べられるだけでも幸せ)、みそ汁(アサリかシジミか蛤か豆腐入り)、それにお新香に納豆でした。
高校生の頃になると、食パンにバター、ハム入りの卵焼きにコーヒーと変化して来たのです。
現在は、ご飯にみそ汁、お新香と納豆、それに焼き魚などが一品付いている朝食で、子供の頃に回帰しています(家内に頼んで強制的に作って貰っています)。
どうも、朝からパンとコーヒーには慣れないのです。
外国に行った時は、無理してパンにバターで、我慢していますが。
小生としては本場のイタリー料理では、スパゲティーが前菜として最初に出て来る事が、どうしても受け入れられない気持ちと似ているのです。
炭水化物は最後でしょう…。
そして社会は、デジタル化がどんどん進んで便利になる一方です。
高性能なロボットが出来れば、冗談抜きで、労働力としての人間は要らなくなるかも知れません。
科学の発達は良い方に向けられれば、こんな素晴らしい事はありません。
しかし、人間の性は何万年間経過して、科学技術が発達しても、変わらないでしょうね。
例えば、争いの無い世の中には、永久にならないでしょう。
つまり、昔から『十人十色』と言うではないですか。
個性がある以上、争い事は起きるものです。
『こちらが立てば あちらが立たず』で、全てが公平で平等な事などあり得ないです。
国レベルで考えても、或る国に利す事が、他国に不利に働く事は、しょっちゅうです。
お人好しにしている国は、他国に利用されて、草狩り場にされるのがオチでしょう。
世界の大国の中で、一番お人好しの国は、間違いなく日本でしょうね。
自分の国はシッカリと自分たちで守り、言わなければならない時は、自国の国益をキッチリと主張して欲しいと、切に願っています。
われわれ日本人もウカウカしていると、カルタゴの様に地球から消滅させられてしまうのではないかと、いま私は本当に心配しているのです…。