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院長の独り言 96 ; 普天間問題の本質

今日も朝から米軍普天間基地の移設問題(普天間問題)で、テレビや新聞などで喧々諤々の騒動です。

何しろ、日本の代表が無責任な発言をして、沖縄の人を愚弄しているのですから、悲しい事です。

われわれ日本国の国防問題なのですから、この際、国民全員で、住んでいる地域など関係なく、世代を超えて男女を問わず、考察しなければならない時期に来ていると思います。

他人事では無いと云う事です。

そして、今までお座なりにしてきた国防について、皆で真剣に考える良い機会だと思います。

そもそも、自分の国の防衛を他人の国にお願いしている自体が間違っていると思いませんか。

今までの議論は、国会議員、マスコミなど全てが一番肝心なところを避けて話しているので、本当の解決が出来ないのだと思います。

内心、議論をしている人全員が歯痒いと云うか、忸怩たる思いをしているのではないでしょうか。

『臭いものに蓋をしろ』方式の議論であれば、根本的な解決は絶対不可能な事を内心、皆が分かっているに…。

何度もブログで書いているように、自衛隊を世界の全ての国と同じような、ごく普通の軍隊にしなければならない時期に来ているのだと思います。

自分の国を守るために可笑しな話ですが、今まで自衛隊はアメリカの補佐的任務に甘んじていたです。

別に、アメリカとの同盟関係を批判している訳ではありません。

アメリカとは、『自由、平等、民主主義』という共有できる国家の基本概念があります。

ただ、あまりにも他国に国防を依存し過ぎていないか?と云う事です。

自衛隊が、今までとは違って、日本国を守る為に主役になると云う、ごく当たり前の事に変わるだけになるのに、何の躊躇をしているのでしょうか。

色々な意味で自衛隊員の皆さんが大変な責任を負う事になり、そのようになれば心から敬意を払いたいと思いますが、中国や韓国、ドイツ、フランスなどの他国と同じになるというだけの事です。

自衛隊の人たちも自分達で責任を持って、日本を守りたいと思っているはずです。

責任と任務は裏腹で、キチッとした責任と誇りを持てば、しっかりした任務を遂行するに決まっています。

そうなれば、我が国は今までより格段に、安全で誇りある国になる事でしょう。

アメリカが守ってくれないと言っている訳では有りません。

もし、われわれ日本人にアメリカなど他国を、命を懸けて守れと言ったら本気で守りますか?

普通は、われわれ誰でもイザと云う時、祖国だから命を懸けて守るのでしょう。

外国を、命を懸けて守らなくても、文句の言えた筋では無いと思うのです。

世界の人から見れば、自国の防衛を他人事みたいに思っている日本を、きっと信じられない奇異な気持で眺めている事でしょう。

万が一の事態が起こってからでは遅すぎます。

『転ばぬ先の杖』と昔から我が国の諺にも有りますよ。

院長の独り言 95 ; 肉が食べたい!でも身体が…

昨日、久しぶりに夜、自宅でステーキを食べました。

小生は肉が大好きで、毎日でもOKなのですが、現在、メタボと云う事で控えているのです。

牛肉、豚肉などは動物性タンパク質を一番早く、しかも大量に身体に吸収する事が出来る食べ物です。

魚から同じ量のタンパク質を取り込むには、かなりの量が必要です。

動物性たんぱく質の摂取だけを考えれば、牛肉や豚肉を食べるに限りますが、コレステロールの事を考慮すると、魚肉の方が断然優れています。

全てが良いとは言えないのが世の常です。

菜食主義者のように、タンパク質を大豆などの植物性タンパク質だけから摂っていると、貧血になり易い事で知られています。

鉄分が上手く身体に吸収出来ないからです。

鉄不足になると、身体の隅々まで酸素や栄養分を運ぶ赤血球が機能不全になる事を、みなさん御存じの如くです。

鉄にはヘム鉄と非ヘム鉄があり、前者は動物の肉、主にレバー肉に多く含まれていて、身体に大変吸収され易いのですが、後者は植物に存在していて、身体に吸収され難いのです。

タンパク質を大豆などの植物から主に摂取していると、特に女性は貧血に陥り易い訳です。

自分は戦争をはさんで成長期に、殆ど焼き肉やステーキを食べられなかった事もあって、成長が止まった今、肉を沢山食べたくなるのは、自分では全く意識していないのですが、もとを取ろうと心の奥で思っているのかも知れません。

卑しい根性とは自覚しているのですが、これも『戦争の後遺症』と諦めているのです。

身体に一番いいタンパク質の摂取の仕方は、幼児から高校生の頃までに動物性タンパク質を十分摂り、成長が止まったら補給する程度に控え目にして、主に植物性タンパク質も摂るようにすべきです。

私などは、動物性タンパク質を摂らなければならない成長期にあまり食べる事が出来ず、沢山摂っては駄目な成人になってから、結構食すと云う健康面から考えると最悪なパターンと言わざるを得ません。

つまり、昭和10年前後に生まれた人は、動物性タンパク質をキチンと摂取しなければいけない子供の時は戦争の影響で満足に取る事が出来ず、肉を控えなければいけない大人になってから必要以上に食べているのです。

日本が経済的に右肩上がりに良くなった、いわゆる高度成長期になったので、肉など美味いものを食べられるようになった事が却って寿命を短くしてしまっている事は本当に皮肉な現象です。

コレステロールが多くなると、血管など循環器系がもろくなり、脳出血、脳梗塞、心筋梗塞といった命に直結する病気に罹り易くなる事はよく知られるところです。

自分も含めて、この年代に生まれた人はその事をわきまえて、栄養のバランスを考えて身体を大切にするべきです。

若い人も今は牛肉など、十分食べられる世の中ですが、成長期が終わったら、健康には十分配慮して三大栄養素をバランス良く摂取するようにすべきです。

小生が子供の時は、食べたくても満足に食べられなかったのに、食べないように注意する世の中になるとは、隔世の感を心底感じて、いい世の中なのか、そうでもないのか複雑な思いをしています…。

院長の独り言 94 ; 自然を手本に生きていこう!

自然ほど人間にとって神秘的で素晴らしい存在は有りません。

私のように凡人には及びもつかないものでも、周りをよく観察して見ると必ずと言って良いほど人間にとって利用できる色々な素晴らしい物が、自然界に存在しているのです。

昔から頭の良い人は、自然界から学んで新しい物を創り出してきました。

例えば、飛行機は鷲など鳥にそっくりですし、潜水艦はマグロやイルカをそっくり真似したようです。

発明家と言われている人たちは、鳥を見て飛行機を、魚を見て船を造り出したのでしょう。

普段使われているハサミは嘴、色は草花、と云ったところで、自然界からヒントを得て発明した物は数え上げれば切が有りません。

何か新しい物を創りたかったら、自分の周りの自然界を用心深くそして執念を持って観察する事が一番手っ取り早い方法でしょう。

素晴らしい発明品を創り出せるかも知れません。

また、渡り鳥が、暖かくなる季節になると、北方を目指して隊列を組んで飛んでいるところをよく見かけますが、隊列の組み方をじっくり観察すると、大きな鳥か、あるいは飛行機にそっくりに見えます。

