院長の独り言 240 ; 写楽の正体

浅間山の噴火と東北地方の冷夏が重なって大飢饉となり、不景気の上にインフレ状態、所謂、スタグフレーションに陥ってしまった時代に、東洲斎写楽は登場したのです。
その大変な時代を、何とか立て直そうと、老中である松平定信が行ったのが寛政の改革です。
寛政の改革は『一に倹約、二に倹約』という趣旨であったのですが、田沼時代に贅沢を味わった庶民には合わなかったのか、結局、挫折する事となるのです…。
不景気風の吹いている世の中、庶民は歌舞伎見物どころではなかったのではないかと想像出来ます。
歌舞伎もお客が入らず、関係者一同、困っていたのではないでしょうか。
ここからは例によって私見ですが、歌舞伎の興行主達は、何とか江戸庶民の眼を歌舞伎に向かわそうと、色々と奇抜なアイディアで宣伝に努めたことでしょう。
ただでさえ不景気で、世の中は暗く沈んでいるのに、お上は『節約、節約』と、更に経済の停滞を招いてしまいます。
お客さんの足は、益々、歌舞伎から遠のいてしまうのです。
そこで一計を…と考え出したのが、あの面白い役者絵だったのではないでしょうか。
当然、有名な浮世絵師、喜多川歌麿や葛飾北斎には、奇抜な役者絵など頼む事は出来ない相談です。
多分、依頼すれば、けんもほろろに拒否されてしまうでしょう。
アゴが極端に張っていたり、眉間に皺が深く入っている女形を描けば、役者さん達からブーイングが起きるに決まっています。
しかし、何とか、庶民がビックリするような話題をブチ上げたい!
そこで版元である蔦谷重三郎に、歌舞伎の興行主達は、達ての願いと頼みこんで、人々をアッと言わせる役者絵を描かせたのではないでしょうか。
重三郎は、素人でもあっても、絵が達者であった阿波の能役者 斎藤十郎兵衛に、28枚の、あの奇抜な大首絵を描かせたのではないでしょうか。
斎藤十郎兵衛は能役者でしたが、絵が大変上手かったと記録に残っています。
そして東洲斎写楽と名乗ったという推測です。
あの写楽絵を、歌舞伎の5月興業と8月興業の時に売り出して、話題作りは成功したのではないでしょうか。
しかし、お客さんが増えたのか、全くの無駄であったのかは、小生は知りません。
ただ、その直後に写楽は筆を折ってしまった事は事実です。
このように考えると、写楽が突然出現して、歌舞伎の話題を作り、アッと言う間に消えてしまった事実に、辻褄がよく合います。
勿論、いつものように、これは小生の独り言です。
皆さんも、色々、空想すると、楽しいものですよ。
(次回に続く)

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.