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院長の独り言 451 : 年末雑感

私が高校生までは、おせち料理はお袋が作っていました。

大晦日までに間に合うように、お袋が頑張って作っていた姿を思い出します。

材料の買い出しは、オヤジがやっていました。

その買い出しに、私が一番ついていってました。

兄貴や弟は行きたがらず、もっぱら一緒に行ったのは私でした。

私は築地のにぎやかな混み混みの雑踏の中を歩くのが、何となく、その後に来るお正月の初詣の整然とした人の流れと比較して、面白かったのです。

オヤジも亡くなり、また世の中も変化して、元旦からお店は何処でも開いています。

そしておせち料理も、デパートやコンビニで色々な種類、和風、洋風、中華風など、簡単に購入出来る時代になったのです。

戦後、普段の食事はたいした物を食べていませんでいたが、大晦日だけはおせち料理に加えて、大トロ、アワビ、赤貝、ヒラメの刺身、すき焼き料理など大御馳走でした。

アフリカなどの栄養失調の子供を見ると、いまの日本は天国のようですが、ほんの半世紀前は、正確に言えば、今から70年前は我が国も現在のアフリカと同じようでした。

あの壊滅的な状態から復活させた日本人は、たいしたものですね。

真面目で頑張り屋の日本国民に益々の幸有らん事を祈って、来年の戌年を向かえたいものです。

よいお年をお迎えください!

院長の独り言 450 : 白米党

私はご飯と云うと、白米がダイダイ大好きです。

戦後暫くは、麦まぜご飯も口に入りませんでした。

75歳以上の人は覚えていると思いますが、すいとん(ひえなどを練り潰した団子)を小さく丸めて、お米に似せた不味(まずい)食べ物をご飯代わりにして食べていました。

見た目だけはお米のようでしたが、味や食感はトンデモナイまずいもので、全く白米とはほど遠いお米の代用品でした。

暫くして、玄米を7分つきにして、それに麦を混ぜたご飯が出てきました。

まだまだ白米ご飯は食べられなかったのです。

白米が食べられるようになったのは、私が高校生になった頃だと記憶しています。

本当に白米は美味しかった。

それ以来、白米党になってしまいました。

ところが、このごろテレビでも新聞でも白米の悪口ばかりが報道されています。雑穀米と云う身体に大変良い米が出て来たのです。

雑穀米とは、玄米、粟(あわ)、きびなどを混ぜ合わせた米で、健康に大変良いのだそうで、それと比較すると、白米は健康にあまり良くないのだそうです。

しかし、ウチでは私以外は皆、主食は白米も食べますが、よりパンや麺類、白米より雑穀米が好きなのです。

私はホカホカの炊きたての白いご飯がいいのですが…。

ところが、つい最近になって、雑穀米は消化を考えるとあまり薦められないという説も出てきたのです。

一体、主食は何が良いのでしょうか?

小生は誰が何と言おうと、ほくほくの白米です。

おすしの握りに白米以外が考えられますか。

このような馬鹿な事を言うと大笑いされそうですね。

でも、この頃、外人さんも暖かい白米のご飯とみそ汁を美味しそうに食していますね。

世界で一番美味しい主食は、我が国の白米に決まっています。

白米は脂身の強い物やアッサリした物など、どんなオカズにも合いますから。

白米、万歳!!

院長の独り言 449 : 子供の興味はテレビゲームばかり

最近のお子さんは、部屋の中でゲーム遊びをしていて、外で遊ぶことを好みません。

ウチに引きこもって、テレビゲームに夢中です。

さて日本で、初めて家庭用ゲーム機が発売されたのは、1975年のテレビテニスで、アメリカ製の2万円程度だったそうです。

その後の1977年に、任天堂がテレビゲームを我が国で初めて売り出し、そして、同社が次々とゲーム機を製作発売。

現在もこの分野で、日本一のメーカーというより世界のゲームメーカーとして一二を争っているのです。

今日は別にテレビゲームの話をしたいわけではありません。

私の子供の頃のように、今の子供にも外で遊んだり、運動をしてほしいなぁと心から願って書いているのです。

要は、子供達に屋外活動を元気よくやって欲しいのです。

オリンピック競技の陸上や水泳などで、我が国の選手は、素晴らしい活躍を見せています。

その選手達の大活躍に刺激されて、家から外に子供達が元気に飛び出していって欲しいと願っているのです。

ただ昔と違い、家の外は危険があまりにも多すぎるので、私が子供の頃の親のように、子供が外で遊ぶのを、積極的に薦められないのでしょう。

躊躇してしまうのも当然と云えば当然です。

この車社会で、交通事故に遭遇するかも知れないし、子供を食い物にする悪い大人も多く存在するのも事実です。

子供が安心して外で遊べるにはどうしたら良いのでしょうか?