これも、渡り鳥が一羽ずつではワシのような大きな鳥に襲われる危険性が有ることから、全員塊まって飛ぶ事で大きな怪物に見せて身を守っているのでしょう。

渡り鳥たちは、そんな行動を取る事を誰にも教わっている訳では有りません。

地球、40億年の自然が為せる業です。

イワシなどの小魚も大きな塊になって大海を泳いでいるのも、敵から身を守っているからでしょう。

何でこんなに素晴らしい自然に満ち溢れた地球がこの世に存在するのか、不思議であり、素晴らしいですね。

この地球に生かされている人間の身体を考えても、頭の天辺から足の先まで一つとして要らないものは有りません。

爪一つでも、歯が一本でも体中の何所かが欠けても不自由になります。

そして地球に命が誕生して、40億年を掛けて、自然によって創造された究極の傑作品が人間ではないでしょうか。

折角、神が傑作品として世に送り出して呉れた『考える葦である』我々人間は、注意しないと行動次第で、良くも悪しくもなる事を十分考えて行動したいものです。

考える事の出来る唯一の存在であると云う事は、両刃とも言えるでしょう。

刃(やいば)は使い様によってはとんでもない事にもなるのです。

自然を良い意味で味方にして生活する事が、小生の残りの人生の目標にしています。

えらそうな意見で申し訳ないです。

院長の独り言 93 ; 今もふんどしは売られているのかなぁ~

この年になると、やはり自分の子供の頃が懐かしくなり、つい昔の事をこのブログに書いてしまいます。

今回は、今から60年以上も前の話です。

私が小学生の頃、1年生から3年生までは学校で水泳の授業は無かったのです。

多分、安全面から学校側が考慮しての事でしょう。

何しろ、ひとクラスの生徒数が60人弱と、今と違って大変多かったので、管理も大変だったのでしょう。

夏休みに入ると、4年生以上の生徒は、みんな待ちに待ったプール通いが毎日の日課になります。

今は、幼児や子供でもみんな泳ぎに行く時は海水パンツを穿いて行きますが、私が小学生の頃は男子はみんな『ふんどし』でした。

自分が小学4年生になった夏休みの時の話です。

いよいよ水泳の授業を受ける事になったのです。

まず、ふんどしの締め方から習うのです。

当時の公立小学校は、今と同じで男女共学です。

夏休み直前のある日、教室から女の子を全員締め出して、先生が男の子だけにふんどしの絞め方を指導するのです。

男の子だけになると、すぐさま全員素っ裸になる様に先生が号令をかけます。

勿論、オチンチン丸出しでふんどしの締め方、扱い方を教わる事になるのです。

今から思えば、全くのどかなものです。

小一時間ぐらいかけて教えて貰うと、クラスの全員が何とか、自分たちだけでふんどしを締める事が出来るようになり、あとは家に帰って自分達で一生懸命練習して、本番のプールに向かうのです。

最初はみんな白いふんどしを着けるのですが、ある程度泳げるようになると、赤いふんどしに変わるのです。

何とか早く『赤ふん』になりたくて、全員、必死に泳ぎの練習をするのは当然です。

自分も死に物狂いに頑張った結果、ひと夏である程度泳げるようになり、目出度く『赤ふん』に昇格出来たのでした。

その後、クロール、平泳ぎ、背泳やノシ泳ぎ、そして潜水泳ぎもが出来るようになりました。

あの時、熱心に指導して頂いた先生方に感謝です。

当時、大人ならみんな泳げるものと思っていましたが、大学に入ってみると泳げない友人もいましたので、余計、小学校で厳しい水泳の訓練を受けた事に感謝、感謝です。

泳げると云う事は、水が怖くないと同義語です。

千葉の富浦海岸では岩場に潜って大きなサザエを採ったり、クロダイを釣ったりして、若い頃は大いに楽しみました。

これも小学生の時に、学校で水泳を厳しく訓練して頂いたお陰です。

今では漁業権の関係で、気軽に川や海で、魚や貝などを勝手に採る事が出来なくなってしまいました。

まあ、若い時には大いに楽しんだので、『よし!』としましょう。

今の子供たちはふんどしを締める事など出来ないでしょう。

と云うより、ふんどし自体を全く知らないのでは無いでしょうか。

海パンと違いふんどしは、イザという時に溺れかけている人をも助ける、大切な緊急救助道具に変身する事を、皆さんは御存知ですか?

子供が泳ぐ時にはふんどしに限ります!

そうすれば、子供の海難事故が少しは減るかも知れませんよ。

院長の独り言 92 ; とにかく人間は難しい!

飛騨高山祭は日本三大美祭の一つです。

この祭りは春の山王祭と秋の八幡祭の年二回行われます。

一度、どうしても実際の祭りを見たかったので、今から10年程前、秋の八幡祭りの見物を兼ねて、夫婦でのんびりと高山近辺の旅行に出掛けてみました。

全国的に有名なお祭りを間近で見たのは初めてでした。

小生は以前にも高山に来た事が有り、その時は大変静かな雰囲気のある街でしたが、その時とはまるで異なり、街の雰囲気も町の人たちの表情も祭りモードにスイッチが入ってしまい、活気と興奮に包まれて別の街に変身してしまった…、と言ったところです。

明るいうちから街全体が華やいでいます。

高山にはお昼すぎに着いたので、祭で変身した街の隅々までを色々見学しながら探索して廻りました。

こじんまりした街の中を、若い衆や綺麗に着飾った女性、可愛い子供たちに引かれて、派手な山車が何台も街のあちこちを練りまわって行き、最終目標のお宮の前に全ての山車が終結して、その美しさを競います。

人の多さに圧倒されて、我々は群衆の後ろの方で、カラクリ人形や提灯の光などで飾りたてた山車の集団を遠慮気味に見学していました。

祭りの催しを観覧している大群衆は、大人も子供も男も女も、その雰囲気に酔いしれています。

始めは着飾った派手な山車に気を奪われていて、直ぐそばに目が行きませんでした。

ふと気がつくと、自分達の眼前に、かなりのお年寄りのおばあさんがいるのです。

周りが薄暗かった事もあってか、余計気が付かなかったのですが、眼が暗がりに慣れてきたので分かりました。

其のおばあさんは、中年夫婦と一緒にお祭りを見に来ているようでした。

多分想像するに、その夫婦が母親に日頃の感謝を込めて、この高山の有名なお祭りを是非見せたかったのでしょう。

親孝行をしたくて一生懸命、この高山まで連れて来たのだと想像できました。

子供夫婦は心を込めて、年老いた母親に説明しながら、大勢の人で混んでいる中を、何とかお祭りのクライマックスを見て貰おうと必死に頑張っているのです。

覗き見しているようで嫌だったのですが、眼前で展開しているので、どうしてもその親子の遣り取りが聞こえてしまいます。

一番気になったのは、その夫婦は必死に親を楽しませようとしているのだから、子供にとってみれば、親は当然心から喜んで感謝して呉れるものと思っているのに、一方、当のおばあさんはと云うと、傍で見ていてもその心の中は見え見えな程、気乗りが薄いのです。

お祭りや山車に、まるで興味を示していないようです…。

逆に『早く帰りたい…』といった感じです。

夫婦の熱心さに比して余りの落差に、他人事ながら『お婆ちゃん、もっと喜んであげて!!』とハッパを掛けたくなるほどです。

我々は、煌びやかな山車を見ながら移動したので、その後の展開は知りません。

想像するに、あの夫婦は優しそうな人柄だったので、きっと日常生活でも、あのおばあさんにさぞ優しく接していることでしょう。

その時は、『あれでは子供夫婦が可哀そうだ…』と思えました。

ところがいざ、自分も70歳を超えてくると、あの時のおばあさんの気持ちが何となく理解出来てくるから、全く厭になります。

今の小生は30分ぐらい立っていると腰が痛くなってきて、何はさて置き、兎に角、座りたくなるのです。

また、心動かされる物事が少なくなり、とにかく感激しなくなります。

哀しい哉、感動の前に、面倒臭さが先に立ってしまうのです…。

もしかすると、あのおばあさんは、子供夫婦に心の中では手を合わせて感謝していたのかも知れませんが、あの人混みの中、お祭り見物が億劫になっていたのかも知れません。

この出来事に、人間が歳を取るという事と親孝行の本質を、見せつけられた気がするのです。

院長の独り言 91 ; お米屋さんの想い出

今年は天候不順で、急に暑くなったと思うと、次の日になると冬のように寒かったりで、体調を整えるのにひと苦労しています。

昔から天気が社会の景気や政治などに多大な影響及ぼす事はよく知られています。

色々な原因で気候の変動が起こる訳ですが、例えば日本では東北地方で冷夏の原因として昔から恐れられている『やませ』や、世界的に異常気象を起こす『エルニーニョ現象』は有名です。

火山の噴火も地球規模で天気に影響を与えます。

今年4月にアイスランドの氷河火山が大爆発して、ヨーロッパを中心に飛行機が暫くの間、飛べなくなってしまった事は記憶に新しいところです。

現在は火山活動も小康を保っていますが、まだまだ安心は出来ません。

1991年、フィリピンのマニラに近いピナツボ火山が大爆発した映像を、皆さんもご記憶に有るかと思いますが、ピナツボ火山の爆発によって、噴火の時に出た大量の火山灰が原因で、日本が大変な冷夏に見舞われた事を、もう皆さん忘れてしまったのでは無いでしょうか。

あの夏は本当に寒い日が続き、7~8月になってもセーターが手放せませんでした。

案の定、秋に米が大不作になってしまい、我々には馴染みの薄い、タイから急遽、輸入した所謂『タイ米』が出回ったのでした。

其の時、幸運にも我が家は、普通の日本米、新潟産のコシヒカリをいつもと同じように口にする事が出来たのです。

家から1キロほど離れた所にお米屋さんはあったのですが、結婚した当座は、お米は近くのスーパーで色々な食糧と一緒に買っていました。

ところが、そのお米屋さんは50歳程の人の良さそうな夫婦で、二人で仲良さそうに商いをしていました。

ある日、『お米をウチで取って呉れませんか?』と売り込みに来たのです。

其の当時は、毎年、豊作に次ぐ豊作で国はお米の減反を必死に行っていた時期でした。

近所の人たちは私の家を含めて皆、お米をスーパーから買っていたので、そのお米屋さんからお米を取る人は近所にほとんどいなかったので、気の毒になり、我が家はそのお米屋さんから取り寄せる事にしたのです。

まさか、それから10年後にピナツボ火山の噴火が原因で、日本の米が大不作になるとは夢にも思いませんでした。

その大不作の年には、どこのスーパーからも、コシヒカリなどの日本産の米は姿を消してしまったのです。

『今年は美味しい日本のお米を口にする事は出来ない…』と諦めていたところ、『まいど~』と何時ものように、お米屋のおじさんがコシヒカリを担いで持って来て呉れたのです。

スーパーでは全く売っていないコシヒカリを見て、近所の奥さんが『私もコシヒカリを欲しい!』と頼んでいましたが、『申し訳ありませんが、もう、売る日本産のお米は有りません』と真顔で、取り付く島がない感じで断っていました。

何だか悪いような後ろめたいような妙な気持ちになりましたが、下手な事を言うと喧嘩になりそうだったので、その時は黙っている以外に為す術が有りませんでした…。

それから数年経ったある日、お米屋さんの奥さんが『主人が胃がんになった…』と告げて、ついには『米屋を廃業する』と言って帰りました。

それ以来、お米屋さんのご夫婦にお会いした事は有りません。

火山の大噴火の報道をテレビで見ていたら、コシヒカリをニコニコしながら担いで持って来て呉れた、お米屋さんの顔がフッと浮かんできたのでした。

院長の独り言 90 ; 歯科医療今昔物語―無歯科医地区での治療―

小生が歯科医に成りたての頃は、歯科医の数が非常に少なかったのです。

都会でも歯科医は不足していましたが、特に地方の北海道や東北地方では、まだ歯科医のいない地区、いわゆる無歯科医村があちこちに存在していたのです。

大学院に在籍していた時、毎年、夏休みになると、岩手県のある無歯科医地区で奉仕活動の歯科治療を行っていたグループに、小生も参加していました。

その地区の生活事情は、大都会よりレベルが高そうで豊かに思えましたが、医療事情に関しては、都会よりかなり悪いのは明らかでした。

奉仕に行った地区はかなり広い範囲の地域でした。

昔ながらの聴診器を、いつも首から下げている内科のお医者さんが一人常駐していましたが、歯科医はいませんでした。

歯の治療を受けるには、50キロも先の中核都市に出なければならなかったのです。

急に歯が痛くなった時などは、まだ舗装もしていない細い山道を、地区にある希少な自動車で誰かが連れて行かなければならないのです。

深夜なら本当に大仕事です。

毎年の恒例になっている歯の治療を地区の人は、本当に心待ちにしていました。

歯科治療を成立させるには前提として、例の虫歯治療には欠かせない歯科用エンジン、虫歯を削除する時に出る熱を冷やす装置、抜歯するための一式の器具、そして色々な種類の薬品など…、かなりの設備を整えなければなりません。

春先から治療に行く担当医を決めて、少しずつ準備をしていくのです。

無歯科医地区への奉仕主旨を説明して製薬会社を周り、歯ブラシや抗生物質などを提供して貰ったり、歯科材料店から何がしかの寄付を仰いだりして活動資金を作るのです。

ドクター、歯科衛生士、そして歯学部と衛生士学校の学生、皆で総勢50名程で奉仕団の編成を組んで、いざ出陣です。

現地に着いた日の夜には、決まって地区の人が大勢で大歓迎会を開いてくれました。

岩手の人たちは噂の通り、アルコールには並はずれて強いので、その相手をするのが毎年大変で、我々診療を担当するドクターは程々にお付き合いをして、ウワバミ軍団の学生にお酒のお相手を任せていました。

小学校の講堂が仮設診療所となり、地区の女性の方々が色々な雑用を手伝って呉れました。

診療初日には、歯科治療を受けたいと云う人達の長い列が出来るのです。

お年寄りがお嫁さんに手を引いて貰いながら、グラグラになった歯の抜歯、入れ歯の調整、そして歯が痛いと言ってくれば神経処置を行うのです。

一番印象に残っているのは、5歳くらいの男の子の痛がっている乳歯の抜歯でした。

こちらがびっくりする程、麻酔も抜歯も大人しくさせた事です。

歯科医が近くにいないので、今、治療を受けないと大変な事になると小さいながら、まるで理解しているようです。

小学生、中学生などの子供たちも、礼儀正しく治療を受けていて、都会の子とは一味も二味も診療姿勢が違っていた事が印象的でした。

2週間の治療期間で、大変な数の患者さんを診て、其の後に小生の夏休みが始まるのでした。

今は昔の話です。

現在はその地区でも歯科医院は、充分過ぎるほど存在するようです。

院長の独り言 89 ; わが徒然草

今回のブログは、思いの赴くままに書き連ねてみたいです。

皆さん、小生の発想に付いてきてくださいね。

まず、テレビで日原鍾乳洞を放送しているのを見て、また行きたくなりました。

この鍾乳洞は小学校の遠足以来で、確か、小学校5年生の時にバスで行ったと記憶しています。

東京近郊なのに、こんな大きくて、面白い洞窟があったのには、いたずら盛りの友達みんなで歓声を上げて走りまわって喜び、引率の先生に『こら!静かに!』と大目玉と注意を受けたほどです。