小生が思うのに、変な物に税金を使うよりは、子供の為にお金を使うべきだと常々心から思っているのです。

子供に投資すれば、将来の日本に必ず大きな利益となって返って来るような気がしてならないのですが、いかかでしょうか?

超特大の子供用の運動施設を日本全国各地に作ったり、運動道具を全国の小中学校に大量寄付して、子供達の身体を丈夫にする努力をすべきではないでしょうか。

それこそ今、話題のAI(人工知能)にでも御宣託いただいて、テレビゲームより楽しい運動器具を発明してもらえば良いかもです。

税金をそのような使い方をして文句を言う国民は殆どいないと思うのですが。

外国に援助などする余裕など、今の日本にあるのでしょうか。

院長の独り言 448 : 通勤電車今昔

休院日である木曜日に、急に用事が出来て、朝早く八王子まで出てきました。

用事を済ませて、本当に久しぶりに、通勤時間帯のJR中央線に国立まで乗ったのです。

思えば40年以上むかし、大学を卒業後、大学院に進み、国立駅から御茶ノ水駅までJR中央線に乗って毎日通っていたのです。

その電車の混みようと言ったら、七珍詰めで、大袈裟ではなく、毎日、拷問状態でした。

行きも帰りも身動きが出来ない状態で、1時間近く乗っていなければならないのです。

帰りは途中の三鷹駅辺で、ある程度は空いてはきますが、行きは目的の御茶ノ水駅までは大変混んでいました。

大学院を卒業してから7年間、大学病院で治療したり、学生を教えたり、研究生活をしていましたが、開業をする事を決心しました。

普通、大学を卒業した後、長く医局に在籍した場合は、親の後を継ぐような機会がない限り、大学の近くに開業して、大学から患者さんを紹介して貰って病院を経営していくわけです。

しかし、小生は、開業してからも満員電車に乗るのがどうしてもイヤで、大学に行く反対方面の開業場所を探したのです。

休みの日には家内と一緒に、立川,日野、八王子を主に、気に入った開業する場所を探していました。

そして、一番気に入った八王子に決めたと云う訳です。

当時は自家用車も無く、国立と八王子間を電車で通勤していました。

電車内は、座席で寝る事が出来るほどガラガラ…。

それに比べて、新宿東京方面は気の毒なくらい相変わらず超満員でした。

八王子で開業して本当に良かった!