大学生の時は、山口県の秋吉台、秋芳洞に行き、そのスケールの大きい鍾乳洞にたまげたものでした。

しかし、鍾乳洞で一番驚いたのは岩手県に行った時、浄土ヶ浜の帰りに寄った龍泉洞です。

何と言っても、あまりにも青く澄んだ地下水が豊富に流れている光景は今でも目に焼き付いていて、本当に忘れ難いのです。

縄文時代の土器も沢山発掘されたそうで、美味しい天然の湧水も豊富、冬は暖かく、夏は涼しいし、外部からの敵の侵入も防げるこの洞窟は、当時の人々にとっては、素晴らしい豪邸だったと思います。

話は代わって『豪邸』と云えば、千葉県の昔からの由緒のある家の出身である先輩のうちに遊びに行った時、門だけで自分の新築した家より大きく広いのにびっくりするやら羨ましいやら。

そして住宅の方はと云うと、天井は高く、勿論、部屋の広さは大変なもので、おまけに、何部屋も有るのです。

小生が思わず『一生に一回でもこんな豪邸に住んでみたい』と言ったところ、先輩は本当に真顔になって『冗談じゃ無い!俺はもっと小さい小さい家に住みたい!』と言い放ったのです。

幾らなんでも、先輩の台詞は不遜すぎるのではないかとその時は思いました。

当時、間借り生活を脱して、建坪40坪程度の家を無理して建てたばかりの時だったのです。

夫婦と二人の子供、合わせて4人、チビ達も段々大きくなってきたので、思い切って建てたのです。

多額の借金を背負いこんでいたので、つい、先輩の言った事にカチンときたのでした。

ところが今、子供たちが巣立って行ってしまうと、40坪程度のうちでも、夫婦二人では広く感じるようになり、あの時、先輩が言っていた事が何となく理解出来るのです。

確かに、先輩の家は庭が千坪以上、建坪が優に150坪を超えるお城のような豪邸ですが、『お前、住んでみろ!』と実際に言われてみると、とても住む気になれません。

一寸考えただけでも、維持費は膨大に掛かるし、不用心ですし、掃除の事を思えばぞっとするし、最初は大きな庭に大きな家に住んで大喜びしていても、少し時間が経てば、精神的にも、肉体的にも大変な負担になるに違い有りません。

第一、家内がヘトヘトになるに決まっています。

先輩の奥さんは毎日全く『どないしていた?』のでしょうか。

やっぱり、子供も巣立ってしまったのですから、夫婦二人の終の住家は、20~30坪程度の小じんまりした家で、インターネットのある超合理的にした未来型の便利な家が一番かも知れません。

全てがスイッチ一つで用が足りるマンションが人気なのもよく理解出来ます。

そして、インターネットは確かに便利です。

一台、居間のPCに接続しておけば、世界中のニュースがたちどころに知る事ができるのです。

でも、余りにも、情報が直ちにしかも一遍に入り過ぎて、小生などは情報が入った途端にアッと云う間に忘れてしまいそうです。

前回のブログで書いたように、じっくり、ゆっくりと色々と体験しながら、生きていくのが良いのかも知れません。

やっぱり、今まで住み馴れてきた、思い出の詰まった古い我が家で『のんびり夫婦』でいきますか。

院長の独り言 88 ; 疎開先で受けた、浮世の厳しさ

小さい頃から、暇な時に地図を見るのが大好きでした。

小学生低学年で、県の名前と県庁所在地、外国の国の名前と首都、内外の国立公園、長い大河、エベレストなどの高山の場所や高さなどを聞かれればスラスラ答える事が出来、親に褒められるのが嬉しいし、友達には得意になって自慢をしていたのです。

しかし今は、地図の上で覚えた場所は殆どその名前も忘れてしまいました。

記憶とは面白いもので、ただ覚えて暗記した事はある期間は覚えていても、結局は殆ど忘れてしまいますが、身体と一緒に覚えた事は一生忘れないものです。

実際に行った所はどんな小さな町でも覚えているものです。

何でも身体を使って覚える事が本当に大切です。

子供の教育は体験学習が一番でしょう。

我々大人でも全く同じだと思います。

小生のように歳を取れば取る程、記憶力は衰えてしまいます。

最近、本を読むにあたっては特に注意している事は、若い時は早い時間で数多く読みこなす事が出来ますが、私のように70歳を超えた者にとっては、ユックリ、ユックリ時間を掛けて、そして、特に興味を持った箇所は、何度も読み返すようにしています。

特に今、一番記憶に残っている事は、グアムから生還した横井庄一さんではないけれど、恥ずかしながら戦争当時、全くという程、食べ物を口にする事が出来なかった時期です。

この強烈な記憶は忘れようにも忘れられません。

振り返って考えてみると、ほとんど食べられなかったのは、ほんの3~4か月だったのですが、いつ思い出しても、もっともっと長く感じていて、最低でも一年以上続いていたように思います。

『食べ物の恨み』は、本当に恐ろしいですね…。

空襲の為に疎開していた場所は、遠い親戚に当たる母方の祖母筋でしたが、今思い出してもその時の仕打ちにムラムラ腹が立ってくる事があるのです。

私と一緒に疎開していた祖母と私が寝た後に、その家族は、我々に気づかれない様に静かにして自分達だけ食べていたのです。

我々二人には食べ物が『無い!無い!』と言って、ほんの少ししか分けて呉れませんでした。

祖母がある日、寝床からトイレに出ると目撃してしまったそうです。

祖母は自分の親戚筋なので余計に怒っていました。

敗戦後に暫く経ってから、その家族の息子が東京の大学に入った時に祖母の家に下宿しましたが、祖母はその息子の面倒を良く見ていたので『流石、おばあちゃん!』と感心しました。

なにしろ、祖母はお寺の住職の奥さんですから、特別に人間が出来ていたのかも知れません。

以後、祖母を手本に小生も、自分が嫌な経験した事は絶対に、他人にはしない様に注意していたのです。

そして時は経ち、歯科大学を卒業して臨床のある教室に大学院生として入局しました。

そこで医局の先輩にいじめられたり、嫌な思いさせられたり…を経験したのですが、後輩にだけは辛く当たる事をせず、出来るだけ優しく接するように努力しました。

しかし今、振り返って考えると、その事も決して良いとは思えないから不思議です。

却って、後輩のドクターを甘やかしてしまい、本当は厳密さを必要とする仕事なのに、『歯科は甘い』と思わせて、本人には気の毒な事をしてしまったのかも知れません。

もう少し厳しく後輩を指導すべきだった…、愛の鞭も時には必要だった…、かも知れません。

考えようによっては、嫌な厳しい事を経験し、それを乗り越えようと努力させる事も本人の為になるでしょう。

甘やかせ過ぎても厳し過ぎてもダメですが、愛情の裏打ちが絶対です。

とにかく、疎開で経験した嫌な事が、色々、小生を成長させて呉れたと今では思うようにしています。

しかし、あの時の親戚の態度に見た、世の中で生きていく厳しさは忘れ難く記憶に残っています。

院長の独り言 87 ; 日本が少子化へと進む、本当の病根

出生率の低下を心配され出してから、もう10年以上になりますが、一向に改善する気配が見られません。

現政権は苦肉の策で、子育て手当なるものを法案で通しましたが、多分、出生率の向上には何の効果も生まないでしょう。

若い夫婦が自分の分身である子供の明るい未来を予測すれば、いま現在、経済的に十分に満たされていなくても、楽観的に、子供を産んで育てていこうと思うに決まっています。

今の日本は全く将来性が無きが如く、テレビや新聞、雑誌などで毎日、報道されていて、その上、政府が唯、お金を給付して解決しようとしても子供を産む気にはなれないのは当然の事です。