車窓から見る景色は今とは違い、高層マンションなど一軒も無く、駅の周りも閑散としていたのです。

久しぶりに乗った車窓から見る景色は、町全体が綺麗で、八王子、豊田、日野、立川沿線は45年前とは見違えるほど綺麗な街に変身していました。

八王子はこれからもどんどん発展して素晴らしい街になることを期待しているのです。

院長の独り言 447 : 季節感ゼロ

中学生の頃、スイカとトマトは夏にしか食べられませんでした。

なぜならば、夏にしか売っていなかったから、当然と云えば当然でした。

そして野菜ではないけれど、お餅は冬の季節に雑煮にしたり、網に載せて焼いて食していました。

食べ物が季節そのものを表していたのです。

スイカやトマトが食卓に並んでくると、夏が来たと思うし、柿だと秋、ミカンだと、もうすぐ寒い冬の到来と反射的に感じていました。

夏のスイカやトマト、冬に食べるお餅だけではなく、以前は、春夏秋冬の食べ物はその季節でハッキリしていたのです。

今時、スイカでも、トマトでも、柿、ミカン、お餅でも一年中、出回っています。

食べ物で季節感など感じるなんて無くなってしまったのです。

現在の子供は、年がら年中、スイカでもミカンでも、季節関係無く目にしているので、全ての野菜や果物、食物が、冬でも夏でも日本中で育っていると思っているのでしょうか。

スイカもトマトも夏野菜とは思っていないでしょう。

外国からジャンジャン一年中、輸入しているんですからね。

食べ物然り、服装然り、季節感がドンドン薄れてきました。

小生が若い頃は、お酒にも季節感がありました。

夏は冷えきったビール、冬は熱燗が通り相場でしたが、今は凍える寒い夜に冷たい生ビールを飲んだり、夏に熱燗を美味しそうに飲んでいる世の中です。

何処のウチも冷暖房完備ですから。

住み良い世の中になりましたが、フッと寂しく感じることがあります。

昔、夏はパンツいっちょうでウチの中を走りまわり、冬はこたつに入って丸まっていたので、母に『子供は風の子、外で遊んでおいで!』と、お尻を叩かれていました。

こたつなんか今は目にする事もありません。

邪魔で、邪魔で、今時、使っているウチなんか、ほとんどないのではないかなぁ。

でも、昔を懐かしんでいる自分は、昔か今か、ドチラに住みたいかと聞かれれば『今!』と即答せざる得ないのを、情けないと本当は思っています。

お笑いください。

院長の独り言 446 : 戦後の終わりを感じた霞が関ビル

12月に入って急に寒さが厳しくなってきました。

八王子でも朝方になると氷点下を示し、いよいよ冬の到来を感じます。

しかし、敗戦直後の冬の寒さと比較すると大した寒さに感じません。

家の中に入れば、その差は歴然で、現在の暖房の設備の素晴らしさは、70年以上前の同じ日本の12月とは思えません。

逆に、却って夏は風通しが良くて今より快適だったのかも知れません。

うそです!

蝿や蚊がブンブンでした…。

勿論、寒さをあまり感じないのは、暖房器具の充実だけでは無いことを認識しています。

その身にしみる寒さを、いま感じない一番目の理由は、食べ物が素晴らしく良くなった事だと思うのです。

我々が毎日、口にしている食べ物は、味も素晴らしいのは当然ですが、新鮮で栄養満天の素材です。

敗戦後、数年間は食べ物が口に入れば良い、満腹になればそれで満足でした。

大袈裟ではなく、お腹いっぱいになればそれでオッケイでした。

栄養面から考えると、残念ですけど、冬の身体を保つにはカロリー不足だったのでしょう。

また、着るもののお粗末さも今思い出すと、信じられないものでした。

私は次男なので、当然兄貴のお下がりでしたが、その兄貴の洋服だって本当に安物でした。

住んでいる家に至っては、我が家だけではなく、まわりの家もお粗末な建て方が多く、隙間だらけでしたので、冬は寒くて、寒くて…。

今時の家は、隙間などはまったく無く、頑丈で見た目も素晴らしい作りになっています。

そして、素晴らしいマンションが当たり前のように林立していますが、当時は、マンションなど見た事もありませんでした。

約50年前に、霞ヶ関ビルが東京のど真ん中に建った時は、本当に驚かされました。

この超高層ビルを見た時が、小生の戦後の終わりだったのです。

東京タワーではなかったのです。

1968年のことでした。

38階建てで、我が国第一号の超高層ビルを見た時、敗戦の終わりを心の中で私は叫んだのです。

もはや日本の戦後は終わった!万歳!!

院長の独り言 445 : 昔は魚ばっかり食べてた

小中学生の頃、動物性タンパク質の食べ物と云うと殆ど魚でした。

トンカツがたまには食卓に上ることもありましたが、牛肉はまず食べませんでした。

牛肉といえば、我が家ではすき焼き料理が1年に一度、出れば良いとこでした。

しかし、そのすき焼き料理も牛肉は少なく、野菜たっぷりの今思えば悲しすぎるすき焼き料理…。

さぞかし身体には良かったすき焼き料理だったと思います。

ましてや、ステーキなど見たこともありませんでした。

大人になってステーキを初めて食べて、こんな牛肉の食べ方があるのだとビックリしたのを思い出します。

その反動と言えば何ですが、毎日と云うほど魚は食していたのです。

理由は、オヤジが無類の魚好きであったことと築地の近くに住んでいたからです。

築地は皆様ご存知のように、市場の中に大きな魚河岸があるのです。

近くの魚屋さんが毎日、魚河岸から新鮮な魚貝や海藻類を仕入れてきて、ウチの近所に安く売りに来ていたのです。

今から思えば、逆に贅沢だったのかも知れません。

中トロ、大トロ、赤貝、青柳,アジ、わかめなど何でもござれ。

朝はみそ汁の具や干物に、夜は刺身や焼き魚などなど…。

夜、仕事を終えて帰って来たオヤジが、着物に着替えて日本酒を口にしながら刺身を美味しそうに食べていた姿を思い出します。

その横で、お袋も嬉しそうにオヤジの満足そうな顔を見ていたのです。

われわれ腕白な息子たちも、お相伴に預かっていたので、結構、新鮮で美味しい魚は小さい頃から食べていました。

今時、牛肉や豚肉、鶏肉は、東京の何処でも簡単に手に入ります。

却って、大トロや中トロ、ヒラメ,赤貝、アワビなどの新鮮で美味い刺身などはかなり高くなっています。

あの時、オヤジの魚好きのお陰で、中学生の私も美味しい新鮮な刺身を口にしていました。

今になって、特別に美味しい刺身を口にする機会などは、おやじとお袋の若い元気な顔を思い出して一寸ほろっとしています。

五、六十年間で世の中は本当に変化するものだと驚くやら感心するやらしているのです。

院長の独り言 444 : 戦後の日本について雑感

戦争前は住んでいた所が東京の下町と云うこともあってか、父の休日には玩具やお菓子の買い物で銀座によく連れて行って貰いました。

いま話題の築地にも正月の買い出しに出かけていました。

戦前の東京を幼いながら眺めると、非常に発展して賑やかな街々でした。

皆さんが想像しているより当時の日本は豊かだったような気がします。

ところが、戦争に負けた後の東京は本当に惨めなものでした。

疎開から帰ってきて見た東京…。

戦前の東京を知っているので、その違いに、そしてあまりにも酷い惨状に子供ながら唖然としたものです。

銀座一帯は無惨なほどの倒壊したビル群で、焼け野原になっていました。

浮浪者も沢山いて、現在、テレビで見る焼けだされた中東の姿そのものです。

戦争に負けるという事は、本当に大変なんだ!と心の底から感じたのは、当時の日本人全てだったでしょう。

現在の60歳以上の人は、男女を問わず戦争アレルギー、戦争恐怖症になっている筈です。

当時は今のように十分な食事も摂れず、勿論、お米も口に入らなかったのです。

洋服も使い古しの惨めなものでした。

甘いお菓子も皆無だったせいか、幸いと云うか、虫歯が有りません。

自分の現在の仕事は、皮肉にも歯科医です。

よもや、日本が現在のように繁栄するとは夢にも当時は思っていませんでした。

勿論、戦争は悪です。

しかし、何時何処から攻めてこられるかは分かりません。

攻められてきた時は、常に防げるように準備が必要だと、あの戦争に負けた後の惨めさ、辛さを経験した一人として心から感じています。

子供たちや孫たち、そして未来の子孫の為にも、政府の人達に『国の防御をしっかりするように』と心からお願いします。

こんな素晴らしい我が国から戦争を仕掛けることはまず有り得ません。

万が一、戦争を仕掛けられた時に、泣かないように準備を慢わりなく宜しく!

院長の独り言 443 : 認知症の予防に取り組んでいます

この頃、テレビでも雑誌、新聞などでも、認知症の話題が多く報道されています。

私が大学生の頃には全くと言っていいほど、認知症という言葉は耳にしませんでした。

昔は例え、忘れっぽくなった人でも、『あの人はこの頃、ボケてきたんじゃないか?』と言っていたくらいがセキノヤマで、病気扱いにはしていませんでした。

自分としては、この頃、物忘れが少し出てきて、人様の名前を忘れるようになってきたので、認知症と云う疾患が気になっているのです。

少し昔までは、認知症になる前、65、6歳で多くの人は亡くなっていましたが、今は90歳以上の老人が当たり前です。

もしかすると…と、自分も心配になったので、認知症にならない為の二か条を実践する事にしました。

まず、第一は、本を読んだり日記を書いたりする事です。

第二は、散歩のような有酸素運動運動を毎日する事だそうです。

前者は、読んで字の如し、頭の体操をする事。

後者は、身体の体操です。

要するに、身体と頭を遊ばしていてはダメなのです。

特に男性は、定年などで仕事をしなくなり、家の中で毎日ブラブラしていたり、外に出ないことで身体を動かさないと云うことは、認知症にまっしぐらに進んで行くのだそうです。

自分としては認知症になりたくないので、仕事帰りに本屋に寄って面白そうな本を探したり、息子に買って貰ったウォーキングマシンで毎日30分間程度、早足で歩いて頑張っています。