子育て手当は丁度、馬の鼻の前にニンジンをぶら下げて『走れ走れ』とやっている様なものです。

随分、若い人達を馬鹿にしていると云うか甘く見ていると思いますよ…。

そんな場当たり的で安易な子育て手当を支給すると云う事は、為政者は何の努力もしていないと白状している様なものではないでしょうか。

それより、今は不景気で経済的に苦しくても、日本の将来は色々な面で住み易く、明るい安全な国になるように国を挙げて努力をしていくという意気込みと云うか、しっかりと未来を見据えたビジョンを若い人達に示す事こそ一番大切であり、出生率の増加につながる早道であると確信を持って言えます。

小生が子供の頃は、『日本の今は苦しく、食べるのも儘ならなくとも、未来は明るく安全で、誇りある素晴らしい国になるように努力する!』と国民に訴えて、為政者も必死にその事に取り組んでいた様な気がします。

総論をまず示したのです。

結果、子供はどんどん増えました。

今の世の中、学校ではいじめが蔓延り、陰惨な殺人事件も多発しているとマスコミから教えられ、そして外国には常に下手で、自国の防衛を他の国に頼っていては、若い人達にとって、あまりにもプライドが持てない国であり、危険で情けない国に思えるのではないでしょうか。

プライドが持てず、明るい未来も見えてこない国で、自分の子供を産む気になると思いますか。

いくら子育て手当なんか出しても無駄もいいところで、姑息な手段もいいところです。

日本の少子化問題は、長期的な展望の無い、唯、『臭いものに蓋をする』方式では、本当の解決には結びつかないと思います。

今、防衛問題でモメているのですから、丁度、良い機会ではないのですか。

まず、自国防衛の為に、自衛隊を日本以外の国、ドイツ、韓国、中国、などと同じように普通の軍隊にする事だと思います。

御苦労さまですが、アメリカと同盟関係を維持しつつ協力し、自衛隊の皆さんが中心になって日本を守って貰う事が未来の日本にとって、若者たちが一番安心して子供を育てる気持ちになるのではないでしょうか。

小生がブログで何度も強調している事は、日本が日本人としてプライドの持てる国になって欲しいと云う事です。

為政者やマスコミは常にこの事をベースにして、現在の日本の良い事、良くない事の意見を言って貰いたいのです。

決して、『良い事だけを語れ!』とは言っていません。

現在、新聞、テレビなどのマスコミは、祖国日本を余りにも卑下し過ぎです。

政府は外国に対しても、必要以上に、小さくなり過ぎです。

小生は何も国粋主義者では有りません。

ただ、自分の生まれた国、日本の未来を心配し、この国の未来を託す若者に希望とプライドを持って生きていける国になって貰いたいだけです。

若い人達が自分の生まれた国を外国人に聞かれた時に、『日本である!』と胸を張っていえる国になれば、子育て手当など出さなくとも、『生めよ、増やせよ』などせっつかなくとも、出生率はどんどん上昇する筈です。

文化の面でも科学の面でもそして、豊かな自然の恵みから見ても、日本は一流国家です。

地方参政権やCO2排出権などで外国にお世辞を取らなくとも、行政の面で自信が持てる様な日本の未来の設計図を国民に誠意を持って示し、例えば、学校教育では、いじめを無くす事や自分の国は自分たちで守るなど国が率先してリードしてくれれば、外国に対しても『友愛』なんか生半可に強調しなくとも、我々は外国人に優しく対応出来るし、プライドを持ってきちんと対応出来るものです。

皆さん、そう思いませんか?

院長の独り言 86 ; あなたは妖怪や幽霊の存在を信じていますか?

NHKの朝の連続ドラマで『ゲゲゲの女房』が4月から放送されてから何となく、妖怪やお化けと云った霊に関する話題が再浮上してきそうです。

御存じのように、その元本になる『ゲゲゲの鬼太郎』は随分前に、テレビでも放送されていました。

当時、子供たちに大変人気があって、テレビで放送される時は常に、うちの二人のチビさん達(娘と息子)も、画面を凝視してテレビにしがみ付いて見ていました。

いつの時代でも、そして、洋の東西に関係無く、妖怪やお化けの話題はいつも盛り上がるものです。

テレビでも『霊』に関する話は、定期的にどこかのチャンネルで必ず放送しています。

それだけ『霊』の話は人気があると云うか、人の心を揺さぶる何かがあるのでしょう。

妖怪は兎も角、お化けや幽霊を見たと云う人は自分の周りにも結構います。

幽霊を見たと云う人は、『本当に見たんだ!見たんだ!』と真剣に訴えます。

『幽霊を捉えてみたら枯れ尾花』と見た人の錯覚が多いのも確かです。

父方の祖母が脳こうそくで倒れて、小生の母校の大学病院に入院させて貰った時の話です。

付き添いは母がやっていました。

夜遅く、看護婦さんが何時ものように祖母の様子を看に来た時の事です。

『お加減如何ですか?』と看護婦さん。

「落ち着いているようです」と母。

二人で毎夜の挨拶みたいなものです。

祖母の体調について二言三言会話をした後、看護婦さんが病室を出ようとした時、祖母が『看護婦さんの後ろに痩せた女の人が付いている…』と指をさして真剣な面持ちで叫んだのだそうです。

祖母があまりにも真に迫った形相だったので、看護婦さんは『キャー』と叫んで病室から飛ぶように逃げて行ったと母が話していました。

それ以来、その看護婦さんは祖母の事を気持悪がって、夜の担当をほかの看護婦さんに交代して貰っていたそうです。

また、看護婦さんが怖がる理由が他にもあったのです。

其の時に、母は『そんな女の人は見ていない』と言っていましたが、威かされた看護婦さんは『痩せたおばあさんが長患いの末に、一カ月ほど前にこの部屋で亡くなった』と言って、祖母が叫んだ時に看護婦さんは『何か後ろに変な感じを受けた』と母に後になって恐ろしそうに訴えたそうです。

さる脳科学者によると、脳梗塞など脳にダメージを受けた時、錯覚とは違い、普段、正常な人には見えないものが見えてくる事があるそうです。

見えて無い方が正しいのか、見えている方が本当なのか、その判断は大変難しいのだそうです。

私たちには見えないけれど、本当は存在していて、脳が脳梗塞などによって、いつもは活性化していない一部の脳の部位が異常に反応する事もあり、普段は活動していない脳が刺激されて、見えなかった現象が本当に見えてくるとも考えられるのです。

脳ほど不可思議な存在はないのかも知れません。

我々は錯覚と笑うかも知れないけれど、祖母には本当に見えていたのかも知れませんね。

個人的な独りよがりの見解としては、宇宙人の存在よりは、はるかに『霊』の存在の方が何十倍もその確率は高いような気がするのですが…。

我々人間が耳で聞こえる高音の限界は2万HZですが、犬は4万HZまで聞こえるそうです。

人には全く聞こえない音でも犬には聞こえているのです。

耳と同じように、もしかすると、見える限界が人には有るのかも知れません。

現実には存在しているのに、我々には普段は見る事が出来なくとも、体が疲れている時や酔っている時、あるいは脳梗塞などにより、ある刺激を脳細胞が受ける事によって突然見る事が可能になる事も考えられます。

それを我々は『霊』と思って恐れているのでしょうか。

脳の研究はこれから益々為されていくものと思います。

将来、『霊』についても、もっとハッキリ解明されていくものと期待しています。

皆さんは『霊』の存在を信じますか…。

院長の独り言 85 ; 上海万博日本館で日の丸を掲げないとは…

地球儀で見ると、我が国日本はその国土面積においては、あまり大きな国ではありません。

むしろ、小さい国に属していると思われがちです。

20~30年前の経済大国と云われた頃と比べると、経済的にも少々元気が無くなって規模が小さくなってきたようには思います。

だからと言って、最近、テレビや新聞などマスコミは日本が色々な意味でどんどん萎んでいって、面積のように世界に影響力を及ぼさない三流国になり下がるが如く報道するきらいが有るのはどうした事でしょうか。

あまり『ダメになった、ダメになった』と言われ続けると腹が立ってくるのは私だけですかネ。

自分の国を必要以上に卑下するような報道をするのか、本当に理解に苦しみます。

何度も言いますが自分の国ですよ。

何もオーバーに自分の国を評価する事はないに決まっていますが、こう云う不景気風が吹いている時こそ、少しは明るい話をコメンテーターもすべきではないでしょうか。

例えば、現在、日本が世界一、二のシェアーを誇っている製品をあげつらえばキリが無いほど多いのです。

有名なところでは、自動車、カメラや腕時計などの精密機械、諸々の工作機械、ロボット、カーナビ、テレビやビデオ、液晶パネル、などの家電製品、ゲームのソフトなどなど。

携帯電話が世界的に普及出来たのは日本のリチュウムイオン電池のおかげです。

マンガはダントツに世界の若者を虜にしています。

明石海峡大橋は吊り橋型の橋では、世界一長いのです。この橋は、すぐ近くで起きた阪神淡路の大地震でもびくともしなかった程で、世界の地震学者や橋梁の専門家など科学者もその技術力に舌を巻いたそうです。

色々な技術は、つい最近向上した訳ではなく、遠い昔から優れた技術力があったのです。

大きな地震が何度も起きているのに、現存している木造建築の世界最古の建物は奈良の法隆寺ですし、最大の木造の建物は大仏で有名な東大寺です。

つい最近のものでは、世界最長の海底トンネルは54キロメートル程度ある青函トンネルです。

世界的に超有名な新幹線やリニア、ロケットと云った具合で、世界一のものを数え上げればキリが有りません。

製造会社や建築に関しては超一流なのは納得出来たでしょう。

他の分野の会社も世界的に有名な超一流の会社もわが国には沢山存在します。

総合商社では三井物産、三菱商事、伊藤忠などなど、重工業部門では、三菱重工、東芝、日立など、其の他世界的に有名な会社、新日鉄、コマツ、京セラ、任天堂と枚挙にいとまが有りません。

医療の面でも薬品、電子顕微鏡、人工歯根や人工の眼球、義手義足などあらゆる面で世界に貢献しています。

こんなにいい意味で世界に多大な影響を与えている国は、控え目にみても、世界の国で十指に入るのは確実です。

こう云った後ろ盾があるのですから、もっと国民に自信を与えるのが政治家、役人、マスコミの仕事のはずです。

政治家、役人、マスコミの人達は日本のいいところを世界の人々にどんどん発していく役目と義務が有ると思います。

上海万博で国旗を掲げないとは、信じられません。

日の丸を上げるなど、別に大した事ではないのではないですか。

日本人観光客も沢山訪れているのですから、誇りに思うのではないですか。

遠慮しすぎですよ。

この頃、何となく気持ちが沈んでいる日本国民を鼓舞させる必要があるのに、テレビのコメンテーターや新聞などマスコミは劣等感を植え付けるような意見ばかりをするし、何をやっているのでしょう。

日本のいいところを話題にして、世の中を気分だけでも明るくすべきで、みんなのやる気を起こさせて欲しいものです。

ついでに付け加えておきますが、日本は決して小さい国では有りません。

経済水域を所有しています。

我が国を地球儀で見て、この経済水域まで含めると、世界中の全ての国の中で、面積から考察しても、十指以内に入る大国ですよ。念のため。

院長の独り言 84 ; 子供にこそ、祖国の良い面を教えるべきです!

自分が大学生の時に東京オリンピックが開催されました。

東京中、掘り返された感じで、この時期を境にして、敗戦後の古い東京とはオサラバしたのでした。

私が大学生時の学生の服装は、昔懐かしい金ボタンの学生服、今では六大学野球の応援団ぐらいしか着てないような例の学生服をみんなが着用していたのです。

まん丸い縁の眼鏡をかけて、誰が見ても苦学生といったダサい風体の学生ばかりでした。

今時の若者には到底受け入れては貰えないでしょう。

いやかえって、清潔感があって真面目な信頼感があり、今だったら若い女性にモテルかも知れませんネ。

まず、狭かった道路が広くなり、縦横無尽に走っていた都電が少しずつ撤廃されて、銀座、新宿、池袋、上野、渋谷などの都内の繁華街が明るくなり、近代的な街並みに変わっていったのです。

新幹線はまず、東京―大阪間が開通し、日本中も景気が右肩上がりになるし、全てが出発進行と云ったところでした。

高速道路も徐々にではありましたが、東京、大阪を核として全国に延びていったのです。

その後、大阪万博が開催されて、益々我が国は経済的にも大発展を遂げていったのは、皆さんご存知の通りです。

丁度、今の中国が北京オリンピック、上海万博と開いて、日本の後追いをしている事になります。

小生の生きてきた日本国を70歳になった今、振り返って見ると、自分の国は原爆を落とされたり、戦死者を何百万人も出し、言葉では言い尽くせない犠牲を払って、結果としてアジアの植民地を解放したようなものです。

アジアの国々から少しは感謝されても良いのに、一部の国からは今でも、日本をまるで悪の帝国のように非難されています。

冷静に考えれば、アメリカと戦争しても勝てる訳がないのに、当時の為政者はなぜ開戦に踏み切ったのでしょうか。

開戦すればどう云う結果になるか分析も出来ない程、当時の日本の為政者が幼稚であったとは到底思えません。

開戦しなければならないよほどの理由があったに違い有りません。

その理由を是非、教えて頂きたいものです。

全く、戦争に負けるほど、惨めな事は有りませんでした…。

現に今でも、沖縄の海兵隊問題で屈辱を強いられているではないですか。

我々日本人を60年以上も苦しめている『敗戦』を、良い意味でも悪しき意味でも政府は徹底的に総括して、結果を国民に公表して頂きたい。

そうでなければ、これからの日本の子供達があまりにも気の毒です。

迷惑をかけた事は勿論誠実に認めて陳謝すると同時に、アジアとアフリカ、南米の植民地解放など良い影響を与えた事実も、子供達に伝える義務が我々、日本の大人には有ると強く思います。

そうすれば、未来の子供達も自信を持って、世界に出ていけるのではないのですか。

院長の独り言 83 ; 秋田犬を飼っていた頃

私が大学生の頃、秋田犬を飼っていた話は何度かブログに書きました。

勿論、秋田犬は成犬になると、かなり大きくなります。

キチッと躾をしておかないと、万が一の時に大変な事故につながります…。

生後3か月で秋田犬を引き取ったのですが、売り主からは口を酸っぱくして何度も何度も、少し『シツコいな』と思うほど注意を受けました。

『お手』や『お座り』なんか教えるのは二の次で、まず、初めに絶対教え込まなければならないのは『待て』と『ダメ』の徹底でした。

犬を引き取りに行った時、3か月の幼いその秋田犬があまりに可愛くて、其の時は『ハイハイ』と、うわの空で返事をしていました。

自宅へ連れて帰る道すがら、偶然、散歩していた茶色の中型犬に出会い、その時に『ワンワンワンワン』とひどく吠えられ威かされて、私にしがみ付いて大変怖がっていました。

その中型犬に威かされた事件は念願の秋田犬が手に入った事に興奮して、私は全く忘れていました。

買った秋田犬の名前は、正式には『千代藤号』と云う、いかにももったいぶった名前でしたが、家族からは『フジ、フジ』と愛称で呼ばれていました。

犬は大体6か月から8か月で、からだの成長が止まります。

フジも6か月ぐらいで大きな犬に成長しました。

フジが家族の一員になってから、6か月くらい経ったある日、朝の散歩で、自宅に連れて来た時に吠えてきた、あの中型犬に出会いがしらになった時に、アッと云う間にその犬に飛びかかっていったのです。