何処まで続けられるか怪しいものですが…。

運動をしなくても、寝不足でも、何でも無理が効いた若い頃を懐かしく感じていると同時に、何とか、認知症にならないようにと頑張っている今日この頃です。

院長の独り言 442 : 最近の悩み

このところ、患者さんのキャンセルが悩みの種です。

例えば、30分間のキャンセルが出ると、その間は、スタッフと2人で何もせずにいることになってしまいます。

丁度、テレビで、銀座の有名なお寿司屋さんがキャンセルで大変困っている旨(むね)のインタビューを受けていました。

『仕入れた高価なネタが無駄になってしまって‥.』

『お客さんの席も空けてなければいけないし‥.』

本当に大将さんは心から困っている様でした。

私も患者さんのキャンセルには大変困っています。

診察を受けたい患者さんは沢山いるのですが、キャンセルを受けたからと言って直ぐに空いた時間に都合良く入ってくれる患者さんはいません。

多い時は、一日に2人もキャンセルが出る時があるので、寿司屋の大将さんのように悩んでしまいます。

確かに歯の治療は、痛みが伴うので出来れば受けたくないのは分かりますが、診療する立場で話せば、虫歯や歯周病などはなってしまえば自然に治る事はないのですから、なるべく痛んだり苦しんだりなる前に治療してあげたいと思うのです。

口の病気で悩んでいる人全員が、何でもよく噛めて、食事が楽しく出来るようにするのが歯医者冥利というものです。

どうか皆さん、歯で悩んでいる人は怖がらずに相談して下さい。

院長の独り言 441 : 男性諸君

私が若い頃は、父親も、周囲の男性たちも、自分が悪くなくても、女性には下手に出て、少しカチンとすることを言われても、やせ我慢していたものです。

ところが、この頃は本当に男性の方がウジウジしていて、情けないことが多い。

かえって、女性の方が気を使っている場面がよく見られます。

第二次世界大戦でアメリカに負けてから、日本の男性諸君は完全に自信を失ってしまったようです。

外交も常に相手の国に気を使って遠慮気味にお付き合いしているように見えてなりません。

外務大臣は女性にすべきではないでしょうか。

この国の男性が自信を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか?

スポーツでは水泳、ゴルフ、サッカー、野球など世界的に大活躍、科学でもノーベル賞をはじめあらゆる方面での活躍がみられるのですから、日本の男性よ、自信を!!

院長の独り言 440 : 運動する習慣

5年程前になりますが、理由は定かではなかったのですが、300メートルも歩くと足腰が痛くなり、それ以上歩く事が困難になってきたのです。

仕事に関しては、少し無理をしても痛くなる事はありませんでした。

そのうち、家内と散歩するのも苦痛になってきたのです。

仲間のMさんが、痛くても我慢して30分程度、毎日、早足で歩いていると半年も経つと、その痛みは自然に治ると忠告してくれました。

そのままでは辛いからと云ってジッとしていると、ますます悪化するとの事でした。

そんな上手い話がとも思いましたが、辛くても我慢して、その日から毎日、早足でMさんに言われた通り、30分歩いていると、本当に半年も経たないうちに足腰の痛みが薄らいでいき、1年間も経たないうちに、スッカリ痛みから解放されたのです。

今では、1時間以上歩いても平気です。

Mさん、本当に有り難う!

運動する習慣は健康の為に、絶対に必要であると心から感じた次第です。

院長の独り言 439 : お袋の思い出から

お袋は大正生まれ、23歳で私を生んで呉れています。

19歳で兄貴を生んでいます。

日本が軍国主義の真っ直中の昭和8年に結婚をして、4人の子供を無事に育て上げたのです。

その間、大空襲に合いましたが、何とか苦労をしながらも戦後を生き抜いてきました。

ところが、苦労したわりには何事にもオットリしていました。

オヤジが国家公務員でしたので、経済的に特別恵まれていた訳でもないのに、常に全ての事に対しておおらかでした。

私も若い時は、お袋のおおらかさに別に深くは考えなかったのですが、50歳を過ぎた頃から自分の生き方と比較したり、周りの人と比べると『あんなに大変な時代だったのに、随分おおらかにお袋が生きていた…』のが不思議に思うのです。

キット、何か秘密があるに違いないと思うようになったのです。

もし私が考えも及ばない理由があったら、これからの人生を生き抜いていく道具として、是非、参考にしたいと考えました。

色々、足りない頭で考えを巡らしていると、一つ考えられる事にブチ当たったのです!