不意を突かれた事もあったのですが、その時のあまりの力の強さに、私はつい、手綱を放してしまったのです。

相手の犬にひどい危害を加えるかとドキッとしたのですが、幸いその中型犬の逃げ足が早く、キャンキャン泣きながら、脱兎の如くすっ飛んで行ってしまいました。

それ以来、その犬は二度とフジに近づく事は有りませんでした。

その事件をきっかけに、私は売主の言った通り、『待て』『ダメ』の命令を徹底的に教え込みました。

フジは普段おとなしい犬で、散歩中に初めて会う犬にでも吠える事など一度も無かったので、その時は本当にたまげました。

根は非常に用心深く、執念深い犬なのだと、それからは散歩時には緊張しまくりです。

毎日、早朝と夜2回の散歩の役目は、殆ど自分の役目でした。

初夏のある朝、いつものように4時頃、自宅を出ていつもの散歩コースを、訓練も兼ねているので、フジを身体の右横に従えて走るように早足で進んで行ったのです。

こんな早い時間帯にはせいぜい新聞配達のお兄ちゃんにしか、お目にかからないのですが、その日に限って、我々の百メートルぐらい先に女の子が父親と遊んでいて、『キャーキャー』騒いでいたのです…。

それを見てフジが興奮したのか、例の馬鹿力でアッと云う間に手綱を振り切って、その女の子目がけて突進して行ったのです。

『いけない!』と思い、咄嗟に『待て!!』『ダメ!!』と大声で怒鳴った途端、フジがその女の子に飛びかかる寸前にピタッと止まったのです。

私は女の子の父親と眼を見合せて心からホッとしたのです。

『よく訓練された犬だねぇ~』と感心されましたが、内心では『待て』『ダメ』を強く教え込んでいて本当に良かったと思う以上に、自分の不注意で危うく大事故になるところを防げた事を、神と売主に感謝したのです。

実際、この大型犬の秋田犬フジに傍に来られると、殆どの人は身体がスクむ程の迫力があるのです…。

それは官舎に住んでいた時に、空き巣を撃退した事でも証明されました。

流石の空き巣も『フジ』に傍で図太い声で吠えられると、とてもじゃないけど家に入ってくる気力が失せてしまったのでしょう。

今思えば、あの大きな犬をよく面倒看ていたものだと、自分ながらに感心するやら、事故が起こらなくてホッとするやらです。

若くして亡くなったフジの思い出は、本当に忘れ難いです。

院長の独り言 82 ; こどもの日に思うことⅡ(道徳教育の必要性)

敗戦後の日本について、殆んどの大手マスコミは、若い人に正確に知らせていないような気がするのです。

そこで、こどもの日に寄せて、実際に自分が意識出来るようになってきてからの、自分が経験してきた戦後について正直に、出来るだけ正確にブログに書いてみようと思ったのです。

敗戦前の事は自分があまりにも幼な過ぎて、『空襲が怖かった』とか、『ひもじい思いをした』などしか記憶には残っていません。

そこで、敗戦後から書く事にしたいと思います。

今でも殆どの新聞や雑誌などには『戦後』と出ていて、『敗戦後』とは記しません。

ここから間違っています。

戦争に負けると云うほど惨めなものは有りません。

まず、それからきちっと総括すべきです。

そうでなければ戦争の犠牲者は、私を含めて立つ瀬が有りません。

このままでは惨めさだけが残って、死んでいく事になりかねません。

なぜ、戦争をしなければならなかったのか。

戦争は良くない事に決まっています。

それでも開戦に踏み切った重大な理由があったに違い有りません。

我々日本人は元来好戦的な民族では無いのです。

『日本が悪い、日本が悪い』と小学生の頃から、耳にタコが出来るほど聞かされています。

戦争したのは全部、日本の責任のように小さい頃から聞かされていますが、本当にそうなのでしょうか。

戦争をせざるを得なかった真実の原因、戦争の功罪、皆さん、第二次世界大戦後にアジアの植民地がほとんど全部解放されたのをご存じですか。

一部の知識人やマスコミの人は、我々日本人に劣等感ばかり植え付けないでほしいものです。

自分の国ですよ!

日本しか為し得なかった良い事も、国民、特に子供たちに知らせるべきです。

未来を背負う子供たちに、日本は戦争で悪い事だけ行ったように洗脳する事は、良くないのではないですか。

アジアの人々に戦争の迷惑はきちんと謝る事は大切ですが、植民地解放の手伝いをした事も分かって貰うべく、政府やマスコミも大いに努力すべきです。

現に、マレーシアのマハティール元首相はその事に触れて感謝の意を表明しています。

このまま、日本人だけを戦争の罪悪人にして良いのでしょうか。

政府、マスコミはこの汚名を是非、払拭して下さい。

劣等感と云えば、小学生の時に、今まで写真や絵でしか見たこともない、青い目の白人や黒人を目の当たりにした時の衝撃は大変なものでした。

我々日本人はやせ細ってみすぼらしい服装なのとは対照的に、彼ら彼女らは颯爽としていて、羨ましいと云うより、幼さない目で見ても、劣等感の塊に為らざるを得ませんでした。

当時は、小学校の授業は午前午後の二部制でした。

子供の数が多すぎて、おまけに先生も教室の数も足りないので、二部制にせざるを得なかったのです。

勿論、給食のような贅沢な制度は有りません。

算数、国語などの授業は、現在のそれと大して変わりは有りませでしたが、今と一番違った事は、我々はキチッとした礼儀作法をはじめ、道徳教育を受けていたのです。

最近、あるテレビプログラムで、韓国の奥さんが『日本も早く、若者に韓国と同じように軍隊教育を受けさせるべき』と勧めていました。今の日本の若者は端で見ていても、礼儀も気合も無さ過ぎるとの事です。

軍隊教育も良いかも知れませんが、まず、小学生、中学生の義務教育時代に、他人に対する思いやり精神とか礼儀作法など簡単な道徳教育を実施すべきだとは思うのです。

院長の独り言 81 ; こどもの日に思うことⅠ(疎開で痩せてしまい…)

私は昭和13年生まれなので、日本の激動の時代を生き抜いてきた事になります。

3歳の頃の写真を見ると、結構肉好きも良く、今で云う健康優良児といったところです。

当時、昭和16年頃の日本は、衣食住、特に食べる事に関しては、皆さんが想像している以上に恵まれていたのです。

勿論、小さい私には戦争がどうして始ったのかなど理解出来ませんでしたが、皆さんご存知の大東亜戦争が勃発し、昭和18年に入ってくると、戦いが激しくなり、私は母方の祖母と共に、遠い親戚の家(岐阜県中津川)に疎開する事になったのでした。

日本がどんどん戦争で劣勢になるのと並行して、全ての物が不足し、特に、食べ物が入手困難になりました。

そして戦争が終わるまで、育ち盛りの私は、動物性たんぱく質やお米を全く口にする事が出来ず、芋や野菜でさえも少ししか食べられない日が続いたのです。

大変ひもじい思いをし、今でもその経験がトラウマになっていて、出された食べ物を残す事が出来ません。

敗戦後に、偶然撮った写真の中の自分を見ると、悲しいかな、栄養失調のためにガリガリに痩せてしまい、3歳の時のふっくらした姿の写真と見比べると見るも無残な姿に変身してしまっていたのです。