それは、お袋の親が浄土真宗のお寺さんの住職夫婦だったという事でしょうか。

『浄土真宗』に何か秘密が隠されているのではないかと咄嗟に思いまいた。

親鸞が浄土宗の開祖法然に教えを受けた後に開いた『浄土真宗』とはどのような宗教なのか徹底的に専門書を読む事にしたのです。

その前に、母方の祖父が真宗の僧侶でしたので、試しに、お経の本を一冊借りてみました。

中身は、漢字だけの教典でした。

読めなくても、書いてある内容は漢字の意味から何となく少しは理解出来ました。

神田神保町の専門書店に行き、浄土真宗の内容を分かり易く解説している手引書買い込み、結構真剣に読みふけりました。

そこで分かったのは、我が国では大変珍しい宗教である事でした。

浄土真宗は、日本では唯一の他力本願が母体になっているのです。

我国の宗教は浄土真宗を除いて全て自力宗教です。

自力宗教と他力宗教どこが違うのでしょうか。

簡単に説明すると、自力宗教は本人自身が死ぬほど努力して、例えば、滝に死ぬほど打たれる修業したり、一ヶ月も絶食したりして自分自身鍛え上げて自らが仏になる宗教の事です。

一方、他力宗教は、いくら自ら努力しても自分は仏にはなることが出来ず、

仏に仕えて仏に救って貰い、生きて行く宗教です。

仏に仕えて生きて行く『浄土真宗』は、キリスト教と同じで、両方とも他力宗教です。

『浄土真宗』と『キリスト教』は、その点で似た宗教なのです。

他力宗教のいい所は、自分自身、謙虚に生きていく事が出来ると云うことではないでしょうか。

自分なりの結論として、自ずとお袋のようにおおらかに生きて行けると云うわけではないでしょうか。

院長の独り言 438 : 久しぶりの感激!

アジアで野球が一番強い国は何処なのか、三国、つまり、日本と台湾、韓国で野球大会が11月の17日から開幕しました。

一回戦は、日本と韓国で、9回まで4対4の同点、手に汗握る接戦、延長戦に突入したのです。

10回の表、韓国は日本のピッチャを打ち込んで三点をもぎ取ってしまい、勝負あったと小生は正直ガッカリしてしまいました。

何と言っても、野球は、我が国は、アメリカと一二を争う世界でも一番強い野球王国だと信じていましたから。

ところが、その10回裏に信じられない事が起きたのです。

相手の韓国のピッチャーを打ち込んで4点を奪い、大逆転をして、サヨナラ勝ちをしてしまったのでした。

こんなに嬉しい久しぶりの大感激はありません。

さぞかし、翌日の新聞には華々しく大きな写真入りで載るものと期待していました。

ところが、全然載っていなかったのでした。

どうゆう事なのでしょうか。

本当にガッカリ!

院長の独り言 437 : ディズニーランドに行けるかなぁ

私が結婚したのが29歳の時、昭和43年の秋でした。

子供が小さい頃、休みの日に遊びにつれて行ったのは多摩動物園か多摩テックでした。

まだ、夫婦とも元気でしたし、薄給でした。

おまけに家から近いという事もあったので、本当に多摩動物園、多摩テックさまさまでした。

子供達も嬉しそうにチンパンジーやキリン、ワシなどを見てハシャイデいました。

今でしたら、チビさんたちが連れて行けとねだるのは、デイズニーランドが通り相場ですが。

しかし、デイズニーランドの開演が昭和58年の4月でしたので、まだこの有名なテーマパークは当時存在ていしなかったのです。

子供達は、このデイズニーランドが出来た時は大きくなっていたので、友達同士で遊びに行っていました。

という事は、我々夫婦は行きそびれてしまい、今もってデイズニーランドに一度も行ったことがありません。

内心、ただの遊園地だと思っていましたので、殆ど、このテーマパークには正直言って興味がありませんでした。

ところが、息子が言うには、「一度は行って見て来たほうがいいよ」と言われています。

子供だけではなく、大人でもおおいに楽しめると云うのです。

遊園地のイメージというと、つい、多摩テックを思い出してしまいます。

しかし、全然違うのだそうです。

現に、多摩テックは無くなってしまいました。

一度、デイズニーランドに泊まりで見学と云うか楽しんでこようと夫婦で話あっているところです。

何しろ、元気で長生きするコツは、色々な事に興味を持ち、ウチから外に出て行く癖をつけるのが大事だと息子にハッパをかけられています。

そう言えば、同じ年の人と話していると、もうお互いに年だから、大人しくテレビでも見ているという事になってしまいます。

われわれテレビの話というか話題が多いのです。

何とかここから脱却して、息子の言うようにアチコチに出かけようと思っています。

何と言っても、前向きの気持ちが大切だと思っている今日この頃です。