あの当時の辛い思いが蘇ってきて、今でも夢でうなされる事がたまにあります…。

成長期に十分な栄養が摂れなかったので、その影響をもろに受け、小学校、中学校、高等学校、大学そして50歳になっても痩せていました。

とうとう、3歳の肥えていた頃の体型には戻る事は無かったのです。

ようやく還暦を超えて、腹が出てきたのでした。

これはメタボと云う事です…。(この話題、次回に続く)

院長の独り言 80 ; 切手の収集

中学校に入学し新しい友達が出来き、その友達の家に、ある日、遊びに行ったところ、綺麗な切手を沢山見せられて羨ましくなり、急に自分も切手を集めたくなったのでした。

最初の頃は、主に、親父のところに来た手紙にくっ付いている切手の中で、綺麗なものや珍しそうな切手を剥がしてはノートに張り付けていたのですが、だんだん興味が湧いてきて、切手の本を買って見ているうちに、色彩豊かでとても綺麗な切手に心を奪われてしまい、切手収集にのめり込んでしまいました。

高校、大学時代には安い切手ですが、こまめに買い集め、切手を集めている趣味同好会の友達と、お互いに重複している切手の交換もしていました。

少しずつ切手を収集していても、10年以上も続けていると結構な量になり、其の沢山の切手を整理するのがまた、本当に楽しいのです。

結婚してからも、この切手収集の趣味は続き、ある時、立川のデパートの地下で老夫婦が切手を売っているコーナーを目聡く見つけて、暇な時にはおじいさんと話がてら、古い記念切手や趣味の切手をマケさせて買っていました。

デパートでも値切れる事をその時に、初めて知ったのでした。

十年ぐらいは、かなり熱心に色々な切手を集めましたが、その老夫婦が突然、デパートから姿を消してしまったので、何と無く自分も切手を集める事から足が遠のき、加えて、自分の仕事もすごく忙しくなってきた事もあって、この頃は、気が向いた時に郵便局で売り出す記念切手などを買っている程度になり下がってしまい、もう切手収集家とは程遠い存在になってしまいました。

休みの日などに、今まで集めた切手をルーペで観ながら、『何でこんなに切手は綺麗なんだ…』と悦に入っています。

小生などは切手収集家の端くれも良いとこですが、時々、趣味の切手の『見返り美人』や『雁』、国立公園シリーズ、国体シリーズや初期のお正月切手などをニタリとほくそ笑んで一人で鑑賞しているのです。

気持悪いですか。収集家なんて、みんなそんなもんですヨ。

院長の独り言 79 ; 外来種の駆除について

アメリカザリガニの誕生悲話の話 ( 院長の独り言 74 ) を前のブログで書きましたが、西洋タンポポと同じように、アメリカザリガニは『外来種』と言われて、本来、日本に昔から存在してきた『在来種』とは違い、何となく嫌われ者です。

動植物の『外来種』は二千種類以上存在するそうですが、その中で、駆除しなければならないほど日本の生態系に悪影響を及ぼすものは大変少ないのです。

殆どの『外来種』は、放っておいても増殖する事も無いし、死に絶えてしまうのも多いのです。

たまたま、日本の環境に馴染む事が出来たり、周りに天敵が存在しない時にだけ増えるのであって、殆どの『外来種』は我が国全体でみると、それほど悪い影響を与える事は無いと思われます。

強いて言えば、アライグマ、カミツキガメなど人に危害を加えたり、ブラックバスやピラニアなど沼や湖のフナなどを食べつくしてしまう外来種は、数の多少を問わず駆除する必要が有るかもしれません。

それより、駆除しなければいけないと云えば、その代表は多分、ハシブトカラスではないかと思います。

ハシブトカラスは勿論、『外来種』では有りません。

随分前のブログ( 院長の独り言 35  )で書いたのですが、スズメの激減は間違いなくハシブトカラスのせいだと思うのですが。

カラスがスズメの巣を襲い、卵を食べてしまうのではないでしょうか。

個人的な意見ですが、カラスはある程度間引いたほうが良いと思うのです。

ハシブトカラスには気の毒なようにも思いますが、このままこのカラスが増えていくと、本当にスズメが日本から消えてしまうかも知れません。

なにしろ、ハシブトカラスは増えすぎです。

最近は、人にも危害を加えると新聞にも出ています。

『あちらが立てばこちらが立たず』、世の中、辛いところですネ。

院長の独り言 78 ; 懐かしいなぁ~、ハイボール!

小生が大学生の時、高校の頃仲の良かった友達と、自宅近くの小さなバーに大学の帰りによく待ち合わせして、夜9時頃から深夜1時頃までハイボール一杯で駄弁ったものです。

バーのママさんは60絡みのなかなかの器量良しの優しい人でした。

我々を自分の子供のように扱ってくれたので、大変居心地のいいバーでした。

何しろ、ハイボール一杯で何時間もネバッているので、今から思えば随分ひどい迷惑をかけていたんだなあと後悔しています…。

ママさんは嫌な顔一つせず、よくぞ3時間も4時間も世間の常識も分からない二人の大学生を、ハイボール一杯で居させて呉れたものだと思うと、その当時の図々しい行動が、今思えば赤面ものです。

なぜ、こんな話を書きだしたのかと皆さん不思議に思うでしょう。

それは、最近、テレビや新聞にハイボールの事がよく出るようになって急に懐かしくなり、書きたくなったからです。

私が若い頃は、ハイボールはお酒の中で常に一定の人気があり、かなりの年配の人も若者もビールと同程度に飲んでいたのではないかと記憶しています。

いつの頃からか定かでは有りませんが、ビールは益々鰻上りに人気が上がっていくのと反比例するように、ハイボールがバーなどの飲み屋街で隅っこに追いやられてしまって久しかったのです。

ところが、ここにきて、ハイボールと云う文字がテレビや新聞などから小生の目に突然飛び込んでくるようになってきました。

ハイボールは若い頃、随分お世話になっていたので、懐かしいやら嬉しいやらでブログに載せたくなったと云う次第です。

なぜ、急にハイボールなのでしょうか。

この頃、アルコール飲料として全く人気が無く、世間からご無沙汰だったハイボールとは、そもそも如何なる飲み物なのでしょうか。

皆さんご存知ですか。全く馬鹿にスンな!ですね。

小生は若いころハイボールには随分お世話になっているので、よ~く知っています。

簡単に言うと、ウイスキーに炭酸を混ぜた飲み物で、カクテルの一種である事は間違い有りません。

ウイスキーの混ぜる量によって、酔いの速度も違うし、味も全然変化するのが面白くて、若いころ、飲みに行くと必ずハイボールを注文していました。

料金も安いのでハイボールは本当に当時の貧乏大学生向きの飲み物なのです。

家庭教師のアルバイトでしか入らないコズカイから、何とかハイボールを飲むお金を捻出する事も結構楽しい行為なのでした。

安くて手ごろなハイボールは自分には、酔って良い気分にしてくれる『恵み水』と云うところでした。

ここにきて、ハイボールが注目されてきた事は自分にとって、青春時代が蘇って来たような淡い懐かしい気分になりました。

当時にかえって、友達とあのママさんのいるバーにもう一度行きたくなりました。

もうとっくにあのバーは無くなっているのですが…。

玄関の花壇にお花が増えました!

石川歯科医院の玄関にある花壇に、新しいお花が増えました。

『院長の独り言  75  』にも書かれていますが、その時、購入した花を鉢合わせしたものです。

これからの初夏に向けて、なるべく明るい色の花々を揃えました。

石川歯科にご来院の際は、是非、ご覧ください。

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